■理念探究会114号

■理念探究会114号
◎幸福は最初は不幸の形をして現れる
この言葉は隠岐の聖者と呼ばれた永海佐一郎博士の言葉である。
隠岐の西郷町に生まれ、漁師の父を海でなくし、母に育てられま
した。その後、いろいろな縁がかさなり東京工業大学教授、名誉
教授などを歴任され退官後「すべてのことは、母に代えられない」
と言う思いから隠岐の故郷に帰郷後も奥様を助手にして化学の研
究を続けるかたわら、永海賞の設置、道徳高揚・勉学奨励の講演
などを行われ青少年の育成に貢献された。
その永海博士が自分の体験を通じて「幸福は最初は不幸の形をし
て現れる」と言われているわけです。
森信三先生から「逆境は神の恩寵的試練なり」と言う言葉を教
わり、自分の体験を通じながらも進化経営学院創設の時に、創設
の辞として逆境練機・転原自在・経営進化・互恵共栄と石に刻み
ましたが、人生は思うように行かないもので、一生を通じると幸
福だと感じるときと不幸だとか、運が着いていないとか感じるこ
とは誰にでもあることです。
私は幸い城野宏先生に37歳の時にお会いし、楽しく愉快な人生
にするかどうかはすべて本人の精神姿勢「状況を変えていく原は
自分にある」という主体的な姿勢を確立・体験してから、逆境と
思ったことは一度もありません。そのことを進化経営学院では伝
えてきました。しかし、頭でわかること、言葉や意味を知ること
と、体験体得することとは違います。腑に落ちるまでにはいろい
ろと紆余曲折があります。

◎二人の息子の交通事故
丁度私が四十九歳の時、創業を決意、退社しようとした1991年
8月のことでした。長男倫太郎が、夏休みを利用して北海道にバ
イクで出かけ、交通事故に遭いました。そして一カ月後東京に帰
って来たとき、院内感染にかかっていることが分かり、再入院す
ることになりました。菌が無くなるまで、退院の目途は全くたち
ません。浪人して入った専門学校で再び留年することになるわけ
です。翌年のお正月に弟の竜が大学の進級試験勉強に疲れ、気分
転換にバイクで走っていて、凍りついた道で転び、足と手を骨折、
朝の牛乳配達の人に気がついてもらうまで寒い冬の夜を過ごした
ことがありました。
竜事故の日が丁度、皇太子殿下の婚約が整った日でした。
朝5時に警察から電話がかかってきました。死んでますか死んで
いませんか?という私の問いに、「死んではいませんけれど重症
です」という返答がありました。その朝、相模原まで出かけまし
た。息子は誠に申し訳ありませんでしたと謝り、それ以来妻善子
は毎日、倫太郎の入院している蒲田と竜が入院している相模原を
毎日通いました。母親の力は大したものでした。親しい人から
「黒田、お前は前世によほど悪いことをしていたに違いない」と
言われたものです。これらのことも私達にも子供達にも、素晴ら
しい体験になりました。自立への必要な道程だったのですね。

◎事業継承と試練
進化経営学院で学び、理念探究をし、制定にまでたどり着く人
は、少なからず大きな試練、逆境を味わっています。親の膨大な
借金を背負い理不尽な目にあいながらも、三年がかりで、理念制
定に辿りついた30歳初めの経営者、そして中堅のスーパーを親か
ら引き継ぎ、結局5~6年で閉鎖しその後、草むしりを事業とた
ちあげ、何人もの人を採用して日々、喜びの生活を仕事にしてい
る人。先日の理念実践会でも啓発会でも、正に「幸福は最初は不
幸な形をして現れる」体験をしている自分に気づいた若い経営者
との勉強会でした。文字通り、逆境に出逢い耐えてくる間に人間
は成長する。むしろ試練がないことの方が問題だとまで、言い切
る若い経営者が私の身近に増えてきました。

◎逆境は神の恩寵的試練
永海博士の言葉のように「真の幸福は、最初は不幸の形をとっ
て現れる」が、もしわれわれがそうした不幸を耐え忍ぶとしたら、
それによってわれわれはしだいに自己の「我見」から脱却を可能
にする。「我見」と呼ぶものは他でもなく自己を取り巻いている
モロモロの事物を「自己を中心とする」観点か眺めることの意味
である。
試練、逆境に遭いそのことに耐え忍んだ結果が、「我見」から
脱却し、振り返るとあのことがあったればこそ今があると言える
ことを体験する。それらの体験を数多く体験しないと自己の使命
にまでは到達できないであろう。
もしあなたに理不尽と思われることが訪れてきたとしたら、そ
れは神の恩寵的試練であり、真実の幸福があなたに訪れる時は遠
くないということですね。

●脳力開発114号
■極東国際軍事裁判
国内外の原爆に関する贖罪意識の芽生え
1.昭和23年1948年2月6日現在、極東国際裁判の最終論告、最終弁
論を控え緊迫した情勢にあった。民間情報教育局は以下のよう
に考えていた。
2.合衆国内の一部科学者、聖職者、作家、ジャーナリストおよび
職業的社会運動家達の論説や公式発言に示唆され、日本の一部
の個人ないしグループが、広島と長崎の原爆投下に「残虐行為」
の烙印を押し始めている。さらに、これらアメリカ人の間に残
虐行為に対する贖罪の感情が次第に高まりつつある。280
●東條英樹の評価に対する危惧
3.東條は自分の立場を堂々と説得力を持って、陳述したので、そ
の勇気を国民に賞讃されるべきだという気運が高まりつつある。
この分で行けば、東條は処刑の暁には殉国の志士になりかねな
い。280
4.これらの態度に対抗するため、今一度繰り返して日本人に、日
本が無法な侵略を行った歴史、特に日本軍が行った残虐行為に
ついて自覚させるべきだという提案がなされ、なかんずくマニ
ラの掠奪日本軍の残虐行為の歴史を出版し、広く配布すべきで、
広島と長崎に対する原爆投下への非難に対抗すべく、密度の高
いキャンペーンを開始すべきだという示唆が行われた。281
●各界の影響力ある指導者に対する懐柔
5.本キャンペーンの基本方針、方法が決められた。ひとつは影響
力のある編集者、労働界、教育界および政界の指導者とつねに
連絡を密にすること。進歩的、自由主義的グループの組織発展
を奨励すること。282
6.特定の方法として新聞に対して民間情報教育局・新聞出版班は
日本人編集者と連絡を維持し、東條および他の戦争犯罪人裁判
の最終弁論と評決について、客観的な論説と報道が行われるよ
うに指導する。広島に関する報道も任務である。283
此処までは先月号に一部です。

●東條英樹「口供書」の主要論旨
7.「口供書」の末尾で東條元首相は次のように断じている。終わ
りに臨み私はここに重ねて申し上げる。日本帝国の国策ないし
は当年、合法にその地位にあった官吏の採った方針は、侵略で
もなく、搾取でもなかった。(中略)当年国家の運命を商量較計
するの責任を負荷した我々としては、国家自衛のために起つと
言うことがただ一つ残された途であった。285
8.しかし、破れ眼前に見るが如き事態を惹起した。戦争が国際法
上より見て正しき戦争であったか否かの問題と、敗戦の責任如
何との問題とは、明白に分別できる二つに異なった問題である。
9.第一の問題は外国との問題であり法律的性質の問題である。私
は最後までこの戦争は自衛戦であり、現時証人せられたる国際
法には違反せぬ戦争なりと主張する。私は未だかつてわが国が
本戦争をなしたことを以て国際犯罪ありとして勝者より訴追せ
られ、また敗戦国の適法なる官吏たりし者が個人的の国際法上
の犯人なり、また条約の違反者なりとして糾弾せられるとは考
えた事とてない。
10.第二の問題、即ち敗戦の責任については当時の総理大臣私の責
任である。この意味における責任は、私はこれを受託するのみ
ならず、衷心より進んでこれを負荷せんことを希望するもので
ある。(中略)キーナン首席検事との四日間にわたる応酬を通じ
ても、全くその主張を翻さなかった。286

●東條英樹証言に対する朝日新聞の作為
11.証言台に上った東條元首相に対するウエッブ裁判長の尋問と、
弁護人側の再尋問は昭和23年1月7日午前11時15分をもってすべ
て終了したが、翌1月8日付の「朝日新聞」の「天声人語」欄
は、東條証言について次のように記した。290
12.▲キーナン検事の尋問に対して東條被告は「首相として戦争を
起こしたことは道徳的にも法律的にも正しかった」と答えてい
る。東條が法廷で何を言おうとそれはかまわぬ。思った通りそ
のまま言えばよい。東條一人が是非を悔いて、しおらしいこと
を言ってみても今さら何の足しにもならぬ。われわれもまた東
條の言辞を相手に論争しょうとは思わぬ。
13.▲外人記者も言っておる。「世界は東條の口許をみてはいない。
東條の言を聞いた国民の表情を注視しているのだ」と。
14.▲このごろ電車の中などで、「東條は人気を取り戻したね」な
どと言うのを耳にすることである。本社への投書などにも東條
礼賛のものを時に見受ける。沈黙している大部分の国民は、今
さら東條のカストリ的、ジ光様的迷句に酔うとは思われない。
が、一部に東條陳述共鳴の気分が穏見していることは見逃して
はならない。
15.▲それは歴史のフイルムを早く回すことだ。民主主義のプール
に飛び込んだはずの水泳選手が、開戦前の侵略的飛込台に逆も
どりするに等しい。それはまた、美しいワイマール憲法をつく
ったドイツ国民がナチスの毒虫にむしばまれてしまったことを
連想させる。(以上天声人語より)291

●GHQの言論統制とそれに従う朝日新聞の現実
16.民間検閲支隊の事前検閲の拘束を受け、常に民間情報教育局の
連絡将校と接触し「宣伝計画」の一翼を担わされたに違いない
「天声人語」の当時の筆者が、ここで一目瞭然な「奴隷の言葉」
を用いて語っていることは何ら驚くにあたらない。291
17.朝日新聞も天声人語の中でこのごろ電車の中などで、「東條は
人気を取り戻したね」などと言うのを耳にすることである。本
社への投書などにも東條礼賛のものを時に見受ける。一部に東
條陳述共鳴の気分が穏見していることはみのがしてはならない。
と指摘している。291
18.東條は自分の立場を堂々と説得力を以て陳述したので、その勇
気を国民に賞讃されるべきだという気運が高まりつつある。こ
の分で行けば、東條は処刑の暁には志士になりかねないと危惧
しているこというGHQの視点と一致している。292
19.朝日新聞は民間検閲支隊と相呼応して、あるいは「客観的」報
道の名の下に裁判の真の姿を隠蔽し、あるいは日本の報道機関
を「指導」して、被告団の生命を賭した陳述に罵声を投げつづ
けさせたのである。292
(注)ここに見られるように既に朝日新聞GHQの意向に沿って真実
から目を背けさせ、世論を誘導し始めている。企業存続のために魂
を売り渡し、占領軍にすり寄っている。この姿勢が今も朝日の中に
脈々と引きつがれ自分たちの国を貶めることを続けている。中国に
すり寄り文化大革命の真実を隠蔽し虚偽情報をながし、慰安婦問題
の虚偽を蒸し返し、国連にまでご注進して日本を貶める姿勢は、既
に東京裁判の渦中から始まっている。
◎秘録・東京裁判 清瀬 一郎
東京裁判で日本人弁護士として獅子奮迅の活躍をされた清瀬一郎
氏の著書を繙いて、弁護人としての基本的な姿勢、連合国側の意図、
同時に言論統制に加担した朝日新聞等メディアの実体を検証します。
●無条件降伏に非ず
20.日本はポツダム宣言を受託したのであるが、その当時からこんに
ち至るまで、世間では無条件降伏という言葉が流行し、占領中に
はすぐに「何しろ、われわれは無条件降伏したのだからいたした
かない」といって、占領軍の占領軍の横暴ぶりを見逃す言いぐさ
としていた。しかし、東京裁判の弁護人は、初めから終わりまで、
ポツダム宣言受託は無条件降伏ではないことを断言し、これを弁
護の中核とした。32
21.ポツダム宣言第十条は「われら(連合国)は、日本人を民族とし
て奴隷化せんとし、また国民として滅亡せしめんとする意図を有
するものにあらざるも、われらの俘虜を虐待せるものを含む、一
切の戦争犯罪人に対してと、厳重なる処罰を加えらるべし」昭和
20年7月26日。32
●国際法が認めざる新罪名(事後法)
22.当時の戦争犯罪は何を意味するか研究した。そのころの国際法学
者たちは、宣戦布告をしたり、また戦争行為をなすこと自身を戦
争犯罪といっているものは一人もいない。
東京裁判いう「平和に対する罪」また「人道に対する罪」という
のは、同年七月の時点では戦争犯罪の範囲外である。かくのごと
き起訴は当然却下されるべきものである。34
23.この理論は、検事の起訴状朗読直後に裁判管理に対する異議とし
て申し立てられたから、これに対しての判断を下されければ手続
きは進行しない。そこで法廷はいったん閉廷し、数日間休廷して
会議を開いた。その結果、弁護側の異議はこれを却下する、却下
の理由は後に説明する、といって強引にその場を切り抜けた。そ
うして判決のときもそれと思われるものはなかった。34
●当時のメディアは無条件降伏したと宣伝
24.しかし、あの当時日本の新聞その他が、日本は無条件降伏したの
だと宣伝し、こういう議論は世間の耳に入らなかった。それより
時がたって、はじめて各方面からこの問題が取り上げられるよう
になった。34
25.占領中、マッカーサーの陣営内にあった、ウイリアム・シーボル
トという人が「日本占領外交の回想」の中で、当時としては国際
法に照らして犯罪でなかったような行為のために、勝者が敗者を
裁判するというような理論には私は賛成できなかった。(中略)
この最初の演出された法廷の行事が終わるまで、私は、不安の感
じに襲われ、ふたたび法廷にはもどらなかった。35
●裁判の権限なし
26.第一は当裁判所においては平和に対する罪、また人道に対する罪
につき、お裁きになる権限がない。ポツダム宣言の条項はわが国
を拘束するのみならず、連合国もまたその拘束を受けるのであり
まして、同条項で戦争犯罪人と称せざる者の裁判をなす権限はな
いのであります。50
●ニュルンベルグ裁判の原則適用は間違い
27.ここが非常に大切なこととも思います。ドイツとは、降伏の仕方
が違っている。ドイツは最後まで抵抗してヒトラーも戦死し、ま
ったく文字通りの無条件降伏をしました。わが国においては連合
国が日本本土に上陸しない間に、ポツダム宣言を発せられた。
28.その第五条には、連合国政府はわれわれもまたこれを守るであろ
うという条件で、わが国も受託した。それゆえニュルンベルグに
おける裁判で、平和に対する罪、人道に対する罪を起訴したから
といって、それを直ちに類推して極東裁判に持ってゆくというこ
とは、絶対に間違いであります。53
●動議却下される
29.米人弁護人ブレーク君や、ファーネスト君より、新たな平和に対
する罪や、人道に対する罪を本法廷憲章により創定することはで
きぬという論旨も付加された。動議提出より5日後なる5月17日の
午前に、裁判長は「管理に関するすべての動議を却下する。その
理由は将来宣明する」として、その場を切り抜け、進行を図った。
54
30.「将来宣明」というが、その後一向に宣明はなく、その時より2
年6カ月も経過した昭和23年11月4日の判決言い渡しの時に、7人
組判決(インド、オーストラリア、フランス、オランダの4国代表
裁判官を除く7人の多数派判決)はこの点に言及した。
「当裁判所ニュルンベルグ裁判所の意見とその意見に到達する推
論に完全に同意する」と宣言した。54
●十一人の裁判官の内、判決に四人の裁判官が反対
31.裁判官中でもインドのパール裁判官は「当裁判所の管轄権に異議
ありとする動機は当然受理されなければならないとする。」と述
べている。この理由は田中正明著「パール博士、日本無罪論」中
に解説している。56
32.思いがけなくウエッブ裁判長も平和に対する罪は事後法であるか
ら、これだけで死刑は適当でないという意見を述べた。
「どの日本人被告も、侵略戦争をする共同謀議したこと、この戦
争を計画及び準備したこと、開始したこと、また遂行したことに
ついて、死刑を宣告せられるべきではない」と朝日新聞記者団編
集「東京裁判」下巻175頁に書いている。57
(注)ウェッブ裁判長、パール判事、オランダのレーリンク判事、フ
ランスのベルナール判事
●マッカーサーも後に東京裁判は失敗と発言
33.「マッカーサーと共に日本にありて」の著者シーボルトは東京裁
判の方式や、裁判の合法性自体を疑問とし(同所130頁)、また
マッカーサー自身も米国上院の委員会で「東京裁判は失敗であっ
た」と証言したと言われている。57
以上、清瀬一郎・秘録東京裁判より
(注)昭和二十六年五月アメリカ上院の軍事外交合同委員会でマッ
カーサーは次の二つの重大発言をした。
①日本の戦争は自衛戦争である。②アメリカが過去百年に太平洋で
犯した最大の政治的過ちは、共産主義者が支那において勢力を増大
していくのを黙過してしまったことである。


■理念探究会113号

■理念探究会113号
◎その一、全人的決意の人は猪突猛進でなく 転換もまた決然となしうる 
3年ぶりにブラザー印刷の岡田さんを訪ねた。一年が経つのが早く、毎年年賀状をみると、「そうだこの人にあっていない。今年は会っておこう」という思いが沸き上がってきた、今年は会いたいと感じた人にあう計画を年間計画に組み込むことにしました。そう感じるのも、弟の突然の死や大学のグリークラブの同窓会のあと連絡がないので電話をしてみたら「入院をしている」「いつ退院なの」と問うと、「間もなく」という奥さんの言葉にほっとしていると、突然逝去しましたという報が入る。そんなことも重なると最近会っていない人には会って置こうということで、恵那訪問の帰りに名古屋に泊まり、翌朝岡崎を訪ねた。
彼は若くして白髪でダンデーな青年だったがもう、おつきあいして30年、MG・脳開・MT(マイツールパソコン)の経営改革を目指した同志でもあった。私も四十代の頃、東京は和環塾、名古屋は愛環塾など各地に経営者の勉強会を組織して活動して
いた。岡田氏は取り分け私が講師を務める「能力開発」を長く開催してくれた。私の主催する会や著書や諸々の出版を一手にお願いしている。「メールで今生のお別れに参ります」と言ったら、「私は百二十八歳までいきます」と返って来た。彼は私にとって正に「畏友」でいつも刺激を与えてくれる。岡田さんは「黒田さんの前だと何でも話ができるんですよ」と言ってくれる。

今回の話は面白かった。というよりも爽快だった。
企業の求心性と社員の自立性を平行育成
私も五十歳からの仕事の中心を「個人・企業の理念制定支援」においている。理念を制定して企業目的(志)を明確にすると、事業設計を立案し、実務の世界が始まる。
経営の目的をはっきりさせて、経営している経営者は実際には少ない。多くは会社存続と利益の創出が目的で・そのための努力を営々とつづける。また企業に勤める人たち(サラリーマン)の多くの人たちは、殆どの人が自分の生活を営むことが第一目的になっている。そして今の世界の状況は大きく変わり、大企業がサラリーマンの一生を保証してくれないにも関わらず与えられた仕事に精を出して日々を過ごす。
しかし、突然その企業が、あるいは業種が消滅するにも関わらず、その日まで安閑として過ごす。これを茹で蛙現象という。蛙はじわりじわりと温度が上がっているうちに外に逃げ延びる切っ掛けを失って、ゆで上がり一貫の終わりになる。
自立こそ、その人の人生を活かす
この3年間で最も変わったことは、売上げを減らし、社員を減らし利益体質に転換していることだ。彼には印刷業のなかで技術的に先端の仕事を進めてきた。17年前に2億円の投資をして、オンデマンド印刷に取りかかり、分社をつくり、取り分け社員教育にも力を入れてきた。それから教育にも力を入れてきた。以来十数年、意図したように残念ながら社員の自立性は強まらなかった。むしろ居心地のよい環境は
彼らの自立心の阻害になった。
ある時、仕事の関係で、一人の若い世代の女性に会った。彼女は会社の目指す方向については共感した。数年後、その彼女が縁あって、会社に勤めることになった。岡田さんが是非にと入社を勧めた。会社に入ると、目指す方向については共感するが、一人一人への指導が甘いと叱咤された。企業は利益を出すことも必要ではないか。今のままの体質でいいのかと黒字転換計画を進言し、彼はそれを了承した。以来3年、売上げ減少、人員減少、利益増の結果を生みだしている。
困難を乗り換えてこそ人は育つ
社員の居心地のよい会社は果たして、社員にとってよいことなのか?最近の電通の女性社員の自殺問題から、残業を制限するなど、まるで社員を子供のように扱う風潮がある。
電通の鬼十則を社員手帳から外したという。おかしな話しだ。
楽して儲かることなどない。西洋型の経営では最小労力で最大効果を狙う。そんなことが現実にあるだろうか。他人と同じことをやっていて最終のお客さんから評価されるだろうか?あり得ない。
お客さんは、「そこまでやるのですか?」という姿に感動する。社長歴17年。二度目の転換を愉快に進めている。
自立連帯経営
私が社員の自立を促す「自立連帯型経営」を推進する訳はそこにある。こういう言い方をするとはサラリーマンを長くつづけた人は立腹するかも知れないが、「個人の自立のないところにその人の生きがいは見いだせない」。人間は自分が独立して自分の食い扶持を自分で稼ぐところにその人の持っている能力の発揮がある。甘い
環境、居心地のよい、福利厚生などの整った会社を由とする風潮が、最近益々増えてきた。実はこのことは人間を堕落させる最大の要素だ。
岡田さんの敢然たる転進に喝采を送りながら、休日の社長室でワインを一本開けた再会だった。畏友・岡田氏いまだ衰えず。
◎その二、理念が転換を支える
 いままでの産業が消滅する時代
ある産業が永久に続くここはない。私が大学を卒業した1967年頃は繊維関係の仕事が産業界を風靡していた。成績の優秀な人は多くが、繊維業界を目指した。私の友人が入社した三菱レーヨン、日清紡、鐘紡、東洋レーヨンなど名だたる一部上場企業は今、仕事内容は殆ど以前の姿ではない。三菱レーヨンに勤めてきた幼なじみは、社名を変更し三菱グループで統合するようだと教えてくれた。大企業は企業転換も果敢に行う。今フジフィルムが化粧品分野で出色の業績を上げているのはご存じの方も多いだろうが、しかしかつて、かの有名なインスタントカメラのコダックは一瞬にして消滅した。
私が勤めていた電機業界の日本コロムビアは1998年リップウッドに身売りして今は細々と高級オーディー機器をマランツと経営統合して製造販売している。
1970年代は正にオーディオブームだった。高度成長と重なり毎年売上げを伸ばし面白くてたまらない時期も経験した。また会社再建で数年にわたり管理職の賃金カットやボーナスの代わりに、カラーテレビを十台支給されたことがある。
事業の転換への提言
私が会社をやめた理由は「経営幹部=役員」が自分の保身しか考えていないことを体験したからだ。私の事業構造の転換についての提案を、「なるほど、黒田の言う可能性も確かにある。しかし、まだわたしが役員をしている間は大丈夫だ」と一蹴された時に、私は日本コロムビアをやめようと決心した。そしてやめた後5年後日本コロムビアは事実上消滅した。そして同じく電機業界はビクターしかりケンウッドしかりパイオニアしかり。今はその産業自身が衰退している。幾多の名だたる銀行、百貨店、スーパーも消滅している。どんな産業も何れは消滅する運命にある。
事業転換の決意は容易ではない
私の関係する会社がある。ここ数年の傾向については赤字がつづき、この産業自体が凋落傾向にある。しかし、業態自身を転換させると決心することは容易ではない。それまで五年の準備機関と今後の見通しを立てた。中小企業の経営者にとって口で
言うほど簡単ではなく、決心を躊躇することだ。外部からは理屈はいえる。消滅の予想もいえる。しかし経営者にとってなかなか決断はしかねる。
理念は事業構造の転換を支える
社長は苦悶していた。数字の面を全面的にアドバイスしているS氏とここ数年事業構造転換を勧めてきた。解答の見えない相談。一月沖縄での経営合宿では、まだ決断ができない。そして2月社長とS氏と二人の合宿でも結論が出ない。一週間置いた合
宿で、社長が決然と意思決定した。その報告を改めて聞いた。驚いた。それまで幾多も議論した問題を解決する方向で結論を出した。企業理念のなかの社志に、

一、社会に役立つ自立した人材を育てます。そして経営姿勢に一、若々しい組織とし    て脱皮を続けます。という項目がある。社長は再びこの制定した理念に帰り、構造改革を決心した。その内容社長自らの口から伝えられたとき、私は理念の価値を再認識した。これから具体的に進めることになるが、グループ社員全員が一丸となって一
層、社会的自立性の高い人材に育ってほしいと心を熱くした。
私の尊敬する「出光興産創業者の出光佐三は次のように言っている。出光には「人間をつくることが事業であって、石油業はその手段である」というようないい方があるのです。出光には二つの定款がある。一つは法律上の定款であって、これは石油業を行うこと。もう一つは信念上の定款。「われわれは石油業をやっているのじゃない。人間が働けばこういう大きな力を発揮する。そして一人一人が強くなり、一致団結して、和の力を発揮したときには少数の人でも、こんな大きな力が現れるのだと
言うことを現して国家民族に示唆を与える」事業は目的ではない。手段だ。その上位にあるものが企業の目的だ。目的が明確ならば事業構造の転換も決然となすこ
とかできる。

 

■能力開発

■閉ざされた言論空間・東京裁判
■太平洋戦争史の影響
初めに、今回からいよいよ東京裁判について検証していきたい。東京裁判(昭和21年5月3日開始~昭和23年11月12日結審)は実は連合国側の意図が明確にあって、その方針に従って展開されている。しかし連合国にも進行に齟齬を来し、幾多の矛盾した点が出ているが、順次述べていきたい。今回は、東京裁判の疑問点をあげ、言論統制との繋がりをみたい。次回から各疑問点を検証することにする
太平洋戦争史の新聞掲載第一回は昭和20年12月8日に開始され、本として上製されたのは昭和21年3月30日である。裁判が開始されたのは21年5月3日。このことは連合
軍による裁判の方向は、上梓された太平洋戦争史に添う形で、裁判が展開され判決が出されたことを意味する。
■東京裁判に関する疑問
東京裁判を見るには、いろいろな疑問がある。疑問その一、法の不遡及ということを無視して、事後法によって裁いた。「平和に対する罪」「人道に対する罪」は事後法で、法の不遡及については、日本側の主張に対して「その問題は後まわしにすると保留したまま、結審にいたるも、遂に裁判官側は答えなかった。清瀬一郎弁護士の管轄権論争は法理論としてはるかに理が通っているのだが、裁判全体が戦後審理に支配され感情にとらわれている
その二、判決文には「東京裁判はニュルンベルグ裁判の原則をそのまま踏襲した」とある。ニュルンベルグ裁判の「人道に対する罪」という訴因は、ユダヤ人迫害とか絶滅とかに対して設けられた。日本にはそんなものはなく、日本に遭ったのは通常戦争犯罪だった。ニュルンベルグの規定をそのまま持ち込んだので、ユダヤ人虐殺と南京虐殺とが同一視された。
その三、証拠の却下。判決文には次のようにある。「提出された証拠のうち、特に弁護側側によって提出されたものは大部分が却下された。それは主としてまったく証明力が殆どないか、全く可憐性がないか、非常に希薄な関連性しかないため、裁判所の助けにならなかったである」。
その四、多くの無辜の市民を殺傷した「人道に対する罪」は日本だけに課せられるべきものなのだろうか。裁判ではダブルスンダードが通用するものであろうか?原則には「無辜の市民を殺傷すべからず」とあるが、広島、長崎への原爆投下はこの規定に触れないのか。
その五、日ソ間には中立条約は有効だった。日本はソ連を侵略したことはなかったが、ソ連は日本を侵略した。にもかかわらず裁判にはソ連の堅持が出てきて「ソ連に対する日本の侵略」という糾問をし、ソ連判事がそれを認めた。強盗が判事になって「強盗は被害者である」と判定した様なものである。
裁判の記録「25被告の表情」
昭和23年4月5日「25被告の表情」として読売法廷記者が共著で裁判の進行を上梓している。清瀬一郎弁護士の簡閲による。この本は出版直後GHQによって発禁命令が出され、絶版。五千冊が世に出た。2008年復刻委員会が今日、出版して、誰でも読むことができる。
■日本人洗脳計画
●新聞は昭和20年9月1日より6年半にわたって、事前検閲が実施された。
日本人が知らされていなかったことが、毎回の裁判の様子が新聞で報道されるに従って、国民に影響を与えたことは言うまでもない。しかも、太平洋戦争史の新聞掲載と同時に裁判の様子も伝えられている。新聞掲載後、その後、ラジオによる「真相はこうだ」に引き続き「真相箱」が日本人洗脳計画に執拗に利用されたことがわかる。
以下、江藤淳・閉ざされた言論空間より
●学校教材に活用
1、太平洋戦争史なるものは、戦後日本の歴史記述のパラダイムを規定するとともに、    歴史記述のおこなわれるべき言語空間を限定し、かつ閉鎖した。また学校の教材として採用された。(全国の中学校に10万部配布され、副読本として使用された)264
●ラジオによる同時洗脳工作
2、新聞掲載と教材採用にとどまらず、精力的にラジオのキャンペーンを展開している。「真相はこうだ」がそれである。
「真相はこうだ」は「太平洋戦争史を劇化したものである。1945年12月9日から1946年2月10日まで10週間にわたって週一回放送された。同時に日本の放送ネットワークに「真相はこうだ」の質問箱を設けた。273
3、「真相はこうだ」の放送が終了した時点で、この質問箱は「真相箱」となった。この番組は41週つづき、1946年12月4日に終了した。この番組には毎週平均900通から1200通の聴取者からの投書が寄せられた。つまり、学校教育に「ウォー・ギルト・
インフォメーション・プログラム」を浸透させると同時に、ラジオというメディアを、社会教育のために最大限活用した。274
●東京裁判開廷に先立ちメディアに対する解説と指示
4、一方、戦争に関する罪や、破滅をもたらした超国家主義に直接言及し、罪悪感を扶植する努力もなおざりにされていない。1946年6月東京裁判開廷に先立ち、記者会見を行い、国際法廷の目的、手続きについて入念な解説をした。275
5、A級戦犯については、全面的なWDIP遂行し、裁判に関する一切の情報を日本の新聞に取得させるために注意をはらい、特に、検察側の論点と検察側証人の証言については、細大漏らさず伝えられるようにしている。276
■極東国際軍事裁判
●国内外の原爆に関する贖罪意識の芽生え
6、昭和23年・1948年2月6日現在、極東国際裁判の最終論告、最終弁論を控え緊迫した情勢にあった。民間情報教育局は以下のように考えていた。
7、合衆国内の一部科学者、聖職者、作家、ジャーナリストおよび職業的社会運動家達の論説や公式発言に示唆され、日本の一部の個人ないしグループが、広島と長崎の原爆投下に「残虐行為」の烙印を押し始めている。さらに、これらアメリカ人の間に残虐行為に対する贖罪の感情が次第に高まりつつある。280
●東條英樹の評価に対する危惧
8、東條は自分の立場を堂々と説得力を持って、陳述したので、その勇気を国民に賞讃されるべきだという気運が高まりつつある。この分で行けば、東條は処刑の暁には殉国の志士になりかねない。280
9、これらの態度に対抗するため、今一度繰り返して日本人に、日本が無法な侵略を行った歴史、特に日本軍が行った残虐行為について自覚させるべきだという提案がなされ、なかんずくマニラの掠奪日本軍の残虐行為の歴史を出版し、広く配布すべきで、広島と長崎に対する原爆投下への非難に対抗すべく、密度の高いキャンペーンを開始すべきだという示唆が行われた。281
●各界の影響力ある指導者に対する懐柔
10、本キャンペーンの基本方針、方法が決められた。ひとつは影響力のある編集者、労働界、教育界および政界の指導者とつねに連絡を蜜にすること。進歩的、自由主義的グループの組織発展を奨励すること。282
11、特定の方法として新聞に対して民間情報教育局・新聞出版班は日本人編集者と連絡を維持し、東條および他の戦争犯罪人裁判の最終弁論と評決について、客観的な論説と報道が行われるように指導する。広島に関する報道も任務である。283
以上は、言論統制、事前検閲の上で仕組まれた施策であることは論をまたない。