脳力開発171号/理念の時代を生きる171号

あけましておめでとうございます

「希望の人生を拓く内なる前進を支援する」   

「人類の未来に役立つ人材の協働を促進する」    

 

オリンピック・コロナ接種など日本人の主体性が問われました。

コロナ逆境の中の総選挙、野党のなんでも反対の姿勢に見事に鉄槌。

やっと日本人も自ら考えはじめ、時代転換の予兆を感じています。

 

一月彦根で若い経営者を中心とした経営計画熟考会を開催しました。

二月・三月は各社の二〇二一年度の経営計画熟考会が続きました。

四月二名の理念制定式と快労報告会を開催しました。

 

四月福島原発視察と逆境から立ち上がる人々を訪ねました。

第一原発の現実と改革に取り組む福島県民の自立する姿勢に共感し、

科学的視点を無視するマスコミ・似非リベラルの実態に失望です。

 

六月檜枝岐から尾瀬への雨の中で自然の苛酷さと美しさを体感し、

七月爽快な木曽駒登山、九月霧ヶ峰から美ヶ原と自然に親しみました。

毎朝のノルディックウォーキング継続と宝篋山登山のお蔭でした。

 

六月からコロナ自粛の中でZOOMを使って理念実践会を開催しました

若い経営者十人との報告研究会は毎回新たな気づきがあります。

十月末新潟での経営合宿と燕三条の企業視察は刺激的でした。

 

コロナと経済の両立は悩ましい問題ですが、両方よいことはない。

全世界も停滞と分断の渦中、日本国民も平和ぼけから脱皮し

自分の人生は自分できめる新たな価値観を選択する時です。

 

新年も茨城・彦根で経営計画熟考会からスタートします。

二〇二二年元旦(令和四年)初春

脳力開発171号

畏友岡田吉生讃歌・人生は挑戦の連続だ

天命舎訪問

畏友岡田吉生氏が(株)ブラザー印刷を12月1日に会社を卒業した。4日に茨城県の天命舎まできてくれた。一週間の滞在、次ぎなるステージへの準備体制を整えるらしい。振りかえると私が岡田さんにお会いしたのは1987年の西順一郎先生が主催して下さった熱海赤根先ホテルでの「脳力開発研修」では記憶している。その時、初代社長岡田康孝氏と一緒に参加して下さった。吉生氏は当時企画室長だったらしい。当時の記念写真を見るとお二人の姿が映っている。

■康孝社長・一秀社長の思いで

一九五一年以来、黎明期営業拡大に尽力され、ブラザー印刷の強固な土台を築かれ四〇年社長続けられた岡田康孝社長は私とお会いして以来「脳力開発」の実践普及に力を尽くしてくださった。岡田吉生氏が愛環塾を若手経営者と立ち上げて私を「脳力開発」の講師として支援してくださり長期にわたり交流が続いている。一九九一年康孝社長から社長を引き継がれた父上一秀氏にも非常に可愛がっていただいた。頂いた富士山の紙漉絵を飾っている。また書いていただいたサミエル・ウルマンの色紙「青春」も飾っている。

■「一本の鉄筆」

「一本の鉄筆」という小冊子がある父上が書かれた「創業の思いで」ある。中学以来太平洋戦争をはさんだ時代の状況も含めて父上が「どう発意し志し、生きてきた」のか詳細に綴られている。自らの心の襞を丁寧に描かれている。兄康孝氏を敬愛する姿、大学を中退してまで創業に協力された一秀氏の弟さんの姿が丁寧に描かれている。

人間の生きていく姿やシベリアに抑留されていた兄康孝氏の帰国と同時に岡田吉生氏が誕生した喜びも綴られている。吉生氏の名前は、「舞鶴」に帰国された兄康孝氏を迎えに行ったこのよき日、「吉日」の父として留守の間に生まれた長男の名前を吉生と名付けられたのだ。「ブラザー孔版社」創業までの人間の誠実な切なる思いが描かれている。まさに「創業の思い」が描かれている。岡田吉生氏の名前のいわれはここにあった。

■私との付き合い

岡田さんに最初に会った1987年当時、私は日本コロムビアの社員だった。四十二歳で広島にトップとして赴任し会社改革に取り組み始めた年から付き合いは始まっていた。企業改革を目指し学ぶ仲間であった。企業改革の中でPCに取り組み始めた。1986年アメリカ・シリコンバレーを訪ねた時代だった。当時日本では大企業がオフコンを使っているだけで、パーソナルコンピューターに取り組んでいる人達は極少数だった。

  • 脳力開発の研修で全国を行脚

三十四年間の間、西先生の間発された戦略会計MGを巡る人達との付き合いから始まってその後独立創業するまで、岡田さんと一緒に全国を「脳力開発」研修で飛び廻った。その間ブラザー印刷の社員の方たちとも脳力開発の勉強をした。社員の多くの方を知っていた。交流は続き1994年くろだワークス・(一社)進化経営学院創業以後、資料印刷や私の著書出版をお願いした。息子たちの小冊子も出版してもらった。昨年作った「一期一会」「金婚・旅の途中で」の編集を岡田さん自身にお願いした。手数のかがる仕事だったが見事にまとめて下さった。

デジタル化によって大きく変わった印刷業

印刷業界を振りかえて見ると、日本にDTPが上陸したのは1987年頃(私達が最初に会った頃に重なる)日本語組版ソフトやフォント、出力環境などの課題は多かった。1991年に入ってバブルが崩壊すると事態は一変する。この間の印刷技術はデジタル化がさらに進み、社会全体のIT 化の流れの中で、プリンターやデジタルカメラの普及によって、印刷業界固有の技術は次第に減少していった。また、インターネットや携帯電話の普及、出版不況や新聞宅配の減少などは、紙メディアの危機と捉えられた。

事業転換への胎動

 岡田氏は2000年父一秀氏逝去に伴い三代目社長に就任した。専務時代から1995年MacDPTを完成させ1997年デジタル・コンビニエンス・ビューロウーDTP.DPTを開店した。印刷業界のデジタル化は激しくなる中で創業依頼磨かれた従来の規模・組版・編集力・技術だけでは存続は危ういとチャレンジしてきた。

■「新社屋を舞台に事業展開」

社長就任後、2006年新社屋建設した。(写真)建設後訪問した。建設までの経緯やデザイナー(設計士)との二人三脚で作り上げた社屋に私は驚嘆した。私が天命舎とその後(一社)進化経営学院を建てたが、建築プロデュースによって「何のための建設なのか」と言うところから始まるプロセスをキチンとこなした建物に驚嘆した。そしてその後岡田さんは新社屋を舞台に事業展開に取り組まれた。

 

■果敢な挑戦

2003年10月SPR室設置、提案開拓型営業への脱皮・教育●2010年ブレーク・スルー提案営業教育・対外セミナー開催●2012年グーテンベルグ・プロジェクト・マーケティング手法の教育と当社の営業戦略づくりに挑戦された。

その後岡田氏は縦横無尽にチャレンジされた。数々の分社化、時代にそったデジタル投資、新卒採用プロジェクト等々、私はその挑戦を感嘆しながら見守っていた。社長として時代に対応しながら企業の志に添って果敢な挑戦と時に挫折を経験する。それが人間の能力を磨き高める。その間の挑戦は社史を見ると勇気がでる。

■事業承継の道筋

岡田氏は社長を2019年9月まで述べ19年5カ月続けられた。その7年前今回社長を承継された中原佳子氏採用し営業企画室を担当、そして社長補佐を5年も続けて貰った。企業にとって社長承継問題はとても難しい問題がある。取りわけ規模の小さい企業では優秀な後継候補がいてかつ承継する意志、能力がある場合は非常にすくない。日本の中小企業の実態は99,7%が中小企業、小規模事業者が実態だ。ブラザー印刷をどう承継していくかが岡田さんの課題でもあった。彼は業界や社内の体制を考慮に入れ、この会社の経営ができる人材を外部も含めて周辺にも視野を広げた。

中原佳子氏の事業承継と組織改変

2013年営業企画部に中原氏を迎える。詳細は省くが縁あって中原氏に絞り社長を前提に入社する決意をしてもらった。翌年秋には中原氏を社長補佐とし就任してもらう。以後、組織の改変、環境整備、社内大移動、休眠設備の廃棄。岡田さんにはできない改革だろう。2015年10月には旧役員の退任と取締役社長補佐、新役員就任を断行。2016年、2017年と社長補佐主導による改編、改組、環境整備が続く。2018年岡田氏の会議出席義務を外す。2019年9月21日に中原氏代表取締役就任、岡田氏は会長就任した。

この間の動きも私は耳にしていたが勇気ある決断だと思っていた。何事にも比較的オープンな彼の動き事業承継の構想、全くの第三者を選び承継させる計画は商工会やロータリークラブの経営者にとっては驚く人が多かったであろうと推測する。彼には社員にも定年があるように社長にも会社を卒業することは当たり前だという認識があったようだ。

  • 口出しをしない体制

私も関係した会社の問題として会長になり現場を離れてもあれこれ口出す人が多い。その弊害から、職場卒業式という名目で、完全に口出しをしない体制づくりを目的として取引き先や業界に正式に伝えたことがある。岡田さんはこれを自ら計画し実行した。

■岡田さんの卒業式・岡田さん言葉(ブログより)

無事、卒業の緋を迎えた岡田さんは当日の模様をブログに以下のように書いている。12月1日、毎月の総合朝礼。加えて、設立記念日。67年前の1954年12月に「株式会社ブラザー孔版社」設立。その日に、私の卒業式をしていただいた。感謝状と花束をいただいた。設立記念日の「お赤飯」と「紅白饅頭」をいただいた。早速、昼食にいただいた。辞めるって実感が湧いて来た。これで、ブラザー印刷も仕事も完全リタイアしたわけだ。

  • 辞めた理由は、私がいない方がブラザー印刷は良くなると思った。みんなの会社になると思った。自虐的でなくて。あとは、しっかり老後を創らなくちゃと思った。父も母も弟も、老後がなかった。在任中に亡くなったり、仕事から離れた老後は張りと支えが亡くなったり。だから、私は会社を辞めしっかり老後を生きる義務を果たさなくちゃ。私は会社を辞めても、しっかり老後を生きるチャレンジをしなくちゃ。それが、理由。他にはない。それを卒業式にみんなに言えてよかった。お礼と共に。これからは天下の素浪人、絶対浮力。沈んじゃうにせよ、それがいい。

■一秀社長の言葉・1991年の言葉

思い起こせば1991年のバブル崩壊の後、先代の一秀社長が朝礼で言った言葉を思いだす。「世情すべてが不況による経済の沈滞が一向に上向く気配は見当たらない。そればかりか、大企業のリストラ、新卒者の採用停止、中高年齢者の企業体質不適合による退職など、失業率が最悪の状態になった。『リストラは経営者の適切な対応とは言えない。新たな企業内の改善により、人材の有効な生かし方に苦慮すべきである。』と言い、『むしろ経営者自身の退陣により、経営の合理化を計る必要がある。』とさえ指摘している。

■畏友岡田吉生氏

企業経営における経営者の決断はおおきい。岡田氏の企業経営の卒業について淡々と語っている。1991年当時の父上一秀氏の言葉を思いだした。経営者は大事な役目がある。目的・会社の志に従って事業を承継し役目を果たさなくてはならない。人間には誰にもこの世に生まれた使命がある。その使命を探究し(理念を探究し)生きることがこの世に思い残すことなく生きること天寿を全うすることだと考えている。岡田氏は企業経営を卒業し、ブログに独白している生き方を貫こうとしている。一週間の滞在の間、混沌とした時間を共有しながら、また思いもよらないステージを作り上げるのだろうと感じ、今回自分自身を振りかえるように岡田氏との交流を辿ってみた。

森信三先生の「一日一語」七月十一日(私の誕生日)の項にこう書かれている。「畏友というものは、その人の生き方が真剣であれば必ず与えられるものである。もし見つからぬとしたら、それはその人の人生の生き方が、まだ生温くて傲慢な証拠という他あるまい。」

森信三先生の言葉にお会いして以来、この言葉を私への箴言と捉えていた。岡田氏は私にとってまさに「畏友」である。(悦司)

理念の時代を生きる171号

ビバ・老年力・わが高校の同窓生

津山高校のS37年卒同窓会を今年はズームで四回ぐらい開催した。九月に全国規模で関東同窓会を開催した。会長を私達の同窓生か勤めている。今回のZOOMによる会が非常に面白かった。私個人は同窓会でいたずらに過去を懐かしむのは関心がない。今をどういきるかが大事だと思っている。この会の発端は厄年のときに関東同窓会の幹事学年に協力した同窓生が中心だ。以来37年、今回は参加者で9名、内名誉教授3名、多士済々。

手術談義・人間は簡単に死なない

最初に近況報告が中心になる。会長を勤めているM田さんは11月に両足の股関節手術で2週間入院した。股関節の手術は両脚で3時間、平たく言うと股関節の骨と受ける両方の部分をチタンに入れ換えて2週間ほど入院するだけで無事退院。みんなの質問には、皮膚だけを切って骨を切断し、骨髄の部分にチタンを埋め込み、皮膚を縫合するということで大したことはないと答えた。手術前のメールで、ご主人が「自炊しなければならないし誰とも話をしないので、認知症になるのではないか?」と書いていたので、「ご主人はどうでした」と聞くと「あちこち食事に行って結構楽しんでいたみたいよ」とのたもうた。当たり前だろう。亭主を馬鹿にするなと私は密かに溜飲を下げた。「骨を斬ってそこにチタンを埋め込んで、そのままズブズブと入らないのかなあ」と感じて質問したが、M田さんは「3か月で固定するようよ」とあっけからんとしている。

続いてS田君の冠動脈の手術体験談を聞く、我が身に置き換えると一大事なのだが、彼が語ると冷静に聞ける。微に入り細にいる話はまるで医者から直接話を聞いているようだ。手首からカテーテルを入れてなにやら血管をバルーンで膨らますそうだ。色々な対処策があるらしい。さて退院はしたものの、三本ある冠動脈の残り二本に対する処置についての

課題はあるが、担当医との面談の様子と明るく報告する口調は全く深刻さ、悲惨さは感じさせない。色々な病気の保持者の彼の話は手術なんか屁ともないと感じさせる。二人の話に人間は簡単には死なないものだなあと。病など何するものゾ!よし、生きるぞ。

■研究室からの報告

今日は大学から参加したO田氏は元東大の教授。立命館大学に移り、75歳まで13年間は、センター長として先端実験施設のボスを勤める。その間、研究論文で成果を出し、産業利用での収益を大きく伸ばしたことから、当初の3年契約が13年も続ける。最終定年が75歳、そこで引退した。上席研究員という肩書をもらい、顧問として部屋をあてがってもらっている。

月曜から金曜日まで自らの研究をしている。何を研究しているのという質問に、無知な私達に一瞬ためらいながらX線を使ってものを調べている。実験設備はここにはないので、もっぱら論文の調査が中心だとか。近頃乱視がひどく論文を読むのに苦労していると言う話に、白内障経験者の話が弾む。「一体いつまでやる予定ですか」と私が聞いたら、91歳の先輩も在籍しているという話だ。「終生続けてほしい」と切に思った。

テーマを持って生きる姿勢は本当に尊敬に値する。理系では実験か理論で新しいことを見出さないと研究論文は書けませんから、現役を離れると論文を書くのは途端に難しくなりますね。まあ好きなことを続けさせてもらえることは幸せなことだと後から話してくれた。

元可憐な少女の居直り

昨日19日まで毎日上野での清和書道会主催の書道展の開催のために8日間藤沢市辻堂から通い続けたK島さんの話が面白い。この世界の重鎮(本人は否定・しかし身は軽い)で審査員もやっているのだが、自分では小間使いをやっていると。80歳までやっても小間使いだと面白おかしく報告してくれる。先輩が沢山いるらしい。ユーチューブ載せて毎日新聞の毎日書道会で書道の広場で拝見できる。

彼女は大学生の時に忽然と私達の前から姿を消して、今は藤沢市辻堂で三世帯で暮らしている。ご主人は80歳代。お元気で仕事の関わりもあって中国の古都に彼女とよくでかけていた。今回の食事の世話はとお聞きすると、ちゃんと配達の手配をしているとのこと、まあ、子供の頃一番弱々しかった彼女が一番多用な12月を迎えたようだ。

■現役のジャズダンス&フラのインストラクター

休憩をはさんで、現役のジャズダンス&フラのインストラクターA沼さんに聞いた。コロナが治まりつつある中で、相当多忙になってきた。週のスケジュールを聞くと毎日フラダンスとジャズダンスのレッスンがあるようだ。教室も主催しているから自分のレッスンも含めて毎日身体を動かしている。

ソーシャルディスタンスでの子どものレクリエーションゲームを障害者施設の子供たちのためにまとめているそうだ。今年は休止状態だったスポーツ指導者協議会の活動も来年からは研修会も開催することがきまって新年早々から忙しくなりそうだと。

病気らしいものは皆無だ。ちょいと血圧が高いらしいが全く問題はない。頑強さに驚く。ちなみに愛車はレクサス。彼女の話に充実感あふれ生きている幸せを感じる。

■お世話役・知恵者おばちゃん

F町さんの報告を聞いて、一月のスケジュールを質問した。板橋社会福祉協議会の委員、「支え合い会議高島平」 の生活支援コーディネーターほか多数の集まりの役員を務めている。月数回の定例会議、毎日のあさの子供たちの交通安全見守りから始まって、社会福祉協議会のコーラス等々。「子供たちや高齢者」に書道ボランティア、しかし休む間がない。

社会福祉協議会の活動計画策定委員会も何カ月かに一回開かれ、沢山のものを学ばせて頂き、元気も貰っていると話してくれた。

時に後輩の人達の仕事ぶりをみて、「これでいいのか」と感じることがあるが、果たして今携わっている役をいつまで続けていいものやらと述懐する。ズットやれとか、80歳まで受けると80過ぎると自分から引退するという人は少ないと意見もある。彼女は二十七年も民生委員を続けたが近頃引退したが、今なお八面六臂の活躍で病気なんか全くない。

老年力万歳

三浦朱門氏の老年力の言葉をかりた。会社勤めを終えるとその後の目的が希薄になりやすい。私達の同級生は面白い。元気づけられる。更なる面白みを感じたので綴ってみた。格好をつけないで頑張ろうじゃないか。ビバ・老年力!(悦司)