理念の時代を生きる(理念探究会改題)136号

理念の時代を生きる(理念探究会改題)136

 昨年から私が尊敬している方々が思いがけなく逝去された。その方たちの事を書いた記事を振り返りながら、正に「理念に生きた」方たちを偲びたい。

奥びわ湖物語・三田村正子様・享年八十八歳

語り部・童話の世界、

二〇一二年四月、桜の開花の遅れた満開の琵琶湖を訪ねた。湖北の桜は静かな湖面に映え正に満開だった。何度目かの菅浦は少しの旅人のみで、海津大崎の桜も遠望でき青鷺も飛んでいた。帰途、高月の渡岸寺の十一面観音を拝顔して、今回の旅の目的である「奥びわ湖物語」の作者の三田村正子さんを訪ねた。渡岸寺のほんのすぐそばにお住まいになっている。

三田村さんは私が大学三年生の時、グリークラブ(男性合唱)で指揮者をやっていました。十二月の定期演奏会で「山に祈る」という合唱組曲に取り組んだときにナレーターをやっていただいた。彦根で唯一標準語の語りの出来る女性だった。湖北を旅したことをお知らせしたら、是非一度寄ってくださいとお誘いいただき、湖北地方に伝わる歴史や祭事などを基に物語を創作した童話集「奥びわ湖物語」出版のお知らせを頂いた。早速読んでみた。驚いた。素晴らしい世界がそこにあった。絵は滋賀県在住の著名な日本画家の鈴木靖将氏がお描きになっている。「北近江に伝わる哀切で詩情豊かな心温まる10編の物語」と帯びに書かれている。大人の童話とも言える。近江に伝わる物語を掘り起こし三田村さんの想いを込めてまとめ創作された。私も、妻も読んで人間の愛しさ、哀しさを切々と感じた。今も語りの世界は続けられている。奥びわ湖物語はその一断面。まだ、新しい物語づくりが続けられている。

日本画の世界

ご自宅の玄関に入ると日本画と洋画が目についた。正面の屏風、上がり口の右手の檜の柾目の板に庭の花々と鳥や蜂、そして蛙も描かれている。三田村さんがお描きになったのだと。欄間に飾られている絵もご自分でお描きになったとのお話だ。上がってすぐの日本間の四方の襖にも美しい日本画が描かれている。洋画はお母様がお描きになったとのお話。二階の正面に描かれている絵は、お父様の絵だとの事、趣味の段階は遥かに越えた腕に、失礼を顧みずお尋ねした。

曾祖父が明治最初の外交官でベルギー・オランダ大使。祖母は明治時代、津田梅子たちの次の二回目のアメリカ派遣で留学され、英語を学ばれ、帰国後宮内庁にお勤め、昭憲皇太后にお仕えになった。お母さまは聖心を出てフランス・リヨンに留学され、ピアノと洋画を学ばれ、お父様は東京工大を出てソルボンヌに留学し、ご結婚後お母様の影響を受けて絵も描かれたとのこと。絵は幼少の頃から親しんでおられ日本画は、女学校の頃からやっていた。父上の彦根への転勤、終戦の年に女学校三年生を卒業、京都美大・洋画部門を受験したが、凄い競争率で、不合格。日本画は続けられ五十有余年、最近は仏画に力を入れている。帰る間際に少し仏画を見せていただいた。幾度も絵の作品展を開かれている。日本画は洋画と違って出来上がるまでに時間がかかる。その手間をお聞きするだけで改めて洋画との違いを感じる。至福の時間だった。作品展を開催されるときには万難を排してお伺いしたい。

お茶の世界

奥の部屋に通していただき、庭に面した襖を開けると、満開の桜の咲く日本庭園が広がる。床の間には昨年の強い風のときに倒れた大きな枝を三つに切って、畑においていたら驚くことに、花を咲かせたという。その小枝を飾ってあった。我が家は今、家の外も中も桜の花で溢れていると。庭に面した廊下の奥の戸に龍神の絵が描かれている。この方向は鬼門なので龍神を描いたのだと。その戸を開けると、想像もしなかった茶室が設えてあった。茶室は二十五年前に建てられた。この家を建ててくれた大工さんと幾度も関西方面、京都の有数の茶室を訪ね、茶道の道理にかなう茶室に仕上げるまでのお話もお聞きした。お茶も幼少の頃から習われ、年に数回、お茶会を催され、お茶も教えられている。食後、お茶を点てて頂いた。実に分かりやすく、お茶の世界の本質をお話してくださった。近かったら、進化経営学院に学ぶ塾生と共に学びたいと思った。

生命の静謐な発露

三田村さん現在八十二歳です。ほぼ毎日英語の塾を開いて、受験生に教えているとのこと。今教えている生徒たちが卒業するまで続けるとの話。不躾な質問に答えていただきながら、育ってきた家柄、家の歴史・文化、身につけてきた教養ということをひしひしと感じた。四十二年前、学生だったころお会いした三田村さんは標準語を話され、声優のような明晰なしかもしっとりと落ち着いた声の持ち主だった。その三田村さんの今も変わらぬ声には実は本人の教養や文化や生き方が滲み出ているのだと今回の再会で発見した思いがある。生命の静謐な発露を見る再会だった。

その後、大学のグリークラブのメンバーとそして翌年また、妻とお訪ねした。 

Mランド・小河二郎会長・享年九十五歳

成就の時代「私の質実経営」

二〇一〇年末に一つの小冊子を編集・出版した。益田にあるMランドの小河二郎会長が書かれた本の再版と言うべきか。その小冊子は、進化経営学院の人達の座右の書として備えることとあわせて志を持って生きたいと考えているこれからの時代の人に進呈したと考えている。書名は「私の質実経営」という。その中に成就の時代という個所がある。「人間の能力は、正に無尽蔵(むじんぞう)井(い)泉(せん)である。訓練や努力によって素晴らしい智恵をいくらでも発揮できる。だから縁あって共に働く人達にみんなの念いをかなえてあげたい。成就させてあげたい。成就を分かち与えてあげなければならない。そのために各自にしっかりとした目標を持ってほしい。社長になりたければ社長にさせてあげたい」という意味のことを書かれている。私が会長にお会いしたのは十六~七年前だった。丁度、私の創業前後の頃だ。以来私は師事してきた。平成八年・会長の揮毫になる「知行合一」の額を進化経営学院にも掲げている。

小河会長との一年ぶり東京での再会

二〇一一年は三回ほどお訪ねしました。一回目は3・11地震の後三月、善子のモラ作品を展示する美術館の改装の打ち合わせ、四月美術館オープン、七月養成塾塾生との合宿訪問。今年はのびのびになり、十一月の訪問を企画してお電話をしたら、丁度その日が上京して講演をされる日と重なり会食をさせていただくことになりました。

昨年の震災以来いち早く変化の兆しを見せた若いゲストたちの大きな変化の様子、変わらない大人や政治の世界とは一線を画し、変化する若者たちの姿。食堂で提供する食事は「白米から玄米」に変えて、段々みんなが玄米の生まれを納得してくる様子など等。

話が十二月に訪ねる予定のネパール・ヒマラヤの話に及ぶと、「僕もヒマラヤに行きたかった。その理由はヒマラヤを超える鶴の群れを見たかったからだ」と。ここでもネパールの話題がひとしきり。会長は李登輝元総統と同い年です。台湾を訪ねお会いしたこともあり、今年六月の訪問の際、ご紹介していただく予定でしたが、李登輝元総統が入院のためかないませんでした。

お父上は九十二歳でお亡くなりになられましたが、会長にお会いしていると、百歳は超えられるだろうと、善子ともども願いながら、快くお話が続きました。気がついたら二時間余りの時間が経過していました。明日の講演を控えて、名残尽きなきませんが、車を呼んでもらい、ホテルまでお送りし帰りの汽車にゆられながら会長とご一緒した一時の快い陶酔に耽っていました。

Mランド50周年セレモニー講話

二〇一三年十月二十四日、益田でMランド50周年セレモニーが開催された。昨年、十一月東京で小河会長がある会で講演される前日、中島室長ともども湯島で食事をご一緒する機会に恵まれた。そのとき、本日の会にお招きをいただいた。

小河会長・九十歳の講話

一言で言えば「運がよかった」という言葉で始められた。創業25周年の時には式典を行おうと考えていた。しかし50周年のセレモニーが行えることになるとは思っても見なかった。それを思うと、こうして自ら50周年の式典を迎えることが出来るとは正に「運がよかった」という言葉しかない。会長は今年90歳を迎えられた。台湾元総統李登輝と同じ歳だ。

第一に「やわらぎの像」=一無の像(一生無事故への祈念)に関してのお話だった。草柳大蔵氏の文芸春秋の記事「やわらぎの像」への想いから始まり、モータリゼーションの対極「こころ」が大事になる。その「こころ」を企業経営の中心に置く。「やわらぎ」と言う字は、火を三方から囲んで人間が語る姿を象徴している。この像は、第一号は新宿西公園に設置され、二号は横浜スタジアムそして三号はこのMランドに見ることか出来る。その後、設置された話は聞かない。

第二は「美しくなりたく候」という会長が早稲田大学に通っていたころの文学部教授であった「会津八一」に惹かれ、新潟に生まれ仏教美術史の研究や俳句、短歌への造形が深い。小柄であった彼が羽織袴で廊下の真ん中を歩く姿には威厳があったという。会津八一の言った「美しくなりたく候」という言葉は、Mランドの構内のあちこちに見ることができる。その具体的な姿が、ギャラリー・フォンテーヌであり、ロビーで見られる岡本太郎のリトグラフや彫刻である。

2011年1月会長から電話を頂いた。善子のモラの作品をフォンテーヌに展示したい、ついてはどのように展示するか相談をしたい。3月11日茨城県に住む私たちも東日本大震災の被害にあった。何とかしてその5日後Mランドを訪ねることが出来た。予定通り4月改装なったフォンテーヌにパナマサンブラス諸島の人が作る手芸の技法を応用したモラの作品14点を展示することが出来た。受講生のみなさんに一時の憩いを提供しているようだ。モラの作品は生きるエネルギーを放っている。

第三にNO1に関するお話であった。50周年を迎え、四輪車免許受講者で数年前ついに全国トップになった。自動車学校がスタートした時点では、Mランドは最盛期でも受講者数は七~八番だったという。25年前には260万人だった自動車学校卒業生は今や130万人、半減している。NO1になるということのイメージは、具体的には「NO1のあの山に登ろう」という言葉で始まった。NO1の富士山に登ろう。富士山の天候が一番安定している7月1日の山開きの日に合わせて、超繁忙期の最中、仕事を終えた社員ともども夜を徹して富士の近くまで移動。翌日五合目にバスで移動。当日八号目に泊まり頂上を目指す。早朝出発ご来光を迎え、登った人たちは山小屋や付近の掃除をして下山する。その夜には益田に帰り着く。会長70歳の年に始められ、三度も会長自ら登山されているという。「あの山に登ろう」と目指す方向、目標を指し示す。目標を達成する方法は、その時々によって変えればよい。

会長の著書「私の質実経営」の中に示され「成就の時代」という項がある。「想えば成就する時代だ」と。想うことがまずスタートである。今や、前述の自動車免許取得者激減の中で、毎年六千人以上の受講生が入学してくる。しかもその六割がMランドを卒業した親兄弟姉妹、知人友人のすすめでこのMランドに来る。私の妻や、私の友人の娘もその例に倣っている。自らが体験したMランドでのさまざまな体験そのものが推薦する理由であり、すなわちMランドの若者を惹きつける魅力であり、教習に携わる人たちの魅力そのものである。

第四に「知行合一」から「知行楽」という新しい概念をお話しされた。若い人に「親孝行をしていますか?」と問い、続けて「朝起きたら両親に挨拶をしていますか?」と問うと「していない」という。頭ではわかっているがその実行は心もとない。私も進化経営学院には平成八年元旦に会長に揮毫していただいた「知行合一」の額を掲げている。知っていてもそれは必ずしも実行していることではない、と肝に銘じ受講生ともどもとも精進している。

「知行楽」とは一日の仕事に全力を尽くす。全力を尽くして仕事をすれば、それは苦労ではない。この仕事の中に充実感が沸いてくる。ゲストに喜んでもらった。一日しっかり仕事をしたという満足感がひしひしと沸き上がってくる。「私の質実経営」の中に「尊業而自楽」という言葉がある。「業を尊び而して自ら楽しむ」と解説されている。一日の仕事が終わって自宅に帰るときに「ご苦労さま」「お疲れさま」と声をかけることが多い。会長は言われる。「いや、決して疲れた訳でもない。決して苦労したわけでもない。辛かった訳でもない」「むしろ、充実感に溢れた一日であったではないか」。ならば、「お疲れさん」「ご苦労さん」と帰る人に声をかけるより「ごきげんよう」と言おうではないか?と続けられた。「ご機嫌よう」。正にぴったりだと会長のお話を聞きながら、隣に座っている妻と顔を見合わせた。

最後に、自然(しぜん)と自然(じねん)という概念についてのお話だった。自然(しぜん)という呼称は人間と自然との対立のイメージがある。西洋文明=自然科学文明はある意味で自然の超克であり、自然を征服することに重点がある。人間が自然を克服して高い山や深い海、そして自然を切り拓くという概念か主流だ。日本はこの概念とは違う。自然(しぜん)と一体となって、人も自然の一部である。その概念を自然(じねん)と言う。自然(じねん)の時代、自然(しぜん)と一体となって生きていく生き方が大切だと言われた。

仕事を自分の生き甲斐にできるような会社を目指したい。社員が一生懸命仕事をする。そしてゲスト(お客様)が満足してくださる。そしてその結果みなさんや地域が潤ってくる。よくなる。そしてゆくゆくは日本が、地球がよくなっていく世界を目指したいと淡々と静かにお話しされ講演を終わられた。

天寿への道

二〇一七年十一月、ある資料を入手した。天寿への道という資料だ。その資料によるとスタートが還暦だ。還暦は六十歳、次が古希で七十歳、次が喜寿で七十七歳、以下傘寿八十歳、橋寿八十四歳、米寿八十八歳、卒寿九十歳、国寿九十二歳、櫛寿九十四歳、白寿九十九歳、百寿百歳、茶寿百八歳、王寿百十一歳そして天寿百二十歳までの道は遠い。

小河会長訪問

島根県益田を一年ぶり訪問した。二〇一六年十一月孫の吉彦常務の結婚式にお招きいただき、おもいもがけなく善子が乾杯の発声を頼まれた式だった。あれから一年。近況報告やら最近の私の仕事等を報告し会長を前に、「天寿への道」のお話しをした。会長は今年九十四歳になられている。櫛寿という。天寿は百二十歳というお話しをすると、常務に伝言され、会長室から一冊の本を持ってこられた。本は「健康寿命一二〇歳説」というタイトルだった。著者は船瀬俊介氏。

「健康寿命一二〇歳説」

実は私が、二年前に減量を試みたとき、年齢とともに過去のやり方では予定通り減量が進まないことに気がつき、偶然から善子の友人に貸してもらった「やってみました!一日一食」長寿遺伝子が微笑むファスティングという船瀬氏の本だった。面白半分に読んだのだが、根拠があることが分かり甲田光雄氏の「奇跡が起こる半日断食」にたどり着き、実践している。

偶然の話の繋がりから「健康寿命一二〇歳説」の中で森下博士(八十八歳)の世界中の長寿郷に学んだ事を中心に船瀬俊介さんと対談されている。この本で森下博士は世界中の長寿村を繰り返し訪問され、現地の人達にインタビューされた、滞在された現地体験を報告されている。そして、森下博士は「東京でガンやその他の治療に指導されている方法と世界の長寿村の食事に共通項がある」と言われる。具体的には玄米食だ。

ココロが磨かれる森の中の教習所

Mランドは全国から毎年六千人の人達が運転免許取得に来られる。二週間の合宿研修だ。ゲストの人達は六割の人達が、体験者の勧めでこのMランドに参加される。朝のトイレ掃除から始まるMランドの研修プログラムは、創業五十年の歴史ととも会長たちが築かれたことで、ゲストは滞在中様々な事を体験できる。詳細は省くが本格的なお茶の体験など、この合宿でゲストは大きな精神的変化と成長を体験する。特質すべきは朝の食事は今、玄米食を提供している。そして禁煙が定着している。何故運転免許取得とこれらのことが関係あるかと思われるだろうが、このことは事実である。妻のMOLAの作品を展示している美術館フォンテーヌもある。

この後会長とMランド構内を散歩した。雄大な自然の環境に囲まれたMランドはゲストの心身を落ち着かせる。YOGAの道を歩いた。私達が暮らす天命舎も自然の中にある。そして毎日のウォーキングコースはコンツオルズの道から湖水地方のように霞ヶ浦の湖畔を歩いている。自然の中で暮らす、野菜中心の食を楽しむ。過食をしない。そういう環境で自らの天命に添って生きることが「天寿への道」に繋がるのだろうと認識を新たにした小河会長との一年ぶりの再会でした。

生涯にわたる恩人・名古屋電請器工業・川本良三会長享年九十三歳

十年ぶりの再会・八十八歳

実に十年ぶりにお会いしました。二十二年前の八月一日長男倫太郎が北海道でバイク事故を起こしたとの報を受けたのは、東京から名古屋の川本社長(当時)をお訪ねし、面談中に、彦根の義母から善子に緊急の電話がかかってきたのです。その時の事故を起こした長男・倫太郎は結婚し二児の父親、シナリオ作家として元気で仕事しています

会長に初めてお会いしたのは、社会人になって名古屋に赴任した翌年、二十四歳の時です。当時から会社を数社経営していらっしゃいました。終戦後の会社を作るまでの経緯をお聞きすると、きりがありません。その根底は優れた技術をお持ちだったことが縁で、NHK・国鉄と繋がり、数社を経営されることになったのです。

その当時(一九六七年頃)家電店のグループ展開を意図して設立された日立系の会社でネッサ川本という会社の社長。技術に詳しい社長でしたから日立系列でありながらも、ソニーの商品も積極的に取り扱っていました。開店当時から私が担当しましたが、日本コロムビアの商品はわずかにステレオを扱っているにすぎない取引先でした。約二年の内にカラーテレビやオーデイオでは、トップの扱いをしてくださるまで、取引を伸ばしていきました。

私の結婚に際し、結婚相手に会ってくださいとお話ししたら「黒田君、結婚は今の君のような人間ができるものではないよ」と小馬鹿にされ、まったく信用してくれませんでした。が、彦根からご自宅に善子をつれて行ったら、「ほんとなのか」と驚かれ、あわててツッカケを履いたまま、レストランに招待してくださいました。その席で、開口一番、「善子さん黒田君とは結婚しない方がよい」ととんでもないことを言われたのを忘れることができません。私は当時から問題児だったのですね。それでも、お金のない私たちのために、アパートを見つけてくれ敷金も払ってくれました。私たちには大恩人です。

今から思い出しても仕事が楽しくて、楽しくてたまらない時期でした。社員の人たちとも仕事が終わってから「寺山修司の天井桟敷」の舞台や音楽会、ディスコや合宿研修なども企画して仕事を楽しんでいました。あのころはよく売れたねと今回会長も振り返りながらおっしゃっていました。

会長は当時から上京されては経済界、業界などでよく勉強もされ、時々講演会の様子をお話して下さり、刺激を与えて下さいました。特長のある部品製造の仕事は愛知時計やその他の取引先と幅広く取引されていました。訪問すると、話を聞いて下さり、時にお店の二階でよく食事をご馳走になったことを覚えています。今回の訪問で、会長が改めてまもなく八十八歳を迎えられるとお聞きして、その若さや身のこなしに善子ともども驚きました。

カメラの世界では超有名なハッセルブランドに六十五歳の頃から凝られここ数年、世界各国を訪問され写真集として数冊、出版されています。数年前にネパールを中心として、山岳写真家の白旗史郎氏と一緒にネパール・ナガルコットの日本人が経営するホテルにも支援をされ、写真の絵はがきを販売支援もされています。三年前社長をご子息に譲り、今は会長として経営にたずさわる傍ら、相変わらず颯爽と活躍されている。最近写真撮影は国内に絞っているとか。話題は縦横無尽。本社に近い新しい工場も案内していただき、名古屋市内の高速道路を飛ばしてホテルまで送ってくださいましたが、その運転の腕前に驚きました。八十八歳。信じられないほどお元気で、私達にとって、刺激的な再会でした。

 

茨城、彦根・経営計画熟考会

毎年末から翌年にかけて、経営計画熟考会を開催している。企業を制定している参加者は理念を背景にしながら基本的に本年度の経営計画を立てる。

覇道の世界

世界は正に覇道(競争)社会で対立の様相を示している。基本的に覇道は一、天下の勝ち残りが目的。二、敵の制圧・征服を通じて目的達成を目指す。三、覇道は権謀術数を駆使して優位を追究する。四、一生他滅をもって収束安定とする。五、覇道は異質排除、自盛他衰を行動原則とする。

世界の米国、中国の貿易戦争も、EUの対立も、日産とゴーンとの確執もこの覇道の原則に漏れない。少し大胆に言えば「利益最大化」を追究する大手企業は殆どが覇道的な姿勢に近い。その基本姿勢が企業の不正、従業員の酷使、結果としての働き方改革を唱えざるをえない結果を招いている。私達は和道経営を目指し互恵圏の拡大、身辺の和の構築、異質共存、互恵共栄を行動原則としている。

和道の世界

覇道世界のヨーロッパの近代は、合理化と効率化で、無駄に見えるものをなくしていった。しかし日本は近代になっても、無駄なものを残した。言葉を変えれば、情の力で勝つ日本のなかで日下公人氏が謳っている情の世界をまだまだたっぷりと残している。氏は「情の力」の神髄を以下のように説いている。

一、情の力でこそ高レベルの仕事に到達できる。二、「情」の戦略すなわち「知・論理」に頼らぬ日本的なあり方。三、「情」の組織論・情で繋がった関係性ほど強いものはない。

四、実力主義の社会だからこそ「情」が大事だ。五、巨大なものに立ち向かう日本精神 。六、苦境にも日本人の使命と希望を語り続けられた昭和天皇。六、近代が終わり、情が復活する。七、情愛深い日本人が求められる時代。

参加された経営者達は、それぞれ自社の経営計画を立てられた。理念を背景とした経営、換言すれば利益追究が優先ではない。理念に添った経営計画、日本的な経営を具体化したい。

和道経営の実践企業

彦根での経営計画熟考会の最中、彦根の知人より「近江商人の哲学」「たねや」に学ぶ商いの基本をプレゼントされ、具体的に彦根にあるお店を参加者と訪ねた。たねや創業家の十代目を迎える山本昌仁氏の著書を読みながら、言い知れぬ興奮を感じている。近江商人に和道経営を実践してきた企業の発見した想いだ。今年はこの「たねや」を視察、探究したいと企画している。