逆境練機 転原自在 経営進化 互恵共栄
●昨年は私達にとっても新たな出発の年になりました。
3月には23回目の理念探究会も最終回を迎え、新たに6名の
制定者が誕生し六月の理念制定企業の集まる16回目の快労祭で、
理念制定式を行いました。
●累計で40社の理念企業を支援し、引き続き制定企業の社長を
対象にした理念実践会を、五月より茨城と岡山で開校しました。
30~40歳の社長と実践と研鑽の理念実践会を始めました。また
地元の経営者啓発会も始めました。
●5月には縁があってロシア・モスクワ、サンクトペテルブルグ
を訪ね美術館での盗難にあい、改めてほぼ安心して暮らせる日
本の環境の良さ一方、世界は寸分たりとも油断ができないと身
をもって体験しました。
●旅の初日に、古希を迎えた弟が軽井沢で急死したとの携帯へ
のメッセージに驚き、誰にも予告なく死が訪れてくる人生の摂
理を深く考えさせられました。夏には姉の主人が88歳で逝去し
ました。
●十一月には益田Mランド・小河会長のお孫さん吉彦氏の結婚
式に招かれました。式の冒頭、Mランドの未来構想をテーマに
講演会もあるユニークな会でした。
●会長94歳、矍鑠としたお姿に感嘆、90歳まで健康で生きるに
は取りくむべきテーマと健康がなければ、到底不可能。私は今
年取りくんでいる日本の近代史の世界の展開がテーマです。
●まずは、80歳を目指し、楽しみにあふれる構想実現に邁進し
ます。
2017年(平成二九年) 初春 黒田 悦司
■理念探究会111号
志ある経営者・人間尊重の経営・出光佐三の生き方
進化経営学院では、出光佐三の著書を課外テキストとして使って
きた。私が最初に出光佐三の著書に出逢ったのは、1971年「人間尊
重の事業経営」であった。そして「読書会で「日本人に帰れ」を読
んだ。振り返るとその延長線上に、独立創業があり、小説「海賊と
呼ばれた男」を進化経営学院の参加者に読んでもらい、以来、副読
本として「出光佐三・魂の言葉」「働く人の資本主義」「マルクス
が日本に生まれたら」「日本人に帰れ」「人の世界と物の世界」を
使ってきた。
今回映画「海賊と呼ばれた男」を妻と見た。何度も涙しながら私
達の目指す「理念ある生き方」「理念のある経営」と重なり合うの
を感じた。進化経営学院・理念にかかわる人達には、是非、見てい
ただきたいとお勧めしている。今回、『マルクスが日本に生まれた
ら』(初版1966=昭和41年)をポイントレビューした。
映画を見て、改めてポイントレビューを読んでいただければ幸いだ。
日本人の本来もっている生き方、会社経営の理念がはっきりと浮か
び上がっている。
●人間尊重をわれわれの金科玉条とせよ
いかなる主義も、必ずある部分真理を有し美点をもっている。こ
れらは日本の偉大なる国体に咀嚼され、日本国の栄養となり、日本
の国体に包容せられて真の発達をなす、仏教しかり、儒教しかり、
芸術文化しかりである。われわれは国民の一員として、外来の何も
のをも咀嚼し、摂取して国家の発達、国威伸長の資料とする準備を
しておけばよい。それには個人として切磋琢磨、国民として修養し
ておけばよいので、実力ある国民の要らないはずはない。自己を信
じて迷うべからず。(紀元二千六百年を迎えて・1940年)12
●日本の家族主義について(日本と外国の違い)
日本の家族主義は、親子兄弟仲良く暮らすという平和な、しあわ
せな姿として、世界に誇るべきものなのだ。家族の中に中心があっ
て、そのもとに、皆が愛情と信頼でつながっている。愛によって育
った人は、純情であって人を疑わず信頼するから、一致団結する。
これが日本の和の精神のもとであり、その小さな現れが家族主義、
大きい現れが日本国、無防備の皇室、無防備の国民ということだ。
その反対に、いじめられて育った子は疑い深く人を信頼しない。そ
こで個人主義になり、権利思想になるのは当然である。これが日本
以外の征服・対立闘争の外国である。46
●マルクスとぼくの考え方の相違
西欧民族と日本民族の違いということになるね。別の言葉で言え
ば「物の国」と「人の国」の違いということになる。西欧民族の祖
先は我欲・利己の先祖だ。我欲・利己のために善悪を問わず征服し
てしまう。この制服の形を最もよく表しているのが、城壁の中にた
てこもって、その周囲に国民大衆がおるという姿だ。西欧ではエン
ペラーやキングなどは城壁にとり囲まれその中に住んでいた。これ
は朝鮮や中国も同じ。はなはだしい例が、万里の長城だ。52
●出光には資本家の搾取がなくて、全員が経営者である
創業のとき日田重太郎さんが資金を恵まれて、「この金は返済し
ないでよい、利子もいらない」と言って、何もとっておられない。
ぼくも資本家の横暴に反抗して出発しているから、搾取などするわ
けがない。出光では従業員全部が経営者であると言える。従業員と
ぼくとの間に区別をつけていない。
仕事の上ではお互いに独立して、ぼくはぼくなりに仕事をしておる
し、従業員は従業員なりの仕事をしておる。
言い換えれば各自の受け持ちの仕事の上では、お互いに自主独立の
経営者だ。出光の若い人が「私は経営者です」と言っているそうだ
が、それは皆が権限の規定もなく、自由に働いているということで
あって、ぼくはこういう形が理想だと思う。74
●組織は心の中にある
組織や規則は形式であって、ほんとうの組織・規則は各自の心の
中にある。これをすべきかすべきでないか、やってよいか悪いかな
ど、各自が心の中で判断していかなければならない。組織や規則は
できるだけ少ないほうがよい。組織は形式として必要だが、形式に
縛られてはいけない。そして、これができるのは日本人だ。76
●日本の和
外国の経営は「和」ということがない。外国では権利を主張して、
お互いが対立しているから、譲り合うということはないだろう。そ
こで、対立している人を組織でつなぐことになる。日本人に言わせ
ると、それは烏合の衆であって、人数ばかり多く要し、しかも力は
弱い。日本人にとって組織は形式的なもので、お互いが心でつなぎ
合っている。それが日本の和だ。77
●尊重すべき人間は愛情と鍛練によって育つ
社員全員が経営者ということは、上に立つ人が、愛をもって従業
員を育てる、そして自ら率先して、努めて難関に向かってこれを鍛
練する以外にはない。愛によって鍛練する、鍛練は口先で従業員を
鍛練するのではなくして、上のものが身をもって先に立つというこ
とだが、そこに始めて尊重される人間ができてくる。出光では開店
から終戦、現在までぼくがいつも先頭に立って、社員と共に苦
労している。出光の若い人が強いのもそこに原因がある。85
●難関を歩く
こいういう行き方は、経済学で言う経済原則とは全然違う。経済
学では、最小の労力をもって最大の効果を収めるという、なるたけ
働かずイージー・ゴーイングで金を儲けるということになるが、ぼ
くはその行き方を採らなかった。ぼくは自ら選んで難関を通ってき
た。難関を通るということは、人を養成する。難関の道を歩いてき
た人は、次の難関も容易に乗り越えることができる。最小労力、最
大効果の原理は「物の国」の考え方、人を重んじる「人の国」では、
人を養成することが大事だから努めて難関を歩くと言うこと
になる。86
●出光の七不思議・馘首がない
出光には馘首がない。入社した社員は子供が生まれたという心持
になって、愛の手を伸ばして育てることになっている。親と子供の
関が親愛の情をもって結ばれるのは世界中の人も同じだが、他人に
対しても子供が生まれたという感じをもちうるのは、日本人の特徴
じゃないかと思う。ところが子供は難関にぶつかるとやめたがる。
子供が途中でやめるとその人は人間としては、既に落後しているこ
とになるとうい考え方からやめさせなかった。87
●やめさせないことが本当の親切
外国の経営学からいえば、一つの会社に織っても、高い給料をも
って迎えにくるところがあれは、そこに行く。そういうふうに、い
くつも会社を変える人が有能な人とっているようだが、遣りかけた
ことは、事の如何にかかわらず終始一貫やれ、というのが僕の方針
だった。ぼくはやめさせないことが、ほんとうの親切であるという
のでやめさせなかった。これが本当の人間愛じゃないかと思うんだ。
88
●馘首・定年制・労働組合がない
出光には馘首がなく、定年制もなく、労働組合もない。この3つ
の事は、人間を愛情で育てた結果だと思う。前にも言ったように、
愛情によって育った人間は非常に純情であるから、おたがいが人を
疑わず信念の念が強い。そして互譲互助の日本精神を知って一致団
結、和の精神、呼吸とかいうものを会得しておるから、少数で非常
に力強い威力を発揮することになる。これが、出光の今の形だ。90
●貧乏は社会の仕組みの問題か、心がけの問題か
貧困の問題を物の面からだけでは考えない。人間は食べなければ
生きていけないが、それは足りればよいのである。それとは別に心
の富がありはしないか。東洋では「足るを知る者は富む」と言うが、
自ら満足することが大切だ。「物の国」では、金とか物とか物質的
なものが、富となっているが、「人の国」では、心の富・心の豊か
さというものがあると思うんだ。心に善悪はなく、心はすべて真心
だと思う。真心があれば、人に親切にしたり、社会の為に尽くした
り、自分が譲って人を助けたりする、善い行為が出てくる。170
●心の富貴の人になって、金を持った貧乏人になるな
よく物の面の豊かさを外国と形式的に比較して、まだ追いつかな
いというが、なにも外国に物の面で追いつかなくてもいいじゃない
か。それよりも外国の人に向かって、心の豊かさと心の富のあり方
に追いついてこい、それが平和に通ずる道だ、と教えてやったらど
うだい。心の富貴の人になって、金を持った貧乏人になるな、とい
うことだ。171
●主義の奴隷になるな
民主主義の実体について、日本人は一度考えてなおさなければな
らないのじゃないかね。ぼくが考えるに、民主主義の「民主」とい
うことは外国には日本の皇室のような中心がないから、それに変わ
るべきものとして言い出したのじゃないか。民衆、大衆が主人であ
り、中心であると。いい言葉ではないが昔は「衆愚」と言ったもの
だ。愚というとひどいから「凡人」、「凡」。
大衆は凡人なんだ。「衆凡」をいくら集めても凡であることは変
わりない。衆凡を集めた政治は駄目だ。今日の議会政治の行き詰ま
りを見ればわかる。187
◎脳力開発
■朝日新聞の罪・吉田清治・慰安婦報道に見る虚報の連鎖
朝日新聞の紙面は私達1960年~70年の自意識過剰な学生にとって
は、常識だった。朝日ジャーナル、雑誌「世界」は理解できなくて
も持っていること、その情報を振り回すことが自尊心を満足させて
くれた。
学生運動は、ある意味で、田舎から都会に出てきた都会へのコン
プレックスをもった学生の多くが訳もわからぬまま巻き込まれてい
った。資本論、共産党宣言などは到底理解できる力もないにも関わ
らず、関心を持っていることこそ、自尊心を満足させてくれた。
戦後の有名大学の学長はGHQの日本への政策(日本の戦前を全
面否定し、対立を促進する)に乗って、自分たちの時代の到来と考
え、進歩的思想(共産主義、社会主義、マルクス経済学)に便乗し
て、戦前をすべて否定することが、自分たちの存在意義であった。
勿論大学だけではない、社会党、共産党に影響を受けた労働組
合運動、公務員、日教組もGHQの方針に乗って、活動した。メデ
ィアも新聞も、NHKもGHQの片棒を担ぎ、方針に添うことが、
GHQの規制の中で戦後存在できる安易な道だった。
日本が独立した後もGHQが規制してきた言論統制に則って、益
々自分自身を規制するという自縄自縛に陥って、現在でも自主規制
という言論規制をしている。現在から振り返ると、有名になる、時
代の先端を行く、自己の利益を優先させる一番安易な生き方だった。
今回は、その中でも一番虚偽の報道をしてきた朝日新聞の内実
を数々の資料から明らかにしてみる。GHQの指令に従って「自分
達の身守ることに汲々として、考えるということを放棄し、時代に
乗って生きた」メディアの代表として取り上げる。朝日新聞の内部
にある親ソ連・親中国の葛藤は、戦後朝日が発行停止に陥った以前
から内部に巣くっていた。しかも、国民に最も読まれた新聞が、虚
偽を平気で書き続けてきた罪は大きい。そしてその責任は誰もとら
ない。今も、左翼思想にかぶれて、生きている。
■吉田清治を称えた論説委員・伊藤律架空会見をしのぐ虚報
1.朝日新聞社は吉田証言を一九八二年にはじめて紹介した。そし
て虚偽を続けた。
2.2014年8月5日付で、朝日新聞朝刊で、取締役の杉浦信之が
「編集担当」の肩書で「慰安婦問題の本質直視」との主張で大きく
載っている。ある一連の記事の取り消しを明らかにした。
3.併合時代の朝鮮半島で、第二次世界大戦中に日本の官憲が組織
的に、この場合、済州島で集落、工場、漁業の現場を襲い、日常
の暮らしをしている多数の若い女性を突然、泣き叫ぶのもかまわ
ず連行し、従軍慰安婦として戦場に送り、将兵らへの売春を強制し
たというその関係の記事の取り消しである。12
4.吉田清治という人が講演、著作でとくに1980年代から90年代に
掛けて証言し続けていた話だった。朝日新聞はこの吉田証言を次
々と極めて大きく扱い、またその証言を踏まえた吉田清治応援の
論評も何度か紙面に載せていた。この吉田証言を虚偽と判断し、
吉田証言を扱った全ての記事を取り消すというのである。13
●共産党・伊藤律との単独会見の虚偽
5.1950年9月27日付で、GHQの指令で公職から追放され全国に
指名手配されていた日本共産党中央委員の一人の伊藤律と月光の
下の兵庫県宝塚市山中で単独会見したという「大特ダネ」を大々
的に報じた。これが、虚偽で大阪本社神戸支局の作り話だったと
いう朝日新聞社史でも前代未聞の大失態を引き起こした。13
●論点すり替え
6.杉浦論文は、強制連行の吉田偽証の報道は反省するが、問題の
本質は、多くの女性が軍の慰安婦になっていたという「人権侵害」
にあり、これは今後も追求し続けていくということを宣言してい
る。これは吉田証言報道の重大失態をぼかし、論点をすり替える以
外の何物でもない。13
7.2014年8月6日付、および8月28日付けの関連特集でも吉田証言
をとりあげ、女子挺身隊と慰安婦を混同した記事を除く慰安婦関連
記事は総じて妥当とする狙いが露骨であった。だが、多くのメディ
ア、とくに週刊誌からはこの姑息な幕引きに集中的に非難か浴びせ
られ、経営陣や編集部に対する内部からの批判の噴出など朝日新聞
社内の混乱状態も週刊誌、テレビで微細に報じられた。14
●福島原発・吉田昌郎所長命令違反の虚偽
8.その時期、2011年3月11日に発生した東日本大震災で東京電力福
島第一原子力発電所が危機に陥った時の状況を吉田昌郎所長が政府
自己調査・検証委員会に対して答えた「聴取結果書」を入手して、
事故発生時に所員らが所長命令違反の行動を起こしていたと、2014
年5月20日付誌面で報じた。15
9.吉田所長にも会っているノンフイクション作家門田隆将から門田
自身のブログや週刊誌などを通じて、反論が突きつけられた。朝日
新聞はこれらの批判に対して法的手段に訴えると脅かしながら抗議
したが、吉田調書を入手した産経新聞社がその内容を紙面で明らか
にすると、吉田調書記事への疑問が朝日新聞社内でも募り始めた。15
●社長の木村伊量・吉田清治証言記事の撤回が遅れを謝罪
10.さらに読売新聞社、共同通信社なども相次いでその内容を報道、
配信するに至り遂に朝日新聞社は吉田調書に関して2014年9月11日に
社長の木村伊量(ただかず)が記者会見して、記事の取り消しと謝
罪をすると共に第三者機関「報道と人権委員会」に審理を委ねると
発表した。その会見で慰安婦関係の吉田清治証言記事の撤回が遅れ
たことを謝罪した。16
■朝日にたなびくマルクス主義・戦後の社風を形成した人物達
11.広岡知男(1964年~1980年)16年間専務、社長、会長を務め、そ
の間六年間主筆も兼ねて朝日を左右した。笠信太郎(1900年~1967
年)を継ぎ、論説主幹、論説顧問として十二年間にわたり朝日新聞
の論調を方向づけた森恭三(1907年~1984年)モスクワ支局長、東
京本社外報部長、大阪本社編集局長、編集・出版担当専務取締役を
歴任した秦正流(1915年~1994年)125
●「容共リベラル」的な考え方が、戦後の「良識」
12.性急な共産主義革命を退けつつもマルクス主義そのものを否定し
ない、いわゆる「容共リベラル」的な考え方が、戦後の「良識」と
朝日新聞社内では見なされ、社内の思潮の主流派を形成していたこ
とは否定できない。125
●1946年社長退陣
13.1946年9、10月、終戦の年の秋に戦時中の報道・言論の責任を取
って朝日新聞社長の村山長挙、会長の上野清一をはじめ首脳部が総
退陣した。128
14.朝日新聞東京本社では二分し、険悪化した。そんな中での東京本
社編集局の職場大会で三九歳の論説委員の広岡知男が執行部に他社
(読売新聞を)が新聞を発行するのに、何故自社が発行を止めてど
うして勝てるのかと質問をぶっつけた。129
■ソ連派と中国派の対決
15.1960~70年代のソ連、中国の対立は朝日新聞社の上層部にも大き
く深い亀裂を生んだ。ソ連派の役員秦正流対中国派の社長の広岡知
男の衝突という形で激化し、秦の側に渡邉誠毅も加わり最終的に広
岡が社長退陣に追い込まれた。211
16.親ソ派の秦は1966年に、大阪外大の同人誌に多賀正史の筆名で投
稿している。「中華人民共和国では科学ではなく、宗教が支配して
いる。毛沢東思想という宗教が人民の容を紙面で明らかにすると、
吉田調書記事への疑問が朝日新聞社内でも募り始めた。15
●林 彪の異変を巡る報道
17.1971年9月から72年7月にかけての中国共産党副首席で毛沢東の
後継者の林 彪の異変を巡る報道戦で(この記事は追放されていた
産経新聞が一番早く報道)この大変事に目をつぶる朝日新聞は終始
内外メディアの後塵を排する醜態を晒した。220
18.1972年国交正常化迄に、68年修正された日中記者交換メモは政治
三原則と政治経済不可分原則の遵守が前提にされ、その三原則は
①日本政府は中国を敵視しない。
②米国に追随して「二つの中国」をつくる陰謀をしない。
③両国間の正常化を妨げない。こうした極めて日本の中国報道に日中
双方の合意として嵌められた。中国に関して日本の報道が自由を放
棄したに等しく、戦後の日本の国柄を貶め、否定した。222
●朝日新聞のみが中国国内に残る
19.文化大革命期に共同通信社を皮きりに他紙が次々と国外追放され
る中、朝日新聞のみが中国国内に残り、以降、産経を除く他社は中
華人民共和国国務院(中国当局)の台湾支局閉鎖の要求を呑んで中
国に支局を開局した。
●産経新聞は中国の要求を一貫して拒否
20.産経新聞は中国当局の要求を一貫して拒否し、結果として1967年
(昭和42年)に国外追放されて以降は、北京への特派員常駐を認め
られなかった。日本の新聞で最も早く林彪の死亡推測記事を伝える
など、むしろ政治的には中国を詳しく報道することとなった。
●社内の親中に対する批判
21.親ソ派・秦正流専務・文革報道を語るには、偏向報道の問題を避
けて通れない。多くの読者、社内から激しい批判を受けた「偏った」
報道が続けられたのはどうしてか猛省しなければならないと「えん
ぴつ」232号に書いている。226
22.第一点は、本社上層部に文革を高く評価した人がいた。上層部の威
をかり、かなり政治的に中国報道への介入をした人がいる。第二点は、
当時本社は「日中国交の正常化を急ぐべし」「台湾との断交もやむな
し」という社論う掲げていたが、社論と事物の客観的かつ公正な報道
をすることとは峻別するべきだ。227
23.1989年、出版局報に工藤は「中国報道の誤りは社長をトップにすべ
ての幹部が関係し、一般記者も苦々しい思いで参加し、或いは抵抗し
た構造を持つものだ。にもかかわらず、社として今日まで何の処置も
とっておらず、誰が責任をとったという話も聞かない。釈明さえすれ
ば、事実は風化するに任され反省をされず、各自の心の中で消えてい
く」と書いた。230
■共産主義国家を美化する
24.朝日新聞の紙面には、共産主義国家を美化し、讃える記事が目立っ
た。北朝鮮、カンボジア(ポル・ポト派)贔屓の報道もそうだ。あの
歪んだ中国報道も社長が広岡だったからというよりも、階級闘争によ
る共産主義社会の到来を予告するマルクス主義を善、マルクスの命名
した資本主義を悪として、階級闘争の歴史法則によって善が悪を滅ぼ
すというおとぎ話に影響された人が社内には少なくなかった。232
25.中国全土で民衆虐殺が進行している時、朝日新聞首脳は、虐殺側の
中国首脳と、繰り返し単独会見を行いっている。毛沢東政権にとって
朝日新聞社はまことに都合のよい宣伝媒体だった。236
●歴史の事実が証明
16.秦が心酔したソ連はその後1992年忽然と歴史から消え、広岡が擁護
し続けた中華人民共和国も次第にその実態が明らかになった。秦も広
岡も朝日新聞社の上層主流は歴史を完全に見誤った。社内における中
ソの亜流達の相剋も深刻だった。211
参考図書・崩壊・朝日新聞 長谷川熙ひろし、死の淵を見た男吉田昌郎
と福島第一原発門田隆将、朝日新聞・日本型組織の崩壊・朝日新聞記者
有志、偏向ざんまい・阿比留瑠比、自ら歴史を貶める日本人・西尾幹二、
尊敬される国民品格ある国家・岡崎久彦、渡部昇一他多数