■理念探究会108号
◎「自給のむら」訪問
久世さんは既に平成四年から七年に掛けてのチェルノブイリの
子供たちの保養里親の経験を積んでいる。「最初の年には子供た
ち五人と付き添いの人一人、日本人(学生)の通訳二人と久世家
の六人の大世帯で一カ月の保養を始めた。免疫力が低下して急激
な運動ができないとか、カゼを引きやすいとかの軽い症状の子供
たちを快適な環境と良い食事と、適度な運動を行いつつ、一カ月
にわたる転地療法をするものだった。子供たちは顔色もよくなり、
体重も増えた。地域の小学校との交流、キャンプ、カヌーの体験、
地域にも交流の輪が広がり、携わった人たちも触発される場面が
多かった」と、緑むせる創造の中で久世さん自身が書いてもいる。
「自分の人生で経験した兵庫県の山奥での自給自足の生活を文
章ではなく実践の中で伝え残したいとの思いが強く、今回の「自
給のむら」プロジェクトの立ち上げにいたりました。自給し自足
(欲望をコントロール)する、そして自立する。理念としては、
兵庫県の山奥での6年間と北海道に移住して27年間の合計33年間
貫いてきたものです。この「自給のむら」は、人としての根源的
な問いかけをしつつ、自分達の生きる能力を開花していく場とし
て位置づけています。年齢、性別をこえて賛同者も集まりはじめ、
少しずつ実行しています。半永続的に続くと思われ、この大地あ
っての試みだと思います。いまを生きる自分に何ができるか?
問いかけながら歩き始めました。2015年12月10日、久世 薫嗣」
「自給のむら」を訪問した。A山学院を休学している青年を管
理人にして、若手の人たちが協力体制を築いている。彼の家族達
のみならず、沢山の地元、外部のボランティアの人たちが協力し
ている。第一回の参加者は自給自足を体験して自立心が強くなっ
ている。自分で食事も生活の全てをこなす体験は、自宅にいると
きには経験しない。ここでは自らがこなさないと飯も食えない、
寝ることもできない。年齢の違う人たちがここで暮らすことで、
日頃の学校生活、家庭生活では体験できない経験を積むことで、
見事に自立していくという。また、お世話をしている管理人も有
志のボランティアも成長する。子供たちの世話をすることで参加
者全員が成長する。
久世さんは軽い仕事しかできない。このことが一層参加者の自
立心を高める。その後七月、八月と二度にわたって開催された合
宿の様子を(フェイスブックより抜粋転載して)報告したい。
●到着・本日7月24日から自給のむらに子供がやってきました!
前回来たSくんHくんYちゃんに新しく埼玉から来たMくんを加
えた4人で8月の8日まで19日間一緒に生活します。北海道の夏と
いうことで、雄大な自然の中でたくさん遊べたらなと考えていま
す。
●亮さん牧場・牧場に行きました。
一人ずつトラクターの助手席に乗せてもらってショベルの操作も
させてもらいました。操縦は子供達も大喜びでした。次に牛たち
に飼料を与えます。その後は牛舎の2階から餌用の牧草を牛たちの
いる1階に落とす作業をしました。室内での作業を終え、ジープに
乗って広い牧草地に繰り出します。ハイジの世界みたいでした。
ずっと広がる牧草地で一休みします。天気がとても良く、気持ち
よかったです。
●うどんづくり・みんなでうどんを作ろうと言っていた日だった
のでタイミングが良かったです。高校生スタッフ(本当にしっか
りしていて、いつもめちゃくちゃ助かってます。)に、低学年の
面倒を見てもらいながらうどん作りスタート。みんなでこねます。
途中から久世さんのお孫さんも参加したり、賑やかになりました。
●山路さんの牧場・牧場はもともと久世さんが使っていたところ
を受け継いだそうです。牧場の放牧地は急斜面で川と林がありま
す。牛にとっては、急な斜面で足が鍛えられるし、林は日差しの
強い日の日陰になって、とても健康的な環境なんだそうです。実
際牛たちも林で休んでいましたが、表情がとても穏やかに見えま
した。
●チーズづくり・持ち帰る用にもう一回作ろう、ということで予
定に入れてみました。今回は助っ人なし、ということで子供達だ
けで挑戦です。失敗してもドンマイ!ということで開始です。
前回のチーズ作りの時の経験をフル活用して挑みます。やはり人
に教えてもらうのと自分でやるのとでは別物で、途中牛乳を焦が
したり、発酵のタイミングが分からなかったりとハプニングの連
続でした。
●最終日・午前中は復港市場のボートレース大会へ。あもさん
(久世さんの次女)率いる「あもりんJAPAN」を応援しました。
あもさんの出場した組は3チームとも女子チームで、女性同士の
戦いでしたが見事1着でゴール。保養ということで温泉は特別な
日だけということで、なかなか連れて行ってあげれなかったので
すが、今日はみんなで入りました。みんな温泉大好きです。
●花火大会・夜はあもさん、司さん(長女歩さんのご主人)一家、
亮さん(長男)一家まで合流して大勢で稚内の花火大会へ。
屋台の揚げ物を食べながら花火を眺めました。帰るときにみんな
で記念撮影して大満足!10時過ぎにようやく帰宅。
今日は最後の夜なのでということで、みんな夜更かしをしたが
っていたので、遅くまでトランプをしました。長い一日でした。
◆戦後70年検証シリーズ
●日本の労働運動史
戦後七〇年の検証作業を進めているが、沢山の資料にあたり、
テーマに迫れば迫るほど、現代史について知らないことを毎回
自覚する前々回は
一、日教組による戦後教育で失われたもの。
二、裁判官の中に、何故左翼的な人がいるのか?
前回は三、日本ペンクラブの実態。
四、大学の先生、芸術家、芸能人たちの一部実態を書いてみた。
何人かの人たち、現役の友人の大学教授からも賛同の感想を頂
いている。
検証の視点
この戦後を見る基本を次のようにおいている。
①出来事について両面思考、多角度思考の見方で考えているか
②イデオロギーにとらわれて、物事を単純に、ステレオタイプ
な視点で物を見て判断することの危険性と即断しない事の重
要性(知的保留をする)
③戦後、知識偏重、学歴重視に偏り、個人が自己実現(名利の
念)に偏りつつあることの危うさを意識しているか。この点
を前回、中江藤樹の「正真の学問と贋の学問」で取り上げた。
今回は労働組合・労働史を取り上げる。
このテーマは今日、戦後の労働運動からみると隔世の感がある。
今の時代に労働組合が必要なのだろうかと懐疑的だ。
戦後の組合活動の当初のリーダー達の運動に対して姿勢と志・
その後の政治活動(政党)との関係を振り返り検証する。
■マッカーサーの五大政策
一、参政権を与えることによる女性の解放。
二、労働者の団結権の保障。
三、教育の民主化。
四、秘密警察制度など、圧政的諸制度の撤廃。
五、経済の民主化(財閥解体等)
●戦後、GHQは日本に米国式の民主主義を植えつけるために、
労働運動を確立することを必要と考え、意図的に労組勢力の拡
大を容認していた。
■日本の労働運動史・[GHQによる労使対立促進]
明治時代から労働組合はあった。昭和15年1940年解散させられ
た。戦前の労働組合は全部で四〇万人程度であった。
●世界の労働運動の歴史に、戦争をして勝った方の国が負けた
国に入ってきて、労働組合をつくるべきだと言って、労働組合
をつくらせた歴史はほかにない。日本の労働組合は明らかに与
えられた労働組合として出発した。
●戦前の労働組合は政党とドンブリ勘定で政党と労組が一体と
なっていた。一つの事務所に、日労系(日本労農党)、社大系
(社会大衆党)、共産党系、社民系(社会民衆党)などが、そ
れぞれの政党と労組が一体で、お金もある程度そこから出して、
労働組合プロパーのオルグ(勧誘)する人も党からお金をもら
って動いていた。
第二次世界大戦後の激しいインフレの中で日本共産党と産別
会議により労働運動が高揚し1946年(昭和21)には国鉄労働組
合が50万名、全逓信従業員組合が40万名、民間の組合は合計70
万名に達した。
■戦後労働組合の流れ[政党との結びつき]
●戦後も政党別の系列が労働組合に持ち込まれ、戦後の労働組
合出発にあたって、共産党系も、社会党系も一緒になって一つ
にまとめようと言う形で、はじめながら共産党系からは松岡駒
吉、西尾末広氏を敬遠し、彼らも共産党はケシカランと、統一
の話は見事に壊れ、産別会議は共産党系、総同盟は社会党系と
いう形になった。戦後の政党と労働組合の混同による弊害が続
いた。
●1946年5月全逓信従業員組合の結成大会で、来賓政党として
共産党・長谷川浩、社会党・浅沼稲次郎が出席した。ある来賓
が天皇制を批判し「われわれは天皇制に苦しめられた。天皇を
打倒せにゃならん」とやったら、野次が凄かった。天皇制のと
ころで野次られて演壇を降りる羽目になった。
■吉田内閣との対立
●1946年8月には総同盟と産別会議、9月には全官公労が結成さ
れ、11月には260万人に膨れ上がった全官公庁共闘が、待遇改善
と越年賃金を政府に要求したが、吉田茂内閣は満足な回答を行
わなかったため、「生活権確保・吉田内閣打倒国民大会」を開
催した。
●挨拶で日本共産党書記長の徳田球一は、「デモだけでは内閣
はつぶれない。労働者はストライキをもって、農民や市民は大
衆闘争をもって、断固、吉田亡国内閣を打倒しなければならな
い。」と、労働闘争による吉田内閣打倒を公言し、日本の共産
化を図った。[闘争]
■アメリカの変質[GHQの圧力]
●冷戦の兆しを感じていた米国は、日本をアジアにおける共産
化の防波堤にしようと考え始めていたため、全官公労や産別会
議等の過半数の労働組合を指導している共産党を脅威と考える
ようになった。
●連合国の対日政策機関であるワシントンD.C.の極東委員会も、
12月18日に民主化のための労働運動の必要性を確認しながらも、
「野放図な争議行動は許されない」とする方針を発表した。労
働運動は「占領の利益を阻害しない」こと「ストライキその他
の作業停止は、占領軍当局が占領の目的ないし必要に直接不利
益をもたらすと考えた場合にのみ禁止される」として、労働運
動も連合軍の管理下におかれることが決定された。
■政府との対立・労働組合「不逞の輩」発言
●1947年(昭和22)1月1日、総理大臣吉田茂は年頭の辞で挨拶
した。「政争の目的の為にいたずらに経済危機を絶叫し、ただ
に社会不安を増進せしめ、生産を阻害せんとするのみならず、
経済再建のために挙国一致を破らんとするがごときものあるに
おいては、私はわが国民の愛国心に訴えて、彼等の行動を排撃
せざるを得ない。」「しかれども、かかる不逞の輩がわが国民
中に多数ありとは信じない。」いわゆる「労働組合不逞の輩」
発言である。
●労組は反発し、1月9日に全官公庁労組拡大共同闘争委員会
(全官公庁共闘)がゼネラル・ストライキ実施を決定、1月11日
に4万人が皇居前広場で大会を開き、国鉄の伊井弥四郎共闘委員
長が全官公庁のゼネスト実施を宣言した。1月15日には全国労働
組合共同闘争委員会(全闘)が結成され、1月18日には、要求受
け入れの期限は2月1日として、要求を容れない場合は無期限スト
に入る旨を政府に通告した。
■二・一ゼネストへの動き
●ゼネストへの動きが高まる中で、占領の実務を担任する第8軍
司令官ロバート・アイケルバーガー中将は、鉄道のストにより日
本各地に駐留する米軍への補給寸断・相互連絡の途絶が発生す
れば、軍事的に重大な危機に陥ると判断、1月16日に参謀長C・バ
イヤース少将を通じ、GHQ経済科学局長ウィリアム・フレデリック
・マーカット少将にゼネスト阻止を措置するよう要求した。
●1月22日、国鉄の伊井弥四郎共闘委員長など組合幹部がマーカッ
ト少将と経済科学局労働課長エオドル・コーエンに呼び出され、
ゼネストは許されないと忠告されたが、承諾しなかった。マッカ
ーサーの命令と言い張る二人に対し、指令書の提示を要求した。
マッカーサーは、本国での労組の目線を考え、このときは、日本
の労組を自ら取り締まろうとはしなかった。
■二・一ゼネスト中止
●1月31日午前8時、ゼネストが強行された場合に備え、第8軍は警
戒態勢に入った。マッカーサーは「衰弱した現在の日本では、ゼネ
ストは公共の福祉に反するものだから、これを許さない」としてゼ
ネストの中止を指令。伊井委員長はGHQによって強制的に連行され、
NHKラジオのマイクへ向かってスト中止の放送を要求された。伊井
は、マッカーサー指令によってゼネストを中止することを涙しなが
ら発表した。
●二・一ゼネストの中止は、日本の民主化を進めてきたGHQの方
針転換を示す事件であった。意図的に労働者の権利意識を向上させ
つつも、占領政策に抵触する場合、あるいは共産党の影響力を感じ
た場合、連合軍は労働者の味方はしないことを内外に誇示した。
●その後、マッカーサーは公務員のストライキを禁止するよう指示
した。これに基づき、政令201号(1948年7月31日公布。即日施行)
によって、国家・地方公務員のストライキが禁止された。
■総評結成
1950年(昭和25年)7月総評結成、430万人、私鉄、全鉱、自治労、
電産、日通は入らず。二・一ゼネストを体験した人々は労働者が一
つにまとまらない、総同盟だとか産別だとか、共産党だ、産別民主
化同盟だとかという問題ではないという流れで、総評結成に繋がっ
て行った。
■再軍備賛成か反対か・[大半が賛成]
●共産党も憲法ができるとき、軍備を持たない独立国はおかしいと
反対した。当時の日本の労働組合幹部のほとんどは、再軍備賛成が
多かった。なぜかと言えば、昭和25年6月に朝鮮戦争が始まり、総
同盟の事務局長・高野実と、総同盟の機関紙に「アメリカ帝国主義
は侵略的な帝国主義ではない。米軍は世界の発展のために戦わざる
をえずして戦っている」「自由主義国家群の団結こそが世界の平和
を守る」と書いている。
●再軍備賛成論者、高野実、松岡駒吉(総同盟)島上善五郎(総評)
藤田藤太郎(私鉄総連)安垣良一(私鉄書記長)加藤閲男(国労委
員長)原口幸隆(全鉱委員長)武藤武男(総評議長・炭労委員長)
原茂(炭労副委員長)永岡光治(全逓委員長)大出俊(全逓青年対
策部長)大木正吾(全逓組織部長)各単産には再軍備賛成論者が多
かった。
■平和四原則[左傾・反米]
●しかしながら、GHQの援助の下、反共的色彩の強いナショナルセン
ターとして出発した総評であったが、翌1951年3月の第二回大会で行
動綱領として平和四原則を決定し、左傾・反米へと方向転換した。
●総評はその後、階級闘争を基本的理念とし、資本主義体制の変革を
目標に据え日本社会党支持を運動方針に明記し、反戦平和の運動を進
めた。総評の持つ政治的影響力は絶大で、しばしば横紙破りな行動が
物議をかもしたところから、「昔、陸軍。今、総評」などと揶揄され
た。総評本部の専従者はほとんどが社会主義協会会員であった。
■総評から連合へ[組合活動退潮の始まり]
●1987年に発足した全日本民間労働組合連合会(連合)に合流するた
め、1989年11月に解散した。総評の政治活動を継承する組織としては、
1989年9月に総評センターが作られ、さらに1992年10月には社会党と連
帯する労組会議に移行。
●その後、社会党(のちに社民党)を支持していたが、民主党の結成
後は軸足を民主党に移す動きが強まり、1997年7月に民主・リベラル労
組会議に移行。1999年5月には、連合政治センターの結成に伴い、民主
・リベラル労組会議も解散し、独自の政治活動に一応の終止符を打った。
■連合結成について(宇佐美忠信・連合副会長)
●「官」と「民」の労組の統一が早過ぎた。官の場合には、民間との間
に体質の違いがある。1987年に民間の統一組織ができて、二年後に官民
の連合と言うことになったが、これが早すぎた。それが今でも「障害に
なっている」だから「連合として大事なことを決めようと思っても、な
かなか決められない。憲法問題、有事法制問題なども簡単に結論か出な
い。「ものの言えない連合」になった。
●トップをはじめ中央の幹部は、本当にえらいわけではないけれど、え
らそうな格好ができるような状況がつくられてしまった。つきあう人た
ちも国会議員の人たちで、だんだんその悪い点だけを見習って腐敗して
きているんじゃないかという気がしますね。
●典型的な官公労の組合は自治労と日教組になる。自治労の場合をとっ
てみると、市役所とか町役場とかの組合は、市長とか町長と裏で癒着し
てまっている。そういう中でだんだん腐り現象が生じてきている。
●日教組の人たちからすれば私(宇佐美氏)が言ったように「自虐史観
から離れた正常な歴史認識で行くことになったら、いままで教えたこと
がまるっきり偽りだということになって立場がなくなってしまう」から、
そこが直すには時間が必要だ。
■連合の課題
●一番肝心なイデオロギーに関わるような政策、国の問題については結
局ものが言えない。突き詰めれば憲法問題まで行くわけですが、それに
ついてはっきりしたことが言えない。靖国神社の問題についてもノータ
ッチということで、幹部が勉強しょうという意欲がない。理解しようと
いう努力が全くない。連合の大会でも国旗を掲げるとか、といったら掲
げられない。国旗というのはどういうものなのかということについて、
しっかりしたものを持っていない。もっと志を高くもって・これからの
リーダーに望む
●労働組合の目的の存在理由は組合員の生活を守ることだ。もし国全体
が破綻しておかしくなったら、企業も組合員の生活を守り抜くことかで
きるか。個人も企業も組合も、国家あっての存在です。グローバル時代
にあって、国益とか国家の再生を意識せざるを得ません。そこでリーダ
ーに望むことは「自らも祖国を愛し、誇りを持って、よりよい国家をつ
くる志を持ってほしい」「足は職場に、胸には祖国を、眼は世界へ」
資料・証言戦後労働運動史・宝樹文彦、労働運動の証言・天地清次、志
に生きる・宇佐美忠信=全繊同盟会長、全日本労働総同盟会長、全日本
民間労働組合連合会(連合)副会長)
来月からのテーマ
来月号から添付の図のようなテーマに、後半ついて続けていこうと考え
ている。幾多の本を読み、研究し知れば知るほどGHQの言論統制が如
何に私達日本人を骨抜きにしてきたかということを改めて感じる。そし
て世界の大変化の中にあって、口先だけの平和主義を掲げ、ノーテンキ
な理想、正義を唱え続ける人たち(六〇年、七〇年安保世代)の終焉を
感じる。