脳力開発123号/理念探究会123号

脳力開発123号
天声人語・朝日の虚偽の積み重ね
 今回は十一月から明らかになった朝日新聞、毎日新聞などの偽証の事実に関して伝えます。「森友・加計事件」(朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪)を読むと朝日新聞が読者をテレビ朝日と組んで誘導していく経緯を実に丁寧に分析しています。朝日新聞が新聞の見出しを嘘八百で塗り固めてでも「安倍疑惑」をかきたてる流れが。反権力を装って。
今回もその嘘がばれたということだ。「反権力」共産党、民進党、社民党、自由党は巧みに籠池氏を操り、国会招致にいたる経緯も喜劇としか言いようがない。事件をでっち上げる朝日のやり方は慰安婦の虚偽のでっち上げと少しも変わっていない。嘘がばれても、反省をしない。こんなメディアが日本をおかしくしている。
来月からは日本の戦後史の中で、時代の流れに迎合しないで立ち向かった人達を辿り、そして戦争に至った過程を、私なりに検証してみたいとおもいます。
■安倍晋三記念小学校の嘘
●自民党の和田政宗参院議員は11月22日、森友学園の小学校設置趣意書のコピーをツイッターで公開した。野党が国会で追及した際にはタイトルの校名部分が黒塗りで、そこには「安倍晋三記念小学院」の名称が記載されていたと言われていたが、和田政宗議員が公開した文書では別の名前「開成小学校」と記載されていた。和田政宗議員はツイッターで以下のように野党を批判している。
●和田政宗「森友の小学校設立に際し設立趣意書に籠池氏が「安倍晋三記念小学校」と記載したと話してきたが、全くの嘘だと判明。この籠池氏の証言を元に民進党福島伸享議員が質問したが、全く嘘の情報を信じ込み、さも本当に書かれているかのように質問した。当時の民進党執行部の責任は問われないだろうか」

■財務省「忖度説」の破綻くっきり
●安倍晋三首相は30日、自身のフェイスブック上に、自民党の和田政宗参院議員が11月25日にFBに投稿した記事をシェア(共有)して掲載した。その書きだしはこうである。「朝日新聞はこのまま開き直るのだろうか」
●学校法人「森友学園」の小学校設置趣意書が、朝日が報じていた「安倍晋三記念小学校」ではなく、「開成小学校」だった問題に関する感想である。安倍首相も同感だったのだろう。
 和田氏はまた、朝日がすでに信頼性が疑われていた籠池泰典前理事長の証言をうのみにし、報道したことについてこう記した。提出した設置趣意書のコピーを籠池氏は持っているはずで、朝日新聞はそれを確認せずに報道した。
●長崎県平戸市長「朝日、購読やめた!」ツイートでフォロワー1千人近く増加 
 朝日新聞の購読をやめた。私はその報道姿勢を非難する立場をツイッターで表明している。これに対して『市長は公平公正であるべき』という声もあるが、誤報を垂れ流す広報媒体を排除することが公的立場にあると信じている」とツイートした。一昨日に朝日新聞の購読をやめたというツイートをしたら、一気にフォロワーが1千人近く増え、返送されたメッセージもほとんどが『賛同!』『支持する!』だった。改めてこんなに嫌われている新聞なのだと実感した。でもなかなか廃刊にならない不思議も残った。
■「天声人語」の罪・国民をミスリードする
田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授)
●朝日新聞は5月9日の記事で「籠池泰典・前理事長は8日夜、取得要望書類として提出した小学校の設立趣意書に、開設予定の校名として『安倍晋三記念小学校』と記載したことを朝日新聞の取材に認めた」と報じた。
●この記事によって籠池氏と安倍首相との「つながり」の濃さを信じてしまうというミスリードに陥った国民も多かっただろう。テレビなどもこの記事に似た報道を連日垂れ流し続けた。
●森友学園問題がこれほど過大な注目を浴びてきた背景には、一部マスコミの「印象報道」ともいうべき流れがあることがはっきりしている。財務省近畿財務局は森友学園が設置する予定だった小学校の設置趣旨書を開示した。そこに記されていた、森友学園が新設を計画していた小学校の名前は「開成小学校」であり、首相や昭恵夫人の名前や関与は一切記載されていなかった。
●これは多くの国民にとっては意外な事実だったろう。なぜならマスコミや野党は、森友学園の籠池泰典前理事長が安倍首相や名誉校長だった首相夫人の「ブランド力」とでもいうものを利用して、さまざまな利益を得ようとしていたという印象を伝えていたからだ。
●特にそのことが関係官僚たちに、首相や首相夫人と「懇意」である籠池氏に利益を供与する「忖度」をさせたという、マスコミや野党の批判の根源にもなっていた。
●実際には籠池氏の小学校には首相や首相夫人とのつながりを明らかに示す資料はなかった。だが、この森友学園問題が政治的に大化けする過程で、マスコミは籠池氏の発言をろくに検証することもなく、そのまま報道し続けた。その中で、あたかも新設小学校が「安倍晋三記念小学校」ではないかという印象を垂れ流した。
■メディアが「罪」をつくり出す風土
●日本銀行の岩田規久男副総裁はかつて『福澤諭吉に学ぶ思考の技術』(2011年、東洋経済新報社)の中で、天声人語はいったい何が議論の本位なのか明示することなく、それを明示したとしても十分に論じることもなく終わってしまう悪い文章であると批判している。
●今回の森友学園問題も、いったい何が具体的な問題なのかわからないまま、「忖度」という議論になりえないものを延々と論じ、一方だけの発言を恣意(しい)的に垂れ流していく朝日の報道姿勢が、そのメーン商品である天声人語にも明瞭だというのが、岩田氏の批判からもわかる。
●岩田氏は多くの日本人の責任の取り方は、福澤(諭吉)の言うように自己責任を原則とする個人主義とはかなり異なっている。自己責任を原則とすれば、裁くべきは法に照らした罪であり、世間が騒ぐ程度に応じて罪が変わるわけではない。
●法によらずに、メディアが「罪」をつくり出す風土にこそ現代日本の病理がある。

■何事も「権力」対「反権力」という構図で捉える文化(朝日新聞がなくなる日)
●朝日新聞として認定した「権力」に対抗する勢力を正義の「反権力」として演出する。朝日新聞にしみついたビジネスモデル・文化です。「安倍一強」という言葉自体が彼等の権力認定です。だから加計学園問題では「権力」は官邸で、「反権力」に認定したのが前川喜平前事務次官という構図です。
●朝日新聞は団塊の世代の文化を引きずっている感じがありますね。今でも団塊の世代は自分たちを「反権力」と気取ってデモに参加するようなこともあるらしいが、三~四〇代の世代から見ると滑稽だ。
文部省の歪んだ誤謬性と面従腹背
●前川氏こそ官僚の誤謬性の象徴で、絶対に官僚は間違わないという意識の体現者で、最も批判されてきた官僚像そのものだ。文科省が間違っているという答えは存在しない。獣医の需給については農水省だと責任転嫁し、一方で大学業界に大学認可権を利用して圧力をかけ、ずっと天下りを強制的に受け入れさせてきたのが前川氏だ。(悦司)

理念探究会123号
台湾の歴史を遡る
 私の尊敬する一番の人は李登輝元総統です。李登輝総統が書いた著書ほとんど読んでいます。日本では今でもお世話になっている島根県益田市にある創業五十二年を迎えた合宿自動車教習所Mランドの小河会長です。同い年の九十四歳。台湾への関心は小河会長が今から七~八年前にMランドの新聞に書かれた八田與一の「烏三頭ダム」の記事が切っ掛けでした。小河会長は李登輝総統にもお会いしています。
台湾の歴史を知る
 二〇一一年東日本大震災のとき、例年この時期ヨーロッパに旅をしていたのですが、この年は近くの台湾に足を運び、烏三頭ダムと二二八記念館を訪ねました。二二八記念館で終戦後一九四七年二月二七日闇たばこ販売の女性を虐待したことを切っ掛けに台湾で起きた台湾人(本省人)に対する弾圧事件です。蒋介石の国民政府軍の陳儀による本省人の虐殺そしてその後の白色テロの事のことを知りました。以来、二二八事件から始まったこの事件に絡まる著書を可能な限り読みました。それに伴って、元日本人で京都大学出身の李登輝総統の関連の著書をほぼ全部読み込みました。今では本棚一杯です。
民主化への足どり
時代の流れの中で本省人でありながら全くの偶然から国民党の副総裁に使命された李登輝が一九八八年一月の蒋経国総統の急死にともない、総統に就任し、後に国民投票で総統に選ばれたのです。国民党総統として外省人中心の政府官僚の体制から、一九四九年戒厳令の引かれた台湾から民主化を長い時間をかけて転換していく李登輝の生き方を辿りました。三十八年間にわたる戒厳令解除は一九八七年です。
終戦後日本から台湾に帰国した当初、李登輝自身も白色テロで狙われた時期もありその後、アメリカで博士号を取った農業経営のことで、蒋経国に呼ばれその後、副総統に就任することになるのですが、ここでは詳しくは触れません。
李登輝の信念
 李登輝の信念は「我是不是我的我」(私は私でない私)であります。李登輝のことに関しては何度か森のフォーチャで記事にしました。ここでは詳細は省きますが、私の大学の先輩に李登輝総統と同い年で彦根高商に進学された李宏道氏がおられます。李登輝と同じく終戦を名古屋で迎えた経歴の人です。二〇一二年には先輩を訪ね御夫婦にお会いしました。奥様は当時の第一高女出身で美しい日本語をお話しできる方です。お会いしたとき李登輝のことも尋ねました。
今回は、李登輝が経験した台湾民主化への歴史を今回の旅で辿ってみたいとおもいます。
台湾総督府訪問
現在総督府は一般公開されており、日本語での解説付きで案内してくださいます。昨年に引き続き朝九時から案内していただきました。あとで名刺交換しお聞きしたのですが、案内をしてくださった陳准松(チン・カイ・ショウ)氏は天皇陛下と同い年です。土木技師で実に日本語は堪能、台湾の日本統治の歴史から始まり、案内のかたわら、ここぞというときに資料を見せてくださりながら歴史を交えてお話を聞かせてくれます。
総督府設計図・最初の部屋で総督府設計図を見ながら日本の建築技術の高さを縷々話してくださいました。東京駅を設計の辰野金吾の弟子長野宇平治が設計した。
児玉源太郎・後藤新平・新渡戸稲造
明治三十一年・一八九八年、第四代台湾総督に就任した児玉源太郎は後藤新平を招聘し「無理に文明国の文化、制度を未開の地に押しつけるのは逆政だ」と言う考えに添って施政をまかせた。後藤新平の統治の様子を細かく説明してくださった。後藤新平は民政長官をつとめ当時アメリカにいた新渡戸稲造を繰り返し説得し招聘。明治三十四年・一九九一年台湾総督府に赴任した新渡戸稲造は視察のあと台湾に製糖業を起こす。台湾製糖、大日本製糖、明治製糖などの企業が生まれる指導をすることになる。
台湾の自然の話から伊勢神宮の遷都の度に切り出される檜の大木の逸話、阿里山から伐採して供出した話、その神木が明治神宮、出雲大社に関する柱の話も折り込んで教えてくださる。台湾一高い玉山(新高山)の逸話も交え爽やかに教えてくださいました。
歴代総統の写真
李登輝は一九九〇年~二〇〇〇年まで総統を務めたあと、二〇〇〇年の総選挙では立候補しなかった。理由は、彼は蒋経国に指名され国民党の副総統だったが蒋経国の急死に伴い総統に就任し、本省人・台湾人である李登輝は総統になってからも直接選挙、民主化を進めることが根本的な目的であった。そのこともあって、次の時代に譲るために立候補をしなかった。終戦以来の国民党の圧政を変えることが目的だった。 
その後民進党の陳水扁二〇〇年~二〇〇八年、馬英九二〇〇八年~二〇一六年、蔡英文二〇一六年~現在と続く。概略を辿れば、国民党との政権交代を果たした陳水扁は民主化を進めると期待できたが、外圧(中共)にも苦しんだ。その上に、期待に反し親戚の関係者の汚職、妻の汚職と立て続けにおき、退任後、総統府機密費流用及び資金洗浄容疑などにより台湾最高検に逮捕された。
馬英九(外省人出身)は国民党総統として政権交代を果たした、これをが、基本的に中共向けの政策を次々と施行し、結果として二〇一四年あまりにも中共寄りの政策を続ける馬政権に対し学生が立法院を占領し、これをひまわり運動と呼ぶ。李登輝はこの運動に対し理解を示し、支援した。その結果二〇一六年五月二〇日の総統選挙で、民進党の蔡英文が選ばれた。
蔡英文は李登輝政権下で各種の委員を勤め、一九九九年李登輝総統が発表した中台関係の二国論(中共と台湾の関係・特殊な国と国の関係)にも深く関わった。二〇〇四年民進党に入党し二〇〇八年に主席に就任した。二〇一二年に私が台湾訪問したとき、馬英九との総統選挙の時だった。国民党による選挙の不正が予想され、カーター大統領を監視委員会として招聘した。この時は落選した。そして二〇一六年の当選を迎えた。そしていま総督府の主となっている。総督府見学のあと児玉源太郎と後藤新平の像が展示されている台湾国立博物館を訪ねた。

二二八記念館
 記念館にもう七回も訪問している。二〇一二年進化経営学院主催の台湾訪問の旅で説明していただいた二二八記念館・ガイドの簫錦文さんは当時八十八歳だった。日本人を正に叱咤激励してくれる方だった。日本人として自信を持ちなさいと丁寧な説明をして下さった。説明者の高齢化にともない昨年から説明もヘッドホンを使うようになった。記念館を訪ねるたびに展示が改善され理解しやすくなっている。関連の書籍も沢山出版され、一九四五年台湾に派遣された国民政府軍の陳儀に代表される大陸からきた外省人の迫害にされされた本省人(台湾人)への圧迫が如何に大きく台湾の民主化の妨げになったかがハッキリと資料化されている。
日本統治の五〇年間は台湾人の文化水準のみならず多大な開発投資を日本よりも優先させて実施し多くの面で日本の内地のレベルに達していた。日本敗戦後、台湾返還にともない大陸からきた知的レベル、文化レベルの遅れていた国民党・外省人は当時の本省人への掠奪、圧政を始めることになる。そのスタートが二二八事件であり、その後の白色テロ、戒厳令の施行である。返還当時の旗は中華民国の国旗が間違ったまま展示されている。

台湾で一番尊敬される日本人・八田與一
 台北から台南に移動した。翌日台湾鉄道とタクシーを使って、烏三頭ダムを訪ねた。六度目。今回八田與一の銅像が損傷された事件で規制され、銅像の傍での写真撮影はできなかったが既に修復されていた。胸像を所有する奇美博物館が修復への協力したようだ。今回は時間に余裕があるのでゆっくりと施設関連の全てを見学した。
今回はダムの管理をしている台湾嘉南農田水利会を訪ねた。丁度日曜日だったのだが、事務をしている女性が小学生のお嬢さんを伴って日曜出勤をしていた。そして親切にDVDを視聴できる設備の整った会議室を開けてくれ、ゆっくりとコーヒーまで出して接待してくださった。その後、ここから見る烏三頭ダムの展望が一番素晴らしいと案内してくれた。親切に感謝して個人的に記念写真を撮り、あわせて帰国後善子のモラの著書を送ると、彼女の持つスマホの翻訳機を使って会話をした。八田與一の記念公園関係の日本語で書かれた本・技師物語を贈呈してくれた。今度訪問するときにはこの会場をお借りしたいと思った。映画KANOで撮影された現場・放水路も訪ねた。この映画も素晴らしいものです。ご希望の方にはお貸しします。
 
昭和天皇植樹百年のガジュマルの樹
台南・成功大学の敷地にある昭和天皇皇太子時代に百年前に植樹されたガジュマルの樹を再訪した。大正十三年に訪問され植樹された。その左右に秩父宮殿下、高松の宮殿下が植樹されたガジュマルがあります。広場は「榕園」と呼ばれ今も学生や市民の憩いの場所として大切に残されています。成功大学の建物は日本時代に台湾歩兵第二連隊として使われた、いまも荘厳な姿を残しています。

門田隆将著「汝、ふたつの故国に殉ず ―台湾で「英雄」となったある日本人の物語―」
二二八事件当時は台南市政府だった場所は、民生公園と呼ばれていたが、一九九八年二月二八日、湯徳章記念公園という名に変わり、湯徳章さんの半身胸像が建てられている。また、二〇一四年三月十三日に台南市は、湯徳章の「命日」に当たるこの日を「正義と勇気の記念日」に制定した。今回工事中で、この胸像も遠くから見ることができた。彼のことはは門田隆将の著書で知った。熊本出身の坂井徳三と台湾出身の湯玉を父母として日本統治下の台南で生まれた。中央大学で法律を学び、最終学歴は小学校卒業でありながら文官高等試験に合格し台南に戻って弁護士事務所を開設した。二つの国籍を持った湯(坂井)徳章の生き方を是非、読んでいただきた。台南を何度も訪ねることになりそうだ。(悦司)