脳力開発129号/理念探究会129号

脳力開発129号・沖縄左翼運動の変遷

その一・沖縄教組の過激な運動

国費・自費沖縄学生制度が昭和28年3月~昭和55年まで行われた。

沖縄域内で簡単な試験を行い、成績上位の順に毎年、東大、京大、九大などの旧帝大や国立大学にそれぞれ2~3人ずつ割り振られた。国費168人自費98人私立大学20人の枠があった。恩恵に良くした沖縄出身者は約5千人。沖縄の教職員は枠の拡大をはかり、政治活動(自称「日本復帰運動」)に傾倒していった。

  • 昭和30年9月琉球大学の招聘で沖縄教員の指導を担当した日本教授団30名は、教員の質を指摘し、旧師範出身と戦後教育養成所を出た教員の能力、態度を比較すると大分ギャップがあり、若い教員の居眠りさぼりがあると指摘している。
  • 琉球漁業社長で駐オランダ海軍武官を務めた渡名喜守定氏は「高校の教員の学力は東京の高校生ぐらいだ」と発言している。(水交・昭和38年3月号)

 

本土の情況・1960年6月23日、新安保条約批准、本土は安保闘争。

昭和35年4沖縄県祖国復帰協議会(教職員会と沖縄人民党=共産党が中心に組織される。当時の政界勢力図、まだ保守親米、沖縄自民党、22/29議席を占めていた

昭和37年3月19日・ケネディ大統領が沖縄は日本本土の一部であると確認する。

  • 社会党は昭和37年1月13日訪中使節団。米帝国主義は日中人民協働の敵と宣言する。社会党は極左勢力を含む左翼勢力とともに沖縄問題をことさら取り上げる。

 

教科書問題・教職員会の課題

昭和40年以降沖縄に戦力を集中。社共、総評、全学連。米軍基地完全撤去を伴う沖縄全面返還、保守政権打倒、安保破棄を目指した。

昭和41年以後・中国文化大革命の影響。旧沖縄師範卒業の管理職が戦後教育をうけた教師により監禁、自己批判をうける。

昭和42年・琉球立法院は教員の政治活動禁止教公二法の制定を提案した。反対する二万人の左翼群衆が立法院を包囲。4月24日再度審議する議場に、左翼反対派が議場乱入した。結果、法案阻止。本土では、衆議院では昭和29年3月29日設定されていた。

  • 地元マスコミは沖教組に呼応してベトナム戦争など紙面に載せる。沖縄住民に贖罪意識、反米感情を醸成する。

 

■屋良朝苗(沖教組代表)が行政府主席に当選・米軍基地全面撤去を主張

  • 昭和43年11月10日、初の行政府主席公選で左翼共闘代表・沖教組代表、屋良朝苗が当選した。米軍基地全面撤去、即時無条件返還を主張。
  • 住民の心理は43年11月の県会議員選挙で自民党18議席、人民党=共産党14議席。

 

沖縄渡航審査が琉球政府に委嘱された結果、過激派の流入が激しくなる

  • 沖教組、労組、左翼学生=復帰協による破壊活動、基地従業員(全軍労)ストが頻繁に起こった。本土、沖縄渡航審査が米国より琉球政府に委嘱した。結果、過激派が沖縄に続々と移動した。
  • 昭和46年・今までの教職員会を解散した。新たに、沖縄県教員職員組合= 沖教組を結成。国旗掲揚、国家斉唱運動を推進していた保守派追放、皇室批判、文部省唱歌禁止。順来の日本の道徳、文化の否定し、日本軍軍人の県民自決の強要、加害行為(虚偽)を流布した。
  • 沖縄では教職員が政治運動に偏重し、教育現場後輩学力低下、非行が多発した。平和教育は破壊活動を目的とした一種の革命教育を行っている。
  • 昭和46年・琉球政府厚生局、精神衛生協会が、本土派遣の医師に学生運動前科、左翼煽動的医師がいると指摘した。
  • 沖教組は復帰後も国旗掲揚、国家斉唱に反対し、卒業式でこれを実行しょうとする校長(旧師範学校出身者)を激しく攻撃し、校長室に監禁、自己批判辞職を迫った。

 

地元財界復帰反対47年5月15日、沖縄本土復帰地元財界・一国二制度の既得権に固執、復帰反対した。

 

日本政府の融和策(政府の対応が今の沖縄の甘えを招くことになる)

  • 上述の国費・自費沖縄学生制度が昭和28年3月~昭和55年まで行われた。
  • 大蔵省・都銀、県外地銀の沖縄出店禁止。
  • 法務省・46年3月沖縄の弁護士資格に対する特別措置法をとり、復帰前琉球政府法務局職員、弁護士事務所事務員2年以上に日本弁護士資格を付与した。167名の弁護士誕生。正式に司法試験に合格したものは16名。
  • 総務省・県市町村が行う公共工事の負担部分を特例で政府が95%負担。本土は50%。
  • 労働省・サトウキビ、パイナップル収穫時の台湾、韓国からの季節労働者受け入れ暫定処置をとり、地元企業の法人税減免処置をとり、復帰から平成10年まで9兆2415億円の振興開発費を投下した。

 

その二・オール沖縄の実態と変化

先月号で、そもそも普天間基地問題から順次稲嶺恵一知事、仲井真弘多知事、翁長雄志知事の政治姿勢を分析してみた。二〇一四年平成二十六年の知事選で、オール沖縄が組織され、今日に至っている。そのオール沖縄の実態を整理しておく。

「オール沖縄」は、二〇一四年沖縄県知事選挙において辺野古移設反対派の翁長雄志を支援する枠組みとして具体化した。戦後初めて革新勢力に加え辺野古移設反対派の保守勢力(翁長は元自民党である)も参加した統一戦線が結成された。

  • 参加組織社会民主党日本共産党沖縄社会大衆党自由党・民進党沖縄県連・那覇市議会新風会・沖縄県議会おきなわ(旧称「県民ネット」)などの政党・会派が参加している。
  • 社民党は一九九六年一月、日本社会党から社会民主党と改称した。かつて社会党は土井たか子を委員長に一三九名の国会議員を擁した時期もあった。現在は沖縄二区の照屋寛徳氏と北九州ブロックの吉川元氏が議席を維持し、参議院議員は又市征治、福島瑞穂を抱えるたった四名の国会議員の党に落ちこんでいる。福島瑞穂は普天間基地の国外移転主張
  • 沖縄平和運動センターへの献金と社民党が大半であり、資金提供をしている。二七年度四七〇〇万の内福島瑞穂名義で一三〇〇万円寄付、他に自治労他が献金している。

 

山城博治・沖縄平和運動センター事務局長(社民党との関係)

二〇一〇年第二十二回参議院議員沖縄県選挙区社民党沖縄社会大衆党推薦で立候補。二〇一三年の第二十三回参議院議員比例区に社民党から立候補し党の獲得議席数が一に留まり落選。

  • 沖縄県関係職員連合労働組合(自治労沖縄県職労)副委員長を経て、二〇〇四年より沖縄平和運動センター事務局長。辺野古新基地や東村高江ヘリパッドの建設反対運動などに取り組み逮捕される。
  • センターの支援組織・社会民主党自治労国公労沖縄県教職員組合高等学校教職員組合沖縄社会大衆党等が名前を連ねる。 官公労共済会館に連絡先を置いており、闘争目標として護憲、反基地、反安保、反自衛隊および反核、原水禁、被爆者支援などを掲げる。
  • センターの幹部役員・山城博治 社民党、副議長・比嘉京子 沖縄社会大衆党、副議長・仲村未央 社民党、副議長・福元勇司 高教組。

 

■山城博治の有罪判決

2018年3月14日、那覇地裁から懲役2年執行猶予3年の有罪判決を言い渡された。辺野古の米軍キャンプ・シュワブのゲート前にコンクリートブロックを積み上げて工事資材の搬入を阻んだ威力業務妨害や、沖縄防衛局職員の腕をつかんで約2週間のけがを負わせた公務執行妨害と傷害、有刺鉄線を許可なく切断した器物損壊など全ての罪で有罪とされた。

琉球新報、沖縄タイムスを正す県民・国民の会』代表運営委員の我那覇真子は、山城について、被害者のふりをした加害者であると主張し、また「人権と表現の自由を脅かしている張本人」であると主張し、山城の「日本政府が表現の自由を侵害している」とする主張について「刑事被告人である彼が渡航を許可され、国際組織で話すことが許されていること自体が、日本で人権と表現の自由が尊重されていることを証明している」と反論している。

 

  • 沖縄社会大衆党糸数慶子参議院議員。

一九五〇年一〇月結成された。当初は保守系政治家も在籍しており、幅広い階層からの支持を受けていた。その後、革新色を強めている。沖縄社会大衆党は、旧民主党・社民党・共産党と各種選挙で協力している。沖縄で限定的ながら社共共闘が生き残っているのは沖縄社会大衆党の力が大きい。

  • 日本共産党、沖縄一区で赤嶺政賢氏。天皇制の廃止をめざす立場をとり、安保反対と米軍の軍事基地撤退、自衛隊の縮小廃止の立場をとる。野党共闘を組むことによる、長期的に共産党の躍進を狙う。

志位委員長の年初の決意「沖縄の政治戦――2月の名護市長選挙、8月の沖縄県統一地方選挙、11月の県知事選挙で必ず勝利をかちとることであります。新基地建設反対を貫く名護市長と県知事がいるかぎり、辺野古新基地は絶対につくることはできないということです。県知事や名護市長の許可がなければ工事を進めることはできません。まずは大激戦となっている2月の名護市長選挙で、稲嶺進市長の勝利をかちとるために、「オール沖縄」の共同を広げるとともに、全国のあらゆる力を総結集することを強くよびかけるものであります。」

現在、名護市、石垣市、沖縄市核市長選挙で、オール沖縄は三連敗である

 

■オール沖縄支援経済団体・業界団体の離脱

金秀グループ 、かりゆしグループオキハム(沖縄ハム総合食品株式会社)

  • 金秀グループ・二〇一八年三月脱退、名護市選挙後、金秀グループ呉屋守将会長はオール沖縄会議が革新色が濃くなっていることに不満を持ち、敗北の責任を取るとしてオール沖縄会議の共同代表を辞任した。オール沖縄会議にとっては、沖縄県経済界の重鎮である呉屋の代表辞任で組織の在り方が問われることになった。
  • かりゆしグループ・二〇一八年四月脱退、かりゆしグループは那覇市で記者会見を開き、辺野古移設の賛否を問う県民投票をするようオール沖縄会議内で提案したが、受け入れられなかったことも脱会の理由に挙げ、オール沖縄会議から脱会すると表明した。「政党色が強くなりすぎた。独自で翁長氏再選に向けて動きたい」として同会議とは一定の距離を置きつつ支援を継続する意向を示した。(悦司)

 

理念探究会129号

第18回理念型企業快労祭・理念実践報告

理念型企業が一年ぶりに高崎に集合した。若手の経営者が中心の会に昨年から変わってきた。企業理念を制定して十八年目を筆頭に三年目を迎える企業五社を含めて十二社の企業が集まった。

  • 世界の情況

現在、世界は大変革の時代を迎えている。一般の人達は、「世の中は競争だ」という前提から考える競争型社会、言い換えれば覇道型社会だという認識だ。私達が目指している企業は企業理念を中核において経営する。理念経営だ。

世の中では競争を前提にした覇道型経営=競争型経営は競争に勝ち抜く事をめざす。究極は独占支配で一社が残り、他社が敗北することだ。

世界の情況を見回してみると、中国の猛烈な台頭と武力、軍事力を背景にした世界覇権をめざしながら、アメリカとの対立を先鋭化させている。G7を中心とした先進国も今は経済的な力はかつてほどない。加えて欧州=EUはイギリスの離脱やEU中核であったドイツもご承知のように、シリア問題から生じた難民問題でメルケル首相も連立政権を組むに汲々としている。

  • 二十五年の欧州旅行の体験

私は五〇才から毎年五月~六月にかけて二十五年にわたってヨーロッパを旅している。五月二十三日から二週間ほどイギリス湖水地方とウィーンを旅してきた。昨年はスペイン、マドリッド、マヨルカ島、バルセロナそして湖水地方に旅したのだが、湖水地方の入り口、マンチェスター、マヨルカ島、バルセロナと続けてテロがあった。

ここ数年は肌で感じる欧州の、特に都心部になると非常に危険で不安感が漂っている。振り返ってみると二〇一二年にフランス、パリを訪ねた。ドイツの自動車関連の企業の経営を任されていた高野氏(六十代)に会う為に。その時、彼からパリでは「近づいてくる人がいたら逃げろ」と示唆されたことがある。過去に訪ねた経験から、そんなことはないだろうと思ったが、肌の色の褐色な大柄の男たちがペットボトルを足下において一本一ユーロぐらいで(?)で売っている。また、パリの駅裏では人糞が、地下鉄では尿の悪臭が漂っていた。

  • 文化・女性の衰退

加えて女性社員が全く仕事をしなくなって困っているという話を聞いた。女性の仕事に対しての怠慢は随所で体験した。例えば、パリ空港でのトランジェントの受け付けカウンターで、十二時になると受け付けの女性は、長く並んだお客様を無視して、受け付けを中止する。「何故中止するのか」と私が声を強めると、トイレに行くという。「いい加減にしろ」と声を荒らげると当の本人はサッサと席を立ち、あわてて男性職員がとんできて、業務を継続する。

同じようなことが、モネのジュベルニーの売店でもあった。時間が来ると自分の仕事は終わったと、平気で席を立つ。後は知らぬ存ぜぬだと。また、フランス、イタリア、スペインなど美術館ではスリにとくに気をつけなくてはならない。元々スリが多いのは以前からだが、二~三年前も今回もスリの被害に遇いかけた。

今回改めてEUにおけるイギリスの特異性を感じた。イギリスはEUでありながら使用貨幣はポンド、ユーロをポンドにホテルでも、お店でも換金してくれない。クレジットカードが通じるところは問題ないが、たまたまどうしても、手持ちのボントが足らないことがあった。時間もない、ポンドの持ち金が足らないときの対応で、小さなトラブルにあった。

私に言わせればEUでありながら、発足当時からボンドしか通じない制度なんて、最初からおかしい話だ。だから、イギリス人はロンドンからユーロスターに乗って、フランスに入国し買い物に行くという珍事が常態化する。

  • センス・フアッションの魅力

ヨーロッパは、十数年前までは、全てにわたって魅力溢れる部分を沢山もっていた。女性のフアッションしかり、美術館の豊かさしかり、音楽関係の世界の広さ、深さしかり、センスの良さは流石に洗練されていると感じるものをもっていた。ところがどうだ、近頃は、正直に女性は全くセンスがない、小汚いTシャツや若い女性のだらしのない服装をして、おまけに相撲取りの小錦なみの体軀の女性が溢れている。肥満の白人女性にはヘキヘキする。

かつてのように街を歩いている時、振り返るようなセンスのよい女性に出会うことは少ない。またスタイルのよい女性は、せいぜい中学生か高校生までの年齢に見える女の子しかいない。アメリカもそうだったが、国力、経済力が衰えると女性はデブ化するという、少々乱暴な言葉を吐きたくなる。

また、以前は街を歩いていて、危険と感じることはほとんどなかった。イギリスで仕事をしていた友人を訪ねてた時もイギリス人の気品、親切さも大いに感じていた。流石にイギリスの文化は際立っていると思ったものだが、今ではロンドンあたりは風紀もみだれて、私達は極力近づかないようにしている。ヨーロッパの文化の粋は崩壊したのかとさえ言いたくなる。今回の旅でもう魅力も好奇心も感じなくなった。

  • 覇道型経営=競争型経営の次ぎに来るもの

話を戻すが、ヨーロッパの都心部は危険極まりないのが実状だ。グローバリズムの限界は既に露呈しているが、欧米では次ぎなる競争型経営を越える世界は見えない。このことは日本の経済界でも同様だ。今、覇道型経営=競争型経営の限界を迎えているという現実が明らかになる。

私達のめざす理念を中核に置く経営とは和道経営といい、競争から調和の経営をめざす。自分たちの企業は社員、取引先、お客様、同業者をふくめて諸方互恵の関係を築き、自社の特長商品を磨き、特異貢献をめざす経営といってよい。

一般の人から見れば理想のように見えるかもしれないが、企業理念(社志・経営姿勢・就業姿勢)を掲げ、全社員が自立した職業人として研鑽を無限に続けるわけだが、簡単には到達できない。しかし、理念、たとえれば理念=北極星を目指して日々、快労(人は苦労と言う)を楽しみながら、自社の特長を磨き上げることが、仕事そのものだから、今の現実は決して辛いものではない。次々と訪れる試練が経営者を育てる。

  • 若手の挑戦・協働自立・ブランドイメージの確立

若手の経営者の発表は何れも理念を背景にした新しい挑戦の具体的な発表だった。彼らを中心に私は茨城と岡山で理念実践会を続けている。今年で三年目を迎える。彼らは理念が制定してから、自己の利益から他者・社の利益をはかることに果敢に取り組んでいる。その背景に理念がある。

理念を制定して十年以上たった企業経営者は、理念を進化・深化させ、K社長は理念の実践を「地域の協働自立」という点において続けている。正に地域が変化してきた。そして今年から協働自立の背景になる「和道」を伝えて、和道経営の出来る地域の若手経営者を育てていきたいという。「そうじの力」のK氏は自立連帯型経営を推進してきた。そして、メンバーの独立と共に、十年目を迎える。そうじの本質を問い直し「ブランドイメージの確立」と」「組織変革のプロデュース」という概念を深化させていく構想を発表した。

  • 「日本流経営」

また理念を制定して丁度十八年を迎えてS氏は「日本流経営」を指導すると宣言された。言い換えると、正に競争型の経営から互恵共栄の日本流経営・取引先、お客様、働く社員はもとより同業者にも喜ばれる経営だ。その土台に科学性=論理性=合理性を備えた上に「日本人の特長、長所である情」の伴う経営だ。日本流経営の根本に、理念型経営と正しい日本の歴史、国際平和をおいている。

  • 構造改革の実践

N社は二〇〇四年に制定した企業理念を背景に、第二回目の企業改革に三年前から取り組み始めている。構造改革を中心とするが、それは業態転換のチャレンジでもある。口で言うほど容易ではない。経営者自身の脱皮が要求される。企業は青年のように脱皮を続けなくてはいけない。経営者も歳を重ねる。脱皮はいっそう容易ではなくなる。しかし、N氏は決心を固め、腹を括って踏み出した。三期振りの黒字決算をなし遂げた。構造改革が正に競争社会から調和社会の転換を促進させ、地域貢献が可能な体制にまで変革してきた。その実践はS氏とN社長の一体となった行動で進んでいる。

  • 理念実践の生涯

鯖江で理念探究探究会やMKD主催しているM氏も職場卒業式を実践したT氏も今回参加できなかったが、理念に添って生きている。私が彼らに代わって報告した。私は二年先には三名の新しい理念制定者を誕生させる計画と、理念制定者の理念実践力(現実と和道の統合)の向上を応援し続けていく。七月には七十五才を迎える。生涯、理念のある人生の実践者として現役で生きる決心を新たにした。(悦司)


脳力開発128号/理念探究会128号

脳力開発128号

誰も語れなかった沖縄の真実

沖縄問題は、複雑に絡み合っている。現知事の翁長氏はもとより、前知事も問題を複雑にさせる原因を持っている。仲井真知事は最終的に埋め立てを承認したが、それまでの経緯を一応、確認しておきたい。それをしておかなければ、問題の根本が見えてこない。

翁長氏が知事に就任してから、一層沖縄問題は複雑化しており、オール沖縄も今年二月名護市長選、三月石垣市長選、四月沖縄市選挙で敗北し、加えてオール沖縄の保守層の平良朝敬氏(かりゆしグループ)呉屋守将氏(金秀グループ)が離脱したので、実質的にはハーフ沖縄の情況だ。

翁長知事も膵臓ガンで、先日退院したが十一月の知事選に出るかどうかは予断を許さない。仮に自民、公民、維新の推薦候補が知事選で勝利したとしても、沖縄問題は簡単には完結する可能性は少ない。しかし、沖縄県民も長い膠着状態に疲弊しているようだし、沖縄タイムス、琉球新報の一方的な情報に対して、単純に盲信されなくなった。八重山日報が少数ながら那覇での発行を始め、二紙とは異なる情報提供もしている。若い我那覇真子氏がインターネットテレビチャンネル桜支局沖縄の「沖縄の声」等で果敢に活動をはじめている。今回問題の淵源を問い直すことにする。

 

■そもそも普天間基地問題とは

  • 普天間基地問題について時系列確認する。

第二次世界大戦勃発まで沖縄には軍事基地は存在しなかった。昭和17年大本営は全島17箇所軍飛行場を竣工した。昭和20年5月米軍接収後、昭和37年7月に航空基地として拡張竣工。沖縄の戦前の人口動態は昭和12年・ピーク597,902人。平成23年1,400,171人。

  • 宜野湾市人口動態・昭和25年は15,930人、昭和45年は39,390人、平成21年92,465人。人工伸び率は5・8倍沖縄県全体で言えば1・9倍である。
  • 基地は危険と喧伝されているが、宜野湾市の人口動態を検証すると以下のように増大している。危険なところに沢山の人が集まってきている。市民が移転するのは自分たちにとって都合がいいわけで、不利になる、危険になるところに集まるものであろうか。
  • 宜野湾市の収入は毎年防衛庁から地権者に対して、66億4700万円一人当たり360万円が支払われている。地権者数は2448人(689人の反戦テレカ地主は除く
  • 普天間飛行場地主の所有分を総合すると普天間基地は水平線の彼方に突き出ていることになる。合計が実際以上あるということだ。それは、米政府の土地所有を自主申告制にわか地主が多数発生した。

 

普天間の県内移設を巡るねじれについて、何が原因で発生したか、振り返る。

  • 平成8年(1996年)4月、日米特別行動委員会において普天間基地の返還を県内移設を条件に合意した。米軍は猛反対だったが、橋本龍三郎総理の懇請でクリントン大統領を説得した結果、実現した。
  • 基地周辺の人口が急増したこと、我が国では自衛隊、米軍飛行場は空き地と見なされ航空法が適用されていない。これをいいことに、基地周辺の人口増、基地周辺の住宅、大学の建設も放任された。
  • 平成9年11月返還合意から1年8カ月、政府は名護市辺野古キャンプ・シュワブ沖合への海上施設建築案を決定した。橋本首相は将来は撤去可能として説得に努めた。海面の使用権、埋め立ての権限が県知事にあるためにどうしても県知事の同意が必要であった。当時の太田昌秀県知事(1990年・平成2年~1998年・平成10年)は振興策を制定されながらもこの案を拒絶した。
  • 平成9年12月26日、比嘉哲也市長は総理官邸で受け入れを正式に表明。

平成10年2月

■キャンプ・シュワブの住民の意見

代替基地建設予定地キャンプ・シュワブの住民意見は、13行政区のうち4区のみ反対で過去から住民との交流は親密であった。第一次イラク戦争後地元民総出で外線祝賀会を開催した。

  • 昭和45年久志村として独立した村で、昭和31年久志村議会全員の署名を携えて比嘉敬浩村長が誘致実現したが、キャンプ・シュワブでキャンプも村会議満場一致で誘致した。これに刺激を得た金武村も誘致活動を展開し誘致に成功している。キャンプハンセンである。
  • 平成9年3月16日琉球新報では以下のように報道している。テイラー元大尉に対して

「子供たちや学校に机、腰掛け、ピアノ、服などを寄贈、地域住民からはテイラー隊長として親しまれていた」

 

稲嶺恵一知事(1998年・平成10年~2006年・平成18年)

  • 太田知事再選阻止を自民党は目指した。平成10年1998年11月知事選挙。稲嶺氏は

平成10年9月21日基本政策として県民の財産となる新空港を陸上に建設し、一定期間に限定して軍民共用とすると発表した。

  • 財界出身、先祖の中国名・毛習近平と昵懇。知事在任中六回も中国訪問。習近平は福建省在任中四~五回も沖縄を訪問している。
  • 稲嶺氏は太田知事の参謀役だった。県経済の公共工事国庫補助金凍結により経済の停滞してきため、政府寄りが得策と判断した。
  • 平成11年10月28日、稲嶺知事は、移設条件として米軍使用期限を15年とすると突然発言し、それ以降民間空港として県に返すべきだと表明する。以後、態度を硬化させた。
  • 平成11年12月、政府は海上施設案を撤回し、名護市辺野古海岸から1.5キロへの埋め立て案を閣議決定する。稲嶺、県結節業界が埋め立ての方が地元企業の技術に適い施設も恒久的になると主張した。
  • 平成11年12月17日クレーマー米国防次官補は1996年の日米安保共同宣言に反すると納得せず、計画頓挫し、その後7年間計画頓挫放置された
  • 平成14年2002年7月、政府、県は辺野古沖合に建設する建設計画をまとめた。
  • 平成15年12月3日、稲嶺知事は防衛施設庁が全体の事業主体になるよう要請している。この間、政府は2500億円を振興策として沖縄に投下してきた。

★稲嶺知事は基地問題を担保にして国政に発言力を持ち、同時にさらなる振興策を引き出そうとする沖縄流の政治手法が見えてくる。日本式行政「誠意を尽くせば相手は解ってくれる」は沖縄県民には通じない。

 

■移転先の名護市も責任遂行では県と同じ姿勢

  • 平成17年10月29日、日米両国政府間で、沖合埋立案が撤回され、沿岸埋立案に変更されると、県外撤去を主張するようになった。

 

仲井真弘多県知事(平成18年・2006年~平成26年・2014年)

  • 平成18年2006年11月稲嶺知事から仲井真弘多氏に知事交代。

仲井真知事は埋立案を肯定しながらも一センチでも沖合に出してくれと条件闘争を開始した。琉球新報、沖縄タイムスによる反米軍キャンペーンは絶えず展開され、したたかな世論操作が行われた

  • 尖閣開拓記念日・記念式典に参加しない沖縄県知事・2011年1月14日、中山義隆石垣市長は尖閣開拓記念の日市条例制定し、尖閣諸島は歴史的にも国際法上も紛れもなく日本の領土であり、市の行政区域であることを強く全世界に発信していく」と強調した。
  • 中国人民日報は「他国の領土を侵害しながら領有権宣言とは何事だと反発している。この式典に、与党の国会議員が「中国を刺激する」とボイコットしたばかりか、肝心の沖縄県選出国会議員は与野党とも一人も参加しなかった。一方、立ち上がれ日本代表平沼赳夫、自民党下村博文は祝辞を述べた。
  • ところが、仲井真弘多県知事は欠席、副知事も祝電も打たず、仲井真知事は1月14日に那覇を発って、香港に移動し、16日には北京に宿泊している。
  • 知事は北京で政府要人にあい、恭順の意志を示しながら、ここ観光客誘致、北京那覇の直行便を要請した。

 

仲井真知事は保守派に基盤を置くが、沖縄問題(基地、歴史問題)については、政府とは一線をおき、地元の立場を主張している。

  • 仲井真知事は中国帰化人「蔡家」の出身であることを選挙リーフレットに誇示している。

・2012年7月沖縄県北京事務所を開設。

  • 2013年12月27日普天飛行場の名護市辺野古移設に向けた埋め立てを承認した
  • 2014年1月10日沖縄県議会の本会議で、名護市辺野古移設に向けて埋め立てを承認したことは公約違反とし、知事の辞任を可決されたが、決議には拘束力はない。

 

以上、歴代の知事は当選すると普天間基地問題で駆け引きをはじめ、政府からの補助金を要望するのが、当たり前のようになっている。仲井真知事在任中もこの例に漏れず政府とズルズルと駆け引きをやった、仲井真知事は二〇一三年十二月には普天飛行場の名護市辺野古移設の埋め立てを承認した。

 

■翁長雄志知事(平成26年11月2014年~2018年5月現在)

  • 2014年11月沖縄県知事選挙で、日本共産党社会民主党生活の党沖縄社会大衆党・県民ネット・自由民主党から除名された市議による「新風会」から支援を受けて、初当選した。
  • 出馬にあたって、普天間基地の閉鎖・撤去、県内移設断念、オスプレイ配備撤回を強く求める。そして、あらゆる手法を駆使して、辺野古に新基地はつくらせないと表明した。
  • 翁長氏は元々1985年より辺野古移設に賛成していた。自民党県連幹事長も務め、22年前には、辺野古移設推進決議案を可決させた旗振り役だった。2014年6月、県知事選出馬の可能性が取りざたされる頃から、一転、辺野古移設反対に回る。
  • 県知事選で沖縄からの基地撤去を主張する日本共産党からも支持を受け、志位和夫からは「このたたかいの先頭に立つ翁長さんが知事になれば、日米両政府に巨大な衝撃を与え、新しい歴史の扉を開きます。翁長さんを知事に押し上げ、沖縄の新しい歴史をつくろう」と激励され、翁長も「志位委員長から激励をいただき、本当にこれまでの政治活動が間違っていなかったと応えた。
  • 2014年6月、市町村長会において「我々が反対しても国の方針は変えられない」「基地に反対することでより多くの振興策が多く取れる」と発言し、埋め立て反対は基地問題の解決ではなく振興策を得るための手段であることを表明したと報道された。

 

翁長氏は仲井真前知事からの禅譲が予測されず、知事になるために自民党の一部(除名され、新風会を名乗る)、日本共産党をはじめ、左翼の支援を受けて、当選した。オール沖縄と称してきたが、文頭に書いているような情況で沖縄の今後は目が離せない。次号はオール沖縄等に関する事実を検証したい。(悦司)

 

理念探究会128号

信州の古くからの友人を訪ねる

今から三〇年前になる。脳力開発のセミナーを信州で主催してくれた友人達がいた。矢島時計宝石店を経営していた矢島好高氏、万記子さん兄妹、好高氏の奥さん・ゆかりさんの実兄にあたる日本ウオルナットの羽田義久氏、当時別所温泉上松屋の専務だった倉沢章氏、ヤマメ・イワナの養殖と食を提供するかどや自然園の角龍正友氏達がいた。沢山の若い人たちの勉強熱心な熱気が溢れる土地だった。何れも二代目の世代だった。脳力開発、MGマメジメントゲーム、MTマイツール(パソコン)を三本柱として経営改革を目指していた。

彼らが中心になって数年間、年に三回ほど私が講師をつとめる脳力開発セミナーを開催してくれた。まだ私自身は会社に勤めていた。土日の休日を利用して上田でのセミナー講師として通った。そのころ私自身は東京での勉強会和環塾の塾頭をしていた。中小企業の若手社長達との勉強会だ。信州でのセミナーには和環塾のメンバーの若手社長が特別講師として何度も参加してくれた。数年後、ある時期から熱狂的だったセミナーも落ち着き、私自身の独立創業も重なり、上田から足が遠のいた。

お世話になった友人のお墓参り

今回、三年半ほど前に亡くなった矢島好高氏のお墓参りに行った。矢島氏は特に世話役としてお世話になった。恩のある人だ。今回お墓参りの後、万記子さんとゆかりさんに案内をしていただき、私達が著書を愛読している玉村豊男氏の経営するヴイラデスト・ワイナリーを訪ねた。昼食は予想以上に美味しかった。帰り際、駐車場の近くで犬をつれて散歩する玉村氏の姿を見かけた。その夜四名の旧友が集まってくれた。再会すると三〇年近いブランクは一瞬にして消えてしました。かどや自然園上田店でヤマメ、イワナ料理を食べながら色々お話を聞いた。その夜、別所温泉上松屋宿泊した。研修の当時、みんなとワイワイ露天プロに入ったものだ。当時の倍の規模に増築なった棟の特別の部屋を用意してくれていた。

翌日、これまた旧友、簾田氏の運転で長和・旧和田にある羽田さんの会社を訪ねた。羽田さんは当時三〇代、HIC(High International Children)とうい仲間をつくり英語を勉強していた。信州に既に国際性が豊かな企業が散見された。当時この地域は積極的に海外と取引をする企業が沢山あった。現在、株式会社日本ウオルナットの社長をしている。

 

■日本ウオルナット・「捨てればゴミ、活かせば資源!」

未来志向の環境やさしいリサイクル・エコ製品をつくる信州の爽やかな会社

五十年程前に地元上小地方の「くるみの殻」を集め、粉砕し篩い分けをして、サイズを整え出来た製品が航空機のジェットエンジンの汚れ落としに使われたのがキッカケで設立。現在では粒度の異なった様々な製品が熱硬化性樹脂のバリ取り、メガネフレームや時計ケースの研磨・研掃、水処理の濾過材、砥石の多孔度調整材として、また合板や樹脂製品への充填や接着剤等として使われています。

変わったところでは化粧品の洗顔フォームのスクラブとしてや、スタッドレスタイヤの大切な材料としても使われています。昔は捨てたり、燃やしたりしかできなかったものが、多くの産業の重要な消耗材料として生き返ったのです。「くるみの殻」だけでなく、各産業分野の用途に応じ、また硬度や水分等の違いをつくる為、「杏の種」、「桃の種」や「トウモロコシ穂芯」等と製品の幅を広げています。

自然がいっぱいの山村の工場を拠点として、原料・製品の輸出入から国際化や海外展開を進め、更にこの植物性天然資源の良さを生かし、自然環境や人の命にやさしい製品づくりをしてまいります。

 

経営理念 いい仕事をし、いい会社をつくり 喜びと幸せの輪を広げていこう!

★「いい仕事をしょう」いい仕事とは? お客様に喜んでもらえること。

一、具体的にはいつも工夫をする。全てにスピードを上げる。世界一の品質づくり。

二、評価として売上高や利益を生み出す。三、結果として私達の幸せな未来づくり

 

★「いい会社をつくろう」いい会社とは?お客様や働く自分達を含めて、会社をとりまく全ての人がハッピーになっている。

一、具体的には最大級の「ファン」づくり。ひとに迷惑をかけない。(ルールを守る)

二、地域や社会に役に立つ。三、評価として単に経営上の数字がよいということだけてなく、会社を取り巻く全ての人々が日常会話の中で「いい会社だネ」と言って下さる。

 

■会社は正に理想的な特異貢献事業

クルミに代表される果物の種を原料にして研磨剤を作っている。父上が創業したと当時は、上田の隣町小県郡地域でクルミの殻を調達していたようだが彼が専務をしていた三〇年前にはアメリカから輸入が始まっていた。聞けば今はアメリカ、中国、南アフリカを中心に輸入している。今、クルミは勿論、桃の種、杏の種、トウモロコシの穂芯等など。

色々今の会社の情況を説明して下さった。売上げは今回お聞きしたが、粗利率MQは七〇%だという。粗利率ですよ。

工場内を見学すると若い人達が沢山働いている。地元や近隣の二〇~三〇代若者達だ。工場長は三〇代後半にしても若い、爽やかな顔をしている。羽田さんの良き相棒手もあるようだ。事務の女性M沢さんは、私が上田に通っていたころのセミナー参加者だった。羽田さんのお誘いで入社され以来、今も熱心に仕事をされている。

  • 長和くるみ農園

特筆すべきは会社の前に、長和くるみ農園の看板を掲げてアメリカからのクルミの苗を輸入して数年にわたって植樹している。「くるみの歌」も作詩していただき歌っている。訪問した当時はまだ緑の芽が出るころで、農園は緑の林というわけではなかったが、相当の数を植えている。

  • 仕事を楽しむ、生活を楽しむ、人生を楽しむ

彼の正に仕事も何もかも楽しんでいる。アイディアは限りなく豊富で面白い。会社の車も自家用車も車のナンバーは963(クルミ)に統一している。長男の名前は桃太朗、長女の名前はくるみ、次女は杏だ。ここまでやるかと思う。

彼は身長・百八十九センチある。立教大学出身で、バレー部の中心選手だった。そしてユニバーシアードに選ばれた名選手だ。彼の切願というか長男桃太朗くんは現在、立教大学バレー部で活躍している。羽田さん曰く身長が私ほどはない。百八十一センチなのが唯一不満。しかし春からリーグ戦が始まると毎週のように上京して、応援に出かけるということだ。

笑いながら話してくれたのが、親子ともども立教で選手として活躍しているのは野球の長島選手親子と、バレー部の羽田義久、桃太朗親子だとバレー部のOB会で話すのだそうだ。

羽田さんは間もなく古稀を迎える。この年になって、息子のバレーの応援に嬉々として東京まで通える自分を振り返り、本当にありがたいことだと奥さんや家族に感謝していると語ってくれた。

彼は長和町の商工会の会長も引き受けている。美味しい蕎麦を食べに行く道中で、町役場や道の駅、和紙の里なども案内してくれた。町のことが大好きな羽田さんの生き方がよく分かる。愉しい上田訪問と翌日の会社見学だった。話は尽きない。「デカいが軽い」と自称している羽田さんにまた、会いたい。(悦司)

その二・理念実践会

■明治という国家

二〇一八年度の理念実践会(茨城・西日本)でのテキストとして「明治という国家」著者司馬遼太郎を取り上げている。年初から各自に十一章を割当してポイントレビューしてもらっている。今年が明治維新一五〇年といわれているが、私達(私も)は明治以後の歴史を知らない。いや日本の歴史すら立体感をもって勉強したことがない。

■養成塾での体験

次世代型経営者養成塾では、勉強する分野として世界観、日本歴史を学ぶために日本の碩学といわれる二宮尊徳、中江藤樹、吉田松陰、上杉鷹山、石田梅岩などを取り上げ一人一人の研究課題として与え、和の実学、和道を学ぶための副読本として恩田木工(もく)の日暮硯を取り上げ、江戸末期から明治初期にかけて日本を訪ねてきた外国人の訪問記や滞在記などを勉強してきた。

現役時代から広島に赴任中は萩を何度も訪ね、また、養成塾の研修の一環として萩出身の大和信春先生の吉田松陰を中心とした萩・志源探究の旅や坂本龍馬を訪ねての土佐の旅、島津斉彬の鹿児島・尚古集成館を訪ねる旅、上杉鷹山を訪ねる旅、中江藤樹の藤樹書院訪問し郷土史家の指導も受けている。また、伊勢神宮も受講生たちと訪問し、丁寧な指導も体験している。何れの旅も地元の史家、研究者の説明をお聞きしている。

個人的には、坂本龍馬や勝海舟、西郷隆盛などは若くして読み、息子に長男は黒田倫太郎、次男に黒田竜と命名したのもその流れからだ。最も、三男黒田吉之助は残念ながら誕生しなかった。池波正太郎や藤沢周平、司馬遼太郎は愛読書で大部分の小説読んでいる。私の生まれは岡山県津山、松平藩の城下町、大学時代は井伊大老の彦根で五年の年月を過ごしている。

歴史書としては、主に渡部昇一はここ数年集中的に読んでいる。一昨年から戦後の日本の歴史を検証しようとして森のフォーチャだよりに既に二〇回以上書いてきた。

■最近の研究テーマ

自分の経験から言うのではないが、日本人として日本の歴史を知らない。加えて戦後六年半にわたるGHQの言論統制、連合国編纂の太平洋戦争史や東京裁判の影響は大きく、特に影響を受けた教育、出版、教科書問題で日本の歴史からも遠ざけられてきた。

今年は、若い理念実践会の諸君と日本史を大まかに捉えようと考え、勉強することにした。

並行して「もう一度学ぶ日本史」執筆者代表伊藤隆と「読む年表日本の歴史」渡部昇一をつかう事にした。

■歴史が立体的に見えてくる

第一回目は第一章ブロードウエイの行進、第二章徳川国家から遺産、第三章江戸日本の無形の遺産・多様性を研究和談した。養成塾を通して前述の体験をしている理念実践者は第一章を輪読した後、「もう一度学ぶ日本史」の●江戸幕府の成立としくみ、●江戸時代の身分制度の実態と人々の暮らし、●キリスト教の禁止と「鎖国」の始まり、●「鎖国」の時代に開かれた窓口、●新田の開発と産業・交通の発達、など江戸時代の始まりから、幕府の組織、士農工商、制度から研究和談をすると、参加者も歴史が立体的になって理解というか納得できて面白い、自分の頭の中で今まで学んできた事が繋がってきたいう感想だった。

私も今、万延元年(一八六〇年)の春、幕府が派遣した日米条約批准のための使節団をおくり、アメリカ中が好意と好奇心をもって彼らを歓迎した様子が彷彿と頭の中に沸き上がる。と同時に使節の中心人物だった「小栗上野介忠順」の小説「覚悟の人」と「幕末維新と佐賀藩・日本西洋化の原点」読み始めている。すべてテキスト「明治という国家」に収斂してくる。歴史を勉強することが実に面白いというのが、私自身の二〇一八年度理念実践塾の感想です。これから一年みんなと続けたい。(悦司)


脳力開発127号/理念探究会127号

脳力開発127号

メディアの使命・日米の比較

 私の大学時代の友人が映画「ペンタゴン・ペーパーズ」監督スティーヴン・スピルバーグを見た上でメディアのあり方について長いメールを送ってくれた。早速見に行ってきた。その上で今回、日本のメディアの現実を描いてみたい。

  • 「ペンタゴン・ペーパーズ」の内容は、「ベトナムにおける政策決定の歴史、1945年-1968年」である。ベトナム戦争からの撤退を公約して大統領に選出されたリチャード・ニクソン政権下の1971に作成されたこの報告書は、フランクリン・ルーズベルト大統領時代つまりフランス植民地時代にはじまり、フランスの撤退以降にベトナム戦争を拡大させたジョン・F・ケネディリンドン・B・ジョンソンの両大統領政権下のアメリカ合衆国インドシナへの政策と「トンキン湾事件」などの当時の政府による秘密工作を網羅している。(ウイキュペデヘアより)
  • ある日、その文書が流出し、ニューヨーク・タイムズが内容の一部をスクープした。ライバル紙のニューヨーク・タイムズに先を越され、ワシントン・ポストのトップでアメリカ主要新聞社史上初の女性発行人キャサリン・グラハム(メリル・ストリープ)と編集主幹ベン・ブラッドリー(トム・ハンクス)は、残りの文書を独自に入手し、全貌を公表しようと奔走する。真実を伝えたいという気持ちが彼らを駆り立てていた。 しかし、ニクソン大統領があらゆる手で記事を差し止めようとするのは明らかだった。政府を敵に回してまで、本当に記事にするのか…(映画の案内文)

 

  • ペンタゴン・ペーパーズを早速見てきました。あなたのいう通り素晴らしいというのが感想です。そして正にメディアが民主主義の「言論の自由」と「新聞、メディアの使命」を貫いたとおもいます。権力や政治に屈しない姿勢、経済的な打撃のおそれがあるにもかかわらず、貫いたワシントン・ポストの社主、幹部とも勇気があるとおもいます。

さて、ニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストのことは、チョットおいて、私が今まで、書いてきたことは、日本のメディア、特に朝日新聞、毎日新聞、東京新聞、共同通信社、そしてNHKの姿勢についてです。

 

■朝日新聞の虚偽・メディアの崩壊

  • ここで、貴兄も御存じだとおもいますが、戦後、朝日新聞は一九四五年九月十五日、十七日の記事で、GHQから発行停止になったのです。五月十八日、二日間にわたる業務停止命令をうけ、十五日は鳩山一郎の「正義は力なりを標榜する米国が原子爆弾の使用や無辜の国民殺傷が、病院船攻撃や毒ガス使用以上の国際法違反、戦争犯罪であることを否むことができないであろう」という記事に対して発行停止、そしてその後GHQはプレスコードという三〇項目を発表し、メディア(新聞・放送)に対して言論統制を強烈に敷きました。

GHQ批判、東京裁判批判、連合国への批判、中国批判、韓国批判を全てのメディアに対して禁止し、六年半にわたって新聞、放送、出版の内容の検閲を五七〇〇人の日米検察官を雇い、動員し実施してきたのです。

  • サンフランシスコ条約で、連合国は日本に対して言論の自由を承認したにもかかわらず、GHQアメリカが、日本の新聞に放送に対して言論統制と検閲を続けてきたのです。この映画の主題である、言論の自由を口では唱え、その裏でGHQは日本に対しては六年半にわたる言論統制をしてきたのです。
  • 朝日新聞は発行停止にあうと、対応策として直ちに社長幹部の交代、編集方針を全く変更し、その後、積極的に言論統制に迎合し、メディアとしての魂をGHQに売り渡してきたのです。メディアの社会的使命をGHQに売り渡し、以降は見事に追従してきたのです。

私達の記憶にある、中国に対しては批判的なことは一切いわなかった朝日新聞は、文化大革命を初め、中国ソ連に時の幹部(社長・経営陣)は迎合し、その間メディアの中心であった朝日新聞は社をあげて中国、北朝鮮、ソ連にも魂を売り渡してきたのです。

  • 他方、真実を追求してきた産経新聞は文化大革命をいち早くスクープし、掲載した結果中国に駐在を置かせないという報復をうけたのです。今もしばしば中国から記者の公式入場を拒否されています。あの映画のニクソンを彷彿させる後ろ姿のセリフですよ。「二度とワシントン・ポストをホワイトハウスにいれるな」というセリフそのものを中国からやられているのです。(産経新聞は、中国総局長へのビザ発給が二〇一七年九月まで三年以上凍結された。)

少し言い過ぎのきらいがありますが、アメリカは国内に対してでも世界に対しても、二枚舌なんて十八番でしょう。何が「言論の自由」なのかというのが、東京裁判もあるのですね。言論の自由と言いながら、事実は全てにわたって言論統制をズーットやって来たのです。

  • GHQの言論統制が終わった六年半後も日本のメディアは言論の自由といいながらも自主統制を続けています。メディアの自主規制はスッカリ習い性になり、いまだに莫迦な自主統制という名の言論統制をし、出版業界、放送業界に対して常識的には当たり前の言葉を逆差別しているのが現実です。日本語の衰退を招いています。
  • 朝日新聞を筆頭にした日本の大新聞、メディアの愚かさです。ニューヨーク・タイムズの日本支社は朝日新聞の本社にある、あったのです。朝日はアメリカの大手メディアの記事を鵜呑みにして載せてきたのです。アメリカに派遣している朝日新聞の記者たちが自分で調査して書いているのですかね。ニューヨーク・タイムズの受け売りをしているのでしょう。

 

朝日新聞綱領(一九五二年制定)に対して恥ずかしくないのか?

一、不偏不党の地に立って言論の自由を貫き、民主国家の完成と世界平和の確立に寄与す。
一、正義人道に基いて国民の幸福に献身し、一切の不法と暴力を排して腐敗と闘う。
一、真実を公正敏速に報道し、評論は進歩的精神を持してその中正を期す。
一、常に寛容の心を忘れず、品位と責任を重んじ、清新にして重厚の風をたっとぶ。

  • 話が広がりすぎてはいけないので、論点を戻すと、新聞、メディアはもともと目立つ部分を記事にする傾向があります。両面から公平に書くべきことを売らんが為、片面からしか書かない。近々の加計問題の国会答弁などがその最たる事例です。私はこの国会中継を記事にして書きましたが。朝日も慰安婦問題を初め、売らんがための虚偽の積み重ねをし、今回の映画の中のニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストの記者や社主の爪の垢でも煎じて飲ませたい心境です。
  • 新聞が事実を書くかといえば、これはまた違います。朝日新聞はかつて八〇〇万部以上だったものが、慰安婦問題やそれ以後の虚偽、誤報報道でどんどん部数を落としています。毎年三〇万部も減り、今では五〇〇万部とか、そして会社もリストラや給料賃下げ、経費カットが進んでいると言われています。
  • 日本でも、今の若い人たちは新聞を購読しなくなっています。その代わりにインターネットでおかしいと思って調べています。朝日の凋落は団塊の世代が減少するに従い激しくなってくるでしょう。個人的には消滅してほしいとおもいます。
  • 今回あなたからのメールを頂きとても感謝しています。メディアの姿勢に対しての考え、使命に対しては全く同感です。この映画ではニューヨーク・タイムズもワシントン・ポストも立派な社会的使命を貫いています。お陰で、あなたのメールは私にとても参考になりました。貴方のようにキチンとした良き読者をもって幸せです。重ねてお礼申し上げます。(悦司)

理念探究会127号

その一、郷土の誇り田渕隆三氏作品展IN津山

  • 今回、四年ぶりの田渕隆三氏の故郷津山での作品展が開催された。私達夫婦も四月十二日に神戸経由で馳せ参じた。前日、津山国際ホテルで津山高校同級生が集い喜寿の会を兼ねて百三十名の人達が集まった。今回の作品展のテーマは「魂のふるさと冨士」でした。

今年は、富士山などの日本の美しい風景を描く旅を続けておられます。今回の会場クラヤは津山では有名人の歌手ビーズのご兄弟が経営されている。私達も四年前にモラ作品展を開催した場所です。同郷津山の友人、知人の協力で沢山の人達に見ていただいた懐かしい場所でもある。今回、折角の機会なので、田渕さんご夫妻と食事をご一緒したいと前々からお願いしていました。田渕さんの郷里鏡野の田渕さんと子供のころからの友達で、私の大学の先輩近藤先輩、同じ鏡野町で備前焼を焼いている和仁氏、津山で美術にかかかわる仕事をしていた小林さん、そして田渕さんご夫妻と田渕さんの仕事を手伝っていらっしゃる吉村さんと私達八名の会食になりました。

  • 私も興に乗って、田渕さんご夫妻の結婚までの動機から始まって、毎年ヒマラヤに登山され描かれているようす等などいろいろお聞きしました。お二人とも東京芸大日本画の出身です。奥様は横浜フェリスの出身でご家族はバリバリのクリスチャン家族。一方、田渕さんはコテコテの仏教徒。田渕さんのプロポーズには奥様の父上は猛反対。しかし、二人の思いが強く、詳細は聞き逃しましたが、今は二人とも作品づくりに邁進されています。

田渕さんは津山高校では初めての芸大に入学された先輩ですが、田渕さんの絵に描ける情熱は凄まじいものがあります。今年、喜寿を迎えられるのですが、ここ十年近く毎年ヒマラヤに登られ四三〇〇米~五〇〇〇米近くで厳寒のなかで、何枚もの油絵を描かれます。

モネに倣って、縦三メートル横九十メートルのヒマラヤを描こうと、何年も取り組まれている。私も登山に親しんでいるのですが、エベレストビューホテル(四三〇〇米)まで何とか登りたいと計画を立てるのですが、妻の骨折やら体力の衰えやらと重なり、到底叶いそうもありません。

  • 奥様はと言えば子育ての最中もスケッチを怠ることはなく、日本画の作品を描き続けて折られる。今回の会で新たな発見は奥様が非常に田渕さんの考えを理解されていて、時に田渕さんへの質問に応えてくださる、互いによく理解し合っていることに驚きました。

最後に、田渕さんの好物はお芋だそうです。毎日食べるのだと奥様が笑いながら紹介してくださいました。茨城県は芋の名産地です。これから田渕さんによい作品を描いて貰うために、お芋を沢山送ることにしたいと思います。

  • 我が家は田口さんの絵を沢山集めています。毎日、朝晩眺めながらエネルギーを沢山もらっています。今回は妻の忠告で、絶対に買わないということを約束させられていました。当日はまだ、決心がつかなかったのですが津山から帰って、後日、東京近代美術館に横山大観の作品展を見に行き、横山大観の描く富士山と田渕さんの描く冨士さんが私の頭の中に何度も現れ、とうとう横山大観の作品展の会場からいつもお世話いただく吉村さんにメールして求めることにしました。ヒマラヤの絵は五~六点あります。これで富士山の絵も三点になりました。いずれ、田渕さんの作品展を森のフォーチャで開催する日もあるかと妄想しています。善子にはこれ以上はと文句を言われますが、私も喜寿を迎えるころには妻を説得して開催するかと密かに考えています。(悦司)

その二、鯖江理念探究会

 鯖江理念探究会第二回目初日には七名の参加者と塾頭八名とはじめました。私は前日、津山から善子と金沢にはいり知人と会食を終えて、再び鯖江に引き返した。

さて初日は近況報告に続き、午前中は金美齢の「私なぜ日本国民となったのか」のポイントレビューでの輪読と和談です。二〇代で日本に留学以後、台湾独立運動にかかわることになった彼女が二〇〇九年九月に日本国籍を取得するまでの、台湾人としての悲哀、ニニ八事件による国民政府軍の白色テロ、戒厳令と独裁政治から台湾人の初の相当になった李登輝による民主化へと続く、五〇年間を綴っている。

台湾民主化はその後、民進党陳水扁から再び国民党の馬英九総統による大陸・中国への偏りと再び蔡英文へと続く台湾人のとしての体験から「私なぜ日本国民となったのか」と語る。

  • 戦後日本人の最大の忘れ物は「日本精神」(リップンチェンシン)を語る。

一、家族、故郷、母校を甥する人が母国を愛することは当然だ。

二、自分の国を愛さない人間を外国人は誰も信用しない。

三、「日の丸は悪」と人々に植えつけて日本のマスコミ。

四、日本人もそろそろ温室育ちから抜け出すときだ。

五、国のために何をするのかを考えず、国に対して権利だけを主張するな。

六、戦後教育の落とし穴。と続ける。

三〇代~四〇代の受講生は一九七〇年前後生まれだから、日本の戦後史もよく知らない。

戦後教育は私も含めて、日本の歴史教育も明治維新以後の歴史も知らない。日本の歴史を日本に移住した台湾独立の女性でありながら人間として生きる覚悟をもった金美齢の自伝に近いこの本は多くの刺激と同時に一般的な日本人の緊張感のない生き方に警告を与えてくれる。今、日本人は全ての面で生ぬるいお湯に浸かり切って、茹で蛙状態と言えよう。

  • 「万人が万人の哲学を」

MKD未来対応経営道場を母体にして、理念探究会を進めているがこの後、森信三の「幻の講話」第五巻の「万人が万人の哲学を」「新しい人間の学」を輪読、一人一人は究極自己の人生を全うすることは、換言すれば自己の天命、使命の探究であることを教えられる。

  • 生育歴

翌日二日目は三名。彼らには宿題で「生育歴」を書いてきてもらった。三〇代後半、四〇代前半の三人はそれぞれ生い立ちは違う。しかし生育歴を拝見すると非常に個人的に興味がわく。一人平均六~七枚の生育歴だったが、私からの質問、インタビューで非常に個性が浮き上がってくるだろう。

  • 基本指針集をもとに以下のことも学んだ。脱競争の基本構図、支援型リーダー、支援型組織、無力の七法、企業理念の役割。新たな経営への準備も進めている。(悦司)

脳力開発126号/理念探究会126号

脳力開発126号・沖縄問題を考える

先月から沖縄問題を考えることにした。関連書籍を読み始めているが、その関係は複雑で容易に判断することはできない。まずは考える構造を想定した。図のように考えてみたい。

第一回目は、ここ数年私達が見聞きしていることを、時系列に辿ってみた。テーマに関しての詳細はこれから踏み込んでいきたいと考えているが、概略の流れを辿っておきたい。

今年私が沖縄に行った1月中旬、既に名護市の市長選挙が話題になっていた。コンビニで新聞を買いに行くと、沖縄タイムスと琉球新報と僅かに日本経済新聞がおかれていた。ホテルにはいずれにしても沖縄タイムスか琉球新報しかない。旅行者には読むところがない。

新聞でも名護市市長選挙は取り上げられていた。稲嶺進市長(オール沖縄支持)と渡具知武豊氏(自民・公明支援)が争っていたが、結果は3500票の大差を付けて渡具知武豊氏が選ばれオール沖縄が応援した稲嶺氏が大差で破れた。引き続き3月の石垣島での市長選挙も保守分裂選挙となった。保守分裂で革新の勝利も予想されていたようだが、結果として自衛隊配備を推進する中山義隆市長が革新系新人を破り三選された。

■沖縄のメディア 

沖縄タイムス、琉球新報 編集方針は同じ

基地に反対する「沖縄県民の戦い」、「沖縄県民の感情」にたいしての日米両政府の無関心

を謳う。沖縄対する数百年の差別を訴える。基地反対派との密接な関係がある。

■沖縄平和運動センター議長・山城博治

1993年2月1日設立、会員数26団体、護憲反安保県民会議と沖縄原水協の統一された原水爆禁止日本国民会議加盟団体。マスコミ労働組合協議会。

■支援団体 社会民主党、自治労、国公労、沖縄県教職員組合、高等学校教職員組合、沖縄社会大衆党、マスコミ労働組合協議会。圏内マスコミへの影響力は強い。

■闘争目標・護憲、反基地、反安保、反自衛隊、反核、原水禁、被爆者支援、部落解放同盟と連携した反差別国際を展開。

活動資金・社民党が中心と言われている。

山城博治議長は2015年2月22日逮捕、映像が米軍から公開される。

■オール沖縄(辺野古新基地を造らせないオール沖縄会議)

普天間飛行場へのオスプレイ配備撤回運動に全市町村が形式上賛同したことに由来する。

2012年9月9日県民大会事務局が取り付けた。会場・宜野湾海浜公園

2014年 沖縄県知事選挙で翁長雄志を支援する仕組みとして具体化する。

革新と辺野古移設反対は保守勢力も参加して統一戦線が結成された

翁長氏は元自民党だったが、辺野古移設反対だった。

2015年 稲嶺進名護市長、市民活動家高里鈴代、呉屋守将金秀グループの三氏が共同代表  シールズ琉球・玉城愛(名桜大四年)も加わった。

辺野古・新基地を造らせないオール沖縄会議

20団体・社会民主党、日本共産党、現・自由党、沖縄社会大衆党、民進党、民進党、沖縄県連、沖縄市議会新風会、県会議おきなわ、沖縄県知事、那覇市長。

辺野古移設反対でも公明党・沖縄県本部、おきなわ維新の会、政党そうぞうはオール沖縄会議には参加していない。

■2014年沖縄県知事選挙

2013年1月28日 オスプレイの配備撤回と普天間移設断念の建白書提出

■自民県連の分裂

2013年12月27日 仲井真弘多知事がそれまでの辺野古移設反対から名護市海面埋め立てを承認した。これを巡り県内の保守勢力や自民党が分裂状態になる。

2014年6月 辺野古移設反対の自民党沖縄県連が翁長市長に出馬要請。前回の仲井支持派の一部も賛同した。

2014年7月22日 社会民主党沖縄県連、日本共産党中央委員会、沖縄社会大衆党、生活の党(現自由党)、県民ネットが翁長雄志に候補を一本化で合意、9月10日本人立候補表明。

2014年11月16日 翁長氏県知事に当選

その後のオール沖縄の選挙展開

第47回衆議院議員総選挙でオール沖縄は選挙選挙協力、一区共産党、二区社民党(照屋寛徳)三区生活の党玉城デリー、四区無所属仲里利信で候補一本化成功。全員当選。

2016年宜野湾市長選挙 自民推薦の佐喜真淳市長誕生、オール沖縄の初めての負け選挙

■辺野古訴訟における敗北 

2016年3月国と件が訴訟取り下げ。7月22日国は翁長知事を提訴する。

2016年12月20日最高裁で県の上告を棄却国が勝訴

2017年宮古島市長選挙 自民・公明支援の下地敏彦現職当選、オール沖縄敗北

2017年浦添市長選挙 自・公推薦の松本哲治氏再選・

■沖縄圏内11市長の内、那覇市、名護市を除く9市長を自民系が継続。

2017年4月23日うるま市長選挙 自・公推薦島袋俊夫氏当選・オール沖縄3連敗

2017年7月9日那覇市議会選挙 オール沖縄18議席、共産党7人現職当選

過半数割れ、翁長市長の息子は当選したが、前議長で翁長側近の金城徹氏は落選。

■第48回衆議院議員総選挙

オール沖縄は前回同様選挙協力したが、四区の辺野古移設反対派の仲里利信が一本化に成功したが、自民党の西銘恒三郎が当選、仲里氏は引退した

2018年平成30年の動き

2018年1月22日南城氏長選挙 オール沖縄・65票差で辛勝

2018年2月名護市選挙 自・公推薦の候補が当選、渡具知武豊氏当選。

オール沖縄敗北、近秀グループの呉家守将会長引退、オール沖縄会議の共同代表を辞任

2018年3月11日石垣市長選挙、自・公・維新推薦の現職中山義隆3選、オール沖縄敗北

次号から構想図にしたがって、詳細を検討していきます。(悦司)

 

理念探究会126号・決心を問う

三十年先を描きそれに向かって歩みを始める

三月中旬三日間にわたって恵那銀の森で幹部研修を行った。社名「銀の森コーポレーション」は七年前に社名変更を行った。その前の社名は「銀しゃり本舗」、お付き合いを始めて丸々二十一年は経つ。「創業の思いと歴史」をまとめたのが二〇〇三年、創業理念と経営理念も数年をかけて私がまとめた。

お付き合い始めた平成八年一九九六年は、敷地数万坪で公園のように広大な敷地を整理し始めたころだった。まだ、小売りは開始していなかった。二〇一一年旧来の敷地の周辺を購入し、地域の発展と食文化の発展に貢献をめざして食のアミューズメントパーク「恵那銀の森」開園した。社名も「銀の森コーポレーション」に変更した。念願であった小売り部門に乗り出した。カリテレモン、みくりや(美栗会)、おくど、五節会、イタリアンレストラン森の食卓とショップ部門とお菓子の第二工場を併設した。その後の展開で「銀の森」ショップ外部出店にもチャレンジしている。ここの店の紹介は省くが、個性のある商品づくりに挑んでいる。

渡辺好作氏は平成十五年開校の次世代型経営者養成塾の第一期生でもある。今、当時の受講生の殆どが社長、もしくは専務の役を務めている。創業社長から交代し社長に就任したのが一昨年。この春で丸二年を迎える。いわば社長の新人である。

昨年から氏は三十年先のビジョンづくりに専念し、十年単位のマイルストーンを建て三十年先に向かって歩み始めている。養成塾の講師を務めて貰ったS田氏の応援もお願いしビジョンも明確になっている。

意志のある同志と協働する

今回の幹部との熟考会で社長同席の上、三日間にわたり検討した。検討を深めるとビジョンに向かって進もうとする人と、消極的な人との姿が浮き彫りになってくる。これは企業に務める人に見られる普通の姿だ。サラリーマン特有の自己保身の姿勢が浮き彫りになってくる。三十年先のビジョンをともに磨き温めながら社長とともに向かう意志を共有できる人間かどうかを、社長ともども見極めなくてはならない。

未来に向かうとき、自己保身を優先させる人間は中核の幹部として信頼はできない。構造改革や現在の組織の壁の突破をめざすときには少しでも自己保身を優先させる幹部は中核におけない。その見極めも初期の段階から留意しなければならない。

今回、会長、社長と三十年来のお付き合いを振り返りながら深い話をしてきた。六月には第一段階のビジョン具体化の合宿をすることを渡辺社長は決めた。未来に向けて積極的に自分のもてる力を発揮するメンバーと進んでいくための応援をしたい。

 写真 銀の森全景

 

鯖江理念探究会の本格スタート

三月十日~十一日と金沢経由で鯖江に入り、いよいよ鯖江理念探究会をスタートさせた。初日は七名、二日目三名。二日間とも出席の三名が正式に発足した理念探究の対象者だ。初日は二年前からMKD道場で開催している理念探究の準備会の対象者でその中から今年三名が本格的に取り組むことを決心した。毎月二日間、私自身の日程で言えば三日間をつかうことになる。結構体力的にもきつい年齢になったが、体力の続く限り続けようと決めいる。

理念探究会は平成七年四月より開校した。その後、平成十五年にそれまでの理念探究会の経験をまとめた著書「理念探究会のめざす世界」を出した。今年理念探究会も第二十四回目を迎えることになる。理念探究会を端的にいうと次のようになる。「全ての人間は生まれたときに、神から一通の手紙をもらっている。大概の人はその手紙を読むことはない。しかし、その手紙を読みたいと思う人がいたら、私はその人が神からの手紙を読むためのお手伝いをする」、この表現は、親しいドイツ人の友人がいて彼が英語で私に、「黒田、お前の仕事はなんだ」と幾度か問われ、それを英語で応えた文章を、あらためて日本語に訳した文章だ。そのための会が理念探究会である。

願望と意志の違い

理念探究は意志があって、決心して取り組む人には諦めて限り到達できる。しかし、決心したつもりだが、到達できない人もいる。その根本的な理由は決心したつもりでも「願望と意志」の違いを理解していない人だ。「希望することと決心することとは違う」「決心にも全人的決意」がないと到達できない。その意志を時間をかけて不動の決心として探究する事を支援するのがわたしの役目である。こうして理念探究に到達できた人は四十名(社)強。そのうち一昨年六名が誕生した。

鯖江理念探究会の第一回目の感想を記すと、次のようになる。この会の発足は二年前に遡るが私には到底その段階ではないと思っていた。理念探究にまで進みたいのならばMKD(未来型経営道場)を主催している村上氏に二年間はあなたが畑を耕してほしい。それができたら検討しましょうと。二年にわたって私も年四回、講師の役をになった。

感触がよい。いままでの経験から言っても二年先の可能性が非常に感じられる。勿論一人一人人間が違うように同じテンポでは進まないだろうが、過去の経験よりも可能性が強く感じられる。これはこの道を二十五年進めてきた「勘」というものだろう。この三名意外にもここ数年MKDが独自に進めれば、もっと他の人達も理念探究の可能性があるという「勘」である。楽しみが増えた。

村上廣昭氏からの手紙

今月から先生の理念探究講座は、わたしの「職場卒業式」で述べました、地域で理念制定者を一〇名育てたいという願から始まりました。思えば三年前に蟹江が主幹隣開催した、快労祭にMKDの無事井、大橋、古澤、松原さんがオブザーバーとして参加したことが発端となり、先生の心を動かすことに繋がり、やっと実現にこぎつけることになりました。

偏にここまでに来られましたのも、先生と塾頭(藤井氏)のお陰だと心から感謝しています。塾頭には塾生たちの相談に当り、私への力添えとなってくれましたことに嬉しく思い、また先生には七五歳を迎えられた高齢にもかかわらず、月に一度鯖江に来ていただいた、二日にわたり指導していただく熱意に、心から込み上げてくるものがあり、何ともいえない悦びを感じているところです。

私は幸せ者です!体は思うように動かすことは叶いませんが、わたしの理念が遂行され、みなさまのお力で鯖江においての講座が実現できたことに、感謝している次第です。

今さらら、初めて先生とお会いしてから二一年の経過し、私の人生においての最高の慶びとして浸っております。

今後ともよくご指導をよろしくお願い申し上げますと共に、先生にはお体には十分に留意してお過ごしいただきますよう、せつにお願い申し上げます。謹啓  村上廣昭

 

  • 村上廣昭氏は平成一四年、十七年と脳梗塞を患われた。そして社員であった宇野氏に平成二十一年社長を任せ(宇野氏はその後理念を探究され、現ムラケン社長として活躍している)MKDを創業され、その塾生の藤井大氏が平成二十八年に理念制定をされた。その藤井氏が会社経営のかたわら、塾頭として村上さんを支援されている。
  • 小企業であるが、社長が脳梗塞になったら、普通の会社だったら社員はとうに退社して会社は消滅するのがおそらく当たり前だろう。しかし、村上さんが社長の当時、企業理念を制定され社員教育にも熱心だった。そのことが後継社長を育成に結びつき、後継社長も人生理念を探究した。その間二冊の著書を記した。そして職場卒業式を経てMKDを起こし、MKDで育てた藤井さんが理念を探究され、なお後輩を育てようという流れに繋がっている。理念が人を育て理念が会社を磨いていく実例です。

 

写真・理念探究会の世界

 

職場卒業式・理念のある同志の次ぎなる進路

職場卒業式などという言葉はお聴きになったことないでしょう。実はこれは人生理念を制定した人のみに使える言葉です。誰にも人生は一度しかない。人生理念のある人は企業を経営していた、あるいは務めていたとしても企業を卒業した人には次ぎなるステージが始まります。理念制定者では二人目です。一人はムラケン社長だった村上廣昭氏現MKD塾長、そして二人目が今回卒業する竹内将清氏だ。氏は企業改革を中谷石材株式会社の中谷明生氏と力をあわせて推進してきた。戦略会計の導入、PCの導入、脳力開発の導入、企業理念の制定、自立連帯型経営の実践と現役時代邁進してきた。そして企業を卒業して自己の人生理念に向かうことになった。理念を制定している後輩企業の手本となる式典を行った。そして新しい道に旅立った。その時に、職場卒業証書をお目にかけたい。

職場卒業式証書

竹内将清殿

貴殿は、昭和四十九年に中谷石材株式会社へ入社以来、永きに亘り会社の繁栄のために尽力されてきました。振り返れば先々代社長中谷忠雄氏に出逢い、以来営業職を中心に取締役として活躍されました。平成十六年の企業理念制定にともない、自立連帯型経営をすすめる中でフクイ中谷石材(株)、(株)とっとり中谷、そしてメモリーアート中谷(株)の三社の設立にかかわり、各社の現社長が経営者として身につけておくべき必要な能力要件を、理論的にも実践的にも十数年にわたり指導されてきました。お蔭で各社長は立派にその職務を果たしております。

思い起こせば、竹内さんとの出逢いからも早や三十年近くが経っております。最初は西順一郎先生の戦略会計を学ぶマネジメントゲームから始まり、パーソナルコンピーターMTの企業導入にも取りくみました。昭和六十年代当時では、日本での黎明期の導入になります。その後、脳力開発研修の導入へとつづき、中谷石材の理念制定を経て、自立連帯型経営の実践へと結びついたわけです。

この度、今期をもってメモリーアート中谷を和木坂貴子社長に任せ、完全に職場を卒業することを決意されました。次ぎなるステージへの出発であり、誠にめでたいことであります。

メモリーアート中谷を和木坂貴子社長に任せ今後は、竹内さんの人生理念に添って、全国の企業の経営指導とともに、進化経営学院西日本校として経営人材養成塾の塾生達を中心に未来をになう人材を育成され、活躍されん事を願います。

平成三十年三月二十四日

一般社団法人進化経営学院 代表理事 黒田 悦司