理念探究会99号

■理念探究会99号

◎戦後70年を振り返る・知的保留と多角度思考
生まれて昨年で72年経った。霞ヶ浦の林の中に居を移して20年。
理念探究会を中核に据えて、次世代の経営者を養成することを目
的として、更に一般社団法人として進化経営学院を設立した。彼
らに指導していることは今の時代、「覇道」から「和道」へのパ
ラダイムシフトを目指して理念を根底に置く経営を指導している。
「和道」は「異質共存的な安定平和を確立するために、互恵共栄
の関係を自身の周りから築き、拡大して全体に及ぼす秩序づくり」
のあり方の体得を目指している。
その指導を通じて、戦後の70年を体験しているのだが、その歴
史をキチンと受講生に伝えることが必要だと考えている。私が生
まれてからの丁度70年が戦後の70年に相当する。私たちは歴史の
授業で日本史を選んだとしても、全ては過去の出来事をもって日
本史とされ、江戸時代のことも明治以後の歴史もほとんど知らな
い。何故だろうか考えたことも正直ない。
養成塾で江戸時代の碩学といわれる人たちのことを書いた自伝
や評伝を課外授業で受講生にだし、また翻って江戸時代に日本を
訪ねてきた外国人の見聞録やその他を読んでみると、日本史では
学んでいない歴史の事実に遭遇する。そして異口同音に江戸時代
の文化、生活のすばらしさが書かれている。質素だけれど江戸時
代の庶民の生活は生き生きと豊かに描かれている。

戦後と言えば私たちは真っ只中にいたものの、変化に翻弄され
て生きてきた。幸いなことに辛いとか苦しいと思ったことはない。
しかし現実の中で色々おかしいとか矛盾を感じることは多々あっ
た。学生時代、社会人となってからの企業生活時代にもあった。
その結果、自ら創業し自分に与えられた理念に添って生きること
を選択したわけだ。
以来、日本の戦後は私の大きな課題になった。この問題だけは
「知的保留」を続けていた。いよいよこの「知的保留」した戦後
70年をキチンと振り返り、多角度から研究を重ねて書き留めてお
こう思う。私の略歴を振り返っても、様々な日本の変化とリンク
している。学生運動前後、企業生活と労働運動、二度にわたる石
油ショック、高度成長とバブル崩壊そして今日の韓国、中国の歴
史問題等など。日本人が根本的に考えなくてはならない問題が浮
かび上がってくる。

◎日本李登輝友の会「平成27年日台共栄の夕べ」

進化経営学院で学ぶ人たちと何度も台湾を訪問している。そして訪れた
塾生は異口同音にいままでの台湾への情報とは全く異なる台湾の姿に出会
う。このことは何度か書いた。李登輝元総統が昨年に引き続き来日され、
7月22日には議員会館で講演をされた。国会議員他300名が耳を傾けた。李
登輝元総統の実現した民主化も、今閉塞状態を迎え、第二次民主革命が必
要と話された。また戦後70年の安倍首相談話で台湾、韓国、中国と初めて
台湾の名を正式にあげ、台湾は重要なパートナーであり、重要な友人と表
明した。9月台湾の最大野党、民主進歩党(民進党)の蔡英文主席が来日
した。東京駅と新竹駅の姉妹提携など多くの協定が結ばれ、日台間の絆が
一層強まっている。
今回、「日台共栄の夕べ」が今年オープンした拓殖大学の「後藤新平・
新渡戸稲造記念講堂」で開催されるとの知らせに、訪れた。第一部の講演
は拓殖大学の総長・渡辺利夫氏で李登輝元総統とは親しい。第二部では作
家の門田隆将氏もお話されるとのことで、楽しみにして出かけた。第二部
では、渡辺利夫氏、門田隆将氏とも言葉を交わし穏やかな一時を過ごして
きた。金美麗氏、黄文雄氏等も出席されていた。
第一部・講演で、渡辺利夫氏は元外交官岡崎久彦氏の歪められた「歴史問
題」を題材に取り上げて、話を進められた。「過去となった問題が復活し
た発端は、すべて日本人の手によるものである。」として話が始まった。
以下、骨子を記す。

◎「戦後70年とは何であったのか」
一、 敗戦後70年近くを経て、日本の隣国である中国と韓国との関係に
おいて、いわゆる歴史問題がいまだに残っている。この問題の不思議
なことは国際問題であるが、その根源を探っていくと、問題はすべて
日本から発出していることである。戦後の日本の思潮の中に、自らを
貶める文化があるということである。
二、 日本の敗戦は、1945年8月15日のポツダム宣言受託による降伏では
終わらなかった。近代国家社会では戦争がある段階で勝負がつくと、
まず休戦条約を結び、その上で講和条約を結んで、その条約の条件に
従って、戦争が終結する。
三、 そういかなかった理由は、一つは、第一次大戦後、戦争が国家総力
戦となったことである。国家総力戦になると、国民全体の協力が必要
となる。そうすると国民の協力を得るためには、相手は悪の権化、自
らは正義の味方と国民に信じてもらわなければならない。
四、 こうして、勝った方の判断は歴史として残り、負けた方主張は歴史
から抹殺されることになる。世界の歴史で、独自性の文明をもつ、中
国と日本の歴史を除いてはアングロ・サクソンが書いたといっても過
言でない。第一次、第二次大戦の正統な歴史として残るのは勝者アン
グロ・サクソンの歴史である。

◎米国の初期占領政策が左翼によって増幅された
五、 軍事占領は7年間続いた。7年というのは恐るべき長い期間である。
21世紀初めに日本社会の指導者であった60歳代(1930~1940年生ま
れ)の人々は、ことごとくその少年期の人格形成期の中にこの7年間
を体験している。現在、日本の社会で活動している全ての日本人の
人格形成に深い影響を与えている。
六、 それはアメリカの初期占領政策を、アメリカが早々に放棄したにも
かかわらず、日本の左翼マルキスト勢力がその後、半世紀あるいは、
それ以上に現在に至るまで、温存したからである。言論の自由の違反
である厳しい言論統制を布いて、言論の自由を奪い、日本の過去の歴
史は全て悪と断定し、日本人から国家を護る意識を根絶やしさせよう
とした。それが今に残る歴史問題の源である。

◎一九七〇年代に「戦後」は終わっていた
七、 特筆すべきは、その後十年間、国際的には日本の歴史問題なるもの
は、まったくなかったということである。つまり戦後は終わっていた。
現在、歴史問題は日本が戦後70年間放置して解決してなかった問題
といわれている。ところが1970年代は、それはもう過去のこととなっ
ていた。1980年という一年間をとってみると、私(岡崎久彦)は
外務省から防衛庁に出向し、国会で300回答弁したが、戦争の過去の
歴史問題が取り上げられたことは皆無である。議事録を取り寄せてみ
ればわかる話である。いったん過去となった問題が復活した発端は、
すべて日本人の手によるものである。

◎日本から提起された従軍慰安婦問題
八、 従軍慰安婦問題こそ、日本から提起された問題であるが、それはそ
れまで無名だった日本人評論家の売名行為から発する。1983年吉田清
治は「私の戦争犯罪」を上梓し,一九八九年韓国語に翻訳された。
1989年に済州新聞記者の許栄善記者は、調査して吉田の主張は虚偽で
あると報じた。済州島の郷土史家・金奉玉も数年間の追跡調査で証言
が事実でないと批判した。しかしこれらの済州新聞の批判記事は1992
年まで、日本の新聞、雑誌で紹介するまで知られることはなかった。
その間、強制拉致説は歴史的事実として一人歩きした。

注1)、朝日新聞は、1982年9月2日(大阪版)22面において「朝鮮の女
性 私も連行 元動員指揮者が証言 暴行加え無理やり 37年ぶり
危機感で沈黙破る」と報道した。1983年11月10日朝日新聞朝刊
3面「ひと」欄で吉田の謝罪碑活動を紹介した。
注2)、朝日新聞による慰安婦報道の取消 2014年8月5日、朝日新聞は吉
田の証言を虚偽と認定し記事を撤回。大阪本社版朝刊社会面の
記事初掲載から確認できただけで16回掲載した。