■理念探究会101号

●第二章GHQの教育ヘの規制・進歩的文化人
単次元分極思考・多次元連続思考ものの見方に、分極思考と連続思考とがある。加えて単次元的な見方と多次元的な見方がある。分極思考とは白か黒かで判断する見方である。また連続思考は白と黒との間には無数の色(グラデーションのように)があり、白から徐々に変わっていくどちらとも言えない段階が存在する。
良いとか悪い(白とか黒)とかは確かにあるのだが、その中間のどちらとも言えない段階がいくらでもある。
人を評価するにしても複数の評価の軸があり、しかも多次元にわたっている。
「年をとると言うことは、経験を積むことで、経験を積むということは色々な情報を頭に蓄積していくことだ。その時たとえば円周率は三・一四・・・・なのに、これを見た目には割り切れる三とすると、事実は三・一四・・・・なのだから誤差のある情報になってしまう。これは同じように妙に割り切りすぎたような情報を詰め込んでいくと、終いには、狂った判断ばかりするようになってしまう。長年の蓄積がそうであるから、にわかには直しがたいなんとも哀れな頭になってしまう。
ある議論において、白か黒かというような結論を妙にきっぱりとだす人がいるが、そういう人に何かよく知っているような印象を持ってしまいがちで、その意見をすぐ飲み込んでしまうことがある。高校を出たて当座の頃は、ほとんど思想的に免疫がないから、一見体系だったような話や一見凄く割り切れているような話というものに抵抗力がなくフラフラとついていってしまうようなことが起こりやすい。」(心の自立・進化経営学院で使っているテキストより)
自分自身を振り返っても、若いときはどうしても明快であることが大事だと思い、白か黒かどちらとも言えない状態の時に、「それは白ですよ」とはっきり断言する人に対して、「彼は頭がいい」という印象を持ったことがある。成熟するに従って単純に白か黒かと言うのは単次元・分極思考であることがわかる。
今回は、戦後のGHQが何処まで私たち日本人を誤差のある情報でいかに彼らにとって都合のよい洗脳を繰り返してきたかを検証する。これらの長年にわたる規制、誘導によって私たち見方に大きく影響していることを振り返って見たい。

■プレスコード以後・教育関連
前回は30項目の報道規制のことを記した。
プレスコードは昭和20年1945年9月19日発令21日発布された。日本の報道・出版活動規制のGHQが発令した新聞編集綱領・日本に与うる新聞遵則は昭和27年4月28日サンフランシスコ講和条約発効により失効廃止された。この間、およそ7年間。以下、GHQが実行した教育関連を時系列に記す。
1945年10月22日日本の教育制度の運営に関する覚書/1945年10月30日教職員の調査、精選、資格決定に関する覚書/1946年5月7日教職員の除去、就職禁止および復職の件

■1979年よりウィルソン・センターで米軍占領下の検閲事情を調査していた江藤淳は、
アマースト大学の史学教授レイ・ムーアより「Draft of c/n, Subject :
War Guilt Information Program, From : CIE, To : G-2 (CIS), : Date :
6 February 1948」と表題された文書のコピーを提供された。

■教育に関しての規制
GHQは1945年9月に皇国史観に基づいた軍国主義・国家主義的な教育を否定し、中
等学校以下の教科書でそのような記述のある箇所を黒く墨塗りにして削除させた。そ
の上で12月には特に皇国史観が色濃い修身・日本歴史(国史)・地理の授業そのもの
を停止させ、教科書を回収させました。戦前からの地理の教科書には、ポツダム宣言
で日本の領有が否定された台湾や朝鮮、満州などの記載があったからだ。
●神道教育・修身・日本歴史・地理の授業停止
特に初等教育については、20年10月に発せられた指令「日本教育制度ニ対スル管理
政策」で、軍国主義および極端な国家主義思想の普及を禁じ、続いて、同年12月には、国家神道・神社神道に関する指令ならびに修身・日本歴史および地理停止に関する指令で使用中のいっさいの教科書ならびに教師用参考書から、すべての神道教義に関する事項が削除されるとともにすべての学校における修身・日本歴史および地理の授業は停止されるに至った。
●教職追放・第2次大戦後、GHQの占領政策にもとづく教育民主化のため教育及教
育関係官の調査、除外、認可に関する件により追放を命じ、以後自発的退職、GHQ
による指名退職がなされた。日本政府はこれをうけて、教職への就職を禁止された公
職追放者以外の全教員に都道府県教育適格審査委員会等による審査を義務づけ、1947
年教職員の除去、就職禁止等に関する政令によって教職員不適格者の排除を実施した。
●70万人の教員から12万人が追放された。大体の先生が師範学校卒業生(旧制の教員
養成学校)だった。その後、教育界を埋めたのが左翼系だった。教育界に影響を与え
る教授、知識人はコミュンテル、共産党に関係し、戦前追放された人たちで、戦前は
悪かったと唱えた。

■進歩的文化人・教育の先端を担った人たち
以下のことは、今日では知られているが、「ルーズベルト大統領の周辺・占領軍民
政局は左翼の巣だった。ホイットニー局長、ケーディス次長は社会主義者であり、ケ
ーディス次長の右腕ハーバート・ノーマンが主導した。
カナダの宣教師の息子、ケンブリッジ大学留学中、共産党員になる。その後、第二
次世界大戦後の冷戦下のアメリカで起きた赤狩り旋風の中で共産主義者の疑いをかけ
られ、アメリカの圧力を受けたカナダ政府による審問を数回に渡って受ける。そのよ
うなアメリカからの圧力から逃れさせるべく、1953年には駐ニュージーランド高等弁
務官に任命され、その後1956年には駐エジプト大使兼レバノン公使に栄転する。
しかし、都留重人を取り調べたFBI捜査官によるアメリカ上院における証言によって
「共産主義者」との疑いを再度かけられ、1957年4月4日に赴任先のカイロで飛び降り
自殺を遂げた。彼の日本史の個人教授が羽仁五郎。羽仁五郎はマルキストの明治史の
学者。ハーバード時代の左翼仲間が都留重人である。

以下の人物は言論界では正に進歩的文化人と言われる人たちだ。出版界はもとより、
大学でのゼミや授業では多くの学生達に影響を与えた。彼らは1960年安保闘争、その
後の70年の闘争にまで大きく影響を与えた。当時を検証すれば以下のことが浮かび上
がる。

■「天皇制廃止・日本が滅びる事を願った」主要大学の教授達
●南原繁・1945年(昭和20年)12月東京帝国大学総長に就任。1946年(昭和21年)2月11日紀元節には日の丸をかかげ、日本精神そのものの革命を通じての「新日本文化の創造」を説く。3月貴族院議員に勅撰。12月貴族院において、象徴天皇制への移行へ伴う皇室典範改正にともない、「天皇の自発的退位」の規定を設けることを主張、これは南原が昭和天皇の退位を望んでいたためだが、反対多数で否決された。
(注)全面講和論は自由主義と共産主義国家の冷戦構造のなかで中立の立場をとろうとするもの。内閣総理大臣吉田茂は単独講和(49カ国)を主張していたが、これに対して貴族院議員となっていた南原繁がソビエト連邦と衛星国ポーランド・チェコを含む全面講和論を掲げ、論争となった。このことで、吉田茂から「曲学阿世の徒」と名指しで批判された。
(注)日本共産党、労働者農民党らは全面講和愛国運動協議会を結成、社会党も全面講和の立場をとった。1950年4月15日には南原繁、出隆、末川博、上原専禄、大内兵衛、戒能通孝、丸山真男、清水幾太郎、都留重人らが平和問題懇談会を結成し、雑誌『世界』(岩波書店)1950年3月号などで全面講和論の論陣を組んだ。事務所は岩波書店の二階にあった。
(注)1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発し、ソ連と中華人民共和国は北朝鮮を支援、ア
メリカら国際連合軍は大韓民国を支援した。この朝鮮戦争でソ連と中華人民共和国は、アメリカらとの間では互いに交戦国となった。結局、サンフランシスコ講和会議には中国(中華人民共和国、中華民国)は招待されず、またソ連は参加したが、講和条約には署名しなかった。
●矢内原忠雄・南原繁の次の東大総長。彼の講演の中の一言
「日本の理想を生かすために、一先ず此の国を葬って下さい」と、不穏の言動として問題となった。結局1937年12月に、事実上追放される形で、東大教授辞任を余儀なくされた。
1945年11月、経済学部からの度重ねた要請で東京帝国大学経済学部に復帰した。1 9 4
8 年経済学部長、1949年教養学部長を歴任し、1951年南原繁の後任として東京大学総長に選出され1957年まで2期6年務めた。
●大内兵衛・1945年復職。マルクス経済学者。1950年法政大学総長。向坂逸郎と共に社会主義協会・社会党左派の理論的指導者として活躍。門下の美濃部亮吉の東京都知事立候補を強く支持し実践面でも社会主義を貫いた。
●滝川幸辰・1945年復職。1946年法学部部長。
1953年京都大学総長。滝川の刑法理論は、当時の左翼的・マルクス主義的な思想を背景に、階級対立社会では、罪刑法定主義が厳守されなければ、刑法が階級抑圧の手段とされてしまうとして、危険思想とみなされ後に滝川事件を引き起こすきっかけとなった。滝川事件・京都帝国大学法学部の滝川幸辰教授の著書「刑法読本」を危険思想として当時の内務省が発行禁止処分にし、滝川教授も1933年5月、文部省から休職処分を受けた。
●羽仁五郎・1947年「日教組初代代表」・GHQ民政局
ハーバート・ノーマンの日本史の個人教授。マルキストの明治史の学者。1945年(昭和20年)3月10日、北京で憲兵に逮捕され、東京に身柄を移され、敗戦は警視庁の留置場で迎え、10月4日の治安維持法廃止を受けてようやく釈放された。
1947年6月日教組初代代表・日本国憲法、教育基本法の理念普及と、階級闘争を運動
方針とする統一的な教員組合として日教組を結成。マルクス主義の観点から、明治維新やルネッサンスの原因は農民一揆にあると主張。晩年は新左翼の革命理論家的存在となり、学生運動を支援し、岩波書店を拠点とした知識人の代表的存在
●都留重人・日本の中国侵入に反対し欠席届を出さずにストライキを起こした(反帝同
盟事件)。大学院では後に高名を馳せたポール・サミュエルソンが同窓生。GHQのハーバート・ノーマンの左翼仲間。1948年(昭和23年)東京商科大学(現・一橋大学)教授に就任。
冷戦下の赤狩り(マッカーシズム)の中でアメリカ留学当時共産主義者であったことを告白する。
1972年(昭和47年)~1975年学長。
●丸山真男・1946年(昭和21年)2月14日、東京
帝国大学憲法研究委員会の委員となる。戦後民主主義思想の展開において、指導的役割を果たす。1960年(昭和35年)の安保闘争を支持する。戦後民主主義のオピニオンリーダーとして発言を行い、大きな影響を与えた。1960年代後半になると逆に、欺瞞に満ちた戦後民主主義の象徴として全共闘の学生などから激しく糾弾された。

●大江健三郎・著書「広島ノート」の虚偽。1973年曽野綾子「ある神話の背景」で覆さ
れる。
岩波書店・裁判を通じて事実が明らかになるが、出版差し止めは棄却(最高裁)。30年以上も重版。日本における天皇制には一貫して批判的な立場。天皇からの親授式を伴う文化勲章と文化功労者のセット授与を辞退。「私は、戦後民主主義者であり、民主主義に勝る権威と価値観を認めない」「護憲」の立場から核兵器や憲法第9条についてもエッセイや講演で積極的に言及しており、自衛隊の存在に対しても否定的である。憲法九条の戦争放棄の理念を守ることを目的として、加藤周一、鶴見俊輔らとともに九条の会を結成。2006年に中国社会科学院・外国文学研究所の招きで訪中し、南京大虐殺紀念館などに訪れた。2012年9月28日には「『領土問題』の悪循環を止めよう」「領土問題は存在しない」とする日本政府の立場を批判する。尖閣諸島も竹島も過去に日本が侵略したものだという立場を示し「ぼくは、防衛大学校生をぼくらの世代の若い日本人の弱み、一つの恥辱だ」と思っている。

■主要大学は講座制なので教授の考えが継承される。弟子たちが次々と伝えていく。主
要大学の卒業生は確かに優れていることもあって、官僚、新聞社、出版社、教員として育って行った。戦後の知的分野の主流は左翼一色になったといっても過言ではない。
以上、今回はプレスコード以後、GHQが行った数々の規制のうち、教育、教職追放の概要と、進歩的文化人と言われる人たちが大学教育の中心となり、それが引き継がれていく流れを見ることができる。
次回は、戦後教育を受け、大学に入り学生運動に巻き込まれた、思想に免疫のない学生たち、一端は共産党に入党し不毛の体験の後共産党を脱党した人たちの体験を交えながら、日教組、60年・70年安保闘争、労働・学生運動を検証する。

●鯖江・M社経営計画熟考会
一月末、鯖江でM社経営計画熟考会を開催した。昨年は計画以上に推移して紹介、紹介で仕事の受注がきた。これが百数十号も続けているニュースレターのおかげだと確信をもって社長、社員が言う。言ってしまえば「紹介で成り立つ企業」は世の中に多くはない。個人的には保険業界で、世界円卓会議に集積するセールスマンは紹介で成り立っていると言われるが、普通の会社は四苦八苦営業が続いている。M社も紹介による営業「和道営業」の領域に足を踏み込んでいる。これが更に徹底するように願うところだ。
私の尊敬する島根県益田にあるMランド自動車学校は、毎年六千人以上のゲスト(運転免許取得受講者)が参加するが、そのゲストの60%が紹介による。徹底した和道営業をしている。
その実現には幾多の工夫や努力があるのだが、根本に理念がある。訪ねてみるとわかる。M社がいよいよ大きく踏み出した。ここ2~3年で見違える様な会社に発展するだろう。雌伏五年。次のステップヘの道がひらけた。

●N社経営計画熟考会・六社社長会
六社の社長が集まった。三月では人生理念制定の社長は三名になる。これからまだ、制定に至ったいない社長には、引き続き理念を探究してもらいたい。今回のテーマはクオリティーを上げると言うテーマだ。一つには製品の品質を上げる。一方もう一つは提供する側の人間のクオリティーを上げることが必要だ。価格を超えて絶対の信頼を得るには販売する人間のクオリティーを上げなくてはならない。これが容易なことではない。結論から言うと各自の使命感・志への到達が望まれる。彼らにとって部下の使命の探究支援は生涯の仕事になるであろう。