脳力開発133号
大学卒業後10年目の創業
ひとりの青年・瀬来雄一君のことを書きます。彼はダスキンせらい瀬来清美氏の長男です。彼が大学3年生ころ次世代型経営者養成塾に参加してもらったこと始まる。大学卒業にあたる年、卒業論文の変わりに、理念制定をしていた全国各地の企業経営者を訪ね、経営者にインタビューして訪問記を書いてもらった。北海道、仙台、群馬、高崎、鯖江、香川、広島とめぐった。10社以上を訪ねた。そして一宿一飯のお礼に、トイレ掃除でお返しをしてきた。起業の心構えをきいてきた。
- 自己派遣業すすめ
卒業後、家業であるダスキンに入社する予定だった。私の考えとしては、そのまま社長の息子として家業を継ぐことには疑問だった。学校をでて就職をするというのが一般的で、今もそういう固定観念に縛られている人が多い。就職活動が最近では大学二年生あたりから始まり、今年経団連は統一した就職活動の廃止を唱えた。
私達は「自己派遣業のすすめ」というコンセプトで、卒業したらそのまま、就職するのではなく、独立という道も選択肢として考えるということを思考していた。独立した後、自分ですべきことは、税金の申告、国民健康保険の手続きぐらいなもので、自立支援型の事業家と出会えば、第一歩から独立事業主として提携のビジネスが可能である。実際に広島に住んでいる経営者はこのことを新卒者にすすめ実践していた。
- 新卒から仕事ができるか?
今年2018年、働き方改革の切っ掛けになったのが、電通に就職して一年目に自殺した東大卒の高橋まつりさんのことだが、彼女のことはさておいて、大学を卒業してすぐ一人前の仕事ができるか?ということには大いに疑問がある。私は30年間ほど、新卒(高校、大学卒)の新入社員研修に携わっているが、新卒が一年目から仕事ができるわけがない。当然といえば当然だ。にもかかわらず企業は一人の社員として給料をはらい、教育をせざるを得ない。新卒採用の弊害だ。
- 自己派遣業のすすめ
話を彼の当時に戻そう。彼自身も実家のダスキンせらいに就職しても、すぐ一人前の仕事ができるわけではない。私は彼に自己派遣業の形をすすめ、数年は一人前の賃金をもらうのではなく修業の後、一人前になって始めて妥当な賃金に匹敵する報酬をもらうようにするという契約のあり方を唱え、彼の屋号をYOU/ONE/WORKSと名付け家業についてもらった。その間は修業であると考え本人は一日も早く仕事を習得することを心がける。
現実に、私が述べる形態については十分の理解をえられないまま、半年後には社員として就職して給料をもらうという形になってしまった。これは私のフォローが足りないことと卒業したら就職し、仕事ができてもできなくても賃金が支給されるという世間一般の就職・就業の仕組みを打破できなかったことにある。
- 入社後の実態・嫉妬の対象
さて、その後彼はどうなったか?家業ではなく他社に就職して他人飯を食い修業している場合には起きないが、新卒として入った仕事のできない社長の息子は、人間が持つ原罪である「嫉妬」の対象として職場に曝されることになる。当人がチャランポランな性格ならまだしも、誠実で愚直な性格で、自分の意見をしゃべるタイプではない。また父親である社長としては一日も早く一人前になって欲しいから、何かとアドバイスとして忠告、干渉し本来ならば幹部だけでいいはずの会議にも出席させるという過ちを犯すことになる。期待と現実には当然ギャップが生まれる。一人前に仕事ができる経験も能力もない彼は、私にいわせれば「毎日が針の上の筵(むしろ)」状態だ。しかし、彼の心境を理解する人は少なかった。殆どの人が無関心だった。
- 先輩、同僚からのいじめと退社
そういう彼を嵩にかかっていじめる同僚、こんな根性で将来経営者になれるのかと言葉には出さないがそんな心理状態で指導する上司。そういう先輩同僚の諫言を無視できない父親である社長は彼を指導しょうとする。そういう構図になってしまった。詳細は省く。
私も可能なかぎりフォローしたが、到底彼の取り囲まれた状況を打開できなかった。五年の月日が経った。そして突然彼は自分の意思で、退社し家を出てしまった。
どこに行って何をしているのか?風の便りでは九州に流れて行った。そしてその後大阪に移ったと耳にはするが、確かなことは皆目わからない日々が続いた。雀荘に勤めている。パチンコ屋にいる風の便りに聞いた。
- 彼の長所・物おじしない性格と博才
彼は大学3年の時に天命舎にきた。2年通ってその卒業論文の代わりに理念制定企業経営者インタビューの旅をしてもらった。その間に12月にヨーロッパ研修を企画して、その経費は自分で貯めろと指示をした。そうしたら3カ月後、30万円ためたと報告があった。どうして貯めたのかと方法論を聞いたら、賭けマージャンとパチンコで貯めた。雀荘で馴染みのパチンコ名人に目的を話して方法を聞いたら、遊びでは儲けられないといわれ、仕事として取り組む姿勢を教授された。パチンコは数学の確率論だき言われ実行した。そしてお金を貯めて私達ともう一人の青年4名でドイツ、オランダの旅をした。旅行中、毎朝読書会もした。彼のマージャンの腕は特筆するものがあった。
- その後、居所は母親には伝えておいたらしい。3年経って会社の幹部が何とか捜し当て訪ねていった。彼を支援していた幹部二人が訪ねた。そして会った。一瞬帰ろうかと思ったが、このままだと同じ繰り返しになると自戒し、誘いに乗らなかった。その後、父が訪ねてきた。会社には帰らなくてもよい。しかし、何とか家名を継いでくれ。家業は継がなくてもよいと。その時、彼は家名を途絶えさしたらいけないと思った。
- その後2年経った。父が65歳で社長を退く覚悟は知っていた。そして次期社長と役員になる社員から、今までにない事業を始めたい。ついてはその事業の中核になってくれないかと言われた。この仕事ならば誰もがやらない仕事だから、立ち上げて軌道に乗せれば、過去の自分を断ち切れると思った。
- 帰郷の決心
家を離れてから五年、自分の心の中でもいずれ事業(家業)を継ぐことはなくても、父のいう家名を継ぐことは断れないし、自分もどんな道で生きていくかはまだわからないが、この機会に帰ろうと決めた。誰もがやっていないこの仕事は自分を試すに相応しいと感じた。今年6月、今から3カ月前に故郷に帰った。
- たった一人の創業
提案のあった仕事は「高齢者向け配食サービス」事業だった。ビジョンだけは決まっていたが、場所も体制も全く自分で取り組まねばならなかった。立ち上げの準備に入った。ワタミのような冷凍食品を解凍して配達しているものは、やはり食感に問題がある。研究の結果なんとか当日仕上げる生産業者を見つけた。
- 店舗及び事務所も自分で検討して決めた。計画を立て検討するとおのずと家賃にも制限がある。あれこれ検討したが何とか、望みのところを探すことができた。この広さならばお客様がいくら増えても対応できる。当初自分一人でやるつもりだったが、縁あってパートの人にであうことができた。この人は本当に素晴らしい人だった。9時から3時まて、親身になって働いてくれ。年齢も私と同じぐらいだ。子供が複数いるのだが、この仕事に対して実にわがこととのように働いてくれる。
- 開店資金等はすべて自分がこの5年間稼いで貯めておいたお金を使っている。父親から資金援助はなかったのか?と聞いた。全くない。金銭的支援皆無との話をきいた時、彼の決意を感じた。家を出てからの5年間が全く無駄ではなかった。回転資金、運転資金で300万近くは既に使っている。1年後損益分岐点顧客数を想定していたが、3カ月目の後半で、なんとか自分の給料は払えないが、トントンまで顧客がついてきた。
- 朝6時30分から用意して昼食、夕食の配達とその間営業活動をしている。グループのみなさんにとお客様の紹介をお願いしていることもある。しかし彼自身の営業活動が原動力だ。たまらなく愉しいという。どんどんお客様が増えていくのだと語る。自分の会社を経営することはかつての勤め人の根性とは全く違う。パートの彼女は親身になって働いてくれ顧客が増えるたびに自分のことのように喜んでくれる。こんな人に出会ったことがない。
- 自立への決意と実践
この話を徳山駅まで父親に替わって私をむかえにきてくれた、かつての教え子の青年から聞いた。人を育てることは容易ではないが、彼にはこの5年間、自分を育てる時間が必要だったのだろうと思った。青年を育てることには最低10年はかかるのだろう。そんな想いがない交ぜになりながら、話を聞いた。嬉しい時間だった。
自分の道を自分で歩き始めた人間、経済的にも精神的にも「自立」に向かって歩きはじめた彼の今を、かつて天命舎、進化経営学院で共に学んだ尚友・同期生・諸先輩、彼が卒業論文で全国各地の理念型経営者の人達に伝えたい。人にはそれぞれ必要な時間があった。(悦司)
理念探究会133号
著書紹介「理念の時代を生きるⅡ」ブラー印刷岡田社長
この度の上梓、「理念の時代を生きる-II」黒田悦司著、「戦後70年を検証する」黒田悦司著、「森のフォーチャの暮し-II」黒田善子著、「BREAKTHROUGH-II」黒田倫太郎著
月刊「森のフォーチャ」にこの5年掲載の記事を、今回纏めたものである。「○○○○-II」とあるからには「第2弾」、そして「この5年」というからには、その前の5年も纏めた著書を2013年に上梓されている。
企業や個人の「理念づくり」の支援をされている黒田悦司氏が、師と仰ぐ森信三先生の教え「成形の功徳」に従って作られたと「あとがき」に記されている。
これらの本の上梓はいわゆる「自費出版」である。
一般流通に乗せ、書店に並び、見も知らぬ不特定多数の(なるべく多くの)読者に読んでもらおうという「出版」がある。それと違い「自費出版」というのは、縁あるあの読者がどんな顔してどんな思いを持って読んでくださるかに思いを馳せる。そんな贅沢な「出版」である。前者の「本が売れるか、売れないか」の価値観とは異質なものである。
弊社は両方の「出版」のお手伝いをできる形態を持っているが、「お客様の自己表現・自己実現を支援する」という理念を掲げている弊社としては、「自費出版」という形態はその理念により合致するのである。
奥様の10月18日の誕生日に合わせて上梓されたこの4著。そういえば、うちの亡き父も10月18日が誕生日だったよ。(岡田吉生氏ブラザー印刷社長)
理念探究会133号・理念の時代を生きるⅡ
- 森のフォーチャに毎月掲載している記事をまとめた「理念の時代を生きる」を小冊子化して五年経った。私の古希を迎えた記念でもあった。今回七十五歳を迎えた。まことに時の経過は早いが、一方でこの五年間は私にとっても変化の年であった。
- 一つは私の仕事を進める上での力強い協力者、同志でありかつ妻である善子が七十歳を迎えるのを機会、彼女自身も四十数年続けていた東京でのモラ教室を閉鎖することにした。同じ時期に私が続けていた茨城での進化経営主催養成塾ジュニア、シニアクラスを終えて、高松での開催に変更した。
- 善子には、毎月一週間も続けてきた幾多の研修参加者へ食事の世話をしてもらっていた。二日間三食の食事の世話を六日間毎日続けてももらって来たわけで、毎回七~八名、多い時は十二~三名を超えるみなさんの食事の世話を二十数年間してもらった。善子なくしては、私の理念事業も不可能だった。心から感謝を述べておきたい。
- この五年間で六名の理念制定者が誕生した。三十~四十代の経営者だ。この五年間、前半は理念探究の指導であり、三年前には既理念制定者も含めて理念実践会を立ち上げ、茨城と岡山で開催している。加えて鯖江での本格的な理念探究会も開始している。理念制定企業を対象にした快労祭も第十八回目を数え、完全に世代交代をした。まさに次代の経営者の養成、指導の最終コーナーをまわっている感がある。
- 前回は三部構成であったが、今回は四部構成にしている。戦後七十年を迎えた日本の戦後史を検証したいと発意したことによる。昭和十八年生まれの私は正に戦後教育そのものを受けて育った。平易にいうと、日本の戦前の教育を知らないで育ち、大学生の時代の前後に、学生運動も直接、間接に体験している。労働運動も経験し日本の経済復興と高度経済成長そのもの、同時にバブルも体験している。しかしながら私達は日本の歴史について全く知らない世代で、このことが私自身には澱のように、心の中に引っかかっていた。戦後のGHQによる占領政策がいかにその後の日本に影響を与えたかということは私にとって知的保留事項だった。
- 理念探究の過程で勉強してきた日本の特長と同時に部分的な歴史の断片を一貫したものに統合し筋の通った歴史観を、世界観を確立したいと切望してきた。戦後のGHQの日本への影響を知り、真実を捉えたいという課題に挑戦することが私とってのテーマとなった。三年弱の研究だが、いろいろなことがわかってきた。研究概念図を掲げてその分野の関連部門を読書し、ポイントレビューでまとめ、その上で記事として書くことにした。そしてこのテーマごとに森のフォーチャに毎月掲載した。今回、この「戦後七十年を検証する」として独立させ、纏めることにした。このシリーズは若い経営者に読んでもらいたい。そして疑問に感じたら自分で深めてもらいたい。
- これから人生百年などといわれ長寿化がどんどん進んでいく。下手をすると長寿化社会とは長呪化社会になりかねない。医療費たるや膨大な費用がかかっている。国から支援を期待し生きることが果たしていかがなものかと感じている。残る人生で、心がけたいことは、前回にも書いたが老シロアリになることはせめて避けてほしい。国家の大難に遭遇したとしたらせめて次の時代のことを考えて「老人よ、銃をとれ」る老志士として生きたいものだ。
理念に添って生きる・あとがき
- 創業して二十五年目を迎える。創業の当時十年でも長いと思っていたのだが、誠に早いものだ。その間、利益優先の経営とは異なる次世代型進化経営を追及してきた。世の中の経営を競争型経営(覇道型経営)と呼ぶとしたら、和道経営といえよう。その経営の核になるのが理念であることから、理念経営ともいえる。
創業にあたり特に親しかった人達五十名をお招きし、理念の制定宣言と創業記念パーティーをアルカディア市ヶ谷で行った。創業する「黒田の今後を祝ってやろう」というお気持の一方で「一体何がしたいのか」なんとも理解しがたいというのが感想だった。
- 翌年、茨城県の霞ヶ浦の近くに自宅兼研修施設を建て、その施設を「天命舎」と名付けた。天命を探究する学舎という意味だ。以来、理念探究会としては二十数回開催し、四十数名の理念制定者(企業)が誕生した。理念を制定した人達、企業を中核にして一年一回集い理念企業快労祭も今年で第十八回を迎えた。天命舎で理念を制定した当時五十歳前後だった人も年を重ねた。経営の一線から退く人も出てきた。ここ数年、世代交代ということをひしひしと感じる。そして三年前に六名の制定者が生まれて、一気に若返った。今も理念探究者を三名指導している。
- 若いというのは非常に楽しみだと最近特に感じる。若いということは成長するということだ。成長を通じて彼等が経営する企業そしてそこで働く人達も成長するということだ。こうして年を重ねることに、理念を制定した企業と関わる人達も増え続け正に互恵人脈がその和を広げてくる。
- 世界全体が混迷の時代を迎えているが、この覇道の世界競争の世界からの脱皮を推進できるのは日本人をおいてしかないと確信している。日本に生き続けてきた和道の精神、手法を再体得し、企業経営や社会生活で実践し日本から世界に伝えることは気が遠くなるように思うかもしれないが、創業して二十五年経った中で、その事を実感している。
- このあとがきを書いている最中に、TEKOサミットの会合が一橋大学の如水会館・東京であった。三ヶ月おきに開催されている。今回出席のTEKOの参加者のお歳は、八十五歳前後の方三名と私達夫婦。通常は九十五歳の方も交えて六名で構成されている。
- 今回、企業理念制定からその実際についての報告が私に課せられた発表テーマだった。資料を制作し企業理念の備えておくべき要件から関わっている準大手企業一社、小企業一社の実際例まで報告した。二社の企業の社志、社訓(経営姿勢・就業姿勢)の実物をお見せし、理念に添ったその企業の制定後二十年にわたる企業の変遷、事業構造転換の話もした。
- 発表後、敬愛する岡部氏は「あなたの仕事を見直した。九十歳まで続けなさい」と激励してくれた。現在七十五歳の私が八十五歳の先輩から言われた訳だが、先輩達に毎回お会いし、発表を拝聴していると、頭脳明晰、研究心旺盛、身体健康、かつ食欲も旺盛。九十歳まであと五年だ。今回の会の冒頭、二〇一九年度の開催日を四回決定している。
●帰りの道、上野の都立美術館で没後五〇年藤田嗣治展をみて、上京の際はお寄りする天麩羅「天庄別館」で食事しながら、寿命の話になり、このお店の最高齢のお客さんは一〇五歳でお酒も召し上がるという。今日の一日を振り返りながら、七十五歳を迎えたからといってよしとするには早すぎる。九十五歳を迎えたMランドの小河会長しかり、同年齢の李登輝元総統しかり。私達も理念に添って更に精進を続けてなければとガッツンと頭を叩かれた一日だった。二〇一八年九月末