脳力開発134号
シンセン(深圳)ハイテクフェア視察記
十一月十四日から開催されるシンセンハイテクフェアに行ってきました。七月、和環塾の最長老の勘場さん米寿祝いの席で深圳に行ってみませんかという話があった。かつて勘場さんと一緒にシリコンバレーを案内してくれた米川さんに企画してくださいと頼んでおいた。
九月ごろ進化経営学院の理事を務める須田さんから、シンセンに行きませんか?と誘いがあった。須田さんが指導している自販機を取り扱っている会社・原田さん親子と総勢六名で参加することになった。
今年のフェアのキーワードは5G、AI、新世代情報技術、スマートシティなどと発表されている。新興産業、金融、人材、などにも焦点をおいている。昨年は公式発表でのべ60万人が来場しており、約3000社の企業が出展している。中国で一番大きなテクノロジー関連の展示会となり、毎年世界から注目されている。
十三日朝十時二十分に成田から出発した。香港経由で入った。空港からバスに乗り約一時間、シンセンのイミグレーションで何やら複雑な手間のかかる検査がある。とりわけ白人系の人達には微に入り細に入りパスポートを見ている。私は簡単だったが、同行者は結構時間がかかった。結局ホテルに到着したら夕方を過ぎていた。早速空腹の腹を満たした。なかなか美味しかった。六人で楽しんだが、想像以上に安かった。
翌朝、十時に会場に到着したが、一般及び海外からの申し込み者は午後十二時からの入場だった。午前中は展示ブースの開催者関係のみで、十二時近くまでマクドナルドでコーヒーを楽しんだ。シンセンは三十年前経済特区に指定されるまでは小さな漁村だったそうだが、今は一四〇〇万人の大都会になっている。ホテル近くの通りや会場近くのビルを見ると東京以上のビルが建っている感じだ。
海外からの入場者は事前登録をする必要があります。登録した世話役の人の名前はあるのですが、私達の名前が未登録だということで、ゴタゴタしたが、なんとか入場することかできた。受け付け中国語が殆どで英語ではなかなか通じない。結局申込書をスマホに録画していたので、なんとか入場することかできた。一般入場は勿論、長蛇の列。入場料五十元約三〇〇円。しかしこのフェアは既に二〇回目を数えるということだ。
今回は四号館を中心に回った。工業、情報化展会場で、自動化システム設備やロボット等の製品、技術、部品などが展示されており、中でも無人コンビニのキャッシュレス設備を見ることがテーマだった。顔認証システムもずい分進んでおり、通行人を写し年齢を把握し直ちに年齢分析をしてグラフかするというシステムもあった。ItoA、AIでは最先端を行っているようです。全部は回りきれないが、六号館はスマートシティーに関連するネットワーク技術、クラウドコンピューテインク、人口知能などの製品や技術が展示されていた。会場は広く、一号館から九号館まで広く二号館ではスマート医療展も開催されていた。三時間ほどの滞在で一七〇〇〇歩も歩きました。
翌日はアジア最大の電子街である華強化・ファークャンベイも訪ねました。かつて秋葉原を担当した経験がありましたが、この地域もおそらく真っ白なところにビルを建てたのでしょうから、規模は非常に大きなものがあります。まあ何といっても中国スマホトップメーカー、ファーウェイや関連の会社が目白押しです。正に秋葉原のようなパーツ専門の店舗もありドローンやロボットを扱っているお店もありました。今回は特に企業訪問は計画していなかったことと、言葉が殆ど中国語だということもあってシンセンのハイテクの一端に触れたというの感想です。
一八九八年、コンピューターラッシュの最中、西順一郎先生とロスアンゼルスのWCCFワールドコンピューターフェアをメインとしてアップル、マイクロソフト、インテル等を訪ねスタンフォード大学、つい前年まで孫正義通っていたカリフォルニア・バークレー校の旅をした。
一九九六年二度目シリコンバレーをNTTに勤めていた米川さんをリーダーとして当時巷間言われていたシリコンバレーを訪ねた。この旅はヒューレッド・パッカードの二人が創業したガレージから始まり、シニアネットの普及とスーパーへの注文をハソコンでやるシステネ、ヴーォイスメールを中心にしているVOYSIS社サンマイクロシステム社の視察等を訪ねた。そして今二〇一八年私の友人の息子がトヨタから派遣されシリコンバレーで最近の技術研究のまとめ役を勤めている。
今回以前の旅を振り返りながら、確かに人間が開発した技術は現実に進んでいる。そういう視点から考えて、「バードウェアのシリコバレー」として変貌しているシンセンを訪ねたが、いずれ今テーマになっているItoAやAIの進歩が、果たして人間の幸福感にどのように貢献するのかと若干疑念を感じている。なぜならばこれらの技術は経営における省力化(社員を減らす)の方向が目的の一つになっているからだ。多くの職業が一〇年しないうちになくなっていく可能性を秘めていることは間違いない。経営は利益を挙げることだけが目的ではないはずだという想いを吹っ切れない。(悦司)
理念探究会134号
七度目の烏山頭ダム・八田与一を訪ねる
昨年知り合った烏三頭ダム・嘉南農田水利会の勤務・羅恵如さんを訪ねて今年も台南を訪ねました。昨年、休日出勤していた彼女とお嬢さんに出会い、突然の訪問客の私達にとても親切に八田与一のダム開発のDVDを豊かな試聴室で見せてくれました。そして貯水池を一望に眺められる二階の展望ロビーから見せてくれ、御礼に善子のモラの作品集をおくる為に住所をお聞きし一方八田与一の記念誌をいただき交流が始まりました。
今回、彼女はワザワザ休日をとって、到着の翌朝ホテルまで迎えにきてくれました。最初に成功大学を訪れ、昭和天皇が皇太子時代にお手植えされた樹齢百年のガジュマルの樹を訪れ、日本統治時代から成功大学が丁寧に管理している巨大な樹の前で記念写真を撮りました。
次に台湾歴史博物館を訪ね、台湾の歴史、時代の変遷を資料とジオラマで一時間ほど見学、沢山の子供たちが勉強にきていました。
管理事務所トップ洪振東氏との出会い
ダムに到着、早速八田与一の像を前に三人で手を合わせ日本人として今なお沢山の人たちから尊敬され与一に感謝の言葉をそれぞれ唱えたようです。事務所に到着する途中、通訳機アイフォンで私の上司が貴方達を招待して、お待ちしていると話してくれました。
到着すると上司の洪振東氏が玄関立って迎えてくださり、早速応接室に通してくださいました。彼は管理事務所の総責任者です。早速自己紹介をし、羅さんと知り合った経緯と既にダムを何度も訪ねていることをお話しました。筆談です。それから彼が取り出したアイフォンの翻訳機を使って、あれこれ情報交換がスムースにでき話がはずみました。
八田ビールで乾杯
初対面を祝して台湾ビールで乾杯です。この地、善化工場で造っている台湾ビールを私達「八田ビール」と呼んでいる。烏山頭の水を使っていると誇らしげ語るのです。何度も乾杯しました。沢山の日本人や台湾の人たちが訪ね、ついでに最近来た手紙の代読、翻訳をしてほしいと頼まれ、沢山の訪問客からの手紙を見せていただきました。ダムができた当時、花園小学校の卒業生だった方の手紙を読み、当時の日本人たちの思いを垣間見ましした。
ダム・貯水池を遊覧
ボートを出してダムを案内してくれるという。ボート乗り場から三十~四〇分の周遊だった。日本で言えば松島巡りとでも言ったらよいのか。途中の島に上陸して、かつて総統が来客をもてなしたバンガローまで案内してくれた。風景のすばらしい閑静な林のなか。いまは使われているかは不明。
放水口・施設の視察
乗り場にも戻って、放水口に案内してくれた。管理者の人が、放水の現場を見せてくれ、実際に放水を始めた。数分の内に轟々と音を立てて、水が噴き出てくる。その水の勢いをみていると。八田夫人の投身自殺を思い出した。一九四二年六月、八田与一がフィリピンに赴任する船が米軍の魚雷で沈没、享年五六歳だった。一九四五年七月総督府で葬儀、その年の九月一日、夫人・外代樹(とよき)は「子供達にもう大人になったのだから、しっかり生きていきなさい」と遺書を残し放水路に身を投げたと聞いていた。四十五歳だった。
八田外代樹の投身の地
妻善子はこのすさまじい轟音の放水口に身を投げたのかと思った瞬間、涙があふれたと私に話してくれた。おそろしい水の勢いに私も身がたじろく。動画で撮影したが、おそろしい水の勢いだ。この水が嘉南大洲を潤したのだが。乃木将軍は明治天皇崩御に際し殉死された、その夫を追って札奥様も自害された。与一亡きあと夫を追った外代樹の逸話を体感し、現代の人達ではとても想像できない明治時代生まれの夫婦の心情を思った。
夫亡き後、夫を偲び後を追う妻の心境はいかばかりなものか?夫の後を追う妻の心境は二人が生きること、思い、志という表現では相応しくないが、支えあってはじめて人生を全う出来るという思いが外代樹夫人をそうさせたのではと思われてならない。
地下遂道トンネル
そのあと、放水口の地下の部分を案内していただいた。地下深く延々と下っていく。大きな逐道がきれいな鼠色で塗られ続いている。両脇にはパイプがズーット繋がれている。その奥から上部に梯子がついていてダムの中央に出て行くだという。真っ暗で、とてもよじ登る気にはなれない。この構造に驚きつつ、地上に戻った。いささか疲労を覚えた。写真から想像願いたい。
二〇二〇年理念型企業快労祭の企画
二〇二〇年には理念を制定して経営をしている企業の第二〇回・理念型企業快労祭をこの台南で開催したいと構想している。既に初期の理念制定者たちとは台北で開催したが、新しい制定者も交え開催したいとこの構想を洪振東さんに話した。非常に喜んでくれた。
来年も訪れ、プランをもっと練りたい。桃園空港から新幹線を利用すれば、夕方早め台南まで移動できそうだ。台南は台北とはまた異なる日本的な建築物のみならず日本文化を色濃く残している、台南を訪れ八田与一の新たなく足跡を追いたい。かつ文化・伝統・食を体験し日本人がこの台湾に残した日本的貢献を振り返り、明治、大正、昭和の日本人の気概を検証して見たい。(悦司)