脳力開発164号・福島原発視察記・絶対必然即絶対最善
■視察の経緯・根本鎮郎氏
2015年3月福島原発の被災地を訪ねた。2011年3月の東日本大震災の後、福島復興に名古屋から毎月1~2週間通っている根本鎮郎氏に案内をお願いした。根本さんはふるさと復興のためという思いから、放射能汚染を自然界の力で何とか低減できないか?竹と微生物で放射能を低減できるのではないか?というテーマで「うつくしま、福島福幸プロジェクト」をスタートさせ3月11日直後から、ふるさとの福島に毎月のように通い、竹パウダーやミネラル類、微生物等で放射能汚染された土壌の改良を施している。 2011年から飯舘村の畑を借用し実験をスタートさせた経緯がある。
2021年1月初め産経旅行社の福島原発の視察ツア-の案内があり直ぐ参加を決め参加費も直ちに振り込んだが、コロナの関係で2月、3月二度とも延期になった。10年間ふるさと復興活動を続けている根本さんに原発視察のことを話して、私は先に視察をするがそのあと、知人達との福島原発視察および被災地の現在を案内していただきたいと依頼していた。
「東電福島原発事故自己調査報告」細野豪志著
訪問に当たって次の本を読んでいた。元原発事故終息担当大臣だった細野豪志著、社会学者関沼博編の「東電福島原発事故自己調査報告」サブタイトル深層証言&福島復興提言2011+10を読んで行った。細野氏は歴史法廷で罪を自白する覚悟を持って本書を書いたと帯に認めていた。章立ては第一章最前線の闘い(対話)第二章10年経った現場へ(対話)第三章福島のためにわが国が乗り越えるべき6つの課題。343ページで構成されている。是非ご一読ねがいたい。その他構内作業の実体験を書いた竜田一人氏のいちえふ・福島第一原子力発電所労働記を読んでおいた。勿論映画FUKUSSHIMA50は見ていたが。
■帰還困難区域・中間貯蔵施設現場視察
福島第一原発視察の前日、被災地帰宅困難地域を視察した。特別に大熊町住民の一時帰宅という名目で通常は立ち入りできない中間貯蔵施設の現場です。案内は大熊町ふるさと応援隊の元理事長渡部千恵子さんにお願いした。ご自宅まで先導していただきました。立ち入り禁止区域に入りには事前の書類と中間貯蔵地域を出るときには今回の放射線量も測定されます。平均0.5から0.8マイクロシーベルトでした。一人一人の靴の裏を図ります。
中間貯蔵施設の地域には黒いフレコンパックが山のように積まれています。中間貯蔵運搬車両と長い運搬専用ベルトコンベヤーで運ばれています。10年のあいだにいろいろな設備も出来上がっています。
自宅は避難当時のままで、倉庫にあったコメは猪にシャッター破られ食い荒らされ三度も盗難にあったとお聞きしました。前回2015年視察した時も盗難にあった話を思い出します。双葉町大熊町と帰宅困難地域はつづき道の両側は立ち入り禁止でガードマンが立っていて勿論入れません。
中間貯蔵地域
ベルトコンべアー
渡部さんの自宅
■福島第一原子力発電所視察
廃炉を進めて福島原発は10年の時間が経っている。現場に行く前に次のような点について説明してくれた。一号機から四号機までの状況を資料とプロジェクターを使って丁寧に説明してくれた。①港湾内外の放射性物質の濃度の変化、②汚染水と原子炉循環冷却の概念図、③汚染水対策の3つの基本方針、④汚染水発生量の低減、⑤労働環境の改善、⑥中長期ロードマップと実行計画の概要を解説してくれた。
★構内の位置関係と視察経路図
そのあと、一人一人線量計をつけバスに乗って構内を巡回した。発電所構内は現在、96%が一般作業服による作業が可能なGゾーン、残りが防護服と全面・半面マスクで作業するエリア、Yイエローゾーン、防護服と全面マスクで作業するRレッドゾーンになっている。竜田一人氏のいちえふ・福島第一原子力発電所労働記を読むと福島第一原発に入るときは何重も厳重な防護服を着用していた当時から見ると、今は96%が一般作業服で可能になっている。
■一号機から四号機が一望
構内の青い③の位置から一号機から四号機が一望できる高台で係員の人が各原子炉を丁寧に説明してくれる。10年前テレビで見た水素爆発を起こした第一号機は今も無残な姿を晒している。距離的には200米も離れていないだろう。四号機では燃料体1535本はすでに取り出し完了し、三号機も566本の燃料体も取り出し完了している。
一号機は大型カバ-の設置完了予定が2023年、燃料取り出しは2027年から二号機の燃料取り出しは2024年からの予定とのことだ。二号機が水素爆発しなかったのは壁面のパネルが一部剥がれ落ち水素ガスが外に漏れたためらしいが、新たに燃料取り扱い設備を設置したからの作業になるとのこと。今年の暮れから廃止措置終了まで30~40年かかるという長期ロードプランを聞くと気が遠くなる。
■現地情報・処理水の処理トリチウムの問題
バスで巡ったあと、再び説明会場に戻り「トリチウム」の処理した現物を見ながらまとめをきいた。丁度私達がうかがった日は政府が処理水の処理について政治的決断を翌日に控えていた。13日、2年後を目処に処理水として放水する決定を政府はした。韓国中国は早速ハンタイを表明してきた。国内からも漁業関係者は放水反対を表明している。風評被害がその一番の要因だが。立憲民主党が民主党として政権にいたときに起きた福島原発水素爆発事故がおき、その対応をしてきたのが当時の政権の担当者細野豪志氏だった。
★科学が風評に負けるわけにはいかない。処理水の海洋放出を実行すべきと細野氏は著書の中で書いている。事故当時の責任者であった細野氏は原発事故直後、線量の高い水が海に流れ出るのを止めることができず世界から厳しい批判にさらされた。現在、処理水は当時とは全く比較にならない。福島の県民世論は依然として厳しいが伊澤双葉町長は「危険なものだから、そこに置いているという新たな風評被害つながる」吉田大熊町長は「また大地震があった場合、タンクがひっくりかえって流れだす被害も心配。住民帰還の足かせになる」と発言している。楢葉町の議会も処理方法の早期決定を求める決議が採択されている。
★セシウム吸着装置→淡水化装置→ストロンチウム処理水→多核種除去設備→多核種除去処理水(貯蔵タンク)と順次処理され、貯蔵タンク現在1050程度もあると聞いた。現在のタンク貯蔵箇所はかつて緑豊かな森であった。
保管されているタンクの水をそのまま海にだすという悪質なデマ
4月13日に政府の発表に対して前述したが早速反対した国もあったが、処理水=トリチウムの世界的な基準数値を基に処理すべき課題だ。(ここでは詳細は措く)
科学的な根拠に基づいた処理
今回の視察で感じることは、科学的な根拠に基づいた上で、国内はもとより海外についても継続して情報発信をしなくてはならない。国を挙げて冷静に情報発信をしなくてはならない。私達は今回視察することによって、現場の情報を体感した。そして今なお今後も30~40年にわたって廃炉作業に精魂を込めて働く人達の姿をみた。
■逆境から立ち上がる人々
10日から11日にかけて会津から飯館村や被災地、いまだに立入禁止地域も巡った。その中で今回特筆すべきは会津電力がある。勿論その他の活動現場や人々にもあってきた。
■会津電力株式会社・理念・エネルギー革命による地域の自立
地域内で資金を循環させ、地域自立を実現することがわたしたちの理念です。福島原発後、原発に依存しない再生可能エネルギーによる社会づくりを目指して会津地域の有志が集い2013年8月1日に設立。地域の資本と地域の資源を活用し、安全で持続可能な再生可能エネルギーの普及とその事業をおこない、多様な地域分散型エネルギーの創造と、その提供を通じて地域の経済や地域文化の自立に向けた地域社会の創造を事業とする。
会社案内にこう認めている。「国や東電を批判するだけでなく、原発を見過ごしてきた責任として、太陽光、小水力、木質バイオマス、地熱、風力等の再生可能なエネルギーを、他地域から運び込むのではなく、まず私たち自身で作り出そう」このような活動を通じて次世代の子供たちや孫たちに「社会は自分たちの手で変えることができる」という実感と共にこの地域を手渡していくと謳っている。(会社案内より引用)
■までい工房・美彩恋人・渡邉とみ子様
「までい」という言葉は飯館周辺の方言で「丁寧に」とか「心を込めて」という意味だそうです。いいだけ村ではこの「までい」の精神が大切にされてきた。復興は未だ道半ばだ。災害は沢山のものを奪ったが、時間の経過の中でその経験により「得たものもある」と感じるようになった。生み出されたたくさんの人とのつながり、励まし、応援が何よりの宝だ。これからも手間を惜しまずおいしいものを皆さんに届けたい、と渡邉さんは言われる。
私達のためにお弁当を作って下さった。そしてお話しもお聞きできた。
■いいたてゆい農園・代表・長正増夫様
根本さんが原発被災地で除染実験を行うために全村避難をしている飯館村を選び、知人の紹介で元副村長であった長正増夫さんに出会った。畑をお借りし2011年7月より実験を開始した。2012年7月から飯館村の村民有志とともに自主的な除染実験や県、国、東電に対して種々の働きかけをやってきた。飯館復興志士の会として現在までお世話になっている。
いいだて結い農園は「安全・安心」を基本理念に自然に優しい農法、身体によい食材を造るため農薬や大型機械に頼らず農村の伝統的な「結いの精神」で手間と暇を惜しまず安全安心なのものづくりを心がけている。また、放射線測定や実証栽培を福島大学や研究機関共同で行っている。
今、老齢化している自分たちにできる「えごま」づくりに積極的に取り組まれている。飯館村道の駅で販売されている、えごま油、えごま入りビスコッティ、じゅうねん(えごまの実)を商品化されている。勿論私達も喜んで求めてきました。「えごま」は福島県の放射線測定で基準をクリアしている。
■もーもーガーデン・人と、動物と、自然すべてが、生き生きと輝く空間を作る
原発被災地で飼われていた牛たちが殺処分を免れて保護さている場所。11頭の牛たちが約七町歩の荒れた田畑の草を食べ美しく保全している。牛糞効果により土地も肥沃に新しい循環農業の場として広めたいという希望をもって取り組んでいる。根本さんは2015年から支援をしている。ジャングルのような草木で荒れていた土地が草原のように美しくなり牛も自然の草をたっぷり食べ元気にのびのび生きている。恐るべき除草力といえる。http://moomowgarden.or.jp
■絶対必然即絶対最善
東日本大震災・福島原発が起きて10年の時間が経過した。振りかえるとあっと言うまだ。
掲題の箴言はドイツの哲学者ライプニッツの言葉だと森信三先生から教えられた。人間は如何なることが身に降りかかろうとも、その事は避けることはできない。さすればその事は即ち自分にとって必然であり同時に最善であると信ずることだと。
私も間もなく78歳を迎えるが、この箴言どおり生きてきた人達に沢山お会いした。大震災のなかでもそう生きてきた人達をみた。災害の多い日本人は長い歴史のなかで必ず立ち上がってきた。今回の福島視察の旅でも、文字どおり立ち上がる人達に出会った。会津電力を立ち上げた会長佐藤弥右衛門氏、社長山田純氏達80団体ほか各地に理念を掲げて立ち上がり困難を超えて活き活きと生きている人達がいる。
今回の案内人根本鎮郎氏は10年にわたる福島福幸プロジックトを続けている現場から立ち上がる人達に出会い支援してきた。彼は視察の後「原発事故のマイナス面だけでなくプラス面も沢山あります。人々の生き方、考え方にも多大な影響を及ぼしてますね」と語っている。正に福島原発の現場の中で体感した言葉だ。
今回も私は福島第一原発による被災地の人達、廃炉に力を尽くす東電の現場で働く人達の姿に不屈の日本人の精神と行動力を見た想いだ。森信三先生のこの箴言・絶対必然即絶対最善に納得した。
■三現主義・現場・現物・現実
問題解決のヒントは現場にある。必ず現場に行く事だ。情報化社会でこそ大事なことは三現主義だ、机上ではなく、実際に現場で現物を観察して、現実を認識した上で問題の解決をはかる。是非若い経営者の人達に視察して貰いたい理由はここにある。
- 今回友人の息子高校一年生が参加した。彼は小三から数年天命舎で合宿研修に参加した。今年高校に進学した。彼の感想文の一部をお見せします。★以前、津波の被害を見に行ったことがありました。その頃は、まだ僕も小さくて良く分からず「凄かった」という印象しかありませんでした。ですが、ようやくこの歳になりだんだん分かるようになってきました。三日目の福島第一原発では、東電の方々の詳しい説明を聞いて放射線のことなどが良く分かりました。タンクのなかの処理水にはビックリしましたが説明のなかでタンクの増量も難しいことを知って納得しました。根本様、今回の視察、人生で初めて原発を自分の目で見られました。本当にありがとうございました。これまでは、すごく原発が怖かったのですがこれからは、過度に怖がらず知識を身につけて正しく怖がる事が大切だと思いました。
★可能な限り日本人の一人でも多くの人に訪ねて貰いたい。若い人に行ってもらいたと切に感じている。(悦司)
理念の時代を生きる164号・孤高の画家田中一村を訪ねる
奄美大島にある田中一村の美術館を再訪した。3泊4日のスケジュールだったが、その間3回美術館を訪ね彼の絵を堪能した。田中一村のことを知ったのは2010年8月21日から千葉市美術館で開催されていた「田中一村・新たなる全貌」の紹介をNHKの日曜美術館で見た。彼の絵に驚き、すぐに千葉まででかけた。
250点の作品が展示されていたが、私達の関心はいずれも彼が奄美に移住してから描いた作品が中心だった。その作品は善子が制作しているパナマサンブラス諸島の原住民がつくる原色を使った飾り布の激しさに似ていた。画集も買い求め彼の評伝なども買い求めて読んだ。生涯を知るにつけ強く私達の心を打つものがあった。そして直ぐ奄美大島の一村美術館を訪ねた。
一村の生涯
彼の生涯を簡単に振り返ってみると明治40年1908年栃木県に生まれ父は稲村の号をもつ彫刻家だった。後に一村に影響を慕えた姉喜美子は幼少のころから芸事でも突出した才能を秘めていた。一村、幼名孝は成長するにつれ絵画に非凡な才能をみせていた。稲村は孝に米村という号を与えた。
大正15年芝中を卒業後、東京美術学校日本画科(今日の東京芸術大学)に進んだ。同期入学者20名の中に東山魁夷、橋本明治、加藤栄三、山田申吾が名を連ねていた。開校以来の秀才ぞろいという評判だった。しかし、結核再発や経済的理由もあって入学してまもなくやめることになる。米村の才能を惜しんで学校側も授業料免除などの態度を示したが、自分の目指すべき画道と校風に相いれないものを感じ始めていた。
50歳から奄美
奄美にわたる経緯はここでは省くが、奄美にわたって以来、大島紬の染織工を勤めながらお金をためて作品を書くことに没頭した。数々の作品を遺しながら68歳で一度心筋梗塞になる。前年彼の全作品を一度千葉に運び作品を知人たちにみせる。その作品を再び奄美に持ち帰った一村は、奄美大島の僻村の粗末な家で夕食の準備をしている時、心不全に襲われひっそりと昭和52年1977年69歳の生涯を閉じた。幼いころは神童と言われ、長じて天才画家と仰がれたが、画壇とは相容れず長年住んだ千葉から一大決心もとに一人南海の島に渡って以来極貧の生活に耐え、孤独のうちに亜熱帯の動植物を描き続けた。画壇からは忘れ去られた異端の画家。
一村の作品
私達が知るところの日本画とは全く違うといってよい。一村が親しんだ南画や日本画の伝統を超越して南国の動植物が織りなす幻想的な美と貧しさに徹して自分の芸術に殉じた求道者とも言える激しい生き方に強く惹かれる。南国の濃密な生命力あふれる幻想的な絵画世界に目を奪われる。
ゴッホに感ずる共感
私達の好きな画家はゴッホなのだが、2006年から彼の作品をみるために三度にわたってオランダアムステルダムのゴッホ美術館はもとよりアッペンド-ルのクレーラーミュラー美術館も何度も訪ねた。そしてゴッホの生誕地からパリのモンマルトル、ゴーギャンと共に過ごしたアルルなども訪ねた。最後は彼の終焉の地オーヴェル・シュル・オワーズまで訪ねた。初めて作品を見たときそのゴッホとのある種の共通点を感じた。そして田中一村の生涯を知るにつけ益々私達に一村の生き方に魅せられた。
MOLAの作品
善子は前回、奄美の田中一村を訪ねてから、南国の森をテーマにMOLAの作品を数点創作した。タヒチや沖縄の南の国の植物にはエネルギーが強い。今回も一村居住跡地で俵さんという方に出会い親しくなった。継ぎなる作品を期待している。(悦司)
理念制定式
理念制定式を今年も開催した。昨年に続いて二名の経営者が誕生した。今日に至るにはそれぞれの理由があるが経営者としてのキャリアを積んだ上でそれぞれ人生理念に出会えたことは、支援した私の喜びである。式には若手経営者8名および彼等二人を支援し続けてくれたN社の社長達が参加してくれた。
N社は企業理念を制定して17年経過している。自立連帯経営を行い7社の社長を誕生させた。そのうち彼等から4名が人生理念探究に到達した。この事は本体に企業理念が存在することの効果だ。
理念制定式の後、8名のコロナに遭遇した昨年一年間の快労報告会を行った。年齢37歳から最長60歳。一人一人が自社および自身の理念に添った経営の実践を語ってくれた。困難をものともせずそれを快労にかえる体験は誠に痛快至極だ。
最後に大和先生から経営の基本と魔の三段落ちという講話をしていただいた。
経営の基本と魔の三段落ち
理念のある経営と、理念不在の結果疑似理念がはびこり疑似理念がもたらす弊害を魔の三段落ちといい、以下のプロセスで企業が陥る背信体質に至る、というお話しだった。
- 疑似理念 利益本位 → 利己主義 → 背信体質
- 理念企業 理念本位 → 公益志向 → 社会の宝