脳力開発182号・青少年の成長変化
理念実践会に参加している経営者の中に子弟が進学の時期を迎えている人達がいる。小学生から大学進学を目指している。毎月の例会の冒頭の各自の近況報告で会社・仕事の他に個人的な報告の中で家庭の報告も時にあります。
子弟の自立を支援する「自給の家」
北海道稚内・豊富で「自給の家」を主催している久世さんの事は小冊「緑あふれる創造」
にも紹介している。私はかつて毎年夏に天命舎で子供たちと合宿をしていたが、当時参加していた子供たちも今は高校生から大学生になって進学や人生の進路を決める時期をむかえている。今回久世さんを訪ねた小路口侑以さんは小四年、五年とお姉さんと天命舎の合宿に参加した。二年ほど前、ラコリーナの会社見学のとき父上と参加、中学生になっていた。今回その侑以さんの久世さんを訪ねた報告をかねて、当時の子供たちの成長変化をお伝えしたい。
■娘の北海道の旅 小路口欣弘
次女の侑以がこの11月1日から6日までの6日間、北海道の久世さんのとこでお世話になりました。久世さんとは直接の面識はないものの、黒田先生のところで小冊子を読ませて頂いたり、話を聞いたりして存じ上げていました。「北の国から」さながらの生き方をされているとのことでした。
自給の村の青少年支援
その久世さんが夏休みの期間に毎年全国から子供たちを集めて合宿を開いていると聞き、小さい頃から自然が好きで、食に関することに興味を持っている侑以には是非とも体験させてあげたいと、かねてから黒田先生を通じて参加のお願いをしていました。ちょうどコロナが流行りだした年で、合宿は2年続けて中止となり、残念ですが仕方ないと諦めていました。
次女の進路支援
そのような状況の中、高校2年生になる侑以は、周囲の友達とも高校卒業後の進路を話し合う時期になりました。自分なりに考えてみたようですが、話を聞くと管理栄養士の資格取得を目指すとのことでした。妻とも話し合い、侑以の性格的にあまり合いそうにないという気持ちもありましたが、本人が決めることなので、後悔のないようにしっかり考えて決めたらいいとだけ侑以に伝えていました。ただ、小学生の頃から食に関する職業につきたいと漠然としていますが、方向性だけははっきりしている中で、親としては侑以が周囲に流されず、自らの道を歩んでほしいという思いがありました。
自給の村訪問
何か将来のことを考えるきっかけ作りを支援したいと思い、10月の理念実践会の近況報告の中で、その旨を話したところ、黒田先生から久世さんのところへ行ってみてはと提案があり、すぐに久世さんと連絡を取って頂き快く受け入れて下さり、侑以自身も是非行ってみたいということで今回の旅が実行されることになりました。
次女の報告
久世さんの家族の皆さまに大変お世話になったと聞いています。滞在中はこちらの心配をよそに、送られてくる写真が最近では見ない笑顔のものばかりでした。空港に迎えに行った際も目を輝かせて開口一番に「北海道に住んでみたい」というほどでした。学校では研修で毎晩遅くに帰ってくる日が続いており、旅の日程を調整するのも四苦八苦した様子でしたが、「学校を休んででも行って良かった」とのこと、私も妻も良い経験をさせてあげることができたと思っています。
私自身もまた一つ、娘の成長の過程の支えになることができた喜びをしみじみと感じています。これから侑以がどのような道に進んでいくのかを楽しみに見たいと思います。
■北海道体験記 小路口侑以
豊富町までの一人旅
初めて一人で飛行機にのりました。コロナ禍というのもあり、しばらく飛行機に乗っていなくて耳が痛くならないかと少し不安でしたが、飛行機の窓から見える景色がとても綺麗で写真を撮ったり、小説を読んだり、楽しく過ごすことができました。
新千歳空港から電車に乗り、目的地の豊富町に到着するのには約五時間かかりました。移動中は札幌で買った北海道のいくらと鮭がのった駅弁を食べ、小説の続きを読んでいるとだんだん眠くなってきてつい寝てしまいました。目が覚めると、外は暗くなっていて起きていた時よりも乗っていた人が少なくなっていました。もしかしたら眠っている間に豊富町を通り過ぎてしまったのではと内心焦りましたが、車掌さんに聞くとあと十分ほどで着くと聞き、ホッとしました。
久世牧場と工房レティエでの体験
工房レティエではアイス作りとチーズ作りを体験しました。アイスの材料の生乳は牧場でとれた搾りたてのものを使うのですが、毎日脂肪分が違うのでそれに合わせて砂糖の入れる量を調節していて、こだわりがあるからこそ美味しいアイスができるんだなと思いました。また、キャラメルラテというアイスの製造ではキャラメルを鍋で作る作業があります。キャラメルの焦がし具合によって出来たアイスの味の濃さに影響するのでどこまで焦がすか判断する事が難しかったです。アイスの種類は沢山あり、新しい種類に挑戦していて味見をするときに次の試作でどのようにして味の調整をするのかを考える事が楽しかったです。
チーズ作り・搾乳体験
チーズ作りは思っていたよりも力仕事でした。使用する機械や器具は大きいものが多く、アイスの時と同様に清潔さがとても大事で、洗い物をしていた時や大きな鍋からカードをチーズの型に入れていく作業が苦労しました。私はチーズが大好きで製造するところを見てみたいと思っていたので、大変だったけれどまた製造を手伝ってみたいです。
夕方に牛舎に連れて行ってもらって搾乳を手伝いました。牛との距離が近くて驚きました。搾乳を始める前は牛舎の中はすごく寒かったですが、牛が沢山牛舎に入ってくると温かかくなり、生命の温もりを感じたのも良い思い出の一つです。
久世さん家族との生活
久世さんと初めて出会ったのは豊富町駅の改札を出たところで、先に降り立った見知らぬ若い旅行者が困っているのを見かねて道の説明をしていました。その後、「侑以さんですね」と優しい笑顔で声を掛けて下さり、長旅の緊張感がほぐれ安心しました。旅を終えて聞いたのですが久世さんは親戚が増えた感覚で接していただけたそうで、とても嬉しくかんじました。
娘のあもさんの家族に生活面でお世話になりました。祝日には日本の最北端にある宗谷岬に連れて行ってもらいました。最北端なだけあって風が強く寒かったです。あもさんの娘のひなたちゃんと弟のむさしくんとは、私はとても人見知りなので初日はあまり話しませんでしたが、一緒にご飯を食べたり遊んだりして仲良くなれてうれしかったです。五日目の夜にひなたちゃんとクッキーを作りました。学校の実習で製菓のことを学んでいるのでお菓子作りについて色々なことを教えてあげる事ができました。むさしくんはとても甘え上手でよく遊んでと言ってきたので遊んであげました。私の家族は三姉妹で女性ばかりなので可愛い弟ができたみたいでとても楽しかったです。
北海道での体験を終えて
私にとってこの6日間はとても貴重な時間となりました。北海道に初めて行ってみて、景色も空気も大阪とはとても違い、驚く事ばかりです。時間の流れがゆっくりしていて大自然の中で動物や人が一緒に暮らしているのをみて外国にいる気分でした。北海道に行くまで私は毎日忙しく、最近は心に余裕がない感じで悩み事も多かったですが、北海道では時間や気持ちに余裕があって、将来を見つめ直すことが出来ました。久世さんの家族は皆温かく、その一員になれた気がしてとても嬉しく思いました。久世さん家族、そして私に北海道に行ってみなさいと背中を押してくださった黒田先生と両親にとても感謝しています。ありがとうございました。
理念の時代を生きる182号・日本人が知らない近代史の虚妄・江崎道朗
■インテリジェンス読み解く第二次世界大戦
今回、理念実践会のテキストとして、上記の本を取り上げた、著者は誤解を恐れずに言えば我々が学校教育で教えられた第二次世界大戦、近現代史はもはや「時代遅れ」になりつつあるという。その事は長い間知的保留してきた私が70歳を機会に「戦後70年を検証する」で2018年に二年をかけてまとめ出版しさらにその後の継続した研究の過程で感じていた。しかし同じ世代の友人たちはもとより若い人たちは歴史すら関心も薄く、日本の近現代史等に対して知らない。最近のメディアに関係する人達も、時に政治家ですら日本の近現代史を知らない。
■「リッツキドニー文書」「ヴェノナ文書」
1989年のソ連邦崩壊後ベルリンの壁の崩壊後、中・東欧諸国の「民主化」が起こり脱「共産主義」化の流れの中でソ連の戦争責任を追及する動きが広がり、1991年エリツィンはソ連の機密文書「リッツキドニー文書」の公開に踏み切り、ソ連が戦前から戦後にかけての各国にスパイや工作員を送り込み様々な工作を行ってきたことが「立証」された。終戦50年にあたる1995年に、戦時中にアメリカ陸軍情報部がソ連と米国内ノスパイとの暗号電報を傍受解読した機密文書「ヴェノナ文書」が公開された。
これらの公開された機密文書を深く研究している研究家は少ない。私も「ヴェノナ文書」については知っていたが著者江崎道朗氏は「ヴェノナ文書」公開後の研究に詳しい。
■バイデンと習近平
トランプ元大統領以後、アメリカは超党派で中国を「敵国」と見なし外交交渉を重ねている、民主党のバイデンも息子の中国とのうさん臭さ抱えながらもトランプ以来の対中姿勢を貫いている。G20でバイデンと習近平の会談があったと11月17日の新聞で報じているが、強い中国を育てたのは正にアメリカであり日本である。
アメリカの下院議長ペロシ氏の台湾訪問後の三選された習近平の率いる中国の今日をみたとき、安倍元総理の言った「台湾有事は日本有事」が目の前にあるにもかかわらず日本の外務省、政治家はいまだ傍観している。
今回、私達が知らなかった日本の戦後史を改めて振り返って見る事にした。近現代史の隠されていた点を確認したい。
第四章 「強い日本派」(共和党)「弱い日本派」(民主党)
■加瀬峻一・初代国連大使の叫び
- 先の大戦で「日本は悪い国だ」というレッテルを貼ったのは、1946年に始まった東京裁判においてでした。東京裁判は二年半にわたり鳴物入りで日本を糾弾したが、要するに勝者の敗者に対する一方的断罪であった。それに「法律がなければ犯罪なし」の原則に反する。しかも、わが国民は戦勝国の世論操作によって洗脳され、いまだに裁判の真相を理解していない。p102
- 東京裁判は裁判官も検察官も戦勝国代表で構成しているのであって、その点で公正を欠くのだが、ソ連は日ソ中立条約に違反して満州に侵攻し、虐殺略奪をほしいいままにした。また、66都市を無差別爆撃して40万の非戦闘員を殺戮したうえ、日本が終戦を模索していると知りながら、原爆を投下したのは、許さざる重大な国際法違反である。P103
■アメリカは一枚岩ではない・東京裁判を実施したのは民主党政権
- アメリカは一枚岩ではないということです。アメリカにも多様な政治勢力があるのです。よって、「アメリカが東京裁判を実施した」という言い方は必ずしも正確ではありません。東京裁判を実施したのは、アメリカの民主党政権であって、共和党ではないからです。P105
- 戦前のアメリカの対日政策は大別して二つの流れがあり、一つは「ウイークジャパン派」(弱い日本派)日本を弱くした方がいい派です。これは当時のルーズヴェルト民主党政権が採用していた対日政策であり、中国の蒋介石やソ連のスターリンもそれに同調していました。P105
- もう一つは「ストロング・ジャパン」(強い日本派)日本を強くした方がいいというのもありました。この強い日本派は、アジアで紛争が起こっている原因はソ連の膨張主義や中国の排外ナショナリズムであり、ソ連の軍事的な覇権や中国の排外主義を抑えるために、日本は中国大陸で軍事行動をしているんだ、という受け止め方です。P106
- 1937年の日中戦争当時、アメリカは「弱い日本派」のルーズヴェルト民主党政権だったことです。1933年までは、フーブアー共和党政権で、どちらかというとアメリカは「強い日本派」でした。フーブアー政権は1929年の大恐慌に端を発する世界恐慌に直面して経済政策で失敗してしまいます。P107
■ニューディール連合
- 国民の不信を買ったフーブアー政権(共和党=ストロング・ジャパン)に代わって登場した民主党のルーズヴェルト大統領はニューディール(新しいやり方)といって、いわゆる国家社会主義的な政策を実施しました。連邦政府主導での道路や橋、発電所といったインフラ整備や、生活保護といった社会保障政策、労働組合優遇政策を推進し、ソ連との連携に踏み切ったのです。P108
- ルーズヴェルト政権はソ連と連携しながら、日本を追い詰める外交政策をとっていきます。ルーズヴェルト大統領はレイシスト(人種差別)の傾向があり、日本に対してはひどい偏見を抱いていた。中国大陸で紛争が起こっているのは日本のせいだと決めつけ、日本を追い詰める外交を実施します。こうした構図の中でルーズヴェルト民主党政権は日本を追い込み、最終的に日米戦争に発展していきました。P111
■ソ連は戦争中、中国に武器を提供していた
- 1937年からの二年間で、ソ連は中国に飛行機を800機以上、加えて弾薬、ガソリン、飛行機用兵器、無線通信機、給油装置などを提供しました。P116
- ソ連からの圧倒的な軍医援助のおかけで、蔣介石政権は自国の軍事を強化し、日本軍に立ち向かうことができました。ソ連こそが、大量の軍事物資を中国側に提供することで日中の和平交渉を妨害していたのです。P116
■外務省、陸軍、海軍にも浸透していた親ソ派
- 日中戦争を背後から煽ったソ連に対して、当時の日本は、なんと友好関係を結ぼうとしていたのです。当時の日本の、それも軍部の中にはアメリカやイギリスこそが日本にとって最大の敵であり、ソ連と組むべきだという親ソ派が存在していたのです。P119
■ドイツ、イタリア、ソ連との連合
- 日本の官僚は戦前も戦後の現在も、優秀な官僚はごく一部に過ぎず、大半は、海外事情をそれほど深く知らずに外交や軍事に携わっていると言わざるを得ません。P122
2.「鬼畜米英」という言葉を聞いたことがある方も多いと思います。アジアの同胞を植
民地支配し、奴隷扱いをしてきた英米諸国は「鬼畜」であり、打倒すべき「敵」であ
る。その英米を打倒するためには、共産主義のソ連とも組むべきだ、といった議論が
横行するようになってしまったのです。P125
第五章 東京裁判の構図
■ルーズヴェルトの国際秩序構想の挫折
- 「第二次世界大戦後の国際社会をどうしていくのか」米英ソら連合国が主導して国際秩序を構築するのが、ルーズヴェルト民主党政権の世界構想でした。128
- 正確に言うと、「五人の警察官」構想といって、アメリカ、ソ連、中国(この時点では蒋介石国民党政権)、イギリス、フランスのこの五カ国が世界の警察官として世界の平和を維持する代わりに他の国はすべて武装解除するというのがルーズヴェルトの構想でした。これが現在の国際連合と、国連常任理事国です。128
■ヤルタの密約
- ルーズヴェルトは「世界の警察官」構想、具体的には国際連合の創設に協力してくれるなら、東欧や満州、千島はソ連の影響下においてよいということをスターリンと話し合い、スターリンは喜んでこの条件を飲みました。これをヤルタの密約といいます。128
- このヤルタの密約を含め、ソ連と裏取引し、原爆投下を正当化するために「日本こそが世界で最悪の侵略国家である」いうプロパガンダを世界中に対してする必要がありました。これがアメリカとソ連が主導して行われた東京裁判の基本的な構図です。129
■東京裁判も一つの国際政治
- これまでの東京裁判の議論というのは、どうしても日米関係だけ、それも日本を弱体化するという文脈だけで語られる傾向が強かったのですが、東京裁判も一つの国際政治なのです。東京裁判をめぐる国際的な構図を念頭に置いておきたいものです。129
- 日本の敗戦後、国民党と中国共産党が戦争を始め、中国共産党は内戦に勝利すると、チベットやモンゴルやウィグルといった周辺国まで支配下に置きました。東欧でもソ連が侵略を開始し、東欧諸国は次々と共産主義陣営に組み込んでいきました。130
- 中国共産党政権樹立を受けて、アメリカの対日政策は大きく変更されます。日本の軍事力を再度強くすることで「日本を極東における全体主義(共産主義)に対する防壁」にして、中国共産党やソ連の覇権主義に対抗しようと考えた。130
■東京裁判の見直し
- こうした対日政策の変更と連動して、歴史認識の見直しが始まります。満州事変以降のアジア太平洋地域の戦争は「日本だけが悪かった」と決めつけた東京裁判の問題点をアメリカやイギリスの学者や政治家たちが指摘するようになったのです。131
- 東京裁判には、国際法上、大きな問題がありました。その論点は二つあり、第一は日本だけを裁いたのは不公平だ、という議論です。第二は、捕虜虐待などを戦争犯罪とする戦時国際法は存在するが、戦争そのものを犯罪とする国際法は存在しない、という論点です。133
■マッカーシーの告発
- 東京裁判に対する国際法上の見直しと連動して、もっと大きな議論がアメリカで行われていました。「日本を打ち負かしたルーズヴェルト外交は間違っていた」という議論が始まったのです。143
- ロバート・タフトという共和党を代表する著名な政治家が1946年、「民主党がヤルタで、ポツダムで、ロシアに迎合する政策を推進し、その結果、東欧とアジア全体にわたる多くの国家と何百万人という人々の自由を犠牲にした」と。143
- その2年後の1948年には、ホイッタカー・チェンバースという『タイムマガジン』の記者が、「ルーズヴェルト大統領の側近としてヤルタ会談に参加した国務省高官のアルジャー・ヒスはソ連のスパイだった」と告発したのです。アルジャー・ヒスはアメリカ代表として国際連合をつくった人間です。143
第6章 ヴェノナ文書と米国共産党調書
■モスクワで公開された「リッツキドニー文書」
- アメリカを始めとする民主主義国家では「30年ルール」といって、国家機密に関わる公文書も30年が経つと、原則として公開することにしています。時の政府が国益のために、国民に知らせずに秘密の外交や軍事作戦を実施することがあるが、その秘密の外交、軍事作戦についても30年が経った段階で公開します。153
- 共産党による一党独裁を掲げ、民主主義国家ではないソ連は、機密に関わる公文書を一切公開しようとしませんでした。1991年にソ連邦が崩壊し、ロシアのエリツィン政権時代に、ソ連、国際共産主義の対外工作に関する「リッツキドニー文書」の公開によって、ソ連の対米秘密工作の実態が判明するようになりました。154
■リッツキドニー文書からヴェノナ文書公開へ
- 同じ年、もう一つ国際共産主義運動の実態を解明するうえで重要な文書が、アメリカ政府の国家安全保障局(NSA)、連邦捜査局(FBI)、中央情報局(CIA)によって公開されました。それがヴェノナ文書です。
- ヴェノナ文書というのは、1940年から1944年にかけて在米のソ連のスパイたちが本国と暗号電文でやりとりしていたものをアメリカ陸軍が傍受し、解読した三千頁もの機密文書群のことです。1995年7月CIAは公の式典を開催し、「ヴェノナ」の記録が今後順次公開されることになった。160
■機密文書公開で判明したこと
- ソ連のリッツキドニー文書、アメリカのヴェノナ文書が公開されたことで、第二次世界大戦当時、アメリカの同盟国であったソ連が百人単位の規模でアメリカにスパイを送り込んでいたことが確定しました。
- ルーズヴェルト政権で財務省高官だった人物がソ連のスパイであることも明確になりました。彼はハル・ノートの原案をつくった人物です。またソ連はアメリカの原爆プロジェクトにもスパイを送り込み原爆開発についての情報を入手していたことも明らかになりました。163
■米国共産党調書・日本外務省はソ連の対米工作を知っていた
- 実は、ルーズヴェルト民主党政権の中にソ連のスパイが入り込んで、アメリカの外交を歪めているのではないかという問題意識を、当時の日本政府、正確にいえば外務省と内務省は持っていました。
- 当時の外務省や内務省は、アメリカは一枚岩ではなく、背後にソ連のスパイがいるのだから、ルーズヴェルトの反日外交に過剰反応してアメリカ全体が反日だと思い込むのは危険だと懸命に訴えました。その中心的な人物は「米国共産党調書」等をまとめた在ニューヨーク総領事の若杉要氏です。
■ソ連の目的・日米の対立を煽り敗戦革命を引き起こす
- ルーズヴェルト民主党政権にスパイを送り込んだソ連の目的は何だったのでしょうか。
レーニンは資本主義国家同士の反目を煽って戦争を引き起こし、一方の国を敗戦に追
い込み、その混乱に乗じて一気に権力を奪うという戦略を打ち出したのです。172
- この敗戦革命の工作対象となったのが、日本、アメリカ、中国でした。アメリカにおいて反日感情を煽り、日本においては反米感情を煽る。日米両国が互いを非難しあい、憎しみ合えばいずれ戦争となって日本は敗戦に追い込まれ、政府は打倒され、革命を起こすことが可能になる。173
■統一戦線工作
- 米国共産党の活動家たちは自分が共産主義者であることを隠して、芸能界、スポーツ界、ハリウッド、マスコミに入り込み、反日宣伝を繰り広げました。世論工作だけではなく、アメリカの国務省や外交政策研究機関にも米国共産党は入り込んでいきました。
- 米国共産党は、日本敗北後の中国情勢を見据えた工作も開始します。当時、ルーズヴェルト政権は蒋介石国民党政権を支援していましたが、アメリカ国内に毛沢東率いる共産党を支援する政治勢力を構築しようとキャンペーンを始めます。用意周到に米国共産党は対米工作を進めていったわけです。178
■シナ事変を契機に本格化した反日宣伝活動
- 1938年8月には経済界を巻き込んで「日本の中国侵略に加担しないアメリカ委員会」という国民運動組織がニューヨークで結成されます。発起人の中には蒋介石率いる中国国民党の宣伝部の協力者もいました。蒋介石政権から依頼されて、アメリカで反日宣伝活動をしていたのです。181
- アメリカの経済界が資金を出し、中国国民党とソ連のスパイたちが一緒になって反日宣伝を繰り広げていたわけです。シナ事変当時、ルーズヴェルト政権は、日本に対して極めて厳しい態度をとっていましたが、その背景にはソ連のスパイたちによる反日宣伝があって、それを当時の日本外務省も分かっていたわけです。
- 当時の日本政府も軍も外務省の情報に耳を傾けませんでした。中国大陸での日本軍の行動を非難するルーズヴェルト「民主党」政権に感情的に反発し、外務省の「冷静な」分析には目もくれなかったのです。182