脳力開発155号・侵略される日本
先月号でオーストラリアの中国による「目に見えない侵略」を取り上げ、同時にコロナによって暴かれ始めた世界を描いた「疫病2020」も取り上げた。今回はオーストラリアの例から中国の日本の侵略について取り上げる。
一、中国のメディアへの侵略
- 1972年に日中国交回復が田中内閣によってなされた。その前に1964年9月29日中記者交換協定が成立。1968年政治三原則として外務省は外交青書に記している。
一、中国敵視政策をとらない(中国の意に反する報道を行わない)。
二、「二つの中国」をつくる陰謀に加担しない。
三、中日両国の正常な関係の回復を妨げない。
この三原則は「結論は一般に公表しない」と決められ報道されなかった。朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、NHKなど北京に常駐を希望する報道各社はこの条件を厳守しない場合には中国支社を常駐させない。毎日新聞は今も中国の折り込み記事を毎月挿入配布している。
- 産経新聞は要求を一貫して拒否、文化大革命の開始を報道した柴田穂は1967年国外追放、以後1998年まで北京に支局をおくことがなかった。朝日新聞は中国の意向に合わせ文化大革命については中国に好意的な報道を続けた。また、慰安婦虚偽報道をはじめ、いまだにGHQの言論統制の呪縛に囚われている。これが日本のメディアの実態。
二、経済界・政治家への侵略
日中友好(協会)という甘い罠が全てのはじまり
- 日中友好という言葉には日本人は何となく希望を抱く。日本人の純粋な心情に訴えるものがある。戦後GHQに洗脳された日本人の多くが共感する。日中国交回復後、鄧 小平は1978年10月日中平和友好条約批准書交換のため来日し新日鉄君津製作所を訪れて上海の宝山製鉄所への協力を仰ぎ、松下電器に工場建設を呼びかけ両社とも好意的に応じた。
- そのご、中国は日本に恩義を感じるどころか、江沢民以後は反日に切り換え、2019年のG20における習近平の国賓招待で表面的には日中関係も回復したかに思わせたが、コロナ禍を迎え、国賓問題に火がつき、今まで潜在していた親中、媚中の政治家の姿勢が鮮明になってきた。経済界の経済重視、を親中の姿勢が鮮明になってきた。
三、領土侵略・尖閣諸島
- 民主党政権下で起きた2010年の中国漁船の体当たり事件以来、中国はレアアースの輸出禁止に踏み切った。そのご尖閣諸島の東京都購入の話が持ち上がり、日本国への所有者移転に中国は激怒した。以後、コロナ禍の最中の連続110日以上領海侵犯を続けている。
四、国土の侵略・日本の不動産が外国から狙われている
- 誰でも買え、全く自由に転売できる。外国人なら保有税を支払わなくても済む。
- 不動産売買が世界一フリーで、かつ所有者、使用者権利が国内外差別なく保障されている。国際的にみれば非常に特殊で、このことは国外でかなり知れ渡っている。
- 「アジア太平洋地域で不動産投資に開示規制がないのは日本だけ」(アジア太平洋不動産投資ガイド2011)
■今回北海道の中国による買収問題をとりあげる。この問題の裏に日本の様々問題が浮かびあがってくる。私も関心を持って見てはいなかったが、その現実をみて非常な危機感に襲われている。以下、季刊カムイミンタラの倉本聰・宮本雅文氏との対談より資料を引用。
北海道は以下のように外国資本(主として中国資本)によって購入されている。
■平成30年一年間で買収された物件
森林21件 広さ108ha 東京ドーム23個、内中国 11件91ha 東京ドーム19個
会社は日本国内だが資本金50%外資 日本国内 7件 58ha 東京ドーム12個
中国 2件 3.5ha、シンガポール1件42ha
- 北海道森林買収の現在 中国資本 57% シンガポール含む 86%
■林野庁・北海道庁によると外国資本で買収された森林は累計2726ha 東京ドーム529個。中国資本に買われた北海道の土地 推定7万ha 山手線の内側11倍以上
■豊糠地区・水利のいい農村地帯・平取の奥
平家の落人の里のような不便なところで、不便だからこそ大量の土地を簡単に手に入れてしまう。沙流川が流れ村内の耕作地219haを全部買いたいと言いながら半分を買い今では農業研修生の名目で150人住んでいる 日本人23人 中国と関係のある農業法人。
■赤井川村 平成28年 270haキャンプ場 アリスファーム
■中国資本 キロロゴルフクラブ150ha 平成22年
■平成29年 夕張市スキー場・ホテル4施設 2億2千万 香港系フォド 転売15億
■帯広 拓成 広範囲にわたって買われている 中国資本
■札幌周辺地区・●新千歳空港近くの山 太陽光発電所 ●札幌 渡辺淳一記念館 中国
- 小樽に中国専門不動産屋がある。●定山峡 旅館数件
■苫小牧 駒澤大学 中国系学校法人に無償譲渡
■富良野不動産事情 スキー場の麓4haコンドミニアム 香港資本33室 完売 1億5千万
一坪10万円 2年前 2019年から一坪30万円
■京都 京町 先斗町 祇園 上京区、町家 嵐山 山下清記念館
京都では町家が買われ貸家や民宿にしている。
■外国人土地法・日本には規制がない。中国人は合法的に土地を買っている。
- 参考・英国ドイツ・外国人も自由に買えるがイキリスは土地売買後の登記は義務 。所有者は特定される。ドイツも登記は義務。利用規定が日本とは全く違う。定められたもの以外はつくってはならない。
- フランス・150万ユーロ以上の土地農地は事前届け出、中国は制度の抜け道を研究して取得しているが、2017年以後、報告の義務化。
- 豪州はここ10年狙われ港湾、農地、鉱山が狙われた2018年以後各種の法理通制定し、規制強化に乗り出している。日本は豪州に似ている。
- 韓国は自国の土地は外国人に売らない。重要な一定エリアは届け出。土地買収についても届け出。
★これらの事実を知って、日本人は驚かないのか?国会議員もこの事実を知っている人や、委員会を立ち上げた議員もいる。しかし、これら委員は政府内の切り崩しにあい、なし崩しになっている。ここでも親中派の影響および議員自身の「国を守ろう」という意志が希薄な事実を明るみにしている。今回対馬の件は取り上げていないが、対馬は殆ど韓国に買い上げられているといっても過言ではない。正に次なるオーストラリアが日本と言えよう。中国の日本の侵略は着々と進んでいる。
写真 参考図書
理念に生きる155号
台湾民主化をなし遂げた建国の父・李登輝元総統
■東日本大震災の年に台湾を訪ねた
二〇一一年東日本大震災が茨城も襲った。丁度進化経営学院・次世代型経営者養成塾・シニアクラスの卒業式の日だった。その年六月台湾を訪ねることにした。一つには八田与一の烏頭ダムを訪ねる事だった。
二〇二〇年七月李登輝元総統がなくなられた。九七歳だった。この世界中がコロナ禍の真っ最中にご逝去された。台湾の民主化に生涯をかけられた李登輝総統が。
台湾の歴史を全く知らなかった
二〇一一年、台北の二二八記念館を訪ね、台湾について何も知らないことに愕然とした。李登輝総統の事も初めて知った。台湾は蒋介石が統治した国で毛沢東の統治した中華人民共和国とは似て非なる国であることを実感した。蒋介石時代に台湾における台湾人に対しての凄まじい数々の弾圧を知った。歴史の恐ろしい事実を知った。知らないことを恥じた。
台湾の歴史から李登輝総統の研究を始めた。二〇一一年以来毎年台湾を訪ねている。
■台湾の戦後の歴史の概略
1895年(明治28年)日清戦争が起こり、下関条約の結果、台湾は日本領となった。1945年太平洋戦争での日本敗戦の結果、連合国軍最高司令官マッカーサーの命令で、再び中華民国(蒋介石)に返還された。蒋介石は当時重慶にいた。1949年毛沢東の率いる八路軍(中国共産党軍)に破れた中華民国(蒋介石軍)は台湾に移住した。そのときに移住した蒋介石軍(外省人)は以来1987年まで戒厳令をひいた。
- 二・二八事件(蒋介石政権・外省人による台湾人=本省人の虐殺)
1945年太平洋戦争後返還された台湾に陳儀が蒋介石によって派遣され、過酷な政治を行い1947年台湾人(本省人)の大量虐殺を行った。これを二・二八事件という。日本領としての50年間は日本の内地化によって教育、インフラその他の投資を行った。多くの台湾人が日本に留学し日本人としての教育をうけ、高い知的レベルやインフラについては日本の内地以上の投資をしていた。そして膨大な資産(当時の価値で190億円といわれる)を残したまま、日本は撤退した。その後、陳儀と共に台湾に移住してきた中華民国の兵隊は貧しい規律のない兵隊だった。
- 台湾に対する蒋介石政権の暴政
1947年2月27日夕方、台北の街角で起こった闇たばこを販売していた女性の虐待を機に、それまでの陳儀の過酷な政治に対する不満が爆発し、台湾全土に広がった。台湾の有識者・有力者は処理委員会設置や戒厳令の解除などを陳儀に提案した。3月6日二・二八事件処理委員会が開かれ台湾住民側は三二カ条の要求を提出した。調停期間中陳儀は蒋介石に援軍を要請。3月8日からアメリカ軍の近代兵器で武装した一万三〇〇〇人の援軍が上陸。3月9日より主な委員や有力者、知識人を逮捕殺害が始まった。
僅か二週間で二万八千人の台湾人が殺害された。特に国民党の統治を強化するために、エリート人材の根絶を狙った計画的な虐殺だった。このなかで、3月12日には邱永漢氏も香港に逃げた。(台湾二二八事件の真実)
- 1988年2月22日蒋経国総統の死後、本省人の李登輝が総統として就任する。
- 1995年2月台北市立二二八記念碑落成、二月二八日記念式典。李登輝総統が政府を
代表して二・二八受難者の遺族に公式に謝罪。
■李登輝総統・民主化の道を歩み始める
終戦のとき、李登輝は二二歳・京都大学農学部の学生だった。その後、日本敗戦後台湾に帰国する。一九四七年に二・二八事件が起こり、実質戒厳令がひかれる。台湾人(内省人)にとっては日本統治時代に比べて自由のない実質戒厳令の下に蒋介石政権に支配されることになる。
その渦中を生きた李登輝はその後に続く白色テロをかいくぐり台湾大学を卒業後米国にわたり後にコーネル大学に留学し、帰国後台湾農業問題を報告し蒋経国に認められ一九七一年国民党に推薦され入党する。
自分から入党したのではない。一九八四年蒋経国に副総統候補として指名され、一九八八年蒋経国の逝去に伴い総統に就任することになる。蒋経国自身もいつまでも外省人政権を維持できるとは思っていなかった。李登輝の登用はその未来の台湾を暗示していた。
- 李登輝総統直接選挙導入以後
一九八八年国民党入党から一九九六年の直接選挙導入し総統就任する。その後二〇〇〇年の選挙では李登輝自身立候補を取りやめる。陳水扁二〇〇〇年から二〇〇八年まで民主進歩党が総統に就任。陳水扁政権は瞑想する。その後二〇〇八年から二〇一六年まで国民党の馬英九(国民党)が政権を握る。この間、馬英九は中華人民共和国よりの経済政策をとる。
- ひまわり学生運動
馬英九政権の中国よりの「サービス貿易協定」政策に二〇一四年三月一八日「ひまわり学生運動」が起こり、市民と学生が立法院を占拠する。三〇〇名を超える学生のデモ隊が立法院を占拠。立法院議長は四月一〇日「両岸協議監督条例」が法制化されるまでサービス貿易協定の審議を行わないと宣言する。この学生運動を李登輝も支援する。
- 馬英九辞任と蔡英文再選二〇二〇年
二〇一四年一一月二十九日の統一地方選挙で国民党が大敗し馬英九国民党首席が辞任。 二〇一六年蔡英文が政権を取り戻す。そして二〇一九年一二月三一日のコロナウイルス水際作戦を果敢に実施した蔡英文が二〇二〇年一月一一日の総統選挙に圧倒的大差で国民党の韓国瑜に大勝その後、六月六日高雄市長もリコール成立という流れになる。
■李登輝を尊敬する理由
■国民党入党後から李登輝の政治信条は「天下は公のために」である。そして二〇〇〇年の総統選挙には立候補しなかった。「台湾に民主主義を根付かせる事が至急の命題だった。それが何よりも台湾のためだ」と考えた。「政治家は国のためなら権力をいつでも放棄する、そういう覚悟が必要だ」と考えている。
李登輝はこの信念・使命感で政治家として役割を果たしてきた。その考えの根本は自らが学んだ「日本精神」だという。そして日本人に誇りを持てと叱咤する。
■台湾の政財界の毅然とした姿勢・日本の進むべき道
二〇二〇年の台湾総統総選挙、コロナ禍に対する習近平の脅しにも毅然として対応する台湾国民・蔡英文を生み出した。このことこそ日本の進むべき道を示している。経済優先でバランスのみを終始する日本の経済界、政権の手本とすべき道を示したのが李登輝元総統だ。李登輝のような国を思い世界から尊敬される哲人・政治家はもう二度と見ることかできないであろう。(悦司)
李登輝・台湾関連書籍
李登輝揮毫 誠実自然(二〇一四年)
我是不是我的我(二〇一八年)