経営進化学院とは

理念型企業経営の支援及び自立型人材の育成を通じ「和を基本とする社会」づくりに貢献する事を目的として設立されました。

脳力開発125号/理念探究会125号

脳力開発125号
その一・後半の人生をどう生きるか、どう死ぬか
今回は同窓会について書いてみたい。同窓会三態と言えよう。
●仲良し高校同窓会(いつもの会)
この会は四十二才厄年を迎えるとき、郷土津山高校関東同窓会の幹事役を仰せつかった事から始まった。振り返れば私達は仕事に脂がのっている時代だった。世話役を積極的にこなしたのは、大学教授、国税庁課長、税務所長、NTT課長、書道の先生、体操の先生などなど、多士済々の面々で取り組んだ。私もコロムビア東京中央営業所の次長。方針は「旧来にない参加者を集める。」当時は高度成長の真っ盛りだった。私がまとめ役としてリーダーを務めました。
一年かけて取り組んだ。毎回、会議のあとの飲み会が愉しかった。一人一人のメンバーの話を聞くのが愉しかった。過去最高の参加者を集め、その後も中核メンバーと箱根の会社の保養所とか八丈島とか小さな旅を続けた。私はその後、広島に転勤したが、そこまで訪ねて来てくれた。とりわけ女性陣は仲良しでしかもそれぞれが個性のある仕事をしていた。家庭人としても民生委員として地域や子供の指導をしたり、ハワイアンの教室を指導した、書道の大家や大学生を指導している教授など私の知らない世界で愉しかった。とりわけ税務署の関連の話は面白かった。以来三〇余年。「いつもの会」と銘打って今も続けいている。私はここ数年前に復帰したが。
その会の集まりを浅草でやった。河豚を突つきながら。今回私が鍋奉行を買って出て、お世話したら女性陣は大喜びだった。幾多の接待を経験したお世話役だ。いや愉しかった。今度はフラメンコを見に行くと言っていた。私はいけないが、大いに楽しんでもらいたい。しかし、税務所長を務めたW辺君、箱根の旅に女性陣全員に浴衣を仕立ててくれたH原さんは早く亡くなった。長い時間の経過を感じるが、今も明るく積極的に社会活動をしている、女性陣は愉しい。愉快に生きている。七十四歳とは思えない。

●大学の東京同窓会
落第した私は卒業予定の学年の同窓会にも顔を出している。私が落第したかどうかは、五十年も経てば全く関係ない。オリンピックに向けて工事中の国立競技場の近くで同窓会があった。三回目。寮生活もともにしたメンバーもいた。十五名だった。一人ひとり全ての人が一部上場会社の役員も務めたりして、私のように自営業の人間はいない。
今回、各自の近況報告で驚いた。十五人のなかで病気を抱えていない人はおよそ十名程度。
聞いてみて驚いた。かつてはバレー部、テニス部、ヨット部、ボート部の精鋭で、全国的にも活躍したメンバーもいるのだが、一人一人の報告が、脊椎間狭窄症とか名前の知らない難病とか、どうしても椅子がなければ座れないと。加えて奥様たちの病気とか。
聞いてはいたが、同窓会も次第に病気自慢になるとか。本人は自慢しているわけでもないが、話題の中心が病気の話になってしまった。何故病気になるかということはわからない。若いときは運動もしていて、会社人生もほぼ順風満帆だったの、七十歳を過ぎてくると予期せぬ病気に襲われる。まだ、同窓会に出席できる人はそれでもいい方だが、病気で出席でない人もいる。人生はどうして決まるんだろう。健康に歳を重ねることができるかどうかは全て本人の生活、生き方なのか?考えさせられる同窓会だった。

●郷里津山での同級生・雉鍋の会
例年二月に津山に帰って、雉鍋を囲んでの同窓会を行う。集まったのは五人。作州絣の父親を持つ小学からの同じ町に住んでいた杉原君、彼は大学時代からワンダーホーゲル部に属していた。キリマンジマロ、キナバル、エベレストのベースキャンプ、日本では昨年は四泊五日で南アルプス縦走、年に三回チェンマイ約十日間ゴルフ一人合宿をこなす。今年ヨセミテ渓谷を訪ねるとか。足の踵に骨に棘が生える奇病に掛かっているとか。踵の骨に棘が生えるのですよ。想像できない。切れば治るとのことですが。
ゴルフの達人山口君はメチャクチャに歌がうまい。京都での大学時代は私も彦根からよく訪問し、お世話になった。春休み留守の間に居候をして、私の詩集を出版するお金を貯めるために夜のアルバイトをしたことがあった。居眠りして水がなくなったポットを焦がしたのが、いまだに忘れられない。高校時代は卓球の選手で、ゴルフは達人。三回目のエイジシュターを目指して、鍛練を続けている。病院の事務局長を永年務め津山の様々な同窓会お世話役を引き受けている。今も高齢者介護関連の会社の経営の手伝いもしている。驚くことに写真の名手。卓球、ゴルフ、写真と歌の共通項はいったい何なのか。
小林孝さん唯一の女性。国際ソロプチミスト津山の代表をしている。元岡山ガールスカウト会長もしていた。美術に造形が深く、勝山ひしお美術館副館長をされた。津山市役所の美術関連広報の仕事をしていた。善子のモラの作品展では大変世話になった。
今回、企画してから二年も経ったが、おばさんから引き継いだ自宅をリニューアルされたので、出来ばえを見に行きました。津山の民家は(私の生家もそうだったが)入り口は狭いが奥行きが非常に長い。檜を中心に使って仕上げている。なんとも贅沢。玄関の横は駐車場にする予定だったが、車も必要なくなるそうでアトリエかギャラリーとして使えそうだ。
もともとお父さんも叔母さんも代々続いたお茶の先生で沢山の生徒さんたちを教えていたそうだ。ということで茶室もあって沢山の掛け軸、茶器も豊富でいまだ整理ができないと言っていた。彼女自身も資格を持っている。家具も当然日本的なものが多く、水屋箪笥もうまく使われている。かつて私も探したことかあったが、日本の古くからの水屋箪笥など懐かしい気持の良い家に和と洋の融合した家にリニューアルされていた。おばさんがお茶を指導された畳の部屋で美味しいコーヒーを頂いた。これもいいね。今度はお茶を点てていただきたい。
備前焼の和仁さん。今回は突然の前立腺肥大の顛末記を聞いて、抱腹絶倒。本人にしてみれば脂汗を流す苦痛の中で、耐えてきたのだが、聞くものにとっては腹を抱えて笑った話だ。救急車を頼もうと思ったが、近くの若い友人がたまたま自家用車で送ってくれた。しかし、ご承知のように病院は大変な人で順番待ち、そういう状態で何とかおしっこを出してもらいたいのだが、病院というのは融通が利かない。結果としておしっこが出なくなったら救急車を呼ぶのが最善策だそうです。
おしっこが出たときはほっとしたって。その後、尿道から管をひいて尿を溜めるバッグを抱えての暮らしの様子、バッグが終わって栓をひねる生活など、自分のおしっこを始末するのにてんやわんやの様子に、またまた、大笑い。「他人の不幸は密の味」なんて言葉があるが、こればかり笑わずにおれなかった。
しかし、歳を重ねるということはこういう形で現れることもある。病気の話ばかりではたまらないが、こういう話もおきる年齢になった。今回、中学時代のエースピッチャーだった植月くんは突然のインフルエンザに掛かり、出席できなかったのが、残念。

その二・補助金は人間を駄目(無能)にする(青色)
一月沖縄に行った。私は妻を伴って翌日からの経営熟考会の前日入った。その夜「うりずん」の沖縄料理を楽しんだ。作家椎名誠はこの店のなくなった店主と親しかった。店主の顔(油絵)を見ながら、店主の娘さんと旧交を温めた。娘さんと言っても五〇歳は越えているだろう。沖縄といえば数えることができないほど訪問している。創業し、タヒチに通いだしてシュノーケリングの免許を取ろうと決めてからだ。友人と妻善子と一緒に何とか取得した。以来毎年一月二月にシュノーケリングのキャリアを積むため通った。
沖縄陶器(やちむん)・漆器・紅型に惹かれた十五年間
通うたびに沖縄の焼き物に惹かれ、壺屋どおりで馴染みができ、天命舎でつかう皿や器を買うために通った。新垣修工房だ。新垣さんは金城次郎の流れを込む陶芸家。我が家の日常つかう器が沖縄一色になったこともあった。ねだ沖縄の漆塗りの見事さに惹かれてた。漆塗りは次第に時代から取り残され商売として成り立たなくなり、著名な老舗が閉店する際に、これはと思う素晴らしい漆の器の数々を買いあさった。文字どおり気に入ったものは可能な限り買った。今も使っている。
紅型にも惹かれ、沖縄の友人の伝を頼って、城間栄順の工房を何度も訪ね、気に入った作品を分不相応に分けていただいた。何れも素晴らしいもので、季節に応じて掛け軸がわりに楽しんでいる。勿論沖縄料理もすっかり気に入り、顔なじみになった「うりずん」は毎年訪れる。
そのご、海外旅行に少しあきて、十二月になると石垣島を訪ねたのが切っ掛けで、波照間を訪ね、一週間ほどの滞在で親しくなった沖縄の友人を訪ねて四~五年はもっぱら波照間に通い滞在中は読書三昧に耽った。沖縄の作家の文藝作品や沖縄に関する内地の作家の作品も随分読み込んできた。十五年ほどの沖縄訪問の概要だ。

■沖縄を本当に愛してくれるなら、県民にエサを与えないでください
著者・恵隆之介氏、衝撃的な本にであった。ここ三年ほど戦後七〇年を期に戦後の日本の歴史を検証している。研究なかで沖縄の基地返還等は気になっていたが、まだこの問題について私は知的保留をしている。しかし、二〇〇九年の政権交代で鳩山由紀夫が普天間基地移設を容易にしゃべり移設問題が浮上してから、沖縄のことが気になりだした。勿論、一九七二年の沖縄の日本復帰については当然知ってはいる。
また、最近では百田尚樹氏の差別発言問題や沖縄タイムズ、琉球新報への発言その他で私ももう少ししたら、沖縄の問題も研究する必要があると感じていた。オール沖縄を標榜する翁長県知事の頑なな発言や、威力業務妨害罪で問われた沖縄平和運動センターの山城議長の欺瞞性が気にはなっていた。
●沖縄県は政府から毎年、国庫補助金合計一兆二〇〇〇億円以上交付されいる。
勿論各都道府県中、最高額である。県民はこれを認識していない。翁長知事は国庫負担金の項目分析をいつわり、三〇〇〇億円の沖縄振興予算にのみ言及して「特段の優遇は受けていない」と発言している。3
●佐藤内閣から始まった沖縄利権が左翼を呼ぶ。
「県民の労苦に報いるために、金で解決できることは最大限行う」と言った。以降、佐藤内閣が雨あられのごとく財政支援をし、そのうち沖縄には特殊利権がいっばいできた。そこに左翼が入ってきておかしくなった。とにかく、基地反対ということで騒ぐと無制限に政府自民党が「基地を極力減らしていく」「日本とほぼ同水準まで、生活レベルを上げる」という方針に沿って、北海道・沖縄開発庁などで開発予算がついた上に、さらに基地予算という形の「三階建て」に事実上なっている。37
●革マルが牛耳る沖縄の教育界。
今の沖縄教育界にも問題が多い。沖縄教職員組合は革マル派が牛耳っている。だから、沖縄の子供たちは、小学校に入るや否や「琉球王国という豊かな国、民主的な国が存在していた。明治になって日本政府によって滅ぼされた。沖縄戦によって多大な犠牲を強いられ、戦後は米軍基地が建設された。米軍はレイプ、ひき逃げ、騒音など三悪をまき散らしている。」と絶えず被害者史観を聞かされるのです。沖教組は韓国で行われているような反日教育を沖縄で行っている。151
●無関心こそが沖縄に対する日本人の罪である。
沖縄を弱者と認めことから生じる過剰な補助金、また福島原発に関わる帰還困難地域等に関する厖大な補助金は、結果として人間を無能にする事実を今後検証して行きたい。沖縄の返還後の歴史を検証していきたい。(悦司)
●今後の展開・今、フーバー大統領の「裏切られた自由」上下巻20000円弱の本を入手して読み始めている。関連の書籍も随分読んできたが、太平洋戦争(大東亜戦争)を何故アメリカは起こしたのか。別の視点から、少し時間をかけてまとめてみたい。その間、沖縄や福島原発等のテーマを検討してみたいと考えています。
写真・ 裏切られた自由

理念探究会125号・2018年度経営方針熟考会
その一、仕事を楽しむ、生活を楽しむ、人生を楽しむ
雪を警戒して一便はやい新幹線で鯖江に向かいました。米原までは快調。米原から金澤でも特急「しらさぎ」は少しの遅れで到着。まだ雪は大したことありませんでした。その後の福井地方の大雪は想像できませんでした。
●ムラケンの経営方針熟考会
前期は計画通りの実績で、今期は新しい挑戦がひとつのテーマです。精神的にも余裕が生まれていますが、壁を常に破りつづけ姿勢が衰えて来ると、これをマンネリする。仕事は面白いもので、追われると辛い、追いかけると面白い。彼らは数年前から金沢の女性(やまだのりこさん)にアドバイスを受けながら「キラキラプロジェクト」という勉強会を続けています。二度ほど私も金沢を訪問して彼女が関わっている町家プロジェクトの視察に同行しました。
金沢は新幹線が通るまでは、人の訪問にも交通の便はやや不自由で、このことが幸いしてか、文化伝統に新鮮味を強く醸しだしています。外部の人間はそう思うのだが、金沢でも高齢化や少子化は始まっている。そこでいままで使っていた町家が徐々に整理され、壊されるということが進んでいるようだが、そこに注目した彼女たち若手の建築設計家たちが智恵を集めて、町家プロジェクトを進めてきた。これが面白い。素晴らしいアイディアを満載している。正に、金沢の文化伝統の現代への復興とでも名付けるべきか。
●仕事を楽しむ・新しいことに挑戦する。
宇野社長も関心をもっていたが、今期は是非、金沢にムラケンのリフォームを金沢の地に実現してみようと構想している。ムラケンは二〇二〇年には無借金経営を実現する。これには見通しも立っている。が、企業は常に青年のように新陳代謝を続け若々しい企業として変化をしなければ何時かは停滞する。この機会に今年は仕事の深化の分野では建築プロデュースを更に進める。そして新しい分野で金沢町家プロジェクトに参加する。この町家の活用構想が胸の中に温まり形になっている。
そして全体方針(理念)としてムラケンの大家族主義経営を進めていく。一、仕事を楽しむ(町家プロジェクト)二、生活を楽しむ(建築プロデュースの深化)三、人生を楽しむ(大家族主義・地域密着宣言)を柱に進めることにまとまった。来年にはムラケン・金沢町家プロジェクトが佳境になっているだろう。

その二、構造大改革・壁を破る
N社の経営方針熟考会を行った。昨年から取り組み始めたが全体として変化は始まっている。しかし人間には色々なタイプがいる。現実をしっかり認識して、手を打ち続ける人、現実を知っていても上司の顔色を見ながら、やっている格好をつけるが、いまだに取り組まない人。自立連帯型企業運営とは基本的に社員一人一人の自立を目指し、極言すれば一人一人全員を社長にすることだ。組織としては企業理念(社志・経営姿勢・就業姿勢)を中核において経営することだ。
●自立しなければ成り立たない企業
六社の自立連帯企業は成長した。しかし、事業部制度でやっているグループの変革は遅い。
自分の仕事の成果が自分自身の所得に繋がる状態にある人は、問題に対して困難であろうが立ち向かわざるを得ない。立ち向かい解決しなければ赤字に転落し、いずれ倒産する。赤字を誰も負担してくれない。当たり前の話だ。
真の自立・人は助けてくれない
●広島のM社は来期に完全に社長が交代する。女性社長だ。新メンバーも成長している。会長は完全に退任する。会長には人生理念があるから、今後は理念に添った事業に専念する。
会長がいる間は心ならずも困ったときに頼る。頼っても赤字体質からは脱出できない。今期彼女は負債を応分に背負って社長に専念する覚悟をした。事態は変わり、今期は黒字に展開した。未来の展望も見えた。これからは黒字の連続と社員の成長しかない。
●福井F社は無借金経営に邁進中。かつて大赤字に陥って、意気消沈して逃げたいと思った経験がある。「死にたい」なんて弱音を吐いたと耳に入ったから、私は「その時は足を引っ張ってやる。」と冷たく言い放った。今では、十年先を読んで仕事を、人生を楽しんでいる。
本当に困ると、人間は変化し、変化すると周りが変わり、他人が変わる。今では見違えるように、経営的にも人間的にも変化をした。成長した。自信に満ちている。
●香川K社社長は真面目だが、気持に余裕がない。いつもピリピリした雰囲気を漂わせている。私も昔、父親から「真面目なだけでは人は使えない」と言われたことがある。彼も頑張るのだが、人に対する情が薄い。人間は理屈だけでは動かない。正論だけでは動かない。
今の社員全員自分が採用したメンバーだ。経営できない会社を畳んで撤退しょうかという思いが頭を横切ったことがある。そうだろう。
しかし困難の中で最後に彼は逃げなかった。そのための解決策に邁進した。真剣に動いた。幸いなことに動くことによって情況も変化し始めた。結果として今期は多少の赤字になったが、従来の営業活動の対象を変えることに気がついた。社会の動きや環境の動きを読んで対応しなくてはならないことは頭では分かる。わかっても行動を変えなければ結果は出ない。私も経験した。
情況を変えていく原動力は他人や環境にはない。自分自身にしかない。原動力は自分自身だ。このことに気づき行動を変えた。ここまでくれば、未来は拓ける。困難を愉しみなが現実に立ち向かっていける。立ち向かえば仕事は面白くなる。
●施工会社がある。この会社は社長が理念を制定した。岡山を中心にした施工体制を続けてきた。営業を統括するT橋社長ともども、広島拡大プロジェクトを発足させ、流れから広島にも会社を開くことになった。聞けば、安請け合いで出先をつくったように見える。しかし大事なことは将来予測して先に行動を起こし体制を整えることだ。これが小企業でも大事なことだ。社長新しい道を選択して行動を起こした。
●来期四月からN社で構造大改革が二期目に移る。製造にも営業にも自立連帯企業への脱皮が始まる。企業理念に添った会社として脱皮が進む。(悦司)


脳力開発124号/理念探究会124号

脳力開発124号
沢山の人に会う、食に合う旅・彦根・沖縄の旅
脳力開発の指針に「できるだけ沢山の人に接触する習慣をつくろう「」できるだけ沢山の物事に首を突っ込むつくろう」という指針があります。私達夫婦は脳力開発の創始者城野宏先生にお会いしてから心がけていたことです。今回はその実践として記事を書いてもらいました。(悦司)
彦根・故郷の旅
 一月五日からの経営計画熟考会が彦根で開催されました。私達は前日茨城空港から神戸空港へと飛びました。我が家から茨城空港までは車で七~八分。飛行時間は一時間二十分程。関西が近くなりました。丁度、私の叔母が甲子園にある介護施設に居るのでお見舞いに行きました。以前より随分良くなった叔母と昔話をして妹のように可愛がってくれたことを思いだしました。元気になっていて本当に良かったと思いました。
 大阪から彦根へ。夜は叔父さんに教えてもらった駅の近くのお料理屋さんで久しぶりのお食事です。叔父は今年で八十八歳になります。七〇歳で京大教授を退官し、滋賀県立大学創設に関わり七五歳まで教授をしていました。今もとっても元気で若々しいのです。ゴルフも月に二~三回は行きますし、車の運転も上手です。(但し、叔父さん曰く昼間だけの運転と決めているとのこと) このお店のご主人とはゴルフ友達で「叔父がお世話になってます」と、いうと「叔父さんはとても紳士で上手です」と教えてくれました。お酒が好きでスポーツが大好きな叔父さん(高校時代彦根東高校野球部のピッチャーをしていました)はとても若々しく髪も悦司さんの方が白いのです。これからも元気で若々しい叔父さんと楽しいお酒が飲めたら幸せです。
三日間の熟考会が終わって三宮で一昨年七〇歳で突然逝去した悦司さんの弟の奥さん会い、軽くビールをのみながら食事を楽しみました。弟がなくなって一年八カ月、まだまだ悲しみは消えません。でも彼女もしっかりと生きています。黒田に嫁いできたもの同志で、色々おしゃべりしました。彼女もスポーツ大好きでテニスが得意でした。今はジムや山登りをお友達と楽しんでいます。元気で今年も何度か会いたいものです。
沖縄の旅
 それから一週間あけてN社の経営合宿が沖縄であります。茨城から沖縄までも直行便があります。寒い茨城から暖かい沖縄へは三時間半ぐらい。私もお供をしました。勉強会の一日前に降り立ち、以前からの馴染みのお店「うりずん」へと足を運びました。何年か通っているのでママさんとも顔なじみ。「お久しぶり」と挨拶をして美味しい沖縄料理を頂きました。「ドゥルテン」「スーチキ」「島ラッキョウ」「島だこ」「ゴーヤチャンプル」等々とカラカラに沖縄のお酒を入れて頂きました。
 私達はとりわけドゥルテンや島ラッキョウの塩漬けが好きでお代わりをしてしまいます。
 食べ物でいえば沖縄牛が美味しいと今回は到着時と帰宅日に焼肉とステーキを頂きました。噛み応えのあるお肉です。市場にあるお母さんたちが開いている「花笠食堂」もお勧めで沖縄に行けば必ず一度は足を運びます。
 以前は織物や染物、やきもの、漆と色々な物を見に行ったのですが、近ごろはどうも食ばかりになってしまいました。暖かく少しのんびりできた沖縄です。(善子)

理念探究会124号
その一・経営計画熟考会・茨城・彦根
見通皆無・不安亦無・唯一予見・大局正解
 昨年十二月二十五日から茨城で、新年五日から彦根でそれぞれ三日間経営計画熟考会を開催しました。今回は全員で十五名の若手経営者が参加しました。理念制定企業は十一社。理念探究中は四名だが、何れも若手経営者。一昨年理念を制定してから約一年半経過して二〇一八年の経営計画熟考することを目的として集まります。年末年始で既に一年間の経営方針が明確になる訳です。
 昨年までは七〇代の経営者も含まれていたが今回は一名以外全て三〇代~五〇代初めまでだ。世代交代が完全に進んでいる。日本も世界も大きく動いている。世間では経営と言うものは一般的に利益をあげる事が評価の中心にある。したがって日本でも世界でも成長率がどうかで評価して、日本のGDPの成長率は高くないとかまびすしい。
●企業理念を背景に熟考する
 理念を制定している企業は企業理念(企業の志=社志・経営姿勢・就業姿勢)を基本において、企業理念の実現に向けて邁進する。丁度一年前のこの欄で「志ある経営者・人間尊重の経営・出光佐三の生き方」を紹介した。私は理念を制定した人達と「理念実践会」を毎月岡山と茨城で開催しているが、その中で出光佐三の「もしマルクスが日本に生まれたら」「働く人の資本主義」をテキストの一つとして取り上げて輪読し研究している。
 出光佐三は当時、出光には①人間尊重をわれわれの金科玉条とせよ。②資本家の搾取がなく、全員が経営者である。③馘首、定年制、労働組合かない。④黄金の奴隷となるな。⑤主義の奴隷となるな。等をその著書の中で唱えている。出光佐三の経営に対する姿勢が私の目指す世界に非常に近い。
 日本の現実に戻って考えてみると雇用の七割を支える中小企業の後継者不足で、深刻な廃業に追い込まれる例も少なくない。二〇二五年には六割以上の中小企業で経営者が七〇歳を越え、後継者が決まっていない企業が一二七万社あると経済産業省は試算している。
●新しい日本的企業
 若手の経営者は具体的な事例で言えば創業して約十年目を迎える「そうじの力」、創業して五年目の「くさむしり隊」が誰も振り向かない業種を切り拓いている。社員を雇用しお客様から心から喜ばれている。「そうじの力」は企業の社員の生き方を変え、企業を変え正に「新しい日本人として仕事に取り組む」企業変化をもたらしている。
 企業は永遠に脱皮を続けなくてはならない。それには働く人達が「親方日の丸」的な働き方をする依存人から「自分の人生の主人公は自分自身である」という自立人の生き方を選択する・決心することがまずはスタートとになる。若手経営者は自社で働く社員にも個人個人の自立を支援し、各自の使命探究を支援している。今年も参加した経営者の大いなる成長変化が期待できると確信できた若々しき息吹に満ちた経営計画熟考が開催できた。

その二・新しい日本人が日本と世界を変える・日下公人ブルー
■事実よりも「主義・主張」を重んずる朝日新聞と毎日新聞
●「世界の記憶(記録遺産)登録制度の改善まで支払いの留保を継続する方針で、菅義偉官房長長官は10月14日の記者会見で「(ユネスコの活動が)正常化されるまで見ながら対応を考えたい」と述べた。この分担金の留保について「朝日新聞」は節度を欠く分担金の保留、「毎日新聞」は品位ある関与が必要とそれぞれ社説で日本政府を批判した。「産経新聞」は政治利用許さぬ改革を迫れ、「読売新聞」は記憶遺産の政治利用を許すなと、日本政府の判断を指示する姿勢を見せ、朝毎二紙とは異なる意見を国民に示した。23
●朝日も毎日もGHQが刷り込んだWGIP「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」を無意識的であれ意識的であれ受け入れたままらしい。政治の現実も選挙のことしか念頭にないから面倒を避けたいし官僚も人事異動が心配で「事なかれ主義」である。26

■国際連合の実体
●新しい日本人は国際社会の現実をしっかり見ようとする人達である。「国際連合」の実体は第二次世界大戦の「連合国」のことで、昭和二十年の創設から、安全保障理事会の常任理事国は米英仏露中の戦勝クラブ中心の「戦後体制=戦勝国の優位」を事実上維持してきた組織である。28
●日本は昭和三十一年十二月国連加盟後、分担金をアメリカについで負担しながらいまだ「旧敵国」の立場におかれている。国連憲章では今日でも「旧敵国」に対して自由に制裁(武力行使)ができる。問題は「第二次大戦の結果としてとる行動」(一〇七条)が曖昧で事実上連合国側の恣意(しい)に委ねられている。こうした現実をマスメディアは伝えない。日本への差別は事実上放置されたままである。28
●「新しい日本人」の出現と、「新しい日本」の時代が始まっているのに、マスメディアも野党政治家も完全に周回遅れとなって旧態依然の非難しかできない。日本敗戦と戦後の国際秩序によって権益を手にしている内外の利得者たちは、それを改めようとする安倍総理をどうしても封じ込めようと画策することになる。33

■「戦後派が災前派」になり「戦前派が災後派」なる
●「新しい日本人」というのは(もともと日本人が持っていた歴史に根ざした現実主義と、庶民の[暗黙知]に覚醒し、それを発揮し始めた人々)のことである。東日本大震災の前と後では、日本人の心、暮らしぶりには変化が起きている。その意識の変化は昭和二十年(一九四五年)の敗戦を境としての「戦前派」と「戦後派」と同じように、三・一一を境として「災前派」と「災後派」に分けられる。34
●自衛隊が東日本大震災でいかに多くの国民を救ったか。「反自衛隊」や「嫌自衛隊」を売りにしてきた政治家の多くが、いまだに自らの不明を恥じるどころか頬被りしてままだが、多くの国民の意識は変わり、自衛隊に対するテレビの報道も明らかに変わった。カメラを切り換え「自衛隊ありがとう」という、被災者の横断幕やテロップとともに自衛隊を写すようになった。35
●平成二十八年四月に起きた熊本震災でも、自衛隊は即座に陸海空部隊を派遣し、約二万人の救援活動を展開してきた。こうした自衛隊の活動に「ありがとう」と率直に頭を垂れるのは「災後派」の人々、すなわち「新しい日本人」である。彼らは空疎な理想主義や正義には走らない。彼らには、日本を「我が国」と思う一体感がある。同胞の絆を大切にし、日本という共同体の価値観を尊び、歴史や伝統文化に対して謙虚である。36
●だからといって愛国主義、軍国主義、国粋主義、保守反動といったレッテル貼りをされるような単純な「戦前派」ではない。潮流として「戦後派が災前派」になり、「戦前派が災後派」になるという逆転現象が起きている。戦前との歴史の連続性に気づき、それを大切にしょうとする人々が、戦後七十年余の「戦後体制」から脱却しょうとする「新しい日本人」なのである。36

■永遠の〇で描かれているマスコミ秀才の盲信
●百田尚樹氏は特攻にこめた思いをこう語った。「けして命を粗末にするなというメッセージです。生き残るために戦いぬくことと、生き延びるために避難することとは全然違います。宮部が二十六年という短い人生で全うしたのは前者です。『自分の人生は誰のためにあるのか』という思い、生と死の間にあって宮部が葛藤した諸々のことから読者が生きる喜びと素晴らしさに気づいて、どんな困難にあっても生きる気概を持ってほしいと願って書きました。」45
●戦後七十年余の「戦後体制」を是とする人々は、この逆説を感じ取れない。特攻隊について非人間的な作戦だと非難し、理不尽さを強調した本は沢山ある。命じたものも行ったものも同じ日本人だととい同胞意識に欠ける。他人事のように、あるいは第三者の犯罪を追及すくかのような視点は、現在のマスコミ人に根深く埋め込まれたものである。45
●登場する大新聞の記者は神風特攻隊を「テロリスト」「ニューヨークの貿易センタービルに突っ込んだ人達と同じ」と言い国家主義に洗脳された狂信者と断言する。「戦前の日本は狂信的な国家」で「国民の多くが軍部に洗脳され、天皇陛下のために死ぬことを何の苦しみとも思わず、むしろ喜びさえ感じてきました。私達ジャーナリストは二度とこの国がそんなことにならないようにするのが使命だ」と誇らしげに語り、戦後はその洗脳が「思想家や、私たちの先輩ジャーナリストたちによって解けたのだ」と胸を張る。46
●これはまさに戦後GHQが日本人に刷り込んだWGIPを盲信する者の見方で、戦後教育に何の疑いもなく育った結果のマスコミ秀才である。朝日新聞だと名指しこそないが、朝日や毎日、NHKの記者のことだと「新しい日本人」にはわかる。46

■海賊と呼ばれた男を泣きながら書いた百田尚樹氏
●出光佐三は従業員、その家族、郷土や共同体、ひいて「我が国」のことを考えた。文字通り「経世済民」を実践しょうと努めた経済人だった。敗戦後重役の一人が社歴の浅い社員に辞めてもらおうと提案すると、佐三は「馬鹿者!店員は家族と同然である。社歴の浅い深いと関係ない。君たちは家が苦しくなったら、幼い家族を切り捨てるのか」と一喝する。佐三は社員を一人も馘首しないという方針を貫いた。50
●社員もそれに応えようと奮闘した。日章丸が日本に発つとき、イランに向かうことを船員たちは知らず出航した。セイロン沖で暗号電文を受信した船長が「本船の目的は英国の海上封鎖を突破してイランから石油を積み出すことだ」と告げると、船員たちはたじろくどころか「日章丸万歳!出光万歳!日本万歳!」と叫ぶ。51
●百田氏はこう語った。この件を書きながら、何度も泣きました。己一個の人生の充実、幸福なんてどうでもいいとはいいませんが、己一個を超えたところと繋がる人生がある。出光佐三、そして彼を支えた男たちの凄さと、今の日本人は繋がっているのだということを知らせたかった。私達の祖父は狂信者ではない、苛酷な時代を懸命に生き、自分以外の誰かに人生を捧げたのだ。52

■戦後の人権観
●旧態依然の日本人には、この感覚はわからない。「公共や国家のために個人が犠牲になってはならない。その必要がない」というのが戦後の人権観、人命尊重である。「個人の尊重こそが唯一無二の価値で、国家に奉仕や献身を求められることがあってはならない。自分以外の誰かのためにと考えるのは、最後に必ず国家と結びつく戦前の危険思想だ」彼らは考え忌避してきた。52
●共産党に限らず戦後日本の左派の多くは、自衛隊を「違憲の組織」と決めつけ、国と国民を守る役割を否定してきたが、こうした流れに乗せられる国民は少なくなってきた。「新しい日本人」は個人の幸福追求は自らが属する国家社会が安定して存在してこそ可能で、人間は一人では生きられないという現実を認識し、そのための義務や責任を果たすことを棚上げできないと気づいている。56

■民意の嘘がばれてきた
●日本の自立性と国力向上に資する政策がマスメディアの一斉攻撃を受け、世論調査で支持率の下落を招くのは何故か。安倍首相が「日本を取り戻す」ための政策に取り組めば取り組むほど、新聞やテレビが伝える支持率が下がり、それが「民意」とされたが、それは正しいか。「民意」はおおむね有権者の意向を指すが、戦前との連続性を断ち切ったまま、いまの「民意」のみを尊重するならば、日本の永続のため何が肝心かという問題意識が薄くなる。60

■世界は新しい秩序を求め始めている
●現実を直視すれば、現在の国際金融資本が主導するグローバル化は、国境を越える多国籍企業を富ませはしても、世界の「国々」の「民」を富ませているとは言えない。人道問題として移民や難民を受け入れることと、それを安価な、使い捨て可能な労働力と考えて移動を自由にせよというのは、全く違う。こうした訴えを排外主義や感情的なナショナリズムと切って捨てるのは誤りである。
●英国のEU離脱は国際金融資本が主導する経済体制への「国民」の反発の現れである。米国の有権者も英国民と同じグローバリズムに反発を強めた結果、「敵はウォール街だ」という劇薬のようなトランプ氏を大統領に選んだ。これは反グルーバリズム、反普遍主義、反エスタブリッシュメント(支配層)というそれぞれの国民意識が反映されたものである。
●世界は新しい秩序を求め始めている。欧米が主導した秩序の行き詰まりを意味している。これからの時代はグローバリズムからローカリズム(localism)の時代に移っていく。言葉を変えれば、エスニック(民族的)エスニシティー(土地、血縁関係、言語の共有、宗教、伝承、社会組織=民族概念への帰属意識)の時代とも言える。173
●これは国際政治の世界では、民族主義や地域共同体の尊重ということになる。それぞれの国の歴史伝統や文化を侵さずに共存していく考え方である。経済のルールに共通性をもたせるにしても、それはお互いの存在基盤を壊さない範囲にとどめるべきで、そうでなければ「国民経済」は成り立たない。173
●この三〇年近くを振り返れば、日本アメリカの望む規制緩和を行い、市場を開放し、金融を自由化し、グルーバリズムを受け入れてきた。それを主導したのか「崇洋媚外」(すうようびがい)の人々だった。政治家や官僚、学者や経済人は国際性の重要性を語ったが、はたしてそこに日本の「国益」はあったか、「国民」の利益はあったかということを改めて問わなければならない。173
●瑞穂の国には瑞穂の国にふさわしい資本主義があるのだろうと思っています。自由な競争と開かれた経済を重視しつつ、ウォール街から世界を席巻した、強欲を原動力とするような資本主義ではなく、道義を重んじ、真の豊かさを知る、瑞穂の国には瑞穂の国にふさわしい市場主義の形であります。市場主義の中で、伝統、文化、地域が重んじられる、瑞穂の国にふさわしい経済のあり方を考えていきたいと思います。(新しい国へより)265


脳力開発123号/理念探究会123号

脳力開発123号
天声人語・朝日の虚偽の積み重ね
 今回は十一月から明らかになった朝日新聞、毎日新聞などの偽証の事実に関して伝えます。「森友・加計事件」(朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪)を読むと朝日新聞が読者をテレビ朝日と組んで誘導していく経緯を実に丁寧に分析しています。朝日新聞が新聞の見出しを嘘八百で塗り固めてでも「安倍疑惑」をかきたてる流れが。反権力を装って。
今回もその嘘がばれたということだ。「反権力」共産党、民進党、社民党、自由党は巧みに籠池氏を操り、国会招致にいたる経緯も喜劇としか言いようがない。事件をでっち上げる朝日のやり方は慰安婦の虚偽のでっち上げと少しも変わっていない。嘘がばれても、反省をしない。こんなメディアが日本をおかしくしている。
来月からは日本の戦後史の中で、時代の流れに迎合しないで立ち向かった人達を辿り、そして戦争に至った過程を、私なりに検証してみたいとおもいます。
■安倍晋三記念小学校の嘘
●自民党の和田政宗参院議員は11月22日、森友学園の小学校設置趣意書のコピーをツイッターで公開した。野党が国会で追及した際にはタイトルの校名部分が黒塗りで、そこには「安倍晋三記念小学院」の名称が記載されていたと言われていたが、和田政宗議員が公開した文書では別の名前「開成小学校」と記載されていた。和田政宗議員はツイッターで以下のように野党を批判している。
●和田政宗「森友の小学校設立に際し設立趣意書に籠池氏が「安倍晋三記念小学校」と記載したと話してきたが、全くの嘘だと判明。この籠池氏の証言を元に民進党福島伸享議員が質問したが、全く嘘の情報を信じ込み、さも本当に書かれているかのように質問した。当時の民進党執行部の責任は問われないだろうか」

■財務省「忖度説」の破綻くっきり
●安倍晋三首相は30日、自身のフェイスブック上に、自民党の和田政宗参院議員が11月25日にFBに投稿した記事をシェア(共有)して掲載した。その書きだしはこうである。「朝日新聞はこのまま開き直るのだろうか」
●学校法人「森友学園」の小学校設置趣意書が、朝日が報じていた「安倍晋三記念小学校」ではなく、「開成小学校」だった問題に関する感想である。安倍首相も同感だったのだろう。
 和田氏はまた、朝日がすでに信頼性が疑われていた籠池泰典前理事長の証言をうのみにし、報道したことについてこう記した。提出した設置趣意書のコピーを籠池氏は持っているはずで、朝日新聞はそれを確認せずに報道した。
●長崎県平戸市長「朝日、購読やめた!」ツイートでフォロワー1千人近く増加 
 朝日新聞の購読をやめた。私はその報道姿勢を非難する立場をツイッターで表明している。これに対して『市長は公平公正であるべき』という声もあるが、誤報を垂れ流す広報媒体を排除することが公的立場にあると信じている」とツイートした。一昨日に朝日新聞の購読をやめたというツイートをしたら、一気にフォロワーが1千人近く増え、返送されたメッセージもほとんどが『賛同!』『支持する!』だった。改めてこんなに嫌われている新聞なのだと実感した。でもなかなか廃刊にならない不思議も残った。
■「天声人語」の罪・国民をミスリードする
田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授)
●朝日新聞は5月9日の記事で「籠池泰典・前理事長は8日夜、取得要望書類として提出した小学校の設立趣意書に、開設予定の校名として『安倍晋三記念小学校』と記載したことを朝日新聞の取材に認めた」と報じた。
●この記事によって籠池氏と安倍首相との「つながり」の濃さを信じてしまうというミスリードに陥った国民も多かっただろう。テレビなどもこの記事に似た報道を連日垂れ流し続けた。
●森友学園問題がこれほど過大な注目を浴びてきた背景には、一部マスコミの「印象報道」ともいうべき流れがあることがはっきりしている。財務省近畿財務局は森友学園が設置する予定だった小学校の設置趣旨書を開示した。そこに記されていた、森友学園が新設を計画していた小学校の名前は「開成小学校」であり、首相や昭恵夫人の名前や関与は一切記載されていなかった。
●これは多くの国民にとっては意外な事実だったろう。なぜならマスコミや野党は、森友学園の籠池泰典前理事長が安倍首相や名誉校長だった首相夫人の「ブランド力」とでもいうものを利用して、さまざまな利益を得ようとしていたという印象を伝えていたからだ。
●特にそのことが関係官僚たちに、首相や首相夫人と「懇意」である籠池氏に利益を供与する「忖度」をさせたという、マスコミや野党の批判の根源にもなっていた。
●実際には籠池氏の小学校には首相や首相夫人とのつながりを明らかに示す資料はなかった。だが、この森友学園問題が政治的に大化けする過程で、マスコミは籠池氏の発言をろくに検証することもなく、そのまま報道し続けた。その中で、あたかも新設小学校が「安倍晋三記念小学校」ではないかという印象を垂れ流した。
■メディアが「罪」をつくり出す風土
●日本銀行の岩田規久男副総裁はかつて『福澤諭吉に学ぶ思考の技術』(2011年、東洋経済新報社)の中で、天声人語はいったい何が議論の本位なのか明示することなく、それを明示したとしても十分に論じることもなく終わってしまう悪い文章であると批判している。
●今回の森友学園問題も、いったい何が具体的な問題なのかわからないまま、「忖度」という議論になりえないものを延々と論じ、一方だけの発言を恣意(しい)的に垂れ流していく朝日の報道姿勢が、そのメーン商品である天声人語にも明瞭だというのが、岩田氏の批判からもわかる。
●岩田氏は多くの日本人の責任の取り方は、福澤(諭吉)の言うように自己責任を原則とする個人主義とはかなり異なっている。自己責任を原則とすれば、裁くべきは法に照らした罪であり、世間が騒ぐ程度に応じて罪が変わるわけではない。
●法によらずに、メディアが「罪」をつくり出す風土にこそ現代日本の病理がある。

■何事も「権力」対「反権力」という構図で捉える文化(朝日新聞がなくなる日)
●朝日新聞として認定した「権力」に対抗する勢力を正義の「反権力」として演出する。朝日新聞にしみついたビジネスモデル・文化です。「安倍一強」という言葉自体が彼等の権力認定です。だから加計学園問題では「権力」は官邸で、「反権力」に認定したのが前川喜平前事務次官という構図です。
●朝日新聞は団塊の世代の文化を引きずっている感じがありますね。今でも団塊の世代は自分たちを「反権力」と気取ってデモに参加するようなこともあるらしいが、三~四〇代の世代から見ると滑稽だ。
文部省の歪んだ誤謬性と面従腹背
●前川氏こそ官僚の誤謬性の象徴で、絶対に官僚は間違わないという意識の体現者で、最も批判されてきた官僚像そのものだ。文科省が間違っているという答えは存在しない。獣医の需給については農水省だと責任転嫁し、一方で大学業界に大学認可権を利用して圧力をかけ、ずっと天下りを強制的に受け入れさせてきたのが前川氏だ。(悦司)

理念探究会123号
台湾の歴史を遡る
 私の尊敬する一番の人は李登輝元総統です。李登輝総統が書いた著書ほとんど読んでいます。日本では今でもお世話になっている島根県益田市にある創業五十二年を迎えた合宿自動車教習所Mランドの小河会長です。同い年の九十四歳。台湾への関心は小河会長が今から七~八年前にMランドの新聞に書かれた八田與一の「烏三頭ダム」の記事が切っ掛けでした。小河会長は李登輝総統にもお会いしています。
台湾の歴史を知る
 二〇一一年東日本大震災のとき、例年この時期ヨーロッパに旅をしていたのですが、この年は近くの台湾に足を運び、烏三頭ダムと二二八記念館を訪ねました。二二八記念館で終戦後一九四七年二月二七日闇たばこ販売の女性を虐待したことを切っ掛けに台湾で起きた台湾人(本省人)に対する弾圧事件です。蒋介石の国民政府軍の陳儀による本省人の虐殺そしてその後の白色テロの事のことを知りました。以来、二二八事件から始まったこの事件に絡まる著書を可能な限り読みました。それに伴って、元日本人で京都大学出身の李登輝総統の関連の著書をほぼ全部読み込みました。今では本棚一杯です。
民主化への足どり
時代の流れの中で本省人でありながら全くの偶然から国民党の副総裁に使命された李登輝が一九八八年一月の蒋経国総統の急死にともない、総統に就任し、後に国民投票で総統に選ばれたのです。国民党総統として外省人中心の政府官僚の体制から、一九四九年戒厳令の引かれた台湾から民主化を長い時間をかけて転換していく李登輝の生き方を辿りました。三十八年間にわたる戒厳令解除は一九八七年です。
終戦後日本から台湾に帰国した当初、李登輝自身も白色テロで狙われた時期もありその後、アメリカで博士号を取った農業経営のことで、蒋経国に呼ばれその後、副総統に就任することになるのですが、ここでは詳しくは触れません。
李登輝の信念
 李登輝の信念は「我是不是我的我」(私は私でない私)であります。李登輝のことに関しては何度か森のフォーチャで記事にしました。ここでは詳細は省きますが、私の大学の先輩に李登輝総統と同い年で彦根高商に進学された李宏道氏がおられます。李登輝と同じく終戦を名古屋で迎えた経歴の人です。二〇一二年には先輩を訪ね御夫婦にお会いしました。奥様は当時の第一高女出身で美しい日本語をお話しできる方です。お会いしたとき李登輝のことも尋ねました。
今回は、李登輝が経験した台湾民主化への歴史を今回の旅で辿ってみたいとおもいます。
台湾総督府訪問
現在総督府は一般公開されており、日本語での解説付きで案内してくださいます。昨年に引き続き朝九時から案内していただきました。あとで名刺交換しお聞きしたのですが、案内をしてくださった陳准松(チン・カイ・ショウ)氏は天皇陛下と同い年です。土木技師で実に日本語は堪能、台湾の日本統治の歴史から始まり、案内のかたわら、ここぞというときに資料を見せてくださりながら歴史を交えてお話を聞かせてくれます。
総督府設計図・最初の部屋で総督府設計図を見ながら日本の建築技術の高さを縷々話してくださいました。東京駅を設計の辰野金吾の弟子長野宇平治が設計した。
児玉源太郎・後藤新平・新渡戸稲造
明治三十一年・一八九八年、第四代台湾総督に就任した児玉源太郎は後藤新平を招聘し「無理に文明国の文化、制度を未開の地に押しつけるのは逆政だ」と言う考えに添って施政をまかせた。後藤新平の統治の様子を細かく説明してくださった。後藤新平は民政長官をつとめ当時アメリカにいた新渡戸稲造を繰り返し説得し招聘。明治三十四年・一九九一年台湾総督府に赴任した新渡戸稲造は視察のあと台湾に製糖業を起こす。台湾製糖、大日本製糖、明治製糖などの企業が生まれる指導をすることになる。
台湾の自然の話から伊勢神宮の遷都の度に切り出される檜の大木の逸話、阿里山から伐採して供出した話、その神木が明治神宮、出雲大社に関する柱の話も折り込んで教えてくださる。台湾一高い玉山(新高山)の逸話も交え爽やかに教えてくださいました。
歴代総統の写真
李登輝は一九九〇年~二〇〇〇年まで総統を務めたあと、二〇〇〇年の総選挙では立候補しなかった。理由は、彼は蒋経国に指名され国民党の副総統だったが蒋経国の急死に伴い総統に就任し、本省人・台湾人である李登輝は総統になってからも直接選挙、民主化を進めることが根本的な目的であった。そのこともあって、次の時代に譲るために立候補をしなかった。終戦以来の国民党の圧政を変えることが目的だった。 
その後民進党の陳水扁二〇〇年~二〇〇八年、馬英九二〇〇八年~二〇一六年、蔡英文二〇一六年~現在と続く。概略を辿れば、国民党との政権交代を果たした陳水扁は民主化を進めると期待できたが、外圧(中共)にも苦しんだ。その上に、期待に反し親戚の関係者の汚職、妻の汚職と立て続けにおき、退任後、総統府機密費流用及び資金洗浄容疑などにより台湾最高検に逮捕された。
馬英九(外省人出身)は国民党総統として政権交代を果たした、これをが、基本的に中共向けの政策を次々と施行し、結果として二〇一四年あまりにも中共寄りの政策を続ける馬政権に対し学生が立法院を占領し、これをひまわり運動と呼ぶ。李登輝はこの運動に対し理解を示し、支援した。その結果二〇一六年五月二〇日の総統選挙で、民進党の蔡英文が選ばれた。
蔡英文は李登輝政権下で各種の委員を勤め、一九九九年李登輝総統が発表した中台関係の二国論(中共と台湾の関係・特殊な国と国の関係)にも深く関わった。二〇〇四年民進党に入党し二〇〇八年に主席に就任した。二〇一二年に私が台湾訪問したとき、馬英九との総統選挙の時だった。国民党による選挙の不正が予想され、カーター大統領を監視委員会として招聘した。この時は落選した。そして二〇一六年の当選を迎えた。そしていま総督府の主となっている。総督府見学のあと児玉源太郎と後藤新平の像が展示されている台湾国立博物館を訪ねた。

二二八記念館
 記念館にもう七回も訪問している。二〇一二年進化経営学院主催の台湾訪問の旅で説明していただいた二二八記念館・ガイドの簫錦文さんは当時八十八歳だった。日本人を正に叱咤激励してくれる方だった。日本人として自信を持ちなさいと丁寧な説明をして下さった。説明者の高齢化にともない昨年から説明もヘッドホンを使うようになった。記念館を訪ねるたびに展示が改善され理解しやすくなっている。関連の書籍も沢山出版され、一九四五年台湾に派遣された国民政府軍の陳儀に代表される大陸からきた外省人の迫害にされされた本省人(台湾人)への圧迫が如何に大きく台湾の民主化の妨げになったかがハッキリと資料化されている。
日本統治の五〇年間は台湾人の文化水準のみならず多大な開発投資を日本よりも優先させて実施し多くの面で日本の内地のレベルに達していた。日本敗戦後、台湾返還にともない大陸からきた知的レベル、文化レベルの遅れていた国民党・外省人は当時の本省人への掠奪、圧政を始めることになる。そのスタートが二二八事件であり、その後の白色テロ、戒厳令の施行である。返還当時の旗は中華民国の国旗が間違ったまま展示されている。

台湾で一番尊敬される日本人・八田與一
 台北から台南に移動した。翌日台湾鉄道とタクシーを使って、烏三頭ダムを訪ねた。六度目。今回八田與一の銅像が損傷された事件で規制され、銅像の傍での写真撮影はできなかったが既に修復されていた。胸像を所有する奇美博物館が修復への協力したようだ。今回は時間に余裕があるのでゆっくりと施設関連の全てを見学した。
今回はダムの管理をしている台湾嘉南農田水利会を訪ねた。丁度日曜日だったのだが、事務をしている女性が小学生のお嬢さんを伴って日曜出勤をしていた。そして親切にDVDを視聴できる設備の整った会議室を開けてくれ、ゆっくりとコーヒーまで出して接待してくださった。その後、ここから見る烏三頭ダムの展望が一番素晴らしいと案内してくれた。親切に感謝して個人的に記念写真を撮り、あわせて帰国後善子のモラの著書を送ると、彼女の持つスマホの翻訳機を使って会話をした。八田與一の記念公園関係の日本語で書かれた本・技師物語を贈呈してくれた。今度訪問するときにはこの会場をお借りしたいと思った。映画KANOで撮影された現場・放水路も訪ねた。この映画も素晴らしいものです。ご希望の方にはお貸しします。
 
昭和天皇植樹百年のガジュマルの樹
台南・成功大学の敷地にある昭和天皇皇太子時代に百年前に植樹されたガジュマルの樹を再訪した。大正十三年に訪問され植樹された。その左右に秩父宮殿下、高松の宮殿下が植樹されたガジュマルがあります。広場は「榕園」と呼ばれ今も学生や市民の憩いの場所として大切に残されています。成功大学の建物は日本時代に台湾歩兵第二連隊として使われた、いまも荘厳な姿を残しています。

門田隆将著「汝、ふたつの故国に殉ず ―台湾で「英雄」となったある日本人の物語―」
二二八事件当時は台南市政府だった場所は、民生公園と呼ばれていたが、一九九八年二月二八日、湯徳章記念公園という名に変わり、湯徳章さんの半身胸像が建てられている。また、二〇一四年三月十三日に台南市は、湯徳章の「命日」に当たるこの日を「正義と勇気の記念日」に制定した。今回工事中で、この胸像も遠くから見ることができた。彼のことはは門田隆将の著書で知った。熊本出身の坂井徳三と台湾出身の湯玉を父母として日本統治下の台南で生まれた。中央大学で法律を学び、最終学歴は小学校卒業でありながら文官高等試験に合格し台南に戻って弁護士事務所を開設した。二つの国籍を持った湯(坂井)徳章の生き方を是非、読んでいただきた。台南を何度も訪ねることになりそうだ。(悦司)


脳力開発122号/理念探究会122号

脳力開発122号・戦後史を振り返る
■二十二回の連載記事の総括
上記のタイトルで二〇一六年一月・脳力開発九九号から始めたのだが、今月号が百二十二号ということで途中一度休んだことがあるから、これで二十二回にわたった掲載になる。
始めるにあたって、私はこう書いた。霞ヶ浦の林の中に居を移して二十余年。理念探究会を中核に据えて、次世代の経営者を養成することを目的として、更に一般社団法人として進化経営学院を設立した。彼らに指導していることは今の時代、「覇道」から「和道」へのパラダイムシフトを目指して理念を根底に置く経営を指導している。「和道」は「異質共存的な安定平和を確立するために、互恵共栄の関係を自身の周りから築き、拡大して全体に及ぼす秩序づくり」のあり方の体得を目指している。
その指導を通じて、戦後の七〇年を体験しているのだが、その歴史をキチンと受講生に伝えることが必要だと考えている。私が生まれてからの歴史が戦後の七〇年に相当する。学校で歴史の授業で日本史を選んだとしても、全ては過去の出来事をもって日本史とされ、江戸時代のことも明治以後の歴史もほとんど知らない。

■思考判断の基準
研究対象の資料を読んで自分の意見を述べるだけでは、客観性を欠く恐れがある。基本的評価の基準を「知的保留」「単次元分極思考を排し多次元連続思考」脳力開発の基本指針「戦略思考」「多角度思考」「両面思考」「確定思考」「具体思考」において読み込んできた。
この二年間で現代史に対して理解が進み、知的保留してきた情報・事実に迫る喜びを覚えた。根底に流れる現代の歴史観の土台に迫ることかできた。そしてテーマに対して毎月ではないが、進化経営学院の受講生と理念に到達した人達を対象にした岡山、茨城の理念実践会で取り上げてきた。彼らは脳力開発の勉強、テキストとして使ってきた「心の自立」「和の実学」等々を学んでいるので、和談も深まり進んだ。

■テーマの設定
既に掲載した研究概念図のように以下のタイトルで二十回にわたって書いてきた。
第一回GHQの占領政策、第二回進歩的文化人達、第三回学生運動と安保、第四回教育三法と日教組、第五回続日教組、第六回日本ペンクラブ・弁護士の偏向、第七回労働運動史、第八回共産党の歴史、第九回社会党の変遷、第十回朝日新聞の罪・慰安婦虚偽報道、第十一回GHQの言論統制、第十二回東京裁判、第十三回東京裁判と清瀬一郎、第十四回東京裁判とマッカーサー、第十五回南京事件、第十六回ポリティカル・コレクトネス(正義の嘘・民意嘘)第十七回事例研究、第十八回メディアの偏り、第十九回戦後最大の虚報、第二十回人間の生き方を再考する(総選挙を振り返る)と続けてきました。

■GHQの占領政策を振り返る
ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(War Guilt Information Program、略称:WGIP)とは、文芸評論家の江藤淳がその存在を主張した、太平洋戦争(大東亜戦争)終結後、連合国軍最高司令官総司令部による日本占領政策の一環として行われた「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」(罪意識扶植計画)である。
●江藤淳は、GHQは太平洋戦争史という宣伝文書を「日本の「軍国主義者」と「国民」とを対立さることによって、実際には日本と連合国、特に日本と米国とのあいだの戦いであった大戦を、現実には存在しなかった「軍国主義者」と「国民」とのあいだの戦いにすり替えようとする底意が秘められている」と分析している。
●WGIPは「何を伝えさせるか」という積極的な政策であり、「何を伝えさせないか」という消極的な政策と表裏一体の関係であり、後者の例はプレスコードが代表的である。
具体的にはまずは以下の言論統制が行われた。この七年近くに及んだ言論統制、私たち日本人にどれたけの影響を与えたかは計り知れない。そのことも順次取り上げて行きたい。

●プレスコード(Press Code for Japan)
太平洋戦争(大東亜戦争)終結後の連合国軍占領下の日本において、連合国軍最高司令官総司令部GHQによって行われた、新聞などの報道機関を統制するために発せられた規則である。これにより検閲が実行された。
GHQが定めた三〇項目の報道規制とはなんであったのか?
以下の三〇項目の報道規制は占領国アメリカの戦略がうかがえる。一九四八年(昭和二十三)年にはGHQの検閲スタッフは370名、日本人嘱託5700名がいた。新聞記事の紙面すべてがチェックされ、新聞記事だけで一日約5000本以上であった。
以下の項目を基準に、規制された。この言論統制が七年近く日本の言論・出版、放送をコトロールし続けた。

1. SCAP(連合国軍最高司令官もしくは総司令部)に対する批判
2. 極東国際軍事裁判批判
3. GHQが日本国憲法を起草したことに対する批判
4. 検閲制度への言及
5. アメリカ合衆国への批判
6. ロシア(ソ連邦)への批判
7. 英国への批判
8. 朝鮮人への批判
9. 中国への批判
10. その他の連合国への批判
11. 連合国一般への批判(国を特定しなくとも)
12. 満州における日本人取り扱いについての批判
13. 連合国の戦前の政策に対する批判
14. 第三次世界大戦への言及
15. 冷戦に関する言及
16. 戦争擁護の宣伝
17. 神国日本の宣伝
18. 軍国主義の宣伝
19. ナショナリズムの宣伝
20. 大東亜共栄圏の宣伝
21. その他の宣伝
22. 戦争犯罪人の正当化および擁護
23. 占領軍兵士と日本女性との交渉
24. 闇市の状況
25. 占領軍軍隊に対する批判
26. 飢餓の誇張
27. 暴力と不穏の行動の煽動
28. 虚偽の報道
29. GHQまたは地方軍政部に対する不適切な言及
30. 解禁されていない報道の公表

■言論統制とプレスコード
以上の言論統制とプレスコード規制如何にGHQが、日本の言論、伝統、思想を規制し、メディアを後々までに生殺与奪の権を握り、GHQ思うがままに操ることになったか、振り返って憤りを覚える。しかし、全ての日本人たちはGHQ迎合して生き残ることに汲々とした。

■GHQの政策に迎合するメディア、知識人社会
●二十二回にわたる探究の中で、日本戦後史への基底になる影響は見事なGHQの占領政策と約七年にわたる言論統制であることがハッキリします。そして連合国が日本では大東亜戦争と呼称した大戦を太平洋戦争と呼称し、昭和二十年十二月八日全国の新聞に一斉に連載し、その後NHK放送を通じ否応なく国民の耳目にたたき込んだ。「太平洋戦争史」を連載し、終了後昭和二十一年四月より高山書院が出した「太平洋戦争史-奉天事件より無条件降伏まで」の影響力が最も大きい。
●この影響は日本の知識人社会に深く浸透することになる。また教職追放や経済界、政界の一斉追放によって、それまでのリーダーに取って代わった表舞台に出た社会主義、共産主義的な考えを持っていた知識人、文化人はその後当然GHQの意向に沿うことになる。教育部門では日教組が中心になり、戦後七十年経ってもいまだその力を失ってはいない。
●一九五〇年四月一五日、日本の左翼的文化人・東大総長南原繁、出隆、末川博、上原専禄、大内兵衛、戒能通孝、丸山真男、清水幾太郎、都留重人らが平和問題懇談会を結成し、雑誌『世界』1950年3月号などで全面講和論の論陣を組んだ。事務所は岩波書店の二階にあった。平和問題懇談会は全面講和(日本共産党、社会党、朝日新聞)に同調した。
●連合国の東京裁判は「連合国の裁判という仮面をかぶった私刑」に他ならない。このことが一九八〇年代から始まる中国、韓国の反日運動に繋がり、慰安婦問題が起こってくることに繋がる。そのお先棒を担いだのが、朝日新聞だった。連合国に対する言論統制への迎合から出発している。
●大学ではマルクス経済学が戦後一世を風靡し、共産党、社会党と一体となって六〇年代七〇年代の安保闘争に結びついていく。その流れが共産主義主義者赤軍派の「よど号事件」やその後の連合赤軍の「浅間山山荘事件」と結びついている。
●政党・連合が抱える矛盾が露呈。それから続いた、野党の様々な離合集散も、二〇一七年の衆議院選挙において旧社会党の流れを引き継いできた民進党(旧民主党)が希望の党、民進党、立憲民主党に分裂した。今なお都心部では知的インテリを自称する無党派層の一部は立憲民主党の投票し、護憲派としてのささやかな自尊心を満足させている。希望の党の実体は当選してしまえば党首選挙で玉木雄一郎を選んだ改憲派(三十九名)と大串氏の代表される反改憲派(十四名)の混成部隊であることが判明した。政治家として恥を知らない輩だ。
●今日まで連合(元々意見が合わなかった民間労組と官公庁の自治労の混成部隊)はそれまで社会党から民進党を支持してきたが、この選挙で労働組合連合の分裂に繋がっている。今回の選挙は、いままで隠してきた政党、労働組合、政治家の矛盾を露呈することになった。●一月一日号より、新たな展開に入りたい。(悦司)

理念探究会122号・天寿への道
ある資料を入手した。天寿への道という資料だ。その資料によるとスタートが還暦だ。還暦は六十歳、次が古希で七十歳、次が喜寿で七十七歳、以下傘寿八十歳、橋寿八十四歳、米寿八十八歳、卒寿九十歳、国寿九十二歳、櫛寿九十四歳、白寿九十九歳、百寿百歳、茶寿百八歳、王寿百十一歳そして天寿百二十歳までの道は遠い。
私は七十四歳、妻は七十二歳を迎えている。同窓会に出かけると亡くなった友人たちの報にしばし接する。今回まだ還暦までにも遠い若い経営者、経営志望者たちから始まってこの十月から十一月までに印象的な人達にお会いした。この天寿への道の資料にであってから、人生終盤の生き方を更に見直してみたいと考え出しています。
●鯖江理念探究会への出発
鯖江MKD(村上経営道場)で塾長の村上昭廣氏(七十三歳)は一昨年から塾生を対象にゆくゆく理念探究者を育てたいと宣言していた。村上氏は六十代で脳梗塞にあわれた。リハビリに専念した。凄まじい努力だった。しかもその後癌の手術もされ、六十八歳で会社を次期社長に譲り、その後はMKD(未来型経営登場・村上経営道場)を開き、鯖江地区の若手経営者やその会社の社員の人達を指導している。
二〇一六年から理念探究の前段として私も年間四回のサポートをしてきた。今年になっていよいよ理念探究を進めてくれと熱意を持って語る。私も二年にわたるサポートの結果数名の候補者に的を絞り打診してもらった。来年から二年がかりで本格的に理念探究を支援することを決めた。初日は参加者七~八名の継続している勉強会、夕方から翌日にかけて三名の理念探究希望者と取りくむことにした。来年二月から始める。何としてでも理念制定にまでたどり着きたい。
写真・勉強会に顔を出した村上氏と孫二十一歳(挿入)
●千年を生きる美(田渕隆三氏個展・グループ展)
田渕隆三氏(七十六歳、来年喜寿)の八王子村内美術館での作品展にお伺いした。今年も日本各地、スイスそして十月初旬にはヒマラヤを訪ねたばかりである。田渕さんはネパール、ルクラ(標高二八六〇米)あたりに馬を年間契約で養っている。何故かというとナムチェバザール(三四〇〇米)を経てエベレストビューホテル(三八八〇米)までは馬に頼る。多い時には年間二度は登られる。もう既に一〇回以上は登られている。またホテルから更に登られ四〇〇〇米以上の高度でも現場で筆をとられる。
私達も一昨年このルートでエベレストビューホテルまで企画したが、残念ながら妻が膝を痛めてマナスル遠望にコースを変更した。しかし、冨士山ですら高度順応が如何に大変かは体験している。妻は三〇〇〇米でも酸欠状態が続く。高度順応は登山をする人にとっては大変難しい。私自身もマナスルの旅で三六〇〇米では非常に体力を消耗した。田渕さんこの高度順応が実にスムースなのだと思う。時に三浦雄一郎氏の息子さん三浦勇太氏と何度か同行されている。
田渕さんはヒマラヤの山々を描き、オランジェリー美術館のモネの蓮の大作のように表現されたいと決心されている。氏の作品を描く理念は、「千年の美を生きる」のテーマに表現されるように、美術の持つみなぎるエネルギーを表現することだ。イデオロギーを越え人の心に訴える美を表現することだ。
その志が毎年のヒマラヤ登山であり、厳寒の高度でヒマラヤに対峙される。私は氏のこの姿勢と現地で描かれた作品をどうしても自宅、研修所で若い人たちに見てもらいたいと決心し、多くの作品を展示している。何が人を駆り立てるのか。田渕さんの毎年の新作に接する旅に、氏の志を確認させられる。

●TEKOサミット天命舎
十月下旬メンバーの方が天命舎にいらしてくれた。私より丁度十歳年上・O部氏・橋寿八十四歳が奥様といらしてくださった。ご夫妻と私達夫婦は馴染みの料理屋・如月亭で会食した。御夫婦には私達が結婚した当時(四十七年前彦根での結婚式)に参加していただいた。奥様も刺繍を長く携わっておられ、妻とは刺繍を教わった先生が同じだったこともあって、話がはずんだ。
翌日K保さん(八十四歳~八十五歳)が柏から参加していただき会食を交えて話し合った。テーマは大手企業の不祥事、特に最近の神戸製鋼の不祥事についての話だった。もう一つは終戦の時に中学生だったお二人への遠慮のない質問から始まった。戦前の価値観を全否定されてた先輩達に、GHQが時代を先導したその後の時代を生き、その後の日本人の価値観に対してどう影響したかをお聞きしたい。今回は十分な時間がなかったが私達が経験することができなかった時代の転換期をどう生きるかの体験をお聞きしたいと思っている。
戦前と戦後の橋渡しの世代の先輩たちの体験をお聞きしたい。来年からのTEKOサミットが楽しみになってきた。ちなみにメンバーである九十一歳のO野氏は、今回運転免許試験のため欠席されれた。

●Mランド小河会長訪問
島根県益田を一年ぶり訪問した。Mランド小河会長にお会いするためです。昨年十一月孫の吉彦常務の結婚式にお招きいただき、おもいもがけなく善子が乾杯の発声を頼まれた式だった。あれから一年。四月にお邪魔しようかとお訪ねしたとき、珍しく体調を崩されていたので、予定を変更したが今回はいたってお元気だった。
近況報告やら最近の私の仕事等を報告し会長を前に、「天寿への道」のお話しをした。会長は今年九十四歳になられている。櫛寿という。天寿は百二十歳というお話しをすると、常務に伝言され、会長室から一冊の本を持ってこられた。本は「健康寿命一二〇歳説」というタイトルだった。著者は船瀬俊介氏。
「健康寿命一二〇歳説」
実は私が、二年前に減量を試みたとき、年齢とともに過去のやり方では予定通り減量が進まないことに気がつき、偶然から善子の友人に貸してもらった「やってみました!一日一食」長寿遺伝子が微笑むファスティングという船瀬氏の本だった。面白半分に読んだのだが、根拠があることが分かり甲田光雄氏の「奇跡が起こる半日断食」にたどり着き、実践している。
巷間言われる三食は食べ過ぎで、病気の原因は過食にある。現実に私も仕事をするときに、朝食はとらない。お腹が満ちていると血液は頭に行かない。その体験を脳力開発研修のセミナを始めたころから続けていたので、意外とスムースに実践できた。お蔭で七~八キロは減量できた。私の体験から数人の友人に勧めたら、みなさん喜ばれている。
偶然の話の繋がりから「健康寿命一二〇歳説」の中で森下博士(八十八歳)の世界中の長寿郷に学んだ事を中心に船瀬俊介さんと対談されている。この本で森下博士は世界中の長寿村を繰り返し訪問され、現地の人達にインタビューされた、滞在された現地体験を報告されている。そして、森下博士は「東京でガンやその他の治療に指導されている方法と世界の長寿村の食事に共通項がある」と言われる。具体的には玄米食だ。
ココロが磨かれる森の中の教習所
Mランドは全国から毎年六千人の人達が運転免許取得に来られる。二週間の合宿研修だ。ゲストの人達は六割の人達が、体験者の勧めでこのMランドに参加される。朝のトイレ掃除から始まるMランドの研修プログラムは、創業五十年の歴史ととも会長たちが築かれたことで、ゲストは滞在中様々な事を体験できる。詳細は省くが本格的なお茶の体験など、この合宿でゲストは大きな精神的変化と成長を体験する。特質すべきは朝の食事は今、玄米食を提供している。そして禁煙が定着している。何故運転免許取得とこれらのことが関係あるかと思われるだろうが、このことは事実である。妻のMOLAの作品を展示している美術館フォンテーヌもある。
この後会長とMランド構内を散歩した。雄大な自然の環境に囲まれたMランドはゲストの心身を落ち着かせる。YOGAの道を歩いた。私達が暮らす天命舎も自然の中にある。そして毎日のウォーキングコースはコンツオルズの道から湖水地方のように霞ヶ浦の湖畔を歩いている。自然の中で暮らす、野菜中心の食を楽しむ。過食をしない。そういう環境で自らの天命に添って生きることが「天寿への道」に繋がるのだろうと認識を新たにした小河会長との一年ぶりの再会でした。(悦司)