脳力開発131号・戦後70年の変遷一応のまとめ
2016年1月から戦後70年を機会に、戦後史を2年半に渡り検証してきた。今年10月に「理念の時代を生きる」第二巻をまとめる計画なので、まだまだ研究を続けている、今までの研究の範囲で一応中間のまとめることにする。
■GHQの日本人の思考と精神の破壊
検証の過程でわかったことは、戦後GHQ占領の大目的は「日本人」の思考と精神の破壊計画である。戦後再び日本人が立ち上がれなくすることが大目的であった。そのために数々の施策が日本に対して実行された。その、総称が日本人に戦争に対しての罪意識扶植計画(WGIP)であった。これは作家江藤淳氏が指摘している。
- 6年半に渡る言論統制
詳細を振り返ると、その、第一の施策が終戦から昭和27年4月28日の日本占領の終わるまで6年半に渡る言論統制があった。この言論統制の影響は非常に大きく、戦後73年目を迎えながらも今も続いている。あらゆるメディアに対しての徹底した検閲が行われた。GHQが「言論及び新聞の自由に関する覚書」を出したのは昭和20年(1945)9月10日、連合国最高司令官の指令という型式で出された。続いて9月21日「日本に与うる新聞遵則(プレスコード)」が指令された。
- 30項目のプレスコード
1・SCAP(連合国軍最高司令官もしくは総司令部)に対する批判、2・極東国際軍事裁判批判、3・GHQが日本国憲法を起草したことに対する批判、4・検閲制度への言及、5・アメリカ合衆国への批判、6・ロシア(ソ連邦)への批判、7・英国への批判、8・朝鮮人への批判、9・中国への批判、10・その他の連合国への批判、11・連合国一般への批判(国を特定しなくとも)、12・満州における日本人取り扱いについての批判、13・連合国の戦前の政策に対する批判、14・第三次世界大戦への言及、15・冷戦に関する言及、16・戦争擁護の宣伝、17・神国日本の宣伝、18・軍国主義の宣伝、19・ナショナリズムの宣伝、20・大東亜共栄圏の宣伝、21・その他の宣伝、22・戦争犯罪人の正当化および擁護、23・占領軍兵士と日本女性との交渉、24・闇市の状況、25・占領軍軍隊に対する批判、26・飢餓の誇張、27・暴力と不穏の行動の煽動、28・虚偽の報道、29・GHQまたは地方軍政部に対する不適切な言及、30・解禁されていない報道の公表
★ブルーの部分に注目していただきたい。
- 膨大な検閲組織
1948(昭和23)年には、GHQの検閲スタッフは370名、日本人嘱託5700名がいた。新聞記事の紙面すべてがチェックされ、新聞記事だけで一日約5000本以上であった。上記の項目を基準に、規制された。この言論統制が6年半に近く日本の言論・出版、放送をコトロールし続けた。並行して、NHKを通じて「真相箱」などを通じて国民への罪意識扶植計画(WGIP)、日本人の洗脳作戦が続いて行ったわけです。
食うためとはいいながら唯々諾々として検閲に専念した。その後、名簿が発見され2013年11月5日NHKで放送された。
■太平洋戦争史・東京裁判への批判禁止
- 1945年12月8日より10回にわたって連合国司令部記述として全国の新聞紙上に掲載された。「国民は完全なる歴史を知るべきだ」「軍国主義者の行った侵略を白日に」などというGHQの趣意により宣伝占領政策の一つとして1946年4月に刊行された。これらの宣伝に対してもGHQに対する批判はプレスコードによって言論統制されたため、批判、反論、検証は許されず、国民はこの事実を知らない。
- 極東国際裁判=東京裁判は1946年5月3日から1948年11月12日まで行われたが、既に刊行されている太平洋戦争史に添って判決が下されることになっていか。プレスコードにより、メディアは批判できない、国民は知ることが出来ない。正にGHQのシナリオどおりに日本国民が洗脳され続けたわけである。
- 東京裁判自虐史観
戦後の進歩的文化人といわれる人達はこの東京裁判の判決を「真実である」という前提で、若い人たちを指導し教育する。またGHQにコントロールされているメディアを通じて、新聞紙上で意見を述べ、物事の判断を進めるわけである。「何をか言わんや」だ。こういう事実に対して多くの人達は知らされていないし、知りもしない人達が多い。この現状こそGHQが望んだ国民への罪意識贖罪計画(WGIP)の効果である。
■言論と統制・メディアに対する徹底した検閲
- 占領軍のサクラになったマスコミ
占領軍・GHQは日本の近代史のほぼ全体を共同謀議に基づく侵略の歴史として決めつけ、極東国際軍事裁判= 東京裁判をドラマティックに演出し客観的な裁判という型式を整えた。天皇に「人間宣言」を行わせ、「神道指令」によって日本人の宗教的中枢に打撃を与え、また衆参両院で「教育勅語廃棄決議」を行わせ、加えて、厳重なマスコミ検閲を行いながら、検閲の存在自体を秘匿することによって、占領期間中に日本には自由な言論がなかった事実を隠蔽することに成功した。
- 新聞・雑誌、ラジオなど全てのマスコミは占領軍の仕組んだ検閲によってサクラ(GHQ
のお先棒を担ぐ)の役を務めることになる。その事実は国民には秘匿されたため、日本人はサクラ(お先棒を担いだメディア・新聞、放送局)に引きずられて、占領軍が誘導した解答(太平洋戦争史・言論統制とプレスコードに添ったGHQの見方)を繰り返すようになった。正に文字通り操られることになった。
- 占領政策の根本矛盾
1946年現行憲法第二十一条第二項には「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密はこれを侵してはならない」と定められているが、占領政策そのものが根本的に矛盾している。神道指令で、「国家と宗教の分離」という名目で神道を抑圧排除した。こうした矛盾の上に占領軍が主張する「民主主義」の理念にしたがって、表向きは日本の主権者である日本人の自由で自発的な意志を尊重するという建前で、実は勝者の意志によって日本人の思想改造しょうとした。日本はプロパガンダについて無防備であった。
- 公職追放と共産主義
神道指令に引き続き、公職追放によって、新聞、メディアの世界、教育界(主要大学の学長、教授などの追放と左翼学者の登用)、教職員組合による教職員の労働者への意識転換、教育勅語廃止と日本の歴史の否定、従来の教育の全否定、経済界の主要経営者の追放と、欧米型経営システムの導入、共産党員の保釈開放による左翼運動の活発化、政治の世界、共産党、社会党の指導による労働組合の凄まじい左傾化が進む。
- 「左翼にあらずん場マスコミ人にあらず」といった時代
終戦後、当時の学者、評論家にとって岩波書店から本をだし、朝日新聞に寄稿することがステータスだった。岩波から出される「世界」は学生たちにとっても必須の読み物であった。世間は彼らを進歩的文化人と呼んだ。彼等は、資本主義に否定的で「進歩」の先にあるのはソ連や中国の共産主義であると考えていた。「日本の伝統」を進歩に対立するものとして「軽視し、保守を反動」と見なした。
例えば主要大学ではマルクス経済学にあらずんば、経済学にあらずという風潮が蔓延し、学生たちはマルクス主義、共産主義の洗礼をうけることになる。影響を受けて学生たちは、60年安保、70年安保へと巻き込まれる。運動に傾倒し、一般企業に就職できない学生たちの一部は、学者、司法、教育、公務員、労働運動等などの道に進み、活路をみいだした。
- 戦前の日本については東京裁判史観的な視点から断罪する
日本の「伝統」を「進歩」に対立するものとして軽視し、保守を反動と見なした。日本人自らが日本に誇りを持たないというGHQの狙いどおりだった。政治的には、日本社会党、日本共産党を支持し、反自民、反米国の立場を取り、現在(2018年)に至っても現行憲法の護持、非武装中立、戦後民主主義の擁護を訴え続けている。
■戦後メディア・政界・文化人の実態
現在2018年になっても、東京裁判を受け入れたのだから、裁判で示された歴史観を背負っていかなければならない。メディアのみならず大半の日本人は東京裁判の自虐史観を受け入れ、その史観から逃れることが出来ない。これこそ、GHQが作り上げた言論空間に呪縛されている証といえる。メデヘアの報道を通じて「勝者による強制」という印象を薄めて、敗戦国民の自発的自己批判の形をとらせていることに積極的に加担したことになる。
- 洗脳から抜け出せない文化人達
戦後、GHQの言論統制をうけ、その後もサンフランシスコ条約の発効によって占領が終結した後も、メディアは自からそれまでの言論統制を続けることになる。なぜならば、条約全面講和を主張し「天皇の自発的退位を願った」東大教授南原繁をはじめとして主要大学の教授たちに対して、吉田茂は「曲学阿世の徒」と名指しで批判されたが、戦後も「政府に対立する」ことが戦後大学の教授たちの使命であるという意識は今も残っている。
- 60年安保、70年安保と二度にわたる日米安全保障条約に反対した学生運動(私は丁度この端境期に学生時代を過ごした)も実態は純朴な学生が進歩的文化人、社会党、共産党、メディアの影響をまともに受け、反対運動こそ進歩的であると金科玉条のように信じた(洗脳された)結果であった。これは平和安全法制(平成27年9月30日成立)に関して反対運動を続けた一部大学教授や進歩的文化人といわれる人達の中に残存している。勿論、国会審議をボイコットしてデモに参加したと自慢げに語る政治家も沢山いる。反対するだけで、対案を出すことのない。安保闘争当時のかつての社会党、共産党と同じ構図だ。
- 敗戦利得に執着する人達・人間は何故そうなるのか?
終戦後の舞台に立った人達・公職追放によってリーダーの役を担った人達はその後、善きにつけ悪しきにつけ、結果として敗戦利得者となった。自分が利得者になったことも自ら意識したことでなければ、その後のGHQの数々の施策におかしいと思って抵抗するであろうか?GHQの施策に従うことにためらうことはないであろう。戦後の混乱の中にあって、自分が利得者であったと認識することは少ないであろう。
- GHQの仕事として検閲官になった人達は、殆どの人達は自分の前歴を隠すことになる。自分は検閲に関わりましたという人はいない。この例だけではない。政界・政党・政治家、財界、教育界、労働組合、メディア(新聞・テレビ・放送局)司法界、作家、文化人等など、全ての組織はその例からもれない。
人間はそんな状況にあったとき、自己保身に陥るのは理解できるが、その後、状況が大きく変化している現在でもその既得権益・敗戦利得に執着する人達も多い。その中でも、今もなお、反日を唱えるメディア新聞・テレビ・NHK、文化人などの罪は重い。
- 社会党、共産党、労働組合、日教組などすべてGHQの洗脳計画に添って戦後の活動をしてきた。そして今もその流れの中で動いている。その根底には戦後の敗戦利得者として自己の存在があるということだ。日本全体もその影響から逃れことはできない。GHQの影響をうけたことを思考から無意識に削除している。
■財界にも危惧が生まれた・正論路線=産経新聞の成り立ち
あまりにもあらわな「親中・親ソ・親北」など社会主義・共産主義に無批判な世の中の風潮、「政府の反対する」ことがあたかも進歩的であるという風潮を助長する既存のメディア対して、資本主義を守り共産主義に対抗する「親米反共」のメディアが必要であるとの認識に立って財界が期待したのが産経新聞であった。
産経新聞のルーツは日本工業新聞という戦前からある新聞だが、今日「正論路線」を掲げる産経新聞が現在の編集の輪郭を明らかにするようになったのは、1958年(昭和33年)水野成夫が社長に就任してからである。
その後、1968年(昭和43年)に鹿内信隆が社長に就任し、親米反共、自由主義・資本主義を守る姿勢を色濃く打ち出す新聞になった。鹿内は日経連(日本経営者団体連盟)の初代専務理事を経験し、「経営者は正しく、強くあれ」をスローガンにしていた。戦後10年間日本共産党に指導され各地で過激な労働争議に対処した経験をもっていた。
昭和48年、産経新聞に保守派の文化人による「正論」というオピニオン欄をつくり、進歩的文化人とそのメディアに対しての議論を挑むようになった。
■「リベラル」とは何か・麗澤大学教授・八木秀次氏
- 現在、「リベラル」と称し称される人々は、かつては「革新」とか「進歩派」とか称し称されるはずだ。社会党・共産党は「革新政党」。両派に近い学者・文化人は「進歩的文化人」と称され、岩波書店の『世界』や朝日新聞を舞台に論陣を取っていた。「革新」も「進歩的」も「左翼=社会主義・共産主義」の別名だった。
- いずれは社会主義体制へ移行すると信じ、現在を批判的に見ていた。学生時代は観念的にそうあるべきだ、そこに理想の世界があると浅解していた。世界的には東西冷戦が終わり、国内では北朝鮮が日本人拉致を認めた時期から、社会主義・共産主義への幻想は打ち砕かれ、「革新」「進歩派」と称することが憚(はばか)られてきた。
- 欧州ではLiberalの意味は「自由主義的」というくらいの意味を持つ。欧州の「リベラル」は保守主義とも親和性を持つ。米国の「リベラル」は自由よりも平等や多様性を重視する。民主党も共和党も安全保障については殆ど変わらない。
- 日本の「リベラル」は元々の社会主義・共産主義の空想的社会主義を奉じて米国よりも社会主義国を含む近隣諸国との協調を主張する。共同体・国家よりも個人、人権を重視する。経済成長よりも福祉や配分を重視し、憲法九条改正には何があろうが反対する。「リベラル」を称する立憲民主党、国民民主党の主張の濃淡の差にすぎない。(悦司)
理念探究会131号・靖国神社
お盆前に靖国神社にお参りした。年六回開催される第九回「やすくに活性塾」に参加している。妻善子の父親は大正三年の生まれで、第二次世界大戦に赴任先上海で現地召集された。神戸大学をでて、伊藤忠商事に勤務していた。善子は昭和二〇年一〇月十八日に上海で誕生した。昭和二一年四月一九日帰国。その年の十二月に罹患していた善子の父は結核で亡くなった。享年三一歳だった。彦根では護国神社にお参りしていた。
靖国神社にお参りした後、靖国教場啓照館で今回の講師「日下公人氏」の講義を楽しみにしていた。靖国神社にお参りすることは、今戦争で遺族となった肉親には人間として「当たり前」のことです。
善子は著書のなかで「成人してから毎夜、自身の枕元に一人の人間が座って、その姿に金縛りにあったようになった」と術懐している。「ある時、その人は自分の父親だと気がついた。ある時は兵隊の姿で枕元にジッと座っている。結婚が決まった夜から、父と思われる人は姿を見せなくなった。その後、何か困ったことが起きたとき、お願いしても一度も姿を見せてくれない。善子にとっては紛れもない事実だ。
今年も終戦記念日が訪れた。超党派で国会議員は参拝した人達もいるが、安倍総理は個人的に玉串を奉納し、閣僚も参拝した人はいない。総理の靖国神社参拝が中国、韓国との政治問題になったのは一九七五年の三木武夫総理大臣以来顕在化し、中曽根元総理は戦後政治の総決算を掲げ、一九八四年八月「閣僚の靖国神社公式参拝に関する懇親会」を発足させ、翌一九八五年八月一五日公式参拝を実現したが、中国などが猛反発して中止した。
以後の詳細は省くが、正にこの政治判断が日本の戦後史の核心に近い問題を含んでいる。戦後GHQによるWGIP罪意識贖罪計画により日本国民は洗脳され、その最先端きって加担したメディアがこの問題も、これから問われる「憲法改正問題」に対してもGHQの判断に従うことになる。
戦後七三年経ってもいまだ、独立国としての「憲法改正」に対しても反対を唱えるメディア、大半の憲法学者、「リベラル」を自称する政党等などいる。文字通り「反日」国家のように換言すれば、中国、韓国のようにヒステリックに反発している。
しかし、世界も徐々に変化してきている。かつては連合国に対して一言も反発することのなかった外務省の責任が今日を招いたのだが、安倍総理のここ五年半の任期中一五五回に及ぶ海外訪問と外交により、日本の戦後へのGHQの東京裁判の判決に対しての疑問と日本の主張に理解がすすみつつある。
話を靖国神社に戻そう。粘り強い安倍総理の姿勢により、冒頭に書いたように靖国神社に対しての海外、日本国民の理解が変化しつつある。遺族にとって靖国神社、全国各地の護国神社は自分たちの親や子供、祖父にお参りできる場所であり、また日本国民として公式に政治家がお参りすることになんら不都合はない。人間として極めて自然なことである。今回もお参りすると、沢山の若者たち海外の人達もお参りしていた。遊就館もいっぱいの人だった。
日下公人の講演はこの日本を守ってくれた「先人たちの心とこれからの日本について」というタイトルだった。
話の骨子は「英霊は私達を待っている。自分たちが忘れられることなく、国民が生きて暮らしている姿をみたいとおもっている。」巷間、「知、情、意」と言われ、西洋はロジカルシンキングが中心、戦後はとりわけ日本でも「論理が上で直感が下」と決めつける傾向が強い。日本人の強みは何か、と考えたときいの一番に挙げるとしたらやはり「情」ではなかろうか。
「日本は天皇ご自身の『情』の存在があったからだ。昭和天皇は戦争の責任を、すべて一身に引き受けようとされ、更に国民を力強く励ましてこられた」このお姿、覚悟がわからないと、昭和天皇の『情』の深さもわからない。(日下公人)
繰り返すがGHQがやって来た戦後のWGIPは靖国神社への参拝、憲法改正、東京裁判、言論統制、神道廃止、公職追放などなど、今なお影響を与えてきたが、もう一〇年もして団塊の世代がこの世を去るときには、日本はもっと世界から尊敬される国になっていると予感している。
真摯で誠意のある対外姿勢を貫き、キチンと日本人としての振る舞いを続ければ、混乱する世界の調和役としての使命を果たすことか出来ると今年の靖国神社参拝を通じて考えた。(悦司)参考文献・日下公人「情の力で勝つ日本」