■理念探究会109号

■理念探究会109号

◎その一・80歳を過ぎて尚、自己研鑽を続けるTCOサミット
私が日本コロムビアに入社当時の新入社員研修でお世話になっ
た岡部さんと言う方がいる。入社して営業マンとしての心得を教
えていただいた。取り扱い商品に大差のない商戦に打ち勝つには
どうしたらよいか。商品に大差がないのなら、それを扱う営業マ
ンの人間性で差をつけて勝つ方法があると考えて「人間セールス」
を推進した。「商品を売らずに自分の良き人間性を売れ」は教え、
人に喜ばれる得意技の活用を指導していただいた。
岡部さんは、私が入社した後、まもなくして退職され産業能率
大学経営研究所に移られ、教育研修を中心にした指導と、日本の
大手企業を中心にした企業研修を担当された。以来実践的な体験
に裏打ちされた数多くの著作を出され、全国各地をめぐられその
交流関係は広い。1970年、既に退社された岡部さん御夫婦に私達
の結婚式に無理を言って参加していただいた。大阪万博の年であ
った。2015年4月、千葉県御宿のお住まいまでお迎えに上がり、
森のフォーチャに足を運んでいただいた。10月には善子の古希の
記念の出版記念のパーティーに御夫婦で出席していただいた。
その後、今年になって二十年以上続けている勉強会TCOサミ
ットへの招待状が届いた。岡部さんが80歳で出版された「慕標」
-これが私の心の旅-によると、年齢を加えても「一人よがりでな
い新鮮な問題意識」を共有して若い感性を維持するために結成した
のがこの会だ。参加者の名前をとってTCOサミットという名前を
つけられたらしい。9月28日開催場所の如水会館(一橋大学卒業生の
会館)に善子ともども足を運んだ。2回目の参加だった。今回はO
氏92歳、岡部氏、K氏、T氏何れも80歳前半に私達夫婦だった。
11時半に集合して如水会館の最上階の展望の素晴らしい部屋で食事
を鋏ながら、各自のテーマに基づいて発表をされる。
T氏は調布にお住まいで地域交流・国際交流科学 教育事業「調布
少年少女発明クラブ」のお話をステアリングカー(操舵装置カー)
や光オルゴールを持ち込んでのお話があった。O氏は司馬遼太郎と
同年齢で戦車隊の話をしてくださった。終戦前後の体験を自己紹介
がてら話して頂いた。岡部さんは現代が抱える「世代超える広がる
格差」教育環境などについての提案があった。善子はMOLAの制
作過程をサンプルをお見せしながらお話しした。私は最近の大手企
業の不正に関わる話をするようにとの事もあって「事業破滅の道筋」
についてお話しした。理念不在がもたらす企業衰退の道筋をお話し
した。
この会に参加してまだ二度目だが、TCOサミットのメンバーは
60歳を契機としてはじめられ20数年経った今も続けられている。
生涯勉強・研鑽を続けられる姿に沢山のものを教えられた。12月今
年最後の回も楽しみにしている。

◎その二・金沢「おくりいえ」
プロジェクトを進める・やまだのりこさん
秋の金沢を訪ねました。私がお世話している鯖江(株)ムラケン
のみなさんが年に数回金沢を訪ねて勉強しています。金沢在住のデ
ザイナー「やまだのりこ」さんの案内で金沢の町家巡遊に参加しま
した。彼女は金沢工業大学、金沢美術工芸大学の非常勤講師をなさ
っている一級建築士。ムラケンとの関係は外部デザイナーという位
置づけ。ムラケンは「建築プロデュース」という手法を建築の基本
にしています。建築フロデューサーが施主から家を建てる動機から
様々な要望や想いを聞き取り、それを情報処理して施主の「想い・
理念から要件」まで趣意書としてまとめた上で、その趣意書を設計
士・デザイナーに委嘱する。設計士はその趣意書を読み取り設計士
としての工夫を加えて設計図面を仕上げる。ちなみに、天命舎もケ
イミラフォーチャも経営深化学院もすべて私が建築プロデュースし
てまとめ上げた趣意書を、何人かの設計士に依頼して作り上げられ
た設計図に基づいて設計したものです。
今回ムラケンが進めている鯖江F氏の家も、宇野社長と南部さん
の建築プロデュースに少し私の考えも補足した上で、「やまだのり
こ」さんに設計を依頼した物件です。そのこともあって鯖江を訪ね
る機会に善子ともども金沢を訪ねお会いしたいと思いました。金沢
へは東京からも非常に便利になりました。九時前に上野で乗るとお
昼にはもう金沢です。彼女が手がけた「レンタルスペース・アンド」
と昼食(麸料理)を挟んで「高木屋金物店」三つ目は「長久寺」を
案内してもらいました。

◎高木屋金物店
高木屋金物店は現在の当主が五代目、代々続いている金物屋さん、
およそ200坪の敷地で広い庭や蔵が建っています。現在の当主と
奥さんにお話を聞きました。先代がなくなったとき二階の片づけを
したいと思ったのが切っ掛けです。当時「おくりいえ」プロジェク
トを進めていたやまださんを紹介していただきお会いしたそうです。
まずは片づけることから始まった。いろいろなものが発見される。
私の知人には亡くなった方の家を処分する為に片づけを依頼する
人が増えている。それは単に家の片づけが主な仕事なのだが、この
「おくりいえ」は金沢の町家からの依頼で、歴史のある町家再生に
取りくまれているらしい。彼女は大学卒業後、設計事務所に就職さ
れ数年の勤務の後、どうも企業に勤めてやっている仕事は自分にあ
わないらしいと感じて、独立して金沢民家再生にも取りくまれたら
しい。今でこそあちこちお呼びがかかるのだが、それでも自分のペ
ースで仕事を進めてきた。

◎志に生きる
私の印象だが、男は生きるためにと、暮らしていける経済的観念
(左脳)が優先して働く。女性の場合にはやりたいことをはじめて
いく。経済は二の次で純粋にやりたいことを進めていく。だからそ
れが後々、経営できるかというと必ずしもそうは行かない場合があ
る。しかし彼女はこの道を選択してから7~8年近くは経った。
今回の高木屋再生の仕事で施主も彼女も実に楽しみながら継続的
に進められている。町家再生もハード(建物)だけのリフォームで
はそれで終わる。しかし彼女にはむしろその後の展開案(ソフト)
が豊富にある。何年も継続して続けられ、施主も大いに喜びをもっ
て暮らし、仕事に取りくみ生活されている。そしてまた、新たな構
想が芽生える。
その過程は私には金沢の続いてきた文化伝統が再生を通じて継承
され、新たな歴史を築いていく姿のように見える。施主と施工者が
互いに喜びながら、新たな顧客を創造し、歴史的な文化を継承し社
会的にも価値を創造している。金沢の町には町家巡遊マップに掲載
されているだけでも七〇軒以上の町家が存在する。
この旅の最後に寺町の前田利家公三女津世姫の菩提を弔うお寺、
長久寺を訪ねた。築後300年経っている。お話を聞いた後、座禅
を教えていただいた。15分ぐらいだったのだが、心身ともすっきり
したと善子も他の人たちもさわやかだった。それで早速私達も座禅
座団を購入して、楽しむことにした。金沢は彼女にお会いすること
に何度も訪ねたい町になった。
◆戦後70年検証シリーズ
今回は日本共産党の歴史の概略を辿ることにする。戦後70年の歴
史の中で、良きにつけ悪しきにつけ日本共産党も社会党(現在民進
党)は日本国民に影響を与えてきた。そのことはGHQの数々の施
策と深い関係がある。それはGHQの戦前の日本の情報を全面的に
削除否定してきたことに起因している。今後私はもっと丁寧にGH
Qの情報操作の実態を正確にお伝えすることよって明白になるであ
ろう。日本共産党の影響は戦後の学生運動、労働運動、日弁連、日
本ペンクラブ、大学、日教組の活動=日本の教育に多大な影響を与
えている。今回はかつて現行憲法制定に唯一反対をした日本共産党
(ソ連共産党の下部組織)の論理的な矛盾にも触れたい。

■共産主義革命と天皇制打破
●1992年(大正11年)旧ソ連のモスクワに本部を置く「共産主義イ
ンターテショナル」(コミュンテル)の日本支部として誕生。結成
当時のメンバーは堺利彦、山川均、野坂参三、徳田球一。ロシア革
命(1917年)後の19年、レーニンによってつくられたコミュンテル
は、共産主義の思想を輸出し、全世界を「ソビエト化」、共産主義
化することが目標の組織であった。
●日本共産党も1932年コミュンテルが決定した「32年テーゼ」で武
力闘争による「絶対主義的天皇制打倒のためのブルジョア民主主義
革命」を明確に指示しこれを「日本共産党綱領文書」と位置づけて
いたのが戦前の日本共産党だった。
●1925年日本で成立した「治安維持法」はそもそも共産主義者を取
り締まるためのものであった。現在、戦前の悪法のようにいわれて
いるが、「天皇制打破」と「共産主義革命」という国家転覆とほぼ
同義の言葉を「綱領」に掲げる組織に対して国が警戒するのは当然
だった。
●1945年終戦、共産党が合法組織として認められる。GHQの指令
により共産党員らの政治犯釈放、合法化により徳田球一が初代書記
長に就任する。

■憲法改正(現行憲法)反対
●1946年憲法改正案(現在の憲法)を採択した衆議院本会議で共産
党議員は反対。反対討論で野坂参三が改憲案を批判した。皇室制度
の反対と憲法第9条に反対した。「憲法第二章(9条)は、わが国の
自衛権を放棄して民族の独立を危うくする危険がある。それゆえわ
が党は民族独立のために、この憲法には反対しなければならない」
●「自衛のための戦力保持」を求め、9条に明確に反対した。採決
の結果は421票反対8票。内6人は野坂参三、徳田球一ほか共産党の
議員だった。共産党は現憲法に反対した唯一の党であった。「われ
われは当憲法が可決された後においても、将来憲法の修正について
努力する権利を保留して、反対演説を終わる」と締めくくった。

■GHQは再び日本共産党を非合法政党として解散させる
●1949年中華人民共和国建国
●1950年5月3日GHQは中国革命の波及を恐れて、日本共産党を
「民主主義的傾向を破壊」する国会議員、全中央委員、赤旗編集委
員の公職追放を指示。日本共産党は非合法、党中央委員会は解体分
裂。8月から9月にかけて徳田、野坂らは地下潜伏後中国に亡命。
●1950年6月25日朝鮮戦争勃発。

■51年綱領に基づく暴力的破戒活動を展開する
●1951年共産党51年綱領で「日本の開放と民主的変革を、平和の手
段によって達成しうると考えるのは間違い」とし「われわれは武装
の準備と行動を開始しなければならない」とする「軍事方針」決定
した。党内の対立が激化。各地で共産党による騒擾(そうじょう)
事件や警察襲撃などが頻発。
●1952年4月28日サンフランシスコ平和条約発効、日本が主権回復。
衆議院に107名が立候補したが、数々の武装闘争への国民の非難もあ
って、当選ゼロ、低迷期に入る。
●1958年「51年綱領」を廃止。
●1960年日米安全保障条約発効。安保闘争を通じて共産党は「民主
連合政府」をスローガンと掲げる。
●1970年書記局長・不破哲三。「70年代の遅くない時期に民主連合
政府を目指す」と決議。

■昭和天皇崩御への声明文
●1989年昭和天皇崩御に際し「天皇裕仁は侵略戦争の最大かつ最高
の責任者だった」との声明を発表する。
●1991年ソ連崩壊。1992年名誉議長だった野坂参三をソ連のスパイ
だったとして解任、除名。スターリンの弾圧を逃げるために山本懸
蔵を虚偽告発し銃殺させる。終戦後、延安からモスクアに行き、ソ
連情報機関の内通者となり、資金も受けた。
●1998年不破哲三中国訪問。中国共産党と32年ぶりに和解。

■改憲政党を否定
●2000年不破哲三は党創78周年の記念講演会で、明確に「改憲政党」
であることを否定する。「これは戦争が終わった翌年、当時の党が
提案したもので、そういう歴史的な文章だ。われわれの今後の行動
はそれを基準にするものでもないし、それに拘束されるものではな
い」答えた。
●2004年43年ぶりに、綱領を全面改訂改定・「皇室制度や自衛隊な
どを当面は事実上容認。」
●2015年安保保障関連法が成立。
共産党は「国民連合政府構想の提案」を決定する。

■日本共産党の問題点
●共産党の原点・ポツダム宣言が党の保証文書
「軍国主義の除去と民主主義の確立を基本的な内容としたもので、
日本の国民が進むべき道は、平和で民主的な日本の実現にこそある
と示した。これは党が不屈に掲げてきた方針が正しかったことを証
明したものである」としている。
●極東国際軍事裁判(東京裁判)を正しい裁判として位置づけてい
る。
●戦前の日本共産党・ソ連共産党が指導するコミュンテルの日本支
部。戦前の党の綱領的文章はコミュンテルで作成された。ソ連の意
向が色濃く反映され、ソ連は労働者の祖国として憧れの存在だった。

■最終目標・戦争を内乱に転化し共産主義革命を成功させること。
●1927年二七年テーゼ・日本帝国主義の崩壊なくして支那革命・朝
鮮の解放はない。
日本の労働階級は指導的な役割を果たせ。日本共産党は中国革命の
成功、ソ連の擁護のため闘争しろ。日本共産党には自主独立性はな
かった。
●1932年7月10日通称三二テーゼ
「革命的醸成の存在する時、なかんずく天皇制の転覆の瞬間におい
て、全国にわたり広範に労働者農民兵士ソビエトを確立すること、
ブルジョア=地主的独裁の国家機構の完全なる粉砕のために闘争す
ること」と謳っている

■ソ連共産党・1919年3月レーニンの提案によりコミュンテル創立。
1924年スターリンがレーニンの死後、コミュンテル社会主義ソ連を
守る組織に変貌。1941年(昭和16年)独ソ戦が勃発イギリスと連合
国になる。連合国になることにより、存在意義を失う。1943年(昭
和18年)コミュンテルが解散する