脳力開発137号・世界から沖縄を見る
私が沖縄問題を取り上げだしてから一年がたった。一年後、二〇一九年も沖縄に足を運んだ。この一年も沖縄にとっては激動の時代だった。少し一年を振り返りながら再び沖縄の代表される現状を書いてみたい。私は昨年以下の指摘をしてから、沖縄問題には筆を止めている。
沖縄問題番外編・翁長知事逝去にともなう雑感(8月31日)
翁長知事が亡くなった。沖縄県南部の糸満市内にある摩文仁丘には黎明の塔や健児の塔など各県の慰霊碑や慰霊塔が建立され、平和祈念公園となっている。6月23日慰霊祭が執り行われた。この時、その会場で翁長さん顔をみた私の友人は、闘病後のやつれた姿に愕然としたと一報してくれた。新聞の写真をみても険悪な顔で、安倍総理を見つめていた。顔の相が悪い。人間の思いは顔に出る。その後、逝去され今、後継者選出でオール野党は多忙の中にある。
■翁長知事の遺言テープ(?)で指名された自由党・玉城氏
その後のニュースによると苦渋の決断で、玉城氏は立候補をするということだ。勿論、野党共闘だ。立憲民主党も支援すると報じていた。辺野古地埋め立て撤回を旗印にしての弔い合戦だという意向が強い。本土復帰(1972年・昭和47年)以来、政府と対立して46年経った。簡明に言うと沖縄は共産党、社民(旧社会党)、日教組、左翼系労働組合、そしていまだ残っている琉球大学の左翼大学教授たちに支配されてきた。換言すれば彼等は実は中国共産党のしたたかな影響を受け続けてきいる。
反米、反政府ということは、反資本主義だった中国、ソ連の共産主義の夢であった。その中国がソ連と対立したとき、中国はソ連に対して反社会主義だといって非難した。その後ソ連、共産主義の東欧諸国の崩壊を迎えた。
■オール沖縄の中心は実は共産党である
共産党は護憲派を装っている。改憲派の代表を自民党とすれば護憲派の代表はミニ政党に落ちぶれた社民党である。旧・五五体制の当時の二大政党であったが、今や対立政党とみずから言うのもおこがましい。にもかかわらず世の中には護憲派と称して大きな顔をしている社民党の連中が多い。その中身は、大学教員・弁護士・組合活動家・ジャーナリスト等などインテリが多い。こういう連中を動かしているのは共産党である。(マスコミ偽善者列伝・加地伸行著)
■オール沖縄・護憲派の真意
共産党こそ現日本国憲法を否定し、改憲を目指している。改憲(現行憲法反対)を堂々と唱えた過去がある。その最大の理由は「天皇を否定、皇室を否定する」ことが、共産党の使命だからである。しかし、日本において天皇、皇室の廃止などおぼつかない。だからオール沖縄などと偽って、内実は中国、韓国、北朝鮮に媚をうり、沖縄から米軍を撤退させることが使命になっている。辺野古移設反対の真意はここにある。社民党やその同調者の真意はここにある。
●今までもこの古い過去の構図が続くであろうか?沖縄県民にも確かに問題はある。しかし、次第に学習してきた県民は、おそらく玉城氏を選ばないであろうと私はこの時点では予測している。(2018年8月30日)
■知事選挙後の沖縄
私が書いたようには沖縄知事選挙は進まなかった。というよりも全く逆の結果になった。若い人たちが玉城氏に投票したと言われる。その後の玉城知事は翁長さんの弔い合戦のストーリーどおり展開た。また、二月二十四日には辺野古移転県民投票をすることに決定している。これにもいろいろ予想はあるが、オール沖縄は失敗する可能性を微塵も考えずに実施されるだろう。
●さて、一年ぶりに沖縄を訪ねタクシーで市内への行き帰り、翁長さんが立てた三億円と言われる「龍柱」を見ながら運転手の人と話して、いかがです龍柱の効果は?と聞いてみたが、鼻の先で笑い、全くの評価をしていない。そして福州園に話を振ると、久米村にある福州園は那覇市市制七〇周年、福州との友好都市締結一〇周年の記念として一九九二年に開園した中国式庭園で、設計から施工まで福州市の職人により、福州市の資材を使用して建設された。お金はすべて沖縄が負担したと。
琉球と中国との関係は歴史的に遡り調べてきたが、今でも沖縄では歴代の知事は明の時代、亡命してきた久米三十六姓の末裔であることを誇りに思っているようだ。
●中国の長期的かつ緻密、周到なプロパガンダ
話が飛躍するようだが、中国のプロパガンダについては米国トランプ政権が共和党、民主党の党派を越えて中国に対して覇権競争に全力をあげて対抗を強化している。覇権国は前回のペンス副大統領の対中政策は、メディアやテレビのコメンテーターがいろいろ話していることは全く、木を見て森を見ずの類、部分の話だ。
フアーウエィに関するカナダでの副会長逮捕なども、覇権国アメリカが周到に準備した戦術の一環だ。ペンス副大統領の全文A4で13ページを年初の経営計画熟考会で取り上げて和談した。その中にペンス副大統領はアメリカの中国に対しての要求事項を詳細に表明している。
●中国プロパガンダの米国での実態
中国共産党は米国企業(中国に進出している合弁会社)、映画会社(ハリウッド映画)、大学(米国内九〇余に及ぶ孔子学院・日本でも立命館、早稲田、桜美林他二〇余、世界で四〇〇余)シンクタンク、学者、ジャーナリスト、地方、州、連邦当局者に見返りの報酬を与え、支配している。
中間選挙にも介入し、中国は米国の州や地方政府、政府関係者を標的にして連邦政府と地方政府の間のあらゆるレベルの政策を利用しょうとしている。より多くの学者が学問の自由を守り、より多くの大学やシンクタンクが「全ての金には要求が伴うことを認識し、楽に手に入る中国の金を拒絶する勇気を奮い起こしてもらいたい」と進言している。また、中国は米地元紙への有害PR記事の掲載をしている。日本では、年間六〇〇万部の中国宣伝記事を毎日新聞の体裁をとってプロバガンダ記事を配っている。(出典・英国ガーディアン)
●覇権国中国の監視社会の恐怖
ペンス副大統領の演説の中に中国の監視社会(ジョージ・オウエル方式)という事例を挙げている。政府が真実を隠し大衆を「ウソ」で支配するSF小説が現実になっている。私も読んだ。小説と友人がもってきてくれた漫画でも読んだ。このSF小説が現実味を帯びてくる。小説を読みながら、国民監視システムがほぼ完成しているという宮崎正弘氏の情報も一層真実味を帯びてくる。二〇一八年顔認証カメラ五七〇〇万台出荷のうち60%が中国であるという数字も、AI技術でも突出した技術力と監視社会を暗示させる。
●沖縄は中国の影響が更に強まっている
話を最初に戻すと、沖縄のみならず日本全体が中国のプロパガンダに犯されているという視点が浮かび上がってくる。覇権国(中国・米国)はあらゆる権謀術数を駆使して、世界に向かって覇道の目的である「一生他滅」「自盛他衰」のために様々な手を使ってくる。一帯一路についても同じことが言えている。
日本人は覇権国から見れば単純で、ややもすれば純粋な、騙されやすい民族だとも言える。島国に囲まれて、異民族の苛酷な闘争に巻きこれまたことの少ない民族であるが故に、かつての連合国の東京裁判やGHQの戦後の押しつけに対しても、また最近の中国、韓国の傍若無人な振る舞いにも大した反応もしないと見られて、嘗められているという。次回、この視点から考えてみたい。
理念の時代を生きる137号
石村嘉成氏版画作品展・高梁市美術博物館
郷里津山に帰る途中、同行する友人にお願いして高梁市に寄ってもらった。備中松山城で名の知れた高梁市で、石村嘉成さんの作品展が開催されていることを教えてもらっていた。紹介者はリブドウ・コーポレーションに勤務されていた石川徳広さんです。彼が薦めて創業五〇周年記念の社内リーフレットの表紙として石村さんの作品が使われた。
自立と制作
石村さんは一九九四年新居浜市に生まれた。二歳のとき検診で自閉症による発達障害と診断された。お母さんは大きくなっても人のお世話になって生きて行かなくてはならない息子に「療育」(特性による生きにくさを改善し、社会的自立や制約のない生活ができるよう、医療や専門器官と連携して、必要トレーニングを施していくこという)に精根を込められた。そのお母さんを十一歳のときを亡くしました。
彼の作品の中で生き物が描かれているが親子、母と子の作品がおおい。作品を見ていただければわかるように、生きる力に溢れている。色使い、原色を見事に使われた作品はエネルギーが溢れている。言葉では到底表現もできない。今、彼の作品はいろいろな人たちとの「コラボ」が生まれ、日本はもとより世界でも評価されている。是非機会をつくって見ていただきたい。
寺澤 繁氏・享年六十七歳二〇一九年一月
■出逢いから今日まで
●一九九一年・私が北海道浦河を訪ね始めたのが一九九一年七~八月のころからだ。今では理念探究の同志「小山直氏」が生まれた地だ。そのころMG/MT/脳力開発を通じて企業改革に夢中だった。その夏、妻善子と旭川に住んでいた藤野さん(当時七十歳)、北見に住んでいたKさんと四人で、一週間ほどかけて札幌から、赤平、愛別、旭川、北見、根室、鹿追、帯広、浦河を車で巡った。その間、四~五回地域の勉強会で講話と懇親会をしていた。その最後の地が浦河だった。
●べてるの家
浦河で精神障害者施設「べてるの家」を紹介してもらった。この地に住む小山直・祥子夫婦の熱心な支援活動で翌年、「べてるの家の本」が出版され、私も縁あって寄稿した。以来、毎年近く浦河まで足を伸ばすようになった。べてるの家のメンバーほぼ全員が、天命舎に寄ってくれたこともあった。浦河に寄ると彼らを会い、食事をしばしばともにした。
寺澤さんはそのべてるの家が経営する有限会社福祉ショップべてるで仕事をしていた。大工さんだった。会社にはグループホームで生活するメンバーは勿論、精神障害者やアルコール依存症の人達も働いていた。いつのころかは忘れたが、小山さんの経営する「マルセイ」でも並行し仕事をするようになった。
●あれから二十七年
振り返ればあれから、二十七年もたった。北海道は私には学生時代からの憧れの地であったこともあり、何度も北海道を訪ねることになる。第一に私の子供のころからの友人が北大の獣医学部に進学したことと、山岳部のリーダーだったことが最初の切っ掛けだが。その後定期的な帯広での脳力開発、そして理念探究会の開催と続いていった。
その後、浦河を訪れる度に、二~三日寺澤さんのアパートに泊めてもらうようになった。訪ねる度に時に夕食をともにし、遅い時間に彼のアパートで私は彼が用意してくれてお酒をちびちびのみながら、あれこれ話をしたものだ。彼が勿論「アルコール依存症」から脱出し、毎日アルコール研究会で依存症だった仲間たちとの集いに参加してアドバイスしていることは聞いていた。
●自立が共通のテーマ
彼の実体験は人間の弱さと強さを物語る。そして彼の北海道はもとより時に日本各地のAA研究会に参加し続ける。「人間の自立」が私のテーマであったが、彼のテーマも「自立」依存症からの脱出だった。深く共感した。二人で過ごす時間は心の休まる時であった。夜毎に聞いた寺澤さん体験を、養成塾で勉強している若き経営者に聞いて貰いたいと思った。その後、アルコール依存症からの回復の実体験、各地でのAA研究会メンバーの自立への体験を茨城で語ってもらった。私の尊敬する実践した生の寺澤さんの生き方を。
その一・講演・アルコール依存症からの回復
●プロローグ
二〇〇七年暮、北海道浦河に住んでいる寺澤さんが、べてるの家のグループ「有限会社福祉ショップべてる」を退職して独立するという話を聞いた。会社から独立し、青天井になったのなら、是非天命舎を再訪して頂き、お話をゆっくりお聞きしたいと思った。
一九九九年に一度来て頂いたことがある。当時、寺澤さんのお話を「理念探究会」参加者に聞いてもらいたいと思ったからだ。講話の合間に、リビングのカウンターの下に、皿を仕舞う棚の扉を造って貰った。今も完成のサインがある。
今回は、次世代型経営者養成塾に参加しているジュニア、シニアのメンバーと理念探究会に参加しているメンバーに寺澤さんの体験談をお話して貰いたいと考え、一週間にわたる天命舎での長逗留になる。講話は三回。その間、関東各地のAA研究会に出かけなど自由にして頂ければと。
●理念探究の旅
理念探究は自分の天命、使命を探究する旅でもある。ある人は、まさに身に降りかかる不幸や思いがけない生死に関わる出来事で瞬間的に、自分の天命を自覚する場合もある。またある人は、長年心の中に鬱々とうごめく何かに気づき、そして長い間掛かり、天命の周辺にまでたどり着くこともある。またある人は、様々な一人一人の人生経験を通じて宇宙の存在を意識し、そしてかなうものなら天命を探究したいという場合もある。
寺澤さんのアルコール依存症からの回復の過程は理念探究の過程に似ていると感じた。本質は「自分の内面と究極の対面をつづけることができるか」「自分の使命探究の自己との対話の深みを納得できるまで探究できるか」と言える。「何のための人生か」「何のための企業でありたいか」という問いかけをし、納得できる理念まで時間がかかろうが、これ以上はないと行き着くところまで探究しつづけることができるかどうかに掛かっている。
●断酒の苦労
アルコール依存症からの回復は、断酒のために様々な工夫も苦労もする。しかし、たとえ一〇年間断酒していても、もう大丈夫だとおもい、たった一杯のアルコールを飲んだ途端にまた元のアルコール依存症になってしまう。寺澤さんは三十六才に依存症から回復され以来今日まで(二〇年余)、仕事の後に、ほとんど毎日全国のアルコール依存症の人達とのミーティングに参加され、メンバーとともに自分の過去、現在を正直に語りつづける。そしてメンバーの人達の話しに耳を傾ける。
今度の滞在中も、私達にお話をして頂く三度以外は全て東京を起点として各地に足を伸ばされた。仙台、立川、大宮、関東圏の様々な場所に、十数回のミーテイッグを重ねられた。
●人間の弱さと向きあう
彼の話を聞くと、健常者といわれる私達がいかに甘い人間であるかを思い知らされる。多くの人間は自分を「依存人格」のままにしておいて生きている。都合の悪いときは全て他人や周りの所為にする。そして自分を常に正当化する。こういう表現はやや傲慢に聞こえるかもしれないが、寺澤さんはその人間のもつ真実を語る。しかし不思議とそれが、淡々とした身近な語り口のなかから、聞く人に自分の生活を省察させる。
自分はこうして仕事し暮らしているが本当に自分の天命と向き合おうとしているのだろうか。何故こんな弱い自分に言い訳をしつつ、上辺を取り繕い生きているのだろうか。表面からはみんなと同じように生きていて、人から見えない心の内部は「ためらい」や「「後ろめたさ」を感じながら生きているのだろうか。
●経済中心・お金儲け中心で生きる普通の人々
家族を守るためにお金は必要だと自分に言い聞かせて、「お金儲けは悪いことなのでしょうか」と人に問いかける。何のためにお金が必要なのか。そしてそのお金を何のために使うのかという問いかけはない。殆どの人達は経済中心の世相の中、「何のために企業は存在するのか」。その前提として「私達は何のために生まれてきたのか」と問いかけ省察する時をもたないで一生を終わるになる。
その問いかけを寺澤さんは私達にしてくれる。人間はたとえ強い願望をいだいたとしても決して、自分の願望に近づけることはできない。近づいていくには弱い自分を正直に自分で認識し、克服するためには具体的な行動が変わらなければならない。そして絶え間なく淡々とその遠い念いに向かって歩みつづけなくてはならない。その出発の条件が「依存人格からの脱出」と「決意・意志」だということを、アルコール依存症からの回復とその後の生き方から教えてくれる。
その二・二〇一五年・理念探究会講話
二〇一五年、理念探究会の六月初日、宿題であった李登輝の「指導者とは何か」のポイントレビューを皆で輪読和談した。この本は全てのリーダーにとって「上に立つ人間としての備えるべき姿勢、思想」を示唆している。その後、各参加者の近況報告を聞いた。
●依存症の母親
アルコール依存症を抱えるIさんの母親が来日している。彼女は今、近くのショップで韓国料理を提供しながら新たな生き方を模索している。彼女が日本に滞在中に北海道に住んでいる寺澤氏の話を皆さんにも聞いてもらいたいと思いついた。そして思いついたが吉日と研修の場から携帯で電話をした。七月か八月に茨城まで足を運んで理念探究会の人達に話してもらえないかという依頼の電話である。併せて、今アルコール依存症からの脱出に取り組んでいる韓国から来日している母娘の話をした。
●超確率現象
「今東京にきている、明日茨城に行ってもよい」との返事。なんという僥倖、正に超確率現象であり、仕組まれたかのような縁に驚きを隠せなかった。翌日八時過ぎには我が家に到着。そして九時から講話開始。彼女のお母さんも参加してくれた。Iさんは話を聞きながらパソコンで韓国語に変換し、お母さんはそれを見ながら講演の内容を理解される。
寺澤さんをお呼びする訳は「中途半端な取り組みは結局アルコール依存症からの脱出はできない。私たちも自己の探究を徹底的にしない限り理念探究にもたどり着かない」という点が共通しているからだ。以下、参加者の感想を掲載します。
■感想
●寺澤さんの最初の印象は、気取ることなく自然体で優しそうな印象を受けました。完全に禁酒を始めてから二十八年になるとのことで継続する心の強さに感服しました。昔は、酒を飲むと人から良く見られたいとの思いから、弱い自分を隠し強い自分を演じていた。結果、本当の自分の存在がなくなっていたのだと。人は多かれ少なかれ、他人からどう思われているのかを気にしてしまう生きものだと思います。
自分の中にも「他人からの評価」を無意識のうちに考えていたことがあったのだと気付きました。「他人との比較」ではなく「昨日の自分を超える」ということをもっと意識していこうと思いました。(中略)「逃げなければ必ず問題は解決する、逃げれば問題は大きくなる」との言葉も深く印象に残りました。
帰り道石岡駅から上野駅までの約一時間、ご一緒させていただくことになりました。東京までの車中寺澤さんは、「自分はやりたいことをやっているだけ」なのだ「人のためにと思って何かをやるとしんどくなって続けることが出来ない」と言われました。(藤井氏)
●弱い自分を認め、素直に表現できるというのは、人間の真の強さではないだろうか。
わたしの母はアルコール依存症です。母の発病に自覚したのは、今から約一年半前です。
当時の私は自分のことで、目一杯でした。ある日から、毎日って言ってもいいぐらい多かった母からの連絡が来なくなりました。電話をかけても出ない状況が何日。やっと通じた母との電話。坂から転んで連絡ができなかったという。
後々父に聞いた情報では、母に異常がでたということでした。その後、肺炎が発病し入院をすることになり、わたしも日本から母が入院した病院に飛んでいきました。そこで見た光景は悲惨なことでした。今まで知っていた母はどこにもいなかったです。人間として生きるという意志を失った中年のおばあさんが一人横になっているだけ。母がそこまで心身が疲れている間、わたしは何をしたのかと。自分を責めながら、自分の感情もどんどんパニックに入りました。
●そのときに力になってくれたのは、養成塾で学んでいた「心の自立」「和の実学」やいつも近くにいてくれたSさんでした。このままでは何も変わらないということに気付き、母を健康にしたいと思うようになりました。肺炎が治った母は、その後、アルコール依存症の治療と肝臓治療を始めます。そこで直感的に分かったのは、母は体より心の病気が大きいのではないかということでした。退院してすぐ日本に来てもらい、ほぼ一ヶ月間一緒に生活しながら、母は少しずつ生きる意志を取り戻すことになりました。
●それから、九ヶ月間母は一人で、生きるためにアルコール依存症と戦ってきました。最初はわたしもいろいろと気を配ったりしてきたのですが、今思えば、大丈夫だろうとだんだん油断していた自分がいました。それから間もなくアルコール依存症が改めて発病し、今に至っています。今年の五月、再び母を日本に連れてきたときに、父との話し合ったのですが、これが最後だと思って、母の病気を直すために一所懸命に自分ができることをやると。そう誓いました。
このたび、寺澤さんとも出会い、「生きるということは」とか、自分自身の人生を振り返って深く考える機会となりました。特に心に残ったのは、「弱い自分を認める、表現できるというのは、真の人間の強さではないか。」ということでした。
『すべては今のためにあったこと』という本を思い出します。今起こっている様々な物事というのは、きっと未来をつくることになるでしょう。今わたしに起こっていることには、何かしら理由がきっとあると。何をわたしに言っているのかと。(後略)
【追伸】母の一番心に残った言葉は、「ただ命があって生きていくということと、目的のある人生というのは全然違う」ということのようです。(Iさん)