脳力開発190号/理念の時代を生きる190号

脳力開発190号

日本三霊山(富士山・白山・立山雄山)登頂記

古希を迎えたとき、企業研修を年に何回か開催している会社の三十代の社員から年の初めに「先生、古希の記念に富士山に登りましょう」という提案があった。それまで富士山に登ろう等と考えたことがなかった。たまたま、私が日本コロムビアに務めていたころの尊敬していた私より十歳年上の上司が、古希の年に家族と富士山に登ったと言う話を会社の同窓会で耳にしたことがあった。若い社員の言うことを受けてやってみようと決めた。

山登りは振り返ってみると東京に転勤した三十代前半に始めた。同僚が大学の登山部だったこともあってともに登り始めた。きっかけはストレス解消のためであった。秋葉原の担当で、DENONブランドで従来のコロムビアの商品とは一線を画した高級オーディオ分野に参入しでオーディオ各社がしのぎを削る中で猛烈に仕事をしていた時期に重なる。日本コロムビアのなかでは一番高い予算を持ち、業界のなかでも勢いにのって販売を延ばしていた時期でもあった。全国トップの業績を上げ続け、仕事が面白くてたまらない時期だった。しかし、永遠に業績が伸びつづる訳でもない。そう言うやや不調の時期に休日に自宅にいて悶々とすることは避けたいと、近くの山に単独登山に出かけた。その後家族とそして嫌がる子供を巻き込んでの登山に変化して行った。その息子は五十歳なって山登りに凝っている。冬山も登っている。

二〇一三年富士登山企画

富士登山を決めてから、私は三浦雄一郎の話を参考に毎日ノルディク・ウォーキングを始めアンクルウエイトを片足三キロまで徐々に増やしながらトレーニングを開始した。善子はアップステップを購入して毎日自宅でスクワットと平行して訓練した。彼女は若いころバレエを六歳から二十頃まで通づけていたので体力は十分だが、それで七十歳間近には不安がある。

若い人たちそして丁度誕生日を迎えて七十一歳になったばかりの私、六十八歳の妻、六十五歳の友人、五十歳の若手社長以下若い人たちと七名で富士山に登った。ご来光にも恵まれたが以来、善子は「富士山は見るものでもぼるものではない」と言い続ける。頑として高い山には登らなくなった。孫たちとの合宿で筑波山や宝篋山(ほうきょうさん)に登る程度だ。

三霊山に挑む

富士山登山をきっかけに福井から参加した宇野氏と古澤氏と毎年私の鯖江出張の後、山に登ることにした。七十一歳で富士山、七十二歳で白山に登った。ふたつの山が日本三大霊山だということで七十三歳は立山に登ることにした。この時は善子も参加して富山で合流し雷鳥沢にとまり、翌日登ることになった。リーダーの古澤氏の凡ミスでコースを間違え剣岳コースに迷い込み私たちは体力も消耗し、一ノ越でギブアップした。勿論古澤氏、宇野氏はそのまま登頂を果たした。三霊山に登頂に失敗した私は、同じ年の秋の初めに妻と再チャレンジを企画した。九月の末、やや小降りの雨の中、室堂を出発し一ノ越に泊まり翌日立山・雄山に登る計画を立てた。ところがその夜からの暴風雨で翌朝も雨風で登山は中止せざるを得なくなった。

山への憧憬

学生時代男性合唱の正指揮者だったときメインステージの曲に合唱組曲「山に祈る」を選択した。卒業を目前にした上智大学山岳部遭難した大学生の残された手記を朗読するところから始まる。1966年秋の定期演奏会だった。その年の夏私は北海道大学の桑園寮で高校時代の同級生・神谷春夫君の兄上・正男さんと一月暮らしていた。春夫君は彼がキャプテンをしていた北大山岳部の大雪山遭難事故の後始末に大雪山で大捜索に出かけていた。個人的には山岳部の遭難事故を私のメインステージの曲と重なっていた。

ヒマラヤへの憧れ

2012年年2回の定期的な海外旅行にネパールを選んだ。エベレストに対する憧憬で何とか遠望したいと企画した。ナガルコットからのトレッキングを楽しみ、ポカラからマチャプチャレ、アンナプルナを眺め、飛行機に乗ってエヴェレストを見ることができた。翌年12月にはその時ご縁のあったネパール在住の高久多美子さんの案内でマナスルの旅をした。善子は馬に乗って登った。

スイス・ニュージランドの旅

2013年5月には5年ぶりにスイスを再訪し、ツェルマット、グリンデンワルト、シュトックホルンからマッターホルンを眺めトレッキングを楽しんだ。その後ニュージランドを訪ねマウントクックも楽しんだ。善子のモラMOLAの作品には山の作品が多い。

 

富士山登山の後の国内の山

七十一歳富士山、七十二歳白山2702米、七十三歳立山登山敗退、七十四歳乗鞍岳3026米、七十五歳中止、七十六歳西穂独標2701米、七十七歳上高地、古澤氏は結婚により登山中止。七十八歳福井夜叉が池、宇野氏と二人、帰路熊に遭遇、七十八歳木曽駒ヶ岳米2956米、昨年七十九歳立山・雄山登山を企画すれども体調不良で中止した。

体力の自信が揺らぐ

 昨年年初に立山・雄山登山を企画した。トレーニングも繰り返していたが7月、登山決行の前、最後の調整に善子と宝篋山に登っている途中でシンドさを感じ、そのまま登る気にならない。初めての体験だ。熱中症だったかもしれない。その年の登山は躊躇したがやめることにした。そして月末の立山登山を中止を宇野氏に伝えた。

80歳最後のチャレンジ

今年私は八十歳を迎える。年初に立山登山の計画を立てた。コロナもやや下火の様相を呈している。3000米の登山は今後続ける自信はないが。お正月に帰宅した次男竜に一度山に連れていってくれと話して7月の立山のあと、上高地から涸沢への計画を話し合った。体重を5キロ減量、月に2回はトレーニングするようにアドバイスされた。厳しい指示だった。頭では納得できる。ウォーキングは毎日続けてきたが。

立山一本に絞る

 5月から実際の登りのトレーニングを開始した。宝篋山に登るのは撤退した昨年の7月以来だ。自信はない。いつものペースより遅めにしたゆっくり登った。いつもは善子に先行してもらうのだが、今回は私のペースに合わせてもらった。YAMPAでデーターを比較すると20分ぐらい例年よりオーバーしたが無事登れた。かすかな自信が芽生えた。下りは脚が少し笑ったが何とかいけそうだ。2週間後、再チャレンジしたら、ほぼ時間も元に戻り脚が笑うこともなかった。最後のトレーニングは7月22日だった。これも無事クリアーした。しかし善子はかつての私の下りの早さに比較して「大丈夫か」と何度も何度も忠告する。

いよいよ立山・雄山に挑む

 7月27日夕方富山に移動宿泊、28日立山駅からケーブルカーとバスで室堂到着2450米。1時間ほどの休息の後一ノ越山荘2700米までの登り。今から7年前に泊まった山荘だ。1時間の工程だが厳しい。息が切れる。2時間4分かかった。265米の登り。到着後まずは初日の無事を乾杯。5時からの夕食まで休憩。夕食までの眠りは浅い。食後写真を撮ったりしながら休息。その後9時就寝まで明日の準備。

翌朝トイレに起きたら4時だった。宇野さん曰く「熟睡していましたね」確かに一度も目を覚まさなかった。

写真夕焼け

雄山へ最後の登山

5時24分出発。YAMAPデーターによると2時間16分で登頂した。その間休憩時間は52分、登りの時間は1時間34分。三の越からは100歩登って5分休む、この繰り返しだ。最悪三時間かかってもよいと思っていた。100歩で高度20米稼ぎ処によって30米の高度を稼ぐ。2986米地点から頂上の建物が見えた。そこから3003米まで登るのに30分かかった。25米の高度を稼ぐのに。登頂7時40分。神社にお参りし朝食をとった。やっと三度めで念願の三大霊山の登頂がかなった。頂上から善子に電話した。無事登頂と。

一ノ越しへの下り

下り一ノ越までが大変だ。一歩一歩ゆっくり下りた。下りが正に体力の限界を示すことになる。8時27分にスタートして一ノ越まで休憩を含めて2時間かけて下りた。下りは脚を踏み外すと滑落の危険がある。若いときは考えもしなかった。登ってくる人たちを見ながらもう登ることはないと想いながら一ノ越についたとき改めて自分の利が80歳であることを自覚した。(悦司)

 

 

理念の時代を生きる190号

その一、理念実践会・「人の世界」と「物の世界」出光佐三

六月からの理念実践会の今年のテキストに出光佐三の「人の世界」と「物の世界」を」使っている。彼の発言をそのまま受け取るのではない。経営者として本質を捉えることだ。

  • 戦後の日本は、戦争に負けてから、外国の「物の世界」一色に塗りつぶされていると言える。本来の日本は決してこんなものではない。「物の世界」が入ってきたのは明治以後だが、戦後なんでもかんでも外国の真似という風に外国色に塗りつぶされている。明治以前は「人の世界」と「物の世界」との違いがはっきりあつた。
  • 明治以前にも「物の世界」はあった。それは商人の世界である。商人は嘘をつこうが、駆け引きをしようが、国家のために不利になろうが、金さえ儲ければそれでいいと言う者もおり、そこには人格なんてものはてんでありはしない。したがつて、商人は「物の世界」の人間といっていいだろう。
  • 商人をのぞいた武士階級は純粋に「人の世界」であった。僕らの知っている明治時代でも、政治家とか教育者とか官吏とかいう人たちには清貧に甘んずると言う言葉があったように清貧を誇りとする、そう言う話を耳にしたことがある。

「物の国」は「利益最優先」の経営

出光佐三は神戸高商を卒業後、酒井商店に勤務した後創業し後に出光興産を育て上げた。日本人も「海賊と呼ばれた男」で大まかな話としてご存じの方は多いと思いますが、「物の国」は平易な言葉で言えば「利益最優先」の経営を営む企業です。

最近のビッグモーターの経営は文字どおり「利益優先」で社員にもお客様にも嘘をついてでも自社の利益を最優先させます。一方、保険会社もこれからの調査もありますが、加担していることは間違いありません。

■私たち理念企業は企業の目的・志を明確にし、諸方互恵を経営姿勢とし、お客様はもとより、取引先、社員、同業者との互恵関係を築きます。企業は理念が不在だと擬似理念が蔓延します。

■擬似理念=利益最優先

ビッグモーターのみならず、補助金の虚偽申請の近畿ツーリスト等を思い浮かべながら以下読んでください。

企業理念不在だと企業の目指す方向が不明確で、社員は給料が目的の集まり→ 楽して、高給を得ようとし→ 意欲、士気は低く、社員は定着しない。そして社会的価値が不明で→ 外部の協力を失い→ 世間が冷たく扱う。

  • 理念実践会は企業理念を制定した企業の経営者が毎月集い、自社の理念に添った実践例を語り和道経営に添って話し合い、学び合います。そして現実の中から問題点を解決し快労報告(苦労ではない)を年に一回やっています。
  • 出光佐三は「黄金の奴隷となるな」「労働の切り売りをするな」「定年はない」「組織は無を持って理想とする」など含蓄に溢れた言葉で会社を作り上げてきた。
  • 今、経済界で話題になっている「働き方改革」「男女雇用機会均等法」「非正規雇用」等いろいろ制度が変化しているのは事実だが、経営者はこれらの問題も自らの頭で考え、取り組まなくてはなるまい。

その二・企業倒産の道筋

 企業は図のように「企業活動がトータルとして世の中の役に立たなくなってきた、売れなくなる→ 利益が出なくなる→ 支払いができなくなる→ 潰れる」。理念が不在だとこうなる。私は日本コロムビアに務めていた。100年企業である。私は今から30年まえに」会社をやめ私の理念に添って創業した。40代から現状の事業経営では倒産すると判断してやめた。当時の電機業界、特にオーディオ業界はほとんど消滅に近い形で姿を消した。

私の関係したL社は中心の事業部が盛んなころ企業理念を制定し、同時にメディカル部門を立ち上げた。予定では10年で利益を出せる計画だった。その間の努力、工夫は並大抵ではなかった。20年後今では新規事業メディカルが軌道に乗り成長を続けている。

先日、N社の経営の未来を定期的に検討する会を10年以上続けている。この図の様に幸い企業理念を制定して19年を迎えた。以来理念に添った経営を続けてきた。理念を中核にして自立連帯運営を推進した。結果全グループも黒字展開し、経営能力もつけてきた。いよいよ第二の大改革に取り組む段階になった。3年後には見事に従来の事業から180度転換した優良企業に転換するであろう。これからが個人個人の脱皮も求められる。

 

その三・安倍総理の志を継承する会

7月8日を迎えた。安倍総理が奈良の地で命を落として一年が経った。主催した桜井よし子氏は「安倍総理は日本人の価値観を呼び覚まし、吉田松陰先生を尊崇し眼の前の事実に向かい合い、目の前の人を見よ」と語ったと。

6月に台湾を訪れて、高雄紅毛港保安堂を訪ねた。廟は、安倍氏が死去した翌日の7月9日に追悼会場を設置。その後、有志から寄付を募り、銅像を作り始めた。銅像の高さは175センチ。台座に「台湾永遠的朋友」(台湾の永遠の友人)と書かれている。廟の責任者、張吉雄氏は産経新聞の取材に「台湾の国際組織加盟への支持など、いろいろと尽力してくれた安倍さんのことを私たちは忘れない。この銅像を日台友好のシンボルとして後世に残したい」と記事にしていた。

■留魂碑

やっと一年経って、安倍総理の留魂碑が建てられたというニュースを目にした。テロに遭遇した場所から5キロ離れているという。

「安倍元総理の魂、この世にとどまっている」 高市氏、留魂碑建立で

高市早苗・経済安保担当相は 7月1日に、事件のあった奈良市で留魂碑の建立をいたしまして、除幕をいたしました。安倍(元)総理が敬愛しておられた吉田松陰先生の辞世の句なんですが「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置きまし(置かまし) 大和魂」というのがございました。まさに私たちは留魂碑を設置したんですが、「留め置きまし 大和魂」、つまり、日本人として日本を思う心、安倍元総理のその魂というのは、まだこの世にとどまっているんだろうなと思います、と語った。

■安倍昭恵さん、台湾で安倍元首相の銅像と初対面

台湾訪問中の安倍晋三元首相の妻、昭恵さんは18日、台湾南部の高雄市を訪れ、市民有志が昨年9月に建てた等身大の安倍元首相の銅像と初対面した。炎天下にもかかわらず、昭恵さんを歓迎するために会場周辺には200人以上の市民が集まった。銅像に献花した昭恵さんは「台湾訪問を計画していた主人だが、残念ながら来ることができなくなった。その魂はきっとどこかで私たちを見守り、日台友好を応援してくれていると思う」と語った。 昭恵さんはその後、台南市に移動し、同市内の美術館で開催されている「安倍晋三写真展」を訪れた。写真展は産経新聞のカメラマン19人が撮影した安倍元首相のベストショットなど100点以上のほか、「日台友好」をテーマとした台湾と日本の芸術家による作品も約50点が展示されている。 展示を見た昭恵さんは「主人の写真展が台湾で開催できたことは大変誇らしく思う。私も主人の遺志を引き継いで日本と台湾のために力を尽くしたい」と語った。 昭恵さんは19日、台北郊外にある李登輝元総統の墓参りをするほか、蔡英文総統や頼清徳副総統と面会する。20日に帰国する。(台南 矢板明夫