■理念探究会113号

■理念探究会113号
◎その一、全人的決意の人は猪突猛進でなく 転換もまた決然となしうる 
3年ぶりにブラザー印刷の岡田さんを訪ねた。一年が経つのが早く、毎年年賀状をみると、「そうだこの人にあっていない。今年は会っておこう」という思いが沸き上がってきた、今年は会いたいと感じた人にあう計画を年間計画に組み込むことにしました。そう感じるのも、弟の突然の死や大学のグリークラブの同窓会のあと連絡がないので電話をしてみたら「入院をしている」「いつ退院なの」と問うと、「間もなく」という奥さんの言葉にほっとしていると、突然逝去しましたという報が入る。そんなことも重なると最近会っていない人には会って置こうということで、恵那訪問の帰りに名古屋に泊まり、翌朝岡崎を訪ねた。
彼は若くして白髪でダンデーな青年だったがもう、おつきあいして30年、MG・脳開・MT(マイツールパソコン)の経営改革を目指した同志でもあった。私も四十代の頃、東京は和環塾、名古屋は愛環塾など各地に経営者の勉強会を組織して活動して
いた。岡田氏は取り分け私が講師を務める「能力開発」を長く開催してくれた。私の主催する会や著書や諸々の出版を一手にお願いしている。「メールで今生のお別れに参ります」と言ったら、「私は百二十八歳までいきます」と返って来た。彼は私にとって正に「畏友」でいつも刺激を与えてくれる。岡田さんは「黒田さんの前だと何でも話ができるんですよ」と言ってくれる。

今回の話は面白かった。というよりも爽快だった。
企業の求心性と社員の自立性を平行育成
私も五十歳からの仕事の中心を「個人・企業の理念制定支援」においている。理念を制定して企業目的(志)を明確にすると、事業設計を立案し、実務の世界が始まる。
経営の目的をはっきりさせて、経営している経営者は実際には少ない。多くは会社存続と利益の創出が目的で・そのための努力を営々とつづける。また企業に勤める人たち(サラリーマン)の多くの人たちは、殆どの人が自分の生活を営むことが第一目的になっている。そして今の世界の状況は大きく変わり、大企業がサラリーマンの一生を保証してくれないにも関わらず与えられた仕事に精を出して日々を過ごす。
しかし、突然その企業が、あるいは業種が消滅するにも関わらず、その日まで安閑として過ごす。これを茹で蛙現象という。蛙はじわりじわりと温度が上がっているうちに外に逃げ延びる切っ掛けを失って、ゆで上がり一貫の終わりになる。
自立こそ、その人の人生を活かす
この3年間で最も変わったことは、売上げを減らし、社員を減らし利益体質に転換していることだ。彼には印刷業のなかで技術的に先端の仕事を進めてきた。17年前に2億円の投資をして、オンデマンド印刷に取りかかり、分社をつくり、取り分け社員教育にも力を入れてきた。それから教育にも力を入れてきた。以来十数年、意図したように残念ながら社員の自立性は強まらなかった。むしろ居心地のよい環境は
彼らの自立心の阻害になった。
ある時、仕事の関係で、一人の若い世代の女性に会った。彼女は会社の目指す方向については共感した。数年後、その彼女が縁あって、会社に勤めることになった。岡田さんが是非にと入社を勧めた。会社に入ると、目指す方向については共感するが、一人一人への指導が甘いと叱咤された。企業は利益を出すことも必要ではないか。今のままの体質でいいのかと黒字転換計画を進言し、彼はそれを了承した。以来3年、売上げ減少、人員減少、利益増の結果を生みだしている。
困難を乗り換えてこそ人は育つ
社員の居心地のよい会社は果たして、社員にとってよいことなのか?最近の電通の女性社員の自殺問題から、残業を制限するなど、まるで社員を子供のように扱う風潮がある。
電通の鬼十則を社員手帳から外したという。おかしな話しだ。
楽して儲かることなどない。西洋型の経営では最小労力で最大効果を狙う。そんなことが現実にあるだろうか。他人と同じことをやっていて最終のお客さんから評価されるだろうか?あり得ない。
お客さんは、「そこまでやるのですか?」という姿に感動する。社長歴17年。二度目の転換を愉快に進めている。
自立連帯経営
私が社員の自立を促す「自立連帯型経営」を推進する訳はそこにある。こういう言い方をするとはサラリーマンを長くつづけた人は立腹するかも知れないが、「個人の自立のないところにその人の生きがいは見いだせない」。人間は自分が独立して自分の食い扶持を自分で稼ぐところにその人の持っている能力の発揮がある。甘い
環境、居心地のよい、福利厚生などの整った会社を由とする風潮が、最近益々増えてきた。実はこのことは人間を堕落させる最大の要素だ。
岡田さんの敢然たる転進に喝采を送りながら、休日の社長室でワインを一本開けた再会だった。畏友・岡田氏いまだ衰えず。
◎その二、理念が転換を支える
 いままでの産業が消滅する時代
ある産業が永久に続くここはない。私が大学を卒業した1967年頃は繊維関係の仕事が産業界を風靡していた。成績の優秀な人は多くが、繊維業界を目指した。私の友人が入社した三菱レーヨン、日清紡、鐘紡、東洋レーヨンなど名だたる一部上場企業は今、仕事内容は殆ど以前の姿ではない。三菱レーヨンに勤めてきた幼なじみは、社名を変更し三菱グループで統合するようだと教えてくれた。大企業は企業転換も果敢に行う。今フジフィルムが化粧品分野で出色の業績を上げているのはご存じの方も多いだろうが、しかしかつて、かの有名なインスタントカメラのコダックは一瞬にして消滅した。
私が勤めていた電機業界の日本コロムビアは1998年リップウッドに身売りして今は細々と高級オーディー機器をマランツと経営統合して製造販売している。
1970年代は正にオーディオブームだった。高度成長と重なり毎年売上げを伸ばし面白くてたまらない時期も経験した。また会社再建で数年にわたり管理職の賃金カットやボーナスの代わりに、カラーテレビを十台支給されたことがある。
事業の転換への提言
私が会社をやめた理由は「経営幹部=役員」が自分の保身しか考えていないことを体験したからだ。私の事業構造の転換についての提案を、「なるほど、黒田の言う可能性も確かにある。しかし、まだわたしが役員をしている間は大丈夫だ」と一蹴された時に、私は日本コロムビアをやめようと決心した。そしてやめた後5年後日本コロムビアは事実上消滅した。そして同じく電機業界はビクターしかりケンウッドしかりパイオニアしかり。今はその産業自身が衰退している。幾多の名だたる銀行、百貨店、スーパーも消滅している。どんな産業も何れは消滅する運命にある。
事業転換の決意は容易ではない
私の関係する会社がある。ここ数年の傾向については赤字がつづき、この産業自体が凋落傾向にある。しかし、業態自身を転換させると決心することは容易ではない。それまで五年の準備機関と今後の見通しを立てた。中小企業の経営者にとって口で
言うほど簡単ではなく、決心を躊躇することだ。外部からは理屈はいえる。消滅の予想もいえる。しかし経営者にとってなかなか決断はしかねる。
理念は事業構造の転換を支える
社長は苦悶していた。数字の面を全面的にアドバイスしているS氏とここ数年事業構造転換を勧めてきた。解答の見えない相談。一月沖縄での経営合宿では、まだ決断ができない。そして2月社長とS氏と二人の合宿でも結論が出ない。一週間置いた合
宿で、社長が決然と意思決定した。その報告を改めて聞いた。驚いた。それまで幾多も議論した問題を解決する方向で結論を出した。企業理念のなかの社志に、

一、社会に役立つ自立した人材を育てます。そして経営姿勢に一、若々しい組織とし    て脱皮を続けます。という項目がある。社長は再びこの制定した理念に帰り、構造改革を決心した。その内容社長自らの口から伝えられたとき、私は理念の価値を再認識した。これから具体的に進めることになるが、グループ社員全員が一丸となって一
層、社会的自立性の高い人材に育ってほしいと心を熱くした。
私の尊敬する「出光興産創業者の出光佐三は次のように言っている。出光には「人間をつくることが事業であって、石油業はその手段である」というようないい方があるのです。出光には二つの定款がある。一つは法律上の定款であって、これは石油業を行うこと。もう一つは信念上の定款。「われわれは石油業をやっているのじゃない。人間が働けばこういう大きな力を発揮する。そして一人一人が強くなり、一致団結して、和の力を発揮したときには少数の人でも、こんな大きな力が現れるのだと
言うことを現して国家民族に示唆を与える」事業は目的ではない。手段だ。その上位にあるものが企業の目的だ。目的が明確ならば事業構造の転換も決然となすこ
とかできる。

 

■能力開発

■閉ざされた言論空間・東京裁判
■太平洋戦争史の影響
初めに、今回からいよいよ東京裁判について検証していきたい。東京裁判(昭和21年5月3日開始~昭和23年11月12日結審)は実は連合国側の意図が明確にあって、その方針に従って展開されている。しかし連合国にも進行に齟齬を来し、幾多の矛盾した点が出ているが、順次述べていきたい。今回は、東京裁判の疑問点をあげ、言論統制との繋がりをみたい。次回から各疑問点を検証することにする
太平洋戦争史の新聞掲載第一回は昭和20年12月8日に開始され、本として上製されたのは昭和21年3月30日である。裁判が開始されたのは21年5月3日。このことは連合
軍による裁判の方向は、上梓された太平洋戦争史に添う形で、裁判が展開され判決が出されたことを意味する。
■東京裁判に関する疑問
東京裁判を見るには、いろいろな疑問がある。疑問その一、法の不遡及ということを無視して、事後法によって裁いた。「平和に対する罪」「人道に対する罪」は事後法で、法の不遡及については、日本側の主張に対して「その問題は後まわしにすると保留したまま、結審にいたるも、遂に裁判官側は答えなかった。清瀬一郎弁護士の管轄権論争は法理論としてはるかに理が通っているのだが、裁判全体が戦後審理に支配され感情にとらわれている
その二、判決文には「東京裁判はニュルンベルグ裁判の原則をそのまま踏襲した」とある。ニュルンベルグ裁判の「人道に対する罪」という訴因は、ユダヤ人迫害とか絶滅とかに対して設けられた。日本にはそんなものはなく、日本に遭ったのは通常戦争犯罪だった。ニュルンベルグの規定をそのまま持ち込んだので、ユダヤ人虐殺と南京虐殺とが同一視された。
その三、証拠の却下。判決文には次のようにある。「提出された証拠のうち、特に弁護側側によって提出されたものは大部分が却下された。それは主としてまったく証明力が殆どないか、全く可憐性がないか、非常に希薄な関連性しかないため、裁判所の助けにならなかったである」。
その四、多くの無辜の市民を殺傷した「人道に対する罪」は日本だけに課せられるべきものなのだろうか。裁判ではダブルスンダードが通用するものであろうか?原則には「無辜の市民を殺傷すべからず」とあるが、広島、長崎への原爆投下はこの規定に触れないのか。
その五、日ソ間には中立条約は有効だった。日本はソ連を侵略したことはなかったが、ソ連は日本を侵略した。にもかかわらず裁判にはソ連の堅持が出てきて「ソ連に対する日本の侵略」という糾問をし、ソ連判事がそれを認めた。強盗が判事になって「強盗は被害者である」と判定した様なものである。
裁判の記録「25被告の表情」
昭和23年4月5日「25被告の表情」として読売法廷記者が共著で裁判の進行を上梓している。清瀬一郎弁護士の簡閲による。この本は出版直後GHQによって発禁命令が出され、絶版。五千冊が世に出た。2008年復刻委員会が今日、出版して、誰でも読むことができる。
■日本人洗脳計画
●新聞は昭和20年9月1日より6年半にわたって、事前検閲が実施された。
日本人が知らされていなかったことが、毎回の裁判の様子が新聞で報道されるに従って、国民に影響を与えたことは言うまでもない。しかも、太平洋戦争史の新聞掲載と同時に裁判の様子も伝えられている。新聞掲載後、その後、ラジオによる「真相はこうだ」に引き続き「真相箱」が日本人洗脳計画に執拗に利用されたことがわかる。
以下、江藤淳・閉ざされた言論空間より
●学校教材に活用
1、太平洋戦争史なるものは、戦後日本の歴史記述のパラダイムを規定するとともに、    歴史記述のおこなわれるべき言語空間を限定し、かつ閉鎖した。また学校の教材として採用された。(全国の中学校に10万部配布され、副読本として使用された)264
●ラジオによる同時洗脳工作
2、新聞掲載と教材採用にとどまらず、精力的にラジオのキャンペーンを展開している。「真相はこうだ」がそれである。
「真相はこうだ」は「太平洋戦争史を劇化したものである。1945年12月9日から1946年2月10日まで10週間にわたって週一回放送された。同時に日本の放送ネットワークに「真相はこうだ」の質問箱を設けた。273
3、「真相はこうだ」の放送が終了した時点で、この質問箱は「真相箱」となった。この番組は41週つづき、1946年12月4日に終了した。この番組には毎週平均900通から1200通の聴取者からの投書が寄せられた。つまり、学校教育に「ウォー・ギルト・
インフォメーション・プログラム」を浸透させると同時に、ラジオというメディアを、社会教育のために最大限活用した。274
●東京裁判開廷に先立ちメディアに対する解説と指示
4、一方、戦争に関する罪や、破滅をもたらした超国家主義に直接言及し、罪悪感を扶植する努力もなおざりにされていない。1946年6月東京裁判開廷に先立ち、記者会見を行い、国際法廷の目的、手続きについて入念な解説をした。275
5、A級戦犯については、全面的なWDIP遂行し、裁判に関する一切の情報を日本の新聞に取得させるために注意をはらい、特に、検察側の論点と検察側証人の証言については、細大漏らさず伝えられるようにしている。276
■極東国際軍事裁判
●国内外の原爆に関する贖罪意識の芽生え
6、昭和23年・1948年2月6日現在、極東国際裁判の最終論告、最終弁論を控え緊迫した情勢にあった。民間情報教育局は以下のように考えていた。
7、合衆国内の一部科学者、聖職者、作家、ジャーナリストおよび職業的社会運動家達の論説や公式発言に示唆され、日本の一部の個人ないしグループが、広島と長崎の原爆投下に「残虐行為」の烙印を押し始めている。さらに、これらアメリカ人の間に残虐行為に対する贖罪の感情が次第に高まりつつある。280
●東條英樹の評価に対する危惧
8、東條は自分の立場を堂々と説得力を持って、陳述したので、その勇気を国民に賞讃されるべきだという気運が高まりつつある。この分で行けば、東條は処刑の暁には殉国の志士になりかねない。280
9、これらの態度に対抗するため、今一度繰り返して日本人に、日本が無法な侵略を行った歴史、特に日本軍が行った残虐行為について自覚させるべきだという提案がなされ、なかんずくマニラの掠奪日本軍の残虐行為の歴史を出版し、広く配布すべきで、広島と長崎に対する原爆投下への非難に対抗すべく、密度の高いキャンペーンを開始すべきだという示唆が行われた。281
●各界の影響力ある指導者に対する懐柔
10、本キャンペーンの基本方針、方法が決められた。ひとつは影響力のある編集者、労働界、教育界および政界の指導者とつねに連絡を蜜にすること。進歩的、自由主義的グループの組織発展を奨励すること。282
11、特定の方法として新聞に対して民間情報教育局・新聞出版班は日本人編集者と連絡を維持し、東條および他の戦争犯罪人裁判の最終弁論と評決について、客観的な論説と報道が行われるように指導する。広島に関する報道も任務である。283
以上は、言論統制、事前検閲の上で仕組まれた施策であることは論をまたない。