脳力開発122号/理念探究会122号

脳力開発122号・戦後史を振り返る
■二十二回の連載記事の総括
上記のタイトルで二〇一六年一月・脳力開発九九号から始めたのだが、今月号が百二十二号ということで途中一度休んだことがあるから、これで二十二回にわたった掲載になる。
始めるにあたって、私はこう書いた。霞ヶ浦の林の中に居を移して二十余年。理念探究会を中核に据えて、次世代の経営者を養成することを目的として、更に一般社団法人として進化経営学院を設立した。彼らに指導していることは今の時代、「覇道」から「和道」へのパラダイムシフトを目指して理念を根底に置く経営を指導している。「和道」は「異質共存的な安定平和を確立するために、互恵共栄の関係を自身の周りから築き、拡大して全体に及ぼす秩序づくり」のあり方の体得を目指している。
その指導を通じて、戦後の七〇年を体験しているのだが、その歴史をキチンと受講生に伝えることが必要だと考えている。私が生まれてからの歴史が戦後の七〇年に相当する。学校で歴史の授業で日本史を選んだとしても、全ては過去の出来事をもって日本史とされ、江戸時代のことも明治以後の歴史もほとんど知らない。

■思考判断の基準
研究対象の資料を読んで自分の意見を述べるだけでは、客観性を欠く恐れがある。基本的評価の基準を「知的保留」「単次元分極思考を排し多次元連続思考」脳力開発の基本指針「戦略思考」「多角度思考」「両面思考」「確定思考」「具体思考」において読み込んできた。
この二年間で現代史に対して理解が進み、知的保留してきた情報・事実に迫る喜びを覚えた。根底に流れる現代の歴史観の土台に迫ることかできた。そしてテーマに対して毎月ではないが、進化経営学院の受講生と理念に到達した人達を対象にした岡山、茨城の理念実践会で取り上げてきた。彼らは脳力開発の勉強、テキストとして使ってきた「心の自立」「和の実学」等々を学んでいるので、和談も深まり進んだ。

■テーマの設定
既に掲載した研究概念図のように以下のタイトルで二十回にわたって書いてきた。
第一回GHQの占領政策、第二回進歩的文化人達、第三回学生運動と安保、第四回教育三法と日教組、第五回続日教組、第六回日本ペンクラブ・弁護士の偏向、第七回労働運動史、第八回共産党の歴史、第九回社会党の変遷、第十回朝日新聞の罪・慰安婦虚偽報道、第十一回GHQの言論統制、第十二回東京裁判、第十三回東京裁判と清瀬一郎、第十四回東京裁判とマッカーサー、第十五回南京事件、第十六回ポリティカル・コレクトネス(正義の嘘・民意嘘)第十七回事例研究、第十八回メディアの偏り、第十九回戦後最大の虚報、第二十回人間の生き方を再考する(総選挙を振り返る)と続けてきました。

■GHQの占領政策を振り返る
ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(War Guilt Information Program、略称:WGIP)とは、文芸評論家の江藤淳がその存在を主張した、太平洋戦争(大東亜戦争)終結後、連合国軍最高司令官総司令部による日本占領政策の一環として行われた「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」(罪意識扶植計画)である。
●江藤淳は、GHQは太平洋戦争史という宣伝文書を「日本の「軍国主義者」と「国民」とを対立さることによって、実際には日本と連合国、特に日本と米国とのあいだの戦いであった大戦を、現実には存在しなかった「軍国主義者」と「国民」とのあいだの戦いにすり替えようとする底意が秘められている」と分析している。
●WGIPは「何を伝えさせるか」という積極的な政策であり、「何を伝えさせないか」という消極的な政策と表裏一体の関係であり、後者の例はプレスコードが代表的である。
具体的にはまずは以下の言論統制が行われた。この七年近くに及んだ言論統制、私たち日本人にどれたけの影響を与えたかは計り知れない。そのことも順次取り上げて行きたい。

●プレスコード(Press Code for Japan)
太平洋戦争(大東亜戦争)終結後の連合国軍占領下の日本において、連合国軍最高司令官総司令部GHQによって行われた、新聞などの報道機関を統制するために発せられた規則である。これにより検閲が実行された。
GHQが定めた三〇項目の報道規制とはなんであったのか?
以下の三〇項目の報道規制は占領国アメリカの戦略がうかがえる。一九四八年(昭和二十三)年にはGHQの検閲スタッフは370名、日本人嘱託5700名がいた。新聞記事の紙面すべてがチェックされ、新聞記事だけで一日約5000本以上であった。
以下の項目を基準に、規制された。この言論統制が七年近く日本の言論・出版、放送をコトロールし続けた。

1. SCAP(連合国軍最高司令官もしくは総司令部)に対する批判
2. 極東国際軍事裁判批判
3. GHQが日本国憲法を起草したことに対する批判
4. 検閲制度への言及
5. アメリカ合衆国への批判
6. ロシア(ソ連邦)への批判
7. 英国への批判
8. 朝鮮人への批判
9. 中国への批判
10. その他の連合国への批判
11. 連合国一般への批判(国を特定しなくとも)
12. 満州における日本人取り扱いについての批判
13. 連合国の戦前の政策に対する批判
14. 第三次世界大戦への言及
15. 冷戦に関する言及
16. 戦争擁護の宣伝
17. 神国日本の宣伝
18. 軍国主義の宣伝
19. ナショナリズムの宣伝
20. 大東亜共栄圏の宣伝
21. その他の宣伝
22. 戦争犯罪人の正当化および擁護
23. 占領軍兵士と日本女性との交渉
24. 闇市の状況
25. 占領軍軍隊に対する批判
26. 飢餓の誇張
27. 暴力と不穏の行動の煽動
28. 虚偽の報道
29. GHQまたは地方軍政部に対する不適切な言及
30. 解禁されていない報道の公表

■言論統制とプレスコード
以上の言論統制とプレスコード規制如何にGHQが、日本の言論、伝統、思想を規制し、メディアを後々までに生殺与奪の権を握り、GHQ思うがままに操ることになったか、振り返って憤りを覚える。しかし、全ての日本人たちはGHQ迎合して生き残ることに汲々とした。

■GHQの政策に迎合するメディア、知識人社会
●二十二回にわたる探究の中で、日本戦後史への基底になる影響は見事なGHQの占領政策と約七年にわたる言論統制であることがハッキリします。そして連合国が日本では大東亜戦争と呼称した大戦を太平洋戦争と呼称し、昭和二十年十二月八日全国の新聞に一斉に連載し、その後NHK放送を通じ否応なく国民の耳目にたたき込んだ。「太平洋戦争史」を連載し、終了後昭和二十一年四月より高山書院が出した「太平洋戦争史-奉天事件より無条件降伏まで」の影響力が最も大きい。
●この影響は日本の知識人社会に深く浸透することになる。また教職追放や経済界、政界の一斉追放によって、それまでのリーダーに取って代わった表舞台に出た社会主義、共産主義的な考えを持っていた知識人、文化人はその後当然GHQの意向に沿うことになる。教育部門では日教組が中心になり、戦後七十年経ってもいまだその力を失ってはいない。
●一九五〇年四月一五日、日本の左翼的文化人・東大総長南原繁、出隆、末川博、上原専禄、大内兵衛、戒能通孝、丸山真男、清水幾太郎、都留重人らが平和問題懇談会を結成し、雑誌『世界』1950年3月号などで全面講和論の論陣を組んだ。事務所は岩波書店の二階にあった。平和問題懇談会は全面講和(日本共産党、社会党、朝日新聞)に同調した。
●連合国の東京裁判は「連合国の裁判という仮面をかぶった私刑」に他ならない。このことが一九八〇年代から始まる中国、韓国の反日運動に繋がり、慰安婦問題が起こってくることに繋がる。そのお先棒を担いだのが、朝日新聞だった。連合国に対する言論統制への迎合から出発している。
●大学ではマルクス経済学が戦後一世を風靡し、共産党、社会党と一体となって六〇年代七〇年代の安保闘争に結びついていく。その流れが共産主義主義者赤軍派の「よど号事件」やその後の連合赤軍の「浅間山山荘事件」と結びついている。
●政党・連合が抱える矛盾が露呈。それから続いた、野党の様々な離合集散も、二〇一七年の衆議院選挙において旧社会党の流れを引き継いできた民進党(旧民主党)が希望の党、民進党、立憲民主党に分裂した。今なお都心部では知的インテリを自称する無党派層の一部は立憲民主党の投票し、護憲派としてのささやかな自尊心を満足させている。希望の党の実体は当選してしまえば党首選挙で玉木雄一郎を選んだ改憲派(三十九名)と大串氏の代表される反改憲派(十四名)の混成部隊であることが判明した。政治家として恥を知らない輩だ。
●今日まで連合(元々意見が合わなかった民間労組と官公庁の自治労の混成部隊)はそれまで社会党から民進党を支持してきたが、この選挙で労働組合連合の分裂に繋がっている。今回の選挙は、いままで隠してきた政党、労働組合、政治家の矛盾を露呈することになった。●一月一日号より、新たな展開に入りたい。(悦司)

理念探究会122号・天寿への道
ある資料を入手した。天寿への道という資料だ。その資料によるとスタートが還暦だ。還暦は六十歳、次が古希で七十歳、次が喜寿で七十七歳、以下傘寿八十歳、橋寿八十四歳、米寿八十八歳、卒寿九十歳、国寿九十二歳、櫛寿九十四歳、白寿九十九歳、百寿百歳、茶寿百八歳、王寿百十一歳そして天寿百二十歳までの道は遠い。
私は七十四歳、妻は七十二歳を迎えている。同窓会に出かけると亡くなった友人たちの報にしばし接する。今回まだ還暦までにも遠い若い経営者、経営志望者たちから始まってこの十月から十一月までに印象的な人達にお会いした。この天寿への道の資料にであってから、人生終盤の生き方を更に見直してみたいと考え出しています。
●鯖江理念探究会への出発
鯖江MKD(村上経営道場)で塾長の村上昭廣氏(七十三歳)は一昨年から塾生を対象にゆくゆく理念探究者を育てたいと宣言していた。村上氏は六十代で脳梗塞にあわれた。リハビリに専念した。凄まじい努力だった。しかもその後癌の手術もされ、六十八歳で会社を次期社長に譲り、その後はMKD(未来型経営登場・村上経営道場)を開き、鯖江地区の若手経営者やその会社の社員の人達を指導している。
二〇一六年から理念探究の前段として私も年間四回のサポートをしてきた。今年になっていよいよ理念探究を進めてくれと熱意を持って語る。私も二年にわたるサポートの結果数名の候補者に的を絞り打診してもらった。来年から二年がかりで本格的に理念探究を支援することを決めた。初日は参加者七~八名の継続している勉強会、夕方から翌日にかけて三名の理念探究希望者と取りくむことにした。来年二月から始める。何としてでも理念制定にまでたどり着きたい。
写真・勉強会に顔を出した村上氏と孫二十一歳(挿入)
●千年を生きる美(田渕隆三氏個展・グループ展)
田渕隆三氏(七十六歳、来年喜寿)の八王子村内美術館での作品展にお伺いした。今年も日本各地、スイスそして十月初旬にはヒマラヤを訪ねたばかりである。田渕さんはネパール、ルクラ(標高二八六〇米)あたりに馬を年間契約で養っている。何故かというとナムチェバザール(三四〇〇米)を経てエベレストビューホテル(三八八〇米)までは馬に頼る。多い時には年間二度は登られる。もう既に一〇回以上は登られている。またホテルから更に登られ四〇〇〇米以上の高度でも現場で筆をとられる。
私達も一昨年このルートでエベレストビューホテルまで企画したが、残念ながら妻が膝を痛めてマナスル遠望にコースを変更した。しかし、冨士山ですら高度順応が如何に大変かは体験している。妻は三〇〇〇米でも酸欠状態が続く。高度順応は登山をする人にとっては大変難しい。私自身もマナスルの旅で三六〇〇米では非常に体力を消耗した。田渕さんこの高度順応が実にスムースなのだと思う。時に三浦雄一郎氏の息子さん三浦勇太氏と何度か同行されている。
田渕さんはヒマラヤの山々を描き、オランジェリー美術館のモネの蓮の大作のように表現されたいと決心されている。氏の作品を描く理念は、「千年の美を生きる」のテーマに表現されるように、美術の持つみなぎるエネルギーを表現することだ。イデオロギーを越え人の心に訴える美を表現することだ。
その志が毎年のヒマラヤ登山であり、厳寒の高度でヒマラヤに対峙される。私は氏のこの姿勢と現地で描かれた作品をどうしても自宅、研修所で若い人たちに見てもらいたいと決心し、多くの作品を展示している。何が人を駆り立てるのか。田渕さんの毎年の新作に接する旅に、氏の志を確認させられる。

●TEKOサミット天命舎
十月下旬メンバーの方が天命舎にいらしてくれた。私より丁度十歳年上・O部氏・橋寿八十四歳が奥様といらしてくださった。ご夫妻と私達夫婦は馴染みの料理屋・如月亭で会食した。御夫婦には私達が結婚した当時(四十七年前彦根での結婚式)に参加していただいた。奥様も刺繍を長く携わっておられ、妻とは刺繍を教わった先生が同じだったこともあって、話がはずんだ。
翌日K保さん(八十四歳~八十五歳)が柏から参加していただき会食を交えて話し合った。テーマは大手企業の不祥事、特に最近の神戸製鋼の不祥事についての話だった。もう一つは終戦の時に中学生だったお二人への遠慮のない質問から始まった。戦前の価値観を全否定されてた先輩達に、GHQが時代を先導したその後の時代を生き、その後の日本人の価値観に対してどう影響したかをお聞きしたい。今回は十分な時間がなかったが私達が経験することができなかった時代の転換期をどう生きるかの体験をお聞きしたいと思っている。
戦前と戦後の橋渡しの世代の先輩たちの体験をお聞きしたい。来年からのTEKOサミットが楽しみになってきた。ちなみにメンバーである九十一歳のO野氏は、今回運転免許試験のため欠席されれた。

●Mランド小河会長訪問
島根県益田を一年ぶり訪問した。Mランド小河会長にお会いするためです。昨年十一月孫の吉彦常務の結婚式にお招きいただき、おもいもがけなく善子が乾杯の発声を頼まれた式だった。あれから一年。四月にお邪魔しようかとお訪ねしたとき、珍しく体調を崩されていたので、予定を変更したが今回はいたってお元気だった。
近況報告やら最近の私の仕事等を報告し会長を前に、「天寿への道」のお話しをした。会長は今年九十四歳になられている。櫛寿という。天寿は百二十歳というお話しをすると、常務に伝言され、会長室から一冊の本を持ってこられた。本は「健康寿命一二〇歳説」というタイトルだった。著者は船瀬俊介氏。
「健康寿命一二〇歳説」
実は私が、二年前に減量を試みたとき、年齢とともに過去のやり方では予定通り減量が進まないことに気がつき、偶然から善子の友人に貸してもらった「やってみました!一日一食」長寿遺伝子が微笑むファスティングという船瀬氏の本だった。面白半分に読んだのだが、根拠があることが分かり甲田光雄氏の「奇跡が起こる半日断食」にたどり着き、実践している。
巷間言われる三食は食べ過ぎで、病気の原因は過食にある。現実に私も仕事をするときに、朝食はとらない。お腹が満ちていると血液は頭に行かない。その体験を脳力開発研修のセミナを始めたころから続けていたので、意外とスムースに実践できた。お蔭で七~八キロは減量できた。私の体験から数人の友人に勧めたら、みなさん喜ばれている。
偶然の話の繋がりから「健康寿命一二〇歳説」の中で森下博士(八十八歳)の世界中の長寿郷に学んだ事を中心に船瀬俊介さんと対談されている。この本で森下博士は世界中の長寿村を繰り返し訪問され、現地の人達にインタビューされた、滞在された現地体験を報告されている。そして、森下博士は「東京でガンやその他の治療に指導されている方法と世界の長寿村の食事に共通項がある」と言われる。具体的には玄米食だ。
ココロが磨かれる森の中の教習所
Mランドは全国から毎年六千人の人達が運転免許取得に来られる。二週間の合宿研修だ。ゲストの人達は六割の人達が、体験者の勧めでこのMランドに参加される。朝のトイレ掃除から始まるMランドの研修プログラムは、創業五十年の歴史ととも会長たちが築かれたことで、ゲストは滞在中様々な事を体験できる。詳細は省くが本格的なお茶の体験など、この合宿でゲストは大きな精神的変化と成長を体験する。特質すべきは朝の食事は今、玄米食を提供している。そして禁煙が定着している。何故運転免許取得とこれらのことが関係あるかと思われるだろうが、このことは事実である。妻のMOLAの作品を展示している美術館フォンテーヌもある。
この後会長とMランド構内を散歩した。雄大な自然の環境に囲まれたMランドはゲストの心身を落ち着かせる。YOGAの道を歩いた。私達が暮らす天命舎も自然の中にある。そして毎日のウォーキングコースはコンツオルズの道から湖水地方のように霞ヶ浦の湖畔を歩いている。自然の中で暮らす、野菜中心の食を楽しむ。過食をしない。そういう環境で自らの天命に添って生きることが「天寿への道」に繋がるのだろうと認識を新たにした小河会長との一年ぶりの再会でした。(悦司)