脳力開発128号
誰も語れなかった沖縄の真実
沖縄問題は、複雑に絡み合っている。現知事の翁長氏はもとより、前知事も問題を複雑にさせる原因を持っている。仲井真知事は最終的に埋め立てを承認したが、それまでの経緯を一応、確認しておきたい。それをしておかなければ、問題の根本が見えてこない。
翁長氏が知事に就任してから、一層沖縄問題は複雑化しており、オール沖縄も今年二月名護市長選、三月石垣市長選、四月沖縄市選挙で敗北し、加えてオール沖縄の保守層の平良朝敬氏(かりゆしグループ)呉屋守将氏(金秀グループ)が離脱したので、実質的にはハーフ沖縄の情況だ。
翁長知事も膵臓ガンで、先日退院したが十一月の知事選に出るかどうかは予断を許さない。仮に自民、公民、維新の推薦候補が知事選で勝利したとしても、沖縄問題は簡単には完結する可能性は少ない。しかし、沖縄県民も長い膠着状態に疲弊しているようだし、沖縄タイムス、琉球新報の一方的な情報に対して、単純に盲信されなくなった。八重山日報が少数ながら那覇での発行を始め、二紙とは異なる情報提供もしている。若い我那覇真子氏がインターネットテレビチャンネル桜支局沖縄の「沖縄の声」等で果敢に活動をはじめている。今回問題の淵源を問い直すことにする。
■そもそも普天間基地問題とは
- 普天間基地問題について時系列確認する。
第二次世界大戦勃発まで沖縄には軍事基地は存在しなかった。昭和17年大本営は全島17箇所軍飛行場を竣工した。昭和20年5月米軍接収後、昭和37年7月に航空基地として拡張竣工。沖縄の戦前の人口動態は昭和12年・ピーク597,902人。平成23年1,400,171人。
- 宜野湾市人口動態・昭和25年は15,930人、昭和45年は39,390人、平成21年92,465人。人工伸び率は5・8倍沖縄県全体で言えば1・9倍である。
- 基地は危険と喧伝されているが、宜野湾市の人口動態を検証すると以下のように増大している。危険なところに沢山の人が集まってきている。市民が移転するのは自分たちにとって都合がいいわけで、不利になる、危険になるところに集まるものであろうか。
- 宜野湾市の収入は毎年防衛庁から地権者に対して、66億4700万円一人当たり360万円が支払われている。地権者数は2448人(689人の反戦テレカ地主は除く)
- 普天間飛行場地主の所有分を総合すると普天間基地は水平線の彼方に突き出ていることになる。合計が実際以上あるということだ。それは、米政府の土地所有を自主申告制にわか地主が多数発生した。
■普天間の県内移設を巡るねじれについて、何が原因で発生したか、振り返る。
- 平成8年(1996年)4月、日米特別行動委員会において普天間基地の返還を県内移設を条件に合意した。米軍は猛反対だったが、橋本龍三郎総理の懇請でクリントン大統領を説得した結果、実現した。
- 基地周辺の人口が急増したこと、我が国では自衛隊、米軍飛行場は空き地と見なされ航空法が適用されていない。これをいいことに、基地周辺の人口増、基地周辺の住宅、大学の建設も放任された。
- 平成9年11月返還合意から1年8カ月、政府は名護市辺野古キャンプ・シュワブ沖合への海上施設建築案を決定した。橋本首相は将来は撤去可能として説得に努めた。海面の使用権、埋め立ての権限が県知事にあるためにどうしても県知事の同意が必要であった。当時の太田昌秀県知事(1990年・平成2年~1998年・平成10年)は振興策を制定されながらもこの案を拒絶した。
- 平成9年12月26日、比嘉哲也市長は総理官邸で受け入れを正式に表明。
平成10年2月
■キャンプ・シュワブの住民の意見
代替基地建設予定地キャンプ・シュワブの住民意見は、13行政区のうち4区のみ反対で過去から住民との交流は親密であった。第一次イラク戦争後地元民総出で外線祝賀会を開催した。
- 昭和45年久志村として独立した村で、昭和31年久志村議会全員の署名を携えて比嘉敬浩村長が誘致実現したが、キャンプ・シュワブでキャンプも村会議満場一致で誘致した。これに刺激を得た金武村も誘致活動を展開し誘致に成功している。キャンプハンセンである。
- 平成9年3月16日琉球新報では以下のように報道している。テイラー元大尉に対して
「子供たちや学校に机、腰掛け、ピアノ、服などを寄贈、地域住民からはテイラー隊長として親しまれていた」
■稲嶺恵一知事(1998年・平成10年~2006年・平成18年)
- 太田知事再選阻止を自民党は目指した。平成10年1998年11月知事選挙。稲嶺氏は
平成10年9月21日基本政策として県民の財産となる新空港を陸上に建設し、一定期間に限定して軍民共用とすると発表した。
- 財界出身、先祖の中国名・毛。習近平と昵懇。知事在任中六回も中国訪問。習近平は福建省在任中四~五回も沖縄を訪問している。
- 稲嶺氏は太田知事の参謀役だった。県経済の公共工事国庫補助金凍結により経済の停滞してきため、政府寄りが得策と判断した。
- 平成11年10月28日、稲嶺知事は、移設条件として米軍使用期限を15年とすると突然発言し、それ以降民間空港として県に返すべきだと表明する。以後、態度を硬化させた。
- 平成11年12月、政府は海上施設案を撤回し、名護市辺野古海岸から1.5キロへの埋め立て案を閣議決定する。稲嶺、県結節業界が埋め立ての方が地元企業の技術に適い施設も恒久的になると主張した。
- 平成11年12月17日クレーマー米国防次官補は1996年の日米安保共同宣言に反すると納得せず、計画頓挫し、その後7年間計画頓挫放置された
- 平成14年2002年7月、政府、県は辺野古沖合に建設する建設計画をまとめた。
- 平成15年12月3日、稲嶺知事は防衛施設庁が全体の事業主体になるよう要請している。この間、政府は2500億円を振興策として沖縄に投下してきた。
★稲嶺知事は基地問題を担保にして国政に発言力を持ち、同時にさらなる振興策を引き出そうとする沖縄流の政治手法が見えてくる。日本式行政「誠意を尽くせば相手は解ってくれる」は沖縄県民には通じない。
■移転先の名護市も責任遂行では県と同じ姿勢
- 平成17年10月29日、日米両国政府間で、沖合埋立案が撤回され、沿岸埋立案に変更されると、県外撤去を主張するようになった。
■仲井真弘多県知事(平成18年・2006年~平成26年・2014年)
- 平成18年2006年11月稲嶺知事から仲井真弘多氏に知事交代。
仲井真知事は埋立案を肯定しながらも一センチでも沖合に出してくれと条件闘争を開始した。琉球新報、沖縄タイムスによる反米軍キャンペーンは絶えず展開され、したたかな世論操作が行われた
- 尖閣開拓記念日・記念式典に参加しない沖縄県知事・2011年1月14日、中山義隆石垣市長は尖閣開拓記念の日市条例制定し、尖閣諸島は歴史的にも国際法上も紛れもなく日本の領土であり、市の行政区域であることを強く全世界に発信していく」と強調した。
- 中国人民日報は「他国の領土を侵害しながら領有権宣言とは何事だと反発している。この式典に、与党の国会議員が「中国を刺激する」とボイコットしたばかりか、肝心の沖縄県選出国会議員は与野党とも一人も参加しなかった。一方、立ち上がれ日本代表平沼赳夫、自民党下村博文は祝辞を述べた。
- ところが、仲井真弘多県知事は欠席、副知事も祝電も打たず、仲井真知事は1月14日に那覇を発って、香港に移動し、16日には北京に宿泊している。
- 知事は北京で政府要人にあい、恭順の意志を示しながら、ここ観光客誘致、北京那覇の直行便を要請した。
■仲井真知事は保守派に基盤を置くが、沖縄問題(基地、歴史問題)については、政府とは一線をおき、地元の立場を主張している。
- 仲井真知事は中国帰化人「蔡家」の出身であることを選挙リーフレットに誇示している。
・2012年7月沖縄県北京事務所を開設。
- 2013年12月27日普天飛行場の名護市辺野古移設に向けた埋め立てを承認した。
- 2014年1月10日沖縄県議会の本会議で、名護市辺野古移設に向けて埋め立てを承認したことは公約違反とし、知事の辞任を可決されたが、決議には拘束力はない。
以上、歴代の知事は当選すると普天間基地問題で駆け引きをはじめ、政府からの補助金を要望するのが、当たり前のようになっている。仲井真知事在任中もこの例に漏れず政府とズルズルと駆け引きをやった、仲井真知事は二〇一三年十二月には普天飛行場の名護市辺野古移設の埋め立てを承認した。
■翁長雄志知事(平成26年11月2014年~2018年5月現在)
- 2014年11月沖縄県知事選挙で、日本共産党・社会民主党・生活の党・沖縄社会大衆党・県民ネット・自由民主党から除名された市議による「新風会」から支援を受けて、初当選した。
- 出馬にあたって、普天間基地の閉鎖・撤去、県内移設断念、オスプレイ配備撤回を強く求める。そして、あらゆる手法を駆使して、辺野古に新基地はつくらせないと表明した。
- 翁長氏は元々1985年より辺野古移設に賛成していた。自民党県連幹事長も務め、22年前には、辺野古移設推進決議案を可決させた旗振り役だった。2014年6月、県知事選出馬の可能性が取りざたされる頃から、一転、辺野古移設反対に回る。
- 県知事選で沖縄からの基地撤去を主張する日本共産党からも支持を受け、志位和夫からは「このたたかいの先頭に立つ翁長さんが知事になれば、日米両政府に巨大な衝撃を与え、新しい歴史の扉を開きます。翁長さんを知事に押し上げ、沖縄の新しい歴史をつくろう」と激励され、翁長も「志位委員長から激励をいただき、本当にこれまでの政治活動が間違っていなかったと応えた。
- 2014年6月、市町村長会において「我々が反対しても国の方針は変えられない」「基地に反対することでより多くの振興策が多く取れる」と発言し、埋め立て反対は基地問題の解決ではなく振興策を得るための手段であることを表明したと報道された。
翁長氏は仲井真前知事からの禅譲が予測されず、知事になるために自民党の一部(除名され、新風会を名乗る)、日本共産党をはじめ、左翼の支援を受けて、当選した。オール沖縄と称してきたが、文頭に書いているような情況で沖縄の今後は目が離せない。次号はオール沖縄等に関する事実を検証したい。(悦司)
理念探究会128号
信州の古くからの友人を訪ねる
今から三〇年前になる。脳力開発のセミナーを信州で主催してくれた友人達がいた。矢島時計宝石店を経営していた矢島好高氏、万記子さん兄妹、好高氏の奥さん・ゆかりさんの実兄にあたる日本ウオルナットの羽田義久氏、当時別所温泉上松屋の専務だった倉沢章氏、ヤマメ・イワナの養殖と食を提供するかどや自然園の角龍正友氏達がいた。沢山の若い人たちの勉強熱心な熱気が溢れる土地だった。何れも二代目の世代だった。脳力開発、MGマメジメントゲーム、MTマイツール(パソコン)を三本柱として経営改革を目指していた。
彼らが中心になって数年間、年に三回ほど私が講師をつとめる脳力開発セミナーを開催してくれた。まだ私自身は会社に勤めていた。土日の休日を利用して上田でのセミナー講師として通った。そのころ私自身は東京での勉強会和環塾の塾頭をしていた。中小企業の若手社長達との勉強会だ。信州でのセミナーには和環塾のメンバーの若手社長が特別講師として何度も参加してくれた。数年後、ある時期から熱狂的だったセミナーも落ち着き、私自身の独立創業も重なり、上田から足が遠のいた。
■お世話になった友人のお墓参り
今回、三年半ほど前に亡くなった矢島好高氏のお墓参りに行った。矢島氏は特に世話役としてお世話になった。恩のある人だ。今回お墓参りの後、万記子さんとゆかりさんに案内をしていただき、私達が著書を愛読している玉村豊男氏の経営するヴイラデスト・ワイナリーを訪ねた。昼食は予想以上に美味しかった。帰り際、駐車場の近くで犬をつれて散歩する玉村氏の姿を見かけた。その夜四名の旧友が集まってくれた。再会すると三〇年近いブランクは一瞬にして消えてしました。かどや自然園上田店でヤマメ、イワナ料理を食べながら色々お話を聞いた。その夜、別所温泉上松屋宿泊した。研修の当時、みんなとワイワイ露天プロに入ったものだ。当時の倍の規模に増築なった棟の特別の部屋を用意してくれていた。
翌日、これまた旧友、簾田氏の運転で長和・旧和田にある羽田さんの会社を訪ねた。羽田さんは当時三〇代、HIC(High International Children)とうい仲間をつくり英語を勉強していた。信州に既に国際性が豊かな企業が散見された。当時この地域は積極的に海外と取引をする企業が沢山あった。現在、株式会社日本ウオルナットの社長をしている。
■日本ウオルナット・「捨てればゴミ、活かせば資源!」
未来志向の環境やさしいリサイクル・エコ製品をつくる信州の爽やかな会社。
五十年程前に地元上小地方の「くるみの殻」を集め、粉砕し篩い分けをして、サイズを整え出来た製品が航空機のジェットエンジンの汚れ落としに使われたのがキッカケで設立。現在では粒度の異なった様々な製品が熱硬化性樹脂のバリ取り、メガネフレームや時計ケースの研磨・研掃、水処理の濾過材、砥石の多孔度調整材として、また合板や樹脂製品への充填や接着剤等として使われています。
変わったところでは化粧品の洗顔フォームのスクラブとしてや、スタッドレスタイヤの大切な材料としても使われています。昔は捨てたり、燃やしたりしかできなかったものが、多くの産業の重要な消耗材料として生き返ったのです。「くるみの殻」だけでなく、各産業分野の用途に応じ、また硬度や水分等の違いをつくる為、「杏の種」、「桃の種」や「トウモロコシ穂芯」等と製品の幅を広げています。
自然がいっぱいの山村の工場を拠点として、原料・製品の輸出入から国際化や海外展開を進め、更にこの植物性天然資源の良さを生かし、自然環境や人の命にやさしい製品づくりをしてまいります。
経営理念 いい仕事をし、いい会社をつくり 喜びと幸せの輪を広げていこう!
★「いい仕事をしょう」いい仕事とは? お客様に喜んでもらえること。
一、具体的にはいつも工夫をする。全てにスピードを上げる。世界一の品質づくり。
二、評価として売上高や利益を生み出す。三、結果として私達の幸せな未来づくり
★「いい会社をつくろう」いい会社とは?お客様や働く自分達を含めて、会社をとりまく全ての人がハッピーになっている。
一、具体的には最大級の「ファン」づくり。ひとに迷惑をかけない。(ルールを守る)
二、地域や社会に役に立つ。三、評価として単に経営上の数字がよいということだけてなく、会社を取り巻く全ての人々が日常会話の中で「いい会社だネ」と言って下さる。
■会社は正に理想的な特異貢献事業
クルミに代表される果物の種を原料にして研磨剤を作っている。父上が創業したと当時は、上田の隣町小県郡地域でクルミの殻を調達していたようだが彼が専務をしていた三〇年前にはアメリカから輸入が始まっていた。聞けば今はアメリカ、中国、南アフリカを中心に輸入している。今、クルミは勿論、桃の種、杏の種、トウモロコシの穂芯等など。
色々今の会社の情況を説明して下さった。売上げは今回お聞きしたが、粗利率MQは七〇%だという。粗利率ですよ。
工場内を見学すると若い人達が沢山働いている。地元や近隣の二〇~三〇代若者達だ。工場長は三〇代後半にしても若い、爽やかな顔をしている。羽田さんの良き相棒手もあるようだ。事務の女性M沢さんは、私が上田に通っていたころのセミナー参加者だった。羽田さんのお誘いで入社され以来、今も熱心に仕事をされている。
- 長和くるみ農園
特筆すべきは会社の前に、長和くるみ農園の看板を掲げてアメリカからのクルミの苗を輸入して数年にわたって植樹している。「くるみの歌」も作詩していただき歌っている。訪問した当時はまだ緑の芽が出るころで、農園は緑の林というわけではなかったが、相当の数を植えている。
- 仕事を楽しむ、生活を楽しむ、人生を楽しむ
彼の正に仕事も何もかも楽しんでいる。アイディアは限りなく豊富で面白い。会社の車も自家用車も車のナンバーは963(クルミ)に統一している。長男の名前は桃太朗、長女の名前はくるみ、次女は杏だ。ここまでやるかと思う。
彼は身長・百八十九センチある。立教大学出身で、バレー部の中心選手だった。そしてユニバーシアードに選ばれた名選手だ。彼の切願というか長男桃太朗くんは現在、立教大学バレー部で活躍している。羽田さん曰く身長が私ほどはない。百八十一センチなのが唯一不満。しかし春からリーグ戦が始まると毎週のように上京して、応援に出かけるということだ。
笑いながら話してくれたのが、親子ともども立教で選手として活躍しているのは野球の長島選手親子と、バレー部の羽田義久、桃太朗親子だとバレー部のOB会で話すのだそうだ。
羽田さんは間もなく古稀を迎える。この年になって、息子のバレーの応援に嬉々として東京まで通える自分を振り返り、本当にありがたいことだと奥さんや家族に感謝していると語ってくれた。
彼は長和町の商工会の会長も引き受けている。美味しい蕎麦を食べに行く道中で、町役場や道の駅、和紙の里なども案内してくれた。町のことが大好きな羽田さんの生き方がよく分かる。愉しい上田訪問と翌日の会社見学だった。話は尽きない。「デカいが軽い」と自称している羽田さんにまた、会いたい。(悦司)
その二・理念実践会
■明治という国家
二〇一八年度の理念実践会(茨城・西日本)でのテキストとして「明治という国家」著者司馬遼太郎を取り上げている。年初から各自に十一章を割当してポイントレビューしてもらっている。今年が明治維新一五〇年といわれているが、私達(私も)は明治以後の歴史を知らない。いや日本の歴史すら立体感をもって勉強したことがない。
■養成塾での体験
次世代型経営者養成塾では、勉強する分野として世界観、日本歴史を学ぶために日本の碩学といわれる二宮尊徳、中江藤樹、吉田松陰、上杉鷹山、石田梅岩などを取り上げ一人一人の研究課題として与え、和の実学、和道を学ぶための副読本として恩田木工(もく)の日暮硯を取り上げ、江戸末期から明治初期にかけて日本を訪ねてきた外国人の訪問記や滞在記などを勉強してきた。
現役時代から広島に赴任中は萩を何度も訪ね、また、養成塾の研修の一環として萩出身の大和信春先生の吉田松陰を中心とした萩・志源探究の旅や坂本龍馬を訪ねての土佐の旅、島津斉彬の鹿児島・尚古集成館を訪ねる旅、上杉鷹山を訪ねる旅、中江藤樹の藤樹書院訪問し郷土史家の指導も受けている。また、伊勢神宮も受講生たちと訪問し、丁寧な指導も体験している。何れの旅も地元の史家、研究者の説明をお聞きしている。
個人的には、坂本龍馬や勝海舟、西郷隆盛などは若くして読み、息子に長男は黒田倫太郎、次男に黒田竜と命名したのもその流れからだ。最も、三男黒田吉之助は残念ながら誕生しなかった。池波正太郎や藤沢周平、司馬遼太郎は愛読書で大部分の小説読んでいる。私の生まれは岡山県津山、松平藩の城下町、大学時代は井伊大老の彦根で五年の年月を過ごしている。
歴史書としては、主に渡部昇一はここ数年集中的に読んでいる。一昨年から戦後の日本の歴史を検証しようとして森のフォーチャだよりに既に二〇回以上書いてきた。
■最近の研究テーマ
自分の経験から言うのではないが、日本人として日本の歴史を知らない。加えて戦後六年半にわたるGHQの言論統制、連合国編纂の太平洋戦争史や東京裁判の影響は大きく、特に影響を受けた教育、出版、教科書問題で日本の歴史からも遠ざけられてきた。
今年は、若い理念実践会の諸君と日本史を大まかに捉えようと考え、勉強することにした。
並行して「もう一度学ぶ日本史」執筆者代表伊藤隆と「読む年表日本の歴史」渡部昇一をつかう事にした。
■歴史が立体的に見えてくる
第一回目は第一章ブロードウエイの行進、第二章徳川国家から遺産、第三章江戸日本の無形の遺産・多様性を研究和談した。養成塾を通して前述の体験をしている理念実践者は第一章を輪読した後、「もう一度学ぶ日本史」の●江戸幕府の成立としくみ、●江戸時代の身分制度の実態と人々の暮らし、●キリスト教の禁止と「鎖国」の始まり、●「鎖国」の時代に開かれた窓口、●新田の開発と産業・交通の発達、など江戸時代の始まりから、幕府の組織、士農工商、制度から研究和談をすると、参加者も歴史が立体的になって理解というか納得できて面白い、自分の頭の中で今まで学んできた事が繋がってきたいう感想だった。
私も今、万延元年(一八六〇年)の春、幕府が派遣した日米条約批准のための使節団をおくり、アメリカ中が好意と好奇心をもって彼らを歓迎した様子が彷彿と頭の中に沸き上がる。と同時に使節の中心人物だった「小栗上野介忠順」の小説「覚悟の人」と「幕末維新と佐賀藩・日本西洋化の原点」読み始めている。すべてテキスト「明治という国家」に収斂してくる。歴史を勉強することが実に面白いというのが、私自身の二〇一八年度理念実践塾の感想です。これから一年みんなと続けたい。(悦司)