■理念探究会110号
■変化を続けるMランド
「ネクストソサエティを創造する構想企業とは」というテーマで多摩大学名誉教授・構想博物館館長望月照彦先生の講演があった。
この記念講演はMランド会長のお孫さん小河吉彦氏の結婚式の進行プログラムの中に組み込まれている。望月先生とはMランド50周年記念パーテーィーでお会いし、私達夫婦の20数年前からの森のフォーチャでの暮らし、私の理念に添った生き方に共感していただき、その後夫婦で先生のご自宅をお訪ねして、お付き合いいただいてい
る。
この記念講演のテーマは草柳大蔵氏に望月先生が若かりし頃から親しまれ、Mランドの小河会長とのおつきあいから始まっている。
Mランドの未来構想に、「差異化とビジネスイノベーションが最大の経営資源」という切り口から分析され構想される。
資料から抜粋するが今回の講演のテーマは三点。
第一章・差異化とイノベーションがNO1企業の条件。
第二章・人間の頭脳の誕生は、宇宙の奇蹟による。
第三章・自動車を運転する人間の喜びは、自動運転車が完成しても、何にも代えがた い。
■第一章・差異化を先行させる企業
Mランドの創造の奇蹟と軌跡はイノベーション・ここではMランド7つのイノベーションを分析された。
①五十二年前都会ではなく、むしろ需要の少ないと思われ地方での自動車学校の起業である。
②合宿研修の開発
③運転免許を取得するという技術とあわせて「挨拶から始まる礼節と人間性」を土壌にしたマインドフルネス(自分に気づく力)の涵養(かんよう)をした。
④Mマネー地域通貨を使って、Mランド内でのコミュニティーエコノミーを実験している。
⑤トイレ掃除などに見る自我超越と他利性の発見
⑥事業の国際化の展開(外国人運転免許等)
⑦ソーシアルプラットフォームとして、地域コアの創造(民間発電、子供教育、観光事業、旅の駅などなど)をお話しされた。
この明快な分析に私は感嘆した。Mランドの紹介ビデオや書物はある。Mランドでの視察、会長のお話を聞いて、言葉に説明できない点を明快な形で整理して頂いた。
■第二章・人間の頭脳とAI(人工頭脳)自動運転社会への勇敢なまなざし
ここでは人間が立って歩く過程で人間の頭脳の発達の歴史からお話ししてくれた。そして自動運転を主導するAIと統合情報理論との関わり、そして「運動行為」こそ人類成長の支えとして最大の頭脳の歓びを生み出した(マン-マシンシステム)。自動運転の歓びから人導(じんどう)運転へとの提案があった。まさしく我が意を
得たりと共感を深く覚えた。
■第三章・冒険小説家ジュール・ヴェルヌの故郷でであった「マシンの動物園」
この章は先生が昨年の秋訪ねた「マシン動物園」を紹介してくれた。「マシンの動物園」のマシン象に愕され、機械の動物を運転することが大勢の子供たちの楽しみなのだと。そしてマン-マシンシステム(人間・機械系)で人類の知能を発達させる「叡知のライビングスクール」を描かれ。そしてAI(Artificial Intelligence)
からIA(Intelligence Amplifier)に向けてその最先端をMランドは極め続けるだろうと結ばれた。
◎脳力開発
■戦後史の中の日本社会党・自己欺瞞の歴史
日本社会党は戦前の社会大衆党、非共産党系の社会主義勢力が団結する形で始まっている。その後1996年社会民主党に党名を変更して今では僅か4名、副党首の福島瑞穂は何とか残して頑張りたいと言っているが、相変わらず時代錯誤な発言を繰り返している。社会党にはもともと、考え方の異なる考えの人たちが集まり、発足当時か
ら3つのグループが存在した。そして最終的には左派に主導権を取られた結果、ソビエト崩壊を経て日本社会党も崩壊した。しかしその残り滓はいまだに民主党そして民進党の中に生き続けている。その過去を辿ることにする。そしてその欺瞞性を検証する。同時にマスメディアの欺瞞も見える。
■1945年11月日本社会党結党
委員長空席 片山哲書記長、中央執行委員浅沼稲次郎。
戦前からの社会主義者ないし無産運動家、1926年(大正15年)創設の労働農民党が分裂した結果生まれたものである。内部に左派、中間派、右派のグループを抱えて発足した。
左派=共産党に反発しながらも階級闘争主義に徹する労農派・理論主柱向坂逸郎中間派=マルクス主義にたつ中間派・浅沼稲次郎ほか、右派=共産主義と階級闘争を排して資本主義の合理的改革を提唱する吉野作造、片山哲、西尾末広など右派勢力
●片山内閣成立・社会主義を革新と位置づける
1946年9月第二回党大会、片山委員長、西尾書記長
1947年5月片山内閣成立 総選挙により比較第一党
を担った、片山委員長は、社会主義を「革新」と位置づけ「革新」 こそが「時代の力」と提言する。
1948年2月片山内閣総辞職
●左派優位へ
1949年4月第四回党大会 森戸、稲村論争 党内に全く異なる対立するグループが存在左派・稲村・社会党は「国民政党」ではなく、近代的労働階級(プロレタリアート)中心の階級政党である。
平和革命といえども無数の方法があり、暴力ないし力の行使を否定しない。
右派・森戸・労働者、農民の党ではなく、ひろく勤労大衆または働くものの政党、すなわち「真の国民政党」である。社会民主主義の立場に立って、議会制民主主義と基本的人権を標榜し「暴力的無産階級」の「共産党方式」とは戦うべきだと主張する。
1950年1月第五回党大会 左右分裂
1950年6月25日朝鮮戦争勃発
■朝鮮戦争への対応
第一に日本の安全保障を国連の集団保障に求め、武力による侵略を排す。第二に朝鮮動乱の直接の原因は朝鮮人民共和国が、武力に訴えて朝鮮統一を敢行。第三に政府の国連に対して積極的な協力には反対する。第四に朝鮮の事態は「単独講和」は危険「全面講和」を確認。
1950年12月平和三原則決定・全面講和、中立堅持、軍事基地反対
■総評の発足当時とその後
●1950年7月総評結成・GHQの意向に従った。
1950年昭和25年6月に朝鮮戦争が始まり、総同盟の事務局長・高野実と、総同盟の機関紙に「アメリカ帝国主義は侵略的な帝国主義ではない。米軍は世界の発展のために戦わざるをえずして戦っている」「自由主義国家群の団結こそが世界の平和を守る」と書いている。
●再軍備賛成論者、高野実、松岡駒吉(総同盟)島上善五郎(総評)
藤田藤太郎(私鉄総連)安垣良一(私鉄書記長)加藤閲男(国労委員長)原口幸隆(全鉱委員長)武藤武男(総評議長・炭労委員長)原茂(炭労副委員長)永岡光治(全逓委員長)大出俊(全逓青年対策部長)大木正吾(全逓組織部長)各単産には再軍備賛成論者が多かった。
●総評・1951年1月第7回党大会で「平和四原則」・全面講和、中立堅持、軍事基地反対、再軍備反対を行動綱領に入れて「総評の意志」とすることを決定した。
■総評と共産党の繋がり
●政府によって日本共産党の支配下にあった「全労連」が解散させられる。日本共産党は全労連の再建を図るよりも新たに結成される「総評」の中にもぐり込んで、時期を見た方が得策と考えた。
そして党員や秘密党員たちを総評の下部組織に潜り込ませた。
●「今日の労働戦線を統一する鍵は、総評の諸組織を内で党の指導権を確立することにかかっている。中略。結論的に言って、党は全労働者を総評に結集させることに努力しなければならない」と組織方針に置いた。「党員は表面に出るな、内部から総評幹部の行動を監視し、引きずって総評を共産党の別動隊に仕上げる」というのが
日本共産党の方針だった。
●その推進役を果たしたのが当時の総評事務局長「高野実」であった。高野は向坂逸郎らと共に労農派に属しマルクス主義を信奉している。
■総評の方針の変化、再軍備賛成から左傾・反米
●1951年3月第二回総評大会で、平和四原則を決定し左傾・反米へ方向転換する。
その後、階級闘争を基本的理念とし、資本主義体制の変革を目標に据え日本社会党(左派)支持を運動方針に明記し、反戦平和の運動を進めた。
総評本部の専従者はほとんどが高野実を中心とする社会主義協会会員であった。
●1951年10月第八回党大会、講和・安保条約で左右分裂、労農派マルクス主義者を中心とした左派(再軍備反対)勢力が人事面で党の主導権を手中にする。
1952年1月第九回党大会、左派鈴木委員長、右派浅沼書記長
1952年8月第十回党大会、右派河上丈太郎委員長
1955年1月左派社会党は総評の意向に従って、右派社会党との統一工作を進める。
1957年1月しかし、左派社会党は総評の要望書に沿って、党を大きく左旋回させる。
■中国訪問・中国共産党支持・反米宣言
1957年4月一次訪中団・浅沼稲次郎団長 共同声明で「二つの中国」を認めず1959年3月二次訪中団・浅沼稲次郎団長・浅沼「日中共同の敵」発言
1959年3月9日「米国は中国の一部である台湾に力を拡大し、日本においては沖縄を占領している。米国は日中共同の敵だ」という発言が毎日新聞3月10日報道された。
●社会党にとって「共同の敵」問題は画期的な意義を持っていた。
右派であった浅沼委員長を急速に左派に変えさせた。中国の社会党支持を劇的なまでに呼び起こし社会党の「安保改定反対闘争」の弾みを得た。
●「日中共同の敵」発言の波紋を知りながら、帰国時にあえて飛行機から人民服を着て、人民帽を被ってタラップから降りてきた。
1960年5月安保反対闘争激化 総評・社会党・共産党の激しい安保改定反対運動
1960年6月樺美智子死亡
1960年10月浅沼委員長暗殺事件・日比谷公会堂で「日中共同の敵」発言
をした、浅沼は演説中17歳の右翼少年山口二矢に暗殺された。
●中国の招待に対して社会党代表団は嬉々として訪問する。
顎足付きの招待に、毎回「米国は日中の共同の敵」を再確認され、第四次、第五次と訪問団の顔ぶれにまで口を出されることになる。中ソ対立に巻き込まれ、ソ連の核実験再開を挟んで反対の場をとる社会党とソ連を擁護する共産党は衝突する。そのことは同時に党内の親ソと親中の対立を招く。
●1961年1月三次訪中団・鈴木団長、1964年10月四次訪中団・成田団長、1970年10月五次訪中団・成田団長、1 9 7 5 年9 月六次訪中団・成田団長、1976年6月七次訪中団・江田団長)1978年3月八次訪中団・飛鳥田団長、1983年9月十次訪中団・石橋団長
■ソ連訪問 ソ連との関係強化
1957年9月一次訪ソ・東欧団・片山哲団長非武装中立の欺瞞
●1961年4月第20回党大会・河上委員長、江田書記長。非武装中立政策日
・米・欧等の「帝国主義・戦争勢力」とソ連、東欧、中国、朝鮮等の「社会主義・平和勢力」に世界は二分されており、「戦争勢力」の軍事力と軍事同盟を粉砕せよというスースロフ理論を「非武装・中立」の名の下に実践して行った。
日本社会党の本来の自主独立の外交政策から「反米・親中ソ」へと変貌した。「反米」という一点で、親ソ派も親中派も共通の立場に立った。
●その結果、「日米安保条約破棄」と「自衛隊解体」「日米韓三角軍事同盟反対」だけが「反核、軍縮、平和」と共に、喧伝されることになる。
●1974年9月五次訪ソ・東欧団・石橋団長(左派)
●1983年委員長石橋政嗣・「親ソ・左派」はニュー社会党をキャッチフレーズ「科学的社会主義」(マルクス・レーニン主義=共産主義)から「日本型社会民主主義」への転換を謳った「新宣言」を採択した。
■繰り返されるマスコミの欺瞞
●マスコミは社会党が、名実共に「社会民主党」になったかのように囃し立てた。委員長就任二年目には、1978年「党改革」運動以後自粛していた「親ソ路線」を復活させ、国の内外で反米・反核の国民運動を再開させ、それを「非武装・中立」論でカムフラージュした。
■訪朝・北朝鮮との繋がり
1963年9月一次訪朝団(山本団長)、69年二次訪朝(山花団長)、70年三次訪朝(成田団長)74年四次訪朝(成田団長)、78年五次訪朝(飛鳥田団長)
1990年10月土井委員長北朝鮮訪問、金日成首席と会談
土井委員長は北朝鮮を理想の国としてあがめ、北朝鮮の拉致などあるはずがないと言った。
■中ソ対立
1960年「中ソ」の対立が表面化、革新勢力としての「社共統一戦線」論を打ち砕き、社会党内での「中ソ対立」の亀裂は、1989年5月、ゴルバチョフと鄧小平の和解まで続く。
1964年6月27日第三次訪ソ・東欧団(成田委員長)、6月28日「親中派」佐々木更三を団長として「中国」へ出発した。中国は「親中派」を抱き込み、毛沢東はソ連の「社会帝国主義」痛烈に批判し、日本の対ソ連への「千島列島返還」を支持して見せた。
1966年中国文化大革命開始・社会党一切の中国批判をしなかった。
1971年7月米国大統領ニクソン、訪中発表1972年2月ニクソン訪中、9月日中国交
正常化
1978年8月日中平和友好条約調印
1979年1月米中国交回復
1983年9月48回大会、石橋委員長、田辺書記長、
1986年9月51回党大会土井委員長・山口書記長
土井たか子委員長
●「連合」の結成とソ連・東欧の共産党崩壊に危機感を募らせた土井委員長周
辺は1990年以後は本腰を入れて社会党を理論と組織の両面で「科学的社会主義」
の党に近づけ、政策面でも安保条約解消、自衛隊解体の基本政策を再確認した。
●土井社会党は先進国型社会民主主義勢力の総結集を目指す山岸章「連合」会
長、民社党や社民連とことごとく対立した。党内では全労協(全日本労働組合
連絡協議会)岩井章グループの科学的社会主義に基づく社共統一戦線路線に社
会党を一層近づけた。
●土井たか子は兵庫の選挙区が「社会主義協会」左派(親ソ・「極左」)に押
さえられており、加えて同社社大学専攻科時代の恩師田畑忍教授が社共統一戦
線論者であったことも影響して、常に「極左」の岩井章グループと親ソ・左派
によって支えられていた。
1987年11月連合(全日本民間労組連合会)発足
1991年12月ソ連邦消滅
1993年8月非自民連立政権に参画、自民党閣崩壊・細川内閣成立
1994年6月村山内閣成立、7月政策大転換「自衛隊合憲」「日米安保堅持」
1996年1月村山首相退陣、「社会民主党」党名変更。9月社民党分裂、7割が民主
党に合流。
1996年9月民主党結党(鳩山・菅代表)社民党、総選挙で改選前の半数(15議席)
日本人拉致を捏造と主張してきた社民党は2002年小泉元総理の訪朝で完全に支持
を失う。
解説
●古い旧ソ連共産党の「科学的社会主義」から永遠に脱皮できなかった。
社会党内部は「左派」=科学的社会主義者(マルクス・レーニン主義)右派=先
進国型社会民主主義者、中間派=日和見主義が存在する。
●社会党は結局、有権者の期待にもかかわらず「日本における社会主義への道」
を生き続けている。旧ソ連共産党の「極左派」や中国、北朝鮮の共産主義を「友
党」とする古い「科学的社会主義」の尾てい骨につけている。
マスコミの世界はこれらの事実を伝えてなく、また社会党もそれをひた隠しにす
ることによって生き延びた。
●左派に属さなければ、委員長になれなかった。
社会党では、1960年後半以降「左派」に所属するか、ないしは「中間派」で「左
派」の傀儡でもならなければ、委員長になれない仕組みが出来上がっている。
「左派」が主導権をもつ「官公労一家」が社会党を組織、人事、政策の全面にわ
たって支配するようになってからである。社会主義協会の向坂逸郎会長が「左派」
に対する理論的支配を確立して以来、この構造は一層強化された。1951年以後、
総評支持の「左」に偏った構造になっており、中軸の官公労一家が社会党に大きな
影響力を持ち続けいてる。
●マスコミは社会党の党内抗争、実態を国民に伝えなかった。
社会党を同質の党員で構成されているひとつのまとまった党だと有権者は考えてい
るようだが、マスコミはこの事実を報道してない。マスコミ報道を通じて社会党が
世論の動きに応じて近代化し、現実化してきているかのようなイメージを植えつけ
られ、社会党自身の実像をいつまでたっても正確に伝えていない。社会党の虚像と
実像のギャップが土井たか子委員長以降顕著になる。
●総評に抱え込まれ、総評の意向にそった活動しかしなかった。
事実は1950年以来、日本の労働運動を牛耳ってきた「官公労」出身の議員の多くが、
党内の左、右、中間各派の枠を越えて「一家」としてまとまりつつ、終戦直後から
受け継いだ「科学的社会主義」の路線を冷戦後も守り続けている。
●参考図書:本社会党興亡史・上住充弘、戦後史のなかの日本社会党・原彬久、社
会党に騙された・野村旗守編、野党の政策過程・梅澤昇平ほか