■理念探究会112号

■理念探究会112号
経営計画熟考会・茨城・彦根
見通皆無 不安亦無 唯一予見 大局正解 (青色)
年末は茨城、そして年初は彦根で経営計画熟考会を開催しました。
昨年若手の経営者6名が理念を制定して初めての経営計画熟考会で
す。参加者の14名中12名の参加者が既に理念を制定している状況で
す。昨年はまだ、理念探究中の段階でした。
背骨が入るというのでしょうか、理念がバックボーンになると経営
計画の発想が異なるのですね。小欲から大欲へ、小事から大事へと
でもいうのでしょうか、2017年経営計画というものの、ここ一年のこ
とのみならず将来を視野に入れた計画が出来上がりました。

●混沌とした時代
現在は生産力が購買力をはるかに上回っている時代です。言い換え
れば物を作っても、基本的にはつくったもの全ては売れない時代なの
です。成長神話はとうの昔に終わっているにも関わらず、いまだに量
の拡大を追求しているのが世界の傾向で、この姿勢は止むことはあり
ません。
政治的には、世界はオバマからトランプ大統領の就任やイギリスの
EUからの離脱であるとかシリア難民に対してのドイツ国民の反発と
か、民主主義そのものが見直され始めています。お隣の韓国は問題外
の状態で、国家としての体をなすのか心配な状態ですが、いまだに、
事大主義から抜け出せないまま当分この状態は続くでしょう。また中
国の成長率の限界と南シナ海の強硬な軍事化なども混乱を招く要素に
なっているようです。

●変化は始まっている
日本はと言えば、安倍総理による長期政権の布石は就任以来60ヶ国
近くの訪問により過去日本が外交的に不足していた努力が実りつつあ
って、日本に対する理解も進んでいるようです。アベノミックス云々
という問題は、必ずしも正解はありませんが、この時代に、間違いな
く60年代70年代の世代の経営者は衰えを見せ、次の時代の産業が芽生
え始めています。
その時代の変化の真っ只中で、どう事業の変革を進めていくかが問
われています。私達にとって大事なことは、30代から40代の経営者が
自らの志にも基づいて自社を変革させることです。面白い時代になっ
たものです。
■脳力開発
GHQが行ってきた言論封鎖の実体(戦後民主主義・言論の自由の
虚偽)
GHQの「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(W
GIP)」や「プレスコード」に触れない「専門家」が、戦後史や日
本国憲法について何を論じても、まったく説得力がない。本来であれ
ばタブーにとらわれず、自由な研究を行うべき大学などの高等教育機
関も、主流派はいわゆる「戦後レジーム」に従う研究者たちである。
真実を探求する研究者は「歴史修正主義者」というレッテルを貼ら
れて、異端視されてきた。日米とも、真実を追求することは疎かにさ
れてきた。戦後70年以上も一方的な情報に洗脳された体制、それこそ
が「戦後レジーム」と呼ばれるものだが、今もそれを維持したい人々
が、メディアや教育機関を恣意的に動かして、最後の悪あがきをして
いる。
戦後日本に対してGHQが行ってきた強制的な情報操作により如何
に、日本人が影響を受けてきたかを、解明していきます。まず、江藤
淳が発見したGHQの資料からその実際を検証していきます。

●閉ざされた言論空間・江藤淳
■終戦前からアメリカは日本の検閲を準備していた!!
1.通説によれば日本は敗戦・占領と同時に連合軍から「言論の自由」
を与えられたことになっている。しかし、実際には降伏文書調印か
ら2週間経たないうちに、昭和20年(1945年)9月14日午後5時29分を
期して、まず同盟通信社が占領軍当局から24時間の業務停止を命じ
られた。(言論統制の始まり)9
2.朝日新聞は9月18日午後4時から20日午後4時まで48時間の発行停止
処分を受けている。東洋経済新報は10月1日には9月29日号が回収
を命じられ断裁処分に付せられた。9
3.米占領軍が行った検閲については、一次資料に即して、私は(江藤
淳)自分の手で解明を試みるより手立てがない。ウイルソン研究所
での研究題目を「米占領軍の検閲とそれが戦後日本文学に及ぼした影
響」と定めジェンムズ・ビリングトン所長に連絡した。(昭和54年春
から半年間)12
●30項目の禁止事項を列挙した「検閲指針」を発見
4.10月24日午前中、一通の部厚いファイル、マッカーサーの参謀第二
部長チャールズ・A・ウィロビーが参謀長にあてた長文の覚書の草案
を発見した。1949年3月記。23
5.この日、「SCAPが憲法を起草したことに対する批判」「検閲制度への
言及」等など30項目の禁止事項を列挙した民間検閲支隊の「検閲指針」
を発見することができた。24
6.1944年5月19日マッカーサー宛の書簡に、「民間検閲」実施に、検閲
の対象を次の様に規定している。 ①郵便 ②電信 ③電話 ④旅行
者携行文書 ⑤映画およびスティール写真をあげ、郵便の中には、信
書のほか新聞その他印刷物、小包、俘虜との通信および赤十字を通じ
て行われる通信が含まれ、電信・電話には有線無線の電信電話および
ラジオが含まれる。41
7.占領軍当局が実施した「民間検閲」は1944年11月12日付けの資料
JCS873/3により、米統合参謀本部の命令によって行われた。すなわち
フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領の命令、意志により実施さ
れた。

■アメリカは日本での検閲をいかに実行したか!!
●連合国の日本に対しての認識
1.そこ(日本)にいるのはニューギニアの場合のような従順な原住民
でもなければ、フィリピンの場合のような親米的民衆でもない。ある
ゆる日本人は潜在的な敵である。(ブラックリスト作戦命令書・諜報
付録)160

●当初のメディアの認識
2.「新聞報道取締方針」は9月11日付けで日本政府から各地方総監、地
方長官に通達されたが、日本の報道関係は一向に服従する気配を見せ
なかった。同盟通信社が世界の通信社をリードして連日スクープを続
けていた。171
●ポツダム宣言に対しての日本の認識
3.同盟通信社以下の日本の報道機関は連合国と日本の地位は対等であり、
相互の関係は双務的であって、その契約はポツダム宣言および降伏文
書によって保障されていると確していた。換言すればポツダム宣言第
13項が明示するとおり「無条件降伏」したのは全日本軍隊」のみで、
政府と国民は同宣言の提示した条件を受託して降伏したのだと解釈し
ていた。174
4.9月15日民間検閲支隊長ドナルド・フーヴァー大佐は同盟通信社社長、
日本放送協会会長、情報局総裁、日本タイムズ理事長らの日本報道関
係を総司令部に招致し、次の声明を読み上げた。176

●100%検閲の命令
5.諸君をここに招致したのは、新聞とラジオが日本全国に配布している
ニュースについて命令するためである。最高司令官は日本政府に命令す
る。交渉するのではない。新聞、ラジオは100%検閲される。連合国に対
する破壊的批判も許さない。もし日本政府がやらなければ最高司令部が
自らこれを行う。178
6.9月18日、日本帝国政府は「朝日新聞」の発行を停止させ、本日(1945
年9月18日)16時をもって発効し9月20日16時まで継続させる。187
7.発行停止に命令の対象になった二つの記事。鳩山一郎の談話。「正義
は力なりを標榜する米国である以上、原子爆弾の使用や無辜の国民殺傷
が病院船攻撃や毒ガス使用以上の国際法違反、戦争犯罪であることを否
むことはできぬ。以下略188
8.10月1日「東洋経済新報」9月29日号の押収を命じられた。「進駐米軍
の暴行/世界の平和建設を妨げん」と題された論説(石橋湛山)「記者は
読者に深くお詫びしなければならない。米国進駐軍の一部に記者の予想
に反して意外に不良分子が存し、種々の暴行が演ぜられていることにつ
いてである。中略。米国はただにわが国の有形的武装解除を行うのみな
らず、また精神的武装解除を行うと称している。192

●6年半にわたって日本の言論空間を拘束
9.9月19日フーヴァー大佐は日本新聞遵則(日本出版法・プレスコード)を
発出。これは9月21日に公表された日本放送遵則(ラジオ・コード)と一対
をなす。9月10日付けの「新聞報道取締方針」に替わり、以後6年半にわ
たって日本の言論空間を拘束した。193
10.GHQは新聞と言論の自由に関する新措置が9月29日本政府に通達。新聞
とその発行者および新聞社員は「いかなる政策ないし意見を表明しょう
とも、決して日本政府から処罰されることはない」という特権的地位が
あたえられた。「いかなる」という以上日本にどのような不名誉と不利
益をもたらすものであってもよく、直接的に日本という国家そのものの
解体と消滅を指向するものであってもよい。この指令によって日本の新
聞は、国家に対する忠誠義務から完全に開放された。205

●新聞は、連合国最高司令官の完全な管理下
11.その代わり、新聞は、連合国最高司令官という外国権力の代表者の完
全な管理下におかれ、その「政策ないし意見」、彼の代弁者に変質させ
られた。検閲が、新聞以下の言論機関を対象とする忠誠審査のシステム
であることはいうまでもない。205
12.かくの如きものが、あたえられたという「言論の自由」なるものの実
体であった。正確に、日本の言論機関に対する転向の強制にほかならな
かった。この時以後、日本の新聞は、進んで連合国の「政策ないし意見」
を鼓吹する以外に、存続と商業的発展の道を見いだし得なくなった。206
●「報道の自由」も「言論の自由」も存在しない
13.1947年1月7日の民間情報教育局新聞出版班長ダニエル・C・インボー
デンとの雑誌社80社との交換質問を通じて、出版関係者は「報道の自由」
も「言論の自由」も存在しないことをよく知っていたが、そのことを指摘
したり活字にしたりすることは厳禁されていた。209
14.外国権力ニ100%服従を強制されたジャーナリズムの実状にほかならなか
った。1945年9月29日午前11時30分を境にして、日本の言論機関、なかんず
く新聞は、世界に類例を見ない一種国籍不明の媒体に変質させられた。209
15.10月4日更に、「政治的、市民的、宗教的自由に関する制限撤廃」指令を
出し、①政治犯人の即時釈放、②思想警察の廃止、③内務大臣と警察首脳
の罷免、④治安維持法以下市民的自由を制限する一切の法令の廃止または
停止、の四項目骨子とする指令が出された。この指令が東久邇宮内閣を総辞
職に追い込んだ。209

●事前検閲の申し渡し
16.10月5日午前11時新聞担当官ピーターズ大尉は朝日、毎日、読売報知、日
本産業新聞、および東京新聞の編集長を招致して、9月14日以来、同盟通信
社に対して実施していたニュースの事前検閲を5紙にも拡張実施する旨を申
し渡した。1945年10月8日から開始された。210
17.新聞・出版関係者にとっては、検閲者はCCD(民間検察局)正体も定かで
ない存在に他ならない。しかし新聞の発行を続け、出版を続けるということ
によって、被検閲者は好むと好まざるとに関わらず、必然的に検閲官に接触
せざるを得てい。そして検閲の存在を秘匿する義務を課せられて、否応なく
闇を成立させている価値観を共有させられてしまう。221

●生殺与奪の権を握っている者たちへの「恐怖」
18.検閲官の側における「邪悪」な日本に対する「恐怖」と被検閲者の側にお
ける闇の彼方にいて生殺与奪の権を握っている者たちへの「恐怖」。表の世
界の開放は影と闇の世界の黙契を支える「恐怖」の裏付けをえて、日本人の
「精神まで立ち入り」これを変質させる手がかりを掴んだ。222

■江藤淳が見つけた30項目の報道規制 (一部省略)
1.SCAP(連合国軍最高司令官もしくは総司令部)に対する批判
2.極東国際軍事裁判批判
3.GHQが日本国憲法を起草したことに対する批判
4.検閲制度への言及
5.アメリカ合衆国への批判、
6.ロシア(ソ連邦)への批判、
7.英国への批判、
8.朝鮮への批判、
9.中国への批判

●日本人の伝統的価値の組み換え
19.ここで、意図されているのが、古来日本人の心にはぐくまれて来た伝統的
な価値の体系の、徹底的な組み替えであることはいうまでもない。こうして、
日本人の周囲に張りめぐらされた新しいタブーの目のうちで、被検閲者と検
閲官が接触しそれを秘匿する行為を重ねているうちに被検閲者は自ら新しい
タブーを受容し、「邪悪」な日本の「共同体」を成立させて来た伝統的な価
値体系を破壊すべき、「新たな危険の源泉」に変質させられていった。この
自己破壊による新しいタブーの自己増殖という相互作用が戦後日本の言論空
間のなかで依然として現在もなお続けられているのである。242

●太平洋戦争史による広範囲にわたる洗脳
20.戦争の真相を叙述した「太平洋戦争史」と題する連載企画は、CI&E
(民間情報教育局)が準備し、参謀第三部の校閲を経たものであった。この
企画の第一回は1945年12月8日に掲載され、以後ほとんどのあるゆる日本の日
刊紙に連載された。戦争を始めてた罪と歴史の真相を強調するだけでなく、
特に南京とマニラにおける日本軍の残虐行為を強調している。163

21.太平洋戦争史なるものは、戦後日本の歴史記述のパラダイムを規定すると
ともに、歴史記述のおこなわれるべき言語空間を限定し、かつ閉鎖した。C
CD(占領軍民間検閲支隊)の検閲に匹敵する深刻な影響力を及ぼした宣伝
文句である。また学校の教材として採用された。(全国の中学校に10万部配
布され、副読本として使用された)264

●ラジオによる洗脳・「真相はこうだ」
22.CI&E(民間情報教育局)は新聞掲載と教材採用にとどまらず、精力的
にラジオのキャンペーンを展開している。「真相がこうだ」がそれである。
「真相はこうだ」は「太平洋戦争史を劇化したものである。1945年12月9日か
ら1946年2月10日まで10週間にわたって週一回放送された。同時に日本の放送
ネットワークに「真相はこうだ」の質問箱を設けた。
●真相箱による継続洗脳
23.「真相はこうだ」の放送が終了した時点で、この質問箱は「真相箱」とな
った。この番組は41週つづき、1946年12月4日に終了した。この番組には毎週
平均900通から1200通の聴取者からの投書が寄せられた。つまり、学校教育に
「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」を浸透させると同時
に、ラジオというメディアを、社会教育のために最大限活用した。274
●日本人のアイデンティティと歴史への内部崩壊
24.いったんこの検閲と宣伝計画の構造が、日本の言論機関と教育体制に定着
され、維持されるようになれば、CCD(占領軍民間検閲支隊)が消滅し占
領が終了した後になっても、日本人のアイデンティティと歴史への信頼は、
いつまでも内部崩壊をつづけ、また同時にいつ何どきでも国際的検閲の脅威
に曝される。345


■理念探究会111号

逆境練機 転原自在 経営進化 互恵共栄

●昨年は私達にとっても新たな出発の年になりました。
3月には23回目の理念探究会も最終回を迎え、新たに6名の
制定者が誕生し六月の理念制定企業の集まる16回目の快労祭で、
理念制定式を行いました。
●累計で40社の理念企業を支援し、引き続き制定企業の社長を
対象にした理念実践会を、五月より茨城と岡山で開校しました。
30~40歳の社長と実践と研鑽の理念実践会を始めました。また
地元の経営者啓発会も始めました。
●5月には縁があってロシア・モスクワ、サンクトペテルブルグ
を訪ね美術館での盗難にあい、改めてほぼ安心して暮らせる日
本の環境の良さ一方、世界は寸分たりとも油断ができないと身
をもって体験しました。
●旅の初日に、古希を迎えた弟が軽井沢で急死したとの携帯へ
のメッセージに驚き、誰にも予告なく死が訪れてくる人生の摂
理を深く考えさせられました。夏には姉の主人が88歳で逝去し
ました。
●十一月には益田Mランド・小河会長のお孫さん吉彦氏の結婚
式に招かれました。式の冒頭、Mランドの未来構想をテーマに
講演会もあるユニークな会でした。
●会長94歳、矍鑠としたお姿に感嘆、90歳まで健康で生きるに
は取りくむべきテーマと健康がなければ、到底不可能。私は今
年取りくんでいる日本の近代史の世界の展開がテーマです。
●まずは、80歳を目指し、楽しみにあふれる構想実現に邁進し
ます。

2017年(平成二九年)  初春 黒田 悦司

■理念探究会111号
志ある経営者・人間尊重の経営・出光佐三の生き方

進化経営学院では、出光佐三の著書を課外テキストとして使って
きた。私が最初に出光佐三の著書に出逢ったのは、1971年「人間尊
重の事業経営」であった。そして「読書会で「日本人に帰れ」を読
んだ。振り返るとその延長線上に、独立創業があり、小説「海賊と
呼ばれた男」を進化経営学院の参加者に読んでもらい、以来、副読
本として「出光佐三・魂の言葉」「働く人の資本主義」「マルクス
が日本に生まれたら」「日本人に帰れ」「人の世界と物の世界」を
使ってきた。
今回映画「海賊と呼ばれた男」を妻と見た。何度も涙しながら私
達の目指す「理念ある生き方」「理念のある経営」と重なり合うの
を感じた。進化経営学院・理念にかかわる人達には、是非、見てい
ただきたいとお勧めしている。今回、『マルクスが日本に生まれた
ら』(初版1966=昭和41年)をポイントレビューした。
映画を見て、改めてポイントレビューを読んでいただければ幸いだ。

日本人の本来もっている生き方、会社経営の理念がはっきりと浮か
び上がっている。

●人間尊重をわれわれの金科玉条とせよ
いかなる主義も、必ずある部分真理を有し美点をもっている。こ
れらは日本の偉大なる国体に咀嚼され、日本国の栄養となり、日本
の国体に包容せられて真の発達をなす、仏教しかり、儒教しかり、
芸術文化しかりである。われわれは国民の一員として、外来の何も
のをも咀嚼し、摂取して国家の発達、国威伸長の資料とする準備を
しておけばよい。それには個人として切磋琢磨、国民として修養し
ておけばよいので、実力ある国民の要らないはずはない。自己を信
じて迷うべからず。(紀元二千六百年を迎えて・1940年)12

●日本の家族主義について(日本と外国の違い)
日本の家族主義は、親子兄弟仲良く暮らすという平和な、しあわ
せな姿として、世界に誇るべきものなのだ。家族の中に中心があっ
て、そのもとに、皆が愛情と信頼でつながっている。愛によって育
った人は、純情であって人を疑わず信頼するから、一致団結する。
これが日本の和の精神のもとであり、その小さな現れが家族主義、
大きい現れが日本国、無防備の皇室、無防備の国民ということだ。
その反対に、いじめられて育った子は疑い深く人を信頼しない。そ
こで個人主義になり、権利思想になるのは当然である。これが日本
以外の征服・対立闘争の外国である。46

●マルクスとぼくの考え方の相違
西欧民族と日本民族の違いということになるね。別の言葉で言え
ば「物の国」と「人の国」の違いということになる。西欧民族の祖
先は我欲・利己の先祖だ。我欲・利己のために善悪を問わず征服し
てしまう。この制服の形を最もよく表しているのが、城壁の中にた
てこもって、その周囲に国民大衆がおるという姿だ。西欧ではエン
ペラーやキングなどは城壁にとり囲まれその中に住んでいた。これ
は朝鮮や中国も同じ。はなはだしい例が、万里の長城だ。52

●出光には資本家の搾取がなくて、全員が経営者である
創業のとき日田重太郎さんが資金を恵まれて、「この金は返済し
ないでよい、利子もいらない」と言って、何もとっておられない。
ぼくも資本家の横暴に反抗して出発しているから、搾取などするわ
けがない。出光では従業員全部が経営者であると言える。従業員と
ぼくとの間に区別をつけていない。
仕事の上ではお互いに独立して、ぼくはぼくなりに仕事をしておる
し、従業員は従業員なりの仕事をしておる。
言い換えれば各自の受け持ちの仕事の上では、お互いに自主独立の
経営者だ。出光の若い人が「私は経営者です」と言っているそうだ
が、それは皆が権限の規定もなく、自由に働いているということで
あって、ぼくはこういう形が理想だと思う。74

●組織は心の中にある
組織や規則は形式であって、ほんとうの組織・規則は各自の心の
中にある。これをすべきかすべきでないか、やってよいか悪いかな
ど、各自が心の中で判断していかなければならない。組織や規則は
できるだけ少ないほうがよい。組織は形式として必要だが、形式に
縛られてはいけない。そして、これができるのは日本人だ。76

●日本の和
外国の経営は「和」ということがない。外国では権利を主張して、
お互いが対立しているから、譲り合うということはないだろう。そ
こで、対立している人を組織でつなぐことになる。日本人に言わせ
ると、それは烏合の衆であって、人数ばかり多く要し、しかも力は
弱い。日本人にとって組織は形式的なもので、お互いが心でつなぎ
合っている。それが日本の和だ。77

●尊重すべき人間は愛情と鍛練によって育つ
社員全員が経営者ということは、上に立つ人が、愛をもって従業
員を育てる、そして自ら率先して、努めて難関に向かってこれを鍛
練する以外にはない。愛によって鍛練する、鍛練は口先で従業員を
鍛練するのではなくして、上のものが身をもって先に立つというこ
とだが、そこに始めて尊重される人間ができてくる。出光では開店
から終戦、現在までぼくがいつも先頭に立って、社員と共に苦
労している。出光の若い人が強いのもそこに原因がある。85

●難関を歩く
こいういう行き方は、経済学で言う経済原則とは全然違う。経済
学では、最小の労力をもって最大の効果を収めるという、なるたけ
働かずイージー・ゴーイングで金を儲けるということになるが、ぼ
くはその行き方を採らなかった。ぼくは自ら選んで難関を通ってき
た。難関を通るということは、人を養成する。難関の道を歩いてき
た人は、次の難関も容易に乗り越えることができる。最小労力、最
大効果の原理は「物の国」の考え方、人を重んじる「人の国」では、
人を養成することが大事だから努めて難関を歩くと言うこと
になる。86

●出光の七不思議・馘首がない
出光には馘首がない。入社した社員は子供が生まれたという心持
になって、愛の手を伸ばして育てることになっている。親と子供の
関が親愛の情をもって結ばれるのは世界中の人も同じだが、他人に
対しても子供が生まれたという感じをもちうるのは、日本人の特徴
じゃないかと思う。ところが子供は難関にぶつかるとやめたがる。
子供が途中でやめるとその人は人間としては、既に落後しているこ
とになるとうい考え方からやめさせなかった。87

●やめさせないことが本当の親切
外国の経営学からいえば、一つの会社に織っても、高い給料をも
って迎えにくるところがあれは、そこに行く。そういうふうに、い
くつも会社を変える人が有能な人とっているようだが、遣りかけた
ことは、事の如何にかかわらず終始一貫やれ、というのが僕の方針
だった。ぼくはやめさせないことが、ほんとうの親切であるという
のでやめさせなかった。これが本当の人間愛じゃないかと思うんだ。
88

●馘首・定年制・労働組合がない
出光には馘首がなく、定年制もなく、労働組合もない。この3つ
の事は、人間を愛情で育てた結果だと思う。前にも言ったように、
愛情によって育った人間は非常に純情であるから、おたがいが人を
疑わず信念の念が強い。そして互譲互助の日本精神を知って一致団
結、和の精神、呼吸とかいうものを会得しておるから、少数で非常
に力強い威力を発揮することになる。これが、出光の今の形だ。90

●貧乏は社会の仕組みの問題か、心がけの問題か
貧困の問題を物の面からだけでは考えない。人間は食べなければ
生きていけないが、それは足りればよいのである。それとは別に心
の富がありはしないか。東洋では「足るを知る者は富む」と言うが、
自ら満足することが大切だ。「物の国」では、金とか物とか物質的
なものが、富となっているが、「人の国」では、心の富・心の豊か
さというものがあると思うんだ。心に善悪はなく、心はすべて真心
だと思う。真心があれば、人に親切にしたり、社会の為に尽くした
り、自分が譲って人を助けたりする、善い行為が出てくる。170

●心の富貴の人になって、金を持った貧乏人になるな
よく物の面の豊かさを外国と形式的に比較して、まだ追いつかな
いというが、なにも外国に物の面で追いつかなくてもいいじゃない
か。それよりも外国の人に向かって、心の豊かさと心の富のあり方
に追いついてこい、それが平和に通ずる道だ、と教えてやったらど
うだい。心の富貴の人になって、金を持った貧乏人になるな、とい
うことだ。171

●主義の奴隷になるな
民主主義の実体について、日本人は一度考えてなおさなければな
らないのじゃないかね。ぼくが考えるに、民主主義の「民主」とい
うことは外国には日本の皇室のような中心がないから、それに変わ
るべきものとして言い出したのじゃないか。民衆、大衆が主人であ
り、中心であると。いい言葉ではないが昔は「衆愚」と言ったもの
だ。愚というとひどいから「凡人」、「凡」。
大衆は凡人なんだ。「衆凡」をいくら集めても凡であることは変
わりない。衆凡を集めた政治は駄目だ。今日の議会政治の行き詰ま
りを見ればわかる。187

◎脳力開発
■朝日新聞の罪・吉田清治・慰安婦報道に見る虚報の連鎖

朝日新聞の紙面は私達1960年~70年の自意識過剰な学生にとって
は、常識だった。朝日ジャーナル、雑誌「世界」は理解できなくて
も持っていること、その情報を振り回すことが自尊心を満足させて
くれた。
学生運動は、ある意味で、田舎から都会に出てきた都会へのコン
プレックスをもった学生の多くが訳もわからぬまま巻き込まれてい
った。資本論、共産党宣言などは到底理解できる力もないにも関わ
らず、関心を持っていることこそ、自尊心を満足させてくれた。

戦後の有名大学の学長はGHQの日本への政策(日本の戦前を全
面否定し、対立を促進する)に乗って、自分たちの時代の到来と考
え、進歩的思想(共産主義、社会主義、マルクス経済学)に便乗し
て、戦前をすべて否定することが、自分たちの存在意義であった。
勿論大学だけではない、社会党、共産党に影響を受けた労働組
合運動、公務員、日教組もGHQの方針に乗って、活動した。メデ
ィアも新聞も、NHKもGHQの片棒を担ぎ、方針に添うことが、
GHQの規制の中で戦後存在できる安易な道だった。
日本が独立した後もGHQが規制してきた言論統制に則って、益
々自分自身を規制するという自縄自縛に陥って、現在でも自主規制
という言論規制をしている。現在から振り返ると、有名になる、時
代の先端を行く、自己の利益を優先させる一番安易な生き方だった。
今回は、その中でも一番虚偽の報道をしてきた朝日新聞の内実
を数々の資料から明らかにしてみる。GHQの指令に従って「自分
達の身守ることに汲々として、考えるということを放棄し、時代に
乗って生きた」メディアの代表として取り上げる。朝日新聞の内部
にある親ソ連・親中国の葛藤は、戦後朝日が発行停止に陥った以前
から内部に巣くっていた。しかも、国民に最も読まれた新聞が、虚
偽を平気で書き続けてきた罪は大きい。そしてその責任は誰もとら
ない。今も、左翼思想にかぶれて、生きている。

■吉田清治を称えた論説委員・伊藤律架空会見をしのぐ虚報
1.朝日新聞社は吉田証言を一九八二年にはじめて紹介した。そし
て虚偽を続けた。
2.2014年8月5日付で、朝日新聞朝刊で、取締役の杉浦信之が
「編集担当」の肩書で「慰安婦問題の本質直視」との主張で大きく
載っている。ある一連の記事の取り消しを明らかにした。
3.併合時代の朝鮮半島で、第二次世界大戦中に日本の官憲が組織
的に、この場合、済州島で集落、工場、漁業の現場を襲い、日常
の暮らしをしている多数の若い女性を突然、泣き叫ぶのもかまわ
ず連行し、従軍慰安婦として戦場に送り、将兵らへの売春を強制し
たというその関係の記事の取り消しである。12
4.吉田清治という人が講演、著作でとくに1980年代から90年代に
掛けて証言し続けていた話だった。朝日新聞はこの吉田証言を次
々と極めて大きく扱い、またその証言を踏まえた吉田清治応援の
論評も何度か紙面に載せていた。この吉田証言を虚偽と判断し、
吉田証言を扱った全ての記事を取り消すというのである。13

●共産党・伊藤律との単独会見の虚偽
5.1950年9月27日付で、GHQの指令で公職から追放され全国に
指名手配されていた日本共産党中央委員の一人の伊藤律と月光の
下の兵庫県宝塚市山中で単独会見したという「大特ダネ」を大々
的に報じた。これが、虚偽で大阪本社神戸支局の作り話だったと
いう朝日新聞社史でも前代未聞の大失態を引き起こした。13

●論点すり替え
6.杉浦論文は、強制連行の吉田偽証の報道は反省するが、問題の
本質は、多くの女性が軍の慰安婦になっていたという「人権侵害」
にあり、これは今後も追求し続けていくということを宣言してい
る。これは吉田証言報道の重大失態をぼかし、論点をすり替える以
外の何物でもない。13
7.2014年8月6日付、および8月28日付けの関連特集でも吉田証言
をとりあげ、女子挺身隊と慰安婦を混同した記事を除く慰安婦関連
記事は総じて妥当とする狙いが露骨であった。だが、多くのメディ
ア、とくに週刊誌からはこの姑息な幕引きに集中的に非難か浴びせ
られ、経営陣や編集部に対する内部からの批判の噴出など朝日新聞
社内の混乱状態も週刊誌、テレビで微細に報じられた。14

●福島原発・吉田昌郎所長命令違反の虚偽
8.その時期、2011年3月11日に発生した東日本大震災で東京電力福
島第一原子力発電所が危機に陥った時の状況を吉田昌郎所長が政府
自己調査・検証委員会に対して答えた「聴取結果書」を入手して、
事故発生時に所員らが所長命令違反の行動を起こしていたと、2014
年5月20日付誌面で報じた。15
9.吉田所長にも会っているノンフイクション作家門田隆将から門田
自身のブログや週刊誌などを通じて、反論が突きつけられた。朝日
新聞はこれらの批判に対して法的手段に訴えると脅かしながら抗議
したが、吉田調書を入手した産経新聞社がその内容を紙面で明らか
にすると、吉田調書記事への疑問が朝日新聞社内でも募り始めた。15

●社長の木村伊量・吉田清治証言記事の撤回が遅れを謝罪
10.さらに読売新聞社、共同通信社なども相次いでその内容を報道、
配信するに至り遂に朝日新聞社は吉田調書に関して2014年9月11日に
社長の木村伊量(ただかず)が記者会見して、記事の取り消しと謝
罪をすると共に第三者機関「報道と人権委員会」に審理を委ねると
発表した。その会見で慰安婦関係の吉田清治証言記事の撤回が遅れ
たことを謝罪した。16

■朝日にたなびくマルクス主義・戦後の社風を形成した人物達
11.広岡知男(1964年~1980年)16年間専務、社長、会長を務め、そ
の間六年間主筆も兼ねて朝日を左右した。笠信太郎(1900年~1967
年)を継ぎ、論説主幹、論説顧問として十二年間にわたり朝日新聞
の論調を方向づけた森恭三(1907年~1984年)モスクワ支局長、東
京本社外報部長、大阪本社編集局長、編集・出版担当専務取締役を
歴任した秦正流(1915年~1994年)125

●「容共リベラル」的な考え方が、戦後の「良識」
12.性急な共産主義革命を退けつつもマルクス主義そのものを否定し
ない、いわゆる「容共リベラル」的な考え方が、戦後の「良識」と
朝日新聞社内では見なされ、社内の思潮の主流派を形成していたこ
とは否定できない。125

●1946年社長退陣
13.1946年9、10月、終戦の年の秋に戦時中の報道・言論の責任を取
って朝日新聞社長の村山長挙、会長の上野清一をはじめ首脳部が総
退陣した。128
14.朝日新聞東京本社では二分し、険悪化した。そんな中での東京本
社編集局の職場大会で三九歳の論説委員の広岡知男が執行部に他社
(読売新聞を)が新聞を発行するのに、何故自社が発行を止めてど
うして勝てるのかと質問をぶっつけた。129

■ソ連派と中国派の対決
15.1960~70年代のソ連、中国の対立は朝日新聞社の上層部にも大き
く深い亀裂を生んだ。ソ連派の役員秦正流対中国派の社長の広岡知
男の衝突という形で激化し、秦の側に渡邉誠毅も加わり最終的に広
岡が社長退陣に追い込まれた。211

16.親ソ派の秦は1966年に、大阪外大の同人誌に多賀正史の筆名で投
稿している。「中華人民共和国では科学ではなく、宗教が支配して
いる。毛沢東思想という宗教が人民の容を紙面で明らかにすると、
吉田調書記事への疑問が朝日新聞社内でも募り始めた。15

●林 彪の異変を巡る報道
17.1971年9月から72年7月にかけての中国共産党副首席で毛沢東の
後継者の林 彪の異変を巡る報道戦で(この記事は追放されていた
産経新聞が一番早く報道)この大変事に目をつぶる朝日新聞は終始
内外メディアの後塵を排する醜態を晒した。220

18.1972年国交正常化迄に、68年修正された日中記者交換メモは政治
三原則と政治経済不可分原則の遵守が前提にされ、その三原則は
①日本政府は中国を敵視しない。
②米国に追随して「二つの中国」をつくる陰謀をしない。
③両国間の正常化を妨げない。こうした極めて日本の中国報道に日中
双方の合意として嵌められた。中国に関して日本の報道が自由を放
棄したに等しく、戦後の日本の国柄を貶め、否定した。222

●朝日新聞のみが中国国内に残る
19.文化大革命期に共同通信社を皮きりに他紙が次々と国外追放され
る中、朝日新聞のみが中国国内に残り、以降、産経を除く他社は中
華人民共和国国務院(中国当局)の台湾支局閉鎖の要求を呑んで中
国に支局を開局した。
●産経新聞は中国の要求を一貫して拒否
20.産経新聞は中国当局の要求を一貫して拒否し、結果として1967年
(昭和42年)に国外追放されて以降は、北京への特派員常駐を認め
られなかった。日本の新聞で最も早く林彪の死亡推測記事を伝える
など、むしろ政治的には中国を詳しく報道することとなった。

●社内の親中に対する批判
21.親ソ派・秦正流専務・文革報道を語るには、偏向報道の問題を避
けて通れない。多くの読者、社内から激しい批判を受けた「偏った」
報道が続けられたのはどうしてか猛省しなければならないと「えん
ぴつ」232号に書いている。226

22.第一点は、本社上層部に文革を高く評価した人がいた。上層部の威
をかり、かなり政治的に中国報道への介入をした人がいる。第二点は、
当時本社は「日中国交の正常化を急ぐべし」「台湾との断交もやむな
し」という社論う掲げていたが、社論と事物の客観的かつ公正な報道
をすることとは峻別するべきだ。227

23.1989年、出版局報に工藤は「中国報道の誤りは社長をトップにすべ
ての幹部が関係し、一般記者も苦々しい思いで参加し、或いは抵抗し
た構造を持つものだ。にもかかわらず、社として今日まで何の処置も
とっておらず、誰が責任をとったという話も聞かない。釈明さえすれ
ば、事実は風化するに任され反省をされず、各自の心の中で消えてい
く」と書いた。230

■共産主義国家を美化する
24.朝日新聞の紙面には、共産主義国家を美化し、讃える記事が目立っ
た。北朝鮮、カンボジア(ポル・ポト派)贔屓の報道もそうだ。あの
歪んだ中国報道も社長が広岡だったからというよりも、階級闘争によ
る共産主義社会の到来を予告するマルクス主義を善、マルクスの命名
した資本主義を悪として、階級闘争の歴史法則によって善が悪を滅ぼ
すというおとぎ話に影響された人が社内には少なくなかった。232

25.中国全土で民衆虐殺が進行している時、朝日新聞首脳は、虐殺側の
中国首脳と、繰り返し単独会見を行いっている。毛沢東政権にとって
朝日新聞社はまことに都合のよい宣伝媒体だった。236

●歴史の事実が証明
16.秦が心酔したソ連はその後1992年忽然と歴史から消え、広岡が擁護
し続けた中華人民共和国も次第にその実態が明らかになった。秦も広
岡も朝日新聞社の上層主流は歴史を完全に見誤った。社内における中
ソの亜流達の相剋も深刻だった。211

参考図書・崩壊・朝日新聞 長谷川熙ひろし、死の淵を見た男吉田昌郎
と福島第一原発門田隆将、朝日新聞・日本型組織の崩壊・朝日新聞記者
有志、偏向ざんまい・阿比留瑠比、自ら歴史を貶める日本人・西尾幹二、
尊敬される国民品格ある国家・岡崎久彦、渡部昇一他多数