脳力開発124号/理念探究会124号

脳力開発124号
沢山の人に会う、食に合う旅・彦根・沖縄の旅
脳力開発の指針に「できるだけ沢山の人に接触する習慣をつくろう「」できるだけ沢山の物事に首を突っ込むつくろう」という指針があります。私達夫婦は脳力開発の創始者城野宏先生にお会いしてから心がけていたことです。今回はその実践として記事を書いてもらいました。(悦司)
彦根・故郷の旅
 一月五日からの経営計画熟考会が彦根で開催されました。私達は前日茨城空港から神戸空港へと飛びました。我が家から茨城空港までは車で七~八分。飛行時間は一時間二十分程。関西が近くなりました。丁度、私の叔母が甲子園にある介護施設に居るのでお見舞いに行きました。以前より随分良くなった叔母と昔話をして妹のように可愛がってくれたことを思いだしました。元気になっていて本当に良かったと思いました。
 大阪から彦根へ。夜は叔父さんに教えてもらった駅の近くのお料理屋さんで久しぶりのお食事です。叔父は今年で八十八歳になります。七〇歳で京大教授を退官し、滋賀県立大学創設に関わり七五歳まで教授をしていました。今もとっても元気で若々しいのです。ゴルフも月に二~三回は行きますし、車の運転も上手です。(但し、叔父さん曰く昼間だけの運転と決めているとのこと) このお店のご主人とはゴルフ友達で「叔父がお世話になってます」と、いうと「叔父さんはとても紳士で上手です」と教えてくれました。お酒が好きでスポーツが大好きな叔父さん(高校時代彦根東高校野球部のピッチャーをしていました)はとても若々しく髪も悦司さんの方が白いのです。これからも元気で若々しい叔父さんと楽しいお酒が飲めたら幸せです。
三日間の熟考会が終わって三宮で一昨年七〇歳で突然逝去した悦司さんの弟の奥さん会い、軽くビールをのみながら食事を楽しみました。弟がなくなって一年八カ月、まだまだ悲しみは消えません。でも彼女もしっかりと生きています。黒田に嫁いできたもの同志で、色々おしゃべりしました。彼女もスポーツ大好きでテニスが得意でした。今はジムや山登りをお友達と楽しんでいます。元気で今年も何度か会いたいものです。
沖縄の旅
 それから一週間あけてN社の経営合宿が沖縄であります。茨城から沖縄までも直行便があります。寒い茨城から暖かい沖縄へは三時間半ぐらい。私もお供をしました。勉強会の一日前に降り立ち、以前からの馴染みのお店「うりずん」へと足を運びました。何年か通っているのでママさんとも顔なじみ。「お久しぶり」と挨拶をして美味しい沖縄料理を頂きました。「ドゥルテン」「スーチキ」「島ラッキョウ」「島だこ」「ゴーヤチャンプル」等々とカラカラに沖縄のお酒を入れて頂きました。
 私達はとりわけドゥルテンや島ラッキョウの塩漬けが好きでお代わりをしてしまいます。
 食べ物でいえば沖縄牛が美味しいと今回は到着時と帰宅日に焼肉とステーキを頂きました。噛み応えのあるお肉です。市場にあるお母さんたちが開いている「花笠食堂」もお勧めで沖縄に行けば必ず一度は足を運びます。
 以前は織物や染物、やきもの、漆と色々な物を見に行ったのですが、近ごろはどうも食ばかりになってしまいました。暖かく少しのんびりできた沖縄です。(善子)

理念探究会124号
その一・経営計画熟考会・茨城・彦根
見通皆無・不安亦無・唯一予見・大局正解
 昨年十二月二十五日から茨城で、新年五日から彦根でそれぞれ三日間経営計画熟考会を開催しました。今回は全員で十五名の若手経営者が参加しました。理念制定企業は十一社。理念探究中は四名だが、何れも若手経営者。一昨年理念を制定してから約一年半経過して二〇一八年の経営計画熟考することを目的として集まります。年末年始で既に一年間の経営方針が明確になる訳です。
 昨年までは七〇代の経営者も含まれていたが今回は一名以外全て三〇代~五〇代初めまでだ。世代交代が完全に進んでいる。日本も世界も大きく動いている。世間では経営と言うものは一般的に利益をあげる事が評価の中心にある。したがって日本でも世界でも成長率がどうかで評価して、日本のGDPの成長率は高くないとかまびすしい。
●企業理念を背景に熟考する
 理念を制定している企業は企業理念(企業の志=社志・経営姿勢・就業姿勢)を基本において、企業理念の実現に向けて邁進する。丁度一年前のこの欄で「志ある経営者・人間尊重の経営・出光佐三の生き方」を紹介した。私は理念を制定した人達と「理念実践会」を毎月岡山と茨城で開催しているが、その中で出光佐三の「もしマルクスが日本に生まれたら」「働く人の資本主義」をテキストの一つとして取り上げて輪読し研究している。
 出光佐三は当時、出光には①人間尊重をわれわれの金科玉条とせよ。②資本家の搾取がなく、全員が経営者である。③馘首、定年制、労働組合かない。④黄金の奴隷となるな。⑤主義の奴隷となるな。等をその著書の中で唱えている。出光佐三の経営に対する姿勢が私の目指す世界に非常に近い。
 日本の現実に戻って考えてみると雇用の七割を支える中小企業の後継者不足で、深刻な廃業に追い込まれる例も少なくない。二〇二五年には六割以上の中小企業で経営者が七〇歳を越え、後継者が決まっていない企業が一二七万社あると経済産業省は試算している。
●新しい日本的企業
 若手の経営者は具体的な事例で言えば創業して約十年目を迎える「そうじの力」、創業して五年目の「くさむしり隊」が誰も振り向かない業種を切り拓いている。社員を雇用しお客様から心から喜ばれている。「そうじの力」は企業の社員の生き方を変え、企業を変え正に「新しい日本人として仕事に取り組む」企業変化をもたらしている。
 企業は永遠に脱皮を続けなくてはならない。それには働く人達が「親方日の丸」的な働き方をする依存人から「自分の人生の主人公は自分自身である」という自立人の生き方を選択する・決心することがまずはスタートとになる。若手経営者は自社で働く社員にも個人個人の自立を支援し、各自の使命探究を支援している。今年も参加した経営者の大いなる成長変化が期待できると確信できた若々しき息吹に満ちた経営計画熟考が開催できた。

その二・新しい日本人が日本と世界を変える・日下公人ブルー
■事実よりも「主義・主張」を重んずる朝日新聞と毎日新聞
●「世界の記憶(記録遺産)登録制度の改善まで支払いの留保を継続する方針で、菅義偉官房長長官は10月14日の記者会見で「(ユネスコの活動が)正常化されるまで見ながら対応を考えたい」と述べた。この分担金の留保について「朝日新聞」は節度を欠く分担金の保留、「毎日新聞」は品位ある関与が必要とそれぞれ社説で日本政府を批判した。「産経新聞」は政治利用許さぬ改革を迫れ、「読売新聞」は記憶遺産の政治利用を許すなと、日本政府の判断を指示する姿勢を見せ、朝毎二紙とは異なる意見を国民に示した。23
●朝日も毎日もGHQが刷り込んだWGIP「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」を無意識的であれ意識的であれ受け入れたままらしい。政治の現実も選挙のことしか念頭にないから面倒を避けたいし官僚も人事異動が心配で「事なかれ主義」である。26

■国際連合の実体
●新しい日本人は国際社会の現実をしっかり見ようとする人達である。「国際連合」の実体は第二次世界大戦の「連合国」のことで、昭和二十年の創設から、安全保障理事会の常任理事国は米英仏露中の戦勝クラブ中心の「戦後体制=戦勝国の優位」を事実上維持してきた組織である。28
●日本は昭和三十一年十二月国連加盟後、分担金をアメリカについで負担しながらいまだ「旧敵国」の立場におかれている。国連憲章では今日でも「旧敵国」に対して自由に制裁(武力行使)ができる。問題は「第二次大戦の結果としてとる行動」(一〇七条)が曖昧で事実上連合国側の恣意(しい)に委ねられている。こうした現実をマスメディアは伝えない。日本への差別は事実上放置されたままである。28
●「新しい日本人」の出現と、「新しい日本」の時代が始まっているのに、マスメディアも野党政治家も完全に周回遅れとなって旧態依然の非難しかできない。日本敗戦と戦後の国際秩序によって権益を手にしている内外の利得者たちは、それを改めようとする安倍総理をどうしても封じ込めようと画策することになる。33

■「戦後派が災前派」になり「戦前派が災後派」なる
●「新しい日本人」というのは(もともと日本人が持っていた歴史に根ざした現実主義と、庶民の[暗黙知]に覚醒し、それを発揮し始めた人々)のことである。東日本大震災の前と後では、日本人の心、暮らしぶりには変化が起きている。その意識の変化は昭和二十年(一九四五年)の敗戦を境としての「戦前派」と「戦後派」と同じように、三・一一を境として「災前派」と「災後派」に分けられる。34
●自衛隊が東日本大震災でいかに多くの国民を救ったか。「反自衛隊」や「嫌自衛隊」を売りにしてきた政治家の多くが、いまだに自らの不明を恥じるどころか頬被りしてままだが、多くの国民の意識は変わり、自衛隊に対するテレビの報道も明らかに変わった。カメラを切り換え「自衛隊ありがとう」という、被災者の横断幕やテロップとともに自衛隊を写すようになった。35
●平成二十八年四月に起きた熊本震災でも、自衛隊は即座に陸海空部隊を派遣し、約二万人の救援活動を展開してきた。こうした自衛隊の活動に「ありがとう」と率直に頭を垂れるのは「災後派」の人々、すなわち「新しい日本人」である。彼らは空疎な理想主義や正義には走らない。彼らには、日本を「我が国」と思う一体感がある。同胞の絆を大切にし、日本という共同体の価値観を尊び、歴史や伝統文化に対して謙虚である。36
●だからといって愛国主義、軍国主義、国粋主義、保守反動といったレッテル貼りをされるような単純な「戦前派」ではない。潮流として「戦後派が災前派」になり、「戦前派が災後派」になるという逆転現象が起きている。戦前との歴史の連続性に気づき、それを大切にしょうとする人々が、戦後七十年余の「戦後体制」から脱却しょうとする「新しい日本人」なのである。36

■永遠の〇で描かれているマスコミ秀才の盲信
●百田尚樹氏は特攻にこめた思いをこう語った。「けして命を粗末にするなというメッセージです。生き残るために戦いぬくことと、生き延びるために避難することとは全然違います。宮部が二十六年という短い人生で全うしたのは前者です。『自分の人生は誰のためにあるのか』という思い、生と死の間にあって宮部が葛藤した諸々のことから読者が生きる喜びと素晴らしさに気づいて、どんな困難にあっても生きる気概を持ってほしいと願って書きました。」45
●戦後七十年余の「戦後体制」を是とする人々は、この逆説を感じ取れない。特攻隊について非人間的な作戦だと非難し、理不尽さを強調した本は沢山ある。命じたものも行ったものも同じ日本人だととい同胞意識に欠ける。他人事のように、あるいは第三者の犯罪を追及すくかのような視点は、現在のマスコミ人に根深く埋め込まれたものである。45
●登場する大新聞の記者は神風特攻隊を「テロリスト」「ニューヨークの貿易センタービルに突っ込んだ人達と同じ」と言い国家主義に洗脳された狂信者と断言する。「戦前の日本は狂信的な国家」で「国民の多くが軍部に洗脳され、天皇陛下のために死ぬことを何の苦しみとも思わず、むしろ喜びさえ感じてきました。私達ジャーナリストは二度とこの国がそんなことにならないようにするのが使命だ」と誇らしげに語り、戦後はその洗脳が「思想家や、私たちの先輩ジャーナリストたちによって解けたのだ」と胸を張る。46
●これはまさに戦後GHQが日本人に刷り込んだWGIPを盲信する者の見方で、戦後教育に何の疑いもなく育った結果のマスコミ秀才である。朝日新聞だと名指しこそないが、朝日や毎日、NHKの記者のことだと「新しい日本人」にはわかる。46

■海賊と呼ばれた男を泣きながら書いた百田尚樹氏
●出光佐三は従業員、その家族、郷土や共同体、ひいて「我が国」のことを考えた。文字通り「経世済民」を実践しょうと努めた経済人だった。敗戦後重役の一人が社歴の浅い社員に辞めてもらおうと提案すると、佐三は「馬鹿者!店員は家族と同然である。社歴の浅い深いと関係ない。君たちは家が苦しくなったら、幼い家族を切り捨てるのか」と一喝する。佐三は社員を一人も馘首しないという方針を貫いた。50
●社員もそれに応えようと奮闘した。日章丸が日本に発つとき、イランに向かうことを船員たちは知らず出航した。セイロン沖で暗号電文を受信した船長が「本船の目的は英国の海上封鎖を突破してイランから石油を積み出すことだ」と告げると、船員たちはたじろくどころか「日章丸万歳!出光万歳!日本万歳!」と叫ぶ。51
●百田氏はこう語った。この件を書きながら、何度も泣きました。己一個の人生の充実、幸福なんてどうでもいいとはいいませんが、己一個を超えたところと繋がる人生がある。出光佐三、そして彼を支えた男たちの凄さと、今の日本人は繋がっているのだということを知らせたかった。私達の祖父は狂信者ではない、苛酷な時代を懸命に生き、自分以外の誰かに人生を捧げたのだ。52

■戦後の人権観
●旧態依然の日本人には、この感覚はわからない。「公共や国家のために個人が犠牲になってはならない。その必要がない」というのが戦後の人権観、人命尊重である。「個人の尊重こそが唯一無二の価値で、国家に奉仕や献身を求められることがあってはならない。自分以外の誰かのためにと考えるのは、最後に必ず国家と結びつく戦前の危険思想だ」彼らは考え忌避してきた。52
●共産党に限らず戦後日本の左派の多くは、自衛隊を「違憲の組織」と決めつけ、国と国民を守る役割を否定してきたが、こうした流れに乗せられる国民は少なくなってきた。「新しい日本人」は個人の幸福追求は自らが属する国家社会が安定して存在してこそ可能で、人間は一人では生きられないという現実を認識し、そのための義務や責任を果たすことを棚上げできないと気づいている。56

■民意の嘘がばれてきた
●日本の自立性と国力向上に資する政策がマスメディアの一斉攻撃を受け、世論調査で支持率の下落を招くのは何故か。安倍首相が「日本を取り戻す」ための政策に取り組めば取り組むほど、新聞やテレビが伝える支持率が下がり、それが「民意」とされたが、それは正しいか。「民意」はおおむね有権者の意向を指すが、戦前との連続性を断ち切ったまま、いまの「民意」のみを尊重するならば、日本の永続のため何が肝心かという問題意識が薄くなる。60

■世界は新しい秩序を求め始めている
●現実を直視すれば、現在の国際金融資本が主導するグローバル化は、国境を越える多国籍企業を富ませはしても、世界の「国々」の「民」を富ませているとは言えない。人道問題として移民や難民を受け入れることと、それを安価な、使い捨て可能な労働力と考えて移動を自由にせよというのは、全く違う。こうした訴えを排外主義や感情的なナショナリズムと切って捨てるのは誤りである。
●英国のEU離脱は国際金融資本が主導する経済体制への「国民」の反発の現れである。米国の有権者も英国民と同じグローバリズムに反発を強めた結果、「敵はウォール街だ」という劇薬のようなトランプ氏を大統領に選んだ。これは反グルーバリズム、反普遍主義、反エスタブリッシュメント(支配層)というそれぞれの国民意識が反映されたものである。
●世界は新しい秩序を求め始めている。欧米が主導した秩序の行き詰まりを意味している。これからの時代はグローバリズムからローカリズム(localism)の時代に移っていく。言葉を変えれば、エスニック(民族的)エスニシティー(土地、血縁関係、言語の共有、宗教、伝承、社会組織=民族概念への帰属意識)の時代とも言える。173
●これは国際政治の世界では、民族主義や地域共同体の尊重ということになる。それぞれの国の歴史伝統や文化を侵さずに共存していく考え方である。経済のルールに共通性をもたせるにしても、それはお互いの存在基盤を壊さない範囲にとどめるべきで、そうでなければ「国民経済」は成り立たない。173
●この三〇年近くを振り返れば、日本アメリカの望む規制緩和を行い、市場を開放し、金融を自由化し、グルーバリズムを受け入れてきた。それを主導したのか「崇洋媚外」(すうようびがい)の人々だった。政治家や官僚、学者や経済人は国際性の重要性を語ったが、はたしてそこに日本の「国益」はあったか、「国民」の利益はあったかということを改めて問わなければならない。173
●瑞穂の国には瑞穂の国にふさわしい資本主義があるのだろうと思っています。自由な競争と開かれた経済を重視しつつ、ウォール街から世界を席巻した、強欲を原動力とするような資本主義ではなく、道義を重んじ、真の豊かさを知る、瑞穂の国には瑞穂の国にふさわしい市場主義の形であります。市場主義の中で、伝統、文化、地域が重んじられる、瑞穂の国にふさわしい経済のあり方を考えていきたいと思います。(新しい国へより)265


脳力開発123号/理念探究会123号

脳力開発123号
天声人語・朝日の虚偽の積み重ね
 今回は十一月から明らかになった朝日新聞、毎日新聞などの偽証の事実に関して伝えます。「森友・加計事件」(朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪)を読むと朝日新聞が読者をテレビ朝日と組んで誘導していく経緯を実に丁寧に分析しています。朝日新聞が新聞の見出しを嘘八百で塗り固めてでも「安倍疑惑」をかきたてる流れが。反権力を装って。
今回もその嘘がばれたということだ。「反権力」共産党、民進党、社民党、自由党は巧みに籠池氏を操り、国会招致にいたる経緯も喜劇としか言いようがない。事件をでっち上げる朝日のやり方は慰安婦の虚偽のでっち上げと少しも変わっていない。嘘がばれても、反省をしない。こんなメディアが日本をおかしくしている。
来月からは日本の戦後史の中で、時代の流れに迎合しないで立ち向かった人達を辿り、そして戦争に至った過程を、私なりに検証してみたいとおもいます。
■安倍晋三記念小学校の嘘
●自民党の和田政宗参院議員は11月22日、森友学園の小学校設置趣意書のコピーをツイッターで公開した。野党が国会で追及した際にはタイトルの校名部分が黒塗りで、そこには「安倍晋三記念小学院」の名称が記載されていたと言われていたが、和田政宗議員が公開した文書では別の名前「開成小学校」と記載されていた。和田政宗議員はツイッターで以下のように野党を批判している。
●和田政宗「森友の小学校設立に際し設立趣意書に籠池氏が「安倍晋三記念小学校」と記載したと話してきたが、全くの嘘だと判明。この籠池氏の証言を元に民進党福島伸享議員が質問したが、全く嘘の情報を信じ込み、さも本当に書かれているかのように質問した。当時の民進党執行部の責任は問われないだろうか」

■財務省「忖度説」の破綻くっきり
●安倍晋三首相は30日、自身のフェイスブック上に、自民党の和田政宗参院議員が11月25日にFBに投稿した記事をシェア(共有)して掲載した。その書きだしはこうである。「朝日新聞はこのまま開き直るのだろうか」
●学校法人「森友学園」の小学校設置趣意書が、朝日が報じていた「安倍晋三記念小学校」ではなく、「開成小学校」だった問題に関する感想である。安倍首相も同感だったのだろう。
 和田氏はまた、朝日がすでに信頼性が疑われていた籠池泰典前理事長の証言をうのみにし、報道したことについてこう記した。提出した設置趣意書のコピーを籠池氏は持っているはずで、朝日新聞はそれを確認せずに報道した。
●長崎県平戸市長「朝日、購読やめた!」ツイートでフォロワー1千人近く増加 
 朝日新聞の購読をやめた。私はその報道姿勢を非難する立場をツイッターで表明している。これに対して『市長は公平公正であるべき』という声もあるが、誤報を垂れ流す広報媒体を排除することが公的立場にあると信じている」とツイートした。一昨日に朝日新聞の購読をやめたというツイートをしたら、一気にフォロワーが1千人近く増え、返送されたメッセージもほとんどが『賛同!』『支持する!』だった。改めてこんなに嫌われている新聞なのだと実感した。でもなかなか廃刊にならない不思議も残った。
■「天声人語」の罪・国民をミスリードする
田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授)
●朝日新聞は5月9日の記事で「籠池泰典・前理事長は8日夜、取得要望書類として提出した小学校の設立趣意書に、開設予定の校名として『安倍晋三記念小学校』と記載したことを朝日新聞の取材に認めた」と報じた。
●この記事によって籠池氏と安倍首相との「つながり」の濃さを信じてしまうというミスリードに陥った国民も多かっただろう。テレビなどもこの記事に似た報道を連日垂れ流し続けた。
●森友学園問題がこれほど過大な注目を浴びてきた背景には、一部マスコミの「印象報道」ともいうべき流れがあることがはっきりしている。財務省近畿財務局は森友学園が設置する予定だった小学校の設置趣旨書を開示した。そこに記されていた、森友学園が新設を計画していた小学校の名前は「開成小学校」であり、首相や昭恵夫人の名前や関与は一切記載されていなかった。
●これは多くの国民にとっては意外な事実だったろう。なぜならマスコミや野党は、森友学園の籠池泰典前理事長が安倍首相や名誉校長だった首相夫人の「ブランド力」とでもいうものを利用して、さまざまな利益を得ようとしていたという印象を伝えていたからだ。
●特にそのことが関係官僚たちに、首相や首相夫人と「懇意」である籠池氏に利益を供与する「忖度」をさせたという、マスコミや野党の批判の根源にもなっていた。
●実際には籠池氏の小学校には首相や首相夫人とのつながりを明らかに示す資料はなかった。だが、この森友学園問題が政治的に大化けする過程で、マスコミは籠池氏の発言をろくに検証することもなく、そのまま報道し続けた。その中で、あたかも新設小学校が「安倍晋三記念小学校」ではないかという印象を垂れ流した。
■メディアが「罪」をつくり出す風土
●日本銀行の岩田規久男副総裁はかつて『福澤諭吉に学ぶ思考の技術』(2011年、東洋経済新報社)の中で、天声人語はいったい何が議論の本位なのか明示することなく、それを明示したとしても十分に論じることもなく終わってしまう悪い文章であると批判している。
●今回の森友学園問題も、いったい何が具体的な問題なのかわからないまま、「忖度」という議論になりえないものを延々と論じ、一方だけの発言を恣意(しい)的に垂れ流していく朝日の報道姿勢が、そのメーン商品である天声人語にも明瞭だというのが、岩田氏の批判からもわかる。
●岩田氏は多くの日本人の責任の取り方は、福澤(諭吉)の言うように自己責任を原則とする個人主義とはかなり異なっている。自己責任を原則とすれば、裁くべきは法に照らした罪であり、世間が騒ぐ程度に応じて罪が変わるわけではない。
●法によらずに、メディアが「罪」をつくり出す風土にこそ現代日本の病理がある。

■何事も「権力」対「反権力」という構図で捉える文化(朝日新聞がなくなる日)
●朝日新聞として認定した「権力」に対抗する勢力を正義の「反権力」として演出する。朝日新聞にしみついたビジネスモデル・文化です。「安倍一強」という言葉自体が彼等の権力認定です。だから加計学園問題では「権力」は官邸で、「反権力」に認定したのが前川喜平前事務次官という構図です。
●朝日新聞は団塊の世代の文化を引きずっている感じがありますね。今でも団塊の世代は自分たちを「反権力」と気取ってデモに参加するようなこともあるらしいが、三~四〇代の世代から見ると滑稽だ。
文部省の歪んだ誤謬性と面従腹背
●前川氏こそ官僚の誤謬性の象徴で、絶対に官僚は間違わないという意識の体現者で、最も批判されてきた官僚像そのものだ。文科省が間違っているという答えは存在しない。獣医の需給については農水省だと責任転嫁し、一方で大学業界に大学認可権を利用して圧力をかけ、ずっと天下りを強制的に受け入れさせてきたのが前川氏だ。(悦司)

理念探究会123号
台湾の歴史を遡る
 私の尊敬する一番の人は李登輝元総統です。李登輝総統が書いた著書ほとんど読んでいます。日本では今でもお世話になっている島根県益田市にある創業五十二年を迎えた合宿自動車教習所Mランドの小河会長です。同い年の九十四歳。台湾への関心は小河会長が今から七~八年前にMランドの新聞に書かれた八田與一の「烏三頭ダム」の記事が切っ掛けでした。小河会長は李登輝総統にもお会いしています。
台湾の歴史を知る
 二〇一一年東日本大震災のとき、例年この時期ヨーロッパに旅をしていたのですが、この年は近くの台湾に足を運び、烏三頭ダムと二二八記念館を訪ねました。二二八記念館で終戦後一九四七年二月二七日闇たばこ販売の女性を虐待したことを切っ掛けに台湾で起きた台湾人(本省人)に対する弾圧事件です。蒋介石の国民政府軍の陳儀による本省人の虐殺そしてその後の白色テロの事のことを知りました。以来、二二八事件から始まったこの事件に絡まる著書を可能な限り読みました。それに伴って、元日本人で京都大学出身の李登輝総統の関連の著書をほぼ全部読み込みました。今では本棚一杯です。
民主化への足どり
時代の流れの中で本省人でありながら全くの偶然から国民党の副総裁に使命された李登輝が一九八八年一月の蒋経国総統の急死にともない、総統に就任し、後に国民投票で総統に選ばれたのです。国民党総統として外省人中心の政府官僚の体制から、一九四九年戒厳令の引かれた台湾から民主化を長い時間をかけて転換していく李登輝の生き方を辿りました。三十八年間にわたる戒厳令解除は一九八七年です。
終戦後日本から台湾に帰国した当初、李登輝自身も白色テロで狙われた時期もありその後、アメリカで博士号を取った農業経営のことで、蒋経国に呼ばれその後、副総統に就任することになるのですが、ここでは詳しくは触れません。
李登輝の信念
 李登輝の信念は「我是不是我的我」(私は私でない私)であります。李登輝のことに関しては何度か森のフォーチャで記事にしました。ここでは詳細は省きますが、私の大学の先輩に李登輝総統と同い年で彦根高商に進学された李宏道氏がおられます。李登輝と同じく終戦を名古屋で迎えた経歴の人です。二〇一二年には先輩を訪ね御夫婦にお会いしました。奥様は当時の第一高女出身で美しい日本語をお話しできる方です。お会いしたとき李登輝のことも尋ねました。
今回は、李登輝が経験した台湾民主化への歴史を今回の旅で辿ってみたいとおもいます。
台湾総督府訪問
現在総督府は一般公開されており、日本語での解説付きで案内してくださいます。昨年に引き続き朝九時から案内していただきました。あとで名刺交換しお聞きしたのですが、案内をしてくださった陳准松(チン・カイ・ショウ)氏は天皇陛下と同い年です。土木技師で実に日本語は堪能、台湾の日本統治の歴史から始まり、案内のかたわら、ここぞというときに資料を見せてくださりながら歴史を交えてお話を聞かせてくれます。
総督府設計図・最初の部屋で総督府設計図を見ながら日本の建築技術の高さを縷々話してくださいました。東京駅を設計の辰野金吾の弟子長野宇平治が設計した。
児玉源太郎・後藤新平・新渡戸稲造
明治三十一年・一八九八年、第四代台湾総督に就任した児玉源太郎は後藤新平を招聘し「無理に文明国の文化、制度を未開の地に押しつけるのは逆政だ」と言う考えに添って施政をまかせた。後藤新平の統治の様子を細かく説明してくださった。後藤新平は民政長官をつとめ当時アメリカにいた新渡戸稲造を繰り返し説得し招聘。明治三十四年・一九九一年台湾総督府に赴任した新渡戸稲造は視察のあと台湾に製糖業を起こす。台湾製糖、大日本製糖、明治製糖などの企業が生まれる指導をすることになる。
台湾の自然の話から伊勢神宮の遷都の度に切り出される檜の大木の逸話、阿里山から伐採して供出した話、その神木が明治神宮、出雲大社に関する柱の話も折り込んで教えてくださる。台湾一高い玉山(新高山)の逸話も交え爽やかに教えてくださいました。
歴代総統の写真
李登輝は一九九〇年~二〇〇〇年まで総統を務めたあと、二〇〇〇年の総選挙では立候補しなかった。理由は、彼は蒋経国に指名され国民党の副総統だったが蒋経国の急死に伴い総統に就任し、本省人・台湾人である李登輝は総統になってからも直接選挙、民主化を進めることが根本的な目的であった。そのこともあって、次の時代に譲るために立候補をしなかった。終戦以来の国民党の圧政を変えることが目的だった。 
その後民進党の陳水扁二〇〇年~二〇〇八年、馬英九二〇〇八年~二〇一六年、蔡英文二〇一六年~現在と続く。概略を辿れば、国民党との政権交代を果たした陳水扁は民主化を進めると期待できたが、外圧(中共)にも苦しんだ。その上に、期待に反し親戚の関係者の汚職、妻の汚職と立て続けにおき、退任後、総統府機密費流用及び資金洗浄容疑などにより台湾最高検に逮捕された。
馬英九(外省人出身)は国民党総統として政権交代を果たした、これをが、基本的に中共向けの政策を次々と施行し、結果として二〇一四年あまりにも中共寄りの政策を続ける馬政権に対し学生が立法院を占領し、これをひまわり運動と呼ぶ。李登輝はこの運動に対し理解を示し、支援した。その結果二〇一六年五月二〇日の総統選挙で、民進党の蔡英文が選ばれた。
蔡英文は李登輝政権下で各種の委員を勤め、一九九九年李登輝総統が発表した中台関係の二国論(中共と台湾の関係・特殊な国と国の関係)にも深く関わった。二〇〇四年民進党に入党し二〇〇八年に主席に就任した。二〇一二年に私が台湾訪問したとき、馬英九との総統選挙の時だった。国民党による選挙の不正が予想され、カーター大統領を監視委員会として招聘した。この時は落選した。そして二〇一六年の当選を迎えた。そしていま総督府の主となっている。総督府見学のあと児玉源太郎と後藤新平の像が展示されている台湾国立博物館を訪ねた。

二二八記念館
 記念館にもう七回も訪問している。二〇一二年進化経営学院主催の台湾訪問の旅で説明していただいた二二八記念館・ガイドの簫錦文さんは当時八十八歳だった。日本人を正に叱咤激励してくれる方だった。日本人として自信を持ちなさいと丁寧な説明をして下さった。説明者の高齢化にともない昨年から説明もヘッドホンを使うようになった。記念館を訪ねるたびに展示が改善され理解しやすくなっている。関連の書籍も沢山出版され、一九四五年台湾に派遣された国民政府軍の陳儀に代表される大陸からきた外省人の迫害にされされた本省人(台湾人)への圧迫が如何に大きく台湾の民主化の妨げになったかがハッキリと資料化されている。
日本統治の五〇年間は台湾人の文化水準のみならず多大な開発投資を日本よりも優先させて実施し多くの面で日本の内地のレベルに達していた。日本敗戦後、台湾返還にともない大陸からきた知的レベル、文化レベルの遅れていた国民党・外省人は当時の本省人への掠奪、圧政を始めることになる。そのスタートが二二八事件であり、その後の白色テロ、戒厳令の施行である。返還当時の旗は中華民国の国旗が間違ったまま展示されている。

台湾で一番尊敬される日本人・八田與一
 台北から台南に移動した。翌日台湾鉄道とタクシーを使って、烏三頭ダムを訪ねた。六度目。今回八田與一の銅像が損傷された事件で規制され、銅像の傍での写真撮影はできなかったが既に修復されていた。胸像を所有する奇美博物館が修復への協力したようだ。今回は時間に余裕があるのでゆっくりと施設関連の全てを見学した。
今回はダムの管理をしている台湾嘉南農田水利会を訪ねた。丁度日曜日だったのだが、事務をしている女性が小学生のお嬢さんを伴って日曜出勤をしていた。そして親切にDVDを視聴できる設備の整った会議室を開けてくれ、ゆっくりとコーヒーまで出して接待してくださった。その後、ここから見る烏三頭ダムの展望が一番素晴らしいと案内してくれた。親切に感謝して個人的に記念写真を撮り、あわせて帰国後善子のモラの著書を送ると、彼女の持つスマホの翻訳機を使って会話をした。八田與一の記念公園関係の日本語で書かれた本・技師物語を贈呈してくれた。今度訪問するときにはこの会場をお借りしたいと思った。映画KANOで撮影された現場・放水路も訪ねた。この映画も素晴らしいものです。ご希望の方にはお貸しします。
 
昭和天皇植樹百年のガジュマルの樹
台南・成功大学の敷地にある昭和天皇皇太子時代に百年前に植樹されたガジュマルの樹を再訪した。大正十三年に訪問され植樹された。その左右に秩父宮殿下、高松の宮殿下が植樹されたガジュマルがあります。広場は「榕園」と呼ばれ今も学生や市民の憩いの場所として大切に残されています。成功大学の建物は日本時代に台湾歩兵第二連隊として使われた、いまも荘厳な姿を残しています。

門田隆将著「汝、ふたつの故国に殉ず ―台湾で「英雄」となったある日本人の物語―」
二二八事件当時は台南市政府だった場所は、民生公園と呼ばれていたが、一九九八年二月二八日、湯徳章記念公園という名に変わり、湯徳章さんの半身胸像が建てられている。また、二〇一四年三月十三日に台南市は、湯徳章の「命日」に当たるこの日を「正義と勇気の記念日」に制定した。今回工事中で、この胸像も遠くから見ることができた。彼のことはは門田隆将の著書で知った。熊本出身の坂井徳三と台湾出身の湯玉を父母として日本統治下の台南で生まれた。中央大学で法律を学び、最終学歴は小学校卒業でありながら文官高等試験に合格し台南に戻って弁護士事務所を開設した。二つの国籍を持った湯(坂井)徳章の生き方を是非、読んでいただきた。台南を何度も訪ねることになりそうだ。(悦司)


脳力開発122号/理念探究会122号

脳力開発122号・戦後史を振り返る
■二十二回の連載記事の総括
上記のタイトルで二〇一六年一月・脳力開発九九号から始めたのだが、今月号が百二十二号ということで途中一度休んだことがあるから、これで二十二回にわたった掲載になる。
始めるにあたって、私はこう書いた。霞ヶ浦の林の中に居を移して二十余年。理念探究会を中核に据えて、次世代の経営者を養成することを目的として、更に一般社団法人として進化経営学院を設立した。彼らに指導していることは今の時代、「覇道」から「和道」へのパラダイムシフトを目指して理念を根底に置く経営を指導している。「和道」は「異質共存的な安定平和を確立するために、互恵共栄の関係を自身の周りから築き、拡大して全体に及ぼす秩序づくり」のあり方の体得を目指している。
その指導を通じて、戦後の七〇年を体験しているのだが、その歴史をキチンと受講生に伝えることが必要だと考えている。私が生まれてからの歴史が戦後の七〇年に相当する。学校で歴史の授業で日本史を選んだとしても、全ては過去の出来事をもって日本史とされ、江戸時代のことも明治以後の歴史もほとんど知らない。

■思考判断の基準
研究対象の資料を読んで自分の意見を述べるだけでは、客観性を欠く恐れがある。基本的評価の基準を「知的保留」「単次元分極思考を排し多次元連続思考」脳力開発の基本指針「戦略思考」「多角度思考」「両面思考」「確定思考」「具体思考」において読み込んできた。
この二年間で現代史に対して理解が進み、知的保留してきた情報・事実に迫る喜びを覚えた。根底に流れる現代の歴史観の土台に迫ることかできた。そしてテーマに対して毎月ではないが、進化経営学院の受講生と理念に到達した人達を対象にした岡山、茨城の理念実践会で取り上げてきた。彼らは脳力開発の勉強、テキストとして使ってきた「心の自立」「和の実学」等々を学んでいるので、和談も深まり進んだ。

■テーマの設定
既に掲載した研究概念図のように以下のタイトルで二十回にわたって書いてきた。
第一回GHQの占領政策、第二回進歩的文化人達、第三回学生運動と安保、第四回教育三法と日教組、第五回続日教組、第六回日本ペンクラブ・弁護士の偏向、第七回労働運動史、第八回共産党の歴史、第九回社会党の変遷、第十回朝日新聞の罪・慰安婦虚偽報道、第十一回GHQの言論統制、第十二回東京裁判、第十三回東京裁判と清瀬一郎、第十四回東京裁判とマッカーサー、第十五回南京事件、第十六回ポリティカル・コレクトネス(正義の嘘・民意嘘)第十七回事例研究、第十八回メディアの偏り、第十九回戦後最大の虚報、第二十回人間の生き方を再考する(総選挙を振り返る)と続けてきました。

■GHQの占領政策を振り返る
ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(War Guilt Information Program、略称:WGIP)とは、文芸評論家の江藤淳がその存在を主張した、太平洋戦争(大東亜戦争)終結後、連合国軍最高司令官総司令部による日本占領政策の一環として行われた「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」(罪意識扶植計画)である。
●江藤淳は、GHQは太平洋戦争史という宣伝文書を「日本の「軍国主義者」と「国民」とを対立さることによって、実際には日本と連合国、特に日本と米国とのあいだの戦いであった大戦を、現実には存在しなかった「軍国主義者」と「国民」とのあいだの戦いにすり替えようとする底意が秘められている」と分析している。
●WGIPは「何を伝えさせるか」という積極的な政策であり、「何を伝えさせないか」という消極的な政策と表裏一体の関係であり、後者の例はプレスコードが代表的である。
具体的にはまずは以下の言論統制が行われた。この七年近くに及んだ言論統制、私たち日本人にどれたけの影響を与えたかは計り知れない。そのことも順次取り上げて行きたい。

●プレスコード(Press Code for Japan)
太平洋戦争(大東亜戦争)終結後の連合国軍占領下の日本において、連合国軍最高司令官総司令部GHQによって行われた、新聞などの報道機関を統制するために発せられた規則である。これにより検閲が実行された。
GHQが定めた三〇項目の報道規制とはなんであったのか?
以下の三〇項目の報道規制は占領国アメリカの戦略がうかがえる。一九四八年(昭和二十三)年にはGHQの検閲スタッフは370名、日本人嘱託5700名がいた。新聞記事の紙面すべてがチェックされ、新聞記事だけで一日約5000本以上であった。
以下の項目を基準に、規制された。この言論統制が七年近く日本の言論・出版、放送をコトロールし続けた。

1. SCAP(連合国軍最高司令官もしくは総司令部)に対する批判
2. 極東国際軍事裁判批判
3. GHQが日本国憲法を起草したことに対する批判
4. 検閲制度への言及
5. アメリカ合衆国への批判
6. ロシア(ソ連邦)への批判
7. 英国への批判
8. 朝鮮人への批判
9. 中国への批判
10. その他の連合国への批判
11. 連合国一般への批判(国を特定しなくとも)
12. 満州における日本人取り扱いについての批判
13. 連合国の戦前の政策に対する批判
14. 第三次世界大戦への言及
15. 冷戦に関する言及
16. 戦争擁護の宣伝
17. 神国日本の宣伝
18. 軍国主義の宣伝
19. ナショナリズムの宣伝
20. 大東亜共栄圏の宣伝
21. その他の宣伝
22. 戦争犯罪人の正当化および擁護
23. 占領軍兵士と日本女性との交渉
24. 闇市の状況
25. 占領軍軍隊に対する批判
26. 飢餓の誇張
27. 暴力と不穏の行動の煽動
28. 虚偽の報道
29. GHQまたは地方軍政部に対する不適切な言及
30. 解禁されていない報道の公表

■言論統制とプレスコード
以上の言論統制とプレスコード規制如何にGHQが、日本の言論、伝統、思想を規制し、メディアを後々までに生殺与奪の権を握り、GHQ思うがままに操ることになったか、振り返って憤りを覚える。しかし、全ての日本人たちはGHQ迎合して生き残ることに汲々とした。

■GHQの政策に迎合するメディア、知識人社会
●二十二回にわたる探究の中で、日本戦後史への基底になる影響は見事なGHQの占領政策と約七年にわたる言論統制であることがハッキリします。そして連合国が日本では大東亜戦争と呼称した大戦を太平洋戦争と呼称し、昭和二十年十二月八日全国の新聞に一斉に連載し、その後NHK放送を通じ否応なく国民の耳目にたたき込んだ。「太平洋戦争史」を連載し、終了後昭和二十一年四月より高山書院が出した「太平洋戦争史-奉天事件より無条件降伏まで」の影響力が最も大きい。
●この影響は日本の知識人社会に深く浸透することになる。また教職追放や経済界、政界の一斉追放によって、それまでのリーダーに取って代わった表舞台に出た社会主義、共産主義的な考えを持っていた知識人、文化人はその後当然GHQの意向に沿うことになる。教育部門では日教組が中心になり、戦後七十年経ってもいまだその力を失ってはいない。
●一九五〇年四月一五日、日本の左翼的文化人・東大総長南原繁、出隆、末川博、上原専禄、大内兵衛、戒能通孝、丸山真男、清水幾太郎、都留重人らが平和問題懇談会を結成し、雑誌『世界』1950年3月号などで全面講和論の論陣を組んだ。事務所は岩波書店の二階にあった。平和問題懇談会は全面講和(日本共産党、社会党、朝日新聞)に同調した。
●連合国の東京裁判は「連合国の裁判という仮面をかぶった私刑」に他ならない。このことが一九八〇年代から始まる中国、韓国の反日運動に繋がり、慰安婦問題が起こってくることに繋がる。そのお先棒を担いだのが、朝日新聞だった。連合国に対する言論統制への迎合から出発している。
●大学ではマルクス経済学が戦後一世を風靡し、共産党、社会党と一体となって六〇年代七〇年代の安保闘争に結びついていく。その流れが共産主義主義者赤軍派の「よど号事件」やその後の連合赤軍の「浅間山山荘事件」と結びついている。
●政党・連合が抱える矛盾が露呈。それから続いた、野党の様々な離合集散も、二〇一七年の衆議院選挙において旧社会党の流れを引き継いできた民進党(旧民主党)が希望の党、民進党、立憲民主党に分裂した。今なお都心部では知的インテリを自称する無党派層の一部は立憲民主党の投票し、護憲派としてのささやかな自尊心を満足させている。希望の党の実体は当選してしまえば党首選挙で玉木雄一郎を選んだ改憲派(三十九名)と大串氏の代表される反改憲派(十四名)の混成部隊であることが判明した。政治家として恥を知らない輩だ。
●今日まで連合(元々意見が合わなかった民間労組と官公庁の自治労の混成部隊)はそれまで社会党から民進党を支持してきたが、この選挙で労働組合連合の分裂に繋がっている。今回の選挙は、いままで隠してきた政党、労働組合、政治家の矛盾を露呈することになった。●一月一日号より、新たな展開に入りたい。(悦司)

理念探究会122号・天寿への道
ある資料を入手した。天寿への道という資料だ。その資料によるとスタートが還暦だ。還暦は六十歳、次が古希で七十歳、次が喜寿で七十七歳、以下傘寿八十歳、橋寿八十四歳、米寿八十八歳、卒寿九十歳、国寿九十二歳、櫛寿九十四歳、白寿九十九歳、百寿百歳、茶寿百八歳、王寿百十一歳そして天寿百二十歳までの道は遠い。
私は七十四歳、妻は七十二歳を迎えている。同窓会に出かけると亡くなった友人たちの報にしばし接する。今回まだ還暦までにも遠い若い経営者、経営志望者たちから始まってこの十月から十一月までに印象的な人達にお会いした。この天寿への道の資料にであってから、人生終盤の生き方を更に見直してみたいと考え出しています。
●鯖江理念探究会への出発
鯖江MKD(村上経営道場)で塾長の村上昭廣氏(七十三歳)は一昨年から塾生を対象にゆくゆく理念探究者を育てたいと宣言していた。村上氏は六十代で脳梗塞にあわれた。リハビリに専念した。凄まじい努力だった。しかもその後癌の手術もされ、六十八歳で会社を次期社長に譲り、その後はMKD(未来型経営登場・村上経営道場)を開き、鯖江地区の若手経営者やその会社の社員の人達を指導している。
二〇一六年から理念探究の前段として私も年間四回のサポートをしてきた。今年になっていよいよ理念探究を進めてくれと熱意を持って語る。私も二年にわたるサポートの結果数名の候補者に的を絞り打診してもらった。来年から二年がかりで本格的に理念探究を支援することを決めた。初日は参加者七~八名の継続している勉強会、夕方から翌日にかけて三名の理念探究希望者と取りくむことにした。来年二月から始める。何としてでも理念制定にまでたどり着きたい。
写真・勉強会に顔を出した村上氏と孫二十一歳(挿入)
●千年を生きる美(田渕隆三氏個展・グループ展)
田渕隆三氏(七十六歳、来年喜寿)の八王子村内美術館での作品展にお伺いした。今年も日本各地、スイスそして十月初旬にはヒマラヤを訪ねたばかりである。田渕さんはネパール、ルクラ(標高二八六〇米)あたりに馬を年間契約で養っている。何故かというとナムチェバザール(三四〇〇米)を経てエベレストビューホテル(三八八〇米)までは馬に頼る。多い時には年間二度は登られる。もう既に一〇回以上は登られている。またホテルから更に登られ四〇〇〇米以上の高度でも現場で筆をとられる。
私達も一昨年このルートでエベレストビューホテルまで企画したが、残念ながら妻が膝を痛めてマナスル遠望にコースを変更した。しかし、冨士山ですら高度順応が如何に大変かは体験している。妻は三〇〇〇米でも酸欠状態が続く。高度順応は登山をする人にとっては大変難しい。私自身もマナスルの旅で三六〇〇米では非常に体力を消耗した。田渕さんこの高度順応が実にスムースなのだと思う。時に三浦雄一郎氏の息子さん三浦勇太氏と何度か同行されている。
田渕さんはヒマラヤの山々を描き、オランジェリー美術館のモネの蓮の大作のように表現されたいと決心されている。氏の作品を描く理念は、「千年の美を生きる」のテーマに表現されるように、美術の持つみなぎるエネルギーを表現することだ。イデオロギーを越え人の心に訴える美を表現することだ。
その志が毎年のヒマラヤ登山であり、厳寒の高度でヒマラヤに対峙される。私は氏のこの姿勢と現地で描かれた作品をどうしても自宅、研修所で若い人たちに見てもらいたいと決心し、多くの作品を展示している。何が人を駆り立てるのか。田渕さんの毎年の新作に接する旅に、氏の志を確認させられる。

●TEKOサミット天命舎
十月下旬メンバーの方が天命舎にいらしてくれた。私より丁度十歳年上・O部氏・橋寿八十四歳が奥様といらしてくださった。ご夫妻と私達夫婦は馴染みの料理屋・如月亭で会食した。御夫婦には私達が結婚した当時(四十七年前彦根での結婚式)に参加していただいた。奥様も刺繍を長く携わっておられ、妻とは刺繍を教わった先生が同じだったこともあって、話がはずんだ。
翌日K保さん(八十四歳~八十五歳)が柏から参加していただき会食を交えて話し合った。テーマは大手企業の不祥事、特に最近の神戸製鋼の不祥事についての話だった。もう一つは終戦の時に中学生だったお二人への遠慮のない質問から始まった。戦前の価値観を全否定されてた先輩達に、GHQが時代を先導したその後の時代を生き、その後の日本人の価値観に対してどう影響したかをお聞きしたい。今回は十分な時間がなかったが私達が経験することができなかった時代の転換期をどう生きるかの体験をお聞きしたいと思っている。
戦前と戦後の橋渡しの世代の先輩たちの体験をお聞きしたい。来年からのTEKOサミットが楽しみになってきた。ちなみにメンバーである九十一歳のO野氏は、今回運転免許試験のため欠席されれた。

●Mランド小河会長訪問
島根県益田を一年ぶり訪問した。Mランド小河会長にお会いするためです。昨年十一月孫の吉彦常務の結婚式にお招きいただき、おもいもがけなく善子が乾杯の発声を頼まれた式だった。あれから一年。四月にお邪魔しようかとお訪ねしたとき、珍しく体調を崩されていたので、予定を変更したが今回はいたってお元気だった。
近況報告やら最近の私の仕事等を報告し会長を前に、「天寿への道」のお話しをした。会長は今年九十四歳になられている。櫛寿という。天寿は百二十歳というお話しをすると、常務に伝言され、会長室から一冊の本を持ってこられた。本は「健康寿命一二〇歳説」というタイトルだった。著者は船瀬俊介氏。
「健康寿命一二〇歳説」
実は私が、二年前に減量を試みたとき、年齢とともに過去のやり方では予定通り減量が進まないことに気がつき、偶然から善子の友人に貸してもらった「やってみました!一日一食」長寿遺伝子が微笑むファスティングという船瀬氏の本だった。面白半分に読んだのだが、根拠があることが分かり甲田光雄氏の「奇跡が起こる半日断食」にたどり着き、実践している。
巷間言われる三食は食べ過ぎで、病気の原因は過食にある。現実に私も仕事をするときに、朝食はとらない。お腹が満ちていると血液は頭に行かない。その体験を脳力開発研修のセミナを始めたころから続けていたので、意外とスムースに実践できた。お蔭で七~八キロは減量できた。私の体験から数人の友人に勧めたら、みなさん喜ばれている。
偶然の話の繋がりから「健康寿命一二〇歳説」の中で森下博士(八十八歳)の世界中の長寿郷に学んだ事を中心に船瀬俊介さんと対談されている。この本で森下博士は世界中の長寿村を繰り返し訪問され、現地の人達にインタビューされた、滞在された現地体験を報告されている。そして、森下博士は「東京でガンやその他の治療に指導されている方法と世界の長寿村の食事に共通項がある」と言われる。具体的には玄米食だ。
ココロが磨かれる森の中の教習所
Mランドは全国から毎年六千人の人達が運転免許取得に来られる。二週間の合宿研修だ。ゲストの人達は六割の人達が、体験者の勧めでこのMランドに参加される。朝のトイレ掃除から始まるMランドの研修プログラムは、創業五十年の歴史ととも会長たちが築かれたことで、ゲストは滞在中様々な事を体験できる。詳細は省くが本格的なお茶の体験など、この合宿でゲストは大きな精神的変化と成長を体験する。特質すべきは朝の食事は今、玄米食を提供している。そして禁煙が定着している。何故運転免許取得とこれらのことが関係あるかと思われるだろうが、このことは事実である。妻のMOLAの作品を展示している美術館フォンテーヌもある。
この後会長とMランド構内を散歩した。雄大な自然の環境に囲まれたMランドはゲストの心身を落ち着かせる。YOGAの道を歩いた。私達が暮らす天命舎も自然の中にある。そして毎日のウォーキングコースはコンツオルズの道から湖水地方のように霞ヶ浦の湖畔を歩いている。自然の中で暮らす、野菜中心の食を楽しむ。過食をしない。そういう環境で自らの天命に添って生きることが「天寿への道」に繋がるのだろうと認識を新たにした小河会長との一年ぶりの再会でした。(悦司)


脳力開発/理念探究会121号

脳力開発121号・人間の生き方を再考する
今回は城野宏先生の理論と森信三先生のお考えを解説した上で、ここ数回続けているメディアの虚偽、ポリティカル・コレクトネス(政治的に正しい言葉遣いといわれ、政治的・社会的に公正・公平・中立的、差別・偏見が含まれてない言葉、用語)、民意の嘘、正義の嘘、リベラルを装う政治家、文化人、大学教授、裁判官などの人間としての生き方を再考してみたい。
私自身が三十七歳のとき、自分のスランプを解決するために出会ったのが、城野宏先生だった。そして自分の根本的な能力、実力の不足を痛切に自覚した。私の個人的な生活、仕事、諸々の起きてくる問題対応する能力・実力を磨くために、問題に対しての心の姿勢、思考方法の整備、実践力(行動力)の拡大ということに脳力開発の勉強を始めた。
そして自分自身も脳力開発の指導ができるように、インストラクターとしての勉強も始めた。数年経って卒業論文・実践体験を提出した。その後、インストラクターとして認められたとき、私の論文を脳力開発の小冊子に掲載していただいた。城野先生はインストラクター養成講座の卒業論文を以下の六カ条の標準で評価された。その骨子が、以下の標準である。
城野先生と当時の日本コロムビアの社長にも私の仲介で、お会いしていただいた。(城野生成、日本コロムビアの社長はともに出身大学が東京大学であった)そして、会社にも脳力開発の研修教育を人事部に所属していた同期入社の親友と協力して人事部社員研修に導入した。以来この六つの標準に添うように行動してきた。先生はこの六カ条を使って、自分を検査し、他人を検査してみたらよいと勧められる。全部揃っている人は大抵のことをこなしてしまう人物だ、と。
■人を評価する六つの標準
一、 理論がある
  行動の基準となる理論(戦略)を持っているか。基準が明確になっているか。
二、事実がある
  確定的事実。自分が決めたことを確実にやりきる実行力があるか。途中で挫けないか。
三、 意気込みがある
理論(戦略)がありそれを実現しょうという意気込みをあるか。
四、 行動がある
目的を達成するように具体的に行動しているかどうか。
五、成果がある
(Ⅰ)自分が変化したこと。
 理論(戦略)に基づいて行動し、自分はこういう変化をした。
(2)他人を変えた実績がある。
 自分の変化によって他の人の変化をつくりだした。
(3)変えた人を組織化し、継続的な活動にもっていった。
 他の人達を動員し、組織し、目標に向かって継続的に行動をとらせることができた。
六、 今後の具体的展開の政策がある
   今も継続的に、新たな課題を設定し、継続して行動しているか。
   (脳力開発の理論と実践まとめ)
■誠実ということ・森信三(幻の講話・第十二項)
●この誠実という徳は、正直という徳と比べて、どういう点が違うかと考えてみますと、誠実と言う徳のほうが、より多くその人の人間的態度が伺えると申しましたが、誠実な人と言う場合には、その人の「言行一致」と言うことが考えられる。94
●われわれ人間は口で立派なことを言うのはらくですが、実際にそれを行うことはおたがいに容易なことではないのです。そこで、言うことと行うことの間にズレのない人、またズレの少ない人に対して人々はこれを誠実な人として、敬意を払ったり、尊重したりするわけです。95
●誠実ということは自分の言った事を、いかに辛くても、言った通り行うことであります。それどころか、自分のなすべき事柄については、たとえ他人が見ていようがいまいが、終始一貫してなし遂げるということであります。すなわちそこには、前に申したように「言行の一致」ということの他に、さらに持続するということも、ふくまれているわけです。
●そしてこの持続ということは、たとえ人が見ていようがいまいが、その人の行いに、何らの変化もないということでありまして、この点こそ「誠実」の徳が、多くの人々の心を打ち、かつ尊敬せられるゆえんだと思うのであります。96

■総選挙「誠実ということ」・六つの標準から考える
●総選挙を迎えて、前原民進党(旧民主党)は分裂した。一部は「希望の党」(憲法改正を認める)へ合流し、一部は無所属で立候補、一部は「立憲民主党」(基本的に護憲)に分裂した。選挙前に長島昭久の離党が始まり、その後、細野剛志の離党とつづき、その後「希望の党」への合流と繋がった訳だ。  
●元々、民進党(旧民主党)は戦後、社会党結成の時の共産党系・マルクス主義に近い社会党左派と保守的な社会党右派が統合した流れを組んでいた。基本的に根本的な理念が異なるにもかかわらず社会党としての体裁を取ってきた。
●そして民主党は自民党保守ではない非自民をつくろうという流れのなかで、旧日本社会党から合流した者も多く、保守とリベラル(この場合には憲法改正反対=護憲)が併存する矛盾を潜在的に持ていた。

■民進党支持「連合」の流れを振り返る
また民進党を支援している連合も以下のような経過を辿って、左派と右派が併存した。
●戦後も政党別の系列が労働組合に持ち込まれ、戦後の労働組合出発にあたって、共産党系も、社会党系も一緒になって一つにまとめようとしたが統一の話は見事に壊れ、産別会議は共産党系、総同盟は社会党系という形になった。
●その後、総評結成
一九五〇年。二・一ゼネストを体験した人々は労働者が一つにまとまらないで、総同盟だとか産別だとか、共産党だ、産別民主化同盟だとかという問題ではないという流れで、総評結成に繋がって行った。
■再軍備に対する考え方
●共産党も憲法ができるとき、軍備を持たない独立国はおかしいと反対した。当時の日本の労働組合幹部のほとんどは、再軍備賛成が多かった。
●総評はその後、階級闘争を基本的理念とし、資本主義体制の変革を目標に据え、日本社会党支持を運動方針に明記し、反戦平和の運動を進めた。
■総評から連合へ
●総評は一九八七年発足した全日本民間労働組合連合会(連合)に合流するために解散した。
その後、社会党(のちに社民党)を支持していたが、民主党の結成後は軸足を民主党に移す動きが強まり、一九九七 年七月に民主・リベラル労組会議に移行した。
■連合結成についての見解(宇佐美忠信・連合副会長の意見)
●「官」と「民」の労組の統一が早過ぎた。官の場合には、民間との間に体質の違いがある。一九八七年に民間の統一、二年後に官民の連合と言うことになった。統合を急ぐが上に立場が違うまま統合し、これが「障害になっている」。だから「連合として大事なことを決めようと思っても、なかなか決められない。憲法問題、有事法制問題なども簡単に結論か出ない。「ものの言えない連合」になった。
●総選挙では連合左派は立憲民主党を支援した。

■衆議院総選挙の振り返り
●総選挙前に、民進党は分裂し「希望の党」に合流したグループと排除されたことが切っ掛けで「立憲民主党」が結成され選挙後、「希望の党」に参加した人達(民進党・希望の党新人)は「希望→失望→切望」と揶揄されている。そして又しても野党の合流という意見や予想どおり進展しなかった責任を前原代表の所為にして辞任を要求する人達も出ている。
●一方、選挙後野党第一党になった、立憲民主党の枝野代表は選挙後うっかり合流等の話に巻き込まれようものなら、立憲民主党も国民意志を無視することになると当選した人を戒めている。
■小池百合子の功罪・政治家のスタンスを明確にさせた
●小池百合子の「排除された」民進党絡みの人達からは非難轟々だが、政治家としての立ち位置を明快にさせた。職業としての政治家には、収入を確保するために当選しなければならない。しかし政治家を志すのは飯を食べるためなのか?と改めて問い直されることになる。
民進党を解党したのは、前原代表はこのままの民進党では政権奪取できる政党としては存続し得ないと認識し、代表一任を取り付けた上に、小池百合子と話し合いをした。一応内部的には全員合流を目指した。しかし、小池百合子は全員受け入れはしません。そして「排除」しますと宣言した。
●憲法改正の踏み絵・全員合流できると思っていたとしたら、全く虫の良い話で、「庇を貸して母屋を取られる」ような事を小池百合子が承知するはずはない。当たり前のことで、ここで「憲法改正」が踏み絵になった。これは画期的なことだ。あいまいに職業としての政治家を目論んでいる人間には予想外な出来事のようだが、国民には分かりやすくなった。
●虚像の失墜・小池百合子の曖昧さ、口先だけ、実行力のない、カタカナ(英語で煙にを巻く手法)を振り回して具体策を持たない実像がハッキリとあぶり出された。そして都民ファースの党の都議から離脱者が出て、加えて築地関係者からも、東京都庁の職員からも、都民からも「小池百合子はおかしいぞ」と不信を抱かれ、かつてあれほど持ち上げたメディアにまで叩かれはじめ「パリに逃亡」とまで言われる。

■メディアの嘘・政治家の嘘に気づき始めた国民
何回かに分けて、朝日新聞、毎日新聞やテレビ局・テレビ朝日、TBS、一部NHKの情報捜査、偏向報道の事を書いてきた。それは森脇・加友・加計問題の偏向報道はデーターを具体的に示しながら報告した。
●十月八日衆議院選公示前、安倍首相は日本記者クラブ主催の党首討論会でこう呼びかけた。「国民のみなさん、新聞をよくファクト(事実)チェックしていただきたい」と。朝日新聞の記者に、「御社は加計問題の予算審議会での元愛媛県知事の加守利氏の発言を載せていませんね」と、問いかけたら、朝日新聞の記者は二度にわたって「載せています」と言い張った。思わず会場から失笑がでた。
●北朝鮮の挑発や少子高齢化の課題に立ち向かう選挙であるいう視点よりも朝日、毎日は相変わらず「モリ・カケ問題」に引きずり、小池百合子までも選挙戦終盤は「モリ・カケ問題」を選挙演説で絶叫していた。
●朝日新聞と東大(谷口研究所)の共同調査でも改憲賛成姿勢・当選者の八十二%と報道している。時期も「こだわらず」が六十五%と十月二十四日の朝日新聞に当選者の考えを政党別に記載している。今回の選挙結果を丁寧に分析してみれば面白い。

■十月初旬、茨城・西日本理念実践会で森信三先生の幻の講話より「誠実ということ」について和談をした。その時に、丁度話題に上っている民進党幹事長候補だった「山尾志桜里」の「週刊文春」の写真入り記事が話題になった。東大法学部出身、司法試験合格、検事を経験し「保育園落ちた。日本死ね」で一躍脚光を浴びた彼女の政治家としての言行を確認した。離党して臆面もなく立候補した。結婚指輪を外して(?)。彼女が僅差で当選したことには、幻滅した。彼女の選挙区の尾張旭市住んでいた人間としては情けない。
●冒頭にあげた、人を評価する標準、誠意ということに添って、新聞・テレビ、メデイア、政治家などを評価してみるとハッキリと評価が明確になってくる。振り返ってみると「学歴の高さと実行力・人格は反比例する」「口先だけは立派な事を言う」また「きれいごとをいう女性政治家」達の振る舞い(言行不一致)で国民から冷厳な評価を受けた。国民は今回の選挙ではイディア、テレビ、新聞などに心配したほど影響をかけ、振り回されずには冷静な判断をするようになったと多少安堵している。事実は徐々に理解されてくるようだ。(悦司)

理念探究会121号
その一・逆境こそ成熟の機会
N谷石材グループは自立連帯の企業運営を実践している。ここ数年の石材業界・墓石業界の変化は一般の人達でも感じているところだ。例えば墓石販売に関しては、葬儀の仕方が段々多様になり、樹木葬とか散骨と、都会の場合にはお寺もいろいろ工夫している。これは今さら言われる問題ではない。私達十二年前、自立連帯型経営を採用して、企業理念を制定、また販売部門・それぞれの営業所(福井、鳥取、広島、津山、香川)施工等をそれぞれ経営者としての勉強を指導しながら経営的に自立させ自立した企業として経営を続けてきた。
勿論、事業構造の転換への準備も進めながら、それぞれが経営者としての能力を磨き、経営者としての理念探究も進めてきた。窮極は経営担当者の理念制定を目指して進めてきた。しかし、一方で五十年近く進めてきた旧来型の経営の部分も、事業部としては残して転換を目指しながら、決断を仕切れないところもあった。
ここ二年最終的に、事業構造の転換五カ年計画をたて進めている。N谷石材は自立した企業も上記のように六社存在する。しかし、まだ自立まで至っていない岡山営業部、製造部、総務部、施工部などが存在する。一方、新規事業・草むしり事業も大きく進展してきた。そして四月以降複数のプロジェクトも立ち上げスタートしている。
順境にいた人間には変化を恐れる
五十七期始まって、事業転換を具体的に進めるためのプロジェクトがスタートしている。めざましい変化を始めた事業部もある。しかし、いまだ親方日の丸の生ぬるい環境から抜け出す固い決意をしていない部署や社員もいる。まあ、当然といえば当然だろう。自立連帯の渦中にいないで今までどおり過ごしてきた人間が、プロジェクト開始とともに、個人的にも事業としても試練に出会って、いまだ躊躇っている。
 企業理念を制定したからといって、企業がいっぺんに、変化するわけではない。しかし、その間の変化、逆境を体験した人間は、強く鍛えられている。最近の大手の企業の粉飾を思い出してもらいたい。東芝電気、三菱自動車、日産、神戸製鋼所を見れば分かるが、理念のない企業、サラリーマン型経営者の企業は長い間に「茹で蛙」となり、突然滅亡の渕に立たされる。
 変化を始めたN谷石材の部門は最終的には自分の部門を変えなければ、存在する価値がないことを自覚して、自ら積極的に取りくむことだ。何も努力や工夫しない人間が救われることはないと、自覚してもらいたい。正に、逆境こそ人間を鍛え、成熟への機会である。これは国家でも同じことだ。いつもきれいごとを唱える政党が国民を守ることはない。(悦司)

その二・高齢者の集う古民家
山を背にした小さな集落に一軒の古民家がある。その古民家の屋号は「サロン・ハナミズキ」という。いつもウォ―キングの途中に気になっていた。こちらに引っ越してきてから近所を歩いていると、鬱蒼と木の生い茂った古民家があり、高崎医院分院という看板が気になっていた。立派な家なのに住んでいないようだった。ところが最近、鬱蒼とした木々が刈られ、何やら人の気配がする。そしてある時いつも散歩の途中時々寄ってお話しをするY本さんの娘さんと話していると、今、その古民家で月水金とお茶を飲ませてくれる。そしてお年寄りが寄ってお話しをしていると言うことで、丁度その日にお話しを聞いた足の不自由なお母さんをお連れして娘さんが行くと話を聞いたので、私達も寄ってみた。
二人の六十代の女性の決断
 立派な古民家で、六〇代の女性が二人で近所のお年寄りにお茶を提供しているとのことだった。よくやっているものだと思い、失礼を顧みずお話を聞いてみると、高崎家はこの地域の旧家で本家から出た人が、医学の道を選んで、東京で病院を経営している、その方の実家がこの古民家で、ここは高崎医院の玉造分院となっていたそうだ。
ここでお世話している二人の女性は横浜から転居されたY田和子さん陽子さんという義理の姉妹だ。どういうご縁でいらしているのかとお聞きしてみたら、NHKにお勤めだった陽子さんは高崎さんのお誘いにのり義理のお姉さん和子さんをお誘いして移住されたとお聞きした。
高崎家の縁続きの方が(現役時代NHKに勤務された)この古民家管理を引き受けられ、この家を大掃除し、近所の方たちのお年寄りの寄り合いの場として使い始められたと言うわけだ。古民家再生に関心がある進化経営学院の参加者と見学に行った。およそ百年も経つ古民家の構造としっかりとしたつくりに感嘆した。
お話好きな高齢女性
その後私達も通い初めで馴染みになった高齢者の女性たちの年齢はF田さん九十二歳、Y原さん八十六歳、T崎さん八十三歳、Y本さん八十歳、N島さん七十五歳ということだ。勿論他の方たちもいるのだが。お会いする人達と話を交わすうちに、田舎の一見無口なおばあさんたちは予想外によく話をする。
先日、善子の誕生日とお世話する陽子さんの誕生日が十月なので、一緒に誕生会を開いてくれた。その際、私が「後三食、食事をするとしたら何を食べたいですか」とお聞きしてお話しを聞いてみた。
九十二歳のF田さんは、かわいいリボンを頭に結って、フリルの付いた洋服を着て参加されていたのだが、「お芋、沢庵、キュウリ」とハッキリとお話しされた。その他の人達も「お魚、お肉、野菜」とか「お寿司、お肉、野菜」とニコニコ話してくれる。というように、月一~二度ご一緒しながら楽しく過ごしています。
強力な援軍の男性Y中氏
 男の人たちも少数ではあるが参加されている。積極的に応援しているY中さん(男性)は七十歳前後。この方は現役の時はトラックの長距離運転をしていたそうだ。少し聞いた話だが、長距離運転の仲間がいて、日本各地で懇親を温める楽しみがあった。振り返ると食事は高速のドライブインやその他で、謂わば、お腹を満たす偏った食事をしていたそうだ。長距離運転の現役を退いてから玉造の家・実家で暮らし始めたとき、変調を感じて自分で運転して病院を訪ねたそうだ。丁度病院が非番の日に当たり、結果として心筋梗塞の疑いに対して手当ては少し遅くなったそうだ。回復には五年掛かったと教えてくれた。自分の体験があるから近隣の高齢者や多少の障害がある人と積極的にこの「サロン・ハナミズキ」にお誘いしてくれる。個人的には今は自転車に凝っていて、霞ヶ浦の湖岸を走っている。私達とウォーキングの際であっていた近隣の男性も引き込んで、自転車で朝走っている。健康にも一入留意している。
介護の研修に通っている陽子さん
先日誕生会の後で、陽子さんが次回金曜日は研修で休みますということだった。何故かと聞いてみると、研修が何日かあるために金曜日と次の月曜日はおやすみにするという。
私は管理をしている高崎さんと彼女たちの「サロン・ハナミズキ」構想については詳しくは知らない。当初はこの古民家で食事も提供できるようにと構想されたようだったが、食事の提供だと古民家改修に消防法の問題があるということで、現在の形を取ってるが、まだまだ、いろいろな構想をもっていられるようだ。そしていま介護予防士二級の資格をとるための勉強し始められていたようだ。他にもシルバーリハビリ体操指導士三級の資格取得にも挑戦されている。
この地で地元の高齢者の人達を長期的に支援されようとしている構想に、身近だが女性たちのこの後の生き方の片鱗を覗いたような気がした。そして、これから次々と展開される構想に対して私達も応援したいと感じてこの記事を認めている。(悦司)