■理念探究会106号

●理念探究会106
高橋卓也氏サラリーマンから経営者の道

高橋氏の人生理念制定式を行った。高橋社長は、中谷グルー
プの自立連帯型企業・津山中谷株式会社の社長をしている。中
谷グループが企業理念を制定し企業理念の一環として「自立連
帯型経営」を標榜して十二年あまり。自立連帯型経営とは「個
人の自立性を基本に企業の理念的求心力によって結ばれた企業
組織をつくり、各自が自立して経営に仕事に取りくむ。そして
相協力して互いの使命を支援し合う、自立連帯縦断の企業とし
て社会に貢献する」
高橋氏は2007年より2011年まで天命舎に通った。当初、本
人は社長を目指したわけではない。
中谷グループは「個々人の人格向上使命追求を支援する」
すなわち「人を育てる」ことを理念制定以降、愚直に続けてき
た。それは経営者の思想、経営者に相応しい人格、資質を磨き、
経営能力を磨き上げなくてはならない。天命舎で学んだ後、高
橋氏は2010年より津山中谷株式会社として会社設立。数年の社
長経験を積んだ後、2013年理念探究を開始した。高橋氏は(株)
ストーンエンジニアリング義広・社長朝倉義広氏と共に理念を
探究し、今回制定した。会社を経営する中で、当初は利益を上
げることに専念したが、幾多の経営上の問題、社員の問題を含
めて、理念の重要性、必要性に目覚めた彼等からの申しでだ。
当日、社員をはじめ、取引先そして理念実践会の尚友たち
を含めて縁の深い三十余名の人達が式典と懇親会に参加した。
私の畏友、高橋氏も懇意な鏡野町在住の備前焼の陶芸家和仁栄
幸氏にも参加してもらった。高橋氏の理念発表と制定宣言は凛
としたものであった。
一、自立した人材を育成する。
一、社会に貢献する事業を創る。
プロジェクターで理念及び理念解説を映写したまま、懇親会の
交歓が始まった。彼の人柄が新たな面で浮かび上がってくる。
和仁さんともども私も社員や彼と縁のある若い人たちと歓談し
た。和仁さんは熱心に彼らの話に耳を傾けていた。私が理念を
制定したのも高橋さんと同じ年齢のころだった。高橋さんにと
って制定後、天命に生きる生活が始まる。
素晴らしい人生に生きることの決意と宣言、そして本当の人生
が始まっていく。

 

●民主主義・話し合うとはどういうことか
脳力開発研修を六月末新入社員大卒研修・リブドゥコーポレ
ーション、七月第一週に新人研修・恵那21世紀クラブで開催し
た。今回の参加者は十八歳~四十九歳まで多岐にわたるが基本
的には参加者のほとんどが二十代。講師を勤める私との年齢差
は最大五十五歳。
●インタビューゲーム
毎回研修の最初に実施する。初対面の参加者、日頃顔は知っ
ていても相手のことをよく知らない者同志がこれから一日半共
に私と研修をする。無用な緊張を取り除いて研修に専念しても
らいたい。そのためには参加者同志にリラックスして取りくん
でもらいたい。
インタビューゲームの目的は相手のことを短い時間でもよく理
解して、参加者の人達に紹介してもらいたい。そのために可能
な限り相手を深く知ってもらいたい。
ルールーは簡単。一、何を聞いても良い。二、嫌なことは答
えなくて良い。三、何を話しても良い。そして互いに十五分ず
つ。そのインタビューした内容をA4の半分の用紙にまとめる。
インタビューした内容を真剣に伝えようと工夫して紹介文とし
て仕上げる。
その結果、自己紹介では到底本人が話しきれない各自の特長
が浮かび上がり、時に笑いも混じった他己紹介が出来上がる。
参加者が交互に互いに相手を紹介することになり、一気に和や
かな雰囲気が会場を覆うことになる。その後インタビューゲー
ムの感想を各自に語ってもらって、研修をはじめることになる。
緊張感もほぐれ、お互いの名前や生まれ、簡単な経歴、関心事
を知り、講師と参加者のコミュニケーションも格段に深まる。
初対面でも、相手のことを知りたいと目的を決めてインタビュ
ーすると、予想以上に構えない姿が浮かび上がってくる。
●和談と討論
何人かが会して発言し合う場のあり方には、いわゆる「討論」
ではない、もう一つの基本的な形態が考えられ、討論において
は複数の意見・見解が対立の方向で主張し合う関係にある。複
数の発言者が非対立的・互恵的な立場をとり、気づき・情報を
足し合う形のものを「和談」として定義している。
進め方は和やかで、話し合いによる収穫指向で、探究し互い
に相手から学ぶ姿勢で臨む。相手の話の、自分とは異なる意見
に対しても「得るべきもの」に目を向け積極的に「ナールホド」
という姿勢で聞く。この「ナールホド」と積極的に進行役が発
言することによって、場に和やかな雰囲気が漂い、異なる意見
にも耳を傾ける。そして意見を聞きながら更に思考が深まって
いく。
私はある具体的事例を輪読し三問の質問を出しておく。そし
て五~六分で各自、メモ程度でいいからと、自分の考えをまと
めてもらっておく。四~五人のグループに任意に分けて、十五
分程度の時間、順番に進行役、報告者、サブの報告者を決めて
「和談」をしてもらう。
その結果、ある問題についても①共通点が明らかになり②多
少異なる点が浮き彫りになってくる。③その結果更に異なる点
が、質問の形で話がテーマの中心から離れない。
発表は三~四グループ毎に、三分間で報告してもらう。
「和談」の感想は①自分の意見を「ナールホド」と聞いてもら
え、発表しやすかった。②共通する点、自分とは異なる点も相
手の話を聞いているので、よくわかった。③異なる点もその後
話し合いをすることにより理解が深まり、最初に発表した自分
の意見よりも他の人の方が、よく考えていると思い、自分の意
見から他の意見に納得して進化できた。
この和談の方法は、過去・江戸時代の農村で農民がじっくりと
時間をかけて話し合いのときに用いられた方法だと民間伝承を
続けた民俗学の泰斗「宮本常一」の著書「忘れられた日本人」
の中の「村の寄り合い」の中で報告されている。報告では二~
三日に及ぶこともあるが、参加者全員が納得度の高い寄り合い
になりその後の進み方がスムースになる。戦後の民主主義のよ
うにテーマに関して情報不足のまま、一方的な判断で結論を出
し、時に相手を論破し多数決で決着をつける西洋民主主義のあ
り方の限界に一矢を報いる。

●インタビューゲームと和談を通じて
冒頭、最大五十五歳の年齢差があると書いた。しかしお互い
を理解し、他の人にも伝えたいという目的でインタビューし、
加えて自分の内面まで場合によって語り話し合う時に、参加者
は年齢を超えて自分の考えを端的に語り、人の話に耳を傾ける。
若い人を大いに見直し、若い人は経験を積んだ人の話に耳を傾
ける。
当初は私も五十五歳も離れると彼らの日常には違和感を覚える
ことがある。
しかし彼らは、テーマがあたえられたとき真摯に取りくむケース
では、年齢に関係なく、しっかり考える、伝える力を持っている。
彼らの力や意見を引き出すには、いままでの討論や多数決、ディベ
ート等の方法では浅い表面的な意見しか導き出せない。ここでも、
西洋的な「討論」と日本人が古来受け継いでいる「和談」の価値を
見直すきっかけになる。
◎今回は、以下のテーマについて考えたい。
一、日教組による戦後教育で失われたもの、
二、何故、裁判官の中に左翼的な人がいるのか?
■GHQは「War Guilt Information Program」(戦争に関する罪
悪感を日本人の心に植えつけるための扶植計画)を断行し、表
では新憲法21条で「検閲の禁止規定」を美しく謳いながら、七
年にわたる検閲を徹底してきた日本占領政策は、成功を遂げて
いるといえる。
■日教組による戦後教育で失われたもの
第一世代・昭和20年生まれは古希をむかえている。私たち以降
の世代。
第二世代・昭和40年生まれ。私たちの息子の世代。
第三世代・昭和60年生まれ。
戦後は日本的なものの否定=民主的こそが「戦後民主教育」の
根幹であった。
・一周目・1945年~1970年
学校教育により民主的で平和な国を標榜するが、現実は日
本的なものの否定であった。一周目の家庭は大正、昭和生まれ
の親の戦前の家庭であり、教師と生徒は平等でなかった。
私は当時六人、その後八人兄弟姉妹。家庭では、両親とも明治
の生まれてあり、終戦当時、一番上の姉は女学校、兄は中学生
、姉たちは小学生。父は兄弟喧嘩をすることを嫌がった。兄弟
喧嘩をして父親に見つかったときには、激しく叱責されビンタ
を張られた。緊張のあまり失禁した記憶がある。
18年生まれの私自身を振り返っても、小学時代に悪戯をしたと
きには先生からビンタを張られた経験もあるが、先生を尊敬し
ていた。
・二周目・1970年ごろ~1990年前半
学校も家庭も戦後教育が中心となり、教師が親の顔を窺うよ
うになった。民主主義も平和も平等も所与のもの、教師と親、
教師と生徒と平等対等、体罰、価値観の押しつけは悪いことで
あると言う風潮が主流になり始めた。
長男46年生まれ、次男は47年。広島は、とりわけ同和教育が
盛んで、中学校の社会科の学級参観に行ったとき、3学期おわ
りであるにも関わらず教科書の三分の一程度しか進んでおら
ず、私は質問の時間に「何故、教科書を全部消化しないのです
か?」と質問したが、先生はおしまいまでやらなくていいので
す。学校に承認されているのだと強弁され、あきれた学校に驚
いた。また、高校進学も、本人の希望は無視され、成績順に公
立高校を順に振り分けられ、希望する高校に進学できない制度
で、二人とも私立高校に進学させた。
・三周目・1990年後半以降
戦後教育は勉強するところから青少年用の保育園になった。
ゆとり教育の学習指導要領で全員百点を目指す。その結果以下
の不登校、不平等社会論が言われている。
中学校で増える不登校、不平等社会論
一、一流大学に入るには莫大な投資がいる。貧しい親のもと
に生まれたら貧しい教育しか受けられない。教育の機会が人
々に平等にあたえられていない。
二、正規雇用の枠がどんどん減少している。二流、三流の学
校しか出ていないと正規雇用は難しい。低賃金のフリーター
として働かざるを得ない。
三、親の収入や財産によって教育程度によって雇用形態が決
定する。雇用形態によって所得格差が存在する。果たして如
何なものか?
前回の続きとして振り返ってみる。
60年安保の世代は田原総一郎、西部遭遇氏の世代、現在80
歳代、そして70年安保の世代は現在70歳代。
70年安保、学生運動を引きずった教職員、地元公務員、郵便
局、国鉄、電電公社、専売公社、国家公務員がそれぞれの組
織で社会主義的な思想に洗脳されたまま活動したと言える。
70年安保の世代の就職の道を選ばなかった若者たちは、以下
の道をたどることになる。自営業、フリーライター、テレビ
の演出の下請け、編集プロダクション、教職員、大学に残る、
司法試験、弁護士等学生時代の正義感をもったまま幹部にな
っている。
■何故、裁判官の中に左翼的な人がいるのか?
日弁連は全国の弁護士全員が加入しており、弁護士の登録、
資格審査、懲戒など弁護士の身分に関する業務を行い、人権
や司法制度に関する改廃等について、意見を表明する公益団
体である。司法試験は国家試験だから、政治思想で合否を差
別することは許されない。だから合格者全体を見れば、いろ
いろな思想の人がいる。弁護士会は強制加入団体であるから、
特定の政治思想を会員弁護士に強制することは許されない。
しかし、1960年代から70年代に掛けて弁護士になった人は左
翼思想の持ち主が多かった。
●学生運動の華やかなりし頃、機動隊に立ち向かい公務執行
妨害罪などで訴追され執行猶予となった団塊の世代の学生は、
どんなに優秀でも一般企業に採用されなかったが、司法試験
や司法研修所はこのような学生を一切差別しなかった。(石
川義夫元判事・思いだすまま)
学生運動出身の弁護士は新左翼の過激派、国鉄労働組合な
ど支援し続けた。これら学生運動を戦った弁護士は、弁護士
会の幹部・長老クラスになっている。年齢としては60~70歳
代半ば、弁護士として円熟の年代であり、30~40代の弁護士
よりよほど元気である。年相応にカドがとれたかというと、
そんな気配は全くない。

●歴史的経緯
1970年~1990年、弁護士会と裁判所との対立していた。こ
のころは、裁判所は左翼系裁判官を弾圧した。弁護士会は反
発して裁判所の「右傾化」に対抗して「左傾化」していった。
弁護士会の「族化」
1960年~1990年日弁連内で司法改革を担当した「司
法問題対策委員会」=司対族=左翼系弁護士の牙城だった。
「族」弁護士が特定の問題について声明を出すべきだと会長にせま
り、会員の総意でない見解が出されることになる。弁護士の「族」
化はエキスパートを育てる一面、人材の若返りを阻み硬直化した
長老支配がはびこることになる。
最近の若い弁護士は憲法問題、人権問題に関心が薄い上に、時
間的な余裕、帰属意識も薄く、会務に見向きもしないので、老い
てますます盛んな段階の世代の弁護士が会務を牛耳る琴似なり
、いまだに、このままでは戦争になる、日本は再びアジアを侵略す
るという黴臭い議論をすることになる。
弁護士会は、左翼系の弁護士が特に多い訳ではないが、歴史的
な経緯などから左翼系弁護士の勢力が強いために左翼集団と思
われがちである。

弁護士会内の対立
1987年5月30日日弁連総会は「スパイ防止法案」の国
会再提出反対の決議をしたが、これに対して100名以上の非
左翼系弁護士が、日弁連を相手取って、強制加入団体である
日弁連がこのような政治的決議を行うことは許されていとして
、訴訟を起こした。この訴訟は非左翼系弁護士の敗訴に終わっ
たが、徐々に非左翼系弁護士の勢力は左翼系弁護士を超えつ
つある。非左翼系が増えだした。
■何故国家でさえ、弁護士資格を剥奪できないのか?
弁護士自治が今、外から批判されている。弁護士から資格を
剥奪できない。会員資格を剥奪できるのは弁護士会だけ=弁護
士自治。内部では多くの若手弁護士が弁護士自治は必要ない
と考え始めている。
次回は、この続きを考えてみたい。時間のある人は是非、門田
隆将著「なぜ君は絶望と闘えたのか・木村洋の3300日」を読
んで頂きたい。司法への義憤、人権派弁護士・安田好弘弁護士へ
の憤りを感じるであろう。弁護士とは一体何が役目なのか?を
改めて考える切っ掛けになる。