脳力開発169号・国の生き方を問う政治へ
四つ巴の論争・逆境が保守を自覚させた
今回の自民党総裁選挙は非常に痛快だった。その理由は菅総理の突然の辞任に始まり、岸田氏、引き続き高市早苗氏、河野太郎、野田聖子の立候補が続いたからだ。高市早苗を安倍晋三氏が支援するという構図で興味を引いた。
安倍政権の果たした役割
安倍晋三氏元総理は、日本の従来の世界における地位を変えた。外交を中心に世界における日本に対しての見方を劇的に変えたといっていい。国連における演説、アメリカ議会での演説は今まで国のトップとして世界に向けて発信をしてこなかった日本の初めての国としての基本的な理念・考えを伝えた。
安倍総理が就任し靖国神社に参拝したとき、アメリカはバイデン(当時)副大統領も完全に中国におもね(最も民主党が中国と蜜月関係にあった時季)靖国参拝は国際関係の上から大変危惧すると批判し、その時の駐日大使はケネディ大統領の子女であったのが懐かしい。その後、オバマ大統領が広島を訪問し原発投下の跡地を訪れた。また同時に安倍総理はハワイを訪ね改めて第二次世界大戦を振り返り、日米安保条約の強固な関係を望んだ。G7も伊勢神宮で開催され日本の歴史にも各国のトップが参加しまじめに日本の現状・歴史に関心を示した。
悪夢の民主党政権
二〇〇九年戦後60数年の平和により日本国民も精神的に弛緩し、自民党も個人の利益を優先させ、国家観が話題になることは減っていた。自民支持の中間層も自民のチャランポランさにウンザリし、私も正直自民党に鉄槌を下すべきだという心情になっていた。結果、元民主党の政権となった。
民主党になってからの政治はここでいうまでもないが、鳩山総理(アメリカからルーピーと揶揄され)次ぎに元市民連合出身の管直人総理にひき継がれ、忘れもしない二〇一一年の東日本大震災に遭遇したわけだ。そのあと野田政権からやっと安倍晋三第二次政権が成立し今日に至っているわけだ。
旧社会党との連立政権の際、阪神大震災に遭遇し時の総理が社会党の村山富一だったのも記憶の中にある。無能な野党への災禍が続いた。
人気先行から候補者の政策議論へ
話を元に戻して、総裁選挙は河野太郎の人気が先行し、そこに小泉進次郎、石破茂が支援するという構図になった。高市早苗が立候補するとは思いも寄らない構図に、高市氏は
印象は当初は泡沫候補という一般的な印象だった。ここからが、過去に経験しなかった総裁選挙活動になった。
メディアでの質問で候補者の実情が浮き彫りに
各候補者への同じ質問への解答に、高市氏はシッカリした保守政治家として政策を語った。尖閣問題・中国の横暴、靖国問題、改憲問題とキチンと自分の考えと発言した。なるほど安倍氏が支援するわけだ。
岸田氏も旧来の候補者になくメディアでキチンと発信した。久しぶりに総裁候補者が自分の信条を語った。過去の選挙ではここまで候補者も語る機会がなかった。岸田氏も今回の機会に繰り返し信条を語った。過去の印象のよる候補者選びよりも政策による選択の予感が強くなった。
河野太郎・小泉進次郎・石破茂連合の化けの皮がはげる
発信力で評判の高かった河野太郎は、実は見かけ倒しで深い信念は全くなくメディアの表面的評価でしかないことが暴露された。日本人は印象で判断する。これは平和ぼけしている証拠で、余り世界の状況を考えるという視点が欠落しているせいでもあるが。
一般新聞紙上では河野太郎の人気を評価する。立候補から総裁選挙まで結構な時間があった。各メディア特にテレビでの討論会が何度も行われ翌日はそれが新聞紙上に掲載される。その回数が増えるに従って、岸田氏、高市氏、河野の意見が明確になってくる。一番の意見は対中国に対する見解であり、尖閣諸島に対しての防衛の視点であり、香港ウイグルへの人権問題であり憲法改正の意志である。
河野太郎の曖昧な姿勢がハッキリとして、果たして彼に総裁を任していいものかという疑問が日を追う毎に強くなってくる。河野太郎が石破茂と組んだのは地方議員の票の獲得を狙ったことは明らかであり、加えて石破茂はあわよくば総理への影響力を狙ったわけだが、そうはいかなかった。
若手国会議員・地方議員の覚醒
高市早苗氏は今日の平和ぼけした日本人に、本当に日本はこのままでいいのか?と問いかけた。自民党の政治家も河野人気に便乗して次の総選挙が乗り越えられるのかと自問自答したと考えられる。
総裁選挙の結果、自民党議員票は予想外に岸田、高市氏に集まり、加えて地方議員票も過半数を河野太郎は確保できなかった。議員票も高市氏の後塵を拝した。これには私自身も驚き、そして自民党のここにきての冷静な判断に安堵した。このまま、河野太郎になれば、一体どうなるのかと危惧していたが。
まだ日本人も冷静さが残っていた
総裁選挙後の会見で、小泉進次郎は「完敗だ」と反省の弁を語った。二階幹事長のようにいつまでも老人が権力を行使することは避けなくてはならない。世代交代はどんな組織でも大事なことだ。しかし真摯に政治家としての理念のない問題だ。
若手の台頭は確かに大事だが、表面的な国民人気に便乗して河野太郎が総裁になることを許すほど日本人は惚けていなかったと言っていい。
総選挙はどうなるか
さて、岸田総裁を頭に衆議院総選挙が始まったが、一体どうなるのか?閣外限定協力と枝野は言う。しかし共産党は野党の統一への初めての機会だと喜んでいる。共産党と組んだ立憲民主党をかつての旧民主党に日本国民が投票した当時の熱気などある訳がない。
元外務省の佐藤優氏は「共産党と立憲民主党が選挙協力を進めるということになれば、体制変更に繋がる危険がある」「共産党はマルクス・レ-ニン主義という強固な価値観を持っている。静かに立憲民主党に浸透していく」「共産党は自衛隊を人殺しの装置だといい、天皇制も否定している党」なのです。
いまだ連合や各組合は反共産党である。今回トヨタ労組も50年来の組織内候補の立候補を取りやめた。組合頼みの立憲民主党や社民党は時代から遅れている。それでも社民党は一人確保できそうだ。しかしまだ消えない。
日本人も少し冷静になってきたのか
コロナは各国の政治経済に打撃を与えた。九月末解除後、感染は減少傾向にあるが果たして如何なものか。時間の経過とともに接種率68.8%でアメリカは57.6% 10月22日現在。冷静に見てよくやっている。
世間の風潮やメディアの素人発言に流されず、多少科学的にもみることが訓練されたの
だろうか。かと言って、世間の噂や風評に影響される人達が一挙に減るわけではない。自民の議席は減るだろう。しかし立憲が政権を担う党でないことは自明の理である。共産党と野合する党に投票するのですか。
理念の時代を生きる169号
今年の理念実践会では数回にわたって現在の日本が置かれている状況を見なおしている。理念実践会の目的は理念制定した人の日常の経営や実践の中における日常の行動の確認、反省、修正がある 自社・自己の理念にいかに添って経営をしていくか行動していくかがテーマでもある。
- 世界のフェイクニュース
私はジャパンフォワードの「日本を貶めるフェイクニュースを論破する」という視点に賛意を示している。その理由は言うまでもなく、最近まで日本政府や外務省メディアは例えば中国、韓国、もといえば世界中が「従軍慰安婦問題」のみならず「南京問題」とう歴史的な課題に多くが沈黙を守り、加えて国内の進歩的文化人や政治家、学者、弁護士のなかに日本国民でありながら、国家としての日本の脚を引っ張る人達が多い。その事を客観的に、冷静に見ることが重要だと考えている。
- 戦後七〇年を検証する
七〇歳になった時から「戦後七〇年を検証する」というテーマで数年にわたり戦後日本史を俯瞰し同時に多方面から事実を検証してきた。その延長線上に理念実践会で世界の現在を振り返ってみたいと考えている。詳細は著書に譲 る。戦後史の欺瞞にスポットを当てている。
- 日本を貶めるフェイクニュースを論破する
最近の理念実践会ではテキストとして「日本を貶めるフェイクニュースを論破する」「世界のニュースを日本人は何も知らないⅠ」「世界のニュースを日本人は何も知らないⅡ」をテーマに見てきた。詳細はここではおくが、世界中が、具体的に言えば中国も韓国ものみならず欧米も国連も自国の利益優先をすることが当たり前であること、そして事実を検証しないまま流される情報に翻弄されている日本人の一般的な風潮も確認する必要がある。
- 門田隆将の「新階級闘争論」
次ぎに門田隆将の「新階級闘争論」を取り上げた。特に米国は十一月の大統領選挙で混乱を究めたが、トランプとバイデンの問題はその根底に長年続いた民主党政権、具体的にはポリティカル・コレクトネスに表象される民主主義の問題点があぶり出されている。
その視点から、日本の現在のあり方を検証する意味からも視点を変えて見なおしている。今の時代に階級闘争論というのは一見時代錯誤と思われる方もいるだろう。しかし、視点を変えれば世界が政治も経済もグローバリズムを中心とした国境、国家を越えた動きを呈しているとも言える。
- 渡部昇一氏の「日本人論」
続いて日本および世界の歴史に精通している渡部昇一氏の「日本人論」を取り上げた。日本人が決して失ってはいけないもの。敗戦後アメリカが日本の歴史を抹殺しょうとしたさ歴史、中国の国家資本主義の脅威、台湾の中国化、日韓関係のあり方を見なおした。
- 内村 鑑三「代表的日本人」
次ぎに内村 鑑三がアメリカで書いた「代表的日本人」を取り上げた。西郷隆盛・上杉鷹山・二宮尊徳・中江藤樹・日蓮の五人をあげ、その生涯を叙述する。日清戦争の始まった一八九四年に書かれた本書は岡倉天心『茶の本』、新渡戸稲造『武士道』と共に、日本人が英語で日本の文化・思想を西欧社会に紹介した代表的な著作である。
この本は日本人なら読んだことがあり、冷静に日本人を見なおしていると定評がある。江戸時代の代表的日本人を取り上げアメリカ人に伝えている。クリスチャンである内村鑑三の著書から引用してケネデイが大統領就任の時の記者会見で日本人の新聞記者に上杉鷹山のことを質問したが、当時の新聞記者の大半が知らなかったことに唖然としたというエピソードは有名だが、正直大半の日本人は知らなかっただろう。現在でも知らない人は多いだろう。
- 台湾を築いた明治の日本人・渡辺利夫
現在、中国の一帯一路戦略、および香港、ウイグル、チベット、モンゴルの人権問題が世界の注目の的であるが、取り分け台湾に関しての中国の恫喝は世界の批判の的である。
残念ながら世界が、遅ればせながらやっと中国の戦浪外交により目覚めたEUですら人権問題に関して国家として中国を批判しているにも関わらず、日本の国会は超党派で人権問題を取り上げないばかりか自公連立政権が取り上げない。自民党内部の親中国はもとより、公明党が池田大作以来の親中の姿勢を慮って宗教と政治の枠から脱皮できない。
巷間今の学会の人達は人権問題には敏感であるが、現在の公明党は宗教的理由というよりも池田大作会長に忖度しすぎている。若い人たちはそういう公明党の現執行部に批判的であると仄聞する。
今回は明治の日本人を取り上げた。台湾を割譲された日本がいかにエネルギーを注ぎ込んだか五十年間の貢献を描いている。日本人が公的な意識にあふれ、台湾という地域を日本の国として懸命に開拓し改革して言ったかを物語っている。
■内容骨子
一、「私が一日休めば、日本の近代化は一日遅れるのです」パリ留学中の古市公威が高熱にうなされながら下宿先の女主人に言った言葉だ。古市とは信濃川、阿賀野川などの河川工事の監督に当たり、明治期日本に河川・港湾工学の黎明を告げた人物である。西洋文明をいち早く吸収して独立不羈の近代国家足らねば、日本は文明国の一員として生存できない。自分は、今、国費で賄われ西洋文明吸収の最前線に高熱など恐れているゆとりはない。強烈なエリート主義とナショナリズムを背負う明治の技術者の気概をこのエピソードは物語っている。
二、古市は後に帝国大学工科大学(東京大学工学部の前身)の初代学長になり、その門下生に広井勇をえた。広井は、古市の後を襲って工学大学教授となり「広井山脈」と呼ばれる多くの逸材を近代日本に供給しつづけた。門下生青山士(あきら)は大学卒業するやパナマ運河の建設に加わり、帰国後信濃川大河津分水事業という世紀の難事業を託された。竣工記念の碑に「人類ノ為メ 国ノ為メ」刻印されている。
三、八田与一は広井を師とし青山を先輩として畏敬する。明治四三年(一九一〇年)工科大学卒業と同時に、迷うことなく未開のフロンティア・台湾に向けて出立、総督府土木部の技術者となる。
台湾の中央部には北回帰線が走る。回帰線の北側は亜熱帯、南側は熱帯モンスーン気候に属する。稲作適地は台湾南西部の嘉南平原である。しかし、一五万ヘクタールに及ぶこの平原は、八田が初めて訪れた頃はまったくの「看天田」であった。不作、凶作、豊作は天の采配次第で、人為ではどうにもならない。
四、 嘉南平原の開発とは、雨期における水の制御、乾季における給水の確保、つまりは水利灌漑施設の整備に他ならない。 八田の構想は壮大であった。阿里山に源流を発する曽文渓の水系に烏山頭という場所がある。ここに堰堤(ダム)を構築、貯水した水を嘉南平原に流す。なお不足する貯水量を得るために烏山嶺に三〇〇〇メートルを超える隧道(トンネル)を掘削。ダムから放たれた水は、地球を半周するほどの総延長となり、あの荒涼たる平原が広大な緑の絨毯へと変じたのである。
五、磯栄吉は「蓬莱米」の開発に二〇年近い歳月をかけ成功した。東北帝国大学農科大学(北海道大学農学部の前身)を卒業、台湾総督府についたのは八田よりやや遅れて明治四五年(一九一二年)であった。米不足の解消という課題への挑戦である。前方に曙光のみえない、常人なら精根尽き果てる作業を続け、蓬莱米という単収が決定的に高い改良品種の創生をなし遂げ、台湾はもとより日本本土の米不足にも貢献した。
六、磯の蓬莱米は、後に改良が加えられて、アジアの全域に導入され「グリーンリボリューション」といわれる革命を巻き起こした。インドのパンジャープ州の正視に堪えない酷薄の飢餓に深く心を痛め磯と台湾政府の協力を得て蓬莱米をインドに持ち込み辛酸をなめながらパンジャープ州を飢餓から救出した一人の「忘れられた日本人」がいる。杉山龍丸である。明治期日本の政治経済の政財界に隠然たる影響力を持った杉山茂丸を祖父とし怪奇小説で名をなした夢野久作を父として生まれたのが「昭和の明治人」杉山龍丸である。
七、第四代台湾総督として、後に満州軍総参謀長として日露戦争において日本を勝利に導いた児玉源太郎、児玉に同道して台湾近代化の基盤づくりに台湾総督府民生長官としていだ偉大なる貢献をなした後藤新平。この二人の人物の思想と行動の中に、理性と号機をあわせもつ明治日本の指導者の原像を探り、台湾に生きた明治日本人の精神史を描いている。
■理念実践会に参加の感想
台湾に貢献した幾多の日本人群・F氏
以前、台湾について学んだ際に台湾統治時代に死力を尽くした代表的日本人(児玉源太郎氏、後藤新平氏、八田与一氏、六氏先生、その後、李登輝元総統、等)のことを学び少しは知っていたつもりだったが、今回新たに活躍されていた日本人の方々(磯栄吉氏、杉山龍丸氏、広井氏、青山氏、等)の功績を知ることで新たな知識を得ることができた。
自分も経営者として、上記の日本が誇れる「先導者」方から見習わなければならない点が多くあると感じた。皆共通して言えることは、技術や知識、経験は勿論のこと、人として周りの人々を引きつける魅力と自ら先頭に立って導く行動力が伴っているということだ。
「経済」と「精神」を両立させ、「理念」というべき人間の核となるものが「自利利他」の想いから溢れ出ているのだろう。
「保甲」制度や「国家衛生原理」の取り組みは、我々が取り組んでいる「環境整備」の捉え方に相通じるものがあると感じた。「今あるものを否定し止めさせ人を変えようとする」のではなく、まずは現状を把握し承認することから始めて改善策を見出し、創意工夫を重ね「環境を変え創っていく」という思考も共通する考え方なのではないか、と思う。
また「人類ノ為メ、國ノ為メ」や「自利利他」の話を聞いて思い出したことがあった。自国や他国に捉われることなく自分のことよりも利他的精神で自分の役割に志命を捧げる生き様に日本人としての本質を感じた。
人類のためという大きな目的にいきる・T氏
欧米諸国が他のアジアの地域で行ったような搾取や自国の事しか考えていないような植民地化ではなく、日本は人類のため、国のためという大きな目的をもって、そこに住む人たちと一緒に汗を流し、血を流しながら今の台湾の原型を作り上げたことを、日本人として大変誇らしく感じます。そこには、日本人として大切な資質である研究熱心さ、粘り強さ、他人を思いやる心、自分が身につけた知識や技術を人のために生かすこと、人生を命を賭して気概をもってやり抜くことなど、今の我々が失いつつあるような素晴らしい日本人らしさを明治の人たちは持っていたからこそ成しえることができたのだと思います。このような素晴らしい日本人がいたことを、もっと多くの人に知ってほしいと思いました。
独立国家を守ろうとする国民一人一人の矜持・S氏
一冊を通して感じたことは、日本が明治の頃、欧米列強の覇権主義国を中心に世界情勢が不安定な中、日本が独立国家であることを守ろうとする意識が政治家だけではなく国民一人一人にも強くあったことが想像され、故に台湾の経営も本国と同じように、アジアを覇権国から守るため、強くすることを目的にされていたのではと感じています。
そういった時代背景の下で、結果として、農業を中心に台湾の国や、そこに住む人々が豊かになることは、搾取や略奪とは一切無縁の日本人本来の気質であり、これまでに学んだところでいう「和道経営」そのものだと思いました。
また、児玉源太郎、後藤新平、磯栄吉、八田與一など、多くの日本人の手によって台湾が豊かになる経緯については、決めたことを最後までやり抜く姿勢、問題が起きた時の取り組み方、時間、労力、費用のかけ方など、経営者として仕事の本来あるべき姿や、仕事に対して取り組む姿勢に学ぶべき部分が多いと感じました。
日本人としての精神や思想も台湾に築いてきた・H氏
以前、黒田先生、次世代経営者のメンバーとご一緒させていただき、台湾を訪問した際に感じたことが、訪問する前は、「中国の小さな島」といった先入観を抱いていましたが、実際に台湾を訪問してみて、まず、最初に中国人との人間性の違いに驚きました。どこにいっても挨拶してくれますし、バスや電車などに乗車してもマナーをきちんと守り、かつ礼儀正しい。そして、街もきれいに環境整備されていて十年程前に訪問した中国とは似ても似つかないところでした。
日本人が台湾に対して多くの事で貢献していることを再認識しました。特にそれを強く感じたのは「約二十万人の日本人の多くは、長い台湾在住からの離別を潔しとしなかった。」その理由は、半世紀にわたる努力によって築かれた資産と人間関係の絆を断ち切られるからであった。このように、日本人が台湾のために築いてきたことは烏山頭ダムや治水事業、農業はもちろんですが、そのような事象だけでなく、日本人としての精神や思想も台湾に築いてきたのではないかと思います。
今回のポイントレビューの中に浄土真宗の「自利利他」の考えもその一つだと思いました。日本人が自ら得た公徳を台湾のために救済する。それを得た台湾の人がまた別の台湾の人のために救済するという良い関係を根付かせたのも当時の日本人の残した資産だと思いました。私たちも自らが探究し得た「人生理念」を関係ある人々の役立ちができるように、常に正しい方向性を持って、自らの人生と自らの事業を通じて実践していきたいと強く思いました。