■理念探究会115号

■理念探究会115号
◎大学卒業五十年周年記念の集い
4月中旬、琵琶湖を望む米原で開催された。留年した私も参加した。
6年前にグリークラブの1年後輩で、寮生活、下宿生活も共に過ごし、
学生時代に2冊の詩集をお互いに自費出版した畏友H君の勧めで参加
して以来、3度目の参加だ。
2年前参加したとき、尊敬するF氏に「黒田さん、太りすぎでしょう。
若い人たちに対して指導しているあなたともあろう者が」と苦言を呈
せられた。自覚していたが、これを機会に、再度減量に取りくみ始め
た。しかし、従来のやりかたでは、計画した通り進まなかった。加齢
と共に新陳代謝の変化があるようだ。妻の友人の勧めてくれた本を切
っ掛けに本格的に取りくんだ。
本の名前は「やってみました!一日一食」だった。この本をヒント
にして数冊の専門書も読み、納得して実践した。数カ月で九キロ近く
減量に成功した。(知人3名に伝授・大成功、知りたい方にはご説明
します)

今回2年ぶりにF氏に再会。途中報告もたまにしていたので、減量実
践を喜んでくれた。減量は血圧を下げ、全てに健康体づくりに効果が
あります。
人にはそれぞれ学生時代から想像できない人生がある。
卒業生120名余の内、参加者50余名。16時から23時まで、今回の幹
事の企画、気配のおかげで、延々と楽しみながら続いた。振り返る
と学生時代は、同じクラブかゼミを同じくした者しか余り知人はい
ない。幸い私は更に、寮生活を2年、副寮長の役を務めていたこと、
グリークラブの指揮者をつとめ、演奏会を聞きに来てくれた人達も
いて縁のある人たちも意外と多かった。
同期の人たちは振り返ると中国、近畿、中部地区出身者が多く、
一期校を失敗した人たちが大半だ。浪人の人たちもいる。真面目な
学生が多く、私のように留年している人は少ない。

●豪放磊落な人生の生き方・人間の魅力
大学に入りながらも、あまり授業にも出ないで雀荘に入り浸りのS
氏は、サッサと4年で卒業し、現在岐阜で建設会社を手広く経営し、
今も会長を務め、大学の支援や数々の役職を務めながら豪放磊落に
過ごしている。
当時副寮長として東寮の2回生を務めていた私は麻雀も好きだが、
授業にも出ることもなく没頭する1学年下の彼の生き方は理解の外
にあった。
数年前にあってみると、彼は諸先輩を含めて大学の卒業生の陵
水会で幾多の役を担って、お世話役を務めている。同期の仲間か
らも非常に慕われていた。友人の言を借りれば、大阪の名門高校
出身で元々頭のいい、賢い人間だったとの評だ。学業成績がよい
とか悪いとか、優の数がいくつあるとかの時点は越えていた生き
方を貫いて来た。
今回彼と話ながらも、なるほど、彼の魅力は幅広い経験に裏打
ちされた生き方の結晶で、人間味溢れている。文字通り大学の成
績がその人の人生を保証しない人物の証明だ。私達の大学では異
色の存在だったが、人を引きつける度量の大きい魅力ある人物だ。
学生時代だけでは到底判らない卒業後の人生の豊かさを教えてく
れた。今後も大学支援の大役を担って活躍してもらいたい。

●日本人の誇りを持った経営者
F氏は、大学時代はヨット部に所属し、全国的にも強かったク
ラブで、毎日がヨット漬だった。同じゼミだったが、大学時代に
ゼミであった記憶がサッパリない。大学の先輩が創業したマリー
ン関係の総合サプライ事業を営む、海外に十四~五の出先を抱え
活躍する会社に就職した。今から十年ほど前、縁があって、幹部
クラスの人達の情報統合技術を駆使した人生の経営計画研修を引
き受けた会社の社長がF氏だった。その時に、ゼミが一緒だった
と知ったわけだ。
当時、私は彼が社長を務める会社の事業内容や彼の社長として
の視点・哲学を理解するために、社長就任以来の年頭所感や、そ
の他様々な機会に社員や業界に向けて書き綴った文章を入手して
読み込んだ。その上でインタビューを試みた記憶が蘇る。
一九九七年社長就任を創業社長から打診されて以来の経営に関
する生き方をお聞きした。その時の感想は「私心のない、社員を
活かそうとする、会社を変革させようと決意、実践をしている社
長だった」「自己保身などの私心は全く感じさせない」そうであ
るが故に「社員から慕われる社長」だった。渋沢栄一の「論語と
算盤」「(科学=理性)と人間性」の統合された思想をもった人
だった。
業界として国際的にも深く関連のした仕事でもあって、65歳で
社長を退任し、その後2008年から会長を務め、その間後継の社長
の経営に対してには「一言の苦言」を呈することもなく、在任中
は取り分け海外の業界との交流を主として携わって来た。
国際的にも彼が世界のマリーン業界の会の会長としての役を務
めきったのも、理論的にも人間的にも世界の業界の利害関係を越
えて受け入れる、人間としての器・度量の大きさが人を引きつけ
ていたのであろう。
この度、2年ぶりに再会して、正に出光興産創業の出光佐三を彷
彿とさせる人物であると確信した。国際的にもリーダーシップを
発揮する誇りある日本人だ。

●奥様を癌で失った苦闘を越えて創業
卒業五十年の年月は同期の人たちにもいろいろな経験を与えて
いる。今回、お話しを聞いた二人の友人の体験を書きたい。交流
会での話なので、詳細は聞き漏らしたところはある。
Y内氏は、福井の出身の学生時代はバスケット部で活躍した。
長身痩躯のエネルギー溢れる人だ。彼のことを聞いたのは
、現在オーストラリアに移住しているラグビー部の俊英M殿氏の
紹介だった。彼をオーストラリアに訪ねて時、教えてくれた。Y
内氏はF銀行取締役をやめて創業し福井地域では大いに活躍して
いる人物だということだった。二年前の同期会でM殿氏に正式に
紹介してもらった。共通の先輩でコロムビアに勤務していた福井
のY本氏のことを切り口に簡単な自己紹介をする程度の話しかで
きなかった。

水泳をやっていて私も水泳をやっていることが切っ掛けに、長く
泳ぐための方法を教えてもらった。
その彼は、聞くところによると、F銀行取締役に48歳で就任し
た。しかし、奥さんが膵臓癌と診断されて、五十歳で銀行を退社
し、以来2年半闘病生活を共にして、53歳で見送ったそうだ。看
病の数年はいかばかりであっただろうと推察する。奥様を見送っ
た後、53歳の年に、敢然として創業に踏み切った。彼はその創業
の思いを企業理念のなかで次のように語る。
「私たちブレインズは、【全てへの愛】を共通の理念として、
掲げています。それは、今、急ぎすぎた20世紀をふりかえってみ
ると、人間が豊かさを求めるあまり、自然や他の生き物、時には、
人でさえも犠牲にしてきたように見えるからです。21世紀は「天」
「地」「植物」「動物」「人」のバランスが大切となります。全
ての愛を育み、思いやり、いたわりの心を育てることを、これか
らのテーマとして提案します。ときには、忘れがちだった自然の
素晴らしさ、命の大切さを、21世紀に向かって、訴えていきませ
んか!」と語る。
最愛なる奥さんを失って、その闘病生活のなかで考え続けた思
いを活かすべく事業を創業し20年、心に秘するところを以て悠々
と生きている。今年、社長の座を譲り、また異なる立場から生き
て行かれるそうだ。

●サラリーマン生活で稼いだ金を全て義母の借金返済にあてたも
う一人、K村氏の話を記す。K村氏はバスケット部出身、Y内氏
と同じ。私とは同じゼミだった。しかし、私は彼をゼミ時代はよ
く知らない。卒業後の就職先は聞き漏らした。彼の話はこうだ。
Y内氏によれば、学生時代から、責任感が強く、周囲の人に心配
りする人柄のだった。友として誇りに思っていると。
退職間近なころ、奥さんのお母さんが多額の借金をしていると
いう話が耳に入った。五千万円近かったという。何故借金したか
という話は聞きもらした。当時彼と奥さんは頭を抱えただろう。
世間は義母であり、仮に母親でも、自己破産をするなどの手があ
るはずだという。自分ならばどうするか自分の遭遇した問題とし
て考えてみたら一体どういう風に解決するだろうか?私なら、義
母の借金に対しては、全く責任をとろうとは思わないだろう。勿
論奥さんが、自分の母親に対して、可能な限り、返済を支援する
ことに対してはやぶさかでない。
彼はどうしたのか?彼は退職金も貯金も叩いて、奥さんのお母
さんの借金五千万円を完済する道を選んだ。その話を彼の口から
聞いた時、「同期に中にもこんな人間がいるのか」と驚嘆した。
そして人間として男らしい、日本人らしい生き方を貫いた人間だ
と敬服した。

この二人の話を三次会での少人数の席で耳にした。淡々と語る彼
らは気負いもなく爽やかに生きている。退職以降の時が、それぞ
れに新しい人生を開いている。その人生の決断がその人の人生の
使命だったのだろうと感じた。文字通り「幸福は最初は不幸な形
をして現れる」のが常であるという、永海佐一郎博士、森信三先
生の言葉の本意を知らされる。
◎能力開発115号
●マッカーサーも後に東京裁判は失敗と発言
「マッカーサーと共に日本にありて」の著者シーボルトは東京裁
判の方式や、裁判の合法性自体を疑問とし(同所130頁)、また
マッカーサー自身も米国上院の委員会で「東京裁判は失敗であっ
た」と証言したと言われている。57
以上、清瀬一郎・秘録東京裁判より
(注)昭和二十六年五月アメリカ上院の軍事外交合同委員会でマ
ッカーサーは次の二つの重大発言をした。①日本の戦争は自衛戦
争である。②アメリカが過去百年に太平洋で犯した最大の政治的
過ちは、共産主義者が支那において勢力を増大していくのを黙過
してしまったことである。 以上が、先月号の最終まとめです。
●何故、判決(昭和二十三年十一月四日)の二年半後、マッカー
サーは大東亜戦争は「自衛戦争であったと、証言したのか?
時系列に当時の出来事を記す。そして今回は東條英樹の口供書
・遺言を記し、その後の経過をへて、マッカーサーの証言を再確
認する。
1946年 5月 3日 東京極東裁判開始
1948年11月 4日 東京裁判判決
1948年12月22日 東條英樹、執行前夜に教悔師・花山師に書き上
げた遺言を読む
1948年12月23日 処刑
1948年 8月13日 大韓民国(韓国)独立宣言、朝鮮民主主義人民共
和国(北朝鮮)
1949年10月 1日 中華人民共和国建国
1950年 6月25日 朝鮮戦争勃発・中華人民共和国参戦
1951年 5月 3日 アメリカ上院の軍事外交合同委員会でマッカーサ
ーは証言する。
1953年 7月27日 休戦
■東條口供書
1. 昭和21年4月より、毎朝一回東條英樹氏と面会し東條氏の言うこ
とを筆記して帰り、翌日調べて本人に見せ、前日の文章を訂正
したこともあった。こうしてできたのが、東條口供書である。
筆記して帰ったものを英文に翻訳し、共同弁護人ブルーエット
君に正しい英文に直してもらった。147
2. この口供書は日本字タイプライターで220枚になるが昭和15年
7月22日第二次近衛内閣入閣から、昭和19年7月18日まで、4年間
の日本の政治の推移、軍事の動向を綿密にまた、正直に記載し
た書類である。この東條口供書は歴史上重要な書類になる。148

■口供書の内容の末尾を転載
●終わりに臨み、当法廷の規則の上で最後の機会であろうが、私は
(東條被告)ここに重ねて申し上げる。
●日本帝国の国策ないしは、当年、合法にその地位にあった官吏の
とった方針は、侵略でもなく、搾取でもなかった。一歩は一歩よ
り進み、また適法に選ばれた各内閣はそれぞれ相承けて、憲法及
び法律に定められた手続きに従い、ことを処理して行った。
●当年、国家の運命を商量較計するの責任を負荷した我々としては、
国家自衛のために起つということが唯一残された途であった。
我々は国家の運命を賭した。しかし、敗れた。戦争が国際法上よ
り見て、正しき戦争であったか否かの問題と、敗戦貴責任いかん
の問題とは、明白に分別できる異なった問題である。152
●第一の問題は外国との問題であり、かつ、法律的性質の問題であ
る。私は最後までこの戦争は自衛戦であり、現時承認せられたる
国際法には違反せぬ戦争なりと主張する。私は未だかつてわが国
が本戦争をなしたことをもって国際犯罪なりとして、勝者より訴
追せられ、敗戦国の適法なる官吏たりし者が個人的な国際法上の
犯人なり、また条約の違反者なりとして糾弾せられるとは考えた
こととてない。
●第二の問題、すなわち敗戦の責任については、当時の総理大臣た
りし私の責任である。この意味における責任は、私はこれを受託
するのみならず、衷心より進んでこれを負荷せんことを希望する
ものである。
昭和22年12月19日於東京市ヶ谷 供述者 東條英樹
立会人清瀬一郎152

■東條の遺言の摘記
昭和23年11月4日より、ウエッブ裁判長は判決書を読み続け、12日
午後3時55分より刑の言い渡しがあった。
東條は私(清瀬)に対しては、再審査請求せぬように頼み、一日も
早く刑の執行があるように願った。教悔師の花山信勝師が22日東條
英樹との最後の面会で、遺言を読んでもらいその要点を摘記してお
いて、清瀬君その他へ告げましょうと述べた。用紙20枚ほどしたた
めた遺言をゆるやかに読まれた。196
●(天皇の地位)天皇陛下の御地位および陛下の御存在は、動かすべ
からざるものである。存在そのものが必要なのである。それにつき、
かれこれ言葉をさしはさむ者があるが、これらは空気や地面のあり
がたさを知らぬと同様なものである。
●(東亜諸民族)東亜の諸民族は、今回のことを忘れて将来相協力す
べきものである。東亜民族もまた他の民族と同様の権利をもつべき
であって、その有色人種たることをむしろ誇りとすべきである。イ
ンドの判事(パール判事)には、尊敬の念を禁じ得ない。これをも
って東亜民族の誇りと感じた。今回の戦争にて、東亜民族の生存の
権利が了解せられはじめたのであったら、しあわせである。列国も
排他的な考えを廃して、共栄の心持ちをもって進むべきである。
●(米国に希望)どうか日本の米国に対する心持ちを離れしめざるよ
うに願いたい。また、日本人が赤化しないようにたのむ。
東亜民族の誠意を認識して、これと協力していくようにしなければ
ならぬ。実は、東亜の民族の協力を得ることができなかったことが、
今回の敗戦の原因であると考えておる。
●(アジア大陸赤化の情勢)極東の大勢は、終戦後わずか三年にして、
アジア大陸赤化の形成はかくのごとくである。今後のことを考えれ
ば、実に憂いなきを得ぬ。日本が赤化の温床ともならば、危険この
うえない。
●(日本の心を失うなかれ)日本は米国よりの食糧その他援助に感謝
している。しかし、一般人が生活の困難や、インフレや、食糧の不
足などを米軍の日本にあるがためだというような感想を持つように
なったならば、それは危険である。米軍は日本人の心を失わぬよう
注意すべきことを希望する。
●(米国指導者の失敗)米国の指導者は、大きな失敗を犯した。それ
は、日本という赤化の防壁を破壊し去ったことである。いまや満州
は赤化の根拠地である。朝鮮を二分したことは東亜の禍根である。
米英はこれを救済する責務を負っている。
●(新たなる戦犯逮捕をやめよ)今や戦後三年を経ている。新たに戦
犯を逮捕することは即時やむべきである。戦犯の逮捕は、我々の処
刑をもって、一段落として放棄すべきである。
●(靖国神社への合祀)戦死傷者、抑留者、戦災者の霊は、遺族の申
し出あらば、これを靖国神社に合祀せられたし、出征地の戦死者の
墓には保護を与えられたし。遺族の申し出あらば、内地に返還せら
れたし。戦犯者の家族には、保護を十分に与えられたし。
●(青少年の保護)近時いかがわしき風潮は、占領軍の影響から来て
おるものが少なくない。この点について、わが国古来の美風をも十
分考慮にいれられたし。以下略

以上が死刑執行数時間前に、花山師の前で東條が朗読した遺言の摘
要である。その後、19年の月日が経った。この遺書の原本は再三にわ
たりGHQへも米陸軍にも交渉したが、今日に至るまで返って来ない。
203(秘録・東京裁判・清瀬一郎)

以下、マッカーサーの証言の邦訳文を転載する。この証言を読むと、
東條英樹の口供書・遺言の重みが新たになる。東京裁判の姿が浮かび
上がってくる。

●米国上院軍事外交合同委員会におけるマッカーサー証言です。
問 では五番目の質問です。中共(原稿は赤化支部)に対して海と空
から封鎖してしまへといふ貴官の提案は、アメリカが太平洋において日
本に対する勝利を収めた際のそれと同じ戦略なのではありませんか。
(一部旧仮名遣い)
●答・その通りです。太平洋において我々は彼らを迂回しました。我々
は包囲したのです。日本は八千万に近い厖大な人口を抱へ、それが四つ
の島の中にひしめいているのだといふことを理解していただかなくては
なりません。その半分近くが農業人口で、あとの半分以上が工業生産に
従事していました。
●潜在的に、日本の擁する労働力は量的にも質的にも、私がこれまで接
していたいづれにも劣らぬ優秀なものです。歴史上のどの時点において
か、日本の労働者は、人間は怠けている時よりも、働き、生産している
時の方がより幸福なのだといふこと、つまり労働の尊厳と読んでよいも
のを発見していたのです。
●これほど巨大な労働力を持っているいふことは、彼らには何か働くた
めの材料が必要だといふことを意味します。彼らは工場を建設し、労働
力を有していました。しかし彼らは手を加へるべき原料を得ることがで
きませんでした。
●日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何も無いのです。彼ら
は綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫が無い、ゴムか無い。
その他実に多くの原料が欠如している。そしてそれらの一切のものがア
ジアの海域に存在していたのです。もしこれらの原料の供給を断ち切ら
れたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであらうことを彼ら
は恐れていました。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、
大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。(東京裁判日
本の弁明・小堀桂一郎編・546)
次号から東京裁判の仕組・その流れの中から取り上げられている南京事
件を取り上げます。GHQやって来た言論統制と加担したメディア、N
HK、戦後利得者の姿が浮かび上がってきます。