■理念探究会106号

●理念探究会106
高橋卓也氏サラリーマンから経営者の道

高橋氏の人生理念制定式を行った。高橋社長は、中谷グルー
プの自立連帯型企業・津山中谷株式会社の社長をしている。中
谷グループが企業理念を制定し企業理念の一環として「自立連
帯型経営」を標榜して十二年あまり。自立連帯型経営とは「個
人の自立性を基本に企業の理念的求心力によって結ばれた企業
組織をつくり、各自が自立して経営に仕事に取りくむ。そして
相協力して互いの使命を支援し合う、自立連帯縦断の企業とし
て社会に貢献する」
高橋氏は2007年より2011年まで天命舎に通った。当初、本
人は社長を目指したわけではない。
中谷グループは「個々人の人格向上使命追求を支援する」
すなわち「人を育てる」ことを理念制定以降、愚直に続けてき
た。それは経営者の思想、経営者に相応しい人格、資質を磨き、
経営能力を磨き上げなくてはならない。天命舎で学んだ後、高
橋氏は2010年より津山中谷株式会社として会社設立。数年の社
長経験を積んだ後、2013年理念探究を開始した。高橋氏は(株)
ストーンエンジニアリング義広・社長朝倉義広氏と共に理念を
探究し、今回制定した。会社を経営する中で、当初は利益を上
げることに専念したが、幾多の経営上の問題、社員の問題を含
めて、理念の重要性、必要性に目覚めた彼等からの申しでだ。
当日、社員をはじめ、取引先そして理念実践会の尚友たち
を含めて縁の深い三十余名の人達が式典と懇親会に参加した。
私の畏友、高橋氏も懇意な鏡野町在住の備前焼の陶芸家和仁栄
幸氏にも参加してもらった。高橋氏の理念発表と制定宣言は凛
としたものであった。
一、自立した人材を育成する。
一、社会に貢献する事業を創る。
プロジェクターで理念及び理念解説を映写したまま、懇親会の
交歓が始まった。彼の人柄が新たな面で浮かび上がってくる。
和仁さんともども私も社員や彼と縁のある若い人たちと歓談し
た。和仁さんは熱心に彼らの話に耳を傾けていた。私が理念を
制定したのも高橋さんと同じ年齢のころだった。高橋さんにと
って制定後、天命に生きる生活が始まる。
素晴らしい人生に生きることの決意と宣言、そして本当の人生
が始まっていく。

 

●民主主義・話し合うとはどういうことか
脳力開発研修を六月末新入社員大卒研修・リブドゥコーポレ
ーション、七月第一週に新人研修・恵那21世紀クラブで開催し
た。今回の参加者は十八歳~四十九歳まで多岐にわたるが基本
的には参加者のほとんどが二十代。講師を勤める私との年齢差
は最大五十五歳。
●インタビューゲーム
毎回研修の最初に実施する。初対面の参加者、日頃顔は知っ
ていても相手のことをよく知らない者同志がこれから一日半共
に私と研修をする。無用な緊張を取り除いて研修に専念しても
らいたい。そのためには参加者同志にリラックスして取りくん
でもらいたい。
インタビューゲームの目的は相手のことを短い時間でもよく理
解して、参加者の人達に紹介してもらいたい。そのために可能
な限り相手を深く知ってもらいたい。
ルールーは簡単。一、何を聞いても良い。二、嫌なことは答
えなくて良い。三、何を話しても良い。そして互いに十五分ず
つ。そのインタビューした内容をA4の半分の用紙にまとめる。
インタビューした内容を真剣に伝えようと工夫して紹介文とし
て仕上げる。
その結果、自己紹介では到底本人が話しきれない各自の特長
が浮かび上がり、時に笑いも混じった他己紹介が出来上がる。
参加者が交互に互いに相手を紹介することになり、一気に和や
かな雰囲気が会場を覆うことになる。その後インタビューゲー
ムの感想を各自に語ってもらって、研修をはじめることになる。
緊張感もほぐれ、お互いの名前や生まれ、簡単な経歴、関心事
を知り、講師と参加者のコミュニケーションも格段に深まる。
初対面でも、相手のことを知りたいと目的を決めてインタビュ
ーすると、予想以上に構えない姿が浮かび上がってくる。
●和談と討論
何人かが会して発言し合う場のあり方には、いわゆる「討論」
ではない、もう一つの基本的な形態が考えられ、討論において
は複数の意見・見解が対立の方向で主張し合う関係にある。複
数の発言者が非対立的・互恵的な立場をとり、気づき・情報を
足し合う形のものを「和談」として定義している。
進め方は和やかで、話し合いによる収穫指向で、探究し互い
に相手から学ぶ姿勢で臨む。相手の話の、自分とは異なる意見
に対しても「得るべきもの」に目を向け積極的に「ナールホド」
という姿勢で聞く。この「ナールホド」と積極的に進行役が発
言することによって、場に和やかな雰囲気が漂い、異なる意見
にも耳を傾ける。そして意見を聞きながら更に思考が深まって
いく。
私はある具体的事例を輪読し三問の質問を出しておく。そし
て五~六分で各自、メモ程度でいいからと、自分の考えをまと
めてもらっておく。四~五人のグループに任意に分けて、十五
分程度の時間、順番に進行役、報告者、サブの報告者を決めて
「和談」をしてもらう。
その結果、ある問題についても①共通点が明らかになり②多
少異なる点が浮き彫りになってくる。③その結果更に異なる点
が、質問の形で話がテーマの中心から離れない。
発表は三~四グループ毎に、三分間で報告してもらう。
「和談」の感想は①自分の意見を「ナールホド」と聞いてもら
え、発表しやすかった。②共通する点、自分とは異なる点も相
手の話を聞いているので、よくわかった。③異なる点もその後
話し合いをすることにより理解が深まり、最初に発表した自分
の意見よりも他の人の方が、よく考えていると思い、自分の意
見から他の意見に納得して進化できた。
この和談の方法は、過去・江戸時代の農村で農民がじっくりと
時間をかけて話し合いのときに用いられた方法だと民間伝承を
続けた民俗学の泰斗「宮本常一」の著書「忘れられた日本人」
の中の「村の寄り合い」の中で報告されている。報告では二~
三日に及ぶこともあるが、参加者全員が納得度の高い寄り合い
になりその後の進み方がスムースになる。戦後の民主主義のよ
うにテーマに関して情報不足のまま、一方的な判断で結論を出
し、時に相手を論破し多数決で決着をつける西洋民主主義のあ
り方の限界に一矢を報いる。

●インタビューゲームと和談を通じて
冒頭、最大五十五歳の年齢差があると書いた。しかしお互い
を理解し、他の人にも伝えたいという目的でインタビューし、
加えて自分の内面まで場合によって語り話し合う時に、参加者
は年齢を超えて自分の考えを端的に語り、人の話に耳を傾ける。
若い人を大いに見直し、若い人は経験を積んだ人の話に耳を傾
ける。
当初は私も五十五歳も離れると彼らの日常には違和感を覚える
ことがある。
しかし彼らは、テーマがあたえられたとき真摯に取りくむケース
では、年齢に関係なく、しっかり考える、伝える力を持っている。
彼らの力や意見を引き出すには、いままでの討論や多数決、ディベ
ート等の方法では浅い表面的な意見しか導き出せない。ここでも、
西洋的な「討論」と日本人が古来受け継いでいる「和談」の価値を
見直すきっかけになる。
◎今回は、以下のテーマについて考えたい。
一、日教組による戦後教育で失われたもの、
二、何故、裁判官の中に左翼的な人がいるのか?
■GHQは「War Guilt Information Program」(戦争に関する罪
悪感を日本人の心に植えつけるための扶植計画)を断行し、表
では新憲法21条で「検閲の禁止規定」を美しく謳いながら、七
年にわたる検閲を徹底してきた日本占領政策は、成功を遂げて
いるといえる。
■日教組による戦後教育で失われたもの
第一世代・昭和20年生まれは古希をむかえている。私たち以降
の世代。
第二世代・昭和40年生まれ。私たちの息子の世代。
第三世代・昭和60年生まれ。
戦後は日本的なものの否定=民主的こそが「戦後民主教育」の
根幹であった。
・一周目・1945年~1970年
学校教育により民主的で平和な国を標榜するが、現実は日
本的なものの否定であった。一周目の家庭は大正、昭和生まれ
の親の戦前の家庭であり、教師と生徒は平等でなかった。
私は当時六人、その後八人兄弟姉妹。家庭では、両親とも明治
の生まれてあり、終戦当時、一番上の姉は女学校、兄は中学生
、姉たちは小学生。父は兄弟喧嘩をすることを嫌がった。兄弟
喧嘩をして父親に見つかったときには、激しく叱責されビンタ
を張られた。緊張のあまり失禁した記憶がある。
18年生まれの私自身を振り返っても、小学時代に悪戯をしたと
きには先生からビンタを張られた経験もあるが、先生を尊敬し
ていた。
・二周目・1970年ごろ~1990年前半
学校も家庭も戦後教育が中心となり、教師が親の顔を窺うよ
うになった。民主主義も平和も平等も所与のもの、教師と親、
教師と生徒と平等対等、体罰、価値観の押しつけは悪いことで
あると言う風潮が主流になり始めた。
長男46年生まれ、次男は47年。広島は、とりわけ同和教育が
盛んで、中学校の社会科の学級参観に行ったとき、3学期おわ
りであるにも関わらず教科書の三分の一程度しか進んでおら
ず、私は質問の時間に「何故、教科書を全部消化しないのです
か?」と質問したが、先生はおしまいまでやらなくていいので
す。学校に承認されているのだと強弁され、あきれた学校に驚
いた。また、高校進学も、本人の希望は無視され、成績順に公
立高校を順に振り分けられ、希望する高校に進学できない制度
で、二人とも私立高校に進学させた。
・三周目・1990年後半以降
戦後教育は勉強するところから青少年用の保育園になった。
ゆとり教育の学習指導要領で全員百点を目指す。その結果以下
の不登校、不平等社会論が言われている。
中学校で増える不登校、不平等社会論
一、一流大学に入るには莫大な投資がいる。貧しい親のもと
に生まれたら貧しい教育しか受けられない。教育の機会が人
々に平等にあたえられていない。
二、正規雇用の枠がどんどん減少している。二流、三流の学
校しか出ていないと正規雇用は難しい。低賃金のフリーター
として働かざるを得ない。
三、親の収入や財産によって教育程度によって雇用形態が決
定する。雇用形態によって所得格差が存在する。果たして如
何なものか?
前回の続きとして振り返ってみる。
60年安保の世代は田原総一郎、西部遭遇氏の世代、現在80
歳代、そして70年安保の世代は現在70歳代。
70年安保、学生運動を引きずった教職員、地元公務員、郵便
局、国鉄、電電公社、専売公社、国家公務員がそれぞれの組
織で社会主義的な思想に洗脳されたまま活動したと言える。
70年安保の世代の就職の道を選ばなかった若者たちは、以下
の道をたどることになる。自営業、フリーライター、テレビ
の演出の下請け、編集プロダクション、教職員、大学に残る、
司法試験、弁護士等学生時代の正義感をもったまま幹部にな
っている。
■何故、裁判官の中に左翼的な人がいるのか?
日弁連は全国の弁護士全員が加入しており、弁護士の登録、
資格審査、懲戒など弁護士の身分に関する業務を行い、人権
や司法制度に関する改廃等について、意見を表明する公益団
体である。司法試験は国家試験だから、政治思想で合否を差
別することは許されない。だから合格者全体を見れば、いろ
いろな思想の人がいる。弁護士会は強制加入団体であるから、
特定の政治思想を会員弁護士に強制することは許されない。
しかし、1960年代から70年代に掛けて弁護士になった人は左
翼思想の持ち主が多かった。
●学生運動の華やかなりし頃、機動隊に立ち向かい公務執行
妨害罪などで訴追され執行猶予となった団塊の世代の学生は、
どんなに優秀でも一般企業に採用されなかったが、司法試験
や司法研修所はこのような学生を一切差別しなかった。(石
川義夫元判事・思いだすまま)
学生運動出身の弁護士は新左翼の過激派、国鉄労働組合な
ど支援し続けた。これら学生運動を戦った弁護士は、弁護士
会の幹部・長老クラスになっている。年齢としては60~70歳
代半ば、弁護士として円熟の年代であり、30~40代の弁護士
よりよほど元気である。年相応にカドがとれたかというと、
そんな気配は全くない。

●歴史的経緯
1970年~1990年、弁護士会と裁判所との対立していた。こ
のころは、裁判所は左翼系裁判官を弾圧した。弁護士会は反
発して裁判所の「右傾化」に対抗して「左傾化」していった。
弁護士会の「族化」
1960年~1990年日弁連内で司法改革を担当した「司
法問題対策委員会」=司対族=左翼系弁護士の牙城だった。
「族」弁護士が特定の問題について声明を出すべきだと会長にせま
り、会員の総意でない見解が出されることになる。弁護士の「族」
化はエキスパートを育てる一面、人材の若返りを阻み硬直化した
長老支配がはびこることになる。
最近の若い弁護士は憲法問題、人権問題に関心が薄い上に、時
間的な余裕、帰属意識も薄く、会務に見向きもしないので、老い
てますます盛んな段階の世代の弁護士が会務を牛耳る琴似なり
、いまだに、このままでは戦争になる、日本は再びアジアを侵略す
るという黴臭い議論をすることになる。
弁護士会は、左翼系の弁護士が特に多い訳ではないが、歴史的
な経緯などから左翼系弁護士の勢力が強いために左翼集団と思
われがちである。

弁護士会内の対立
1987年5月30日日弁連総会は「スパイ防止法案」の国
会再提出反対の決議をしたが、これに対して100名以上の非
左翼系弁護士が、日弁連を相手取って、強制加入団体である
日弁連がこのような政治的決議を行うことは許されていとして
、訴訟を起こした。この訴訟は非左翼系弁護士の敗訴に終わっ
たが、徐々に非左翼系弁護士の勢力は左翼系弁護士を超えつ
つある。非左翼系が増えだした。
■何故国家でさえ、弁護士資格を剥奪できないのか?
弁護士自治が今、外から批判されている。弁護士から資格を
剥奪できない。会員資格を剥奪できるのは弁護士会だけ=弁護
士自治。内部では多くの若手弁護士が弁護士自治は必要ない
と考え始めている。
次回は、この続きを考えてみたい。時間のある人は是非、門田
隆将著「なぜ君は絶望と闘えたのか・木村洋の3300日」を読
んで頂きたい。司法への義憤、人権派弁護士・安田好弘弁護士へ
の憤りを感じるであろう。弁護士とは一体何が役目なのか?を
改めて考える切っ掛けになる。


■理念探究会105号

■理念探究会105号
合同理念制定式・第16回理念型企業快労祭
先月号で鯖江の(有)ファインの理念制定式の報告をした。
今回第16回理念型企業快労祭の二日目に六社(企業・人生)
の理念制定式を行った。

堀越建築(堀越弘道社長)企業理念、(有)ファイン企業理
念(藤井高大社長)、津山中谷株式会社(高橋卓也社長)人生
理念、(株)ストーンエンジニアリンド義広(朝倉義広社長)
人生理念、(株)草むしり隊(柳井誠一社長)人生理念、小路
口石材工業株式会社(小路口欣弘社長)人生理念の六社。
堀越弘道氏・初代から、二代目そして三代目の誕生一九八五年、
大手の設計事務所に勤めていた。バブルを経験して二年先まで
受注があった。一九九三年からバブル崩壊を経験して、2006年
に進化経営学院建築を依頼した。2007年、完成のお礼として、
授業料を免除して養成塾に通い始めてもらった。天命舎に通い
だして足かけ8年。養成塾ジュニアからスタートした。

2008年社長就任。当時は社長を任されたものの、どうしていい
ものやら全く見当もつかない。養成塾ジュニアコースを経て二
年目、シニアコース開始のころ、原因不明の体調不良に陥った。
経営の一から指導した須田氏(進化経営学院講師・経営数値面担
当)の宿題に愚直に応えてて来た。
砂に水が吸い込まれるように、着実に成長変化した。
2011年から理念探究も開始した。ニュースレターもだし、今で
は要望に対応できないほどお客様をお待たせしている。(これが
課題)2006年進化経営学院建築中、日曜日になると同伴して掃除
にきていたお嬢さん(当時小学生)は、今、大学四年生で名刺に
(株)堀越建設三代目と書いている。次女も同じ道を目指してい
る。会長は80歳。今も現役。親子三代の地域に根付いた建築業を
営んでいる。

■藤井高大氏・社員はバスケットボール仲間から
藤井高大氏は1970年誕生。私たちが結婚した大阪万博の年だ。
通いだして三年六カ月。眼鏡の鯖江で、フレームの印刷関係の
仕事をしている。通い始めたころは創業10年目のピークを迎えて
いた。
彼の経歴はユニークだ。小学校六年から兄の影響でバスケット
ボールをはじめた。以来社会人クラブにも入り、今も続けている。
途中二年ほど沖縄与論島・リゾートホテルで過ごすが帰郷、五年
ほど再びこの仕事に戻った後、2000年個人経営で独立。社員はバス
ケットボールで親しい人達で構成されている。

彼の経歴を聞いて世界的に有名なスポーツ関係のパタゴニアを彷
彿させた。その後、業績不振に陥る。私と同じ経験ピークはいつま
でも続かない。常に成功し続けることはあり得ない。その時が人生
の転機になる。成功の味は忘れられない。須田氏に経営指導を仰ぐ
ことを決意する。そこからまた、変化が始まった。
理念企業「そうじの力」小早祥一郎氏の徹底した指導を受け、20
11年から取りくんでいる環境整備では全国的にもピカ一の成果を出
している。年に一~二度は、全国大会で各社が視察に来るほどピカ
ピカの会社だ。4月23日鯖江で企業理念制定式を開催した、未来の夢
あふれる若手の会社だ。彼の構想は世界を視野に入れた形で進み出し
ている。鯖江地区の若手経営者の支援をMKD未来対応経営道場の塾頭
として活躍もしている。

■高橋卓也氏・朝倉義広サラリーマンから経営者の道
高橋社長と朝倉社長は、中谷グループの自立連帯型企業に属してい
る。中谷グループが企業理念を制定し企業理念の一環として「自立連
帯型経営」を標榜して十二年あまり。自立連帯型経営とは「個人の自
立性を基本に企業の理念的求心力によって結ばれた企業組織をつくり、
各自が自立して経営に仕事に取りくむ。

そして相協力して互いの使命を支援し合う、自立連帯縦断の企業と
して社会に貢献する」
現在六社の自立連帯企業を生み出し、その中から今回二社の社長が
人生理念に到達した。中谷グループ社長の中谷明生氏の構想の一環と
して、高橋氏は2007年より2011年まで、朝倉氏朝倉氏は2005年~2009
年まで天命舎に通った。いずれも彼らが自立連帯型企業の社長に就任
する前だ。
当初、本人は社長を目指したわけではない。しかし中谷グループは
「個々人の人格向上使命追求を支援する」と経営姿勢に謳っている。
彼らを社長に相応しい人間として鍛えていくには相当の時間、経費、
本人の努力がかかる。
大企業では、基礎能力の優秀な社員の中から選択することかできる。
また、社長を任しても、相応しくなければ交代させることも難しくな
い。人を育てるというよりは相応しい人間を選択するという仕組みに
なっている。
中谷グループは「個々人の人格向上使命追求を支援する」すなわち
「人を育てる」ことを理念制定以降、愚直に続けてきた。それは経営
者の思想、経営者に相応しい人格、資質を磨き、経営能力を磨き上げ
なくてはならない。天命舎で学んだ後、高橋氏は2010年より津山中谷
株式会社として会社設立。朝倉氏は同じく2010年施工会社ストーンエ
ンジニアリング義広を設立。
数年の社長経験を積んだ後、二人から理念を探究したいと言う申し出
があった。
会社を経営する中で、当初は利益を上げることに専念したが、幾多の
経営上の問題、社員の問題を含めて、理念の重要性、必要性に目覚めた
彼等からの申しでだ。2013年理念探究を開始した。開始当時は私が高松
もしくは岡山で毎月理念探究の指導に出かけた。

何故、私が出かけたのか?個人的には彼らに茨城まで通ってもらう方
がいろいろな意味で効率はよい。しかし、社長業を勤めながら理念探究
をすることは口で言うほど簡単ではない。私自身の理念に「人々の使命
追求を支援する」「広範な企業、団体の理念確立を支援する」がある。
自立連帯企業の支援をし、全ての自立連帯型企業のトップが理念制定に
至ることが私の使命でもある。
こうして高橋氏、朝倉氏の理念探究が始まり、岡山・高松での二年余
の研修期間を経て最終段階は半年間天命舎まで通ってもらった。昨年は
進化経営学院のジュニアコース、シニアコースを西日本校に移し、竹内
将清氏にお願いして、私の時間を理念探究に集中させた。振り返ると七
名による理念探究最終行程、半年間は私にとっても彼らにとっても全て
のエネルギーを集中した期間だった。

■柳井誠一氏・父上の会社継承倒産からの新生
柳井氏は、一九七四年前橋に生まれた。小中高と野球一筋。高校時代
は野球部主将を任せられる。実家は前橋地域では老舗のスーパーチェー
ン店を展開していた。1998年大学卒業後神奈川県の大手スーパーに就職。
振り返ればバブル崩壊が始まった年であった。
2003年父の経営するスーパーマーケットに入社。その年に結婚し長女
誕生。2005年父上が癌で入院。2007年逝去される。社長就任。入社当時
の経営コンサルタントから「何故こんな会社に帰って来たのか」と叱責
された。それほど経営は悪化していた。
社長に就任したものの、資金繰りに奔走する日々を過ごすことになる。
その間、高崎の勉強会で須田知身氏(群馬県・高崎在住・進化経営学院
専務理事)に出会う。
会社を畳むことを勧められたが、柳井氏は父の経営してきた企業、取
引先、社員のことを考え必死で事業継続に努力する。4年後2011年7月、
再び須田さんを訪ねる。須田さんに開口一番「柳井さん、お金は貸せな
いよ」と言われる。柳井さんは文字通り「藁をもすがる最後の頼みの綱
だった」その須田さんから「お金は貸せないよ」と言われたわけだ。そ
して「会社閉鎖」を勧められた。会社閉鎖を決心した柳井さんは、会社
を閉め父上の古くからの知り合いの勧めで、会社閉鎖直後から知人の山
の別荘に身を移す。
丁度、須田さんの両親の別荘がちかくだったこともあって一カ月間二
人で、山籠もりをする。毎日山に登り歩き、身体を動かすことに専念。
実は須田さんは20台後半、おじの会社の社長を引き受け、猛烈に仕事を
した。私と知り合ったのもそのころだった。MGを中心とした勉強会や、
上場会社群栄化学の商事部門を経営していた有田邦夫氏との勉強会で知
り合っていた新進気鋭の若い経営者だった。その彼が、結婚式を上げた
翌週、叔父の会社の旧役員から会社追放を宣告され、それから長い裁判
体験を積むことになった。(須田さんのことはここでは置く)その須田
さんとの一カ月の山籠もりだ。
一カ月過ぎた2011年8月、当時須田さんの勧めで創業していた「草むし
り・COM」でアルバイトをするようにと勧められた。そして一年、い
ままでの仕事とは全く違う、社会では到底、職業として評価もされない
「草むしり」を生業にしたいという。「草むしり隊」の創業を決意した。
2013年創業。その間の柳井さんには人に言っても、理解されないこと
が次々と起こる。しかし、従来の企業経営とは全く異なる働くことの喜
び、お客さんからの心から感謝される喜びを体験する。働くということ
は何なのかと深く考える。
そんなとき須田さんに勧められ、2013年5月から天命舎・進化経営学院
に通うようになった。全く事業も軌道に乗っている訳でもない。お金もな
い。時間もない。しかも茨城までは車で来るにしても遠い。天命舎で理念
探究する意味も解らない。何とか訳の解らないまま一年が経った。
一年目の最後の日に講師をしていた「そうじの力」の社長小早祥一郎氏
に「来年はもう天命舎に通うのを辞めようと思う」と告げた。小早さんは
「ああ、そう」と何も言わなかった。
その夜、大阪堺から通っていた「尚友」小路口欣弘氏が「僕は来年も続
ける」と言う言葉に翻意して、翌日最終講義の後私にも来年も続けると正
式に伝えてきた。何故、そうなったのか?とここでは置いておく。彼は進
化経営学院で小路口欣弘氏や他の人に会うことによって「転原自在」全て
自分の如何なる状況も切り拓く原は自らにある。そして「尚友」と共に学
ぶこと意味を真に体験したことによる。
彼の理念の一つは「新規巻き直しを支援する」
①生き方の転進を支援する。
②岐路にいる経営者を心の面で応援します。
を制定した。三年の月日が昨日のように思い出される。
小路口石材工業(株)・小路口欣弘・尚友との出逢い 1983年大阪堺に
石材店の次男として生まれる。33歳。
非常に若い。中学で柔道をはじめる。彼の姿を見ると正に柔道家という体
躯をしている。そのために生まれてきたのではないかと感じる。父上もお
兄さんも柔道に親しんできた。高校も柔道推薦で進学する。本人曰く、柔
道の厳しさに挫折をしたという。柔道では落とす(首を絞めて気絶させる)
ことを認められている。幾度となく落とされる。それがいやになった。先
生に退部を申し述べたら、まかりならぬと一喝。練習はしなくても毎日道
場に通って見学をしていた。そして幾多の経験を積みながら、最後まで続
けた。数年前より彼の恩師に依頼され母校の柔道部の先輩として毎週一回、
後輩たちを指導している。
彼は高校を卒業後、警備保障会社に就職を決めていた。父上に告げたら
最終決定は一日待てと言われた。翌日、家業を継ぐように強く勧められ、
2001年から3年まで四国庵治石の本拠地に、修行に出ることになる。
その間、修行先のお嬢さんと恋仲になり2004年結婚、翌年長女誕生。
2005年から無借金経営に取りくむことになる。
父上の墓地事業の失敗から過剰な借入金を抱えていた。当時墓石販売とと
もに墓地開発が盛んだった時期があった。中谷石材グループからの借入金
三千万があった。中谷石材を指導していた須田知身氏の指導で小路口石材
も無借金経営を目指して取りくむことになる。
2005年から2007年、厳しい無借金経営への挑戦で9000万円あった借金も一
応の目処が立った時、母親の借金が発覚する。
母親が十年以上にわたって、親戚や消費者金融、カードローンなど、あら
ゆる所からの借金が発覚した。その額は合計二億にものぼっていた。中で
も消費者金融で欣弘氏の名前が使われていたことや、彼の目の前で債権者
に嘘をついて、彼に責任を被せる姿を見て、親子の関係とは一体何なのか
と思い、人間不信になった。父母は離婚、しかしマンション(会社所有)
の別の階に住むという変則的な形が続いた。
2009年に父上が脳梗塞で倒れ、2010年家業を継ぐことになる。人から見る
と弱り目に祟り目、想像を絶する逆境を背負うことになる。彼は家業を引
き継ぎ社長として兄や親族の人達を抱えて事業を続け借入金を返し続ける。
当時30歳前。
彼も一体何のために仕事をしているのかと鬱状態に陥る。そんな彼に、
又しても須田さんから「もうそろそろ理念探究だな」と勧められ、天命舎
に通うようにアドバイスされる。堺から、茨城まで毎月通う。本人は目的
も明確なわけではない。正直嫌々だったと述懐していた。
そこで、柳井さんに出逢った。彼らは自分のおかれている状況を毎月、語
り合う内に「尚友」ということをつくづくと感じた。
「尚友」とは吉田松陰先生も「士規七則」の中でも使われているが、友
を尚(たっと)ぶという意味である。何故、友を尚ぶ必要があるのか。友
人は自分の同輩である。その友人が「道の上からは、自分より一歩ないし
数歩をすすめており、したがって自分は、その友において大いに尊敬すべ
きものを認めるという時、初めて友を尚ぶとなる。
天命舎では、共に学ぶ人達に最初の講義で伝える。道を求める(自己の
使命を探究する)上で、互いに尚友であることを体験してもらいたい。真
の友人というものは、一面からは肉親の兄弟以上に深い理解と親しみを持
つ場合も少なくない。
正直言って、彼ら二人はいままでの私の経験した受講生としては異色の
存在だった。人間は誰にもこの世に生まれた使命がある。しかし森信三先
生にいわせればほとんどの人が気づかないまま人生を終えることになる。
進化経営学院の前に「人生二度なし」の森信三先生の揮毫の碑を建立して
いる。「人生二度なし」ということも頭の上では理解できることだ。しか
し、道の上から考える人はほとんどいない。
柳井氏も小路口氏も正にこの場で真の「尚友」に出逢ったことになった。

「共に学ぶ柳井さんは自分とはまた違った形で人生の逆境を乗り越えた人
だ。毎月の近況報告の度に、仕事で感じる喜びを実に自らの最上の喜びだ
と言わんばかりに楽しそうに話す。仕事とは何か、人生の喜びとは何かと
自問を続ける自分にとって一つの答えがそこにある気がした。この人のよ
うになりたいと思った。」(小路口さんの言葉)
そして柳井さんも「尚友」が理念探究を続けると言ったとき、どうして
も共に歩みたいと思った。小路口氏は文字通り恐ろしいほどの逆境(絶望)
の中から、「依存から自立へ」「尚友との出逢い」そして、お嬢さんたち
が私の孫たちや須田さんの子供たちとの夏の合宿参加を機会に「娘たちの
教育」を強く自覚した。そしてこの度の理念制定にたどり着いた。
理念制定を終えて
ここ五~六年は理念制定者を生むことができなかった。二十数年の経験
を持ってしても、理念制定の段階に至らなかった。二年前から進化経営学
院の養成塾は、西日本校に移すことにした。私は七名の人達とこの一年は
理念探究に集中した。
メンバーの中に韓国生まれの李交員さんがいる。彼女は傑出した人物だ。
彼女のことはまた改めて報告することになるが、彼女を含めて七名は、次
の時代を背負うに足りる人物だ。各自が進化経営学院創設の辞である「逆
境練機」「転原自在」「経営進化」「互恵共栄」を文字通り体験している。
詳細は省くが第十六回理念型企業快労祭で発表した人達も逆境を体験して
いる。「苦労」を「快労」に見事に転換している人達だ。
こうして振り返ったとき、人生を順風満帆に過ごしてきた人は到底、理
念には到達できないという確信に至った。
新しく理念を制定した六人を含めていよいよ、若手が活躍する時代にな
ったと感無量な思いにとらわれた第16回快労祭だった。


■理念探究会104号

●理念探究会104

■第四章第二部日教組
何故日教組は今日から振り返ると問題を起こしてきたのか?
今回はGHQの規制や指導がいかにして日本の教育界に影響をあたえてきたのかを振り返り検証する。大きな流れは、60年安保70年安保から尾を引いている。

■社会に新左翼の流入
新左翼は共産党に見切りをつけた暴力革命を肯定するグループである。60年代後半に大学生だった世代が70年代前半に教育社会に流入した。前にも書いたが60年安保当時の学生は、まだ純粋であった。その当時まだ企業も就職等には厳しい規制をしていなかった。しかし70年安保になると、また同じことを繰り返す学生運動には就職には制限が生まれた。丁度昭和20年~団塊世代初期生まれがこの状況に遭遇する。1964年が東京オリンピック、当時70年は万博が大阪で開かれ高度成長へまっしぐらに日本が経済発展を遂げようとしていたときだった。
60年安保の頃から学生運動も過激になり始め、新左翼が誕生した。樺美智子さんも新左翼の流れに巻き込まれていた。新左翼=戦闘的左翼と言える。後に新左翼も連合赤軍、中核派、革マル派、社青同開放派(江田五月、横路高広)と分裂していく。
中には就職を機に足を洗った者もいるが、足を洗わず社会に潜入し、教員、地元公務員、郵便局、国鉄、電電公社、専売公社現業の国家公務員になった。政府や自治体は身元調査することなく採用した。そして教職員になった者を含めて、日教組主流派はますます教条的になった。前回書いた槙枝委員長などはその最たるものだった。
初代委員長・羽仁五郎から始まった日教組を再び分析してみる
と日本の教職員組合の中で最も歴史が古く規模も最大である。
日本国憲法や改正される前の教育基本法の精神を基本に、民主主義教育の推進と教職員の大同団結をめざすとしている。かつては共産党支持のグループも日教組に属し、社会党右派、同左派、共産党系にほぼ三等分されていたが、1989年の労組再編で
共産党支持グループが日教組を離脱し、全教を結成。
社会党系だけになった日教組は連合(旧総評系)の有力単産となり、組織として日本社会党を支持した。

■教師の倫理綱領
 先月号で教師の「倫理綱領」の特に以下の項目を取り上げたか今回はもう少し突っ込んで取り上げることにする。
第四条 教師は科学的真理に立って行動する
この条文は、最も日教組の性質を表す。当時、共産主義は科学的真理=科学的社会主義を自称していた。当時の組織は日教組幹部=共産主義であり一般組合員=戦後民主主義と大きく分けられる。
第八条 教師は労働者である。
共産党機関紙赤旗は、教師=聖職、労働者であると共に教育の専門家と規定しているが、日教組主流派=社会主義協会で構成されており、日教組主流派槙枝委員長は共産党の言う教師聖職を否定する。

●共産主義者の行動原理を簡単に振り返ると
1.国家・国旗・国歌、資本主義国家の警察・軍隊を否定する。
2.日本の伝統を認めない。世界は唯物史観によって発展する
=日本の伝統は野蛮
3.資本家と労働者を峻別する。教師は労働者である
4.共産主義=科学であると信じている(妄想している)
5.独裁を肯定する。
●共産主義を信奉する教員の行動原理
1.国旗掲揚、国歌斉唱に積極的でない。
2.日本の歴史を知らない生徒に共産主義国の歴史文化を教える。日本の歴史、神道を       教えてはならない
3.職業的差別を行う。自衛隊・警察に勤める人を差別する。
4.教室内での「布教」に迷いがない。赤旗を配る
5.生徒や保護者を巻き込み全体主義で覆う。
6.平和教育・人権教育・環境教育において特殊な感性を持っている

●具体的事例・君が代不斉唱 不起立問題
1996年(平成8年)頃から教育現場において、当時の文部省の通達により日章旗(日の丸)の掲揚と、「君が代」の斉唱の指導が強化された。日教組などの反対派は憲法が保障する思想・良心の自由に反するとして、「日の丸」の掲揚、「君が代」の斉唱は行わないと主張した。
1999年(平成11年)には広島県立世羅高等学校で卒業式当日に校長が自殺し、「日の丸」掲揚や「君が代」斉唱を求める文部省通達の実施を迫る教育委員会とそれに反対する教職員との板挟みになっていたことが原因ではないかと言われた。
これを契機として「国旗及び国歌に関する法律」が成立した。
国会での法案審議の際、政府は「この法を根拠に国旗掲揚・国歌斉唱の強制はしない」と答弁しているが教育現場は、国旗掲揚・国歌斉唱を推進する側との対立は続いている。
以上の事例を交えて考えてみると、数々の日教組と文部省の対立、事件が思い出される。
■GHQは「War Guilt InformationProgram」(戦争に関する罪悪感を日本人の心に植えつけるための扶植計画)を断行し、表では新憲法21条で「検閲の禁止規定」を美しく謳いながら、七年にわたる検閲を徹底してきた日本占領政策は、成功を遂げているといえる。
60年安保の世代は田原総一郎、西部遭遇氏の世代、現在80歳、そして70年安保の世代は現在70歳。この世代が現役で活躍した(40歳~60歳)のが1985年~2005年。そして尚現役60 歳以後も定年延長で2010年あたりまで働いている。
その間、学生運動を引きずった教職員、地元公務員、郵便局、国鉄、電電公社、専売公社、国家公務員がそれぞれの組織で社会主義的な思想に洗脳されたまま活動したと言える。その流れの中で日教組もますます教条的になったと言える。
次回は、日本の司法、裁判官、日本ペンクラブなども検証してみる。

◎理念探究会
◆その一、(有)フアイン企業理念制定式
福井県鯖江市に会社がある(有)フアイン企業理念制定式に夫婦で参加した。前日は前回にも書いたが島根県益田市のMランドの小河会長をお訪ねして、翌日早朝、出雲大社をお参りして、長駆、松江、米子から岡山に出て、新幹線米原経由で夕方鯖江に到着した。その夜は(株)ムラケンの社長と善子と三人で遅めの夕食をともにした。
翌日は八時半から鯖江理念探究会の有志五名とMKD村上会長との勉強会を昼までやった。その後会場を移して(有)フアインの企業理念制定式。遠路、監修者の大和信春先生にもお越しねがって、挙行。社員を始め鯖江の取引先、銀行、鯖江理念探究会の有志、岡山からも進化経営学院での尚友も訪れての会が行われた。
司会を担当したK原氏、理念の唱和を先導したS下氏や司会の女性たちの快い緊張感の中で進められた。社長のF井氏の三年渡る精進と進化経営学院の尚友の支援で制定。これで福井鯖江地域には三社の企業・人生理念制定者が制定した。
足かけ十数年の探究の結実だ。MKD主催M氏の祝辞がよかった。
古希を超え、尚地域の若手経営者を指導して五年。
鯖江地域に三名の理念制定者が生まれたことは、ひとえにM上氏の志による。三人寄れば文殊の智恵、六十代、五十代、四十代の三人の理念制定のトライアングルが間違いなく地域の活性化に結びつくであろう。F井氏の自信に満ちた「凛とした」顔を見ると、この三年間の思い出と喜びに満ちた会であった。
◆その二、西日本理念実践会、茨城理念実践会スタート
5月から、西日本理念実践会(七名)と茨城理念実践会(五名)がスタートした。合計十二名。理念を制定した人達七名と探究途上の人達五名。以下、理解していただきたい真意・「参加者のみなさんが和道の体得者として互恵社会建設に貢献していただけるように互いに研鑽したいということです。そのために①養成塾で理念探究を進めてきました。現在、途上の方も理念を制定された方もまだまだ、和道体得への過程であります。別の次元への出発の時です。
理念制定者の諸先輩、ことに後輩の指導に尽力されているM上さんS田さんT内さんK早さんや理念企業快労祭に集まる諸先輩ともども、世界ヘ向かって互恵関係を拡大する活動を生涯にわたって続けてほしい。それが各自にあたえられた天命(理念)であり、個々の役割と考えています。そのために各自の実力(和力)と実践力を磨いてほしいための支援です。
理念実践会の進め方は工夫しながら二~三年の或いは生涯にわたって開催していきたいと、今は思っています。和気あいあいのなかでも、尚友として互いに学びながら研鑽していこうというわけです。尚友との研鑽そして時に気楽な団欒もともに
しましょう。苦労ではなく、快労をともにしましょう。」

昨年から私は若手の人達と生涯にわたって全力で共に歩みたいと決心している。