脳力開発138号・国際社会は自国の利益のみを追求する
ヨーロッパの崩壊
今、世界は米国と中国の貿易戦争、米国と北朝鮮の核の廃棄交渉、英国のEUからの離脱、欧州もファーウエェイへの排除、習近平の一帯一路の蹉跌の問題と話題に溢れている。
また、韓国の現政権の日本に対しての反日の問題も著しい。これらの問題についてのメディアの論評は木を見て森を見ずの類が多いが、歴史的、長期的に見る必要がある。一方、国内的には貿易戦争における対中国への輸出の減少が予測されると経済界もかまびすしい。
これらやや政治的な問題をついては、いままで、一線をおいていた。今回改めて、思考方法の原則に戻って考えてみる事する。
フランスのデモの問題
フランスではガソリン値上げの問題に端を発して、つい先日までデモが頻発した。これに対してマクロン政権は妥協して、対話を続けデモ収束の流れにあると思ってたら、休暇先スキー場から急遽返ってこなくてはならなくなった。しかも今回はフランスで一番の繁華街で観光客が最も楽しんでいるカフェやブルガリなどのブランド店が、デモの暴徒によって放火、略奪されたということだ。文化都市と標榜されたパリはもはや暴徒の町。危険で訪れ気も失せてくる。
チリや南米でかつて災害があったとき、一番恐れるのは治安問題だ。そして略奪がおきることだ。数年前、年下の友人で日本電産の関連会社の自動車関係の社長を任されていた友人を訪ねたとき、彼からこういわれた。「黒田さん、町を歩いていて見知らぬ人が近づいて来たら、逃げてください」と。何を言うのか「かつて訪ねたフランスは文化の香りがしたある意味で憧れ町だよ」と答えると、今は違うのです。特に肌の色が違う人は注意してください」と言われた。
そしてとりわけ「女性は働かない、権利ばかり主張して経営者としては、たまったものではない」と。滞在中フランスの駅裏は糞尿はたれ流し、地下鉄の通路は尿の悪臭にへきへきした。とりわけ乗り継ぎの飛行機でチケット交換で並んでいると十二時になった途端、目の前でお客を無視して席をたつ女性に腹が立って、思わず声を荒らげたら男性のスタッフが飛んできて対応してくれた。モネの美術館ジュベルニーを訪ねたときも体験した。
帰国して、ヨーロッパは崩壊するだろうと、論拠はヨーロッパ白人の植民地主義の弊害が長い時間をかけて表面化してきた問題だ。そこに人道主義を掲げ人種差別への対応が重なっている。とこの森のフォーチャに書いたら、かつてイギリスに住んでいた友人から、暴論だとクレームが入った。
いま、フランスのデモを見るに、おそらく暴徒は移民か不法滞在者かであろうと、やや好意的に書いておくが、フランス人も実に愚かだ。権利だけを主張する国民に成り下がった。未だ、デモでもすれば、国は国民に手厚い対当をしてくれるだろうという甘え心、依存心から脱却していない。
むしろより過剰な支援策を暴力によって獲得しょうという乞食根性から抜け出していない。ますます酷くなっている。こんな国に将来がある訳がない。極端なはなし略奪によって成立してフランス革命と自由、平等、博愛という理想主義を目さしてできた制度、民主主義が問い直されている。
この問題の解決には、手厚い対応策ではない。事実を国民も認識し、政府も困難でもこの現実を知らしめことから始めなくてはならない。しかし、これも甘やかされた大衆は拒否するだろう。だからヨーロッパは衰退していくというのが私の予想だ。最初はフランスか?
EUはどこにいくか
ドイツメルケル首相は端的にいうとシリア難民によって足を救われた。何度か書いたが、なぜシリア難民を大量に許可したのか?ドイツのEUにおける優位性は経済的に一番恩恵を被ってきたことによる。
第一次大戦、第二次大戦の後、ヨーロッパは全ての国が疲弊し、戦勝国も結局、アジアの植民地から撤退した。日本の敗戦後、連合国は一つとして国力を豊かにしたき国はない。そして覇権はアメリカに移った。イギリスはインドを始め世界中から撤退した。フランスもオラダもしかり。
その愚から一九九三年フランスとドイツはヨーロッパの国同士の無駄な争いをやめようとしてEC欧州共同体を設立させ、EUに繋がっていく。設立以来二十六年目に入った。ここでEUはイギリスの離脱問題で揉めに揉めている。離脱延期がとり沙汰されているが部外者(私達)からみるとイギリス人も賢明だとは思えない。
一体どうしたいか?根本的にはイギリスに優位に進めたいということが本心だからイギリスが自自国の利益・欲を主張し続ける限りこの問題は長引く。しかし、メイ首相は女性ながらよく問題解決取り組んでいるもだと感心する。
チャーチル首相は「民主主義は、最悪の政治と言える。これまで試みられてきた民主主義以外の全ての政治体制を除けば」といったそうだが、真意は民主主義が最善とはいっていない。今イギリスでもこの民主主義の下で、呻吟している。
民主主義とは何か
手元に「自由と民主主義をもうやめよう」という佐伯啓思氏著書がある。骨子は以下のとおり。アメリカの金融破錠は、自由と民主主義の名の下に個人の飽くなき欲望を肯定し、グローバル化を強引に主導してきたアメリカ的価値の破錠でもあった。それに追随し、経済だけでなく政治、人心のあらゆる局面で崩壊の危機に瀕する日本。もはやアメリカとの決別なくして再生はありえない。今こそ、「私」ではなく「義」を、「覇権」ではなく「和」を是とする日本的価値を、精神の核に据え直すときなのだ。
私は今年になって、米中の問題を取り上げるに際し、ペンス副大統領の宣言をとりあげ、世界は覇道国同士の争いの中にあると書いてきた。歴史的にみて西洋は自国の利益、個人の利益追求を第一とする集団だ。従って民主主義という体制を採用したが、「自国最優先」から抜け出すことは到底できない。とすれば、イギリスも都合よく自国にとって有利に進めることはできない。最終的に、イギリス国民がこの現実を認識して、予想通りいかなくても、妥協せざるを得ない。それが出来るかどうかだが、愚かな論争をまだまだ続けるであろう。
韓国の愚かさ
私の主催する理念実践会に韓国出身の李さんという女性が参加している。ともに学びはじめてあしかけ五年近くなる。聡明な女性だ。彼女は韓国の大学を出て、就職体験を経て筑波大学の大学院に留学した。そして「そ・ら・ら」という茨城空港が立ち上がったとき「道の駅」というより「空の駅」的な地域開発に関わった。大学院では「デザイン」を学び、「そ・ら・ら」に職をえた。広報宣伝企画リーダーとして日本人スタッフを束ねてよくやっていたが、民族的な違い(あるべき論を振り回す韓国的進め方と論争や揉めることを嫌がる日本的なやり方)から、若干軋轢もあったが、上司や私のアドバイスも理解してよく解決してきた。いまでは日本的な柔軟性と韓国的な歯切れのよさを身につけた才女だ。
昨年、私の進化経営学院に長年学んでいるS氏と結婚した。夏には子供さんに恵まれる予定の本当に賢い尊敬すべき女性だ。同期で学ぶ若手経営者も一目も二目もおいている。
日本の歴史も、私が選び使ったテキスト内容もよく理解して、昭和天皇に関しても日本人以上理解している。その彼女がいることもあって、授業の中では韓国問題にはあまり触れないことにしてきた。
先日韓国の就職事情について彼女に聞いてみたが、徹底した受験競争と一流志向(大企業志向)が韓国の若い世代では浸透して、日本企業へ就職なども、中小企業は敬遠するらしい。柔軟性はないらしい。現実をよく認識していないらしい。
韓国の政治
文在寅は、韓国の政治家、弁護士、市民活動家。第19代大統領。北朝鮮からの避難民の息子として生まれる。弁護士として市民運動や人権運動に参加した後、盧武鉉政権で大統領側近として活躍した。(ウィキペディア)
韓国は一体どうなっているのかと聞いたら、冬季オリンピックの時の、自国のボランティアへの対応に立腹していた。韓国は常軌を逸している。彼女いわく、一度ガラガラポンする手もあるなどと、すこし投げやりだった。
韓国に対して批判本は無数に出版されている。私も数十冊は読んだ。歴史問題から始まって、その数しれず。しかし、日本が韓国に対して、国として政治的な対応をしても、今までの政権は末期になると必ず反日の旗を掲げる。なぜ、韓国に対して脚色、虚偽、約束違反に毅然として対応しないのか?
いい加減な国とは国交断絶、付き合わないほうがいいのではないか?今度の政権は最初から反日であり、国家として取り決めたことまで蒸し返す。しかし、例えばかつて超党派の日韓議員連盟などが一定の役割を果たしてきたが、今では交渉能力はない。韓国進出の企業もあるだろうが、そのことが、日本が韓国に対して強く出れないことに繋がっている。
両方いいことはないというのが、正に当然である。これも今、イギリスがEUから離脱するかしないか、揉めていることと根本は同じ問題である。(韓国に関してはまた改めて記すことにする)
理念の時代を生きる138号
その一・サントリー創業物語・琥珀の夢・小説鳥井信次郎
伊集院静の小説を久しぶりに楽しみました。新刊では購入しませんでしたが、中古で求めて手元に置いていました。仕事が一段落して上下巻を手にとり一挙に読みました。若い人は御存じないかも知れませんが、サントリーの創業者の物語です。
今から五〇年近く前、大学を卒業してあれこれ迷い、就職するとしたらサントリーに入社したいと思ったときもありました。理由は、小説家開高健がサントリー出身だったことが理由です。単純な理由。サントリーはそれでも広告関係や宣伝に特長がありで「自由な雰囲気」が漂っていました。文化の香りがしていました。
私もひとかどの文学に憧れ、訳のわからない現代詩などに入れ込んでいました。在学中自費出版ですが、二冊の詩集を出したものです。
大学入社当時は、入学祝いで先輩にサントリーレッドをストレートで飲まされ、悪酔いしたことを覚えていますが、「トリスを飲んでハワイへ行こう」と壽屋が昭和三十六年より実施したキャンペーンがあって、山口瞳が担当したキャッチコピーは柳原良平のイラストと共に当時の流行語でした。
松下幸之助との邂逅
読み始めて序章でまだ少年だった「松下幸之助」と鳥井信次郎との出会いが描かれています。幸之助が五代自転車屋の丁稚として当時、ハイカラな自転車ピアス号を修理して寿屋洋酒店に届けるところから始まります。その時の始めての出会いが印象的に描かれています。
その出逢いから七十四年ご昭和五十六年(一九八一年)信次郎没後十九年後、大阪築港のサントリー洋酒プラントの中に信次郎の銅像が完成しその除幕式に、当時殆ど公の席に顔を出すことかなかった八十七歳を迎えた松下幸之助が出席のすることになったのです。
当時のサントリーの社長は佐治敬三でした。そして事前の打ち合わせで幸之助が望んでスピーチをしたいと申し出があったわけです。そして参加者が松下幸之助を見上げる中で遠い昔を懐かしむように語り始めたわけです。和歌山から大阪の船場に出て、ふたつめの店へ丁稚奉公にでていた五代自転車店の話を訥々とするわけです。そして幸之助に「坊、気張るんやで」と励まされた当時を語り、「今日の銅像の見事な出来ばえと、あの空に赤玉ポートワインをかかげた姿は、私が丁稚の時代に見た信次郎さんそのものです」と語るのです。
経営の神様、世界でトップの家電製品の企業を築き上げた松下幸之助が、生涯その恩を忘れず、商いの師はした鳥井信次郎の物語が始まります。
陰徳・森信三先生との縁
私が今回取り上げるには理由があります。実は私が今も「人生二度なし」の碑を進化経営経営学院の玄関に据えてある「森信三」先生との縁です。森信三先生は一八九六年(明治二十九年)に生まれ一九九二年九六歳で亡くなられました。その森先生の人生も必ずしも順風満帆の人生ではありませんでした。森信三先生が広島高等師範学校に進学するときにある篤志家の支援をうけたと聞いたことがあります。その篤志家については森先生に関する勉強をしているうちに、その篤志家はサントリーの創業者鳥井信次郎氏(明治十二年生)ではなかったかと耳にした事がありました。
明治時代には将来ある優秀な学生たちに対して成功した経営者や代々続いた名家が学費の援助をするという篤志家がいたという時代でした。
この本を読みながら、下巻の最期の方に記してありました。信次郎は三十数年間私財を投じて苦学生に奨学金を与えていたと。自分の名前はいっさい出さず専門学校、大学の教授にお願いしていた。二千人以上の学生がその恩恵を受け、多くの学者、研究者を輩出した。後に、世界的にも有名になった化学者が後年お礼に伺うと信次郎は頑なに援助した事を否定したと。
読書中、妻に森信三先生の奨学金は鳥井信次郎が出したに違いないと話していましたが、読了後、あれこれ調べてみると、森信三先生を支援していたのはやはり鳥井信次郎氏でありました。森信三先生の生涯の中にハッキリと記してありました。これも鳥井信次郎の母親が幼少の頃から教え、しつけていた信心と陰徳の忠実なる実践を生涯つづけていたという事です。
企業経営の志=理念
信次郎は近江の人を介して薬種商店への丁稚奉公から始まります。小西儀助商店の主人(彦根で学んだ人)との出逢いが後の信次郎の仕事に対しての取り込み姿勢の原点になります。創業者として経営にたいする姿勢を身につけていきます。その後、壽屋からサントリーに至る長い歴史がいきいきと描かれています。鳥井信次郎もそして後に続く佐治敬三、鳥井信一郎、佐治信忠と続く系譜の中に脈々と引き継がれている創業者の志、使命感、倫理観、仕事観には目を瞠るものがあります。そのことを十分すぎるほど確認できる小説でした。是非、経営者の人には読んでいただきたい。
その二・最期の官選沖縄県知事・島田叡氏
作家門田隆将の東大野球部「百年」の奮戦、「敗れても敗れても」が出版された二〇一八年五月に読んだ。彼とは日本李登輝の会で名刺交換したが爽やかな作家だ。以前から彼の作品は読んでいた。日本の近代史を深くえぐり出し人間の生き方を追求する腹の据わった作家だ。この作品を読んで、最期の沖縄県知事・島田叡氏の事を知った。こういう人があの沖縄の戦いの中に生きていたのかと思った。日本人として人間として正に志・使命に生きた島田叡知事に接し、私もかくありたいと思う。
戦後史と沖縄問題
また、私が戦後史の研究をしている。その一環として昨年は戦後沖縄史を研究し始めている。戦後沖縄返還後の政治の混迷を見るにつけ依存心を払拭できない沖縄の政財界と左翼リベラルの活動、と同時に日本政府の手厚い補助が沖縄の人たちの自立を妨げている現実に行き詰まりを感じている。島田叡知事の生き方を、多くの人に知ってもらいたいと思う。少しでもこの事実を伝えたい。今の沖縄県民にも読んでもらいたい。
摩文仁の丘の島守の碑
一月沖縄を訪ねたとき、念願であった島田叡あきら氏が祀られている摩文仁の丘にある島守の塔を訪ねた。今から七十四年前(昭和二十年)最期の官選沖縄知事として赴任された島田叡氏は信頼する沖縄県賢察部長(現在の県警本部長)の荒井退造氏とともに摩文仁の激戦区で消息を絶った。二人は、数々の苦難を克服して台湾や沖縄北部への沖縄県民の疎開を押し進め、二十万人におよぶ県民の命を救った。
東大以後の略歴
島田は神戸二中から三校をへて東大法学部に進んだ。そして東京大学野球部に入部したのが大正十一年のことである。東大三年目退部して行政官試験を受ける予定だったが、先生の懇願を受け大正十四年春大学卒業のとき山梨県の属官からスタートすることになる。しかし高文試験を受け、一年遅れて内務省にはいり四十歳の時大阪府の内政部長という要職につく。
昭和十九年サイパン島が玉砕し、大本営が「本土防衛」のために不可欠のラインとしていた絶対国防圏が突破され、これによって日本本土が米空軍の空襲下に置かれたとき大阪府の実質ナンバー・ツーであった内政部長の島田は学童疎開や防火体制の強化、近づく空襲への対策に奔走する毎日を過ごしていた。
沖縄県知事就任の要請
昭和二十年一月十一日の朝、隣家の大阪府知事・池田清に呼び出された。隣家の知事公舎に出向くと池田は背広姿で応接室座っていた。
池田は内務省で十二期も先輩にあたり警視総監も経験していた。そしてこう切り出した。
「島田君、君に本省から知事就任の要請が来ている」当時,知事職は住民の選挙ではなく、内務省人事によって行われる「官選」であった。「はい」と島田は返事した。池田は島田の背筋が伸びたことを確認すると、こうた言葉をつづけた。
「それが、沖縄県なんだよ・・・・。君に沖縄県の知事になって欲しいと言うんだよ」池田は、島田の表情を見ながら、そう告げた。沖縄県・・・。それは他の都道府県とは全く違う意味をもつ名前だ。東シナ海に浮かぶ島々からなる沖縄県には、刻々と米軍の攻撃が迫っていることを、もちろん島田を知っている。
知事として赴任することが、そのまま「死」を意味することを島田は瞬時に悟った。もちろん本省からの要請を伝達する役目を背負った池田知事にも、そのことは十分わかっている。「わかりました。お引き受けします」島田は、何事もなかったような表情で、そう答えた。
驚いたのは、池田である。本省からの要請であったとしても辞退する手もある。少なくとも即答で花苦、家族とじっくり相談したうえで解答すべきだと思っていた。「島田君。ご家族と相談してはどうだろうか一先ず奥さんと話し合ってくれ。君には年老いたご母堂もおられる。それからでも返事は遅くはないではないか」
しかし、島田の返答は予想外のものだった。「知事。私が断れば、誰かが代わりに行くことになります。そればできません。私が行かなければなりません」島田とそう言いきった。
日頃の仕事ぶりから自分に与えられた職務を守り抜く信念と責任感に満ちていた。少なくとも島田が「死」を恐れない男であることに、池田は心を打たれた。
戦後評論家中野好夫氏の夫人へのインタビュー
昭和三十一年発行の文藝春秋別冊「最期の沖縄県知事 人間・島田叡氏の追憶」と題して以下の一文を寄せられている。
私たちは何偽悪いこともしないのに、沖縄にやられるなんて、そんな内務省なら、いっそやめてしまいましょう。とも嘆いたそうだ。いわれない女のグチだなどと思ってはいけない。人間の自然だと私は思う。自然なるが故に美しいとさえ思う。作り上げられた烈婦伝などは真平ごめんだからである。だが、叡さんは答えたそうである。どうしても誰かが行かなければならないとすれば、云われた俺が断る手はないではないか。それを俺が固辞できる自由をいいことに断ったとなれば、俺はもう卑怯者として外も歩けなくなる、とも云ったという。
沖縄大空襲
昭和十九年十月十日沖縄大空襲述べ千四百機による大空襲が敢行された。この波状爆弾は五百四十一トンに昇り、最も被害が大きかった那覇辞では市内の九割が消失し、死者は二百五十五名におよんだ。当時の泉守紀知事は、知事公舎の防空壕に籠もりきりとなり、率先して職員への陣頭指揮にあたる姿はついに見られなかった。空襲の深夜、泉知事は那覇からの県庁の移転を決断している。県の首脳が灰塵に帰した那覇市を捨て疎開するという行為は、県の職員たちにはかり知れない失望をもたらした。泉知事は在任中九度の県外出張を行っている。出張の日数は在任一年半の内の百七十日余におよんだ。
島田叡知事の赴任
昭和二十一年一月末赴任、島田知事は赴任の挨拶の後、最初の命令が「分散している県の行政をもとの庁舎に再統一する」であった。多くの職員が勇気を得た。最も感激したのが、警察部長荒井退造であった。荒井は知事不在のとき県民のための食料確保、疎開の段取りなど山のような仕事に立ち向かっていた。
島田は赴任後、精力的に動いた。制空権を失いつつあった中で、自ら台湾に飛び台湾米を四百五十トンの契約をまとめ県民を台湾へそして北部国領地区へ疎開の具体的な計画を実施している。どんなことをしても「県民の命を守る」という島田の固い信念はおよそ二十万人という数字に現れている。米軍が沖縄本島に上陸する四月一日までのわずか二カ月で島田が行った県政は戦後も語り種となった。
島田知事は「生きろ」と言った
島田は、沖縄県の各市町村をできるかぎり巡回した。住民たばこの増配や酒の増配を願い出て各署長、局長は県のトップ自らの懇請に感激した。禁止されていた農村の村芝居も復活させた。中部地区の貧しい村にも立ち寄り農民と知事が同じ酒を酌み交わすという信じられない奇跡的な出来事が起こった。島田は、四月二十七日、最期の沖縄県市長村会でも、あくまで「住民保護」を最優先するよう最期の命令を出している。首里陥落直前の五月二十四日、知事の指揮下にあった「後方指導挺身隊」に対して「組織を細分化して、あくまでも犠牲を少なくして、それぞれが住民保護に邁進せよ」と命令を出している。
摩文仁に消えた命
島田の最期については、当時毎日新聞那覇支局長で報道班員として唯一、生き残った野村勇三は以下のように証言している。「自分は軍司令官と最期の行動をとりたい」六月のある日、野村は島田からそんな連絡を受けた。摩文仁の司令部へ案内してほしいという頼みだった。島田と牛島満・第三十二軍司令官は、上海時代からのお顔見知りであった。
「沖縄本島を脱出して戦の実相を本土に報告せよ」牛島司令官からその命令を受けた報道班員たちは、六月十九日海上班と陸上班の二班に別れて脱出を図っている。そのなかで生き残ったのは野村一人だった。
脱出する日の昼、野村は島田知事を訪ねた。「しっかり頑張ってください。成功を祈ります」島田は野村の手を握りそう励ました。「知事さんは、これからどうされますか」野村の言葉に「軍と最期をともにします」そういってこう付け加えた。「見苦しい身体を残し卓ありません。遠い海の底へいきますかな」そういって笑った。その言葉どおり、島田と荒井の遺体はついに見つからなかった。自らの身体の「始末」を完全につけて、二人はこの世から去った。
その三・N社59期経営計画発表会
構造大改革の三年目二〇一九年三月のスタート
前期を振り返りながら本稿書くことにする。二〇一八年四月からN社で構造大改革が二期目に移った。製造にも営業にも自立連帯企業への脱皮が始まった。
- 二〇一七年二年前、事業部の営業部門を統合した岡山N社は、昨年二〇一八年で一変、実に見事な家族的統合と業績を残した。リーダーと全社員、二年かかったが、すばらしい人間のエネルギーを目の当たりにした。どうして彼らか決意し自ら行動を変えたのか?
情況を変えていく原動力は他人や環境にはない。自分自身にしかない。原動力は自分自身だ。このことに気づき行動を変えた。ここまでくれば、未来は拓ける。困難を愉しみなが現実に立ち向かっていける。立ち向かえば仕事は面白くなる。改めて彼らの行動力、実力に驚くとともに、力を引き出したリーダーの熱意、環境づくり、に感心した。
- 「幸福は最初は不幸の形をして現れる」と感想を述べた広島の女性社長は二期連続で黒字の業績をあげ、勢いに乗ってきた。事業継承して大赤字の会社を一~二年で完済できる段階まで回復させた。事業継続か解散かの瀬戸際に追い込まれたとき、十数年経営してきた会社の危機に見舞われた。解散を選択すれは、当然負債は前社長とともに応分に負担しなくてはならない。
彼女は決意し、事業継続を選択した。そして二〇一七年・二〇一八年と二期連続黒字の業績で、完済目処をたてた。こうなると仕事は面白くなる。その彼女の言葉が、前述の言葉。私がこの紙面で二年前に紹介した。この言葉は隠岐の聖者と呼ばれた永海佐一郎博士の言葉である。
隠岐の西郷町に生まれ、漁師の父を海でなくし、母に育てられました。その後、いろいろな縁がかさなり東京工業大学教授、名誉教授などを歴任され、退官後「すべてのことは、母に代えられない」と言う思いから隠岐の故郷に帰郷後も奥様を助手にして化学の研究を続けるかたわら、永海賞の設置、道徳高揚・勉学奨励の講演などを行われ青少年の育成に貢献された。その永海博士が自分の体験を通じて「幸福は最初は不幸の形をして現れる」と言われた。
世の中は,都合のよい環境がいつも与えられるものではない。彼女の発奮も不都合な環境が原点になった。不幸に見えた厳しい環境が幸いした。
- 新事業(草むしり)を軌道にのせたトップの決意
九年前たった一人でスタートした事業。社長の思いは高齢化がすすむ時代をにらんで、終身就業事業を企図した。誰もが思いつかない事業の芽だった。三年前には事業構造が整えられた。そして一昨年(七年目)、昨年(八年目)と驚くべき伸展をさせ、今期(九年目)粗利・MQ一億の計画まで到達した。その事業化の過程で、関わる若手の著しい変化成長を目の当たりにした。
- 生産の日本回帰・中国からの脱皮
石材関係に関して日本が構造的に落ちいっていた中国依存体質からの自立は実は日本への生産体制回帰だと言うことだ。その点に着目して新しい動きをはじめた。しかし、ここ十数年の習慣からの自社生産への切り換えは容易ではない。
社長は生産地として地域貢献を掲げ、衰退していく地域の復興を掲げ、先頭に立って進める決意をした。可能な限り加速していただきたい。ここでも新規事業はひとえに社長の決心とリーダーシップにかかっている。来年報告を楽しみにしている。(悦司)