脳力開発189号/理念の時代に生きる189号

脳力開発189号・反スパイ法を考える

前188号で、「反スパイ法を考える」を記事として取り上げた後、私の高校の先輩で上海華鐘コンサルタントグループ古林恒雄氏董事長が主催している日本向けセミナがあった。参加との質疑応答の熱心な質問があったが、ことごとく以下の「スパイの嫌疑をかけられないために」の文面に添った回答であった。

古林氏の簡単な略歴 1965年東京大学工学部卒業、鐘紡㈱入社。75年初訪中の技術紹介が成功し、78年から84年まで上海石化向けPETプラント輸出の現地総代表。85年より中国室長、中国首席代表として中国事業開発に従事、20数社の合弁会社を設立運営。94年上海華鐘コンサルタントサービス㈲董事長を兼任。上海市外国投資協会副会長、上海市外国投資促進センター高級顧問、各地人民政府.開発区顧問など。
●毎年5月と11月に日本向けセミナは開催され、欧州日米中国との経済比較を中心に全体のお話がある。進出企業に対しての個別の案件を含めて相談に乗り、アドバイスも具体的にされている。私の記憶にある限り上海華鐘コンサルタントの過去のセミナで「スパイ」の反する問題について話題になったことはなかった。「中華人民共和国渉外調査管理弁法」に関しての概要は以下のとおり。

スパイの嫌疑をかけられないために。中国での調査は資格が必要

「中華人民共和国渉外調査管理弁法」(国家統計局2004年10月交付)

  • 中国では外国人、外国企業及びその中国における代表処、外資企業などが会社業務で中国国内で「調査」をしようとする場合、必ずその調査は「中華人民共和国渉外調査許可証」を保有する企業に委託しなければならない、法律で定められている。すなわち自分で調査する行動自体が、重大な違法行為になることに注意が必要です。「中華人民共和国渉外調査管理弁法」(国家統計局2004年10月交付)
  • 上海華鐘コンサルタントサービス有限公司は法律施行と同時に申請し最高級の「全国範囲の調査資格」を認定されている。有効期間は3年、3年毎に国家統計局より調査実績のヒヤリングが行われ更新の可否が認定される。「渉外調査許可証」を取得されているのは社会学院などの国有企業などで、外資系企業の資格取得は10%もない。
  • 渉外調査の実施

渉外市場調査は渉外調査機関を通じて実施しなければならず、渉外調査機関を通じて報告、審査許可取得後、実施しなければならない。海外組織及び個人は中国国内にて市場調査及び社会調査は直接行ってはならない。「渉外調査許可証」取得済みの渉外調査許可企業に委託しなければならない。

 

産経新聞台北支局長・矢板明夫氏情報

在中国の日系企業団体の幹部を務めていたこともあり現地の日本人社会の顔役でした。Aさんは中国の貧しい地域などにずいぶん私費で寄付したりしていた。未確認情報であるがアステラス製薬の免疫抑制剤は世界有数の品質でアステラス製薬の売り上げから中国の臓器移植の件数が逆算できてしまう。その売り上げ情報を外国の人権団体に漏らした疑いがもたれているとの説がある。

  • 今や訪中には覚悟が必要  

1987年13回共産党大会以来、改革開放・経済建設を国の基軸にしてきた。しかし昨年第20回習近平政権第三期目が始まるとともに、改革開放・経済建設に変わって政治的な安全、中華民族の復興といったことが言われ始めた。国の発展の方向が完全に別な方向に移り米国、国際社会と対立することが決定的になり始めた。

  • これまでは外国人に中国に来てもらい「一緒に金を儲けましょう」と言う方針だった。その方針を中国人が外国人と接すること悪い影響を受けて中国共産党に疑問を抱き始めるかもしれない。と中国当局は外国人との接触を遮断しょうとしている。

「中国(反スパイ)で統制強化その背景は」NHK情報

6月1日NHKの時論・公論で以下のように「中国(反スパイ)で統制強化その背景は」

が取り上げられた。今回「反スパイ法」が取り挙げられる要因はどこにあるのか。

  • 中国でことし4月、スパイ行為を取り締まる「反スパイ法」の改正案が可決・成立しました。7月から施行されます。それまでこの法律はスパイ行為の対象を、外国の機関などと共謀して「国家機密」を盗み取ることや提供することなどとしていました。
    ●それを今回は対象を拡大し、新たに「国家の安全と利益に関わる文書やデータ、資料」なども加え、強化したのです。ところが、肝心の「国家の安全」が何なのかについては、具体的な定義はなく、あいまいなままです。
  • 法律が外国を意識したものでもあるため、中国に進出する外国企業などの間では、一般的な営業活動や情報収集が、ある日突然、当局の恣意的な判断によって摘発されかねないなどと懸念が強まっていて、今後、企業活動が萎縮する可能性も指摘されています。
  • 法律が外国を意識したものでもあるため、中国に進出する外国企業などの間では、一般的な営業活動や情報収集が、ある日突然、当局の恣意的な判断によって摘発されかねないなどと懸念が強まっていて、今後、企業活動が萎縮する可能性も指摘されています。
  • 法律が外国を意識したものでもあるため、中国に進出する外国企業などの間では、一般的な営業活動や情報収集が、ある日突然、当局の恣意的な判断によって摘発されかねないなどと懸念が強まっていて、今後、企業活動が萎縮する可能性も指摘されています。
  • 「自由」や「民主主義」といった価値観が海外から流入するのを防ぐため、中国が統制の影響力を海外にも及ぼそうとする動きもみられます。スペインに主な拠点を置く人権団体が去年12月に発表した報告書では、中国の警察当局が海外に拠点を開設し、現地に住む反体制派などの中国人に対する監視や脅迫、嫌がらせなどを行っていたとされます。
    ●こうした「警察拠点」の数は、アメリカやヨーロッパ、アジアなどの少なくとも53か国、102か所に上るとされています。すでに活動は停止しているとみられますが、日本にも2か所あったとされます。
    ●ことし4月には、アメリカ・ニューヨークのチャイナタウンにあるビルの一室に警察拠点を開設し、運営にたずさわったとして男2人が、アメリカの司法当局に逮捕されました。
    国境を越えてまでして、相手国の主権を侵害する行為をなりふり構わず行う姿勢には、非難の声が上がっています。

■習主席の大きな方針と矛盾

その方針とは、外国企業に対して積極的に国内市場を開放し、外資を呼び込むことで、経済を活性化させるというものです。今の中国は3年近く続いた「ゼロコロナ」政策によって経済が打撃を受けたうえ、少子化や若者の就職難といった構造的な課題にも直面し、かつてのような急速な経済成長は望めない状況となっています。
このため、習指導部は去年12月に開いた経済運営の方針を決める共産党の重要会議で、外資の呼び込みに改めて力を入れることで、経済の立て直しを図る方針を確認していた。

  • 李強首相もことし3月に開かれた経済フォーラムで、「外国企業が投資したくなる制度と環境を絶え間なく向上させる」と強調しています。ただ、最高指導部がいくら呼びかけても、外国企業の駐在員を拘束するようでは、「言行が一致していない」と批判されても仕方ないと思います。こうした相反する動きが同時に起きる背景には、今の習政権に特徴的な官僚機構の強い縦割り意識があるとの見方があります。

■反スパイ法に関する今後の課題

6月・交詢社オープンフォーラム・「経済安全保障を考える」にオンラインで参加した。

経済安全保障担当大臣の高市早苗氏による基調講演。櫻井よしこ氏がコーディネーター務め、前国家安全保障局長の北村滋氏、元経済産業省中部経済産業局長で明星大学教授の細川昌彦氏、NTTチーフ・サイバーセキュリティ・ストラテジストの松原実穂子氏が登壇するパネルディスカッションであった。

  • 前述の記事も初め、日本は対中国に対して「経済と安全保障」の両立を望んでいる。経済でも中国に対して伸ばし、しかし安全保障に関しても極力防衛費を増やしたくない。安倍総理は現職のとき習近平に対しても「日本を見誤るな」常に発言していた。退任後「台湾有事は日本有事」と発言したら、中国報道官は「日本は火を見ることになる」と恫喝した。

岸田総理は防衛費増額を承認しG7でも開催国として振る舞っている。しかし、経済界は一応、賛意を示しているが、対中国に対して有効な手を打っているようには見えない。

  • 両方よいことはない

 「軍民融合・自強自立」の国に対して今では経済ですら武器になっている現実。トヨタの下請けがサイバー攻撃をうける現実に対して持続可能なサプライチェーンの構築など打つべき課題は多い。国防7大学を無条件に受け入れる国の制度、中国から金を貰って中国の為に研究している日本人。反スパイ法により拘束された日本人、これからも中国に貢献したにもかかわらず拘束されるかもしれない日本人。保釈要求すらまともにできない日本外務省。習近平が三期目に突入してからの日本の課題は多い。

 

 

理念の時代を生きる189号・台湾理念の旅

数年前から企画していてコロナで中断していた理念実践会のメンバーと台湾理念の旅を11月に実行するための下準備で、5日間の日程で台湾を訪ねてきた。私たち高齢者になっての旅に肉体的に堪えられるかと言う気持ちもあった。台湾にいる友人が傘を忘れるなと言ってくれた。

行程は初日桃園飛行場に到着後、桃園新幹線駅から一気に嘉義まで進み、二日目嘉義から高雄(左營)から台南、三日目は台南・烏三頭ダム、湯徳章関連の施設を訪ね、そのあとで台南から台北を訪ね二泊の余裕をもたせた旅の工程にした。善子にも同伴してもらうためにもお互いの体調に万全の体制を整えたい。

■映画KANO嘉義農林を訪ねる

 2019年12月に台南の烏三頭ダムを訪ねた帰り機内で映画「KANO」を観た。帰国後DVDの発売とともに手に入れ、何度も観た。松山商業出身の近藤兵太郎が嘉義農林の野球部監督に就任し部員を鍛え甲子園大会に出場し、決勝戦で中京商業との決勝戦で敗退したが台湾から初出場で準優勝になった感動の物語だ。

私は2011年に1971年以来、数十年ぶりに台湾を訪ね、烏三頭ダムを訪ね台湾の過去の歴史を知った。以来民主化に導いた李登輝総統を含めて二二八事件はもとより台湾関連の書籍を沢山読み研究した。たまたま台湾出身の大学の先輩に知己を得てお会いし交流させて頂いた。李登輝総統と同い年で終戦後台湾に帰られ会社を経営された。

その後、理念企業快労祭を台湾で開催し、進化経営学院の受講生たちとも訪問もした。訪問する度に日本と台湾との関わりの歴史に関心が深まった。

今回は旅の初日に嘉義まで入ったのは嘉義農林(大学になっていたが)の交友会館・歴代校長宅を訪ねた。嘉農人農産品有限公司の董事をやられ校友会のお世話をしている揚(木偏)初雄さんと携帯翻訳と英語で話をした。当時の写真や資料を見せてくれ話をお聞きした。近藤兵太郎氏の娘さんが寄稿されている機関紙と嘉農棒球の台湾棒球史を頂いた。

 

■安倍総理の銅像・高雄市紅毛港保安堂

9月24日産経新聞でイ以下の記事を読んだ。日本では安倍総理テロの問題を朝日新聞はもとよりNHKも犯人の山上被告の弁護をするリベラルや野党は統一協会問題にすり替、テロに対しても何ら有効な手を打っていない。

4月の補欠選挙の最中の岸田総理テロ問題に対しても生ぬるく、有効な手を打たない政府にあきれてものが言えない。きれいごとに影響される日本の今日にヘキヘキしていた。

今回の旅で、安倍総理を日本以上にきちんと評価する台湾に建てられた銅像を訪ねたいと考えていた。

【台北=矢板明夫】台湾南部の高雄市にある廟(びょう)「紅毛港保安堂」に、日台親善を推進した安倍晋三元首相の功績をたたえ、等身大の銅像が建てられた。24日に除幕式を行う。同廟は、先の戦争でバシー海峡に沈んだ旧日本海軍の第38号哨戒艇をまつっていることで知られ、台湾南部在住の日本人や知日派が訪れる。

廟は、安倍氏が死去した翌日の7月9日に追悼会場を設置。その後、有志から寄付を募り、銅像を作り始めた。銅像の高さは175センチ。台座に「台湾永遠的朋友」(台湾の永遠の友人)と書かれている。廟の責任者、張吉雄氏は産経新聞の取材に「台湾の国際組織加盟への支持など、いろいろと尽力してくれた安倍さんのことを私たちは忘れない。この銅像を日台友好のシンボルとして後世に残したい」と話している。

【台北=共同】除幕式には総統府の元秘書長である陳菊監察院院長ら300人以上が参加。陳氏は「安倍氏は台湾人が最も苦しいときに、日本社会に対し『台湾有事は日本有事だ』と呼びかけ台湾人を感動させた」などとあいさつした。会場では「千の風になって」や「花は咲く」が演奏された。除幕式では銅像のほか、2018年2月に台湾東部で地震が起きた際に安倍氏が直筆で送った「台湾加油(がんばれ)」を刻んだ石碑も公開された。

 

訪ねると先の戦争でバシー海峡に沈んだ旧日本海軍の第38号哨戒艇を祀っていた。台湾では日本人を神として祀っている廟を何度か訪ねた。こうした姿勢に改めて教えられる。

 

■成功大学・「榕園」昭和天皇皇太子時代のお手植えのガジュマル

 台南成功大学のガジュマルの樹は、1923年に当時皇太子だった昭和天皇が台湾視察に訪れた際、自ら植樹されたもので、「榕園」に数本のガジュマルが大きく枝を広げている。屹立し、キャンパスを見守っている。卒業の季節になると、多くの学生がここで記念写真を撮り、名残を惜しんでいます。 太陽に照らされたガジュマル園(榕園)はアカデミックな雰囲気が漂い、異国情緒が色濃く感じられる場所です。休日の午後には、散歩をする人や、家族で日向ぼっこを楽しむ外国人の姿が多く見られます。旅行者が市内でピクニックをするにももってこいの場所ですよ。

 

■湯徳章を訪ねる・ 門田隆将「汝、ふたつの故国に殉ず」

数年前、門田隆将の著書で湯徳章のことを知った。台湾に生まれ日本で弁護士の資格を取り台湾に帰り、二二八事件で冤罪で殺された湯徳章の物語である。心打たれた。その後何度かの台南旅行で記念公園は訪ねた。今回、湯徳章の旧家が保存されることを聞いていた。故居を訪ねたが、今回改めて今年12月の再開を目指して改装中であった。若い親切な女性が教えてくれた。

 

湯徳章略歴

現在の熊本出身の坂井德藏と台湾出身の湯玉を父母に、日本統治下台湾台南に生まれ育った。父德蔵は巡査だった。父が死んで今回の旅では叔父又蔵と養子縁組をしており、日本名は坂井姓である。台南師範学校に進学するが3年で退学。20歳で台南州警務部巡査となる。日本の普通文官試験にも合格。叔父(父德蔵の末弟)・養父でジャーナリストの坂井又蔵を頼って内地に渡り、家族と共に東京・白金の藤原銀次郎の別宅に転居。中央大学に聴講生として法律を学び、最終学歴小学校卒業でありながら1942年高等文官試験司法科、翌年には行政科にも合格したが、藤原らの慰留を断り、台南に戻って弁護士事務所を開設した。

二二八事件

第二次世界大戦終結後、中国国民党統治下で発生した二二八事件において、台南市の人民自由保証委員として台南学生をなだめ、国民革命軍の報復によって台南学生が虐殺される事態を防いだ。国民党軍に逮捕され、市中引き回しの上、大正公園にて公開銃殺された。

湯徳章紀念公園

戦後大正公園は、1998年2月28日に当時の台南市長が「湯徳章紀念公園」に改称し、德章の胸像が設置された。また、2014年には市長職だった頼清徳により、德章の命日3月13日が台南市の「正義と勇気の紀念日」に制定された。

故居を訪ねる

台南市内の旧宅は、2020年4月に台南市文化資産管理処が暫定古跡に認定し、また民間有志により設立された台南市文化資産保護協会が同宅を購入し記念館として再整備するためのクラウドファンディングに成功したため、同協会は翌年の德章の命日までに記念館の開館を目指し、2021年3月13日に旧居が公開されることになった。


脳力開発188号/理念の時代を生きる188号

脳力開発188号・中国スパイ法違反を考える

  • 今年3月には大手製薬会社「アステラス製薬」の男性社員が反スパイ法違反の疑いで中国国家安全局に拘束された。14年の反スパイ法施行後、日本人の拘束は17人とされる。今年7月には従来の「国家機密の提供」に加え「国家の安全と利益に関する文書やデータ、資料、記事を含む国家機密の所持」を新たにスパイ行為の対象とする改正法が施行される。

外資系コンサルティング会社や調査会社の摘発を活発化させている。米欧がコンサル会社

を使って中国の機密情報を不正に入手している見方を強めている。インターネットで公開情報にアクセスしただけでも当局の恣意(しい)的な判断でスパイとされるリスクがある。中国側関係者との雑談も摘発対象になりかねない。(産経新聞・佐々木類氏)

  • 中国にスパイとして拘束された日本人は新聞で見る限りは結構いる。しかし私たちにはその理由は皆目わからない。新聞その他ではわからない。今回、中国拘束2279日・鈴木英司著を読んで加えて氏の「中南海の100日」も読んだ。氏は今まで拘束され釈放後その経緯を語っている人がいない中で、はじめて拘束された体験を話し続けている。同時に著書に書かれた事実からも振り返って見ることにする。

尖閣諸島中国漁船衝突事件を振り返る

伊藤忠社長であった丹羽宇一郎氏が2010年中華人民共和国の特命全権大使に就任した。中国政府とのパイプをもつ財界人として初の民間出身中国大使として菅直人内閣により起用された。2010年に発生した尖閣諸島中国漁船衝突事件では、中国政府に早朝に呼び出された上、事件後にフジタの社員4人が中国政府に拘束された問題につき、中国外務省側に会談を申し入れたが拒否された。

  • 尖閣諸島購入問題

東京都は2012年、日本と中国と台湾が領有権を主張する沖縄県石垣市尖閣諸島をそれまでの土地所有者から独自に購入する計画を発表したが、丹羽はこれに対して反対を表明する言動をしていた。

  • 中国総領事館移転

2012年「日本国内の中国総領事館移転に際し、国際法及び国内法に則った上で対処する」と、事実上は新潟市名古屋市の広大な土地を中国政府が取得できるよう便宜を図ることを示唆する口上書を中国側に渡した丹羽は発表した。

  • 大使として丹羽宇一郎はかくも中国に便宜を図り、元伊藤忠商事社長としての立場を離れたとはいえ、対中国に強く配慮したにもかかわらず、日本として為す術がなかったと言える。政経分離といいながらも、経済優先の匂いが漂った。

中国拘束2279日・鈴木英司著 あおいろ

簡単な略歴と拘束

1983年社会党青少年局訪中団の団員として訪中、受け入れた中華全国青年連合会との交流が深まる。日中交流に人生を賭ける決心をする。

1997年3月中国での教員生活をスタート、北京外国大学日本語学部の外国人教員となる。張香山(日中国交正常化交渉外交顧問)が保証人を引き受けてくれた。

1998年7月まで北京外国語大学に在職、その後非常勤講師として日中関係を教えた。学生のために尽力し、充実した教員生活。

中国の魅力を伝えるために奔走する日々

1980年代李克強(当時共青団国際担当書記)に二人きりであったこともある。

1990年代来日した胡春華(当時チベット共青団リーダー)にもあった。2008年胡錦濤国家主席の宴会で再会したとき胡春華は共青団トップになっていた。私との1990年代、東京で共にしたことを記憶していた。当時私は日中友好団体の日中協会の最も若い理事に就任した。

2016年7月私(鈴木氏)が提案した日本の市民団体と中国国際友人研究会のシンポジュウムのため訪中、4人で訪中、3日目3人は帰国、5日目7月15日、二十一世紀飯店で中国の知人と会食後、拾った白タクに乗り出発ロビーについたあと突然、北京市国家安全局に拘束される。

■起訴状全文・抜粋

被告人は2001年から2016年まで日本法務省公安調査庁関東公安庁調査局が日本間諜情報の収集、提供する任務を受け取りました。中略。被告人は間諜組織代理人の任務を引き受け、中華人民共和国国家安全に危害を及ぼす活動をし、その行為は「中華人民共和国刑法」第一百一十条第(一)項に違反し、中略。「中華人民共和国刑事訴訟法」第一百七十二条に従って公訴し法律に基づき判決してください。

大使館も弁護士も助けてくれない。

7月27日面会に来た日本大使館員は亀井啓次領事部長と検察官出身の岡部一等書記官の2人。連絡したのは7月20日。「鈴木さん、ご家族とか大事な方には伝言できますから言ってください」と言われたので家族への伝言をお願いした。「国会議員に伝言はできますか」と聞くと「大丈夫です」私は自民党の野田毅衆議院議員、当時民進党の近藤昭一

衆議院議員に伝言をお願いしたが、帰国ご確認したが伝言は一切届いていなかった

■釈放されるなら逮捕前しかない

2回目の大使館員との面会で、毎日新聞の高塚保さんに加え、旧知の読売新聞、時事通信、NHKの3人の記者の名前を挙げて伝言した。私としては少しでも拘束の事実を多くのメディアに伝えてほしい、中国は私を逮捕しづらくなるのではと考えたが、亀井啓次領事部長の反応は納得いかなかった。「鈴木さん、その3名への伝言は必要ないのではないですか」と言った。

3回目の面会の際には、高塚さんの名前に加えてもう一度、読売新聞記者の名前をだしてお願いした。「規則で外務省から直接本人にお伝えすることはできないのですが、外務省記者クラブにいる同じ会社の方にお伝えするようにしていますから心配ありません」と説明したがこれも高塚さん、読売新聞の記者にも伝わっていなかった。

■失望しかない日本大使館の対応

面会には北京市国家安全局や裁判所の許可が必要なようだが、日本大使館には「おかしいじゃないか」と抗議したり中国の外交部領事局から話をするなどやり方はあったはずだ。日本大使館は積極的に動いてくれた形跡がない。

外交力を発揮しない大使館

「大使館員は私たちの開放についてどう考えているのか。今後どうする気なのか」とよく聞いた。「日本から大臣や代表団が来て中国の幹部と話す際には、日本人の拘束者の話をしてくださいと言っています」毎回同じ返事だった。拘置所にいる時、贈収賄で収容された中国人の元警察官からこんなことを言われた。「鈴木さんを早く返せなかったら、日本の外交力が弱いことの証明だ。アメリカだったらこんなことはない」中国ではアメリカ人はスパイ罪で拘束された例はない」

■日本は中国の横暴にどう取り組むのか

2023年3月に行われた第14期全国人民代表会議でスパイ行為の摘発強化の「反スパイ法」の改正を行った。習近平は「国家安全」を重視する姿勢を強めている。中国の国家安全部の権限は強化され、中国国内で活動する日本人はもとより外国人の摘発、拘束が増える可能性は高い。外務省による危機管理体制の構築が急務である。

 

 

理念の時代を生きる188号

宗像・長崎・久留米の碩学を訪ねる

宗像大社と出光佐三

 コロナ禍の最中は国内でも旅は躊躇した。三年ぶりに九州を訪ねることにした。初日博多から小倉方面に引き返し宗像大社を訪ねる計画を立てた。目的は海賊と呼ばれた男「出光佐三」の郷里に近く彼が大切に守護した神社である。天照大神は宗像三女神を、高天ヶ原から地上の筑紫の国にお降ろしになられたそうです。「沖津宮・中津宮・辺津宮に鎮まりなさい。そして歴代天皇のまつりごとを助けなさい」と示されたそうです。

伊勢神宮は天照大神をお祀りし、国家の本宋と仰がれていますが、宗像大社は伊勢神宮と深い縁りで結ばれています。案内いただくと随所の伊勢神宮を感じます。

出光佐三「人間尊重の経営」

大学を卒業し社会人になった当時から出光佐三の書籍「人間尊重の事業経営」昭和37年出版「日本人にかえれ」昭和46年出版に出合って以来、今日まで彼の書籍はほとんど目を通しました。そして50歳で独立創業してからは彼が出光興産の社員教育で使った著書の数々に感銘しました。

  • 黄金の奴隷になるな。●学問の奴隷になるな。●組織・機構の奴隷になるな。●権力の奴隷になるな。●数・理論の奴隷になるな。●主義の奴隷になるな。●モラルの奴隷になるな。彼の箴言には一つ一つ納得できるものがあります。

イランから日本丸が石油を積んで帰国したときの新聞の写真はよく憶えています。「海賊と呼ばれた男」では皆さんも本や映画で感銘を受けられたと思いますが、利益追求を第一とする西洋型経営と一線を画す日本型経営に昔から惹かれていました。50歳から創業した進化経営学院は企業理念を根幹に据えた経営で、文字どおり出光佐三の経営と言ってもよいかと思います。

出光佐三は宗像郡赤間町にうまれています。宗像大社のことは彼の著書にも書かれていますが、今回大社を案内してくださった宗像歴史観光ボランティアの会の研修部会長の野田宣嗣氏にお聞きすると100億近い寄進をいただき戦後の宗像大社復活に多大な貢献をされたと仰られていました。一時間あまりゆっくり説明をして下さいました。そのあと神宝館も訪ね二時間あまり滞在しました。「マルクスが日本に生まれたら人の世界と物世界」「働く人の資本主義」など進化経営学院のテキストとして使いました。機会あれば進化経営学院の皆さんと訪ねたい。

 

 

長崎・城野宏先生

 長崎を訪ねるのはもう何年ぶりだろうか。私が42歳のとき日本コロムビアの広島営業所所長として赴任したその年の暮れに、広島で脳力開発学会を井辻食産社長の井辻栄輔氏、YMCAの梶原宣俊氏と立ち上げて暮れに城野宏先生をお呼びする計画を立てたあと、一通の電話で先生が亡くなられたことを知った。1985年12月のことである。先生は72歳だった。東大病院で癌の手術のあと院内感染で突然亡くなられた。

先生と脳力開発

先生にお会いしたのは私が1982年39歳のときだった。それまで私は東京秋葉原を担当し営業成績は社内ではトップを数年走っていた。が毎年伸ばし続けた売り上げが未達になり、それまでの快進撃が失速しスランプに襲われた。いろいろ手を打っても思うように売り上げが回復しない。そんな苦境のとき出逢い薫陶を受けたのが城野先生だった。

先生の開発された「脳力開発」に出合って私の人生が変わりました。「主体的に生きる」「自分の人生の主人公は自分自身である」「思いようにいかない状態に遭遇してもその原因を他人や人の所為にしない」「戦略思考・戦略と戦術を混同しない」など人間の生き方の根本を教わり、体得しました。そして「脳力開発の講師・インストラクター」としての先生から指導を受け、会社全社の研修にも導入し、その後広島に転勤した訳です。

広島時代から企業経営の一環としてMGマネジメント・MTマイツールパソコン・脳力開発を推進し、私は「脳力開発」を全国に伝える役目を担うことになるきっかけをつくって下さったのが城野宏先生でした。

先生の著書

先生の著書を少しあげてみると以下のようになる。「古今東西の人間学」、「謀略の人間学」、「三国志の人間学」、「獄中の人間学」、「城野宏の情勢判断学」、「城野宏の戦略と戦術」、「脳力開発のすすめ」等。「獄中の人間学」は古海忠之氏と先生の対談が中心だ。古海忠之氏は明治33年京都生まれ、東大法学部卒業後大蔵省に入省、昭和7年満州国政府に派遣、終戦昭和20年逮捕され、禁固18年の計を受け、昭和38年帰国。この対談の中で獄中における人間の生き方を描いている。「獄中の人間学」はテキストとして使いました。人間の困窮の時期の時の生き方が描かれています。脳力開発の骨格です。「如何なる環境に遭遇しようとも人間は明るく希望を持っていきることができる」、「人生の主人公は自分自身である」ことを教えてくれます。

 

城野家のお墓・晧台禅寺

先生は大正元年、長崎にお生まれになった。第八高等学校(現在の名古屋大学)をへて東大法学部卒業後、徴兵で中国にわたり中華民国山西省政府の指導に当たられました。終戦後も山西野戦軍を指導され中華人民解放軍と戦い、捕虜となり15年の監獄生活をへて、1964年東京オリンピックの年に最後の戦犯として中国から帰国された。帰国後1967年『山西独立戦記』出版幾多の本を書かれている。

今年、先生は生誕後100年を迎えることになります。1985年暮れに逝去されてから九州・長崎近辺に足を運ぶ機会があるごとに先生の菩提寺のある長崎・晧台禅寺を訪ねました。前回お参りしてから10年近く経っているかもしれません。今回の旅の長崎を訪れたのは先生のお墓参りが目的でした。長崎に着いて、善子とも訪ねたお寺に向かい、お墓の場所を確認するために受け付けでお話をお聞きすると奥様も亡くなられたと教えてくれました。

城野利江様との思い出

先生亡きあと命日には毎年お花をお贈りしていました。私が関東に再転勤して時折、文京区向ケ丘のご自宅にお伺いしていました。昼食には幾度も美味しいお寿司屋さんでご馳走になったものです。奥様が88歳になられたころ施設に入られ、お訪ねすることは差し控えました。その後、姪の方がお世話をされていたと耳にしていました。奥様健在の時期は毎年先生の著書を再版され、毎回沢山送って下さいました。先生のお使いになっていたネクタイや先生の書かれた「陰影画」も送っていただきました。

妻と先生の出会い

東京情勢判断学会での私の体験発表がきまっていた時、私の広島転勤がきまり体験発表の代役を妻の善子が務めてくれたことから城野先生ご夫妻にご縁が生まれ、2002年の善子のモラ作品集の出版記念の会にご出席いただきご挨拶もいただきました。家族で記念写真も残っています。その奥様が昨年7月に94歳で亡くなられたとお聞きしました。

城野家の後を次がれたのは奥様のご親戚の方とお聞きした。教えて頂いた石段を昇りお墓にお参りしました。歴史を刻んだ墓石が建っていた。私たちの人生に数々の教えを賜った先生ご夫妻を偲びながらお参りでした。暑い長崎の午後でした。

晧台禅寺

城野家の墓石

 

久留米ブリヂストン美術館・石橋正二郎

長崎をでて久留米のブリヂストン美術館を今回初めて訪ねた。東京のブリヂストン美術館の発祥の地久留米の美術館を一度は訪ねたいと長い間思っていた。今回旅を計画した時点で東京のブリヂストン美術館(アーティゾン美術館と改名)を一週間前に見ておいた。

関東に転勤してから私たちには美術館に通うことが楽しみになった。広島時代は広島銀行が支援している「ひろしま美術館」は世界の名画が展示されており何度訪ねても飽きない素晴らしい美術館だった。

創業してからの美術館巡り

創業してから世界を旅するようになった。世界各国の美術館巡りは旅の楽しみになった。世界の美術館の本を購入して毎回訪ねる国の美術館は可能な限り訪ねた。タヒチやアイルランドの旅をおえて年に二回の旅のうち一度はヨーロッパを訪れるようになってから美術館巡りが楽しみになった。その旅でゴッホ、モネ、ミロの三人を生誕の地から晩年の地までたどりながら訪ねるようになった。各国を旅しながら彼らの作品が展示されている美術館を訪ねた。その時々印象に強く感じる作品を集中して見た。同じ美術館を毎年訪ねるとそのたびに新たな感動を覚え、一人の画家を集中して見ることも出来た。

自分の好みで作品を楽しむ

こういう見方を学んだのはひろしま美術館と東京のブリヂストン美術館だった様な気がする。日本で世界の美術展が開催されると大概が満員で加えて皆さん一点一点立ち止まり解説文を読み、その上で作品の前に立ち止まりじっくりと見入る。そんな状況のなかでじっくり見ることは到底不可能だ。その点、ひろしま美術館やブリジストン美術館は観客が少なく、楽しめた。

ブリヂストン美術館は日本の画家の作品も豊富だった。とりわけ青木繁と坂本繁次郎を気に入った。彼らの作品を久留米で石橋正二郎が支援していたと耳にしていたが、若いころは久留米まで訪ねる余裕はなかった。

久留米文化センター・石橋正二郎記念館

タクシーに乗ってブリヂストン美術館と運転手さんに伝えると、会社ですかと聞き返された。あわてて事前に調べておいた文化センターと言いなおした。青木繁の代表作「海の幸」などは一週間前に東京で開催されている展示会で見ておいた。久留米では坂本繁次郎の作品を見ることができた。岡田三郎助や藤島武二や黒田清輝の作品なども楽しんだ。

ブリヂストン美術館という切り口であったが、今回久留米を訪ねて知ったことは、石橋正二郎は久留米に多大な施設を建設し作品とともに久留米市に寄贈していることです。記念館を訪ねると資料から東京国立近代美術館まで寄贈していることを知りました。加えてヴネチア・ビエンナーレ日本館まで寄贈しているとは。

正二郎の想い

 文化センターの壁面に「世の人々の楽しみと幸福の為に」と記している。石橋財団の創設者 石橋正二郎は1889年、福岡県久留米市に生まれました。17歳のとき家業の仕立物屋を継ぎ、1931年にはブリッヂストンタイヤ株式会社(現・株式会社ブリヂストン)を創業し、日本を代表する企業へと発展させた。一方で、若年の頃から文化事業に取り組み、美術館や文化センターの建設、教育機関への支援など、文化の向上を中心に数々の事績を残している。

写真 美術館

   石橋正二郎

■三人の賢人

 今度の旅は振り返るといずれも九州の生まれで、理念に生きた三人の碩学であつた。出光佐三氏、城野宏先生は私にとって馴染み深い方であったが、ブリヂストン美術館を久留米に訪ね石橋正二郎のことを知った。正に理念に生きた三賢人だと改めて認識した。心に残る旅となった。(悦司)


理念の時代に生きる187号

理念の時代に生きる187号

 

一日一語 四月

四月二日 心願をもって貫かねば、いかに才能ありとも その人の「一生」は真の結晶には到らぬ。

四月三日 人間は、進歩か退歩かの何れかであって、その中間はない。現状維持と思うのは、じつは退歩している証拠である。

四月二十日 キレイごとの好きな人は、とかく実践力に欠けやすい。けだし実践とはキレイごとでけではすまず、どこか野暮ったく、泥くさい処を免れぬものだからです。

 

第23回目快労報告会

理念制定者を対象に毎年の快労祭・報告を開催して足かけ23回目を迎えた。理念を制定した者にとつて理念に添って経営することは難儀なことではなく快労と呼ぶ。この会の祭儀は以下のとうりです。

■祭義(快労の意義・価値)

快労とは快く労をとること、すなわち労を難儀とせずむしろ喜んで骨折りのできる様を言う。快労は、本当の理念を持ち、純粋な志に生きる人が、特有にまた共通に体験する。

快労祭は、快労の世界の開化成長を寿ぎ、快労の実りを祝い、さらなる前進を期する場である。

いま、ここに集い、互いの理念の、もとに心を通じ合い快労の足跡を讃え合い、快労のできる境遇を喜び合おう。これからも一層世の役に立てるよう、共々大いに楽しみ鋭気を養い各々の使命遂行に励んでいこう。

 

■今年も各々の毎年一月の茨城・彦根で行う経営計画熟考会で決めた経営計画に基づいた結果を発表する。その過程で様々な状況に遭遇し人間が生きて仕事をする工程はほとんど想定どおりにはいかない。思わぬ苦労や困難に遭遇する。これを普通困難と呼ぶ。

この思いも寄らぬ困難に私たち人間は打ちのめされる場合もある。時に艱難辛苦をものともせず打破する場合もある。想定しない問題に打ち勝つ力や支えになるものは何か。それが理念であり、そのことが毎年毎年深まりさらなる支えになる。

報告のポイント

今回も右腕と目した社員の突然の死を迎えた茫然自失から次に向かうY経営者、大きな決断をして事業転換を決意し、踏み出したA経営者、更には事業転換を進める中でお客様に対して新たな創意工夫を押し進めるH経営者、北陸地域の時代の先を読んで様々なクラウドファンディングを駆使し、SNS、YOU TUBEを駆使し情報発信にチャレンジしながら特異貢献力を磨きあげる若きY経営者とパートナー、創業20年を記念して全国的なオープンハウスを目指してきて今年は環境整備発表会を開催する。加えて地域の師弟教育を目指しミニバスケットを支援して、小学校卒業者を対象に卒団式を企画し地域貢献に力を注ぐF経営者。理念の一つに青少年の可能性開化を支援する経営者は、自分が卒業した高校の柔道部の指導と三女との千本打ち込みをテーマにし、かたや人生の転機を迎えた友人の子弟も交えての山登りの企画などもしている。昨年秋の終わりに稚内のわたしの友人が主催している「自給の村」を訪問し牛の世話やチーズ加工などを体験する機会を与えているS経営者。86歳の先代、後継の三代目とともに未来の自然と暮らす家の着工した建築に携わるH経営者など様々な発表があった。聞いている私たちを惹きつけてやまない、喜んで労を楽しんで来た各々の発表である。ワクワクしながら皆さんの発表に耳を傾けていた。わたしの感想は次の二つだ。

絶対必然即絶対最善

すべて自分のみに起こったことは、自分にとってすべて絶対必然即絶対最善である。私自身も難易度か体験した。このことは歳を重ねるに従って深く感じている。たとえそれが「なぜ私の身に起きてくるのか」と理不尽を攻めることがあるかもしれない。それらのことを幾度と見聞きした。しかし、そのように信じた人間には振り返ると「納得」できることだ。

一眼は遠く未来へ、一眼は脚下の現実へ

「理念で飯か食えるのか」という言葉も何度も聞いたことがある。特に利益を出せていない状況に置かれている経営者には当然であろう。私たちは学ぶ過程で、理念のない企業の現状や末路を見聞してきた。そして各自が「理念」を探究し、制定してきた。

今回の発表で正に、上記の箴言一眼は理念に添って経営し、一眼はその下に経営をすることである。その実際体験が今回の快労報告会だ。だから、この会の発表者は精神が「凛」としている。以下何人かの感想を伝えたい。彼らは互いを尚友として学んでいる。(悦司)

■快労報告会 感想 藤井 高大

山本さん:テレビや雑誌等のメディアからの取材も格段と昨年よりもかなりの大反響でま

たクラウドファンディングやYouTubeを活かした活躍がかなり進んでいることに驚きまし

た。新規事業を軌道に乗せるための取り組みが今の時代にマッチしたモデルとなる企業の

形を生み出していると感心しました。

濱田さん:納骨事業やお墓のそうじなど、新規事業への取り組みが着実に進んでいること

が伺えてチャレンジと継続の必要性を感じさせられました。またお客様との関わりを繋げ

深めるツールとして環境整備を活かしていることも参考にさせていただきます。

朝倉さん:MANの業績支援と今後の道筋を築いた後の広島からの撤退という「決断」は

職業人として流石だと感心しました。そして草むしりへの「業務変革」とのこと、長年続

けてきた業務を切り替えることは容易な判断ではなかったと思いますが、先の計画も構想

して居られるようで、今後の活躍が楽しみです。

小路口さん:子供たちの育成・開化支援を継続し続けることで、知人家庭への良い波及が

広がっていることは彼には引きつける根源があるのだと思います。子供たちへの好影響や

事業転換においても理念をベースとしたサイクルが回っている、事象が起きてくるのでは

ないかと感じました。

柳井さん:寺林さんとの別れの話は伺っていましたが、「すべてが必然である」と自分に

言い聞かせ前に進もうとしている彼を尊敬します。その後、多くの客様からの感謝の声や

生前の彼の思いを聞かせてもらう機会を得たことが、自分の役割を再確認しより一層、理

念を深める人生になるのだろうと期待します。

堀越さん:動物と共に暮らす家やリフォーム+再利用など、顧客の声を聞くだけに留まら

ず、プラスαの提案とサービスが出来るところが親子三代が融合する堀越建築の強みな

のだと思います。自然と暮らすモデルルームも多くの思いが詰まっていると思いますので

今秋の完工を楽しみにしています。

大和先生:私も近年、将来の事業継承について考える機会が増えてきたこともあり、「ど

うしたら経営者になれるのか?」「経営者の心得」について再確認させていただきまし

た。基本原則として、一.理念本位 二.特異貢献(固有の役立ち)。我々は以前より学ば

せていただいているので理解できますが、次世代の継承者に伝えていくことは容易ではな

いと感じました。しかし自分なりの方策を探ってきたいとも感じました。

黒田先生:「絶対必然であり絶対最善である」先生の言葉からは何度も聞かせていただい

ていますし、これまで私自身も励みとさせていただきました。これから何があっても肝に

銘じていきたいと思います。

  • 皆さん理念に基づいた発表内容で活躍の場が広がっている様が伺えて良い一日となりました。これからの一年も皆さんの活躍に励みを頂き、私自身も意味ある日々を過ごしていきたいと思います。来年は皆さんとお会いして快労祭を開催されることを期待します。

■快労報告会感想文 山本卓哉

快労報告発表にあたり、昨年一年間の活動を手帳やカレンダーアプリで振り返ってみますと、あんなこともあった!こんなこともあった!と、忘れていたことが色々と出てきました。一覧表にしてみますと、取材の多さに自分のことながら驚かされます。2020年秋に柄と繪がオープンしましたが、それ以前は取材など皆無に等しかったです。ギャラリーは目立つので取材する側からすれば格好の題材ですが、それ以上に妻の存在が大きいと実感しています。妻なしではワークショップも出来ませんし、イベントの出店も難しいです。そして不思議なことに人を引き寄せる力があるのか、自分の人脈にはない人たちとの交流も増えました。課題や改善すべきことはまだまだありますが、理念に沿って少しずつ前進していきたいと思います。

藤井さん 眼鏡業界の問題点を自分事に捉えて改善していこうと、先頭に立って引っ張って行くくらいの意気込みが感じられました。オープンファクトリーが楽しみです。サインボードが凄くかわいい!!

濱田さん クレーム対応で年4回お墓の清掃を続けている!こんな対応初めて聞きました。それがクレームから感謝に変わり、次の仕事にも繋がっていく。勉強になりました。

朝倉さん 広島からの撤退し草むしり岡山の経営に参画は非常に大きな決断だったと思います。更に自立した会社を目指す!理念が向かわせた道だと感じました。

小路口さん 子供たちに体験をさせる機会を与える。時には肉体的、精神的苦痛を与える。でも楽しく。自分の子供を育てるヒントをいただきました。

柳井さん いろんな人たちが集まってくる人たらしな柳井さん。柳井さん自身の新規まき直しを楽しみにしています。

堀越さん 親子3代で地域に根差した会社はそれだけで信頼が感じられます。何より楽しそうに発表をしている姿が印象的でした。

■快労報告会感想文 柳井 誠一

今年の快労発表を聞いて改めて思ったのは、皆さん本当に自らの理念に沿ってこの一年というか、日々を過ごしているなということでした。一人一人の発表がどれも心に残りました。

  • 山本さんは伝統工芸を伝える観点から様々なことにチャレンジしており、その活動が様々なところで取り上げられ、どれも斬新で今の若者に響く表現をされていると感じました。それに、常に奥様と共に取り上げられており改めて素敵な出会い(結婚)をされたなぁと微笑ましく思いました。
  • 藤井さんは自社の事だけでなく、鯖江の眼鏡業界全体を見ており自社だけでも納期の見える化をすることにより危機感の無さが蔓延している業界の風習を打開できるかわからないけれど取り組んでいくというのは、さすが23年もの長きにわたって会社を経営している先輩として尊敬します。
  • 濱田さんは、自らは皆と比べて理念を徹底的に追及していないのではないかと仰っていましたが、墓石業界が大変な中で今までの商売の流れを変えるべく個人販売へのシフトに従業員の方と共にチャレンジしてることや、クレームから始まったお客様のお墓のクリーニングを数年も続けていることは中々簡単には出来ないことで、その様な中からもお墓参りにいらした方との会話の中から次の事業のヒントになるといった考えは常に理念と共に生きているから感じることだと思いました。
  • 朝倉さんは、この一年の快労報告ではないと仰っていましたが、やはり常に理念と向き合い日々を過ごしてるから広島からの撤退、そして岡山での草むしり事業の開始という決断ができたのではないかと思います。30数年墓石の施工一筋でやってこられたのを、草むしりにシフトするというのはもの凄い決断であり、もし今の自分が同じ立ち場であったとしたら、その決断は出来ないのではないかと考えてしまいました。
  • 小路口さんは、本当に常に青少年の才能の開花を支援するという理念に沿って自らのお子さんたちと接しており、本当に私よりも歳が10歳以上離れているとは感じない貫禄がありいつも感心します。そんな小路口さんだから同級生の離婚という問題に関して、本来ならば同級生だけの相談にのるだけで終わってしまうと思うのですが、その子供さんたちの事を考え一緒に山登りをするというのは正に理念と共に生きている小路口さんにしか出来ないでことでしょう。
  • 堀越さんも地域に根差した建築やとして、また堀越さんの人柄があるから、お客様のご要望に沿った完全フルオーダーの依頼が多いのだと感じました。普通のハウスメーカーや工務店さんではそこまでしてくれないだろうことまでしてくれ、そして近年は娘さんが入ったことにより家具の依頼までこなしてくれるというのは、近隣の方にとって無くてはならない存在であると感じました。
  • 最後に大和先生の講話にあった『理念本位』に沿った経営、『特異貢献』の存在である会社を常に目指しまた次の一年を過ごしていきたいと決意した今回の快労祭でした。

今回も本当にありがとうございました。