脳力開発/理念の時代を生きる140号

脳力開発140

その一、情報統合技術研修・未来対応型問題解決

世の中には各種の問題解決手法がある。各自その手法の特長はあるが、IST情報統合技

術は従来の手法とは一線を画している。私の指導は三日間を基本にしている。その手法と基本は分かりやすく言えば、左脳と右脳の両方を駆使して情報の統合を行うところにあるから、従来の理論重視型の思考の限界を越えてる。年末年始に経営者だけを対象に時期の経営計画熟考会を茨城と彦根で開催している。もう二十四~五年開催し、各自が第一局・理念設定から始め第八局経営計画・構想実行計画表まで仕上げる。

五月十七日~十九日まで岡山で五名・社長・部門責任者・営業担当者を対象に開催した。今回は初めての人が二人。一年のブランクがあった受講生が一名、四年継続受講者が二名の会であった。継続することの価値は毎年間違いなく一年間の成長が著しい。思考習慣が身につき自分のものにしている。一年のブランクは思考のブランクが生まれるものの、自分で決心することになる。

初めての参加の一人は、別の会社を退社し新たに企業理念の設定されているNグループの企業に入社される。いまでの会社は利益優先の会社で、理念などはない。こういう会社は時代の変化に翻弄され、長期的には衰退の一途を辿ることになる。縁があって取引先からN社グループ会社を紹介され、この会に参加した。企業理念のある・ないを如実に体験することになる。仕事をするとき、利益を上げることだけが目的である世間の企業は世界的にも益々困難に遭遇するだろう。私たち和道経営を目指す企業は近江商人の信条・家訓三方よし=売り手よし、買い手よし、世間よし、「先義後利」を基本において経営姿勢を貫いている。

もう一人は現在第二十五回理念探究会(茨城)で理念探究の真っ最中である。理念データーの統合には情報統合技術が必要とされる。あわせて一〇〇年先二〇〇年先の理念を描く発想が求められる。企業理念に必要な目的性、永遠性、本望性、英知性、倫理性、指針性、共有性、具体性の八つの要件を視野に四台目社長として理念探究に数歩も踏み込むことが出来た。

「人生二度なし」。参加者は理念に添って生きることを決意した人たちの集まりだ。この人生を会社、社会、周囲に依存して生きる人生は、その人の幸せ生きがいをもたらすことはない。自立して自分の使命・志の生きるために必要なことは、情報統合技術を身につけることだと改めて参加者が感じた会であった。

写真・IAT参加者

その二、中国現代史毛沢東から習近平

AI監視社会・中国の恐怖を年初から取り上げてきた。その関連のなかで、いま米中の貿易交渉や米中衝突の核心企業ファーウェイについての問題もかまびすしい。いずれにしても長期戦になるだろう。今後改めて、中国の現代史を取り上げてみる。そして知っているようで知らない共産党の歴史を振り返り、共産党の正体を分析する。そこから中国の本当の姿が見えてくる。(何回かに分けることになる)

■中国における情報操作の実態

天安門事件は一九八九年六月四日、胡耀邦元党総書記の死を切っ掛けとして、天安門広場に民主化を求めて終結した学生を中心にした一般市民のデモ隊に対して、解放軍が武力で鎮圧した数の死傷者を出した事件である。詳細は皆さんがインターネットでアクセスするだけで、いろいろな視点から実態に迫ることが出来る。しかし、中国ではこの事件に関して全てのアクセスが出来ないようにしている。

中国、ウィキペディア全言語遮断 天安門三〇年を前に

中国の民主化運動が武力弾圧された天安門事件から間もなく三〇年を迎えるのを前に、オンラインの百科事典として知られる「ウィキペディア」へのアクセスが中国で全面的に遮断されたことが五月十七日、分かった。

八十九年の民主化運動の関係者も出国を禁止されるなど、中国国内で当局による監視態勢が一段と厳しくなってきた。 ウィキペディアを運営するウィキメディア財団が同日、明らかにした。ウィキペディアの中国語版は二〇一五年から閲覧できなくなっていたが、英語やフランス語など他の全ての言語で利用できなくなった。

ネット利用者が八億人に上る中国では、民主化運動や少数民族問題などに関する情報が国内に流入するのを防ぐため、当局がネット検閲システムを構築。米ツイッターやフェイスブック、ユーチューブへのアクセスを遮断している。グーグルの検索エンジンも利用不可能だ。天安門事件に関しては、「暴乱」と位置付ける当局の公式見解以外はネットで閲覧できない。【産経新聞・北京=藤本欣也】

金盾(きんじゅん)とは、中華人民共和国において実施されているインターネット情報検閲ブロッキング (インターネット)システムである。全体主義の危険性を訴えたジョージ・オーウェルSF小説『1984年』に登場する監視システム「テレスクリーン」になぞらえられ、「赤いエシュロン」「サイバー万里の長城」「ジンドゥンプロジェクト」などの呼び名も存在する。

中国国内のインターネット利用者に対して、中国政府、特に中国共産党や政治家に不都合な情報にアクセスできないようにフィルタリングする金盾のファイアウォール機能は、”Great Wall” (万里の長城)をもじって Great Firewallグレート・ファイアウォール)と呼ばれている。

公安の情報化を目指す「金盾」もこの一つで、当初は金融分野の情報化が優先されたため、国家公安部が金盾計画を決定したのは1998年9月22日、国務院が計画を批准したのは2001年4月25日であった。システム設計の第一期は1999年から始まっており、予定では2008年の第三期完了で完成することになっていた。

■計画では出入国管理、指紋データバンク、パターン認識音声認識・映像・顔認識システムなど)、電子メールや電話の傍受、身分証明カード、光ファイバー網などを完成させ、国民や在中外国人の監視および情報収集の総合的なシステム構築を目指している。

ワシントン・タイムズ』の報道によると、中国西部にはパラボラアンテナ人工衛星スーパーコンピュータなどを使って、国内の電話ファックス・インターネット回線などの通信を常に傍受している施設があるという。

■中国の顔認証システムについて、森のフォーチャ137号で、長男が顔認証システムというタイトルで138号に書いた。今回取り上げた情報でもわかることだが、明らかにファーウェイに中国共産党が深く関わっていることは自明の事実だと推定できる。私が習近平の立場に立ってみれば、当然の行動ではないか。(悦司)

 

理念の時代を生きる140号

その一・令和元年五月一日開講・理念実践会

元号が変わった。その日が理念実践会にあたる五月一日になる。ということで前日は前夜祭。平成天皇皇后両陛下の一年・~ご譲位を前にされて~のDVDを参加者と一緒に見ました。天皇皇后両陛下の多忙な一年を拝見しました。自分の生活のいい加減さを反省します。加えて両陛下の御所を歩かれ、時に軽くジュギングされる皇后の姿をみて体力を保持されるご努力にも頭が下がります。涙が沸き上がってきました。

翌日は理念実践会の初日。今回は六名が参加。今回からのテキストの一部は百田尚樹の「日本国紀」副読本として、「日本国紀副読本」「もう一度読む日本史」(伊藤隆監修)と「読む年表・日本の歴史」(渡部昇一)を使うことにしている。昨年「明治という国家」(司馬遼太郎)を終了した。

国民も新時代を迎えるという気運もたかまっている。丁度、絶好のタイミングと捉えて日本の百二十六代続く天皇の歴史から学び始める。

 

■徳仁天皇のお言葉

「日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより、ここに皇位を継承しました。この身に負った重責を思うと粛然たる思いがします。

顧みれば上皇陛下には、御即位より三十年以上の長きにわたり、世界の平和と国民の幸せを願われ、いかなる時も国民と苦楽をともにされながら、その強い御心をご自身のお姿でお示しになりつつ、一つ一つのおつとめに真摯に取り組んでこられました。上皇陛下がお示しになった象徴としてのお姿に、心からの敬意と感謝を申し上げます。

ここに、皇位を継承するにあたり、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いをいたし、また、歴代の天皇のなさりようを心に留め、自己の研鑽に励むとともに、常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国および日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い、国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望いたします。」

 

■新元号令和

典拠は今日までの中国古典からの引用でなく、「万葉集」巻、梅花(うめのはな)の歌三十二首の序文である。書き下し文は「時は初春の令月(れいげつ)にして、気淑く(きよく)風和ぎ(かぜやわらぎ)、梅は鏡前の粉を被き(ひらき)蘭は珮後(はいご)の香を薫らす。「和を以て貴しとなす」と日本の国柄にふれ「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」という意味を込めたと安倍首相から説明があった。国民の多くが好感をもって受け取り八割近い人たちが高い関心をしめしている。私も日本人として寿ぐ一人である。

メディア、政党、著名人などの批判があったが、これを記録に留めておくことにする。基本的に安倍政権反対の人たちだ。この程度の反論はいかがなものか。

石破茂元幹事長「違和感がある。『令』の字の意味について国民が納得してもらえるように説明する努力をしなければならない」

又市征治社民党党首「『令』は命令の『令』であり、何となく安倍政権の目指す国民への規律や統制の強化がにじみ出ている感が否めない」

志位和夫共産党委員長「もともと君主が時間も支配するという思想に基づいたものだ。日本国憲法の国民主権の原則に反するものだ」

辻元清美立憲民主党国対委員長「ちょっと安倍晋三首相がしゃしゃり出すぎじゃないか。ぺらぺらとテレビで解釈や自分の思いを言うのは政治家として慎むべきだ」

デーブ・スペクター・タレント「響きはよくない。『平和に従え』みたいに読める。上から目線が安倍政権ぽい感じ」

本郷和人・歴史学者・東大史料編纂所教授「『令和』以外だったらケチのつけようがないくらいいいと思った。後略」

小林節・弁護士、慶応大学名誉教授「安倍政権の新元号はパフォーマンスはやりすぎたと思う。瞬間風速的に支持率が上がったが愚かな話だと思う」

田原総一郎・ジャーナリスト「正直言うと違和感を覚えた。『和』はともかく『令』は命令や指令の『令』だからだ。自由、開放などとは逆の意味合いを感じた。中略、日常生活で元号は必要ない」

小西ひろゆき・参議院議員「令和。安保法制という違憲の法令で平和を破壊した安倍政権が『和』の文字を元号に使った。まさに元号による時代支配を体感せざるを得ない」

毎日新聞社説「保守的な安倍カラーのにじみ出る選考だったろう。結論ありときの印象を残した」

朝日新聞社説「国民生活を最優先したものとは言い難い。この機会に改めて、公的機関の文書に元号と西暦の併記を義務づけることも求めた」(悦司)

 

その二・Mランドを訪ねる・小河会長との心に刻まれた記録

小河会長が逝去されたのが平成三十年十一月二十七日だった。その時私は妻と台湾・烏三頭ダムの旅していた最中だった。その後、会長の葬儀のお知らせと同時に、人事異動が同封されていた。松本社長が会長に小河吉彦常務が社長に就任という知らせだった。

葬儀は平成三十一年一月二十六日Mランド教習所構内、無心山で行われた。その日私たちは仕事で沖縄にいた。会長は九十六歳だった。お世話になった会長へのお参りをしたいと念願していた。

Mランドニュース新年七七一号に吉彦社長が執筆されていた。「故小河二郎会長を偲んで」というタイトルで、会長の意志を深くかみしめて、これからののMランドの方向と決意を認めている。臨終の時に小河吉彦常務(当時)の手を握り何かを語りかける会長との別離が記されていた。

四月二十三日、夕方石見空港に到着した。吉彦新社長が迎えて下さった。小雨の中、代々続く小河家の墓地にご案内していただきました。お参りをしてホット安堵するものが心をよぎりました。

変わらないもの変わっていくもの

 松本会長と小河吉彦社長と会食しました。二〇一七年まで毎年お伺いしてその度に小河会長を中心に役員の方たちと会食の席を設けていただいていました。その席では私と会長の話を中心に、役員の方たちに質問する形での会話の流れでした。そんなこともあって役員の方からお話しをしていただくことは少なかったです。

今回は、私たち夫婦と松本会長と小河社長と四人の会でした。いろいろ忌憚のない話をしました。松本会長に私がお会いしたのはまだ、二十代後半だったのです。そして四十歳のとき取締役本部長に就任されました。四十歳という年齢は小河元会長がMランド・益田ドライビングスクールを創業された年です。以来およそ十年、平成二十七年、社長に就任され、吉彦氏は常務に就任されました。この年に完全に世代交代が成されたのです。

人事の異動と無心山での葬儀

小河会長逝去の後、さほど時間もないのにどうして人事の異動をされたのか?そして葬儀は冬の最中、無心山というMランドを見晴らす場所で執り行われたのか?と失礼を省みずお尋ねしました。

小河会長の骨折入院の時、医者の診断は弱っており最悪は半年ぐらいとの危惧の念を抱かれたようです。最悪のときに備え葬儀の場所はどこにするか。人事の問題も含めていろいろ熟慮されたようです。一般式場での葬儀は当然ですが、小河会長の意志は何か。

永年小河会長に私淑し鍛えられた松本会長は葬儀の場所は「無心山」しかないと決意されていたとのことです。Mランドを見晴らす小河会長お気に入りの場所です。おもいもかけず逝去が早まり、寒風吹きすさぶ恐れのある無心山ではと躊躇されたものの、如何に実行するかと社員一同が大きなテントを設営され、お茶でご接待されました。その日に限って雪が降り益田からの飛行機の欠航にも遭遇したということです。

写真 無心山をバックに2017年

将来の構想

覚悟と準備は小河会長に永年鍛えられていたことなので、私たちが感じるような悲壮感などは微塵もなく取り組まれたようです。人事の異動も万が一の場合には想定していたことだということです。あわせて将来の話もあえて質問しました。小河会長の創業の目的に相応しい、松本会長、小河社長の今後の展開もお聞きしました。

翌日、本社の元会長室を訪ねました。会長室は、松本会長と小河新社長が席を新設し、改めて創業から二代目(松本会長・小河社長)の新たなる決意を感じました。そして部屋にはいる廊下に、葬儀の席に飾った大きな小河会長の写真が掲げられていました。ドアを開けた正面にはやわらぎの一文字。毎朝この部屋にといるときには創業者小河二郎元会長のお顔を拝顔して入室するそうです。

 

心に刻まれた記録

進化経営学院設立と知行合一の額

二〇一〇年七月二十四日一般社団法人進化経営学院を設立した。一九九四年理念を制定し、天命舎くろだワークスを創業し、理念探究と脳力開発を中核として活動を始めてきた。そして個人から公的な性格を加えて、社団法人進化経営学院を設立した。研修室には二〇〇八年会長に揮毫していただいた「知行合一」の額を掲げた。そしてテキストの一つとして二〇一一年小河会長の著書(私の質実経営・共著)から会長のお書きになった部分を小冊子化することをお願いした。

巻頭言にはじめにとして私の想いを認めた。その文を会長の補足で補って頂いた。小冊子化なった小河二郎著「私の質実経営」は以来、幾多の生徒たちと共に学んでいる。振り返るとこの原著は一九九四年四月二十八日に出版されていた。奇しくも私が創業した一九九四年と同じ年だった。

 

 

東日本大震災

東日本大震災が襲った平成二十三年(二〇一一年)三月十一日、茨城県を襲う大地震に天命舎も揺れに揺れた。丁度その日が進化経営学院・次世代型経営者養成塾シニアクラスの卒業式の日だった。地震の後、三月十七日十八日とMランドを訪ねた。要件は、小河会長がMランドの美術館フォンテェーンに善子のモラの作品を展示したいとお正月に電話で要請があり、その美術館のスペースを拝見するスケジュールが組まれていた。

地震が一段落して私たちは訪問予定前日三月十六日、まだ崩壊に手がつけられていなかった交通手段の中で、唯一東京に行けるバスに乗って日本橋までやっと到着した。東京は晴天で、輝くような日射しに、茨城の地との落差を感じた。アァ東京は、地震の被害は何もなかったのかと。その夜泊まる宿は上野界隈しかなかった。夕食をとりに街を歩くと、居酒屋の前で作業着を着た若い人たちも、自分たちの町と東京都は違うんだわと話をしている声が聞こえてきた。

ギャラリー・フォンテーヌMOLA展示

お訪ねすると、地震の後何度かお電話を頂いたことをお聞きしていたが、通じたのは三~四日経っていた。近況報告の後、改装された美術館にむかった。そもそもこの話の発端は、会長からの二〇一一年の一月のお電話で始まった。

MOLAの作品をお気に入りだった会長から、ギャラリー・フォンテーヌに妻の作品を展示したいという話からだった。善子はMランドで自動車免許を取得した卒業生である。

黄金色に装飾したバックに仕上げて下さっていた。このスペースで何を展示するかを想定して十四~五点の作品をきめた。そして作品展示に四月四日~五日と再度訪問した。新装なったギャラリーにMOLAの作品が十四点展示されている。

その後、会長生前の会食の席で、いずれ私たちがこの世を去るときには、茨城県行方市の森のフォーチャ美術館に展示している作品を寄贈したいとお願いした。この決定は後を継がれた松本亨会長、小河吉彦社長たちに委ねることになる

 

烏山頭ダムと八田與一・台湾で活躍した日本人

二〇一一年東日本大震災の後、毎年のヨーロッパの旅を中止し近隣の台湾にすることにした。Mランドニュースで、台湾で尊敬されている台湾に貢献した日本人・八田與一のことを小河会長がされていた。日本の新聞に八田與一記念公園が開かれたというニュースが載っていたのを思い出した。ダムと記念館と新しく開かれた公園も訪れた。

烏山頭ダムにある八田の銅像はダムの完成後の一九三一年(昭和六年)に作られたものであるが、蒋介石時代に日本の残した建築物や顕彰碑の破壊がなされた際には、地元の有志によって隠され、一九八一年、再びダムを見下ろす元の場所に設置された。

八田が顕彰される背景には、業績もさることながら、土木作業員の労働環境を適切なものにするため尽力したこと、危険な現場にも進んで足を踏み入れたこと、事故の慰霊事業では日本人も台湾人も分け隔てなく行った。

日本人として台湾で活躍した多くの人がいること、そして私は台湾の歴史を全く知らないことを恥じた。帰国後彼に関する本から始まり、連日台湾に関する書籍を読んでいる。時に涙を流しながら。台湾に、私たちが習ってこなかった日本人の歴史があると。日本人の誇りと、将来への展望があると感じ、以来何度も台湾を訪ね、烏山頭ダムと八田与一をたずねることになった。

 

李登輝の研究への繋がり

台湾から帰国が台湾の歴史を詳しく遡った。膨大な李登輝の著書は読破した。蒋介石時代の歴史を勉強した。会長は台湾元総統李登輝と同じ年齢だった。二〇一一年の暮れ十二月、再度台湾を訪問する計画を立てた。小河会長に李登輝元総統にお会いできないかと相談した。これは叶わなかったが、私の大学の卒業生で李登輝と同じ年齢で彦根高商に留学されていた先輩李宏道氏を訪ね、お会いした。日本統治時代のことなどをお聞きし知ることになった。以後、哲人李登輝の研究が私の大きなテーマになっている。そして理念企業の快労祭を台湾で開催し、その後進化経営学院の受講生たちとも数度にわたって訪問した。その後も私は毎年訪問している。

Mランド五十周年セレモニー

二〇一三年十月Mランド五十周年の式典に招待いただきました。この年九十歳をお迎えの会長のご挨拶に一言で言えば「運がよかった」という言葉で始められました。創業二十五周年の時には式典を行おうと考えていた。しかし五十周年のセレモニーが行えるとは思っても見なかった。それを思うと、こうして自ら五十周年の式典を迎えることが出来るとは正に「運がよかった」という言葉しかない。

吉彦氏結婚式

 二〇一六年十一月吉彦常務の結婚式が執り行われた。地元を始め沢山の方々が出席されていた。会は二部に分けて行われた。記念講演は「ネクストソサエティを創造する構想企業とは」というタイトルで多摩大学名誉教授の望月照彦先生だった。私たちは五十周年のセレモニーで初めてお会いし、その後鎌倉のご自宅兼研究施設をお訪ねしている。話の骨子は

「差異化とビジネスイノベーションが最大の経営資源」としMランドのこれまでとAI化が進む将来への展望を惜しみなく語ってくださった。媒酌人は松本亨取締役社長だった。

いまから振り返るは、この披露宴はMランドの次の時代の引継式でもあった。この席で来賓挨拶に引き続き、乾杯の音頭を善子にしてもらいたいと依頼があった。私は真意を計りかねた。錚々たる人たちの参加の中で、何故女性でかつこのMランド卒業者である善子にと。仕事の視点から考えれば、沢山の人たちがいる。善子の挨拶指名には驚いた。しかし、雰囲気のある挨拶になった。会長のお気持がありがたかった。


脳力開発/理念の時代を生きる139号

脳力開発139号

和環塾の同志・時田光章氏を小田原に訪ねる

和環塾(三十三年前仲間とMGマネジメンドゲーム・MTマイツールという日本人が創ったパソコンソフト・脳力開発を中心に据えた中小企業の経営者を中心とした勉強会の名称。私は塾頭を務め、後に五十歳で創業した。サラリーマンだったメンバーもその後、独立自営の道を選んだ。)の新年会で四月ごろ小田原を訪ねようという話が持ち上がった。

現在、小田原市の副市長をつとめる時田光章氏のここ数年の活躍を耳にしていた。時田氏は現在六十五歳、和環塾の古くからのメンバーで、三十代半ばに和環塾に加わりその当時、私も市役所勤務の彼の勉強仲間のアドバイスに何度か小田原を訪ねた。和環塾のメンバーで小田原の梅の花を愛でる観梅会を催したり、彼の父上により先進的な経営がされている高齢者介護施設・潤生園を訪ねたりした。潤生園は、入園者の自立を大事にし、かつ提供する食事を研究しており、その質の高さ、工夫を目の当たりにした。見学の後父上の講話をお聞きした。

NHKなどでも何度も取り上げられ、日本でもトップクラスの高齢者福祉施設の経営をされていた。父上は現在九十二歳で、現役の会長。理事長職は長女(時田氏の姉)に譲られている。小田原が二宮尊徳の生誕の地であることも私たちが訪ねる理由だった。

彼は若くから企画部に勤務して、先輩後輩から大いに人望が厚かった。定年退職後、嘱望されて副市長となっており、その後の活躍を目にしたいと思った。

和環塾の有志八名と訪問した。私が訪問していた二十年ほど前とは格段の変化をしていた。小田原駅は、JR東日本、JR東海、小田急、箱根登山、伊豆箱根の鉄道五社による橋上駅舎と駅ビルに変身していた。そして東口の広域交流ゾーンは、十四階建てのビルと江戸時代を彷彿とさせる木造和風造りの建物の建設が進められている。市としては神奈川県の西の玄関口として、既に市民交流センターと立体駐車場を完成させ、地下街も再生した。

さらに、小田原城の馬出門の前に兜をイメージした市民ホールを建設中である。

時田氏曰く「小田原はブレイク寸前の街です」。政財界人の別邸である歴史的建造物の公有化も進めている。小田原文学館や電力王・松永安左エ門の広大な庭と茶室などを丁寧に案内したもらった。

■小田原文化財団・江之浦測候所視察

何故、今どき測候所なのかと不思議に思いながら訪ねた。ここは世界的な芸術家・杉本博司氏が西暦二〇〇〇年から構想し、二〇一七年にグランドオープンした。空間観という著書で知ってはいたが、実は彼が作り上げた壮大なランドアートである。相模湾を一望する一万有余坪のみかん山を切り拓いて創り上げたエリア。

急峻な箱根外輪山を背にして相模湾を望み、類まれなる景観を保持している貴重な自然遺産である。この自然を借景として各建築は庭園と呼応するように配置されている。各施設は、ギャラリー棟、石舞台、工学硝子舞台、茶室、門、待合棟などから構成される。施設は我が国の建築様式、工法、各時代の特長を再現し日本建築史を通観するものである。造園計画の基本は、平安末期に橘俊綱により書かれた「作庭記」の再検証を試みた。使用された石材は古材を基本とし、古墳時代から近世までの考古遺物および古材が使用されている。(解説文より)

時田氏は友人から超有名人と言われて杉本博司氏を紹介され、知り合うことになる。杉本氏は早くからニューヨークに渡り、現代アートの巨匠として名を成していた。専門家ならば畏れ多いと思うかも知れない。しかし、曰く「和環塾」でいろいろ経験していましたから取り立てて緊張することもなく対面し付き合いが始まった。杉本氏が時田氏のことを気に入り、小田原に精通している時田氏とのつきあいが深まった。

杉本氏の構想は壮大であるが故に、とんとん拍子に進んだわけではない。彼は公務員という立場、後には副市長という立場があるから、譬え個人的なつきあいとはいえ、いろいろ気を配ることがあった。公務員はご馳走になることはできないし、名の知れた有名店での食事には杉本氏も関心がない。そんなときには地元の馴染みの大衆酒場で杯を傾け、地の珍しい魚を紹介したという。

江之浦測候所は一万有余坪の土地は巨大だ。最近隣接する蜜柑畑も手にいれたが、植物と人間という農業法人も立ち上げたそうだ。地元との折衝にも個人的に尽力したことが伺える。杉本氏は美術家として紹介するが、様々な活動分野があり、写真、インスタレーション、演劇、建築、造園、執筆、料理と多岐にわたり、彼のアートは「歴史と存在の一過性」をテーマにしているそうだ。その杉本氏との長いつきあいの中で、小田原での開館にたどり着いた。

時田氏に訊いてみた。小田原市はいくらこの杉本氏の江之浦測候所に支援をしたのかと。財政的支援は一円もしていないという。投資額は一体いかほどかと素人なりに考えてみて、凝りに凝った巨大なギャラリーの建造物も全て杉本氏が芸術で得た資金を使っているとのことだ。

言葉で説明することは容易でない。解説文を読まれても理解にあまりある現実がこの箱根外輪山を背に展開されている。その実質的な裏方として今は副市長を務める時田氏が密かに支援してきた事実を前に、小田原の歴史に残る仕事をした同志として誇りに思う小田原訪問であった。この江之浦測候所はこのあとも何度か訪ねたいと思っている。 今回は、時田氏と杉本氏の交流が新しい扉をひらいた小田原市の訪問だった。(悦司)

 

理念の時代を生きる139号

和道経営の実践企業たねや

一月彦根での経営計画熟考会の最中、彦根の知人より「近江商人の哲学『たねや』に学ぶ商いの基本」をプレゼントされ、終了後、彦根にあるお店・美濠の舎を参加者と訪ねた。その後、たねや創業家の十代目を迎える山本昌仁氏の著書を読みながら、言い知れぬ興奮を感じている。近江商人に和道経営を実践してきた企業の発見した想いだ。

早速四月と来月五月にラコリーナ近江八幡の視察を企画した。目的は古くて新しい概念「近江商人」の現代版を志ある若い経営者に紹介したいということだ。事前に参加者には現社長山本昌仁氏の「近江商人の哲学『たねや』に学ぶ商いの基本」と社長には先代社長山本徳次氏の「たねやの心」か「商いはたねやに訊け」を読んでもらうことが前提だった。

私は滋賀大学経済学部(旧彦根高商)出身でありながら、学生時代は「近江商人」に関しては過去のことで時代にはあわないと漠然と感じていた。しかし五十歳から創業し、企業理念、人生理念をアドバイスするようになり、理念の持つ要件を探究しながらこの歳になって初めて「近江商人」の「三方よし」の理念が、私が探究指導していた理念と正に合致することに気がついた。

この「近江商人の哲学」を実践する「たねや」に、今の人たちでもわかる「企業理念の実践」=「近江商人の哲学の実践」の姿を発見できると感じた。今回私たち夫婦を含めて十五名。視察人数の上限だ。感想文の一部をお読みいただきたい。一味違う観点から見ている参加者の視点が希望に満ちている。(悦司)

 

ラコリーナ近江八幡視察研修感想文

■「先義後利の考えでここまでできるのか」・柳井誠一氏(草むしり隊)

「たねや」を全く知らなかった私ですが、売れ筋商品である最中(天平)やクラブハリエのバームクーヘンを見た際は、「あ!以前に頂いたことがあり、あれだったのか」となりました。また、年明けに彦根の熟考会のあと、彦根のお土産を持って帰ると「たねや!」と言って大喜びし包装紙をもって帰る弊社の従業員もいました。

もともと、「三方よし」という言葉の大枠は知ってしましたが行商人からの発想であることは全く知りませんでした。この言葉の意味は知っていても現社長の言うように、これを実際に実行できるかといえば、「自らの利益、会社の利益がなければできるものではない」とまず考えてしまうと思います。

実際、近江八幡ラコリーナ・八日市の杜などを視察した際は、「先義後利の考えでここまでできるのか」、「ここまでできるのは相当利益優先でなければ無理だな」、「しかし、たねやの精神は利益追求だけではない」といったように、どのようなプロセスでここまでたどり着いたのか、そして未だ完成ではないラコリーナの目指すべき道を聞いて、改めて徳次氏の書物を読み、次に昌仁氏の書物を読み「たねや」に代々伝わる考え、近江商人に伝わる考えをたどらないと答えは見つからないと感じました。

ただ、一つだけ自らが現在行っている仕事の中で共通しているというか、自分がそういう考えでやっていることは、「お客様に喜んでいただく」「お客様の困っていることを手助けしてあげる」このことを第一に考え実行し続けていることが、この六年間毎年1.5倍ほどの推移で仕事が増えているということにつながったいるのかと思いました。社会へ還元する、そのためには利益が必要であるといった処まで、たどり着いていないのは自らの課題であるということも再認識しました。

 

■オンリーワンを実現・藤井高大氏(メガネフレーム製造・鯖江) 

初めに大自然の中、建物の外観からまずは圧倒され、建物内に入れば良い香りのエッセンスも加わり店内の空気もワクワクする異空間になっていました。中はオープンキッチンになっていて常にお客様から見られている状態で仕事をするということは、自社、商品、自分、全てにおいて自信がなくては出来ないことだと。我社も近年は顧客の要望により工場見学で社内を案内する回数が増えましたが「見られる」ということは、顧客にとっても社内においても良い刺激となり必要なことだと感じます。

次に女性スタッフに広い敷地と建物内を案内していただき印象に残っていることは、マニュアル通りの説明ではなく彼女の生の声を聴けたということ、その言葉にはこの会社の一員としての誇りと自信を感じましたし、何より商品と上司も含めた仲間たちへの愛情と一体感が伝わってきました。純粋に楽しんで働いていて笑顔が素敵でした。

説明案内を終え店内を見渡すと、正面の壁には掲げられたキラキラ輝く「たねや」の看板に目を奪われ、ここにも自信に満ちた自社の誇りとプライドを感じさせられました。この場所で来場者数年間三〇〇万人のお客様が喜んでお金を払っているのですから計算しただけでも桁外れ、まさに圧巻です。正面玄関の横に掲げてあった額には、「お客様を喜ばせることだけ考えろ、数字は後からついてくる」との文字が書かれていましたが納得の一言でした。

確かに「バームクーヘン」や「もなか」は勿論のこと、何を食べてもどれも美味い。しかし世の中にはもっとおいしい「バームクーヘン」や「もなか」はあるのではないか?いや、きっとあるだろう。しかし、ここに人は集まり、喜んでお金を払い、口に運び笑顔になる。大好きな人にも食べさせてあげたい、また誰かを連れて来たくなり人にも話したくなる。私は口コミ以上の営業ツールはないと思う。これが「たねや」というブランドの力なのだろうか。いや、それだけではないだろう。

柳井さんとの和談の中で彼が言った言葉が印象に残った。「同業者も数多く来店するだろう。でも、突き抜けすぎると誰も真似することはできない。」同感だ。NO1ではなくONLY1。頭で理解することは出来ても、実際に行動に移し、結果で示すことは想像を絶する。「出る杭は打たれる」が「出過ぎた杭は打たれない」との言葉を思い出した。我社も「突き抜ける!」を目指してみたくなった。そう考えると、まだまだおもしろくなりそうだ。

 

■学校を休んで参加した・小路口侑以(中学二年)

私は今回父の強い勧めで学校を休んで参加しました。始業式の次の日ということもあり、学校を休むことにためらいがありましたが、日頃趣味で洋菓子作りをしていることと、ホームページを見て行ってみたいと思ったこともあり、母に相談したところ、ぜひ行ってみなさいといわれて参加することに決めました。

実際にラコリーナという所に行ってみると、人が作業してつくり上げたとは思えないぐらいに広い大自然が広がっていました。菜の花畑、満開の桜、背景の山がとても綺麗で感動して、写真を撮ることに夢中になっていました。ラコリーナ以外にも日牟禮ヴィレッジの近くで橋から見た近江八幡の景色など、季節が変われば違う風景を見られるのかなと思い、また家族で訪れたいと思いました。

私は、趣味で洋菓子作りをしていて、ラコリーナや訪れたお店では見たことのないお菓子のデザインや、アイデアに驚きました。特に焼き立てのバームクーヘンの香りはとても美味しそうで、ツアーの見学をしていた時から早く帰って食べてみたいなと我慢していました。私も一度だけバームクーヘンを作ったことがありますが、なかなかおいしくできあがらなかったのでラコリーナのバームクーヘンをつくった人は、たくさん努力して作り上げたものだなと感じました。

またラコリーナで働いている人たちは、天井に炭を貼りつけて飾りをしたり、小さな川をつくったり、仕事をする場所を自分たちの手でつくっていて楽しそうでした。私は来年農芸高校を受験しようと考えていますが、私も将来働いていて自分が楽しみながら人に喜んでもらえるような仕事がしたいです

 ■老舗に胡坐をかくことなく、常に挑戦 谷口直利(建設業) 

建築家の藤井先生の設計の過程資料の展示は同じ建築に関わる者として大変興味深いものでした。掲示資料の図面も手書きであり施設同様とても温かみがありました。焦ることなく自分の思いをかたちにする為、時間を掛けてきた社長と藤森先生の出会いがあればこその施設だと感じました。

案内の方のお話で、施設の壁塗りや屋根の銅版葺き、種から育てた山の木の苗の植樹など、社員も参加しての施設作りをされたとお聞きしました。手間を掛ければ愛着が沸きます。社員の方たちがとてもこの施設に愛着を感じていることが伝わってきました。このことを参考に、当社の手がける住宅でもお客様自身で参加できる工程を用意して、職人さん達と一緒に自分の家作りに参加してもらえる仕組みを作りたいなと思いました。自分の住む家にもっと愛着を持ってもらえると作り手としても嬉しいです。

次に見学した日牟禮ヴィレッジは、老舗ということに胡坐をかくことなく、常に新しいお菓子を作り出している挑戦の姿勢がすばらしいと思いました。どの商品も価格としては高めの設定だと思いますが、ここにこないと買えないという希少感や、いつ来ても新しいお菓子に出会える楽しみを提供することでお客様に満足を提供しているのだと感じました。

ラ コリーナもそうですが、なるべく地元の食材や人を活用したり、お菓子目当てに来るお客様が付近の店舗や街への賑わいを創出したりと、すばらしい地域貢献をされている会社でした。

『他国へ行商するも全て我事のみと思わず、其の国一切の人を大切にして、私利を貪ること勿れ、神仏のことは常に忘れざるように致すべし』という近江商人の精神に触れることができた良い研修でした。

 

■ワークショップで社員と共に作りあげた職場・水野勝志(建築業)

「自然を愛し、自然に学び、人々が集う繋がりの場」というラコリーナのコンセプト通り、駐車場にも緑をいたる所に盛り込み、無機質なアスファルトや白線ではなく、土色のカラー舗装と芝生でつくられた区画線や御影石の車止めにすることで、広大な駐車場でさえ自然の中に溶け込んでいました。

早く建物を見たい気持ちを抑えて、一度歩いて正面門に戻りました。漆喰で作られた門には、銅屋根から流れた緑青のシミが何とも言えない味わいを出していました。駐車場の門も竹で覆われ、バリケードにも竹を使い、外部の看板も全て木製で、「自然」のコンセプトが細部にまで表現されていました。

駐車場から店舗へと続く歩道は、いたるところから道が出て、湾曲し、メインショップの入口で合流。あたかも区画整理されていない、昔の田んぼの畦道を歩いているかのようで、まだ外の段階なのにとても期待が高まりました。時期的な事もあり草屋根はあいにく見れませんでしたが、逆にここでしか見ることの出来ない屋根の芝替えの様子を見れたのは幸いでした。

メインショップは落ち着いた雰囲気で、照明器具も椅子も机もとてもナチュラルな素材デザインになっていました。「和」のトイレもすごく清潔感があり、和紙で作られたピクトサインもおしゃれでした。その他、木のぬくもりが感じられるカステラショップの栗百本、若い世代が挑戦するために設けられたコンテナハウスのフードガレージ、そして銅屋根に包まれたかのような本社。ラコリーナではどこにいても、どこを向いても自然を感じられる空間でした。

メインショップポーチの土壁塗り、ホールの天井につけられた消音効果用の炭片の取付け、本社銅板屋根の曲げ加工、外部廊下外壁の焼き杉の作成など、ワークショップで社員と共に作りあげた職場で、四季に応じて変化し、なおも加速しながら進化し続けているたねやグループの企業活動に脱帽しました。ここで働きたいと集まった社員一人一人が大きな目標と強い意志を持っているのだと思います。今回の視察で「また来たい」と感じる、おもてなしの心と空間作りを学ぶ事ができました。

 

■広告をうたない「たねや」の非常識・坂本健介(広告デザイナー)

ラコリーナ近江八幡の設えは「とらや」のようにデザインの専門書で紹介されうる洗練されたものではありません。しかし、蟻をシンボルにしたり、屋根に草を植えたり、社員とのワークショップで装飾をするなど、コンセプトの面白さが際立っていました。同時に、見慣れたデザインとは一線を画すものがあると感じました。部材の使い方1つとっても、通常なら手間がかかってやらない施工をしている。

エントランスの天井装飾は社員とのワークショップで作ったと説明がありました。見る人に思わず想像させる面白さやストーリーがありました。この感覚は、バルセロナのカサ・バトリョで見たガウディ建築に近いものがあると感じました。そんな感覚的に訴える要素が盛り込まれた店内で提供される食べ物がとても美味しい。工程を見せながら売るファクトリーショップを基本とし、食べるまでの時間を飽きさせない工夫をしつつ、またお菓子が絶品で印象に残りました。入り口そばにあった、生のいちごをはさんだどら焼きも素晴らしい。アンコは基本嫌いなはずの妻(韓国人・デザイナー)が絶賛して、帰ったあとも「また食べたい」といいます。

社員がイキイキと説明や商品紹介をしてくれました。本当に商品や会社に自信と誇りを持っていることが伝わってきました。事前に読んだ本には、マニュアルを使わないボトムアップ型の教育をやっていると記載されていましたが、それは社員が優秀だからだと想いました。優秀な社員が集まってきて、長く働かないとこうはならない。そのために大義として掲げているのが地方創生でした。

経営面では、近江八幡という発祥の地に本社をおいたまま、きちんと成果を上げているのがすごい。とらやは年商185億円だけど、たねやは200億円。単純な売上規模で比較はできませんが、地方でこれだけの規模の商売を成り立たせるだけでもすごいのに、先進的なことをやって地方創生の一翼を担っているのはとても希望を感じました。

たねやはマーケティングや広告の手法によって売上拡大を図ったとばかり思っていましたが、実際はほとんど広告を打たない。リピーターや口コミ、広告協賛の時もお菓子を配るやり方と、広告でのイメージ戦略をとっていないというから驚きです。何億という売上をもつ菓子メーカーが広告を打たないというのは非常識なことです。 

経営感覚だけでなく、店舗づくりやパッケージの設えまで、社長のこだわりが浸透していると想いました。社長の山本さんは高校時代にデッサンで審美眼の基礎を叩き込んだが故に、良いもの&善いものへの感覚が育まれたのだとおもいました。スティーブ・ジョブズもカリグラフィに傾倒し、そのこだわりをMacintoshに搭載しました。菓子業界のジョブズと呼んでもいいとおもいました。

多くの企業は、先義後利の精神は理解していても実践はなかなかできませんが、若い時に美術・デザインに触れ、経営に活かしたたねやの山本社長は、善いものを素直に見通し、形にする素直さを備えた人だと感じました。


脳力開発/理念の時代を生きる138号

脳力開発138号・国際社会は自国の利益のみを追求する

ヨーロッパの崩壊

今、世界は米国と中国の貿易戦争、米国と北朝鮮の核の廃棄交渉、英国のEUからの離脱、欧州もファーウエェイへの排除、習近平の一帯一路の蹉跌の問題と話題に溢れている。

また、韓国の現政権の日本に対しての反日の問題も著しい。これらの問題についてのメディアの論評は木を見て森を見ずの類が多いが、歴史的、長期的に見る必要がある。一方、国内的には貿易戦争における対中国への輸出の減少が予測されると経済界もかまびすしい。

これらやや政治的な問題をついては、いままで、一線をおいていた。今回改めて、思考方法の原則に戻って考えてみる事する。

フランスのデモの問題

フランスではガソリン値上げの問題に端を発して、つい先日までデモが頻発した。これに対してマクロン政権は妥協して、対話を続けデモ収束の流れにあると思ってたら、休暇先スキー場から急遽返ってこなくてはならなくなった。しかも今回はフランスで一番の繁華街で観光客が最も楽しんでいるカフェやブルガリなどのブランド店が、デモの暴徒によって放火、略奪されたということだ。文化都市と標榜されたパリはもはや暴徒の町。危険で訪れ気も失せてくる。

チリや南米でかつて災害があったとき、一番恐れるのは治安問題だ。そして略奪がおきることだ。数年前、年下の友人で日本電産の関連会社の自動車関係の社長を任されていた友人を訪ねたとき、彼からこういわれた。「黒田さん、町を歩いていて見知らぬ人が近づいて来たら、逃げてください」と。何を言うのか「かつて訪ねたフランスは文化の香りがしたある意味で憧れ町だよ」と答えると、今は違うのです。特に肌の色が違う人は注意してください」と言われた。

そしてとりわけ「女性は働かない、権利ばかり主張して経営者としては、たまったものではない」と。滞在中フランスの駅裏は糞尿はたれ流し、地下鉄の通路は尿の悪臭にへきへきした。とりわけ乗り継ぎの飛行機でチケット交換で並んでいると十二時になった途端、目の前でお客を無視して席をたつ女性に腹が立って、思わず声を荒らげたら男性のスタッフが飛んできて対応してくれた。モネの美術館ジュベルニーを訪ねたときも体験した。

帰国して、ヨーロッパは崩壊するだろうと、論拠はヨーロッパ白人の植民地主義の弊害が長い時間をかけて表面化してきた問題だ。そこに人道主義を掲げ人種差別への対応が重なっている。とこの森のフォーチャに書いたら、かつてイギリスに住んでいた友人から、暴論だとクレームが入った。

いま、フランスのデモを見るに、おそらく暴徒は移民か不法滞在者かであろうと、やや好意的に書いておくが、フランス人も実に愚かだ。権利だけを主張する国民に成り下がった。未だ、デモでもすれば、国は国民に手厚い対当をしてくれるだろうという甘え心、依存心から脱却していない。

むしろより過剰な支援策を暴力によって獲得しょうという乞食根性から抜け出していない。ますます酷くなっている。こんな国に将来がある訳がない。極端なはなし略奪によって成立してフランス革命と自由、平等、博愛という理想主義を目さしてできた制度、民主主義が問い直されている。

この問題の解決には、手厚い対応策ではない。事実を国民も認識し、政府も困難でもこの現実を知らしめことから始めなくてはならない。しかし、これも甘やかされた大衆は拒否するだろう。だからヨーロッパは衰退していくというのが私の予想だ。最初はフランスか?

EUはどこにいくか

ドイツメルケル首相は端的にいうとシリア難民によって足を救われた。何度か書いたが、なぜシリア難民を大量に許可したのか?ドイツのEUにおける優位性は経済的に一番恩恵を被ってきたことによる。

第一次大戦、第二次大戦の後、ヨーロッパは全ての国が疲弊し、戦勝国も結局、アジアの植民地から撤退した。日本の敗戦後、連合国は一つとして国力を豊かにしたき国はない。そして覇権はアメリカに移った。イギリスはインドを始め世界中から撤退した。フランスもオラダもしかり。

その愚から一九九三年フランスとドイツはヨーロッパの国同士の無駄な争いをやめようとしてEC欧州共同体を設立させ、EUに繋がっていく。設立以来二十六年目に入った。ここでEUはイギリスの離脱問題で揉めに揉めている。離脱延期がとり沙汰されているが部外者(私達)からみるとイギリス人も賢明だとは思えない。

一体どうしたいか?根本的にはイギリスに優位に進めたいということが本心だからイギリスが自自国の利益・欲を主張し続ける限りこの問題は長引く。しかし、メイ首相は女性ながらよく問題解決取り組んでいるもだと感心する。

チャーチル首相は「民主主義は、最悪の政治と言える。これまで試みられてきた民主主義以外の全ての政治体制を除けば」といったそうだが、真意は民主主義が最善とはいっていない。今イギリスでもこの民主主義の下で、呻吟している。

民主主義とは何か

手元に「自由と民主主義をもうやめよう」という佐伯啓思氏著書がある。骨子は以下のとおり。アメリカの金融破錠は、自由と民主主義の名の下に個人の飽くなき欲望を肯定し、グローバル化を強引に主導してきたアメリカ的価値の破錠でもあった。それに追随し、経済だけでなく政治、人心のあらゆる局面で崩壊の危機に瀕する日本。もはやアメリカとの決別なくして再生はありえない。今こそ、「私」ではなく「義」を、「覇権」ではなく「和」を是とする日本的価値を、精神の核に据え直すときなのだ。

私は今年になって、米中の問題を取り上げるに際し、ペンス副大統領の宣言をとりあげ、世界は覇道国同士の争いの中にあると書いてきた。歴史的にみて西洋は自国の利益、個人の利益追求を第一とする集団だ。従って民主主義という体制を採用したが、「自国最優先」から抜け出すことは到底できない。とすれば、イギリスも都合よく自国にとって有利に進めることはできない。最終的に、イギリス国民がこの現実を認識して、予想通りいかなくても、妥協せざるを得ない。それが出来るかどうかだが、愚かな論争をまだまだ続けるであろう。

韓国の愚かさ

私の主催する理念実践会に韓国出身の李さんという女性が参加している。ともに学びはじめてあしかけ五年近くなる。聡明な女性だ。彼女は韓国の大学を出て、就職体験を経て筑波大学の大学院に留学した。そして「そ・ら・ら」という茨城空港が立ち上がったとき「道の駅」というより「空の駅」的な地域開発に関わった。大学院では「デザイン」を学び、「そ・ら・ら」に職をえた。広報宣伝企画リーダーとして日本人スタッフを束ねてよくやっていたが、民族的な違い(あるべき論を振り回す韓国的進め方と論争や揉めることを嫌がる日本的なやり方)から、若干軋轢もあったが、上司や私のアドバイスも理解してよく解決してきた。いまでは日本的な柔軟性と韓国的な歯切れのよさを身につけた才女だ。

昨年、私の進化経営学院に長年学んでいるS氏と結婚した。夏には子供さんに恵まれる予定の本当に賢い尊敬すべき女性だ。同期で学ぶ若手経営者も一目も二目もおいている。

日本の歴史も、私が選び使ったテキスト内容もよく理解して、昭和天皇に関しても日本人以上理解している。その彼女がいることもあって、授業の中では韓国問題にはあまり触れないことにしてきた。

先日韓国の就職事情について彼女に聞いてみたが、徹底した受験競争と一流志向(大企業志向)が韓国の若い世代では浸透して、日本企業へ就職なども、中小企業は敬遠するらしい。柔軟性はないらしい。現実をよく認識していないらしい。

韓国の政治

文在寅は、韓国の政治家、弁護士、市民活動家。第19代大統領。北朝鮮からの避難民の息子として生まれる。弁護士として市民運動や人権運動に参加した後、盧武鉉政権で大統領側近として活躍した。(ウィキペディア)

 韓国は一体どうなっているのかと聞いたら、冬季オリンピックの時の、自国のボランティアへの対応に立腹していた。韓国は常軌を逸している。彼女いわく、一度ガラガラポンする手もあるなどと、すこし投げやりだった。

韓国に対して批判本は無数に出版されている。私も数十冊は読んだ。歴史問題から始まって、その数しれず。しかし、日本が韓国に対して、国として政治的な対応をしても、今までの政権は末期になると必ず反日の旗を掲げる。なぜ、韓国に対して脚色、虚偽、約束違反に毅然として対応しないのか?

いい加減な国とは国交断絶、付き合わないほうがいいのではないか?今度の政権は最初から反日であり、国家として取り決めたことまで蒸し返す。しかし、例えばかつて超党派の日韓議員連盟などが一定の役割を果たしてきたが、今では交渉能力はない。韓国進出の企業もあるだろうが、そのことが、日本が韓国に対して強く出れないことに繋がっている。

両方いいことはないというのが、正に当然である。これも今、イギリスがEUから離脱するかしないか、揉めていることと根本は同じ問題である。(韓国に関してはまた改めて記すことにする)

理念の時代を生きる138号

その一・サントリー創業物語・琥珀の夢・小説鳥井信次郎

 伊集院静の小説を久しぶりに楽しみました。新刊では購入しませんでしたが、中古で求めて手元に置いていました。仕事が一段落して上下巻を手にとり一挙に読みました。若い人は御存じないかも知れませんが、サントリーの創業者の物語です。

今から五〇年近く前、大学を卒業してあれこれ迷い、就職するとしたらサントリーに入社したいと思ったときもありました。理由は、小説家開高健がサントリー出身だったことが理由です。単純な理由。サントリーはそれでも広告関係や宣伝に特長がありで「自由な雰囲気」が漂っていました。文化の香りがしていました。

私もひとかどの文学に憧れ、訳のわからない現代詩などに入れ込んでいました。在学中自費出版ですが、二冊の詩集を出したものです。

大学入社当時は、入学祝いで先輩にサントリーレッドをストレートで飲まされ、悪酔いしたことを覚えていますが、「トリスを飲んでハワイへ行こう」と壽屋が昭和三十六年より実施したキャンペーンがあって、山口瞳が担当したキャッチコピーは柳原良平のイラストと共に当時の流行語でした。

松下幸之助との邂逅

読み始めて序章でまだ少年だった「松下幸之助」と鳥井信次郎との出会いが描かれています。幸之助が五代自転車屋の丁稚として当時、ハイカラな自転車ピアス号を修理して寿屋洋酒店に届けるところから始まります。その時の始めての出会いが印象的に描かれています。

その出逢いから七十四年ご昭和五十六年(一九八一年)信次郎没後十九年後、大阪築港のサントリー洋酒プラントの中に信次郎の銅像が完成しその除幕式に、当時殆ど公の席に顔を出すことかなかった八十七歳を迎えた松下幸之助が出席のすることになったのです。

当時のサントリーの社長は佐治敬三でした。そして事前の打ち合わせで幸之助が望んでスピーチをしたいと申し出があったわけです。そして参加者が松下幸之助を見上げる中で遠い昔を懐かしむように語り始めたわけです。和歌山から大阪の船場に出て、ふたつめの店へ丁稚奉公にでていた五代自転車店の話を訥々とするわけです。そして幸之助に「坊、気張るんやで」と励まされた当時を語り、「今日の銅像の見事な出来ばえと、あの空に赤玉ポートワインをかかげた姿は、私が丁稚の時代に見た信次郎さんそのものです」と語るのです。

経営の神様、世界でトップの家電製品の企業を築き上げた松下幸之助が、生涯その恩を忘れず、商いの師はした鳥井信次郎の物語が始まります。

陰徳・森信三先生との縁

私が今回取り上げるには理由があります。実は私が今も「人生二度なし」の碑を進化経営経営学院の玄関に据えてある「森信三」先生との縁です。森信三先生は一八九六年(明治二十九年)に生まれ一九九二年九六歳で亡くなられました。その森先生の人生も必ずしも順風満帆の人生ではありませんでした。森信三先生が広島高等師範学校に進学するときにある篤志家の支援をうけたと聞いたことがあります。その篤志家については森先生に関する勉強をしているうちに、その篤志家はサントリーの創業者鳥井信次郎氏(明治十二年生)ではなかったかと耳にした事がありました。

明治時代には将来ある優秀な学生たちに対して成功した経営者や代々続いた名家が学費の援助をするという篤志家がいたという時代でした。

この本を読みながら、下巻の最期の方に記してありました。信次郎は三十数年間私財を投じて苦学生に奨学金を与えていたと。自分の名前はいっさい出さず専門学校、大学の教授にお願いしていた。二千人以上の学生がその恩恵を受け、多くの学者、研究者を輩出した。後に、世界的にも有名になった化学者が後年お礼に伺うと信次郎は頑なに援助した事を否定したと。

読書中、妻に森信三先生の奨学金は鳥井信次郎が出したに違いないと話していましたが、読了後、あれこれ調べてみると、森信三先生を支援していたのはやはり鳥井信次郎氏でありました。森信三先生の生涯の中にハッキリと記してありました。これも鳥井信次郎の母親が幼少の頃から教え、しつけていた信心と陰徳の忠実なる実践を生涯つづけていたという事です。

企業経営の志=理念

信次郎は近江の人を介して薬種商店への丁稚奉公から始まります。小西儀助商店の主人(彦根で学んだ人)との出逢いが後の信次郎の仕事に対しての取り込み姿勢の原点になります。創業者として経営にたいする姿勢を身につけていきます。その後、壽屋からサントリーに至る長い歴史がいきいきと描かれています。鳥井信次郎もそして後に続く佐治敬三、鳥井信一郎、佐治信忠と続く系譜の中に脈々と引き継がれている創業者の志、使命感、倫理観、仕事観には目を瞠るものがあります。そのことを十分すぎるほど確認できる小説でした。是非、経営者の人には読んでいただきたい。

その二・最期の官選沖縄県知事・島田叡氏

作家門田隆将の東大野球部「百年」の奮戦、「敗れても敗れても」が出版された二〇一八年五月に読んだ。彼とは日本李登輝の会で名刺交換したが爽やかな作家だ。以前から彼の作品は読んでいた。日本の近代史を深くえぐり出し人間の生き方を追求する腹の据わった作家だ。この作品を読んで、最期の沖縄県知事・島田叡氏の事を知った。こういう人があの沖縄の戦いの中に生きていたのかと思った。日本人として人間として正に志・使命に生きた島田叡知事に接し、私もかくありたいと思う。

戦後史と沖縄問題

また、私が戦後史の研究をしている。その一環として昨年は戦後沖縄史を研究し始めている。戦後沖縄返還後の政治の混迷を見るにつけ依存心を払拭できない沖縄の政財界と左翼リベラルの活動、と同時に日本政府の手厚い補助が沖縄の人たちの自立を妨げている現実に行き詰まりを感じている。島田叡知事の生き方を、多くの人に知ってもらいたいと思う。少しでもこの事実を伝えたい。今の沖縄県民にも読んでもらいたい。

摩文仁の丘の島守の碑

一月沖縄を訪ねたとき、念願であった島田叡あきら氏が祀られている摩文仁の丘にある島守の塔を訪ねた。今から七十四年前(昭和二十年)最期の官選沖縄知事として赴任された島田叡氏は信頼する沖縄県賢察部長(現在の県警本部長)の荒井退造氏とともに摩文仁の激戦区で消息を絶った。二人は、数々の苦難を克服して台湾や沖縄北部への沖縄県民の疎開を押し進め、二十万人におよぶ県民の命を救った。

東大以後の略歴

 島田は神戸二中から三校をへて東大法学部に進んだ。そして東京大学野球部に入部したのが大正十一年のことである。東大三年目退部して行政官試験を受ける予定だったが、先生の懇願を受け大正十四年春大学卒業のとき山梨県の属官からスタートすることになる。しかし高文試験を受け、一年遅れて内務省にはいり四十歳の時大阪府の内政部長という要職につく。

昭和十九年サイパン島が玉砕し、大本営が「本土防衛」のために不可欠のラインとしていた絶対国防圏が突破され、これによって日本本土が米空軍の空襲下に置かれたとき大阪府の実質ナンバー・ツーであった内政部長の島田は学童疎開や防火体制の強化、近づく空襲への対策に奔走する毎日を過ごしていた。

沖縄県知事就任の要請

昭和二十年一月十一日の朝、隣家の大阪府知事・池田清に呼び出された。隣家の知事公舎に出向くと池田は背広姿で応接室座っていた。

池田は内務省で十二期も先輩にあたり警視総監も経験していた。そしてこう切り出した。

「島田君、君に本省から知事就任の要請が来ている」当時,知事職は住民の選挙ではなく、内務省人事によって行われる「官選」であった。「はい」と島田は返事した。池田は島田の背筋が伸びたことを確認すると、こうた言葉をつづけた。

「それが、沖縄県なんだよ・・・・。君に沖縄県の知事になって欲しいと言うんだよ」池田は、島田の表情を見ながら、そう告げた。沖縄県・・・。それは他の都道府県とは全く違う意味をもつ名前だ。東シナ海に浮かぶ島々からなる沖縄県には、刻々と米軍の攻撃が迫っていることを、もちろん島田を知っている。

知事として赴任することが、そのまま「死」を意味することを島田は瞬時に悟った。もちろん本省からの要請を伝達する役目を背負った池田知事にも、そのことは十分わかっている。「わかりました。お引き受けします」島田は、何事もなかったような表情で、そう答えた。

驚いたのは、池田である。本省からの要請であったとしても辞退する手もある。少なくとも即答で花苦、家族とじっくり相談したうえで解答すべきだと思っていた。「島田君。ご家族と相談してはどうだろうか一先ず奥さんと話し合ってくれ。君には年老いたご母堂もおられる。それからでも返事は遅くはないではないか」

しかし、島田の返答は予想外のものだった。「知事。私が断れば、誰かが代わりに行くことになります。そればできません。私が行かなければなりません」島田とそう言いきった。

日頃の仕事ぶりから自分に与えられた職務を守り抜く信念と責任感に満ちていた。少なくとも島田が「死」を恐れない男であることに、池田は心を打たれた。

戦後評論家中野好夫氏の夫人へのインタビュー

昭和三十一年発行の文藝春秋別冊「最期の沖縄県知事 人間・島田叡氏の追憶」と題して以下の一文を寄せられている。

私たちは何偽悪いこともしないのに、沖縄にやられるなんて、そんな内務省なら、いっそやめてしまいましょう。とも嘆いたそうだ。いわれない女のグチだなどと思ってはいけない。人間の自然だと私は思う。自然なるが故に美しいとさえ思う。作り上げられた烈婦伝などは真平ごめんだからである。だが、叡さんは答えたそうである。どうしても誰かが行かなければならないとすれば、云われた俺が断る手はないではないか。それを俺が固辞できる自由をいいことに断ったとなれば、俺はもう卑怯者として外も歩けなくなる、とも云ったという。

沖縄大空襲

昭和十九年十月十日沖縄大空襲述べ千四百機による大空襲が敢行された。この波状爆弾は五百四十一トンに昇り、最も被害が大きかった那覇辞では市内の九割が消失し、死者は二百五十五名におよんだ。当時の泉守紀知事は、知事公舎の防空壕に籠もりきりとなり、率先して職員への陣頭指揮にあたる姿はついに見られなかった。空襲の深夜、泉知事は那覇からの県庁の移転を決断している。県の首脳が灰塵に帰した那覇市を捨て疎開するという行為は、県の職員たちにはかり知れない失望をもたらした。泉知事は在任中九度の県外出張を行っている。出張の日数は在任一年半の内の百七十日余におよんだ。

島田叡知事の赴任

昭和二十一年一月末赴任、島田知事は赴任の挨拶の後、最初の命令が「分散している県の行政をもとの庁舎に再統一する」であった。多くの職員が勇気を得た。最も感激したのが、警察部長荒井退造であった。荒井は知事不在のとき県民のための食料確保、疎開の段取りなど山のような仕事に立ち向かっていた。

島田は赴任後、精力的に動いた。制空権を失いつつあった中で、自ら台湾に飛び台湾米を四百五十トンの契約をまとめ県民を台湾へそして北部国領地区へ疎開の具体的な計画を実施している。どんなことをしても「県民の命を守る」という島田の固い信念はおよそ二十万人という数字に現れている。米軍が沖縄本島に上陸する四月一日までのわずか二カ月で島田が行った県政は戦後も語り種となった。

島田知事は「生きろ」と言った

島田は、沖縄県の各市町村をできるかぎり巡回した。住民たばこの増配や酒の増配を願い出て各署長、局長は県のトップ自らの懇請に感激した。禁止されていた農村の村芝居も復活させた。中部地区の貧しい村にも立ち寄り農民と知事が同じ酒を酌み交わすという信じられない奇跡的な出来事が起こった。島田は、四月二十七日、最期の沖縄県市長村会でも、あくまで「住民保護」を最優先するよう最期の命令を出している。首里陥落直前の五月二十四日、知事の指揮下にあった「後方指導挺身隊」に対して「組織を細分化して、あくまでも犠牲を少なくして、それぞれが住民保護に邁進せよ」と命令を出している。

摩文仁に消えた命

島田の最期については、当時毎日新聞那覇支局長で報道班員として唯一、生き残った野村勇三は以下のように証言している。「自分は軍司令官と最期の行動をとりたい」六月のある日、野村は島田からそんな連絡を受けた。摩文仁の司令部へ案内してほしいという頼みだった。島田と牛島満・第三十二軍司令官は、上海時代からのお顔見知りであった。

「沖縄本島を脱出して戦の実相を本土に報告せよ」牛島司令官からその命令を受けた報道班員たちは、六月十九日海上班と陸上班の二班に別れて脱出を図っている。そのなかで生き残ったのは野村一人だった。

脱出する日の昼、野村は島田知事を訪ねた。「しっかり頑張ってください。成功を祈ります」島田は野村の手を握りそう励ました。「知事さんは、これからどうされますか」野村の言葉に「軍と最期をともにします」そういってこう付け加えた。「見苦しい身体を残し卓ありません。遠い海の底へいきますかな」そういって笑った。その言葉どおり、島田と荒井の遺体はついに見つからなかった。自らの身体の「始末」を完全につけて、二人はこの世から去った。

その三・N社59期経営計画発表会

構造大改革の三年目二〇一九年三月のスタート

前期を振り返りながら本稿書くことにする。二〇一八年四月からN社で構造大改革が二期目に移った。製造にも営業にも自立連帯企業への脱皮が始まった。

  • 二〇一七年二年前、事業部の営業部門を統合した岡山N社は、昨年二〇一八年で一変、実に見事な家族的統合と業績を残した。リーダーと全社員、二年かかったが、すばらしい人間のエネルギーを目の当たりにした。どうして彼らか決意し自ら行動を変えたのか?

情況を変えていく原動力は他人や環境にはない。自分自身にしかない。原動力は自分自身だ。このことに気づき行動を変えた。ここまでくれば、未来は拓ける。困難を愉しみなが現実に立ち向かっていける。立ち向かえば仕事は面白くなる。改めて彼らの行動力、実力に驚くとともに、力を引き出したリーダーの熱意、環境づくり、に感心した。

  • 幸福は最初は不幸の形をして現れる」と感想を述べた広島の女性社長は二期連続で黒字の業績をあげ、勢いに乗ってきた。事業継承して大赤字の会社を一~二年で完済できる段階まで回復させた。事業継続か解散かの瀬戸際に追い込まれたとき、十数年経営してきた会社の危機に見舞われた。解散を選択すれは、当然負債は前社長とともに応分に負担しなくてはならない。

彼女は決意し、事業継続を選択した。そして二〇一七年・二〇一八年と二期連続黒字の業績で、完済目処をたてた。こうなると仕事は面白くなる。その彼女の言葉が、前述の言葉。私がこの紙面で二年前に紹介した。この言葉は隠岐の聖者と呼ばれた永海佐一郎博士の言葉である。

隠岐の西郷町に生まれ、漁師の父を海でなくし、母に育てられました。その後、いろいろな縁がかさなり東京工業大学教授、名誉教授などを歴任され、退官後「すべてのことは、母に代えられない」と言う思いから隠岐の故郷に帰郷後も奥様を助手にして化学の研究を続けるかたわら、永海賞の設置、道徳高揚・勉学奨励の講演などを行われ青少年の育成に貢献された。その永海博士が自分の体験を通じて「幸福は最初は不幸の形をして現れる」と言われた。

世の中は,都合のよい環境がいつも与えられるものではない。彼女の発奮も不都合な環境が原点になった。不幸に見えた厳しい環境が幸いした。

  • 新事業(草むしり)を軌道にのせたトップの決意

 九年前たった一人でスタートした事業。社長の思いは高齢化がすすむ時代をにらんで、終身就業事業を企図した。誰もが思いつかない事業の芽だった。三年前には事業構造が整えられた。そして一昨年(七年目)、昨年(八年目)と驚くべき伸展をさせ、今期(九年目)粗利・MQ一億の計画まで到達した。その事業化の過程で、関わる若手の著しい変化成長を目の当たりにした。

  • 生産の日本回帰・中国からの脱皮

石材関係に関して日本が構造的に落ちいっていた中国依存体質からの自立は実は日本への生産体制回帰だと言うことだ。その点に着目して新しい動きをはじめた。しかし、ここ十数年の習慣からの自社生産への切り換えは容易ではない。

社長は生産地として地域貢献を掲げ、衰退していく地域の復興を掲げ、先頭に立って進める決意をした。可能な限り加速していただきたい。ここでも新規事業はひとえに社長の決心とリーダーシップにかかっている。来年報告を楽しみにしている。(悦司)


脳力開発/理念の時代を生きる137号

脳力開発137号世界から沖縄を見る

私が沖縄問題取り上げだしてから一年がたった。一年後、二〇一九年も沖縄に足を運んだ。この一年も沖縄にとっては激動の時代だった。少し一年を振り返りながら再び沖縄の代表される現状を書いてみたい。私は昨年以下の指摘をしてから、沖縄問題には筆を止めている。

沖縄問題番外編・翁長知事逝去にともなう雑感(31日)

 翁長知事が亡くなった。沖縄県南部の糸満市内にある摩文仁丘には黎明の塔や健児の塔など各県の慰霊碑や慰霊塔が建立され、平和祈念公園となっている。6月23日慰霊祭が執り行われた。この時、その会場で翁長さん顔をみた私の友人は、闘病後のやつれた姿に愕然としたと一報してくれた。新聞の写真をみても険悪な顔で、安倍総理を見つめていた。顔の相が悪い。人間の思いは顔に出る。その後、逝去され今、後継者選出でオール野党は多忙の中にある。

■翁長知事の遺言テープ(?)で指名された自由党・玉城氏

その後のニュースによると苦渋の決断で、玉城氏は立候補をするということだ。勿論、野党共闘だ。立憲民主党も支援すると報じていた。辺野古地埋め立て撤回を旗印にしての弔い合戦だという意向が強い。本土復帰(1972年・昭和47年)以来、政府と対立して46年経った。簡明に言うと沖縄は共産党、社民(旧社会党)、日教組、左翼系労働組合、そしていまだ残っている琉球大学の左翼大学教授たちに支配されてきた。換言すれば彼等は実は中国共産党のしたたかな影響を受け続けてきいる。

反米、反政府ということは、反資本主義だった中国、ソ連の共産主義の夢であった。その中国がソ連と対立したとき、中国はソ連に対して反社会主義だといって非難した。その後ソ連、共産主義の東欧諸国の崩壊を迎えた。

オール沖縄の中心は実は共産党である

共産党は護憲派を装っている。改憲派の代表を自民党とすれば護憲派の代表はミニ政党に落ちぶれた社民党である。旧五五体制の当時の二大政党であったが今や対立政党とみずから言うのもおこがましい。にもかかわらず世の中には護憲派と称して大きな顔をしている社民党の連中が多い。その中身は、大学教員・弁護士・組合活動家・ジャーナリスト等などインテリが多い。こういう連中を動かしているのは共産党である。(マスコミ偽善者列伝・加地伸行著)

オール沖縄・護憲派の真意

 共産党こそ現日本国憲法を否定し、改憲を目指している。改憲(現行憲法反対)を堂々と唱えた過去がある。その最大の理由は「天皇を否定、皇室を否定する」ことが、共産党の使命だからである。しかし、日本において天皇、皇室の廃止などおぼつかない。だからオール沖縄などと偽って、内実は中国、韓国、北朝鮮に媚をうり、沖縄から米軍を撤退させることが使命になっている。辺野古移設反対の真意はここにある。社民党やその同調者の真意はここにある。

●今までもこの古い過去の構図が続くであろうか?沖縄県民にも確かに問題はある。しかし、次第に学習してきた県民は、おそらく玉城氏を選ばないであろうと私はこの時点では予測している。(2018年8月30日)

知事選挙後の沖縄

 私が書いたようには沖縄知事選挙は進まなかった。というよりも全く逆の結果になった。若い人たちが玉城氏に投票したと言われる。その後の玉城知事は翁長さんの弔い合戦のストーリーどおり展開た。また、二月二十四日には辺野古移転県民投票をすることに決定している。これにもいろいろ予想はあるが、オール沖縄は失敗する可能性を微塵も考えずに実施されるだろう。

さて、一年ぶりに沖縄を訪ねタクシーで市内への行き帰り、翁長さんが立てた三億円と言われる「龍柱」を見ながら運転手の人と話して、いかがです龍柱の効果は?と聞いてみたが鼻の先で笑い、全くの評価をしていない。そして福州園に話を振ると、久米村にある福州園は那覇市市制七〇周年福州との友好都市締結一〇周年の記念として一九九二年に開園した中国式庭園で、設計から施工まで福州市の職人により、福州市の資材を使用して建設された。お金はすべて沖縄が負担したと。

琉球と中国との関係は歴史的に遡り調べてきたが、今でも沖縄では歴代の知事は明の時代、亡命してきた久米三十六姓の末裔であることを誇りに思っているようだ。

●中国の長期的かつ緻密、周到なプロパガンダ

話が飛躍するようだが、中国のプロパガンダについては米国トランプ政権が共和党民主党の党派を越えて中国に対して覇権競争に全力をあげて対抗を強化している。覇権国は前回のペンス副大統領の対中政策は、メディアやテレビのコメンテーターがいろいろ話していることは全く、木を見て森を見ずの類、部分の話だ。

フアーウエィに関するカナダでの副会長逮捕なども、覇権国アメリカが周到に準備した戦術の一環だ。ペンス副大統領の全文A4で13ページを年初の経営計画熟考会で取り上げて和談した。その中にペンス副大統領はアメリカの中国に対しての要求事項を詳細に表明している。

●中国プロパガンダの米国での実態

中国共産党は米国企業(中国に進出している合弁会社)、映画会社(ハリウッド映画)、大学(米国内九〇余に及ぶ孔子学院・日本でも立命館、早稲田、桜美林二〇余、世界で四〇〇)シンクタンク、学者、ジャーナリスト、地方、州、連邦当局者に見返りの報酬を与え、支配している。

中間選挙にも介入し、中国は米国の州や地方政府、政府関係者を標的にして連邦政府と地方政府の間のあらゆるレベルの政策を利用しょうとしている。より多くの学者が学問の自由を守り、より多くの大学やシンクタンクが「全ての金には要求が伴うことを認識し、楽に手に入る中国の金を拒絶する勇気を奮い起こしてもらいたい」と進言している。また、中国は米地元紙への有害PR記事の掲載をしている。日本では、年間六〇〇万部の中国宣伝記事を毎日新聞の体裁をとってプロバガンダ記事を配っている。(出典・英国ガーディアン)

覇権国中国の監視社会の恐怖

ペンス副大統領の演説の中に中国の監視社会(ジョージ・オウエル方式)という事例を挙げている。政府が真実を隠し大衆を「ウソ」で支配するSF小説が現実になっている。私も読んだ。小説と友人がもってきてくれた漫画でも読んだ。このSF小説が現実味を帯びてくる。小説を読みながら、国民監視システムがほぼ完成しているという宮崎正弘氏の情報も一層真実味を帯びてくる。二〇一八年顔認証カメラ五七〇〇万台出荷のうち60%が中国であるという数字も、AI技術でも突出した技術力と監視社会を暗示させる。

沖縄は中国の影響が更に強まっている

 話を最初に戻すと、沖縄のみならず日本全体が中国のプロパガンダに犯されているという視点が浮かび上がってくる。覇権国(中国・米国)はあらゆる権謀術数を駆使して、界に向かって覇道の目的である「一生他滅」「自盛他衰」のために様々な手を使ってくる。一帯一路についても同じことが言えている。

日本人は覇権国から見れば単純でややもすれば純粋な、騙されやすい民族だとも言える。島国に囲まれて、異民族の苛酷な闘争に巻きこれまたことの少ない民族であるが故に、かつての連合国の東京裁判やGHQの戦後の押しつけに対しても、また最近の中国、韓国の傍若無人な振る舞いにも大した反応もしないと見られて、嘗められているという。次回、この視点から考えてみたい。

理念の時代を生きる137号

石村嘉成氏版画作品展・高梁市美術博物館

 郷里津山に帰る途中、同行する友人にお願いして高梁市に寄ってもらった。備中松山城で名の知れた高梁市で、石村嘉成さんの作品展が開催されていることを教えてもらっていた。紹介者はリブドウ・コーポレーションに勤務されていた石川徳広さんです。彼が薦めて創業五〇周年記念の社内リーフレットの表紙として石村さんの作品が使われた。

自立と制作

石村さんは一九九四年新居浜市に生まれた。二歳のとき検診で自閉症による発達障害と診断された。お母さんは大きくなっても人のお世話になって生き行かなくてはならない息子に「療育」(特性による生きにくさを改善し、社会的自立や制約のない生活ができるよう、医療や専門器官と連携して、必要トレーニングを施していくこというに精根を込められた。そのお母さんを十一歳のときを亡くしました

彼の作品の中で生き物が描かれている親子、母と子の作品がおおい。作品を見ていただければわかるように、生きる力に溢れている。色使い、原色を見事に使われた作品はエネルギーが溢れている。言葉では到底表現もできない。今、彼の作品はいろいろな人たちとの「コラボ」が生まれ、日本はもとより世界でも評価されている。是非機会をつくって見ていただきたい。

寺澤 繁氏・享年六十歳二〇一九年一月

■出逢いから今日まで

一九九一年私が北海道浦河を訪ね始めたのが一九九一年七~八月のころからだ。今では理念探究の同志「小山直氏」が生まれた地だ。そのころMG/MT/脳力開発を通じて企業改革に夢中だったの夏、妻善子と旭川に住んでいた藤野さん(当時七十歳)、北見に住んでいたKさんと四人で、一週間ほどかけて札幌から、赤平、愛別、旭川、北見、根室、鹿追、帯広、浦河を車で巡った。その間、四~五回地域の勉強会で講話と懇親会をしていた。その最後の地が浦河だった。

●べてるの家

浦河で精神障害者施設「べてるの家」を紹介してもらった。この地に住む小山直・祥子夫婦の熱心な支援活動で翌年、「べてるの家の本」が出版され私も縁あって寄稿した。以来、毎年近く浦河まで足を伸ばすようになった。べてるの家のメンバーほぼ全員が、天命舎に寄ってくれたこともあった。浦河に寄ると彼らを会い、食事をしばしばともにした。

寺澤さんはそのべてるの家経営する有限会社福祉ショップべてるで仕事をしていた。大工さんだった。会社にはグループホームで生活するメンバーは勿論、精神障害者やアルコール依存症の人達も働いていた。いつのころかは忘れたが、小山さんの経営する「マルセイ」でも並行し仕事をするようになった。

あれから二十七

振り返ればあれから、二十七年もたった。北海道は私には学生時代からの憧れの地であったこともあり、何度も北海道を訪ねることになる。第一に私の子供のころからの友人が北大の獣医学部に進学したことと、山岳部のリーダーだったことが最初の切っ掛けだが。その後定期的な帯広での脳力開発、そして理念探究会の開催と続いていった。

その浦河を訪れる度に、二~三日寺澤さんのアパートに泊めてもらうようになった。訪ねる時に夕食をともにし、遅い時間に彼のアパートで私は彼が用意してくれてお酒をちびちびのみながら、あれこれ話をしたものだ。彼が勿論「アルコール依存症」から脱出し、毎日アルコール研究会で依存症だった仲間たちとの集いに参加してアドバイスしていることは聞いていた。

自立が共通のテーマ

彼の実体験は人間の弱さと強さを物語る。そして彼の北海道はもとより時に日本各地のAA研究会に参加し続ける。「人間の自立」が私のテーマであったが、彼のテーマも「自立」依存症からの脱出だった。深く共感した。二人で過ごす時間は心の休まる時であった。夜毎に聞いた寺澤さん体験を、養成塾で勉強している若き経営者に聞いて貰いたいと思った。その後、アルコール依存症からの回復の実体験、各地でのAA研究会メンバーの自立への体験を茨城で語ってもらった。私の尊敬する実践した生の寺澤さんの生き方を。

その一・講演・アルコール依存症からの回復

プロローグ

 二〇〇七北海道浦河に住んでいる寺澤さんが、べてるの家のグループ有限会社福祉ショップべてるを退職して独立するという話を聞いた。会社から独立し、青天井になったのなら、是非天命舎を再訪して頂き、お話をゆっくりお聞きしたいと思った。

 一九九九年一度来て頂いたことがある。当時、寺澤さんのお話を「理念探究会」参加者に聞いてもらいたいと思ったからだ。講話の合間に、リビングのカウンターの下に、皿を仕舞う棚の扉を造って貰った。今も完成のサインがある。

今回は、次世代型経営者養成塾に参加しているジュニア、シニアのメンバーと理念探究会に参加しているメンバーに寺澤さんの体験談をお話して貰いたいと考え、一週間にわたる天命舎での長逗留になる。講話は三回。その間、関東各地のAA研究会に出かけなど自由にして頂ければと。

理念探究の旅

理念探究は自分の天命、使命を探究する旅でもある。ある人は、まさに身に降りかかる不幸や思いがけない生死に関わる出来事で瞬間的に、自分の天命を自覚する場合もある。またある人は、長年心の中に鬱々とうごめく何かに気づき、そして長い間掛かり、天命の周辺にまでたどり着くこともある。またある人は、様々な一人一人の人生経験を通じて宇宙の存在を意識し、そしてかなうものなら天命を探究したいという場合もある。

寺澤さんのアルコール依存症からの回復の過程は理念探究の過程に似ていると感じた。本質は「自分の内面と究極の対面をつづけることできるか」「自分の使命探究の自己との対話の深みを納得できるまで探究できるか」と言える。「何のための人生か」「何のための企業でありたいか」という問いかけをし、納得できる理念まで時間がかかろうが、これ以上はないと行き着くところまで探究しつづけることができるかどうかに掛かっている。

断酒の苦労

 アルコール依存症からの回復は、断酒のために様々な工夫も苦労もする。しかし、たとえ一〇年間断酒していても、もう大丈夫だとおもい、たった一杯のアルコールを飲んだ途端にまた元のアルコール依存症になってしまう。寺澤さんは三十六才に依存症から回復され以来今日まで(二〇年余)、仕事の後にほとんど毎日全国のアルコール依存症の人達とのミーティングに参加され、メンバーとともに自分の過去、現在を正直に語りつづける。そしてメンバーの人達の話しに耳を傾ける。

今度の滞在中も、私達にお話をして頂く度以外は全て東京を起点として各地に足を伸ばされた。仙台、立川、大宮、関東圏の様々な場所に、十数回のミーテイッグを重ねられた。

●人間の弱さと向きあう

 彼の話を聞くと、健常者といわれる私達がいかに甘い人間であるかを思い知らされる。多くの人間は自分を「依存人格」のままにしておいて生きている。都合の悪いときは全て他人や周りの所為にする。そして自分を常に正当化する。こういう表現はやや傲慢に聞こえるかもしれないが、寺澤さんはその人間のもつ真実を語る。しかし不思議とそれが、淡々とした身近な語り口のなかから、聞く人に自分の生活を省察させる。

自分はこうして仕事し暮らしているが本当に自分の天命と向き合おうとしているのだろうか。何故こんな弱い自分に言い訳をしつつ、上辺を取り繕い生きているのだろうか。表面からはみんなと同じように生きていて、人から見えない心の内部は「ためらい」や「「後ろめたさ」を感じながら生きているのだろうか。

経済中心・お金儲け中心で生きる普通の人々

 家族を守るためにお金は必要だと自分に言い聞かせて、「お金儲けは悪いことなのでしょうか」と人に問いかける。何のためにお金が必要なのか。そしてそのお金を何のために使うのかという問いかけはない。殆どの人達は経済中心の世相の中、何のために企業は存在するのか。その前提として私達は何のために生まれてきたのかと問いかけ省察する時をもたないで一生を終わるになる。

その問いかけを寺澤さんは私達にしてくれる。人間はたとえ強い願望をいだいたとしても決して、自分の願望に近づけることはできない。近づいていくには弱い自分を正直に自分で認識し、克服するためには具体的な行動が変わらなければならない。そして絶え間なく淡々とその遠い念いに向かって歩みつづけなくてはならない。その出発の条件が「依存人格からの脱出」決意・意志」だということを、アルコール依存症からの回復とその後の生き方から教えてくれる。

その二・二〇一五年・理念探究会講話

 二〇一五年理念探究会の六月初日、宿題であった李登輝の「指導者とは何か」のポイントレビューを皆で輪読和談した。この本は全てのリーダーにとって上に立つ人間としての備えるべき姿勢、思想を示唆している。その後、各参加者の近況報告を聞いた。

依存症の母親

アルコール依存症を抱えるさんの母親が来日している。彼女は今、近くのショップで韓国料理を提供しながら新たな生き方を模索している。彼女が日本に滞在中に北海道に住んでいる澤氏の話を皆さんにも聞いてもらいたいと思いついた。そして思いついたが吉日と研修の場から携帯で電話をした。七月か八月に茨城まで足を運んで理念探究会の人達に話してもらえないかという依頼の電話である。併せて、今アルコール依存症からの脱出に取り組んでいる韓国から来日している母娘の話をした。

超確率現象

 「今東京にきている、明日茨城に行ってもよい」との返事。なんという僥倖、正に超確率現象であり、仕組まれたかのような縁に驚きを隠せなかった。翌日八時過ぎには我が家に到着。そして九時から講話開始。彼女のお母さんも参加してくれた。Iさんは話を聞きながらパソコンで韓国語に変換し、お母さんはそれを見ながら講演の内容を理解される。

澤さんをお呼びする訳は「中途半端な取り組みは結局アルコール依存症からの脱出はできない。私たちも自己の探究を徹底的にしない限り理念探究にもたどり着かない」という点が共通しているからだ。以下、参加者の感想を掲載します。

感想 

澤さんの最初の印象は、気取ることなく自然体で優しそうな印象を受けました。完全に禁酒を始めてから二十八年になるとのことで継続する心の強さに感服しました。昔は、酒を飲むと人から良く見られたいとの思いから弱い自分を隠し強い自分を演じていた。結果、本当の自分の存在がなくなっていたのだと。人は多かれ少なかれ、他人からどう思われているのかを気にしてしまう生きものだと思います。

自分の中にも他人からの評価を無意識のうちに考えていたことがあったのだと気付きました。「他人との比較」ではなく「昨日の自分を超える」ということをもっと意識していこうと思いました。中略「逃げなければ必ず問題は解決する、逃げれば問題は大きくなる」との言葉も深く印象に残りました。

帰り道石岡駅から上野駅までの約一時間、ご一緒させていただくことになりました。東京までの車中澤さんは、「自分はやりたいことをやっているだけ」なのだ「人のためにと思って何かをやるとしんどくなって続けることが出来ない」と言われました。(藤井氏)

弱い自分を認め、素直に表現できるというのは、人間の真の強さではないだろうか。

わたしの母はアルコール依存症です。母の発病に自覚したのは、今から約年半前です。

当時のは自分のことで、目一杯でした。ある日から、毎日って言ってもいいぐらい多かった母からの連絡が来なくなりました。電話をかけても出ない状況が何日。やっと通じた母との電話。坂から転んで連絡ができなかったという。

後々父に聞いた情報では、母に異常がでたということでした。その後、肺炎が発病し入院をすることになり、わたしも日本から母が入院した病院に飛んでいきました。そこで見た光景は悲惨なことでした。今まで知っていた母はどこにもいなかったです。人間として生きるという意志を失った中年のおばあさんが一人横になっているだけ。母がそこまで心身が疲れている間、わたしは何をしたのかと。自分を責めながら、自分の感情もどんどんパニックに入りました。

そのときに力になってくれたのは、養成塾で学んでいた「心の自立」「和の実学」やいつも近くにいてくれたさんでした。このままでは何も変わらないということに気付き、母を健康にしたいと思うようになりました。肺炎が治った母は、その後、アルコール依存症の治療と肝臓治療を始めます。そこで直感的に分かったのは、母は体より心の病気が大きいのではないかということでした。退院してすぐ日本に来てもらい、ほぼ一ヶ月間一緒に生活しながら、母は少しずつ生きる意志を取り戻すことになりました。

それから、ヶ月間母は一人で、生きるためにアルコール依存症と戦ってきました。最初はわたしもいろいろと気を配ったりしてきたのですが、今思えば、大丈夫だろうとだんだん油断していた自分がいました。それから間もなくアルコール依存症が改めて発病し、今に至っています。今年の月、再び母を日本に連れてきたときに、父との話し合ったのですが、これが最後だと思って、母の病気を直すために一所懸命に自分ができることをやると。そう誓いました。

このたび、さんとも出会い、「生きるということは」とか、自分自身の人生を振り返って深く考える機会となりました。特に心に残ったのは、「弱い自分を認める、表現できるというのは、真の人間の強さではないか。」ということでした。

 『すべては今のためにあったこと』という本を思い出します。今起こっている様々な物事というのは、きっと未来をつくることになるでしょう。今わたしに起こっていることには、何かしら理由がきっとあると。何をわたしに言っているのかと。(後略)

【追伸】母の一番心に残った言葉は、「ただ命があって生きていくということと、目的のある人生というのは全然違う」ということのようです。(Iさん)