●理念探究会103
■第四章 教育改革について
今回までの振り返り
■何故安保闘争に巻き込まれてたのか?
前回は60年70年の学生運動を中心に取り上げた。何故、知的レベルの高いと思われる大学生を中心に岸信介総理の安保改定に対して単純に反対運動に巻き込まれたのか、また70年佐藤総理の時に再び安保改定反対運動が盛り上がったのか。その反対運動に当事者たちが巻き込まれる過程をたどってみた。その時代、共産党、社会党のソ連・中共の主張する、一見理想的な「中立論」を掲げ日米の安保条約改定に反対した。世間からは知的レベルの高いと見られる純粋な(ある意味世間知らずで、単純な)大学生を単次元分極思考に誘導し反対運動を進めた。
学生運動の当事者の思想的な背景と回顧の声も検証した。
当時の進歩的文化人として称された文化人や著名大学教授達が、彼らの専門分野は置くとして、観念論・理想論を掲げて若い学生たちを結果として先導する過ちを犯したのかと言うことにも多少触れた。
私の世代前後はこの安保闘争に少なからず無関心ではいられなかったが、こうして振り返ってみると、若い純粋な彼らを社会経験がないと切り捨てることのできない、マスメディア、進歩的文化人の犯した過ちは検証しなくてはならない。
■アメリカは何故終戦当時、共産主義、社会主義を支援したのか?
旧ソ連とアメリカの冷戦時代を経験している人たちから見ると何故、日本で、若者が共産主義や社会主義にかぶれ安保闘争にのめり込んだのかという点が、疑問点として残る。
それは大東亜戦争(太平洋戦争)の始まる前からルーズベルト大統領の側近、ブレーンとして共産党主義者が多数存在し、戦後のGHQの主要メンバーは実は共産主義者が牛耳っていて、GHQの施策は戦前の日本の良さを壊すために、教育、企業、組合にすべて対立する施策を取り入れてきた。「占領軍民政局は左翼の巣だった。ホイットニー局長、ケーディス次長は社会主義者であり、ケーディス次長の右腕ハーバート・ノーマンが主導した。」
民生局長ホイットニーは「民主化」と急進的かつ社会主義的な改革を進めた。戦前の政府要人や大物議員、財界人を公職追放し、日本社会党に露骨に肩入れした。
しかしながら1947年の東ドイツのソ連の占領、1950年朝鮮戦争の勃発でソ連・中国が共産主義国家である事に改めて認識し、マッカーシー旋風が本国アメリカで巻き起こり、かつてのルーズベルト大統領の側近はもとより多くの共産主義者が糾弾され、自殺したブレーンにGHQの主要幹部も含まれていたことが判明した。
■知的保留・盲疑も盲信もどちらも真実から遠ざかる
「むやみに信じるのも」「むやみに疑うのも」実は同じ穴のむじなということです。むやみに信じるのは危険だということは、大体の人は警戒心があるから知っていますが、むやみに疑うのは害がないと思っています。むやみに信じるのは盲信といって、疑わしい根拠を告げても「そんなことはない」といって、受け付けなくなることです。また、盲疑はむやみに疑うことで「それでも認められる所もあるよ」と言っても、受け付けなくなることです。
これらは情報なしに判断しているので盲断(図参照)と言います。その結果情報不足のまま不覚行動することになる場合があります。
不覚行動を防ぐために「知的保留」と言うものがあります。肯定も否定もできないような情報が入ってきたときに、情報ではあるが決定的な結論ではないという状態でそのまま心にとどめておくことを「知的保留」と言います。
世の中にはこの知的保留ができないタイプの人がいます。大多数の人が考えていることに合わせたりして決めてしまったり、同じように思う人を例え少人数でも集めると安心するということで、信ずる集団か、信じない集団かの中に入ることによって安心してしまいます。それで不都合がないように見えますが、保留しない情報は分極情報だから、いったんどこかで何かが狂うと大混乱になってしまいます。
この保留された情報を地道に蓄積していくとやがては大筋が見えてくる。これが大事です。そのためにも保留は保留として留めておくことが大事です。(心の自立・テキストより)
■ここで再び、私たちを単次元分極思考に導いていったかを確認してみる。
第一章でGHQの言論統制、プレスコードについて書いてきた。GHQが定めた30項目の報道規制中で、特に以下の点について考えてみてるだけで、いかに当時の日本人は情報不足のまま、決断をしなければならなかったか。これらに関してGHQの作為的な情報によって7年にわたり私たちはマスメディア、NHK放送を通じて間接的にGHQの都合のよい方向に導かれてきた。
一、SCAP(連合国軍最高司令官もしくは総司令部)に対する批判
二、極東国際軍事裁判批判(東京裁判への一切の批判を禁止した)
三、GHQが日本国憲法を起草したことに対する批判
四、検閲制度への言及
情報不足による不覚行動の積み重ね、特に検閲制度、言論統制の徹底された新聞、NHKラジオ番組でGHQがシナリオを書いた「真相はこうだ」という番組で「誰が日本を戦争に引きずりこんだのか」という問いに「人物を突き止める事は不可能。責任者は日本人自身だ」答え、言論統制を巧みに隠しながら贖罪意識を植えつけていった。1945年(昭和20年)12月8日から、日本中の新聞に「太平洋戦争史」を掲載させた。(これは東京裁判の検事側史観そのものだった)一方GHQの意向に従うことで、戦後の地位も名誉も獲得した人達(敗戦利得者)が生まれることも推測できる。既に述べたが、戦後復活した左翼系大学教授(東大、京大、一橋大学等)も知識人、進歩的文化人もマスメディアもその例外とは言えない。GHQ洗脳工作は着々と進んでいった。
今回は二回に分けて、戦後の教育に携わった日教組の問題を考える。
■第四章・日本教職員組合・歴史
●GHQが実行した教育関連を時系列に記す。
1945年10月22日・日本の教育制度に対する管理政策に関する指令
1945年10月30日・教職員の調査、精選、資格決定に関する指令
1945年12月15日・国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督、弘布の廃止
に関する指令
1945年12月31日・修身日本歴史及び地理の停止に関する指令
以上指令は「教育に関する四つの指令」と呼ばれ、後に出された「新教育指針」とともに、日本の戦後教育のあり方を決定づける。
1946年3月アメリカ本国から教育使節団がやって来て報告書を作成。
1946年5月7日・教職員の除去、就職禁止(公職追放)12万人/70万人が退職する。
1947年5月15日文部省は「新教育指針」という教師用の手引書を全国の学校に配布する。
●日教組・「民主化の一環」として1945年12月に教員組合の結成を指令した。12月には全日本 教員組合(共産党系)が、翌年、教員組合全国同盟(社会党系・校長も参加)が結成された。
1947年(昭和22年)6月8日・日本教職員組合の結成大会が開かれた。
(注)羽仁五郎・1947年「日教組初代代表」・GHQ民政局ハーバート・ノーマンの日本史の個人教授。日教組初代代表・日本国憲法、教育基本法の理念普及と、階級闘争を運動方針とする統一的な教員組合として日教組を結成。
(注)日教組は主流派社会党系と反主流派共産党系など色々な派閥があったが、親ソ連、親中国、親北朝鮮である。
●1950年朝鮮戦争勃発を機に、戦後教育見直しや再軍備への動きの中で、日教組は、1951年1月 に開いた中央委員会でスローガン「教え子を再び戦場に送るな、青年よ再び銃を取るな」を採択し文部省の方針に対立する運動を開始した。その後、「教師の倫理綱領」を定めた。
「教師の倫理綱領」1952年6月16日
1.教師は日本社会の課題にこたえて青少年とともに生きる
2.教師は教育の機会均等のためにたたかう
3.教師は平和を守る
4.教師は科学的真理に立って行動する
5.教師は教育の自由の侵害を許さない
6.教師は正しい政治をもとめる
7.教師は親たちとともに社会の頽廃とたたかい、新しい文化をつくる
8.教師は労働者である
9.教師は生活権を守る
10.教師は団結する
●政治活動
1956年の総選挙で日教組の政治組織・日本民主教育政治連盟は、日本社会党などから推薦候補20人(日教組組織内候補13人)を当選させ、参院選では10人を当選させた。
(注)日教組の中に組合専従が出てきた。それを踏み台にして社会党員になり、政治活動をするようになり、日教組は左翼政治家の苗代になった。政治に向かった者は日本民主教育政治連盟をつくり代議士を目指した。
●日教組と北朝鮮
1970年代から日教組は支持政党である日本社会党が朝鮮労働党との関係を強化した。訪朝団の派遣を積極的に行い、北朝鮮の指導者を賛美した時期があった。
●指導者・幹部による北朝鮮礼賛
1971年から1983年まで委員長だった槙枝元文は1972年4月の「金日成誕生60周年」に際して訪朝し、同国の教育制度を絶賛した。同年、制度検討委員だった岩井章も北朝鮮における思想教育について感銘を受けたと述べた。槙枝は、最も尊敬する人物として金日成をあげ、1991年(平成3年)には北朝鮮から親善勲章第1級を授与されている。
次号では日教組他について検証する。
◆理念探究会103号
理念実践の企業・Mランド訪問・小河会長と懇談
1年半ぶりに島根県益田にあるMランドを訪ねました。前日ANAから欠航になる恐れがあるとのメールが入りやきもきしながら羽田に向かいました。着陸のとき少し揺れはしましたが無事到着。
迎えにきてくださったT口さんと再会。その足で、新築なった国際交流センターでの中国式茶会に私たちも参加させていただきました。
Mランドでは三年ほど前から中国人のインストラクターを養成してゲストも次第に増え年間五百人ぐらいの中国の人達が合宿研修に参加されているとのことです。インストラクターはチャイナドレスをきて、中国人のゲストに中国語と日本語での説明でウーロンチャ、鉄観音のお茶を味わせてくれました。
今年六月オープンを前にJIRO’S DERIという自然をコンセプトにしたメニューで構成されたレストランのオープンに向けて最後の仕上げをしていました。訪問するたびに新しいチャレンジのあるMランドです。
会長は私の尊敬する元台湾総統李登輝同い年で、私には非常に共通した印象があります。二時間ほどいろいろお話を聞きました。最後に今後の構想は如何でしょうか?という問いに「日本の国をどうするか」ということで話を聞きました。
東京一極集中をさけ、
一、富士山の見える所に首都を移す。
二、天皇(皇室)も移す。
三、日本で最高の大学を移す。
四、そして憲法改正という話をお聞きしました。
私の最大の関心事は戦後七十年の検証ですが、重なる部分の多いお話でした。また、改めて書きたいと思います。