脳力開発181号続門田隆将「日中友好侵略史」青
先月、途中までまとめましたが、この本の骨格をご理解いただきたいと想い、追加ポイントレビューしました。日本人と中国人の根本的な違い、日本人の長所でもある思考が実は世界から見たら操作しやすい性癖のようで危ういものである。これはGHQの占領と東京裁判でも明らかですが、当時の日本人はGQHの施策に対しても「唯々諾々」と従ってきたことと同様、対中国に対しても「日中友好」という美名にかくれ騙されつづけてきたことを証明しています。戦後70数年経っても、いまだ目覚めない日本人。中国や韓国が喜ぶ活動をしていることすら自覚していないメディア、新聞、NHKが大手を振るっていることを確認していただきたい。第四章から続けます。
写真 日中友好侵略史
■第一章 始まった「対日工作」
- 中国による対日工作の開始・西園寺公一(きんかず)と廖承(りょうしょう)志の出会い
■第二章自民党工作のスタート
- 「ランの花で落とせ」・松村謙三●「LT貿易」孫平化と高崎達之助
■第三章公明・創価学会への中国工作
- 池田大作と有吉佐和子・昭和36年6月「日本作家協会」が訪中した。
- 周恩来から池田大作への伝言・公明党への布石
昭和41年(1966年)5月池田大作創価学会会長への伝言「中国は創価学会に非常に関心をもっています」 昭和43年「日中国交正常化提言」が池田大作により提言された。
■第四章 権力抗争はこうして始まった・福田赳夫と田中角栄 青
1971年(昭和46年)7月5日第三次佐藤改造内閣がスタートした。福田赳夫は外務大臣、田中角栄は通産大臣に就任した。田中は当時揉めていたアメリカとの繊維問題を「税金で買い上げる」という事で解決した。
■第五章 世界の流れが変わった・ニクソン訪中 青
- ニクソン・ショックの衝撃
1971年(昭和46年)7月15日「ニクソン大統領は来年五月までに中国を訪問する」と米中同時に発表した。昭和46年7月19日公明党の竹入義勝委員長は代表質問で三週間前北京で周恩来と会談してきたばかりだった。中国共産党が狙っていた公明党工作の見事な成功である。
■第六章 もう一人のキーマン・木村武雄 青
- 戦前近衛文麿、東條英にも迎合することなく支那事変、太平洋戦争のも反対の論陣を張った政界の一言居士である。戦争中、上海に「木村公館」と称される拠点を構えていた。佐藤栄作や田中角栄に直言できる数少ない人物であった。息子の木村莞爾氏は「北京を訪れるたびに、廖承志さんのご自宅に伺いました。腹を割ってさまざまなことを話していましたね」
■第七章中国を巡って政界大動乱 青
- 1972年5月9日佐藤派の田中擁立グループの旗揚げが実行された。肝入り役は木村武雄である。次期総裁=首相に田中角栄を擁立することを申し合わせた。佐藤総理は「後継は福田赳夫」を考えていた。田中は6月11日「日本列島改造論」をブチ上げた。7月5日自民党総裁選は日比谷公会堂で第二回目の決戦投票の結果決着がついた。
■第八章日華断交は可能か 青
- 詰めの「大平工作」とは・大平正芳をターゲツトにしぼり
周恩来と廖承志による対日工作は着々と進んでいた。新しく外務大臣になった大平正芳をターゲツトにしぼり展開していた。7月11日総裁選後六日目総勢二百十名の「中国上海バレエ団」が来日、率いるのは廖承志の腹心、孫平化・中日友好協会副秘書長である。三十六日の間の公演は大反響だった。この目的は孫平化をじかに大平外相と「会見させること」だった。
- 7月20日、ホテルニュージャパンで歓迎会を開いた。大平外相を出席し、孫平化、肖向前に会う。7月22日正式に大平外相と東京オークラホテル670号室で行われた。
孫化平は「田中首相と大平外相が北京を訪問し、直接我が国の首脳と会談を行っても構わないと考えておられるのであれば、中国政府は大いに歓迎します」と述べた。
大平外相は「非公式の会談でありながらも日本政府首脳の訪中を歓迎する旨のお言葉をいただき、私は大変感動しました。心から感謝します」と応えた。
- 自民党は「日中国交正常化協議会」を設置し討論の調整をはかることにした。総勢316名という「史上最大」の協議会となった。毎回「台湾問題」で紛糾をつづけた。田中が最も懸念していたのは台湾派の抵抗と「戦時賠償問題」にほかならなかった。
- 廖承志は周恩来と相談の上、日本側の難題を克服するのに使ったのは「公明党ルート」である。7月半ば中国から公明党に「招請状」が届いた。
- 周恩来・竹入会談の核
第一回会議で周恩来はこんな提案を行った。一つは日米安保条約のことには触れません。二つめに1969年の佐藤・ニクソン会議の共同声明にも触れません。三つめは日蒋条約の問題です。田中首相は「復交三原則」を理解していると言っていますが、これを尊重すると言う意味でしょうか」竹入は「そうです」と答えた。
周恩来は「毛首席は賠償請求権を放棄すると言っています」竹入は驚いた。そのご田中訪中の日程調整に入った。尖閣諸島に帰属では「歴史上も文献からしても日本の固有の領土だ」と言うと周恩来はニヤニヤ笑うだけだ。「棚上げして後の賢い人達に任せましょう」譲る考えを見せなかった。
- もたらされた共同宣言案
1972年8月3日竹入帰国、翌日4日午前11時前閣議を終えた田中、大平外相も待ち構えていた。会談に同席した正木良明・公明党政審会長らが記したメモ56ページを示した。「中国は戦時賠償を求めません」と伝えた。翌日、田中さんに会った。「分かった。中国に行く」田中「国慶節でもかまわないのか」竹入「かまわないと言っている」田中「行く」外務省も竹入メモの内容を「極秘事項」として訪中に向かってはしり始めた。
- 復交三原則。一、中華人民共和国政府は中国を代表する唯一の合法政府である。二、台湾は中国の不可分の領土である。三、中華平和条約は不法無効であり、破棄されるべきである。8月11日大平外相はホテルオークラで孫平化と肖向前の両氏と会い、田中首相は中国訪問を正式に決定しました」告げた。
■第九章「椎名特使」を巡る攻防 青
大平「実は椎名先生に内々、台湾への特使を引き受けていただくつもりで考えているんだがね」と松本に言った。「いずれ特使は決まる。台湾に受け入れてもらえるような交渉を手伝って貰いたい」
9月13日午前台湾外交部から電話が入り「中華民国は、日本からの特使を受け入れます」田中はただちに椎名特使を9月17日台北に覇権派遣することを決めた。
■第十章台北の怒りと混乱 青
- 仰天させた椎名発言・従来の関係を継続する
「貴国・中華民国との従来の関係を継続していく、つまりこういう点に、立脚し今後の中華人民共和国との国交正常化の話し合いを進めていくと決定を見た」椎名の話はつづいた。断交の交渉ではなかった。翌日椎名発言を巡って北京ではとんでもないことが起こることになる。
- 態度豹変の廖承志
椎名特使が台北に派遣されると同時に日中国交正常化協議会の小坂善太郎会長を北京へ派遣していた。廖承志はうんうんと頷きながら小坂の話しに耳を傾けていた。小坂も廖承志も互いの労をねぎらっていた。その後行われた周恩来総理との会談も記憶に残っている。一夜明けた9月19日廖承志は「蒋介石のことを総統と称するのは何ごとか」と言い始めた。廖の態度の豹変ぶりがあまりにも露骨だったので、小坂の脳裏に深く刻まれた。
- 呼び出された小坂善太郎
9月19日夜10時過ぎ前夜の招宴のお礼に日本側がお別れの宴を催して、2時間も経っていなかった。人民大会堂に周恩来に呼び出され詰問された。「台湾で椎名特使が日本と台湾の従来に関係には、外交関係も入っていると発言している。これはどういうわけか。真意を教えていただきたい」小坂は慌てて否定したが周恩来の強硬姿勢は変わらない。「正常化するまでにはいろいろあろうが、田中首相が訪中した際、忌憚なく話し合い解決してほしい」と訴えた。完全に中国側のペースである。
■第十一章丸裸だった日本 青
- 周恩来は全てを知っていた
1972年(昭和47年)9月25日午前11時30分北京国際空港に田中角栄首相ら日本訪中団が到着した。出迎えの周恩来が近づき握手した。長期にわたる「対日工作」が実った瞬間である。
- 全て随行員まで調べ上げて国交正常化に向けて緻密な戦略を練っている中国。一方の日本は、中国の事情も知ることなくこの場に「飛び込んできている」
「今分析すると、中ソ対決の情報、文化大革命で中国が荒廃し尽くしていることも知りませんでした。橋本恕中国課長が情報をあげていなかった」「記者団は全部で80人ぐらいいた。記者たちのことも全部調べていた」
- 第一回会談(外務省公開文書で詳しい)田中の後、大平は冒頭から台湾との関係を清算し、日華平和条約は日中国交正常化がなった瞬間に「終了する」と申し出た。国交正常化をなし遂げたい日本、国交正常化で利益を得たい中国。恩を着せる形で交渉を進める中国の基本形は最初の会談から明らかだった。そんなことに気づく訪中団の人間は一人もいなかった。
- ざわめく宴会場
田中首相の挨拶の中の「私は改めて深い反省の念を表明するものであります」という挨拶の後、場内に沈黙の静寂に包まれた。後々まで語り継がれる「添了麻煩」問題が起こった。スピーチの原稿の翻訳は橋本恕課長に任せたものである。周恩来は「田中さん、ご迷惑をかけましたという日本語は軽すぎます」と抗議を行った。翌日の午前中の会談は険悪なまま終り、午後からの第二回首脳会談は厳しい態度で接してきた。
- 田中角栄の反撃
田中「日本側の困難は中国と政体が違うこと、日本が社会主義でないところからきています。この相違から国交正常化に反対する議論も出てくるわけです。この問題で自民党の分裂は避けたいのです」
周恩来「自民党内の国交正常化を急ぐなという意見をおさえて田中首相が一気呵成にやりたいというには、まったく賛成です」攻め込む周恩来、防戦一方の日本。日本は中国の術中に嵌まっていた。
- 通訳官が明かす大平の車中発言
翌9月27日の午前大平正芳と姫鵬飛の外相会談でも日本の劣勢はつづいた。万里の長城見学の車中、大平の申し出により、車を乗り換えて大平、姫外相の一対一の会談が始まった。
「田中も私も徴兵され、あの戦争のことはよく分かっている。中国側の要求をすべて受け入れるのは無理だが、最大限の譲歩はする。来た以上命を賭けてやっている。今度の話し合いがまとまらなければ、日本に帰りにくい。このことを周総理にきちんと報告してほしい。大平の懸命の説得である。それは「大平の贖罪意識」にほかならない。
- 最後の「攻防」と「譲歩」
9月28日第4回目会談で周恩来「今日は台湾問題を話し合いたい。今日は秘密会談であるから。何でも言ってほしい」大平「いよいよ明日から、日台間の外交関係は解消されます」あらかじめ用意してあった文章を読み始めた。中国課長の橋本恕が書いたものだ。「これらのことについて中国側のご理解を得たい」と大平は語った。日本側が中国の許可と理解を得るかのような会談と化していた。
- 共同声明は発表された
1972年9月29日午後11時20分日中両国は日中共同声明を発表した。妥協を許さない中国側の姿勢によって全面勝利の「九項目」の合意事項が並んでいる。
日本が命脈をギリギリ保ったのは台湾を自分の領土と主張する中国に対して、その立場を「理解」し「尊重」するものの「認めた」訳ではないと言うことである。
- 大平は調印後「共同声明の中で触れられてはおりませんが、結果として日華平和条約は存続意義を失い終了したものと認められる」と宣言した。
田中角栄の政治家としての「功名心」と大平の「贖罪意識」が「日中友好絶対主義」へと発展し、日本の存続すら懸念される事態を招くことになる。
■第十二章始まった日中友好絶対主義 青
- やってきた鄧小平
1972年国交正常化から一カ月後中国からパンダのランランちゃんカンカンちゃんがやってきた。迎える日本人の熱狂ぶりは凄まじいものだった。それが「日中友好絶対主義」をもたらした。企業にとってこれほどありがたいことはなかった。中国は未開の大地だった。そこに商社、ゼネコンを筆頭にあらゆる業界が目をギラギラさせて入っていった。原資は日本のODAである。田中派、大平の宏池会はその窓口になった。日本の巨額な資金が投入された。
- 1978年10月中国の実質的な最高権力者、鄧小平が来日した。
自分の目で日本の発展ぶりを見て、さらに自ら政治家や大企業のトップを説得して中国への投資熱を高めるためである。新日鉄や日産、松下電器等を訪れて見学・研究する一方経団連や日本商工会議所、経済同友会など経済六団体が開いた歓迎の午餐会で直接面談しトップの決断による中国進出を促した。松下幸之助を訪ね、援助がほしいと。幸之助は「なんぼでもお手伝いします」と答えた。企業の投資額とODAの額はふえつづけ、日本経済は中国への「投資」から「依存」へと形を変えていく。
■第十三章世界を驚愕させた人権弾圧 青
- 天安門事件の勃発
1989年4月胡耀邦・元総書記の死を切っ掛けに起こった。中国共産党の基本的な考えはある程度の学生たちの民主化運動は容認しても一定枠から「はみ出させない」と言うものである。6月4日未明「長安通り」を人民解放軍が天安門広場を目指して進軍した。軍は抵抗する市民や学生たちに銃の水平撃ちをおこなった。中国は自ら世界に向けて自ら「真実の姿」を晒した。
写真 天安門広場 戦車に立ち向かう
- 人権無視と中国擁護の日本外交
主要七カ国(G7)の中で日本だけが「中国への制裁」に反対した。日中友好絶対主義は中中国に対してモノを言ったり不利益なことを言える空気を日本社会から完全に奪い去った。外務省の外交文書の公開(2020年12月23日)で明らかになった。1989年6月4日に欧米諸国の制裁に「制裁反対」の方針を決めた。中国は「天皇訪中」のプロジェクトを始める。
- 天皇訪中で中国制裁を解いた日本
1992年10月23日人民会堂で過去の戦争にこう述べられた「わが国が中国国民に対し、多大な苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところで」あります」宏池会の宮沢喜一政権下で親中派の代表とも言える河野洋平官房長官が橋本 恕・中国大使(田中訪中時の外務省中国課長)と計らった日本の歴史上痛恨事とも言えるものとなった。
- 天皇訪中から11年後の2003年、当時天皇訪中に全面的にかかわった銭其琛(せん きしん)が回想録「外交十記」を著して、天皇訪中の目的を詳しく記している。日本は西側の対中制裁打破の最も弱い輪で、突破口となった」「91年8月1日海部俊樹首相は北京を訪れた最初の西側政府首脳となった。10月23日から28日にかけての明仁天皇と美智子皇后の訪問は西側の対中制裁の積極的な作用を発揮し、その意義は明らかに中日の二国間関係の範囲を超えたものだった」
- 池田維(ただし)外務省アジア局長・激動のアジア外交とともに外交官の証言
「あれ(銭其琛回想談話)はけしからんですね。私が帰国したとき天皇陛下の訪中は決まっていた。総理は宮沢喜一さん官房長官は河野洋平さん中国大使は橋本恕さんですが、反対の声が強かったので外部には決定していないと言うことにしていました」
■第十四章変貌する中国 青
- 宮中の晩餐会江沢民の発言
1998年天皇訪中から6年目、江沢民が来日、宮中の晩餐会において声高に「日本人は歴史の教訓を忘れるな」と発言し日中の歴史問題をぶり返した格好になりました。この発言は日本人全体の神経を逆撫でし、中国への不信感を一挙に高めることになりました。
- 黒い中山服をまとった江沢民は「不幸なことに。近代史上、日本軍国主義は対外侵略拡張の誤った道を歩み、中国人とアジアの国々の人民に大きな災難をもたらしました。・・・前事を忘れず、後事を戒めとする。歴史の教訓を永遠に酌み取らなければなりません」「日本では地位の高い一部の人々がしばしば歴史を歪曲している。間違った言論と行動を抑え、正しい歴史観で青少年を教育すべきだ。これが日中関係の発展に最も有効なことである」
写真 宮中 1998年11月26日
- 江沢民が始めた反日教育
民主化運動に激怒した鄧小平の指示を忠実に守った。「失敗したのは教育だ。政府は思想教育を完全に怠っていた」愛国教育と同時に「反日教育」を始めた。「日本とは歴史問題を重視し。これを永久に議論することが必要だ。二つの最重要課題はこの日本との歴史問題と台湾問題である」
第十五章ハニートラップの凄まじいさ
第十六章「破壊者」登場の悲劇・習近平
- 凄まじい破壊デモ
- 偉大なる中華民族の復興
- 千人計画に呼び寄せられる日本人
第十七章不可避だった米中激突
- やっと目覚めたアメリカ
第十八章「友好」に踊った五十年
■理念の時代を生きる181号 葛西敬之・日本が心配だ!
今回の理念実践会では葛西敬之氏の「日本が心配だ!」を取り上げました。現在の経済界について個人的に「経済にかたよりすぎる」傾向を対して疑問を抱いていました。中国との関係についても、「なんとかうまくやりたい」という姿勢に経済人として「これでいいのか」と言う疑問がありました。経済界にあっても本当に久しぶりに「国」を考える人であった葛西敬之氏に出会いました。
写真 日本が心配だ 飛躍への挑戦
序章 正論を語り続けた国士・葛西敬之
■素晴らしい経営者であると同時に国士だった
- 櫻井:葛西敬之さんが2022年5月25日に亡くなられました。葛西さんは旧国鉄の分割・民営化を主導され、その後も長きにわたりJR東海の社長・会長を務められました。
安倍:素晴らしい経営者であると同時に「国士」でもありました。体の重心につねに国家を置き、安全保障や宇宙政策、経済から教育まで、様々な問題に取り組まれた。最期まで日本の将来を案じておられた。17
■批判を恐れない強い精神力を持っていた
- 安倍:葛西さんとの勉強会の中で印象的だったのは、靖國参拝をめぐる議論です。参加メンバーの企業のトップはほぼ全員、靖國参拝で中国を刺激すべきではないという考えだった。ところが、葛西さんは異論を滔々と訴えたのです。「祖国のために戦って命を落とした英霊に敬意と尊崇の念を示すのは当然のことだ」「ここで靖國参拝を止めれば、日本は簡単に折れる国だと思われてしまう。譲れないものは譲れない」と。20
- 安倍:葛西さんは米国にも毅然とした態度で臨みました。私が2013年に靖國参拝すると、オバマ政権は声明を発表。「日本の指導者が近隣諸国との緊張を悪化させるような行動をとったことに失望した」というものでした。葛西さんは民主党の元上院議員らの前で反論しました。東京大空襲や原爆投下によって、無辜の民間人が犠牲となった。それでも日本人は米国を責めずに耐え忍んできた。日本人は礼儀正しく本音を言わないことが多い。しかし英霊への敬意と尊崇の念を否定するのであれば我々も口を開かざるを得ない。葛西さんの言葉に米国人は驚き、深く納得したそうです。21
第1章 日米の核シェアリングが東アジアの平和を守る
■米中友好は米国の国益を損ねた
- 米国のペンス副大統領は2018年10月ワシントンでの講演で中国による東シナ海や南シナ海への覇権的進出、相手国を「債務の罠」に陥れかねないインフラ開発融資、サイバー攻撃による情報搾取などを強く批判し、貿易のみならず安全保障分野でも中国と対決する姿勢を明らかにしました。39
- 最近の国際情勢は、ソ連に代わって中国が軍事面と経済面で力をつけ、米国が築く世界秩序に挑んでいます。ソ連を抑えるためにニクソン元大統領とキッシンジャー元米国務長官が中国と関係を改善したことは、その時点では仕方なかったかもしれませんが、結果的に米国の国益を損ねることになったのです。39
■バランスドパワーが日本を守る
- 日本政府にとって、国家の安全保障は最大の課題であり目的です。それを実現するために欠かせないのが「究極的な抑止力」、つまり究極的な破壊力を持つ核兵器が生み出すバランスドパワー(力の均衡)です。この考え方は、互いを破壊し尽くせるだけの核兵器を持つ国同士が「いざとなったらいつでも使う」と覚悟を決めて向かい合うと、結果的に戦いを避けることができるというパラドックス(逆説)に立脚します。43
- 日本が戦争に巻き込まれなかった最大の要因はこのバランスドパワー、米国の核兵器の存在です。米国との同盟は彼らの「核の傘」の下に入ることに最大の意味があり、中国や北朝鮮、ロシアなど核兵器保有国に囲まれている今もそれは変わらないし、他に選択肢はありません。とどのつまり、日本は米国との同盟をいかに強めるかをこれからも意識し続けなければならないのですが、その焦点の一つとなるのが、防衛大綱が今回掲げた宇宙・サイバー領域の強化だと思います。43
- 私は我が国の地政学的条件、宇宙やサイバー分野における日本の高い技術力、さらには自由主義や民主主義の価値観の共有が、これからも日米同盟を支えていくと思います。45
■防衛大綱「専守防衛逸脱」論に違和感
- 報道によると、今回の防衛大綱に対して、一部野党から「専守防衛から逸脱する」という批判があるようです。しかし私は、時代や安全保障環境や軍事技術の変化によって、専守防衛の意味も変わると考えています。先ほど、相手を破壊し尽くせるだけの兵器を持った国同士は、結果的に戦わなくて済むと述べました。この観点に立てば、抑止力を持つことが専守防衛の要になります。盾しか持つことを許されず、抑止力を欠いた安全保障は、逆に相手側の攻撃を誘発してしまう可能性が高いのです。46
■「核シェアリング」を議論せよ
- 中国は今、北朝鮮の“火遊び”を米国に対する好ましい牽制球だと見て放置していますが、その結果、日本が米国と核兵器をシェアすることになれば、慌てふためくことは確実です。彼らが「北朝鮮の核を放置すれば、中国に対する日米の核抑止力が強化されてしまう」「そうなる前に北朝鮮の核兵器は撤去させなければいけない」と考えるように至れば、中国に生殺与奪権を握られている北朝鮮は泣く泣く核兵器を撤去せざるを得なくなるのではないでしょうか。49
第四章 大義なき経済人よ、再び国を滅ぼす勿れ
■中国は技術を吸収したいだけ
- JRが儲かるわけではないが、メーカーが利益を上げ、体力が増せば、彼らの東海道新幹線に納入する資機材の品質も維持向上される。それは安全な輸送につながる。当社は直接の利益は期待しませんが、旅客の安全性向上というかたちで回収できるわけです。P106
- 中国の場合は、そういうわけにはいかない。ほかのビジネスを見ても、中国はサンプルだけを日本から買って、あとは自分たちで作りたい、と言い出すケースが多い。これでは日本の鉄道関連製造業が空洞化してしまう。台湾はそういうことがありません。P106
■経済人のプライドはないのか
- 最近、日本の経済界がなだれを打つように「中国詣で」を繰り返し、そればかりか「政冷経熱では商売がうまくいかない」という理由で、「首相の靖国参拝はやめて欲しい、尖閣諸島の問題は話題にしないでくれ」などと言い出す。こうした動きは、非常に愚かです。戦前「支那には四億の民がいる」と言って中国に進出し、反日運動が起きると軍部をたきつけたのは経済人でした。P107
- また中国は最近急速に軍事力を強化しています。その軍事力は台湾と同時に日本に向けられていることを自覚すべきです。さらに東南アジアにおける覇権を確立すべく東アジア共同体構想を提案して日米の分断を策しています。安全保障の上では、日本の唯一最大の脅威と考えるべきです。短期的には商売上魅力でも、民主主義と自由のないところに長期的安全はありません。P108
■「日中友好」を呪文のように唱えてもしかたない
- 今日本がとるべき道は、アメリカとも関係をより強化し、それに拠って中国との間では、お互いに尊重、尊敬しあえる関係を作り上げることです。貧富の差が拡大し、これからますます高まっていく中国の国内不安、対政府不満のはけ口にされるだけです。P111
- 日本は民主主義・自由主義を基本的価値とする太平洋の西端の島嶼である。日米同盟によるアメリカの核抑止力により中国の核戦力とバランスさせる。姿勢を明確にしたときはじめて中国は日本に敬意を払うようになり、友好的で大切なアジアの隣人として付き合えることになるでしょう。P111
- 「うまく付き合う」とはそういうことです。呪文のように「日中友好」と唱えてもしかたがありません。まず、真正面から、脅威である面も含めて相手を見すえて考えるべきでしょう。日本は中国の現実に対して目を閉ざしている。それは長い歴史の中で育まれた先入観なのでしょうか。P111
■プロパガンダに毒された思考停止から脱却せよ
- 事実を自分の目で見て、自分の頭で考えて判断するという能力が、特に戦後の日本人には欠けている。ことは中国問題だけではない。国連の実態とか日本国憲法の問題に関して、日本人は一貫して思考停止のままです。都合の悪いものは見ないどころか、ないことにする。中国に対する姿勢は、その典型的な例です。P112
■「戦後の民主国家としての日本」の歴史を評価せよ
- 第二次大戦後この六十年で冷戦が始まり、そして終わった。日本は平和憲法を守り、経済的に発展し、他国を一歩たりとも侵略したことはない。中国ではその間に国共内戦があり、大躍進の失敗があり、文化大革命があり、チベット併合があり、ウイグル併合があり、ベトナム侵攻があった。中国に対するとき、「まず至近の六十年を評価してみよう」となぜ言わないのか。日本は自国の六十年間に誇りを持つべきです。P115
- 日本は目を開いて事実を直視し、歴史から学び取った知恵を以て、その現実を判断し、合理性と大義に基づいた選択をするべきだと思います。アメリカと並びたち、中国と正対する。それが日中関係を正常、良好とする正解なのです。P116