■理念探究会116号
■道縁に生きる
◎その一・理念実践会第二期スタート
五月第一週に茨城での理念実践会、岡山での西日本実践会がスタート
しました。理念実践会は、昨年理念制定をした人達を中核にして、既に
理念制定をして歩んでいる人達、理念探究を継続している人達の月一回
の研鑽の場です。最初の輪読が「道縁」という項目でした。因縁とは仏
教から来た言葉です。森信三先生は因縁とは「人と人との関係」またそ
のつながり合いといえる。「人間というものは、自分がこれまで出逢っ
た人々との因縁を重んじないと、いっかどの人間にはなれない」「自分
をめぐる因縁の深い人々と、いつまでも交わりをつづけるようでなけれ
ば、大した生き方はできない」と続けられる。
「道縁」とはたんに「因縁」というだけでは不十分で道を求める人同
志のつながりといえる。「理念」とは別の表現をすると道を求める、そ
の人の使命の自覚とその実践をいう。「道縁」とは正に理念探究をなし
遂げた人、今も理念を探究し続けている人同志のつながりともいえる。
既に理念探究した人達との年に一回の「理念型企業快労祭」は各自の
一年の快労の報告会だが、昨年理念制定ができた若い経営者、そして今
も理念探究を続けている人達同志のつながりここでいう「道縁」という
に相応しいと改めて感じた茨城、岡山の理念理念実践会でした。
◎その二・西日本次世代型経営人材養成塾
高松で五月第一週に第三回西日本次世代型経営人材養成塾が開催され
ました。この会は西日本を中心に進化経営学院の理事をお願いしている
竹内将清氏を中心に進めてもらっています。開校
式、終了式は私も参加して一日の講義を行います。
ここでも、初日の講義は会の目的から六回の研修で学ぶカリキュラム
を解説します。この会も文字通り次世代型経営者を育てることが目的で
す。
従来の企業が売りをあげること、利益をあげること、長持ちさせるこ
とよりも、役に立つ経営を目指すこと、と同時に企業が特異貢献をつづ
け、結果として利益が伴うような科学的経営も指導します。
最初の講義で「尚友とは」で、「尚友という言葉について、これは友
を尚(たっとぶ)という意味で、古来「読書尚友」というふうに使われ
ている。何故友を尚ぶ必要があるかといえばこれも道の上からいうので
あって、ともに学ぶ友人が道の上から一歩ないし数歩進めている。その
友を大いに尊敬する。そういう関係をこの養成塾で築いていこうという
ことで、また「同門の友」も「朋遠方より来るあり、亦楽しからずや」
といっている朋というのも正に「同門の友」であることを自覚して養成
塾で学んで行きましょうとスタートした。
■能力開発116
◎第一部思考の前提
●狂った判断をしないために
年をとるということは、経験を積むことになります。経験を積むとい
うことは、いろいろな情報を自分の頭に蓄積していくことです。その時、
例えば円周率は3.14・・・ですが、これを見た目には割り切れる3とす
ると、事実は3.14・・・ですから、誤差のある情報になってしまいます。
これと同じように妙に割り切りすぎたような情報をどんどん頭に詰め込
んでいきますと、誤差のある情報ばかりになってしまいます。
そういう情報がいっぱい頭に入っている人は、終いにはどうなるかとい
うと、狂った判断ばかりするようになります。しかも長年の蓄積がそう
だから、にわかには直しがたいなんとも哀れな頭になってしまいます。
また、ある議論において、白か黒かというような結論を妙にきっぱりと
出す人がいますが、そういう人に、何かよく知っている人のような印象
をもってしまいがちです。特に高校をでた当座の頃は、ほとんど思想的
に免疫がありませんから一見体系だったような話や、すごく割り切れて
いるような話にというものに、抵抗力がなくて、ふらふらとついて行っ
てしまうようなことが起こりやすくなります。
●連続的なものの見方と分極的な見方
図のように白か黒か、良いか悪いかみたいにその中間をイメージしない
ことです。連続的な見方は、グラデーションみたいに白から黒に徐々に
変わって行くように表しているのは、確かに一番良いのと一番悪いのは
あるんだけれど、その中間にはどちらとも言えないやや良いとかずいぶ
ん良いとかそういういくらでも段階があるいうふうにとらえる見方のこ
とです。下の方は多次元的な見方です。多次元だけど分極的というのは
多面的な見方はできるのだけれど、一つ一つの観点は二者択一の良いか
悪いかという分極的な見方しかできないということです。
●分極思考は誤差だらけ
単純明快で非常に割り切れることが知的なことだと思っていると、い
ざ事実に対応したときに、特に人間を扱うとか社会現象の実際の問題を
扱うとき、誤差だらけのデーターで判断することになってしまいます。
分極的な思考、つまり白か黒かでしかものを考えない主張を広めること
は、大勢の人のか考えを無理に小さくして単純な考えに追い込んでしま
います。そして集団として同じ方向に動かすのに利用されたりするわけ
です。また、単次元分極的な考えの方が、頭を使わなくてもいいわけで、
楽なこととも言えます。ついつい楽な方に走りがちになります。
これは怖いことです。
■知的保留
「盲信」、「盲疑」で「盲断」する
「むやみに信じる」のも「むやみに疑う」のも同じ穴の狢だということ。
盲信している人も盲疑の人もどちらも新しい情報に対して素直に聞くこ
とがなく、極端な場合には耳を閉ざしてしまいます。その結果、客観的
な事実に対して鈍感になる、無感覚になり、図のように情報不足のまま
行動し、不覚行動につながる、これは危険なことです。
●「知的保留」のすすめ
肯定も否定もできない情報が入ってきたとき、情報ではあるが決定的
な結論ではないという状態で、そのまま心にとどめておくことを「知的
保留」と言います。世の中にはこの知的保留が一項目もできないタイプ
の人がいます。どちらかであると決めてしまわないとイライラして落ち
着かない人がいます。そこでおよそこうだと、大多数の人が考えている
ことに合わせたりして決めてしまう。
知的保留のできない人は一般の人がだいたいどう思っているかによって
決めたり、何かのこだわりによって決めてしまう。
それで不都合がないように見えますが、保留しない情報は、分極情報で
すから、いったんどこかでなにかが狂うと大混乱になってしまう。
この保留された情報というものを地道に蓄積していきますと、やがて
は大筋が見えてきます。情報に矛盾や混乱かあってどちらともいえない
ように見えたが、新たなこういう筋で考えると説明がつくとか、おぼろ
げな概要骨格が見えてきたりします。そのためにも保留は保留として留
めておくことが大事なです。
●知的保留情報でより精密な判断ができる
図のように知的保留をして、だんだんと情報が充足してくると今度は
結論がでてくるようになって、立証されるか反証されたりする。
中途半端にしか情報が集まっていない時に、あるいは知的保留に留めた
ものが沢山ある時に、選択して行動しなければならない時どう判断すれ
ばよいのか?
そういう場合でも、知的保留して集まっている情報で判断する人と、白
か黒か、分極思考で集めたもので判断する人では、精密度が違ってきま
す。保留情報は何も教えてくれないのではなく、最終・最新の総合判断
を支えてくれます。
(以上・心の自立より)
以上、南京事件を考えるにあたって、多角度から情報収集をしたうえ
で、取り扱ってみます。
第二部南京事件について多次元連続思考で考える
■新聞に掲載された太平洋戦争史
●連合軍支配下にあった日本で1945年12月8日より10回に亘って連合軍司
令部記述として全国の新聞紙上に連載された宣伝記事である。
概要 「国民は完全なる歴史を知るべきだ」、「軍国主義者の行った侵
略を白日に」などというGHQの趣意により―奉天事件よりミズリー号
降伏調印まで―という副題に掲げられた期間を対象として記述された、
GHQによる宣伝占領政策の一つ。5
●太平洋戦争史
1946年3月30日、高山書院より連合国総司令部民間情報教育局資料提
供、中屋健弍訳として刊行された。訳者の言葉として当局の厳密なる校
閲を仰いだことが記されている。これらの宣伝に対する批判の禁止など
プレスコード等によって言論統制されていたため、批判や反論、検証な
どは許されず、他の占領政策と相まってこれらの考えが次第に国民の間
に押し広められた。5
●南京事件
1937年7月から日中戦争勃発
1937年12月8日南京を包囲、九日無血開城を勧告、10日に攻撃開始、
南京防衛司令官康生智は12日に逃亡。
■太平洋戦争史に書かれた南京における悪虐行為
●12月7日に南京の外郭陣地に対する日本軍の攻撃が開始され一週間後に
は上海戦での中国側の頑強な抵抗に対する怒をここで爆発させるべき悪
虐行為をやってしまった。近代史最大の虐殺事件として証人たちの述べ
る所によれば、この時、実に二万人からの男女、子供達が殺戮された事
が確認されている。四週間に亘って南京は血の街と化し、切り刻まれた
肉片が散乱していた。
その中で日本兵はますます狂暴性を発揮し一般市民に対して殺人、暴行
を始め、あらゆる苦痛を味わしめたのである。54
●大掠奪並びに暴虐行為は全市に亘って行われ、中国軍が南京から撤退
してやっと混乱と掠奪から逃れられたと思った市民はより一層の恐怖に
襲われた。婦人達も街頭であろうと屋内であろうと暴行を受けた。抵抗
した婦人達は銃剣で刺殺された。
この災難を蒙った婦人の中には60歳の老人や11歳の子供まで含まれてい
た。中国赤十字の衛生班が街路上の死体取り除きをやったとき彼等のも
って来た棺桶は日本兵に奪われ、その上数名の赤十字従業員は無残に惨
殺された。55
■日本のヨタ宣伝
●大虐殺を行う一方、日本軍は空から次のようなビラを撒いた。「各自
の家庭に帰ってくる良民には食糧と衣類を与える。日本は蒋介石によっ
て踊らされている以外の全中国人に良き隣人であることを希望する。」
その結果としてビラが撒かれた翌日早くも数千の良民が避難先から爆撃
で破壊された彼等の家に帰った。ところが早くも次の朝には数々の悪虐
事件が判明した。
母親は暴行され、子供はその側で泣き叫んでいた。またある家では3,4
歳の子供が一間で突き殺され、家族の物は一室に閉じ込められて焼き殺
されていた。中略。この南京の残虐行為こそ、結局中国を徹底抗戦に導
く結果になった。56
以上が、GHQの制作した太平洋戦争史に記述され、全紙に掲載を強制
された南京事件に関する主要部分である。国民ははじめて聞いた情報で
ある。
■言論統制・東京裁判・南京事件のGHQの洗脳の方法
●プレスコード・1945年(昭和20年)9月19日に発布された。
ラジオコード・1945年(昭和20年)9月22日
●これによって、新聞並びにラジオはGHQ検閲なしには東京裁判、南
京事件に関して日本人へのGHQ以外の情報提供は不可能だった。そし
て新聞に掲載の後、太平洋戦争史は十万部学校の教材として全国の中学
校に配布され、副読本として採用される一方、引き続きラジオキャンペ
ーンを通じて「真相はこうだ」は太平洋戦争史を劇化して1945年12月9日
より10週にわたって週一回放送され、「真相はこうだ」の質問箱を設けた。
そうして、「真相はこうだ」の放送が終了した後「質問箱」となって、
41週つづき、1946年12月4日まで続いた。
■分極思考・一方的な情報
●南京事件に関しても日本人に対しての情報は冒頭で「単次元分極思考」
「知的保留」で説明しているように、GHQ以外の情報は言論統制と検閲
によって一方的な情報しか耳に入らず、国民は洗脳されてしまったといえ
る。このように日教組による歴史の一方的情報、そして大学においても、
戦前の教育に批判的な進歩的教授達は、揃って、GQHの流す情報(一
方的・分極的情報)に基づいて戦後の思想教育を進めることが、彼らにと
って金科玉条的な思想の核心、底流になった。
■南京事件の情報の偏り(連合国・国民党の情報のみ優先した)
●東京裁判で裁かれた根拠は一九四六年国民政府が南京で行った現地調査
の報告が基本にある。日本軍の1937年12月の南京占領を体験した南京事件
の事実は、緻密な多次元連続的な見方によりはじめて迫ることができるは
ずである。しかも、弁護側の資料は全く採用されることなく中国南京での
法廷でも、東京裁判法廷でも連合国側、国民政府側の資料のみが判断資料
だった。その結果南京事件判決が下された。
■虐殺派=GHQの視点
●南京事件についても、三通りの見方がある。「虐殺派」「まぼろし派」
「中間派」という見方である。このなかで、「虐殺派」の前提は、太平洋
戦争史であり、東京裁判の結果である。GHQ・東京裁判の判決に異を唱
えるよりも、GHQ・東京裁判史観こそ戦後の時代の先頭をきって走るこ
とこそ、進歩的文化人・メディアにとって戦後の主流派である事を保証し
た。しかし、繰り返すが、分極思考である「日本は間違っていた、連合国
の見方が正しいという自虐的な考えを日本人に植えつける」行為を続ける
ことを意味する。
●この流れこそ、「閉ざされた言論空間」で江藤淳の言うところの「日本
人のアイデンティティと歴史への内部崩壊」を意味することになる。そし
てその後現在に至るまで、メディア(新聞・ラジオ・テレビ)は言論統制
を引きずり、自主規制という名の言葉狩りを続けている。
■南京事件の探究・北村稔
東京裁判の結果はここでおいておくとして、戦後、南京事件に関していろ
いろ見方が出ている。ここで、改めて南京事件を振り返って見ることにす
る。
●歴史観に規制される日本での研究
1.日本国内では「虐殺派」「まぼろし派」「中間派」の間で論争されて
いる。「虐殺派」とは、第二次大戦後の南京と東京の軍事裁判の判決
に準拠して「南京事件」を告発する人々
をいう。これに対し「まぼろし派」とは、「大虐殺」の不在を主張する
人々である。「中間派」とは、必ずしも「虐殺派」か「まぼろし派」に
区分できない人々を言う。11
2.「虐殺派」は「南京事件」は明治帝国憲法体制とそこから出現した軍国
主義の持つ侵略性と暴力性の象徴であるという「歴史観」を共有する。
そして日本国内に存続する政治や社会の保守的な体質を批判し克服しよう
とする。対外的な「政治姿勢」は反米(反安保)であり、日本軍国主義の
侵略対象となった国民党、共産党を含む「かつての中国」への同情と政治
姿勢を基本的に支持する。11
3.「まぼろし派」は、「虐殺派」の主張は連合国の戦犯裁判と軌を一にし、
自国民(日本)の歴史の歩みをいたずらに卑下する「自虐史観」であると
反発する。対外的な「政治姿勢」は、虐殺派と同様の「歴史観」をもって
過去の侵略への反省を迫る中国に反発する。12
4.「中間派」の「歴史観」と「政治姿勢」は必ずしも「虐殺派」と「まぼ
ろし派」の中間には位置しない。筆者(北村稔)は「中間派」が「歴史
観」 と「政治姿勢」において「まぼろし派」に親近感をもっていること
は間違い ない。12
5.虐殺派の代表は「南京事件」を発表した洞富雄氏、笠原十九司氏や吉田
裕氏が代表的研究者。まぼろし派には「南京大虐殺のまぼろし」を発表し
た鈴木明氏、田中正明氏、東中野修道氏。「中間派」を代表するのは「南
京事件-虐殺の構造」を発表した秦郁彦氏。13
●歴史研究の基本に立ち戻る
1.筆者(北村稔)は「南京事件」を研究テーマとして選ぶさい、南京研究
にまつわる「政治性」から一定の距離を保つことは可能であろうと考えた。
2.「南京事件」を確定したのは、南京と東京の戦犯裁判の判決書である。し
たがってこれらの判決書の内容を分析し、どのような論理の積み重ねで「南
京事件」の全体像が認識されたかを跡づける。すなわち、判決書が証拠とし
た欧米人や中国人の提出資料(書証)や証言の内容を検討し、判決書が断罪
する「南京事件」像が整合的に組み立てられるか否かを検討する。
●南京事件を確定した三種類の証拠資料
第一グループ
日本軍占領下の南京に留まった欧米人や中国人が、日本兵の行為を告発した
書物や記事。多くの資料が1938年から1939年中に刊行された。これらの資料に
は南京で大虐殺が発生したという記載は見いだせない。しかし告発された日本
兵の個々の行為が、大虐殺の構成要素として見なされた。23
第二グループ
1946年国民政府が南京で行った現地調査の報告。日本軍の1937年12月の南京
占領を体験した中国人の住民の証言と、国民政府により行われた遺骨発掘など
の報告から構成される。
個人で数千人、数万単位の大虐殺を目撃したという証言もあらわれた。数十万
人の遺体を埋葬したという慈善団体の証言も出現した。目下のところこれらの
資料の全体は台湾側からも中国からも公開されていない。23
第三グループ
南京と東京での裁判において、日本軍の南京占領を体験していた欧米人と中
国人が行った証言。第一グループの資料に登場する欧米人を含め、多くの共通
の証人が出廷した。24
■国民党国際宣伝処と戦時対外戦略
●国民党の表外交
1.劣勢な軍事力で日本と戦うことになった国民政府には、外交政策を駆使して
諸外国の支援を引き出すことが対日戦略の重要な柱であった。なかでもアメ
リカの支援をとりつけることが中心課題であり、正面からの外交活動が戦争
勃発後ただちに開始された。45
2.日中戦争勃発直後、1937年9月26日、国民政府駐仏大使の顧維釣はラジオの
電波を通じてアメリカ全土に向けて演説した。「中華民国を創建した革命の
指導者たちは、偉大なアメリカの政治思想家たちの啓発を受けました。中略。
中国が精神的支持と物質的援助を必要としていることは確かです。私は、偉
大な大統領(ルーズベルト)の指導下に中国を全力で支持し国際関係におけ
る法律と秩序を回復し、永く太平洋の平和を保たんことを心から希望します」
46
●裏面からの外交工作
1.ティンパーリーは国際宣伝処の曽虚白と会談した後、上海に戻ると直ちに国
民党の外交戦略を推進し始める。一つは、日本軍の南京政略の残酷さをメディ
アを通じて広く世界に告発し、あわよくば、これにより日本と第三国との間に
外交問題を惹起させること、もう一つは主要目的であるアメリカへの働きかけ
る。47
2.ノースチャイナ・デイリー・ニュースの社説の内容とは、南京で一万人以上
の市民が殺害され八千から二万人が強姦されたという内容だった。49
3.ティンパーリーは新聞記者の身分を隠れ蓑に国民党の外交戦略一翼を担った。
以上は中国の巧みなプロパガンダ(特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する意
図を持った行為である。通常情報戦、心理戦もしくは宣伝戦、世論戦と和訳され
る)であることを検証する。日本人はこの点においても実に稚拙である。そして
戦後も易々と連合国のプロパガンダに嵌められいる。連合国のプロパガンダに日
本のメディアは加担してきた。現在も加担しているメディア(新聞・テレビ)も
多い。
次回は南京事件に取りくむ視点と中国の情報操作についてかんがえてみます。そ
して日本のメディアが情報にいかに洗脳されているか考えてみたい。