理念の時代を生きる186号三月理念実践会
一日一語
三月二日 教育とは流水に文字を書くように果てしない業である。だがそれを巌壁に刻むような真剣さで取り組まねばならぬ。
三月四日 真の教育は、何よりもまず教師自身が、自らの「心願」を立てることから始まる。
三月十四日 自分を育てるものは、結局自分以外にはない。
★明治維新と敗戦を取り上げ、歴史を俯瞰しながら日本人の意識の深淵と不覚を指摘しています。(悦司)
■幻の講話 第五巻 第二十五講・森信三
『第一の開国と第二の開国』
- 歴史的な問題を考える場合には、いたずらに眼前の波瀾の一高一低によって心を動揺せしめず、静かに世界史の興亡起伏を大観しつつ、自らの民族の歩みに対して、いかに少なくとも最低一世紀程度の単位を基準として、その歩みを慎思(しんし)し、省察する必要があると思うのです。204
- 今日は『第一の開国と第二の開国』と題して、わが国の明治維新、ならびに今回の敗戦を契機とする変革の意義について考えてみたいと思います。205
- わが国の明治維新について考える時、いつも痛感せしめられるのは、結論的にいって、まったく『奇蹟』という他ないというところであります。205
- どのような点が奇蹟的かというに、その一つは開国と攘夷という、まさに正逆の主張が幕府側と薩長側において行われ、しかも国際的にはもはや国を開く他ない時点に差し掛かっていながら、それが民族における二大勢力によって互いに抗争せられたという点であります。205
- 重要な点は、国際情勢という点では宮廷方よりも幕府のほうが、海外情勢が耳に入りやすかった。さらに直接外国の使者と折衝する立場に置かれている故、宮廷側よりもはるかに世界情勢に通じていた幕府側が、何故最後には尊攘派の勢力に倒れたのでしょうか。
- 根本的には幕藩体制の矛盾からくる経済状態の逼迫(ひっぱく)ということもありましょうが、尊攘派の立場は、民族の主体性の立場に立っていたからでありましょう。そしてこの事は後に尊攘派がひとたび天下をとるや、直ちに開国論に一転したことによっても明らかです。
- かくして明治維新の変革において、われわれとして最も注意すべき点は、民族の主体性に立った変革という点であり、この点が後の第二の開国としての今次の敗戦を契機とする変革と比べて根本的に異なる点と思うのであります。
- 勝海舟や山岡鉄舟などの人物が、国を内乱に陥れるに忍びずして、江戸城の無血開城にまで事をはこんだ英知を、背後において支えていたのは幕府側にも消極的、受動的ではあったにしても、やはり民族としての本能的な英知が働いていたというべきでしょう。
- 明治政府のその後の歩みは、ご承知のように世界史上にも類例の少ないほどに着々として、諸般の内政の改革と共に対外的にも、日清・日露の二大戦役によってとにもかくにも戦勝し、有色人種がはじめて白人国家に勝利を占めた、まさに世界史上空前の事例として全世界の有色人種から高く評価されたのであります。
- 一方、今回の敗戦に伴う変革は、これを結果的に見ましたら一種の開国ともいえましょうが、それが敗戦を契機とするものである以上、民族の主体的行動としての開国とは言い難いのであります。しかしそれが主体的でないにも拘わらず、実質的には一種の開国だったという点からして、今日改めて深く検討を要するものがあると思います。
- 敗戦の深因について考えるとそのうち最大なるものは、当時の軍閥の横暴によって実力過信に陥った点からくる惨敗という他ないでしょう。日露戦争勝利で心に弛緩を生じ、自己や自国の実力に対して冷静な判断を下すことなく無謀な大戦に乗り出し、後に考えれば、如何なる角度から見ても到底勝ち目のある戦争ではなかったのです。
- 特に至極遺憾なことは、その前半の段階において、中国と事をかまえ、深く内部に侵攻し、多くの無辜の人民を殺傷した点であり、深省せずにはいられないのであります。しかもそれは中国民衆の自覚的抵抗の根強さによって泥沼に陥り、敗戦の一因は実にこの点に基因するといってよいでしょう。
- 遺憾なことにはその占領政策の多くは実は我々自身から見ても、そうした改革が必要だと思われるような事柄が多く、誠に皮肉千万ながらその意図と立場は正逆でありながら、現実政策としてはその表裏・凹凸が互いに結合するという結果となったのであります。
- 現在までに行われた『第二の開国』は、『第一の開国』とは正逆に、まったく非主体的な変革だったと言ってよいのであります。四分の一世紀を経過した現在になってみますと、さすがに近頃ではこの点に対する反省を自覚が始まりかけたと言ってよいかと思われるのであります。
- 我らの民族は戦後を『非主体的変革』と『生産力の急上昇』によって醸し出された戦後文化の美酒に酔い痴れてきたことに対してようやく覚醒の微光が差しつつあるようであります。そして自国の置かれている地位は眼前の物的繁栄の華やかさとは正逆に、実に冷厳極まりない国際情勢の唯中に置かれているという感慨の切実なるものがあるわけであります。
安倍晋三回顧録 橋本五郎・尾山宏(聞き手・構成)北村滋(監修)
■なぜ安倍晋三回顧録なのか 「歴史の法廷」への陳述書
- 安倍さんに「回顧録」出版のためのインタビューを申し入れたのは、首相辞任を表明される1カ月半前の20年7月10日でした。お願いした理由は、通算の首相在任期間で133年の憲政史上最長の政権になり得たのか、その理由と政策決定の舞台裏、煩悶と孤独の日々をご自身に語ってもらいたいと思ったからです。欧米の指導者は大統領や首相を辞めると、時を経ずに回顧録を出版します。
- しかし、日本の場合は違います。中曽根康弘氏でさえ、本格的回顧録は退陣後10年近く経ってからでした。関係者に迷惑をかけてはいけないという配慮や、自らを誇ることは慎もうという日本人的な美徳の現れかもしれません。
- それでも、退任後できるだけ早く振り返ってもらおうと思った第一の理由は、記憶が生々しい状態でより真実に近づくことができる。第二の理由は時が経てば意識しなくても正当化や美化の度合いが強くなるのが普通です。それを相対化できるのは「回顧録」を関係者に晒すことです。
- 「安倍晋三回顧録」は22年1月にほぼ完成まもなく出版の運びとなっていました。しかし安倍さんからしばらく待ってほしいと「待った」がかかりました。(中略)安倍さんの四十九日が明けてから安倍昭恵夫人にお願いに行きました。安倍さんの机の上に「遺品」のように置かれているところを見つけたそうで、快諾していただきました。(23年2月10日初版発売)
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★回顧録は素晴らしい企画だと思います。文字通り総理退任後すぐ取り込むこと、同時に監修を他者に委ねることでこの回顧録からを総理としての苦衷も決断も描き出される。そして安倍総理が政治家、国のリーダーとして何を目指したかが自らの口からはっきりと語られています。
★私は近代の政治家では李登輝元総統を最も尊敬しています。蒋介石の息子蒋経国から登用された内省人李登輝が国民党内部から民主化を推進した過程こそが志・使命を全うした政治家の生き方だと思っているからです。李登輝の著書にほとんど目を通しました。内部の反発、抵抗を受けながらも民主化にむけてしたたかに推進する原動力こそ李登輝の志であり使命感なのです。
★この回顧録を読むとまさに安倍総理の秘められた志・使命感を読み取ることができるとお思います。国民はともすれば目先の事象に目を奪われあれこれ批判するものですが、日本国民として国の将来や望ましい姿を考えれば、単に批判だけ続けるメディアや政党の愚かしさも明らかです。
★今回、安倍総理が接してきた海外の首脳たちの姿を取り上げます。外交に力を入れた安倍総理だからこそ出来た、私たちが決して知ることができない各国の首脳の考え方と国の方向をみることができます。プーチンのことも勿論取り上げていますが、そこはお読みになってください。5月からの私が主催する理念実践会でも取り上げてまいります。是非手にとってお読みいただきたいものです。(悦司)
■第六章 海外首脳たちのこと・オバマ、トランプ、メルケル、習近平、プーチン
★オバマ・トランプ
- 第二次内閣以降、会談した米国の大統領はオバマ。トランプの両氏でしたが。
安倍・オバマとは仕事の話しかしませんでした。私がジョークを言っても、すぐ本題に戻す。雑談に応じない。仕事の話も非常に細かい。正直、友達みたいな関係を築くのは難しいタイプです。仕事をする上では問題はありません。オバマにはよく。「シンゾウはそう言うが、本当にそのとうりになるのか」と言われました。日本に対する不信感みたいなものがありました。民主党政権の振る舞いが疑心暗鬼にさせていたのだと思います。オバマは本当は「トラストミー」と言った鳩山由紀夫首相に期待していたそうです。同じリベラルだから。それだけに、裏切られたという思いが強かったのでしょう。
- トランプ氏は極めて特異な大統領でしたが、過去にあった政治指導者にこういうタイプの人はいましたか。
安倍・発想の仕方が従来の政治家とは異なる。ビジネス界での成功体験を国際政治に持ち込もうとした。過去の米国の大統領は「自分は西側世界のリーダーだ」という認識と責任感を持っていた。中略。私は「国際社会の安全は米国の存在で保たれている」とトランプには」繰り返し言いました。米国の国家安全保障会議(NSC)の面々と私は同じ考えだったので、NSCの事務方は私を利用してトランプの考え方を何とか改めさせようとすらしました。
- トランプ氏とは定期的な会談を約束していたのですか。
安倍・約束事はありません。ただ、お互い同じ場所に行ったら、とにかく会おう、という話をよくしていました。それは非常に重要なことです。中略。トランプは時々「この政策で大丈夫だろうか」と、時に私の意見を聞こうとして電話してきました。私が外国の首脳の中で最初に勝利を祝う電話をし、すぐに会いに行ったことが大きいとおもいます。電話会談もオバマの場合15分から30分程度と短めでした。トランプとは平気で1時間はなす。首脳同士が信頼関係を構築するうえで大切なのは、お互いが心を開くようにすることでしょう。総じて日米はいい関係を築けたとおもいます。
★習近平
Q安倍さんが最も警戒してきた習近平首席は、強国路線を進め毛沢東に並ぶ存在を目指しているようです。
安倍・私の任期中、習近平は段々自身を深めいったとおもいます。10年の世界第二位の経済大国となって以降、より強硬姿勢となり、南シナ海の軍事拠点化し、香港市民から自由を奪い次は台湾を狙っている。就任当時は事前に用意した発言要領を読むだけだった。最初の米中首脳会談も下を向いて原稿を読んでいた。18年ごろからペーパーを読まず自由に発言するようになっていました。自分の権力基盤を脅かす存在はないとおもいはじめたのではないですか。
Q習近平氏と腹を割って正直に話したことはありましたか。
安倍・中国の指導者と打ち解けて話すのは、私には無理です。ですが、習近平は首脳会談を重ねるにつれ本心を隠さないようになってきました。ある時「自分がもし米国に生まれていたら、米国の共産党には入らないだろう。民主党か共和党に入党する」と言ったのです。
つまり政治的な影響力を行使できない政党には意味がないんだと言うことです。(中略)。
中国首脳にとって、日本とあまり近づくことは危険なことです。習近平の振る舞いの変遷を振り返ると彼は昇り竜でした。でも孤独感はものすごくあると思います。独裁政権はある日突然、倒されるわけです・権威主義国家の指導者のプレッシャーの大きさは我々の想像を超えているんじゃあないのかな。
★メルケル
Qメルケル首相は国際舞台で存在感を示し。中国との関係を深めドイツにとって最大の貿易相手国になりました。メルケルから中国への配慮を感じましたか。
安倍・メルケルは首相在任中、中国に12回訪問しています。日本には6回だけです。そのうち洞爺湖サミット、伊勢志摩サミット、大阪サミットためです。単独公式訪問は3回しか来ていません。15年来日時、「あなた、なかなか日本にこなかったね」と皮肉を込めて言ったら「日本は毎年、首相が交代しているでしょう。だから、なかなか訪問するという決断に至らなかった。散々迷ったあげく、安倍政権はどうやら長く続きそうだと思ったから、きたんだ」と話していました。でも、実際は中国重視だったのでしょう。
安倍・彼女は首脳会議の夕食会で、いろいろ中国について話題を振ってくるのです。「孔子学院」について彼女は「学校に全然人がいない。中国人がドイツ国内で工作活動をしているようだ。とでもない」と言う。孔子学院が対外世論工作の機関となっていると言う話は、私は何度もサミットなどで話していたので、「だから言ったでしょ」と私は言った。でもメルケルの対中批判は鵜呑みにできません。「中国海軍は、ドイツ製のエンジンを駆逐艦や潜水艦に搭載している。これはどういうことですか」と聞いたのです。するとメルケルは「え、そうなの?」と言って後方の官僚に振り向いて聞くわけです。だれも答えない。ドイツが中国にエンジンを供給していることなんて、誰だって知っています。この程度の話では動じません。やり手でしたね。
★キャメロン
Q英国の首脳はキャメロン、メイ、ジョンソンの3人の首相と付き合いました。
安倍・キャメロンも中国に傾斜してしまった欧州首脳の一人でした。キャメロンは人権問題を棚上げにして中国に接近しました。それが西側諸国で真っ先に中国主導のアジアインフラ投資銀行に参加表明につながっていく。キャメロン政権は英国内の原子力発電所の建設まで中国にと発注し、英中関係を「ゴールデンエージ(黄金時代)」と表現しました。私はキャメロンに会うたびに人権弾圧、強引な海洋進出など中国の問題点を説明しました。その場では納得したそぶりを見せるのですが、実際は聞く耳を持たなかった。英国経済の建て直しで頭がいっぱいだったのかもしれません。
★マクロン
Qフランスの首脳はオラドン、マクロンでした。
安倍・マクロンは大統領になる前は経済相を務めていたので、アベノミックスへの理解もあった。就任当初から私に敬意をもって接してくれました。私が提唱した「自由で開かれたインド太平洋」構想にもいち早く協力を表明してくれました。南太平洋の権益を奪われてはならないと考えたから日本とも戦略的に協力しようとしたのです。アクロンは領土を守る気概が強い政治家です。
Q豪州のアポット首相に助けられる。
安倍・過去にないほど豪州との関係を強化した政権でしょう。13年に、日豪の部隊間の物品役務相互提供協定が発効し、17年には豪州の艦艇防護もできるようにしました。14年1月ダボス会議でアボットが首脳会談を求めてきた。開口一番「これだけは伝えたかった。日本の戦後の平和国家としての歩みは、世界からもっと評価されるべきだ。日本は過去の出来事において謂われなき批判を受けている。それはまったくフェアではないし日本は安全保障分野でも貢献すべきだと思う。協力していこう」と言うわけです。私はびっくりしました。
安倍・次のターンブル首相は中国寄りだったことは事実です。取っつきにくいタイプでしたが、日豪の関係を強化したかった私は諦めずに首脳会談のたびに中国の危うさを訴えました。17年のシドニー訪問のとき、夕食会で彼の奥さんが中国に非常に警戒感を持っていることが分かりました。ターンブルも中国の問題点は十分把握していたはずです。米国抜きでなんとかTPPを発効させようと協力できたのはよかったと思います。
モリソンが首相に就任したころは私のことを「メンター」先生と呼び豪州国内では「私の外交アドバイザーは日本の安倍総理だ」とまで言っていました。捕鯨を巡ってはモリソンと対立しました。18年11月日豪首脳会談で、商業捕鯨再開で理解を求めたのですが「日本はIWCを脱退すればよい」と言うわけです。率直な発言に驚きましたが、結局「日本は19年6月脱退することになりました。
Q台湾の李登輝総統の国家艦に感銘をうける
安倍・1994年自民党青年局次長として初めてお会いしました。初めて李登輝の話を聞いたとき,私は圧倒されました。2000万人を超える台湾の民をいかに守り抜くか,その強い信念と意志に心を揺さぶられたのです。人間的な魅力に溢れる人。人を惹きつける磁場のような人です。靖国神社参拝問題では私の指導者としての姿勢を叱られました。2007年6月李登輝は靖国神社参拝をしました。私は「総統のお気持ちを添って、参拝してもらえばいいんじゃないか」と一切の制約を付けませんでした。
安倍・李登輝総統に彼にはこうも言われました。「日本人は何をやっているんだ。かつての日本人の精神を失ったんですか。国のために散った多くの人が靖国に祀られている。そこに指導者が行くのはと当然のことじゃないですか」とね。もう「ぐうの音」も出ませんでした。