■理念探究会102号

●理念探究会102

■第三章・戦後の混迷・60年・70年安保の実態
単次元分極思考・多次元連続思考

「年をとると言うことは、経験を積むことで、経験を積むということは色々な
情報を頭に蓄積していくことだ。その時たとえば円周率は三・一四・・・・なの
に、これを見た目には割り切れる三とすると、事実は三・一四・・・・なのだか
ら誤差のある情報になってしまう。これは同じように妙に割り切りすぎたような
情報を詰め込んでいくと、終いには、狂った判断ばかりするようになってしまう。
長年の蓄積がそうであるから、にわかには直しがたいなんとも哀れな頭になって
しまう。ある議論において、白か黒かというような結論を妙にきっぱりとだす人
がいるが、そういう人に何かよく知っているような印象を持ってしまいがちで、
その意見をすぐ飲み込んでしまうことがある。高校を出たて当座の頃は、ほとん
ど思想的に免疫がないから、一見体系だったような話や一見凄く割り切れている
ような話というものに抵抗力がなくフラフラとついていってしまうようなことが
起こりやすい。」(心の自立・進化経営学院で使っているテキストより)

 

 

■先月の振り返り
先月号で進歩的文化人に代表される戦後の教育への規制、流れをたどった。そ
の前提に、物の見方がある。単次元分極思考、白か黒か、善いか悪いかと単純化
して少しずつ分極思考に導いていく。この見方をGHQによって、日本全体が強
いられた。いままで白と言われたことをすべて黒だという。
まず著名な大学の学長に軒並み共産主義、社会主義的な考えの人をトップに据え
た。また日教組を発足させ、共産主義者の羽仁五郎を中心に進めさせた。しかも
70万人の教員のうち、12万人を追放した。そして日本の過去の歴史を学ぶことを
禁止した。
GHQはポツダム宣言を受け入れた日本を、思うがままに変えていこうと「事
実から眼を逸らせ」あるゆる手段を講じて洗脳してきた。日本のいままでの歴史
をすべて否定し、言論規制、新聞、放送を通じて七年にわたり洗脳をしていった
わけです。
■講和
全面講和・日本共産党、社会党、朝日新聞、岩波書店、日本の左翼知識人(平
和問題懇談会)も同調。スターリンの意向にしたがって、全面講和で講和条件の
締結に反対した。ソ連とその衛星国ポーランド・チェコ2~3カ国を含める。
単独講和・アメリカを含む49カ国、絶対多数との講和だった。
1950年朝日新聞世論調査では単独講和支持・45.6%全面講和・21.4%であ
った。国民は単独講和を支持していた。
■当時の世界の情況
ソ連とアメリカ両陣営と講和条件を結ぶことは不可能だった。いつになるかは
わからない、すなわち全面講和を望めば結果、日本の占領が続くことになる。
吉田首相は、全面講和派の東大南原繁教授を「曲学阿世の徒」と呼んだ。
●何故、社会党は講和に反対したのか?
当時の社会党は、左翼のみならず敗戦利得者が加わっていた。敗戦利得者とは
戦前、コミュンテルンの影響で、冷遇された人たち。文化人、学者、岩波書店、
第三国人。第三国人は占領下の莫大な利益を得、日本の警察もほとんど取締に手
がだせなかった。独立すれば、日本の警察権に戻ることになる。在日朝鮮人から
多大な援助を受けていた社会党にとって由々しき問題だ。その第三国人との利害
関係は、今日民主党に引き継がれている。
●終戦までのアメリカとソ連の関係
敗戦直後1945年東京裁判まではアメリカ、ソ連は手を結んでいた。
アメリカは戦争の定義を「ファシストの国」と「民主主義の国」としていた。
ソ連は民主主義の国の一員だった。東京裁判にはソ連の判事も入っていた。イワ
ン・M・ザリヤノフ少将(ソビエト社会主義共和国連邦派遣)最高裁判所判事。
日本側にとって納得できない判決の要因になった。
●1948年(昭和23年)6月ベルリン封鎖が起きる。東西の対立が激しくな
る。アメリカ、ソ連の冷戦の始まる切っ掛けとなる。
●1950年6月25日朝鮮戦争勃発・中華人民共和国、北朝鮮支援(ソ連は北
朝鮮を支援)スターリンは毛沢東の承認をとることを条件に支援した。
その間の日本の流れ
1951年9月8日サンフランシスコ条約受託。9月8日日米安全保障条約締
結、中国は招待されず、ソ連は署名せず。
1952年8月5日、日華条約、日華平和条約発効。
1972年9月29日、日中国交回復により失効。

■1960年安全保障条約改定
●当時の共産党と社会党の状況
共産党・終戦当時1945年100人、1940年代後半激増、1950年10
万人。
1950年ソ連がコミンフォルム加盟政党への統制を強める。日本共産党はコミ
ュンフォルム批判で分裂。1955年六全協(第六回全国協議会)で占領軍を解放
軍と規定して平和革命を掲げた日本共産党の路線を誤りと指摘した。
共産党は主流派と国際派に分裂し共産党から知識人が離党した。極左的な学生は
共産主義者同盟(ブント)を結成。これが60年安保の全学連主流派になる
●新安保条約1960年6月19日自然成立
1952年の旧安保条約は不平等条約だった、この改正が岸総理の目的だった。
安保反対の多くの人は「改定安保」の中身を読んでいなかった。
●社会党・浅沼稲次郎は共産党と同じ考え方だった。日本共産党はソ連の傘下にいた。
1959年中国訪問で、岸内閣打倒を唱え人民帽をかぶった姿で「アメリカ帝国主
義は日中両国人民の共同の敵」と言った。帰国の時、中国の人民服を着て、タラップ
から降りてきて、反発を買う。
1960年10月・日比谷公会堂・社会党・浅沼稲次郎委員長刺殺される。

●経団連(旧経済団体連合会)会長で東芝社長の石坂泰三は、
「暴力行為は決していいものではない。だがインテリジェンスのない右翼の青年
がかねて安保闘争などで浅沼氏の行為を苦々しいと思っていて、あのような事件を
起こした気持もわからないではない。」と山口に同情的な発言をして批判を浴びた。
●11月の総選挙では案保条約改定の影響はなく池田隼人首相のもとでの自民党は3
00議席を超え圧勝

■樺美智子圧死・安保反対デモの実態
1960年6月15日・33万人(主催者発表・警察発表13万人)が国会を包
囲したが、この時が日本の戦後左翼のピークだった。樺美智子がデモで圧死。
●樺美智子の指導教官であった伊藤隆氏(東大名誉教授)の当時の述懐60年安保・
修士2年の頃、国史研究室にいた。樺美智子は国史研究室の4年生だった。彼女は共
産党からブント(全学連)に移行していた。6月15日国会デモの日、彼女に以下のよ
うに声をかけ、会話を交わした。
伊藤「卒論の準備は進んでいるか」「なんとかしなきゃあ」樺「でも、伊藤さん今日
を最後にしますから、デモに行かせてください。」伊藤「じゃあ、とにかくそれが終
わったら卒論について話をしよう。」その深夜1時半ちかくラジオ関東で樺さんの死
を伝えられた。
(注)伊藤隆氏の経歴と述懐
1951年東大駒場寮・東大歴史研究会に入る。山田洋次、最後のマルクス経済学者
・林健と同期。歴史学研究会として改称。
講座派マルクス主義を学ぶ。共産党時代・民青(民主青年同盟)のキャップになる。
共産党に入党。駒場では党員200人ぐらいいた。
東大駒場の共産党組織(細胞)は講座派として活動。優秀な連中は共産党員という時
代だった。当時民青の本部は銀座四丁目新世界ビルの一室を不法占拠していた。
六全協・武装闘争方針1955年7月それまでの極左軍事冒険主義を転換し、先進国型
平和革命路線に踏出す事に抗議し、日本共産党を見限った。共産主義者同盟(ブント)
に移り反スターリンを叫ぶようになった。東大駒場細胞とは共産党本部から解散させ
られた。講座派的思考からなかなか抜け出せなかった。
●田原総一郎の述壊「60年安保反対デモ」
私は「吉田安保も改定された岸安保も条文も読んだことかなく、ただ当時のファッ
ションで安保反対を唱えていただけだった。
岸信介はA級戦犯容疑者であるから、きっと日本をまた戦争に巻き込むための安保改
定に違いない」と思っていた。
当時東大安保闘争のリーダーの一人であった西部遭に『吉田安保と岸安保はどこが
違うのかそれぞれ読んだか』と聞いて見たい。西部さんは『読むわけないだろう。岸
がやることはろくなものではない。日本を戦争に導くだけだ』と言った。
西部氏は60年安保後、左翼とは決別して、完全な保守思想家として活躍している。
「総じて言えば60年安保闘争は安保反対闘争ではなかった。闘争参加者のほとんどが、
国際政治および国際軍事に無知であり、無関心ですらあった。」
(注)西部遭の経歴
1958年4月、東京大学に入学、三鷹寮に入寮。同年12月に結成された共産主
義者同盟(ブント)にはいる。1959年から同大学教養学部で自治会委員長を務め
る。同全学連の中央執行委員も務め、60年安保闘争に参加。元東京大学教養学部教授
他。
■70年安保
●全共闘(全国共闘会議)・自然発生的にできたノンセクト・ラディカルの集団だっ
た。ノンセクト・ラディカルは思想的にはマルクス主義とはいえない。アーナキズム
(無政府主義)に近かった。学園闘争の目的は学費値上げ反対等、プチブル的な要求
だった。大学解体がかろうじて統一スローガンだった。
(注)佐藤首相訪米阻止闘争・1969年11月16日~17日に行われた新左翼による闘争・
事件。1969年11月17日は、佐藤栄作首相の訪米予定日であった。訪米の目的は、日米
安全保障条約が期限切れとなる1970年を目前に控え、安保条約の継続をアメリカと協
議することであった。
全共闘・新左翼諸派はこれを阻止する闘争を70年安保の前哨戦と位置づけ、中核派、解放派等を中心とした武闘派は首相の訪米を実力阻止すべく、ゲバ棒や火炎瓶で武装した行動隊を羽田空港に送り込んだ。
11月16日から始まった武闘派の実力闘争は、数百人ずつに分かれて蒲田駅に到着し
た部隊がその都度機動隊に個別撃破され、完全な敗北に終わった。近代日本史上最大
の2500人超の逮捕者を出し、1967年から続いた学生運動・新左翼運動に一つの終止符
を打った。
●70年安保期の1969年(昭和44年)12月の総選挙では、当時の佐藤栄作内閣を支える自民党は国会での議席を増やす一方、「安保延長」に反対した社会党は約50議席を減らして大敗し、佐藤長期政権は1972年(昭和47年)まで継続した。(ウィキペディア)
●私の同郷の友人K君の体験「70年安保闘争」
1964年K西学院大学社会学部に入学。1965年学園闘争に参加、社会学部自
治会委員長1966年全学部副委員長を務める。
学園闘争のテーマは当初、バス代、学費値上げが最大関心事であった。社会学部と
して取り組んだ。卒業後、生協活動を続ける。1969年佐藤首相の安保条約改定の
訪米に対して、K西学院大学生協地域部のストライキ、職場封鎖を指導。羽田へ集結。逮捕を覚悟していたが、免れる。
1970年佐藤訪米阻止闘争に破れ、復帰後、運動のスタンスは左翼からは離脱、中
間派へと変わる。地域生協活動に専念する。仲間の一部は運動を続けるグループもいた。
●1971年「いかに生きるべきか」迷いながらK西学院大学生協から身を引き、三
重県亀山に移住。絹紡糸経営の社長に会い、経営に関わる勉強をする。
1972年2月28日連合赤軍・浅間山荘事件、その後山岳ベース事件による「総括」で12名の虐殺が明らかになった。学生運動の経験を振り返り強い衝撃を受ける。
(注)浅間山荘事件・連合赤軍のメンバー5人が、浅間山荘の管理人の妻を人質に立てこもった。警視庁機動隊及び長野県警察機動隊が人質救出作戦で死者3名・機動隊員2名、民間人1名、重軽傷者27名・機動隊員26名、報道関係者1名を出した。
10日目の2月28日に部隊が強行突入し、人質を無事救出、犯人5名は全員逮捕。酷寒の環境における警察と犯人との攻防、血まみれで搬送される隊員、鉄球での山荘破壊など衝撃的な経過がテレビで生中継された。
■戦後45年以後時代の主流に躍り出たマルクス主義思想が徐々に大学生中心に影響を与え、マルクス主義思想の理論をベースに共産党及び社会党内部での分裂が次々と起きているのも「白か黒かという単次元分極思考による考え方」から生じている。
東京大学駒場の事例にも見られるように、田舎から出てきた思想に免疫のない若者が、理論的な根拠も薄弱なまま、運動に巻き込まれている。これは後に起こったオウム事件にも言えることである。
西欧人は主に左脳(理論・合理性)で判断する。そして白か黒か、善か悪かに分ける分極思考だ。日本人は多次元連続思考で見る力、物事を道理で判断する力を持っているにも関わらず、戦後の教育は理論を優先して白か黒かで判断する単次元分極思考を進めた。その影響は今なお続いている。
(注)教条主義・ドグマティズムともいう。哲学上では定説主義や独断論をさすが、マルクス主義理論では実践による検証を怠り、マルクス、レーニンらの教義を無批判に盲信するような知的怠惰をさす。
理性・合理性のみで判断する見方、全ての現実もその理論・原理原則に無理やり当てはめて判断決定する思考。その未熟な思考の事例が今回検証した事実に現れている。
次回は日教組の問題を中心に検証する。
■理念探究会卒業式
理念制定者が六名誕生した。長い年月がかかった人もいる。短くて足かけ三年はかかった。ここ数年を振り返ると五~六年ぶりの誕生ということになる。三〇歳代~四〇歳代。私が理念制定したのは五〇歳だった。あれから二〇数年が経った。人を育てることは容易なことではない。森信三先生は流水に図を刻む如しと言われているが、私も二〇数年のうち、ここ一〇年ぐらいは共に学んだ志ある若者が、理念に添って事業経営に取りくんでいる姿を見ると思わず喜びが込み上げてくることをしばしば感じる。妻善子と、これがあるからよかったと頷きあうことがある。
六月には十六回理念型企業快労祭で理念制定式を行う。
■理念実践塾発足
三月には理念制定者が複数生まれる。それに関連して三月までで進化経営学院・茨城での理念探究会は一年間休止する。一方全国二カ所で理念制定者(既にできている人、間もなくできる人、なお探究を続ける人)達を対象に「理念実践塾」を立ち上げることにしている。
関西方面で七名、茨城で五名の人たちと継続して、参加者主体の勉強会を続けたいと思う。
五~六年先を睨んで彼ら自身が指導者として成長・成熟してもらいたい。自社の部下は元よりグループ、地域の若手を指導できる人になってもらいたい。経営計画熟考会参加を含めると年間10回ほどの勉強会、相互研鑽の場に成る。それとは別に、茨城で地域の若手と同じく勉強会(啓発会)を企画している。私自身の心身を鍛練しておかなくてはならない。