■理念探究会105号
合同理念制定式・第16回理念型企業快労祭
先月号で鯖江の(有)ファインの理念制定式の報告をした。
今回第16回理念型企業快労祭の二日目に六社(企業・人生)
の理念制定式を行った。
堀越建築(堀越弘道社長)企業理念、(有)ファイン企業理
念(藤井高大社長)、津山中谷株式会社(高橋卓也社長)人生
理念、(株)ストーンエンジニアリンド義広(朝倉義広社長)
人生理念、(株)草むしり隊(柳井誠一社長)人生理念、小路
口石材工業株式会社(小路口欣弘社長)人生理念の六社。
堀越弘道氏・初代から、二代目そして三代目の誕生一九八五年、
大手の設計事務所に勤めていた。バブルを経験して二年先まで
受注があった。一九九三年からバブル崩壊を経験して、2006年
に進化経営学院建築を依頼した。2007年、完成のお礼として、
授業料を免除して養成塾に通い始めてもらった。天命舎に通い
だして足かけ8年。養成塾ジュニアからスタートした。
2008年社長就任。当時は社長を任されたものの、どうしていい
ものやら全く見当もつかない。養成塾ジュニアコースを経て二
年目、シニアコース開始のころ、原因不明の体調不良に陥った。
経営の一から指導した須田氏(進化経営学院講師・経営数値面担
当)の宿題に愚直に応えてて来た。
砂に水が吸い込まれるように、着実に成長変化した。
2011年から理念探究も開始した。ニュースレターもだし、今で
は要望に対応できないほどお客様をお待たせしている。(これが
課題)2006年進化経営学院建築中、日曜日になると同伴して掃除
にきていたお嬢さん(当時小学生)は、今、大学四年生で名刺に
(株)堀越建設三代目と書いている。次女も同じ道を目指してい
る。会長は80歳。今も現役。親子三代の地域に根付いた建築業を
営んでいる。
■藤井高大氏・社員はバスケットボール仲間から
藤井高大氏は1970年誕生。私たちが結婚した大阪万博の年だ。
通いだして三年六カ月。眼鏡の鯖江で、フレームの印刷関係の
仕事をしている。通い始めたころは創業10年目のピークを迎えて
いた。
彼の経歴はユニークだ。小学校六年から兄の影響でバスケット
ボールをはじめた。以来社会人クラブにも入り、今も続けている。
途中二年ほど沖縄与論島・リゾートホテルで過ごすが帰郷、五年
ほど再びこの仕事に戻った後、2000年個人経営で独立。社員はバス
ケットボールで親しい人達で構成されている。
彼の経歴を聞いて世界的に有名なスポーツ関係のパタゴニアを彷
彿させた。その後、業績不振に陥る。私と同じ経験ピークはいつま
でも続かない。常に成功し続けることはあり得ない。その時が人生
の転機になる。成功の味は忘れられない。須田氏に経営指導を仰ぐ
ことを決意する。そこからまた、変化が始まった。
理念企業「そうじの力」小早祥一郎氏の徹底した指導を受け、20
11年から取りくんでいる環境整備では全国的にもピカ一の成果を出
している。年に一~二度は、全国大会で各社が視察に来るほどピカ
ピカの会社だ。4月23日鯖江で企業理念制定式を開催した、未来の夢
あふれる若手の会社だ。彼の構想は世界を視野に入れた形で進み出し
ている。鯖江地区の若手経営者の支援をMKD未来対応経営道場の塾頭
として活躍もしている。
■高橋卓也氏・朝倉義広サラリーマンから経営者の道
高橋社長と朝倉社長は、中谷グループの自立連帯型企業に属してい
る。中谷グループが企業理念を制定し企業理念の一環として「自立連
帯型経営」を標榜して十二年あまり。自立連帯型経営とは「個人の自
立性を基本に企業の理念的求心力によって結ばれた企業組織をつくり、
各自が自立して経営に仕事に取りくむ。
そして相協力して互いの使命を支援し合う、自立連帯縦断の企業と
して社会に貢献する」
現在六社の自立連帯企業を生み出し、その中から今回二社の社長が
人生理念に到達した。中谷グループ社長の中谷明生氏の構想の一環と
して、高橋氏は2007年より2011年まで、朝倉氏朝倉氏は2005年~2009
年まで天命舎に通った。いずれも彼らが自立連帯型企業の社長に就任
する前だ。
当初、本人は社長を目指したわけではない。しかし中谷グループは
「個々人の人格向上使命追求を支援する」と経営姿勢に謳っている。
彼らを社長に相応しい人間として鍛えていくには相当の時間、経費、
本人の努力がかかる。
大企業では、基礎能力の優秀な社員の中から選択することかできる。
また、社長を任しても、相応しくなければ交代させることも難しくな
い。人を育てるというよりは相応しい人間を選択するという仕組みに
なっている。
中谷グループは「個々人の人格向上使命追求を支援する」すなわち
「人を育てる」ことを理念制定以降、愚直に続けてきた。それは経営
者の思想、経営者に相応しい人格、資質を磨き、経営能力を磨き上げ
なくてはならない。天命舎で学んだ後、高橋氏は2010年より津山中谷
株式会社として会社設立。朝倉氏は同じく2010年施工会社ストーンエ
ンジニアリング義広を設立。
数年の社長経験を積んだ後、二人から理念を探究したいと言う申し出
があった。
会社を経営する中で、当初は利益を上げることに専念したが、幾多の
経営上の問題、社員の問題を含めて、理念の重要性、必要性に目覚めた
彼等からの申しでだ。2013年理念探究を開始した。開始当時は私が高松
もしくは岡山で毎月理念探究の指導に出かけた。
何故、私が出かけたのか?個人的には彼らに茨城まで通ってもらう方
がいろいろな意味で効率はよい。しかし、社長業を勤めながら理念探究
をすることは口で言うほど簡単ではない。私自身の理念に「人々の使命
追求を支援する」「広範な企業、団体の理念確立を支援する」がある。
自立連帯企業の支援をし、全ての自立連帯型企業のトップが理念制定に
至ることが私の使命でもある。
こうして高橋氏、朝倉氏の理念探究が始まり、岡山・高松での二年余
の研修期間を経て最終段階は半年間天命舎まで通ってもらった。昨年は
進化経営学院のジュニアコース、シニアコースを西日本校に移し、竹内
将清氏にお願いして、私の時間を理念探究に集中させた。振り返ると七
名による理念探究最終行程、半年間は私にとっても彼らにとっても全て
のエネルギーを集中した期間だった。
■柳井誠一氏・父上の会社継承倒産からの新生
柳井氏は、一九七四年前橋に生まれた。小中高と野球一筋。高校時代
は野球部主将を任せられる。実家は前橋地域では老舗のスーパーチェー
ン店を展開していた。1998年大学卒業後神奈川県の大手スーパーに就職。
振り返ればバブル崩壊が始まった年であった。
2003年父の経営するスーパーマーケットに入社。その年に結婚し長女
誕生。2005年父上が癌で入院。2007年逝去される。社長就任。入社当時
の経営コンサルタントから「何故こんな会社に帰って来たのか」と叱責
された。それほど経営は悪化していた。
社長に就任したものの、資金繰りに奔走する日々を過ごすことになる。
その間、高崎の勉強会で須田知身氏(群馬県・高崎在住・進化経営学院
専務理事)に出会う。
会社を畳むことを勧められたが、柳井氏は父の経営してきた企業、取
引先、社員のことを考え必死で事業継続に努力する。4年後2011年7月、
再び須田さんを訪ねる。須田さんに開口一番「柳井さん、お金は貸せな
いよ」と言われる。柳井さんは文字通り「藁をもすがる最後の頼みの綱
だった」その須田さんから「お金は貸せないよ」と言われたわけだ。そ
して「会社閉鎖」を勧められた。会社閉鎖を決心した柳井さんは、会社
を閉め父上の古くからの知り合いの勧めで、会社閉鎖直後から知人の山
の別荘に身を移す。
丁度、須田さんの両親の別荘がちかくだったこともあって一カ月間二
人で、山籠もりをする。毎日山に登り歩き、身体を動かすことに専念。
実は須田さんは20台後半、おじの会社の社長を引き受け、猛烈に仕事を
した。私と知り合ったのもそのころだった。MGを中心とした勉強会や、
上場会社群栄化学の商事部門を経営していた有田邦夫氏との勉強会で知
り合っていた新進気鋭の若い経営者だった。その彼が、結婚式を上げた
翌週、叔父の会社の旧役員から会社追放を宣告され、それから長い裁判
体験を積むことになった。(須田さんのことはここでは置く)その須田
さんとの一カ月の山籠もりだ。
一カ月過ぎた2011年8月、当時須田さんの勧めで創業していた「草むし
り・COM」でアルバイトをするようにと勧められた。そして一年、い
ままでの仕事とは全く違う、社会では到底、職業として評価もされない
「草むしり」を生業にしたいという。「草むしり隊」の創業を決意した。
2013年創業。その間の柳井さんには人に言っても、理解されないこと
が次々と起こる。しかし、従来の企業経営とは全く異なる働くことの喜
び、お客さんからの心から感謝される喜びを体験する。働くということ
は何なのかと深く考える。
そんなとき須田さんに勧められ、2013年5月から天命舎・進化経営学院
に通うようになった。全く事業も軌道に乗っている訳でもない。お金もな
い。時間もない。しかも茨城までは車で来るにしても遠い。天命舎で理念
探究する意味も解らない。何とか訳の解らないまま一年が経った。
一年目の最後の日に講師をしていた「そうじの力」の社長小早祥一郎氏
に「来年はもう天命舎に通うのを辞めようと思う」と告げた。小早さんは
「ああ、そう」と何も言わなかった。
その夜、大阪堺から通っていた「尚友」小路口欣弘氏が「僕は来年も続
ける」と言う言葉に翻意して、翌日最終講義の後私にも来年も続けると正
式に伝えてきた。何故、そうなったのか?とここでは置いておく。彼は進
化経営学院で小路口欣弘氏や他の人に会うことによって「転原自在」全て
自分の如何なる状況も切り拓く原は自らにある。そして「尚友」と共に学
ぶこと意味を真に体験したことによる。
彼の理念の一つは「新規巻き直しを支援する」
①生き方の転進を支援する。
②岐路にいる経営者を心の面で応援します。
を制定した。三年の月日が昨日のように思い出される。
小路口石材工業(株)・小路口欣弘・尚友との出逢い 1983年大阪堺に
石材店の次男として生まれる。33歳。
非常に若い。中学で柔道をはじめる。彼の姿を見ると正に柔道家という体
躯をしている。そのために生まれてきたのではないかと感じる。父上もお
兄さんも柔道に親しんできた。高校も柔道推薦で進学する。本人曰く、柔
道の厳しさに挫折をしたという。柔道では落とす(首を絞めて気絶させる)
ことを認められている。幾度となく落とされる。それがいやになった。先
生に退部を申し述べたら、まかりならぬと一喝。練習はしなくても毎日道
場に通って見学をしていた。そして幾多の経験を積みながら、最後まで続
けた。数年前より彼の恩師に依頼され母校の柔道部の先輩として毎週一回、
後輩たちを指導している。
彼は高校を卒業後、警備保障会社に就職を決めていた。父上に告げたら
最終決定は一日待てと言われた。翌日、家業を継ぐように強く勧められ、
2001年から3年まで四国庵治石の本拠地に、修行に出ることになる。
その間、修行先のお嬢さんと恋仲になり2004年結婚、翌年長女誕生。
2005年から無借金経営に取りくむことになる。
父上の墓地事業の失敗から過剰な借入金を抱えていた。当時墓石販売とと
もに墓地開発が盛んだった時期があった。中谷石材グループからの借入金
三千万があった。中谷石材を指導していた須田知身氏の指導で小路口石材
も無借金経営を目指して取りくむことになる。
2005年から2007年、厳しい無借金経営への挑戦で9000万円あった借金も一
応の目処が立った時、母親の借金が発覚する。
母親が十年以上にわたって、親戚や消費者金融、カードローンなど、あら
ゆる所からの借金が発覚した。その額は合計二億にものぼっていた。中で
も消費者金融で欣弘氏の名前が使われていたことや、彼の目の前で債権者
に嘘をついて、彼に責任を被せる姿を見て、親子の関係とは一体何なのか
と思い、人間不信になった。父母は離婚、しかしマンション(会社所有)
の別の階に住むという変則的な形が続いた。
2009年に父上が脳梗塞で倒れ、2010年家業を継ぐことになる。人から見る
と弱り目に祟り目、想像を絶する逆境を背負うことになる。彼は家業を引
き継ぎ社長として兄や親族の人達を抱えて事業を続け借入金を返し続ける。
当時30歳前。
彼も一体何のために仕事をしているのかと鬱状態に陥る。そんな彼に、
又しても須田さんから「もうそろそろ理念探究だな」と勧められ、天命舎
に通うようにアドバイスされる。堺から、茨城まで毎月通う。本人は目的
も明確なわけではない。正直嫌々だったと述懐していた。
そこで、柳井さんに出逢った。彼らは自分のおかれている状況を毎月、語
り合う内に「尚友」ということをつくづくと感じた。
「尚友」とは吉田松陰先生も「士規七則」の中でも使われているが、友
を尚(たっと)ぶという意味である。何故、友を尚ぶ必要があるのか。友
人は自分の同輩である。その友人が「道の上からは、自分より一歩ないし
数歩をすすめており、したがって自分は、その友において大いに尊敬すべ
きものを認めるという時、初めて友を尚ぶとなる。
天命舎では、共に学ぶ人達に最初の講義で伝える。道を求める(自己の
使命を探究する)上で、互いに尚友であることを体験してもらいたい。真
の友人というものは、一面からは肉親の兄弟以上に深い理解と親しみを持
つ場合も少なくない。
正直言って、彼ら二人はいままでの私の経験した受講生としては異色の
存在だった。人間は誰にもこの世に生まれた使命がある。しかし森信三先
生にいわせればほとんどの人が気づかないまま人生を終えることになる。
進化経営学院の前に「人生二度なし」の森信三先生の揮毫の碑を建立して
いる。「人生二度なし」ということも頭の上では理解できることだ。しか
し、道の上から考える人はほとんどいない。
柳井氏も小路口氏も正にこの場で真の「尚友」に出逢ったことになった。
「共に学ぶ柳井さんは自分とはまた違った形で人生の逆境を乗り越えた人
だ。毎月の近況報告の度に、仕事で感じる喜びを実に自らの最上の喜びだ
と言わんばかりに楽しそうに話す。仕事とは何か、人生の喜びとは何かと
自問を続ける自分にとって一つの答えがそこにある気がした。この人のよ
うになりたいと思った。」(小路口さんの言葉)
そして柳井さんも「尚友」が理念探究を続けると言ったとき、どうして
も共に歩みたいと思った。小路口氏は文字通り恐ろしいほどの逆境(絶望)
の中から、「依存から自立へ」「尚友との出逢い」そして、お嬢さんたち
が私の孫たちや須田さんの子供たちとの夏の合宿参加を機会に「娘たちの
教育」を強く自覚した。そしてこの度の理念制定にたどり着いた。
理念制定を終えて
ここ五~六年は理念制定者を生むことができなかった。二十数年の経験
を持ってしても、理念制定の段階に至らなかった。二年前から進化経営学
院の養成塾は、西日本校に移すことにした。私は七名の人達とこの一年は
理念探究に集中した。
メンバーの中に韓国生まれの李交員さんがいる。彼女は傑出した人物だ。
彼女のことはまた改めて報告することになるが、彼女を含めて七名は、次
の時代を背負うに足りる人物だ。各自が進化経営学院創設の辞である「逆
境練機」「転原自在」「経営進化」「互恵共栄」を文字通り体験している。
詳細は省くが第十六回理念型企業快労祭で発表した人達も逆境を体験して
いる。「苦労」を「快労」に見事に転換している人達だ。
こうして振り返ったとき、人生を順風満帆に過ごしてきた人は到底、理
念には到達できないという確信に至った。
新しく理念を制定した六人を含めていよいよ、若手が活躍する時代にな
ったと感無量な思いにとらわれた第16回快労祭だった。