脳力開発/理念の時代を生きる140号

脳力開発140

その一、情報統合技術研修・未来対応型問題解決

世の中には各種の問題解決手法がある。各自その手法の特長はあるが、IST情報統合技

術は従来の手法とは一線を画している。私の指導は三日間を基本にしている。その手法と基本は分かりやすく言えば、左脳と右脳の両方を駆使して情報の統合を行うところにあるから、従来の理論重視型の思考の限界を越えてる。年末年始に経営者だけを対象に時期の経営計画熟考会を茨城と彦根で開催している。もう二十四~五年開催し、各自が第一局・理念設定から始め第八局経営計画・構想実行計画表まで仕上げる。

五月十七日~十九日まで岡山で五名・社長・部門責任者・営業担当者を対象に開催した。今回は初めての人が二人。一年のブランクがあった受講生が一名、四年継続受講者が二名の会であった。継続することの価値は毎年間違いなく一年間の成長が著しい。思考習慣が身につき自分のものにしている。一年のブランクは思考のブランクが生まれるものの、自分で決心することになる。

初めての参加の一人は、別の会社を退社し新たに企業理念の設定されているNグループの企業に入社される。いまでの会社は利益優先の会社で、理念などはない。こういう会社は時代の変化に翻弄され、長期的には衰退の一途を辿ることになる。縁があって取引先からN社グループ会社を紹介され、この会に参加した。企業理念のある・ないを如実に体験することになる。仕事をするとき、利益を上げることだけが目的である世間の企業は世界的にも益々困難に遭遇するだろう。私たち和道経営を目指す企業は近江商人の信条・家訓三方よし=売り手よし、買い手よし、世間よし、「先義後利」を基本において経営姿勢を貫いている。

もう一人は現在第二十五回理念探究会(茨城)で理念探究の真っ最中である。理念データーの統合には情報統合技術が必要とされる。あわせて一〇〇年先二〇〇年先の理念を描く発想が求められる。企業理念に必要な目的性、永遠性、本望性、英知性、倫理性、指針性、共有性、具体性の八つの要件を視野に四台目社長として理念探究に数歩も踏み込むことが出来た。

「人生二度なし」。参加者は理念に添って生きることを決意した人たちの集まりだ。この人生を会社、社会、周囲に依存して生きる人生は、その人の幸せ生きがいをもたらすことはない。自立して自分の使命・志の生きるために必要なことは、情報統合技術を身につけることだと改めて参加者が感じた会であった。

写真・IAT参加者

その二、中国現代史毛沢東から習近平

AI監視社会・中国の恐怖を年初から取り上げてきた。その関連のなかで、いま米中の貿易交渉や米中衝突の核心企業ファーウェイについての問題もかまびすしい。いずれにしても長期戦になるだろう。今後改めて、中国の現代史を取り上げてみる。そして知っているようで知らない共産党の歴史を振り返り、共産党の正体を分析する。そこから中国の本当の姿が見えてくる。(何回かに分けることになる)

■中国における情報操作の実態

天安門事件は一九八九年六月四日、胡耀邦元党総書記の死を切っ掛けとして、天安門広場に民主化を求めて終結した学生を中心にした一般市民のデモ隊に対して、解放軍が武力で鎮圧した数の死傷者を出した事件である。詳細は皆さんがインターネットでアクセスするだけで、いろいろな視点から実態に迫ることが出来る。しかし、中国ではこの事件に関して全てのアクセスが出来ないようにしている。

中国、ウィキペディア全言語遮断 天安門三〇年を前に

中国の民主化運動が武力弾圧された天安門事件から間もなく三〇年を迎えるのを前に、オンラインの百科事典として知られる「ウィキペディア」へのアクセスが中国で全面的に遮断されたことが五月十七日、分かった。

八十九年の民主化運動の関係者も出国を禁止されるなど、中国国内で当局による監視態勢が一段と厳しくなってきた。 ウィキペディアを運営するウィキメディア財団が同日、明らかにした。ウィキペディアの中国語版は二〇一五年から閲覧できなくなっていたが、英語やフランス語など他の全ての言語で利用できなくなった。

ネット利用者が八億人に上る中国では、民主化運動や少数民族問題などに関する情報が国内に流入するのを防ぐため、当局がネット検閲システムを構築。米ツイッターやフェイスブック、ユーチューブへのアクセスを遮断している。グーグルの検索エンジンも利用不可能だ。天安門事件に関しては、「暴乱」と位置付ける当局の公式見解以外はネットで閲覧できない。【産経新聞・北京=藤本欣也】

金盾(きんじゅん)とは、中華人民共和国において実施されているインターネット情報検閲ブロッキング (インターネット)システムである。全体主義の危険性を訴えたジョージ・オーウェルSF小説『1984年』に登場する監視システム「テレスクリーン」になぞらえられ、「赤いエシュロン」「サイバー万里の長城」「ジンドゥンプロジェクト」などの呼び名も存在する。

中国国内のインターネット利用者に対して、中国政府、特に中国共産党や政治家に不都合な情報にアクセスできないようにフィルタリングする金盾のファイアウォール機能は、”Great Wall” (万里の長城)をもじって Great Firewallグレート・ファイアウォール)と呼ばれている。

公安の情報化を目指す「金盾」もこの一つで、当初は金融分野の情報化が優先されたため、国家公安部が金盾計画を決定したのは1998年9月22日、国務院が計画を批准したのは2001年4月25日であった。システム設計の第一期は1999年から始まっており、予定では2008年の第三期完了で完成することになっていた。

■計画では出入国管理、指紋データバンク、パターン認識音声認識・映像・顔認識システムなど)、電子メールや電話の傍受、身分証明カード、光ファイバー網などを完成させ、国民や在中外国人の監視および情報収集の総合的なシステム構築を目指している。

ワシントン・タイムズ』の報道によると、中国西部にはパラボラアンテナ人工衛星スーパーコンピュータなどを使って、国内の電話ファックス・インターネット回線などの通信を常に傍受している施設があるという。

■中国の顔認証システムについて、森のフォーチャ137号で、長男が顔認証システムというタイトルで138号に書いた。今回取り上げた情報でもわかることだが、明らかにファーウェイに中国共産党が深く関わっていることは自明の事実だと推定できる。私が習近平の立場に立ってみれば、当然の行動ではないか。(悦司)

 

理念の時代を生きる140号

その一・令和元年五月一日開講・理念実践会

元号が変わった。その日が理念実践会にあたる五月一日になる。ということで前日は前夜祭。平成天皇皇后両陛下の一年・~ご譲位を前にされて~のDVDを参加者と一緒に見ました。天皇皇后両陛下の多忙な一年を拝見しました。自分の生活のいい加減さを反省します。加えて両陛下の御所を歩かれ、時に軽くジュギングされる皇后の姿をみて体力を保持されるご努力にも頭が下がります。涙が沸き上がってきました。

翌日は理念実践会の初日。今回は六名が参加。今回からのテキストの一部は百田尚樹の「日本国紀」副読本として、「日本国紀副読本」「もう一度読む日本史」(伊藤隆監修)と「読む年表・日本の歴史」(渡部昇一)を使うことにしている。昨年「明治という国家」(司馬遼太郎)を終了した。

国民も新時代を迎えるという気運もたかまっている。丁度、絶好のタイミングと捉えて日本の百二十六代続く天皇の歴史から学び始める。

 

■徳仁天皇のお言葉

「日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより、ここに皇位を継承しました。この身に負った重責を思うと粛然たる思いがします。

顧みれば上皇陛下には、御即位より三十年以上の長きにわたり、世界の平和と国民の幸せを願われ、いかなる時も国民と苦楽をともにされながら、その強い御心をご自身のお姿でお示しになりつつ、一つ一つのおつとめに真摯に取り組んでこられました。上皇陛下がお示しになった象徴としてのお姿に、心からの敬意と感謝を申し上げます。

ここに、皇位を継承するにあたり、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いをいたし、また、歴代の天皇のなさりようを心に留め、自己の研鑽に励むとともに、常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国および日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い、国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望いたします。」

 

■新元号令和

典拠は今日までの中国古典からの引用でなく、「万葉集」巻、梅花(うめのはな)の歌三十二首の序文である。書き下し文は「時は初春の令月(れいげつ)にして、気淑く(きよく)風和ぎ(かぜやわらぎ)、梅は鏡前の粉を被き(ひらき)蘭は珮後(はいご)の香を薫らす。「和を以て貴しとなす」と日本の国柄にふれ「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」という意味を込めたと安倍首相から説明があった。国民の多くが好感をもって受け取り八割近い人たちが高い関心をしめしている。私も日本人として寿ぐ一人である。

メディア、政党、著名人などの批判があったが、これを記録に留めておくことにする。基本的に安倍政権反対の人たちだ。この程度の反論はいかがなものか。

石破茂元幹事長「違和感がある。『令』の字の意味について国民が納得してもらえるように説明する努力をしなければならない」

又市征治社民党党首「『令』は命令の『令』であり、何となく安倍政権の目指す国民への規律や統制の強化がにじみ出ている感が否めない」

志位和夫共産党委員長「もともと君主が時間も支配するという思想に基づいたものだ。日本国憲法の国民主権の原則に反するものだ」

辻元清美立憲民主党国対委員長「ちょっと安倍晋三首相がしゃしゃり出すぎじゃないか。ぺらぺらとテレビで解釈や自分の思いを言うのは政治家として慎むべきだ」

デーブ・スペクター・タレント「響きはよくない。『平和に従え』みたいに読める。上から目線が安倍政権ぽい感じ」

本郷和人・歴史学者・東大史料編纂所教授「『令和』以外だったらケチのつけようがないくらいいいと思った。後略」

小林節・弁護士、慶応大学名誉教授「安倍政権の新元号はパフォーマンスはやりすぎたと思う。瞬間風速的に支持率が上がったが愚かな話だと思う」

田原総一郎・ジャーナリスト「正直言うと違和感を覚えた。『和』はともかく『令』は命令や指令の『令』だからだ。自由、開放などとは逆の意味合いを感じた。中略、日常生活で元号は必要ない」

小西ひろゆき・参議院議員「令和。安保法制という違憲の法令で平和を破壊した安倍政権が『和』の文字を元号に使った。まさに元号による時代支配を体感せざるを得ない」

毎日新聞社説「保守的な安倍カラーのにじみ出る選考だったろう。結論ありときの印象を残した」

朝日新聞社説「国民生活を最優先したものとは言い難い。この機会に改めて、公的機関の文書に元号と西暦の併記を義務づけることも求めた」(悦司)

 

その二・Mランドを訪ねる・小河会長との心に刻まれた記録

小河会長が逝去されたのが平成三十年十一月二十七日だった。その時私は妻と台湾・烏三頭ダムの旅していた最中だった。その後、会長の葬儀のお知らせと同時に、人事異動が同封されていた。松本社長が会長に小河吉彦常務が社長に就任という知らせだった。

葬儀は平成三十一年一月二十六日Mランド教習所構内、無心山で行われた。その日私たちは仕事で沖縄にいた。会長は九十六歳だった。お世話になった会長へのお参りをしたいと念願していた。

Mランドニュース新年七七一号に吉彦社長が執筆されていた。「故小河二郎会長を偲んで」というタイトルで、会長の意志を深くかみしめて、これからののMランドの方向と決意を認めている。臨終の時に小河吉彦常務(当時)の手を握り何かを語りかける会長との別離が記されていた。

四月二十三日、夕方石見空港に到着した。吉彦新社長が迎えて下さった。小雨の中、代々続く小河家の墓地にご案内していただきました。お参りをしてホット安堵するものが心をよぎりました。

変わらないもの変わっていくもの

 松本会長と小河吉彦社長と会食しました。二〇一七年まで毎年お伺いしてその度に小河会長を中心に役員の方たちと会食の席を設けていただいていました。その席では私と会長の話を中心に、役員の方たちに質問する形での会話の流れでした。そんなこともあって役員の方からお話しをしていただくことは少なかったです。

今回は、私たち夫婦と松本会長と小河社長と四人の会でした。いろいろ忌憚のない話をしました。松本会長に私がお会いしたのはまだ、二十代後半だったのです。そして四十歳のとき取締役本部長に就任されました。四十歳という年齢は小河元会長がMランド・益田ドライビングスクールを創業された年です。以来およそ十年、平成二十七年、社長に就任され、吉彦氏は常務に就任されました。この年に完全に世代交代が成されたのです。

人事の異動と無心山での葬儀

小河会長逝去の後、さほど時間もないのにどうして人事の異動をされたのか?そして葬儀は冬の最中、無心山というMランドを見晴らす場所で執り行われたのか?と失礼を省みずお尋ねしました。

小河会長の骨折入院の時、医者の診断は弱っており最悪は半年ぐらいとの危惧の念を抱かれたようです。最悪のときに備え葬儀の場所はどこにするか。人事の問題も含めていろいろ熟慮されたようです。一般式場での葬儀は当然ですが、小河会長の意志は何か。

永年小河会長に私淑し鍛えられた松本会長は葬儀の場所は「無心山」しかないと決意されていたとのことです。Mランドを見晴らす小河会長お気に入りの場所です。おもいもかけず逝去が早まり、寒風吹きすさぶ恐れのある無心山ではと躊躇されたものの、如何に実行するかと社員一同が大きなテントを設営され、お茶でご接待されました。その日に限って雪が降り益田からの飛行機の欠航にも遭遇したということです。

写真 無心山をバックに2017年

将来の構想

覚悟と準備は小河会長に永年鍛えられていたことなので、私たちが感じるような悲壮感などは微塵もなく取り組まれたようです。人事の異動も万が一の場合には想定していたことだということです。あわせて将来の話もあえて質問しました。小河会長の創業の目的に相応しい、松本会長、小河社長の今後の展開もお聞きしました。

翌日、本社の元会長室を訪ねました。会長室は、松本会長と小河新社長が席を新設し、改めて創業から二代目(松本会長・小河社長)の新たなる決意を感じました。そして部屋にはいる廊下に、葬儀の席に飾った大きな小河会長の写真が掲げられていました。ドアを開けた正面にはやわらぎの一文字。毎朝この部屋にといるときには創業者小河二郎元会長のお顔を拝顔して入室するそうです。

 

心に刻まれた記録

進化経営学院設立と知行合一の額

二〇一〇年七月二十四日一般社団法人進化経営学院を設立した。一九九四年理念を制定し、天命舎くろだワークスを創業し、理念探究と脳力開発を中核として活動を始めてきた。そして個人から公的な性格を加えて、社団法人進化経営学院を設立した。研修室には二〇〇八年会長に揮毫していただいた「知行合一」の額を掲げた。そしてテキストの一つとして二〇一一年小河会長の著書(私の質実経営・共著)から会長のお書きになった部分を小冊子化することをお願いした。

巻頭言にはじめにとして私の想いを認めた。その文を会長の補足で補って頂いた。小冊子化なった小河二郎著「私の質実経営」は以来、幾多の生徒たちと共に学んでいる。振り返るとこの原著は一九九四年四月二十八日に出版されていた。奇しくも私が創業した一九九四年と同じ年だった。

 

 

東日本大震災

東日本大震災が襲った平成二十三年(二〇一一年)三月十一日、茨城県を襲う大地震に天命舎も揺れに揺れた。丁度その日が進化経営学院・次世代型経営者養成塾シニアクラスの卒業式の日だった。地震の後、三月十七日十八日とMランドを訪ねた。要件は、小河会長がMランドの美術館フォンテェーンに善子のモラの作品を展示したいとお正月に電話で要請があり、その美術館のスペースを拝見するスケジュールが組まれていた。

地震が一段落して私たちは訪問予定前日三月十六日、まだ崩壊に手がつけられていなかった交通手段の中で、唯一東京に行けるバスに乗って日本橋までやっと到着した。東京は晴天で、輝くような日射しに、茨城の地との落差を感じた。アァ東京は、地震の被害は何もなかったのかと。その夜泊まる宿は上野界隈しかなかった。夕食をとりに街を歩くと、居酒屋の前で作業着を着た若い人たちも、自分たちの町と東京都は違うんだわと話をしている声が聞こえてきた。

ギャラリー・フォンテーヌMOLA展示

お訪ねすると、地震の後何度かお電話を頂いたことをお聞きしていたが、通じたのは三~四日経っていた。近況報告の後、改装された美術館にむかった。そもそもこの話の発端は、会長からの二〇一一年の一月のお電話で始まった。

MOLAの作品をお気に入りだった会長から、ギャラリー・フォンテーヌに妻の作品を展示したいという話からだった。善子はMランドで自動車免許を取得した卒業生である。

黄金色に装飾したバックに仕上げて下さっていた。このスペースで何を展示するかを想定して十四~五点の作品をきめた。そして作品展示に四月四日~五日と再度訪問した。新装なったギャラリーにMOLAの作品が十四点展示されている。

その後、会長生前の会食の席で、いずれ私たちがこの世を去るときには、茨城県行方市の森のフォーチャ美術館に展示している作品を寄贈したいとお願いした。この決定は後を継がれた松本亨会長、小河吉彦社長たちに委ねることになる

 

烏山頭ダムと八田與一・台湾で活躍した日本人

二〇一一年東日本大震災の後、毎年のヨーロッパの旅を中止し近隣の台湾にすることにした。Mランドニュースで、台湾で尊敬されている台湾に貢献した日本人・八田與一のことを小河会長がされていた。日本の新聞に八田與一記念公園が開かれたというニュースが載っていたのを思い出した。ダムと記念館と新しく開かれた公園も訪れた。

烏山頭ダムにある八田の銅像はダムの完成後の一九三一年(昭和六年)に作られたものであるが、蒋介石時代に日本の残した建築物や顕彰碑の破壊がなされた際には、地元の有志によって隠され、一九八一年、再びダムを見下ろす元の場所に設置された。

八田が顕彰される背景には、業績もさることながら、土木作業員の労働環境を適切なものにするため尽力したこと、危険な現場にも進んで足を踏み入れたこと、事故の慰霊事業では日本人も台湾人も分け隔てなく行った。

日本人として台湾で活躍した多くの人がいること、そして私は台湾の歴史を全く知らないことを恥じた。帰国後彼に関する本から始まり、連日台湾に関する書籍を読んでいる。時に涙を流しながら。台湾に、私たちが習ってこなかった日本人の歴史があると。日本人の誇りと、将来への展望があると感じ、以来何度も台湾を訪ね、烏山頭ダムと八田与一をたずねることになった。

 

李登輝の研究への繋がり

台湾から帰国が台湾の歴史を詳しく遡った。膨大な李登輝の著書は読破した。蒋介石時代の歴史を勉強した。会長は台湾元総統李登輝と同じ年齢だった。二〇一一年の暮れ十二月、再度台湾を訪問する計画を立てた。小河会長に李登輝元総統にお会いできないかと相談した。これは叶わなかったが、私の大学の卒業生で李登輝と同じ年齢で彦根高商に留学されていた先輩李宏道氏を訪ね、お会いした。日本統治時代のことなどをお聞きし知ることになった。以後、哲人李登輝の研究が私の大きなテーマになっている。そして理念企業の快労祭を台湾で開催し、その後進化経営学院の受講生たちとも数度にわたって訪問した。その後も私は毎年訪問している。

Mランド五十周年セレモニー

二〇一三年十月Mランド五十周年の式典に招待いただきました。この年九十歳をお迎えの会長のご挨拶に一言で言えば「運がよかった」という言葉で始められました。創業二十五周年の時には式典を行おうと考えていた。しかし五十周年のセレモニーが行えるとは思っても見なかった。それを思うと、こうして自ら五十周年の式典を迎えることが出来るとは正に「運がよかった」という言葉しかない。

吉彦氏結婚式

 二〇一六年十一月吉彦常務の結婚式が執り行われた。地元を始め沢山の方々が出席されていた。会は二部に分けて行われた。記念講演は「ネクストソサエティを創造する構想企業とは」というタイトルで多摩大学名誉教授の望月照彦先生だった。私たちは五十周年のセレモニーで初めてお会いし、その後鎌倉のご自宅兼研究施設をお訪ねしている。話の骨子は

「差異化とビジネスイノベーションが最大の経営資源」としMランドのこれまでとAI化が進む将来への展望を惜しみなく語ってくださった。媒酌人は松本亨取締役社長だった。

いまから振り返るは、この披露宴はMランドの次の時代の引継式でもあった。この席で来賓挨拶に引き続き、乾杯の音頭を善子にしてもらいたいと依頼があった。私は真意を計りかねた。錚々たる人たちの参加の中で、何故女性でかつこのMランド卒業者である善子にと。仕事の視点から考えれば、沢山の人たちがいる。善子の挨拶指名には驚いた。しかし、雰囲気のある挨拶になった。会長のお気持がありがたかった。


脳力開発/理念の時代を生きる139号

脳力開発139号

和環塾の同志・時田光章氏を小田原に訪ねる

和環塾(三十三年前仲間とMGマネジメンドゲーム・MTマイツールという日本人が創ったパソコンソフト・脳力開発を中心に据えた中小企業の経営者を中心とした勉強会の名称。私は塾頭を務め、後に五十歳で創業した。サラリーマンだったメンバーもその後、独立自営の道を選んだ。)の新年会で四月ごろ小田原を訪ねようという話が持ち上がった。

現在、小田原市の副市長をつとめる時田光章氏のここ数年の活躍を耳にしていた。時田氏は現在六十五歳、和環塾の古くからのメンバーで、三十代半ばに和環塾に加わりその当時、私も市役所勤務の彼の勉強仲間のアドバイスに何度か小田原を訪ねた。和環塾のメンバーで小田原の梅の花を愛でる観梅会を催したり、彼の父上により先進的な経営がされている高齢者介護施設・潤生園を訪ねたりした。潤生園は、入園者の自立を大事にし、かつ提供する食事を研究しており、その質の高さ、工夫を目の当たりにした。見学の後父上の講話をお聞きした。

NHKなどでも何度も取り上げられ、日本でもトップクラスの高齢者福祉施設の経営をされていた。父上は現在九十二歳で、現役の会長。理事長職は長女(時田氏の姉)に譲られている。小田原が二宮尊徳の生誕の地であることも私たちが訪ねる理由だった。

彼は若くから企画部に勤務して、先輩後輩から大いに人望が厚かった。定年退職後、嘱望されて副市長となっており、その後の活躍を目にしたいと思った。

和環塾の有志八名と訪問した。私が訪問していた二十年ほど前とは格段の変化をしていた。小田原駅は、JR東日本、JR東海、小田急、箱根登山、伊豆箱根の鉄道五社による橋上駅舎と駅ビルに変身していた。そして東口の広域交流ゾーンは、十四階建てのビルと江戸時代を彷彿とさせる木造和風造りの建物の建設が進められている。市としては神奈川県の西の玄関口として、既に市民交流センターと立体駐車場を完成させ、地下街も再生した。

さらに、小田原城の馬出門の前に兜をイメージした市民ホールを建設中である。

時田氏曰く「小田原はブレイク寸前の街です」。政財界人の別邸である歴史的建造物の公有化も進めている。小田原文学館や電力王・松永安左エ門の広大な庭と茶室などを丁寧に案内したもらった。

■小田原文化財団・江之浦測候所視察

何故、今どき測候所なのかと不思議に思いながら訪ねた。ここは世界的な芸術家・杉本博司氏が西暦二〇〇〇年から構想し、二〇一七年にグランドオープンした。空間観という著書で知ってはいたが、実は彼が作り上げた壮大なランドアートである。相模湾を一望する一万有余坪のみかん山を切り拓いて創り上げたエリア。

急峻な箱根外輪山を背にして相模湾を望み、類まれなる景観を保持している貴重な自然遺産である。この自然を借景として各建築は庭園と呼応するように配置されている。各施設は、ギャラリー棟、石舞台、工学硝子舞台、茶室、門、待合棟などから構成される。施設は我が国の建築様式、工法、各時代の特長を再現し日本建築史を通観するものである。造園計画の基本は、平安末期に橘俊綱により書かれた「作庭記」の再検証を試みた。使用された石材は古材を基本とし、古墳時代から近世までの考古遺物および古材が使用されている。(解説文より)

時田氏は友人から超有名人と言われて杉本博司氏を紹介され、知り合うことになる。杉本氏は早くからニューヨークに渡り、現代アートの巨匠として名を成していた。専門家ならば畏れ多いと思うかも知れない。しかし、曰く「和環塾」でいろいろ経験していましたから取り立てて緊張することもなく対面し付き合いが始まった。杉本氏が時田氏のことを気に入り、小田原に精通している時田氏とのつきあいが深まった。

杉本氏の構想は壮大であるが故に、とんとん拍子に進んだわけではない。彼は公務員という立場、後には副市長という立場があるから、譬え個人的なつきあいとはいえ、いろいろ気を配ることがあった。公務員はご馳走になることはできないし、名の知れた有名店での食事には杉本氏も関心がない。そんなときには地元の馴染みの大衆酒場で杯を傾け、地の珍しい魚を紹介したという。

江之浦測候所は一万有余坪の土地は巨大だ。最近隣接する蜜柑畑も手にいれたが、植物と人間という農業法人も立ち上げたそうだ。地元との折衝にも個人的に尽力したことが伺える。杉本氏は美術家として紹介するが、様々な活動分野があり、写真、インスタレーション、演劇、建築、造園、執筆、料理と多岐にわたり、彼のアートは「歴史と存在の一過性」をテーマにしているそうだ。その杉本氏との長いつきあいの中で、小田原での開館にたどり着いた。

時田氏に訊いてみた。小田原市はいくらこの杉本氏の江之浦測候所に支援をしたのかと。財政的支援は一円もしていないという。投資額は一体いかほどかと素人なりに考えてみて、凝りに凝った巨大なギャラリーの建造物も全て杉本氏が芸術で得た資金を使っているとのことだ。

言葉で説明することは容易でない。解説文を読まれても理解にあまりある現実がこの箱根外輪山を背に展開されている。その実質的な裏方として今は副市長を務める時田氏が密かに支援してきた事実を前に、小田原の歴史に残る仕事をした同志として誇りに思う小田原訪問であった。この江之浦測候所はこのあとも何度か訪ねたいと思っている。 今回は、時田氏と杉本氏の交流が新しい扉をひらいた小田原市の訪問だった。(悦司)

 

理念の時代を生きる139号

和道経営の実践企業たねや

一月彦根での経営計画熟考会の最中、彦根の知人より「近江商人の哲学『たねや』に学ぶ商いの基本」をプレゼントされ、終了後、彦根にあるお店・美濠の舎を参加者と訪ねた。その後、たねや創業家の十代目を迎える山本昌仁氏の著書を読みながら、言い知れぬ興奮を感じている。近江商人に和道経営を実践してきた企業の発見した想いだ。

早速四月と来月五月にラコリーナ近江八幡の視察を企画した。目的は古くて新しい概念「近江商人」の現代版を志ある若い経営者に紹介したいということだ。事前に参加者には現社長山本昌仁氏の「近江商人の哲学『たねや』に学ぶ商いの基本」と社長には先代社長山本徳次氏の「たねやの心」か「商いはたねやに訊け」を読んでもらうことが前提だった。

私は滋賀大学経済学部(旧彦根高商)出身でありながら、学生時代は「近江商人」に関しては過去のことで時代にはあわないと漠然と感じていた。しかし五十歳から創業し、企業理念、人生理念をアドバイスするようになり、理念の持つ要件を探究しながらこの歳になって初めて「近江商人」の「三方よし」の理念が、私が探究指導していた理念と正に合致することに気がついた。

この「近江商人の哲学」を実践する「たねや」に、今の人たちでもわかる「企業理念の実践」=「近江商人の哲学の実践」の姿を発見できると感じた。今回私たち夫婦を含めて十五名。視察人数の上限だ。感想文の一部をお読みいただきたい。一味違う観点から見ている参加者の視点が希望に満ちている。(悦司)

 

ラコリーナ近江八幡視察研修感想文

■「先義後利の考えでここまでできるのか」・柳井誠一氏(草むしり隊)

「たねや」を全く知らなかった私ですが、売れ筋商品である最中(天平)やクラブハリエのバームクーヘンを見た際は、「あ!以前に頂いたことがあり、あれだったのか」となりました。また、年明けに彦根の熟考会のあと、彦根のお土産を持って帰ると「たねや!」と言って大喜びし包装紙をもって帰る弊社の従業員もいました。

もともと、「三方よし」という言葉の大枠は知ってしましたが行商人からの発想であることは全く知りませんでした。この言葉の意味は知っていても現社長の言うように、これを実際に実行できるかといえば、「自らの利益、会社の利益がなければできるものではない」とまず考えてしまうと思います。

実際、近江八幡ラコリーナ・八日市の杜などを視察した際は、「先義後利の考えでここまでできるのか」、「ここまでできるのは相当利益優先でなければ無理だな」、「しかし、たねやの精神は利益追求だけではない」といったように、どのようなプロセスでここまでたどり着いたのか、そして未だ完成ではないラコリーナの目指すべき道を聞いて、改めて徳次氏の書物を読み、次に昌仁氏の書物を読み「たねや」に代々伝わる考え、近江商人に伝わる考えをたどらないと答えは見つからないと感じました。

ただ、一つだけ自らが現在行っている仕事の中で共通しているというか、自分がそういう考えでやっていることは、「お客様に喜んでいただく」「お客様の困っていることを手助けしてあげる」このことを第一に考え実行し続けていることが、この六年間毎年1.5倍ほどの推移で仕事が増えているということにつながったいるのかと思いました。社会へ還元する、そのためには利益が必要であるといった処まで、たどり着いていないのは自らの課題であるということも再認識しました。

 

■オンリーワンを実現・藤井高大氏(メガネフレーム製造・鯖江) 

初めに大自然の中、建物の外観からまずは圧倒され、建物内に入れば良い香りのエッセンスも加わり店内の空気もワクワクする異空間になっていました。中はオープンキッチンになっていて常にお客様から見られている状態で仕事をするということは、自社、商品、自分、全てにおいて自信がなくては出来ないことだと。我社も近年は顧客の要望により工場見学で社内を案内する回数が増えましたが「見られる」ということは、顧客にとっても社内においても良い刺激となり必要なことだと感じます。

次に女性スタッフに広い敷地と建物内を案内していただき印象に残っていることは、マニュアル通りの説明ではなく彼女の生の声を聴けたということ、その言葉にはこの会社の一員としての誇りと自信を感じましたし、何より商品と上司も含めた仲間たちへの愛情と一体感が伝わってきました。純粋に楽しんで働いていて笑顔が素敵でした。

説明案内を終え店内を見渡すと、正面の壁には掲げられたキラキラ輝く「たねや」の看板に目を奪われ、ここにも自信に満ちた自社の誇りとプライドを感じさせられました。この場所で来場者数年間三〇〇万人のお客様が喜んでお金を払っているのですから計算しただけでも桁外れ、まさに圧巻です。正面玄関の横に掲げてあった額には、「お客様を喜ばせることだけ考えろ、数字は後からついてくる」との文字が書かれていましたが納得の一言でした。

確かに「バームクーヘン」や「もなか」は勿論のこと、何を食べてもどれも美味い。しかし世の中にはもっとおいしい「バームクーヘン」や「もなか」はあるのではないか?いや、きっとあるだろう。しかし、ここに人は集まり、喜んでお金を払い、口に運び笑顔になる。大好きな人にも食べさせてあげたい、また誰かを連れて来たくなり人にも話したくなる。私は口コミ以上の営業ツールはないと思う。これが「たねや」というブランドの力なのだろうか。いや、それだけではないだろう。

柳井さんとの和談の中で彼が言った言葉が印象に残った。「同業者も数多く来店するだろう。でも、突き抜けすぎると誰も真似することはできない。」同感だ。NO1ではなくONLY1。頭で理解することは出来ても、実際に行動に移し、結果で示すことは想像を絶する。「出る杭は打たれる」が「出過ぎた杭は打たれない」との言葉を思い出した。我社も「突き抜ける!」を目指してみたくなった。そう考えると、まだまだおもしろくなりそうだ。

 

■学校を休んで参加した・小路口侑以(中学二年)

私は今回父の強い勧めで学校を休んで参加しました。始業式の次の日ということもあり、学校を休むことにためらいがありましたが、日頃趣味で洋菓子作りをしていることと、ホームページを見て行ってみたいと思ったこともあり、母に相談したところ、ぜひ行ってみなさいといわれて参加することに決めました。

実際にラコリーナという所に行ってみると、人が作業してつくり上げたとは思えないぐらいに広い大自然が広がっていました。菜の花畑、満開の桜、背景の山がとても綺麗で感動して、写真を撮ることに夢中になっていました。ラコリーナ以外にも日牟禮ヴィレッジの近くで橋から見た近江八幡の景色など、季節が変われば違う風景を見られるのかなと思い、また家族で訪れたいと思いました。

私は、趣味で洋菓子作りをしていて、ラコリーナや訪れたお店では見たことのないお菓子のデザインや、アイデアに驚きました。特に焼き立てのバームクーヘンの香りはとても美味しそうで、ツアーの見学をしていた時から早く帰って食べてみたいなと我慢していました。私も一度だけバームクーヘンを作ったことがありますが、なかなかおいしくできあがらなかったのでラコリーナのバームクーヘンをつくった人は、たくさん努力して作り上げたものだなと感じました。

またラコリーナで働いている人たちは、天井に炭を貼りつけて飾りをしたり、小さな川をつくったり、仕事をする場所を自分たちの手でつくっていて楽しそうでした。私は来年農芸高校を受験しようと考えていますが、私も将来働いていて自分が楽しみながら人に喜んでもらえるような仕事がしたいです

 ■老舗に胡坐をかくことなく、常に挑戦 谷口直利(建設業) 

建築家の藤井先生の設計の過程資料の展示は同じ建築に関わる者として大変興味深いものでした。掲示資料の図面も手書きであり施設同様とても温かみがありました。焦ることなく自分の思いをかたちにする為、時間を掛けてきた社長と藤森先生の出会いがあればこその施設だと感じました。

案内の方のお話で、施設の壁塗りや屋根の銅版葺き、種から育てた山の木の苗の植樹など、社員も参加しての施設作りをされたとお聞きしました。手間を掛ければ愛着が沸きます。社員の方たちがとてもこの施設に愛着を感じていることが伝わってきました。このことを参考に、当社の手がける住宅でもお客様自身で参加できる工程を用意して、職人さん達と一緒に自分の家作りに参加してもらえる仕組みを作りたいなと思いました。自分の住む家にもっと愛着を持ってもらえると作り手としても嬉しいです。

次に見学した日牟禮ヴィレッジは、老舗ということに胡坐をかくことなく、常に新しいお菓子を作り出している挑戦の姿勢がすばらしいと思いました。どの商品も価格としては高めの設定だと思いますが、ここにこないと買えないという希少感や、いつ来ても新しいお菓子に出会える楽しみを提供することでお客様に満足を提供しているのだと感じました。

ラ コリーナもそうですが、なるべく地元の食材や人を活用したり、お菓子目当てに来るお客様が付近の店舗や街への賑わいを創出したりと、すばらしい地域貢献をされている会社でした。

『他国へ行商するも全て我事のみと思わず、其の国一切の人を大切にして、私利を貪ること勿れ、神仏のことは常に忘れざるように致すべし』という近江商人の精神に触れることができた良い研修でした。

 

■ワークショップで社員と共に作りあげた職場・水野勝志(建築業)

「自然を愛し、自然に学び、人々が集う繋がりの場」というラコリーナのコンセプト通り、駐車場にも緑をいたる所に盛り込み、無機質なアスファルトや白線ではなく、土色のカラー舗装と芝生でつくられた区画線や御影石の車止めにすることで、広大な駐車場でさえ自然の中に溶け込んでいました。

早く建物を見たい気持ちを抑えて、一度歩いて正面門に戻りました。漆喰で作られた門には、銅屋根から流れた緑青のシミが何とも言えない味わいを出していました。駐車場の門も竹で覆われ、バリケードにも竹を使い、外部の看板も全て木製で、「自然」のコンセプトが細部にまで表現されていました。

駐車場から店舗へと続く歩道は、いたるところから道が出て、湾曲し、メインショップの入口で合流。あたかも区画整理されていない、昔の田んぼの畦道を歩いているかのようで、まだ外の段階なのにとても期待が高まりました。時期的な事もあり草屋根はあいにく見れませんでしたが、逆にここでしか見ることの出来ない屋根の芝替えの様子を見れたのは幸いでした。

メインショップは落ち着いた雰囲気で、照明器具も椅子も机もとてもナチュラルな素材デザインになっていました。「和」のトイレもすごく清潔感があり、和紙で作られたピクトサインもおしゃれでした。その他、木のぬくもりが感じられるカステラショップの栗百本、若い世代が挑戦するために設けられたコンテナハウスのフードガレージ、そして銅屋根に包まれたかのような本社。ラコリーナではどこにいても、どこを向いても自然を感じられる空間でした。

メインショップポーチの土壁塗り、ホールの天井につけられた消音効果用の炭片の取付け、本社銅板屋根の曲げ加工、外部廊下外壁の焼き杉の作成など、ワークショップで社員と共に作りあげた職場で、四季に応じて変化し、なおも加速しながら進化し続けているたねやグループの企業活動に脱帽しました。ここで働きたいと集まった社員一人一人が大きな目標と強い意志を持っているのだと思います。今回の視察で「また来たい」と感じる、おもてなしの心と空間作りを学ぶ事ができました。

 

■広告をうたない「たねや」の非常識・坂本健介(広告デザイナー)

ラコリーナ近江八幡の設えは「とらや」のようにデザインの専門書で紹介されうる洗練されたものではありません。しかし、蟻をシンボルにしたり、屋根に草を植えたり、社員とのワークショップで装飾をするなど、コンセプトの面白さが際立っていました。同時に、見慣れたデザインとは一線を画すものがあると感じました。部材の使い方1つとっても、通常なら手間がかかってやらない施工をしている。

エントランスの天井装飾は社員とのワークショップで作ったと説明がありました。見る人に思わず想像させる面白さやストーリーがありました。この感覚は、バルセロナのカサ・バトリョで見たガウディ建築に近いものがあると感じました。そんな感覚的に訴える要素が盛り込まれた店内で提供される食べ物がとても美味しい。工程を見せながら売るファクトリーショップを基本とし、食べるまでの時間を飽きさせない工夫をしつつ、またお菓子が絶品で印象に残りました。入り口そばにあった、生のいちごをはさんだどら焼きも素晴らしい。アンコは基本嫌いなはずの妻(韓国人・デザイナー)が絶賛して、帰ったあとも「また食べたい」といいます。

社員がイキイキと説明や商品紹介をしてくれました。本当に商品や会社に自信と誇りを持っていることが伝わってきました。事前に読んだ本には、マニュアルを使わないボトムアップ型の教育をやっていると記載されていましたが、それは社員が優秀だからだと想いました。優秀な社員が集まってきて、長く働かないとこうはならない。そのために大義として掲げているのが地方創生でした。

経営面では、近江八幡という発祥の地に本社をおいたまま、きちんと成果を上げているのがすごい。とらやは年商185億円だけど、たねやは200億円。単純な売上規模で比較はできませんが、地方でこれだけの規模の商売を成り立たせるだけでもすごいのに、先進的なことをやって地方創生の一翼を担っているのはとても希望を感じました。

たねやはマーケティングや広告の手法によって売上拡大を図ったとばかり思っていましたが、実際はほとんど広告を打たない。リピーターや口コミ、広告協賛の時もお菓子を配るやり方と、広告でのイメージ戦略をとっていないというから驚きです。何億という売上をもつ菓子メーカーが広告を打たないというのは非常識なことです。 

経営感覚だけでなく、店舗づくりやパッケージの設えまで、社長のこだわりが浸透していると想いました。社長の山本さんは高校時代にデッサンで審美眼の基礎を叩き込んだが故に、良いもの&善いものへの感覚が育まれたのだとおもいました。スティーブ・ジョブズもカリグラフィに傾倒し、そのこだわりをMacintoshに搭載しました。菓子業界のジョブズと呼んでもいいとおもいました。

多くの企業は、先義後利の精神は理解していても実践はなかなかできませんが、若い時に美術・デザインに触れ、経営に活かしたたねやの山本社長は、善いものを素直に見通し、形にする素直さを備えた人だと感じました。