■理念探究会116号

■理念探究会116号

■道縁に生きる
◎その一・理念実践会第二期スタート
五月第一週に茨城での理念実践会、岡山での西日本実践会がスタート
しました。理念実践会は、昨年理念制定をした人達を中核にして、既に
理念制定をして歩んでいる人達、理念探究を継続している人達の月一回
の研鑽の場です。最初の輪読が「道縁」という項目でした。因縁とは仏
教から来た言葉です。森信三先生は因縁とは「人と人との関係」またそ
のつながり合いといえる。「人間というものは、自分がこれまで出逢っ
た人々との因縁を重んじないと、いっかどの人間にはなれない」「自分
をめぐる因縁の深い人々と、いつまでも交わりをつづけるようでなけれ
ば、大した生き方はできない」と続けられる。
「道縁」とはたんに「因縁」というだけでは不十分で道を求める人同
志のつながりといえる。「理念」とは別の表現をすると道を求める、そ
の人の使命の自覚とその実践をいう。「道縁」とは正に理念探究をなし
遂げた人、今も理念を探究し続けている人同志のつながりともいえる。
既に理念探究した人達との年に一回の「理念型企業快労祭」は各自の
一年の快労の報告会だが、昨年理念制定ができた若い経営者、そして今
も理念探究を続けている人達同志のつながりここでいう「道縁」という
に相応しいと改めて感じた茨城、岡山の理念理念実践会でした。

◎その二・西日本次世代型経営人材養成塾
高松で五月第一週に第三回西日本次世代型経営人材養成塾が開催され
ました。この会は西日本を中心に進化経営学院の理事をお願いしている
竹内将清氏を中心に進めてもらっています。開校
式、終了式は私も参加して一日の講義を行います。
ここでも、初日の講義は会の目的から六回の研修で学ぶカリキュラム
を解説します。この会も文字通り次世代型経営者を育てることが目的で
す。
従来の企業が売りをあげること、利益をあげること、長持ちさせるこ
とよりも、役に立つ経営を目指すこと、と同時に企業が特異貢献をつづ
け、結果として利益が伴うような科学的経営も指導します。
最初の講義で「尚友とは」で、「尚友という言葉について、これは友
を尚(たっとぶ)という意味で、古来「読書尚友」というふうに使われ
ている。何故友を尚ぶ必要があるかといえばこれも道の上からいうので
あって、ともに学ぶ友人が道の上から一歩ないし数歩進めている。その
友を大いに尊敬する。そういう関係をこの養成塾で築いていこうという
ことで、また「同門の友」も「朋遠方より来るあり、亦楽しからずや」
といっている朋というのも正に「同門の友」であることを自覚して養成
塾で学んで行きましょうとスタートした。

■能力開発116
◎第一部思考の前提
●狂った判断をしないために
年をとるということは、経験を積むことになります。経験を積むとい
うことは、いろいろな情報を自分の頭に蓄積していくことです。その時、
例えば円周率は3.14・・・ですが、これを見た目には割り切れる3とす
ると、事実は3.14・・・ですから、誤差のある情報になってしまいます。
これと同じように妙に割り切りすぎたような情報をどんどん頭に詰め込
んでいきますと、誤差のある情報ばかりになってしまいます。
そういう情報がいっぱい頭に入っている人は、終いにはどうなるかとい
うと、狂った判断ばかりするようになります。しかも長年の蓄積がそう
だから、にわかには直しがたいなんとも哀れな頭になってしまいます。
また、ある議論において、白か黒かというような結論を妙にきっぱりと
出す人がいますが、そういう人に、何かよく知っている人のような印象
をもってしまいがちです。特に高校をでた当座の頃は、ほとんど思想的
に免疫がありませんから一見体系だったような話や、すごく割り切れて
いるような話にというものに、抵抗力がなくて、ふらふらとついて行っ
てしまうようなことが起こりやすくなります。

●連続的なものの見方と分極的な見方
図のように白か黒か、良いか悪いかみたいにその中間をイメージしない
ことです。連続的な見方は、グラデーションみたいに白から黒に徐々に
変わって行くように表しているのは、確かに一番良いのと一番悪いのは
あるんだけれど、その中間にはどちらとも言えないやや良いとかずいぶ
ん良いとかそういういくらでも段階があるいうふうにとらえる見方のこ
とです。下の方は多次元的な見方です。多次元だけど分極的というのは
多面的な見方はできるのだけれど、一つ一つの観点は二者択一の良いか
悪いかという分極的な見方しかできないということです。

●分極思考は誤差だらけ
単純明快で非常に割り切れることが知的なことだと思っていると、い
ざ事実に対応したときに、特に人間を扱うとか社会現象の実際の問題を
扱うとき、誤差だらけのデーターで判断することになってしまいます。
分極的な思考、つまり白か黒かでしかものを考えない主張を広めること
は、大勢の人のか考えを無理に小さくして単純な考えに追い込んでしま
います。そして集団として同じ方向に動かすのに利用されたりするわけ
です。また、単次元分極的な考えの方が、頭を使わなくてもいいわけで、
楽なこととも言えます。ついつい楽な方に走りがちになります。
これは怖いことです。
■知的保留
「盲信」、「盲疑」で「盲断」する
「むやみに信じる」のも「むやみに疑う」のも同じ穴の狢だということ。
盲信している人も盲疑の人もどちらも新しい情報に対して素直に聞くこ
とがなく、極端な場合には耳を閉ざしてしまいます。その結果、客観的
な事実に対して鈍感になる、無感覚になり、図のように情報不足のまま
行動し、不覚行動につながる、これは危険なことです。
●「知的保留」のすすめ
肯定も否定もできない情報が入ってきたとき、情報ではあるが決定的
な結論ではないという状態で、そのまま心にとどめておくことを「知的
保留」と言います。世の中にはこの知的保留が一項目もできないタイプ
の人がいます。どちらかであると決めてしまわないとイライラして落ち
着かない人がいます。そこでおよそこうだと、大多数の人が考えている
ことに合わせたりして決めてしまう。
知的保留のできない人は一般の人がだいたいどう思っているかによって
決めたり、何かのこだわりによって決めてしまう。
それで不都合がないように見えますが、保留しない情報は、分極情報で
すから、いったんどこかでなにかが狂うと大混乱になってしまう。
この保留された情報というものを地道に蓄積していきますと、やがて
は大筋が見えてきます。情報に矛盾や混乱かあってどちらともいえない
ように見えたが、新たなこういう筋で考えると説明がつくとか、おぼろ
げな概要骨格が見えてきたりします。そのためにも保留は保留として留
めておくことが大事なです。
●知的保留情報でより精密な判断ができる
図のように知的保留をして、だんだんと情報が充足してくると今度は
結論がでてくるようになって、立証されるか反証されたりする。
中途半端にしか情報が集まっていない時に、あるいは知的保留に留めた
ものが沢山ある時に、選択して行動しなければならない時どう判断すれ
ばよいのか?
そういう場合でも、知的保留して集まっている情報で判断する人と、白
か黒か、分極思考で集めたもので判断する人では、精密度が違ってきま
す。保留情報は何も教えてくれないのではなく、最終・最新の総合判断
を支えてくれます。
(以上・心の自立より)
以上、南京事件を考えるにあたって、多角度から情報収集をしたうえ
で、取り扱ってみます。

第二部南京事件について多次元連続思考で考える
■新聞に掲載された太平洋戦争史
●連合軍支配下にあった日本で1945年12月8日より10回に亘って連合軍司
令部記述として全国の新聞紙上に連載された宣伝記事である。
概要 「国民は完全なる歴史を知るべきだ」、「軍国主義者の行った侵
略を白日に」などというGHQの趣意により―奉天事件よりミズリー号
降伏調印まで―という副題に掲げられた期間を対象として記述された、
GHQによる宣伝占領政策の一つ。5
●太平洋戦争史
1946年3月30日、高山書院より連合国総司令部民間情報教育局資料提
供、中屋健弍訳として刊行された。訳者の言葉として当局の厳密なる校
閲を仰いだことが記されている。これらの宣伝に対する批判の禁止など
プレスコード等によって言論統制されていたため、批判や反論、検証な
どは許されず、他の占領政策と相まってこれらの考えが次第に国民の間
に押し広められた。5
●南京事件
1937年7月から日中戦争勃発
1937年12月8日南京を包囲、九日無血開城を勧告、10日に攻撃開始、
南京防衛司令官康生智は12日に逃亡。
■太平洋戦争史に書かれた南京における悪虐行為
●12月7日に南京の外郭陣地に対する日本軍の攻撃が開始され一週間後に
は上海戦での中国側の頑強な抵抗に対する怒をここで爆発させるべき悪
虐行為をやってしまった。近代史最大の虐殺事件として証人たちの述べ
る所によれば、この時、実に二万人からの男女、子供達が殺戮された事
が確認されている。四週間に亘って南京は血の街と化し、切り刻まれた
肉片が散乱していた。
その中で日本兵はますます狂暴性を発揮し一般市民に対して殺人、暴行
を始め、あらゆる苦痛を味わしめたのである。54
●大掠奪並びに暴虐行為は全市に亘って行われ、中国軍が南京から撤退
してやっと混乱と掠奪から逃れられたと思った市民はより一層の恐怖に
襲われた。婦人達も街頭であろうと屋内であろうと暴行を受けた。抵抗
した婦人達は銃剣で刺殺された。
この災難を蒙った婦人の中には60歳の老人や11歳の子供まで含まれてい
た。中国赤十字の衛生班が街路上の死体取り除きをやったとき彼等のも
って来た棺桶は日本兵に奪われ、その上数名の赤十字従業員は無残に惨
殺された。55
■日本のヨタ宣伝
●大虐殺を行う一方、日本軍は空から次のようなビラを撒いた。「各自
の家庭に帰ってくる良民には食糧と衣類を与える。日本は蒋介石によっ
て踊らされている以外の全中国人に良き隣人であることを希望する。」
その結果としてビラが撒かれた翌日早くも数千の良民が避難先から爆撃
で破壊された彼等の家に帰った。ところが早くも次の朝には数々の悪虐
事件が判明した。
母親は暴行され、子供はその側で泣き叫んでいた。またある家では3,4
歳の子供が一間で突き殺され、家族の物は一室に閉じ込められて焼き殺
されていた。中略。この南京の残虐行為こそ、結局中国を徹底抗戦に導
く結果になった。56

以上が、GHQの制作した太平洋戦争史に記述され、全紙に掲載を強制
された南京事件に関する主要部分である。国民ははじめて聞いた情報で
ある。
■言論統制・東京裁判・南京事件のGHQの洗脳の方法
●プレスコード・1945年(昭和20年)9月19日に発布された。
ラジオコード・1945年(昭和20年)9月22日
●これによって、新聞並びにラジオはGHQ検閲なしには東京裁判、南
京事件に関して日本人へのGHQ以外の情報提供は不可能だった。そし
て新聞に掲載の後、太平洋戦争史は十万部学校の教材として全国の中学
校に配布され、副読本として採用される一方、引き続きラジオキャンペ
ーンを通じて「真相はこうだ」は太平洋戦争史を劇化して1945年12月9日
より10週にわたって週一回放送され、「真相はこうだ」の質問箱を設けた。
そうして、「真相はこうだ」の放送が終了した後「質問箱」となって、
41週つづき、1946年12月4日まで続いた。

■分極思考・一方的な情報
●南京事件に関しても日本人に対しての情報は冒頭で「単次元分極思考」
「知的保留」で説明しているように、GHQ以外の情報は言論統制と検閲
によって一方的な情報しか耳に入らず、国民は洗脳されてしまったといえ
る。このように日教組による歴史の一方的情報、そして大学においても、
戦前の教育に批判的な進歩的教授達は、揃って、GQHの流す情報(一
方的・分極的情報)に基づいて戦後の思想教育を進めることが、彼らにと
って金科玉条的な思想の核心、底流になった。

■南京事件の情報の偏り(連合国・国民党の情報のみ優先した)
●東京裁判で裁かれた根拠は一九四六年国民政府が南京で行った現地調査
の報告が基本にある。日本軍の1937年12月の南京占領を体験した南京事件
の事実は、緻密な多次元連続的な見方によりはじめて迫ることができるは
ずである。しかも、弁護側の資料は全く採用されることなく中国南京での
法廷でも、東京裁判法廷でも連合国側、国民政府側の資料のみが判断資料
だった。その結果南京事件判決が下された。

■虐殺派=GHQの視点
●南京事件についても、三通りの見方がある。「虐殺派」「まぼろし派」
「中間派」という見方である。このなかで、「虐殺派」の前提は、太平洋
戦争史であり、東京裁判の結果である。GHQ・東京裁判の判決に異を唱
えるよりも、GHQ・東京裁判史観こそ戦後の時代の先頭をきって走るこ
とこそ、進歩的文化人・メディアにとって戦後の主流派である事を保証し
た。しかし、繰り返すが、分極思考である「日本は間違っていた、連合国
の見方が正しいという自虐的な考えを日本人に植えつける」行為を続ける
ことを意味する。
●この流れこそ、「閉ざされた言論空間」で江藤淳の言うところの「日本
人のアイデンティティと歴史への内部崩壊」を意味することになる。そし
てその後現在に至るまで、メディア(新聞・ラジオ・テレビ)は言論統制
を引きずり、自主規制という名の言葉狩りを続けている。

■南京事件の探究・北村稔
東京裁判の結果はここでおいておくとして、戦後、南京事件に関していろ
いろ見方が出ている。ここで、改めて南京事件を振り返って見ることにす
る。
●歴史観に規制される日本での研究
1.日本国内では「虐殺派」「まぼろし派」「中間派」の間で論争されて
いる。「虐殺派」とは、第二次大戦後の南京と東京の軍事裁判の判決
に準拠して「南京事件」を告発する人々
をいう。これに対し「まぼろし派」とは、「大虐殺」の不在を主張する
人々である。「中間派」とは、必ずしも「虐殺派」か「まぼろし派」に
区分できない人々を言う。11
2.「虐殺派」は「南京事件」は明治帝国憲法体制とそこから出現した軍国
主義の持つ侵略性と暴力性の象徴であるという「歴史観」を共有する。
そして日本国内に存続する政治や社会の保守的な体質を批判し克服しよう
とする。対外的な「政治姿勢」は反米(反安保)であり、日本軍国主義の
侵略対象となった国民党、共産党を含む「かつての中国」への同情と政治
姿勢を基本的に支持する。11
3.「まぼろし派」は、「虐殺派」の主張は連合国の戦犯裁判と軌を一にし、
自国民(日本)の歴史の歩みをいたずらに卑下する「自虐史観」であると
反発する。対外的な「政治姿勢」は、虐殺派と同様の「歴史観」をもって
過去の侵略への反省を迫る中国に反発する。12
4.「中間派」の「歴史観」と「政治姿勢」は必ずしも「虐殺派」と「まぼ
ろし派」の中間には位置しない。筆者(北村稔)は「中間派」が「歴史
観」 と「政治姿勢」において「まぼろし派」に親近感をもっていること
は間違い ない。12
5.虐殺派の代表は「南京事件」を発表した洞富雄氏、笠原十九司氏や吉田
裕氏が代表的研究者。まぼろし派には「南京大虐殺のまぼろし」を発表し
た鈴木明氏、田中正明氏、東中野修道氏。「中間派」を代表するのは「南
京事件-虐殺の構造」を発表した秦郁彦氏。13

●歴史研究の基本に立ち戻る
1.筆者(北村稔)は「南京事件」を研究テーマとして選ぶさい、南京研究
にまつわる「政治性」から一定の距離を保つことは可能であろうと考えた。
2.「南京事件」を確定したのは、南京と東京の戦犯裁判の判決書である。し
たがってこれらの判決書の内容を分析し、どのような論理の積み重ねで「南
京事件」の全体像が認識されたかを跡づける。すなわち、判決書が証拠とし
た欧米人や中国人の提出資料(書証)や証言の内容を検討し、判決書が断罪
する「南京事件」像が整合的に組み立てられるか否かを検討する。
●南京事件を確定した三種類の証拠資料
第一グループ
日本軍占領下の南京に留まった欧米人や中国人が、日本兵の行為を告発した
書物や記事。多くの資料が1938年から1939年中に刊行された。これらの資料に
は南京で大虐殺が発生したという記載は見いだせない。しかし告発された日本
兵の個々の行為が、大虐殺の構成要素として見なされた。23
第二グループ
1946年国民政府が南京で行った現地調査の報告。日本軍の1937年12月の南京
占領を体験した中国人の住民の証言と、国民政府により行われた遺骨発掘など
の報告から構成される。
個人で数千人、数万単位の大虐殺を目撃したという証言もあらわれた。数十万
人の遺体を埋葬したという慈善団体の証言も出現した。目下のところこれらの
資料の全体は台湾側からも中国からも公開されていない。23
第三グループ
南京と東京での裁判において、日本軍の南京占領を体験していた欧米人と中
国人が行った証言。第一グループの資料に登場する欧米人を含め、多くの共通
の証人が出廷した。24
■国民党国際宣伝処と戦時対外戦略
●国民党の表外交
1.劣勢な軍事力で日本と戦うことになった国民政府には、外交政策を駆使して
諸外国の支援を引き出すことが対日戦略の重要な柱であった。なかでもアメ
リカの支援をとりつけることが中心課題であり、正面からの外交活動が戦争
勃発後ただちに開始された。45
2.日中戦争勃発直後、1937年9月26日、国民政府駐仏大使の顧維釣はラジオの
電波を通じてアメリカ全土に向けて演説した。「中華民国を創建した革命の
指導者たちは、偉大なアメリカの政治思想家たちの啓発を受けました。中略。
中国が精神的支持と物質的援助を必要としていることは確かです。私は、偉
大な大統領(ルーズベルト)の指導下に中国を全力で支持し国際関係におけ
る法律と秩序を回復し、永く太平洋の平和を保たんことを心から希望します」
46
●裏面からの外交工作
1.ティンパーリーは国際宣伝処の曽虚白と会談した後、上海に戻ると直ちに国
民党の外交戦略を推進し始める。一つは、日本軍の南京政略の残酷さをメディ
アを通じて広く世界に告発し、あわよくば、これにより日本と第三国との間に
外交問題を惹起させること、もう一つは主要目的であるアメリカへの働きかけ
る。47
2.ノースチャイナ・デイリー・ニュースの社説の内容とは、南京で一万人以上
の市民が殺害され八千から二万人が強姦されたという内容だった。49
3.ティンパーリーは新聞記者の身分を隠れ蓑に国民党の外交戦略一翼を担った。

以上は中国の巧みなプロパガンダ(特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する意
図を持った行為である。通常情報戦、心理戦もしくは宣伝戦、世論戦と和訳され
る)であることを検証する。日本人はこの点においても実に稚拙である。そして
戦後も易々と連合国のプロパガンダに嵌められいる。連合国のプロパガンダに日
本のメディアは加担してきた。現在も加担しているメディア(新聞・テレビ)も
多い。

次回は南京事件に取りくむ視点と中国の情報操作についてかんがえてみます。そ
して日本のメディアが情報にいかに洗脳されているか考えてみたい。


■理念探究会115号

■理念探究会115号
◎大学卒業五十年周年記念の集い
4月中旬、琵琶湖を望む米原で開催された。留年した私も参加した。
6年前にグリークラブの1年後輩で、寮生活、下宿生活も共に過ごし、
学生時代に2冊の詩集をお互いに自費出版した畏友H君の勧めで参加
して以来、3度目の参加だ。
2年前参加したとき、尊敬するF氏に「黒田さん、太りすぎでしょう。
若い人たちに対して指導しているあなたともあろう者が」と苦言を呈
せられた。自覚していたが、これを機会に、再度減量に取りくみ始め
た。しかし、従来のやりかたでは、計画した通り進まなかった。加齢
と共に新陳代謝の変化があるようだ。妻の友人の勧めてくれた本を切
っ掛けに本格的に取りくんだ。
本の名前は「やってみました!一日一食」だった。この本をヒント
にして数冊の専門書も読み、納得して実践した。数カ月で九キロ近く
減量に成功した。(知人3名に伝授・大成功、知りたい方にはご説明
します)

今回2年ぶりにF氏に再会。途中報告もたまにしていたので、減量実
践を喜んでくれた。減量は血圧を下げ、全てに健康体づくりに効果が
あります。
人にはそれぞれ学生時代から想像できない人生がある。
卒業生120名余の内、参加者50余名。16時から23時まで、今回の幹
事の企画、気配のおかげで、延々と楽しみながら続いた。振り返る
と学生時代は、同じクラブかゼミを同じくした者しか余り知人はい
ない。幸い私は更に、寮生活を2年、副寮長の役を務めていたこと、
グリークラブの指揮者をつとめ、演奏会を聞きに来てくれた人達も
いて縁のある人たちも意外と多かった。
同期の人たちは振り返ると中国、近畿、中部地区出身者が多く、
一期校を失敗した人たちが大半だ。浪人の人たちもいる。真面目な
学生が多く、私のように留年している人は少ない。

●豪放磊落な人生の生き方・人間の魅力
大学に入りながらも、あまり授業にも出ないで雀荘に入り浸りのS
氏は、サッサと4年で卒業し、現在岐阜で建設会社を手広く経営し、
今も会長を務め、大学の支援や数々の役職を務めながら豪放磊落に
過ごしている。
当時副寮長として東寮の2回生を務めていた私は麻雀も好きだが、
授業にも出ることもなく没頭する1学年下の彼の生き方は理解の外
にあった。
数年前にあってみると、彼は諸先輩を含めて大学の卒業生の陵
水会で幾多の役を担って、お世話役を務めている。同期の仲間か
らも非常に慕われていた。友人の言を借りれば、大阪の名門高校
出身で元々頭のいい、賢い人間だったとの評だ。学業成績がよい
とか悪いとか、優の数がいくつあるとかの時点は越えていた生き
方を貫いて来た。
今回彼と話ながらも、なるほど、彼の魅力は幅広い経験に裏打
ちされた生き方の結晶で、人間味溢れている。文字通り大学の成
績がその人の人生を保証しない人物の証明だ。私達の大学では異
色の存在だったが、人を引きつける度量の大きい魅力ある人物だ。
学生時代だけでは到底判らない卒業後の人生の豊かさを教えてく
れた。今後も大学支援の大役を担って活躍してもらいたい。

●日本人の誇りを持った経営者
F氏は、大学時代はヨット部に所属し、全国的にも強かったク
ラブで、毎日がヨット漬だった。同じゼミだったが、大学時代に
ゼミであった記憶がサッパリない。大学の先輩が創業したマリー
ン関係の総合サプライ事業を営む、海外に十四~五の出先を抱え
活躍する会社に就職した。今から十年ほど前、縁があって、幹部
クラスの人達の情報統合技術を駆使した人生の経営計画研修を引
き受けた会社の社長がF氏だった。その時に、ゼミが一緒だった
と知ったわけだ。
当時、私は彼が社長を務める会社の事業内容や彼の社長として
の視点・哲学を理解するために、社長就任以来の年頭所感や、そ
の他様々な機会に社員や業界に向けて書き綴った文章を入手して
読み込んだ。その上でインタビューを試みた記憶が蘇る。
一九九七年社長就任を創業社長から打診されて以来の経営に関
する生き方をお聞きした。その時の感想は「私心のない、社員を
活かそうとする、会社を変革させようと決意、実践をしている社
長だった」「自己保身などの私心は全く感じさせない」そうであ
るが故に「社員から慕われる社長」だった。渋沢栄一の「論語と
算盤」「(科学=理性)と人間性」の統合された思想をもった人
だった。
業界として国際的にも深く関連のした仕事でもあって、65歳で
社長を退任し、その後2008年から会長を務め、その間後継の社長
の経営に対してには「一言の苦言」を呈することもなく、在任中
は取り分け海外の業界との交流を主として携わって来た。
国際的にも彼が世界のマリーン業界の会の会長としての役を務
めきったのも、理論的にも人間的にも世界の業界の利害関係を越
えて受け入れる、人間としての器・度量の大きさが人を引きつけ
ていたのであろう。
この度、2年ぶりに再会して、正に出光興産創業の出光佐三を彷
彿とさせる人物であると確信した。国際的にもリーダーシップを
発揮する誇りある日本人だ。

●奥様を癌で失った苦闘を越えて創業
卒業五十年の年月は同期の人たちにもいろいろな経験を与えて
いる。今回、お話しを聞いた二人の友人の体験を書きたい。交流
会での話なので、詳細は聞き漏らしたところはある。
Y内氏は、福井の出身の学生時代はバスケット部で活躍した。
長身痩躯のエネルギー溢れる人だ。彼のことを聞いたのは
、現在オーストラリアに移住しているラグビー部の俊英M殿氏の
紹介だった。彼をオーストラリアに訪ねて時、教えてくれた。Y
内氏はF銀行取締役をやめて創業し福井地域では大いに活躍して
いる人物だということだった。二年前の同期会でM殿氏に正式に
紹介してもらった。共通の先輩でコロムビアに勤務していた福井
のY本氏のことを切り口に簡単な自己紹介をする程度の話しかで
きなかった。

水泳をやっていて私も水泳をやっていることが切っ掛けに、長く
泳ぐための方法を教えてもらった。
その彼は、聞くところによると、F銀行取締役に48歳で就任し
た。しかし、奥さんが膵臓癌と診断されて、五十歳で銀行を退社
し、以来2年半闘病生活を共にして、53歳で見送ったそうだ。看
病の数年はいかばかりであっただろうと推察する。奥様を見送っ
た後、53歳の年に、敢然として創業に踏み切った。彼はその創業
の思いを企業理念のなかで次のように語る。
「私たちブレインズは、【全てへの愛】を共通の理念として、
掲げています。それは、今、急ぎすぎた20世紀をふりかえってみ
ると、人間が豊かさを求めるあまり、自然や他の生き物、時には、
人でさえも犠牲にしてきたように見えるからです。21世紀は「天」
「地」「植物」「動物」「人」のバランスが大切となります。全
ての愛を育み、思いやり、いたわりの心を育てることを、これか
らのテーマとして提案します。ときには、忘れがちだった自然の
素晴らしさ、命の大切さを、21世紀に向かって、訴えていきませ
んか!」と語る。
最愛なる奥さんを失って、その闘病生活のなかで考え続けた思
いを活かすべく事業を創業し20年、心に秘するところを以て悠々
と生きている。今年、社長の座を譲り、また異なる立場から生き
て行かれるそうだ。

●サラリーマン生活で稼いだ金を全て義母の借金返済にあてたも
う一人、K村氏の話を記す。K村氏はバスケット部出身、Y内氏
と同じ。私とは同じゼミだった。しかし、私は彼をゼミ時代はよ
く知らない。卒業後の就職先は聞き漏らした。彼の話はこうだ。
Y内氏によれば、学生時代から、責任感が強く、周囲の人に心配
りする人柄のだった。友として誇りに思っていると。
退職間近なころ、奥さんのお母さんが多額の借金をしていると
いう話が耳に入った。五千万円近かったという。何故借金したか
という話は聞きもらした。当時彼と奥さんは頭を抱えただろう。
世間は義母であり、仮に母親でも、自己破産をするなどの手があ
るはずだという。自分ならばどうするか自分の遭遇した問題とし
て考えてみたら一体どういう風に解決するだろうか?私なら、義
母の借金に対しては、全く責任をとろうとは思わないだろう。勿
論奥さんが、自分の母親に対して、可能な限り、返済を支援する
ことに対してはやぶさかでない。
彼はどうしたのか?彼は退職金も貯金も叩いて、奥さんのお母
さんの借金五千万円を完済する道を選んだ。その話を彼の口から
聞いた時、「同期に中にもこんな人間がいるのか」と驚嘆した。
そして人間として男らしい、日本人らしい生き方を貫いた人間だ
と敬服した。

この二人の話を三次会での少人数の席で耳にした。淡々と語る彼
らは気負いもなく爽やかに生きている。退職以降の時が、それぞ
れに新しい人生を開いている。その人生の決断がその人の人生の
使命だったのだろうと感じた。文字通り「幸福は最初は不幸な形
をして現れる」のが常であるという、永海佐一郎博士、森信三先
生の言葉の本意を知らされる。
◎能力開発115号
●マッカーサーも後に東京裁判は失敗と発言
「マッカーサーと共に日本にありて」の著者シーボルトは東京裁
判の方式や、裁判の合法性自体を疑問とし(同所130頁)、また
マッカーサー自身も米国上院の委員会で「東京裁判は失敗であっ
た」と証言したと言われている。57
以上、清瀬一郎・秘録東京裁判より
(注)昭和二十六年五月アメリカ上院の軍事外交合同委員会でマ
ッカーサーは次の二つの重大発言をした。①日本の戦争は自衛戦
争である。②アメリカが過去百年に太平洋で犯した最大の政治的
過ちは、共産主義者が支那において勢力を増大していくのを黙過
してしまったことである。 以上が、先月号の最終まとめです。
●何故、判決(昭和二十三年十一月四日)の二年半後、マッカー
サーは大東亜戦争は「自衛戦争であったと、証言したのか?
時系列に当時の出来事を記す。そして今回は東條英樹の口供書
・遺言を記し、その後の経過をへて、マッカーサーの証言を再確
認する。
1946年 5月 3日 東京極東裁判開始
1948年11月 4日 東京裁判判決
1948年12月22日 東條英樹、執行前夜に教悔師・花山師に書き上
げた遺言を読む
1948年12月23日 処刑
1948年 8月13日 大韓民国(韓国)独立宣言、朝鮮民主主義人民共
和国(北朝鮮)
1949年10月 1日 中華人民共和国建国
1950年 6月25日 朝鮮戦争勃発・中華人民共和国参戦
1951年 5月 3日 アメリカ上院の軍事外交合同委員会でマッカーサ
ーは証言する。
1953年 7月27日 休戦
■東條口供書
1. 昭和21年4月より、毎朝一回東條英樹氏と面会し東條氏の言うこ
とを筆記して帰り、翌日調べて本人に見せ、前日の文章を訂正
したこともあった。こうしてできたのが、東條口供書である。
筆記して帰ったものを英文に翻訳し、共同弁護人ブルーエット
君に正しい英文に直してもらった。147
2. この口供書は日本字タイプライターで220枚になるが昭和15年
7月22日第二次近衛内閣入閣から、昭和19年7月18日まで、4年間
の日本の政治の推移、軍事の動向を綿密にまた、正直に記載し
た書類である。この東條口供書は歴史上重要な書類になる。148

■口供書の内容の末尾を転載
●終わりに臨み、当法廷の規則の上で最後の機会であろうが、私は
(東條被告)ここに重ねて申し上げる。
●日本帝国の国策ないしは、当年、合法にその地位にあった官吏の
とった方針は、侵略でもなく、搾取でもなかった。一歩は一歩よ
り進み、また適法に選ばれた各内閣はそれぞれ相承けて、憲法及
び法律に定められた手続きに従い、ことを処理して行った。
●当年、国家の運命を商量較計するの責任を負荷した我々としては、
国家自衛のために起つということが唯一残された途であった。
我々は国家の運命を賭した。しかし、敗れた。戦争が国際法上よ
り見て、正しき戦争であったか否かの問題と、敗戦貴責任いかん
の問題とは、明白に分別できる異なった問題である。152
●第一の問題は外国との問題であり、かつ、法律的性質の問題であ
る。私は最後までこの戦争は自衛戦であり、現時承認せられたる
国際法には違反せぬ戦争なりと主張する。私は未だかつてわが国
が本戦争をなしたことをもって国際犯罪なりとして、勝者より訴
追せられ、敗戦国の適法なる官吏たりし者が個人的な国際法上の
犯人なり、また条約の違反者なりとして糾弾せられるとは考えた
こととてない。
●第二の問題、すなわち敗戦の責任については、当時の総理大臣た
りし私の責任である。この意味における責任は、私はこれを受託
するのみならず、衷心より進んでこれを負荷せんことを希望する
ものである。
昭和22年12月19日於東京市ヶ谷 供述者 東條英樹
立会人清瀬一郎152

■東條の遺言の摘記
昭和23年11月4日より、ウエッブ裁判長は判決書を読み続け、12日
午後3時55分より刑の言い渡しがあった。
東條は私(清瀬)に対しては、再審査請求せぬように頼み、一日も
早く刑の執行があるように願った。教悔師の花山信勝師が22日東條
英樹との最後の面会で、遺言を読んでもらいその要点を摘記してお
いて、清瀬君その他へ告げましょうと述べた。用紙20枚ほどしたた
めた遺言をゆるやかに読まれた。196
●(天皇の地位)天皇陛下の御地位および陛下の御存在は、動かすべ
からざるものである。存在そのものが必要なのである。それにつき、
かれこれ言葉をさしはさむ者があるが、これらは空気や地面のあり
がたさを知らぬと同様なものである。
●(東亜諸民族)東亜の諸民族は、今回のことを忘れて将来相協力す
べきものである。東亜民族もまた他の民族と同様の権利をもつべき
であって、その有色人種たることをむしろ誇りとすべきである。イ
ンドの判事(パール判事)には、尊敬の念を禁じ得ない。これをも
って東亜民族の誇りと感じた。今回の戦争にて、東亜民族の生存の
権利が了解せられはじめたのであったら、しあわせである。列国も
排他的な考えを廃して、共栄の心持ちをもって進むべきである。
●(米国に希望)どうか日本の米国に対する心持ちを離れしめざるよ
うに願いたい。また、日本人が赤化しないようにたのむ。
東亜民族の誠意を認識して、これと協力していくようにしなければ
ならぬ。実は、東亜の民族の協力を得ることができなかったことが、
今回の敗戦の原因であると考えておる。
●(アジア大陸赤化の情勢)極東の大勢は、終戦後わずか三年にして、
アジア大陸赤化の形成はかくのごとくである。今後のことを考えれ
ば、実に憂いなきを得ぬ。日本が赤化の温床ともならば、危険この
うえない。
●(日本の心を失うなかれ)日本は米国よりの食糧その他援助に感謝
している。しかし、一般人が生活の困難や、インフレや、食糧の不
足などを米軍の日本にあるがためだというような感想を持つように
なったならば、それは危険である。米軍は日本人の心を失わぬよう
注意すべきことを希望する。
●(米国指導者の失敗)米国の指導者は、大きな失敗を犯した。それ
は、日本という赤化の防壁を破壊し去ったことである。いまや満州
は赤化の根拠地である。朝鮮を二分したことは東亜の禍根である。
米英はこれを救済する責務を負っている。
●(新たなる戦犯逮捕をやめよ)今や戦後三年を経ている。新たに戦
犯を逮捕することは即時やむべきである。戦犯の逮捕は、我々の処
刑をもって、一段落として放棄すべきである。
●(靖国神社への合祀)戦死傷者、抑留者、戦災者の霊は、遺族の申
し出あらば、これを靖国神社に合祀せられたし、出征地の戦死者の
墓には保護を与えられたし。遺族の申し出あらば、内地に返還せら
れたし。戦犯者の家族には、保護を十分に与えられたし。
●(青少年の保護)近時いかがわしき風潮は、占領軍の影響から来て
おるものが少なくない。この点について、わが国古来の美風をも十
分考慮にいれられたし。以下略

以上が死刑執行数時間前に、花山師の前で東條が朗読した遺言の摘
要である。その後、19年の月日が経った。この遺書の原本は再三にわ
たりGHQへも米陸軍にも交渉したが、今日に至るまで返って来ない。
203(秘録・東京裁判・清瀬一郎)

以下、マッカーサーの証言の邦訳文を転載する。この証言を読むと、
東條英樹の口供書・遺言の重みが新たになる。東京裁判の姿が浮かび
上がってくる。

●米国上院軍事外交合同委員会におけるマッカーサー証言です。
問 では五番目の質問です。中共(原稿は赤化支部)に対して海と空
から封鎖してしまへといふ貴官の提案は、アメリカが太平洋において日
本に対する勝利を収めた際のそれと同じ戦略なのではありませんか。
(一部旧仮名遣い)
●答・その通りです。太平洋において我々は彼らを迂回しました。我々
は包囲したのです。日本は八千万に近い厖大な人口を抱へ、それが四つ
の島の中にひしめいているのだといふことを理解していただかなくては
なりません。その半分近くが農業人口で、あとの半分以上が工業生産に
従事していました。
●潜在的に、日本の擁する労働力は量的にも質的にも、私がこれまで接
していたいづれにも劣らぬ優秀なものです。歴史上のどの時点において
か、日本の労働者は、人間は怠けている時よりも、働き、生産している
時の方がより幸福なのだといふこと、つまり労働の尊厳と読んでよいも
のを発見していたのです。
●これほど巨大な労働力を持っているいふことは、彼らには何か働くた
めの材料が必要だといふことを意味します。彼らは工場を建設し、労働
力を有していました。しかし彼らは手を加へるべき原料を得ることがで
きませんでした。
●日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何も無いのです。彼ら
は綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫が無い、ゴムか無い。
その他実に多くの原料が欠如している。そしてそれらの一切のものがア
ジアの海域に存在していたのです。もしこれらの原料の供給を断ち切ら
れたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであらうことを彼ら
は恐れていました。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、
大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです。(東京裁判日
本の弁明・小堀桂一郎編・546)
次号から東京裁判の仕組・その流れの中から取り上げられている南京事
件を取り上げます。GHQやって来た言論統制と加担したメディア、N
HK、戦後利得者の姿が浮かび上がってきます。