■理念探究会103号

●理念探究会103

■第四章 教育改革について
今回までの振り返り

■何故安保闘争に巻き込まれてたのか?
前回は60年70年の学生運動を中心に取り上げた。何故、知的レベルの高いと思われる大学生を中心に岸信介総理の安保改定に対して単純に反対運動に巻き込まれたのか、また70年佐藤総理の時に再び安保改定反対運動が盛り上がったのか。その反対運動に当事者たちが巻き込まれる過程をたどってみた。その時代、共産党、社会党のソ連・中共の主張する、一見理想的な「中立論」を掲げ日米の安保条約改定に反対した。世間からは知的レベルの高いと見られる純粋な(ある意味世間知らずで、単純な)大学生を単次元分極思考に誘導し反対運動を進めた。
学生運動の当事者の思想的な背景と回顧の声も検証した。
当時の進歩的文化人として称された文化人や著名大学教授達が、彼らの専門分野は置くとして、観念論・理想論を掲げて若い学生たちを結果として先導する過ちを犯したのかと言うことにも多少触れた。
私の世代前後はこの安保闘争に少なからず無関心ではいられなかったが、こうして振り返ってみると、若い純粋な彼らを社会経験がないと切り捨てることのできない、マスメディア、進歩的文化人の犯した過ちは検証しなくてはならない。

■アメリカは何故終戦当時、共産主義、社会主義を支援したのか?
旧ソ連とアメリカの冷戦時代を経験している人たちから見ると何故、日本で、若者が共産主義や社会主義にかぶれ安保闘争にのめり込んだのかという点が、疑問点として残る。
それは大東亜戦争(太平洋戦争)の始まる前からルーズベルト大統領の側近、ブレーンとして共産党主義者が多数存在し、戦後のGHQの主要メンバーは実は共産主義者が牛耳っていて、GHQの施策は戦前の日本の良さを壊すために、教育、企業、組合にすべて対立する施策を取り入れてきた。「占領軍民政局は左翼の巣だった。ホイットニー局長、ケーディス次長は社会主義者であり、ケーディス次長の右腕ハーバート・ノーマンが主導した。」
民生局長ホイットニーは「民主化」と急進的かつ社会主義的な改革を進めた。戦前の政府要人や大物議員、財界人を公職追放し、日本社会党に露骨に肩入れした。
しかしながら1947年の東ドイツのソ連の占領、1950年朝鮮戦争の勃発でソ連・中国が共産主義国家である事に改めて認識し、マッカーシー旋風が本国アメリカで巻き起こり、かつてのルーズベルト大統領の側近はもとより多くの共産主義者が糾弾され、自殺したブレーンにGHQの主要幹部も含まれていたことが判明した。

■知的保留・盲疑も盲信もどちらも真実から遠ざかる
「むやみに信じるのも」「むやみに疑うのも」実は同じ穴のむじなということです。むやみに信じるのは危険だということは、大体の人は警戒心があるから知っていますが、むやみに疑うのは害がないと思っています。むやみに信じるのは盲信といって、疑わしい根拠を告げても「そんなことはない」といって、受け付けなくなることです。また、盲疑はむやみに疑うことで「それでも認められる所もあるよ」と言っても、受け付けなくなることです。
これらは情報なしに判断しているので盲断(図参照)と言います。その結果情報不足のまま不覚行動することになる場合があります。
不覚行動を防ぐために「知的保留」と言うものがあります。肯定も否定もできないような情報が入ってきたときに、情報ではあるが決定的な結論ではないという状態でそのまま心にとどめておくことを「知的保留」と言います。
世の中にはこの知的保留ができないタイプの人がいます。大多数の人が考えていることに合わせたりして決めてしまったり、同じように思う人を例え少人数でも集めると安心するということで、信ずる集団か、信じない集団かの中に入ることによって安心してしまいます。それで不都合がないように見えますが、保留しない情報は分極情報だから、いったんどこかで何かが狂うと大混乱になってしまいます。
この保留された情報を地道に蓄積していくとやがては大筋が見えてくる。これが大事です。そのためにも保留は保留として留めておくことが大事です。(心の自立・テキストより)

■ここで再び、私たちを単次元分極思考に導いていったかを確認してみる。
第一章でGHQの言論統制、プレスコードについて書いてきた。GHQが定めた30項目の報道規制中で、特に以下の点について考えてみてるだけで、いかに当時の日本人は情報不足のまま、決断をしなければならなかったか。これらに関してGHQの作為的な情報によって7年にわたり私たちはマスメディア、NHK放送を通じて間接的にGHQの都合のよい方向に導かれてきた。

一、SCAP(連合国軍最高司令官もしくは総司令部)に対する批判
二、極東国際軍事裁判批判(東京裁判への一切の批判を禁止した)
三、GHQが日本国憲法を起草したことに対する批判
四、検閲制度への言及

情報不足による不覚行動の積み重ね、特に検閲制度、言論統制の徹底された新聞、NHKラジオ番組でGHQがシナリオを書いた「真相はこうだ」という番組で「誰が日本を戦争に引きずりこんだのか」という問いに「人物を突き止める事は不可能。責任者は日本人自身だ」答え、言論統制を巧みに隠しながら贖罪意識を植えつけていった。1945年(昭和20年)12月8日から、日本中の新聞に「太平洋戦争史」を掲載させた。(これは東京裁判の検事側史観そのものだった)一方GHQの意向に従うことで、戦後の地位も名誉も獲得した人達(敗戦利得者)が生まれることも推測できる。既に述べたが、戦後復活した左翼系大学教授(東大、京大、一橋大学等)も知識人、進歩的文化人もマスメディアもその例外とは言えない。GHQ洗脳工作は着々と進んでいった。

今回は二回に分けて、戦後の教育に携わった日教組の問題を考える。

■第四章・日本教職員組合・歴史
●GHQが実行した教育関連を時系列に記す。
1945年10月22日・日本の教育制度に対する管理政策に関する指令
1945年10月30日・教職員の調査、精選、資格決定に関する指令
1945年12月15日・国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督、弘布の廃止
に関する指令
1945年12月31日・修身日本歴史及び地理の停止に関する指令

以上指令は「教育に関する四つの指令」と呼ばれ、後に出された「新教育指針」とともに、日本の戦後教育のあり方を決定づける。

1946年3月アメリカ本国から教育使節団がやって来て報告書を作成。
1946年5月7日・教職員の除去、就職禁止(公職追放)12万人/70万人が退職する。
1947年5月15日文部省は「新教育指針」という教師用の手引書を全国の学校に配布する。

●日教組・「民主化の一環」として1945年12月に教員組合の結成を指令した。12月には全日本 教員組合(共産党系)が、翌年、教員組合全国同盟(社会党系・校長も参加)が結成された。
1947年(昭和22年)6月8日・日本教職員組合の結成大会が開かれた。
(注)羽仁五郎・1947年「日教組初代代表」・GHQ民政局ハーバート・ノーマンの日本史の個人教授。日教組初代代表・日本国憲法、教育基本法の理念普及と、階級闘争を運動方針とする統一的な教員組合として日教組を結成。
(注)日教組は主流派社会党系と反主流派共産党系など色々な派閥があったが、親ソ連、親中国、親北朝鮮である。

●1950年朝鮮戦争勃発を機に、戦後教育見直しや再軍備への動きの中で、日教組は、1951年1月 に開いた中央委員会でスローガン「教え子を再び戦場に送るな、青年よ再び銃を取るな」を採択し文部省の方針に対立する運動を開始した。その後、「教師の倫理綱領」を定めた。

「教師の倫理綱領」1952年6月16日
1.教師は日本社会の課題にこたえて青少年とともに生きる
2.教師は教育の機会均等のためにたたかう
3.教師は平和を守る
4.教師は科学的真理に立って行動する
5.教師は教育の自由の侵害を許さない
6.教師は正しい政治をもとめる
7.教師は親たちとともに社会の頽廃とたたかい、新しい文化をつくる
8.教師は労働者である
9.教師は生活権を守る
10.教師は団結する

●政治活動
1956年の総選挙で日教組の政治組織・日本民主教育政治連盟は、日本社会党などから推薦候補20人(日教組組織内候補13人)を当選させ、参院選では10人を当選させた。
(注)日教組の中に組合専従が出てきた。それを踏み台にして社会党員になり、政治活動をするようになり、日教組は左翼政治家の苗代になった。政治に向かった者は日本民主教育政治連盟をつくり代議士を目指した。

●日教組と北朝鮮
1970年代から日教組は支持政党である日本社会党が朝鮮労働党との関係を強化した。訪朝団の派遣を積極的に行い、北朝鮮の指導者を賛美した時期があった。

●指導者・幹部による北朝鮮礼賛
1971年から1983年まで委員長だった槙枝元文は1972年4月の「金日成誕生60周年」に際して訪朝し、同国の教育制度を絶賛した。同年、制度検討委員だった岩井章も北朝鮮における思想教育について感銘を受けたと述べた。槙枝は、最も尊敬する人物として金日成をあげ、1991年(平成3年)には北朝鮮から親善勲章第1級を授与されている。
次号では日教組他について検証する。
◆理念探究会103号
理念実践の企業・Mランド訪問・小河会長と懇談
1年半ぶりに島根県益田にあるMランドを訪ねました。前日ANAから欠航になる恐れがあるとのメールが入りやきもきしながら羽田に向かいました。着陸のとき少し揺れはしましたが無事到着。
迎えにきてくださったT口さんと再会。その足で、新築なった国際交流センターでの中国式茶会に私たちも参加させていただきました。
Mランドでは三年ほど前から中国人のインストラクターを養成してゲストも次第に増え年間五百人ぐらいの中国の人達が合宿研修に参加されているとのことです。インストラクターはチャイナドレスをきて、中国人のゲストに中国語と日本語での説明でウーロンチャ、鉄観音のお茶を味わせてくれました。
今年六月オープンを前にJIRO’S DERIという自然をコンセプトにしたメニューで構成されたレストランのオープンに向けて最後の仕上げをしていました。訪問するたびに新しいチャレンジのあるMランドです。
会長は私の尊敬する元台湾総統李登輝同い年で、私には非常に共通した印象があります。二時間ほどいろいろお話を聞きました。最後に今後の構想は如何でしょうか?という問いに「日本の国をどうするか」ということで話を聞きました。
東京一極集中をさけ、

一、富士山の見える所に首都を移す。
二、天皇(皇室)も移す。
三、日本で最高の大学を移す。
四、そして憲法改正という話をお聞きしました。

私の最大の関心事は戦後七十年の検証ですが、重なる部分の多いお話でした。また、改めて書きたいと思います。


■理念探究会102号

●理念探究会102

■第三章・戦後の混迷・60年・70年安保の実態
単次元分極思考・多次元連続思考

「年をとると言うことは、経験を積むことで、経験を積むということは色々な
情報を頭に蓄積していくことだ。その時たとえば円周率は三・一四・・・・なの
に、これを見た目には割り切れる三とすると、事実は三・一四・・・・なのだか
ら誤差のある情報になってしまう。これは同じように妙に割り切りすぎたような
情報を詰め込んでいくと、終いには、狂った判断ばかりするようになってしまう。
長年の蓄積がそうであるから、にわかには直しがたいなんとも哀れな頭になって
しまう。ある議論において、白か黒かというような結論を妙にきっぱりとだす人
がいるが、そういう人に何かよく知っているような印象を持ってしまいがちで、
その意見をすぐ飲み込んでしまうことがある。高校を出たて当座の頃は、ほとん
ど思想的に免疫がないから、一見体系だったような話や一見凄く割り切れている
ような話というものに抵抗力がなくフラフラとついていってしまうようなことが
起こりやすい。」(心の自立・進化経営学院で使っているテキストより)

 

 

■先月の振り返り
先月号で進歩的文化人に代表される戦後の教育への規制、流れをたどった。そ
の前提に、物の見方がある。単次元分極思考、白か黒か、善いか悪いかと単純化
して少しずつ分極思考に導いていく。この見方をGHQによって、日本全体が強
いられた。いままで白と言われたことをすべて黒だという。
まず著名な大学の学長に軒並み共産主義、社会主義的な考えの人をトップに据え
た。また日教組を発足させ、共産主義者の羽仁五郎を中心に進めさせた。しかも
70万人の教員のうち、12万人を追放した。そして日本の過去の歴史を学ぶことを
禁止した。
GHQはポツダム宣言を受け入れた日本を、思うがままに変えていこうと「事
実から眼を逸らせ」あるゆる手段を講じて洗脳してきた。日本のいままでの歴史
をすべて否定し、言論規制、新聞、放送を通じて七年にわたり洗脳をしていった
わけです。
■講和
全面講和・日本共産党、社会党、朝日新聞、岩波書店、日本の左翼知識人(平
和問題懇談会)も同調。スターリンの意向にしたがって、全面講和で講和条件の
締結に反対した。ソ連とその衛星国ポーランド・チェコ2~3カ国を含める。
単独講和・アメリカを含む49カ国、絶対多数との講和だった。
1950年朝日新聞世論調査では単独講和支持・45.6%全面講和・21.4%であ
った。国民は単独講和を支持していた。
■当時の世界の情況
ソ連とアメリカ両陣営と講和条件を結ぶことは不可能だった。いつになるかは
わからない、すなわち全面講和を望めば結果、日本の占領が続くことになる。
吉田首相は、全面講和派の東大南原繁教授を「曲学阿世の徒」と呼んだ。
●何故、社会党は講和に反対したのか?
当時の社会党は、左翼のみならず敗戦利得者が加わっていた。敗戦利得者とは
戦前、コミュンテルンの影響で、冷遇された人たち。文化人、学者、岩波書店、
第三国人。第三国人は占領下の莫大な利益を得、日本の警察もほとんど取締に手
がだせなかった。独立すれば、日本の警察権に戻ることになる。在日朝鮮人から
多大な援助を受けていた社会党にとって由々しき問題だ。その第三国人との利害
関係は、今日民主党に引き継がれている。
●終戦までのアメリカとソ連の関係
敗戦直後1945年東京裁判まではアメリカ、ソ連は手を結んでいた。
アメリカは戦争の定義を「ファシストの国」と「民主主義の国」としていた。
ソ連は民主主義の国の一員だった。東京裁判にはソ連の判事も入っていた。イワ
ン・M・ザリヤノフ少将(ソビエト社会主義共和国連邦派遣)最高裁判所判事。
日本側にとって納得できない判決の要因になった。
●1948年(昭和23年)6月ベルリン封鎖が起きる。東西の対立が激しくな
る。アメリカ、ソ連の冷戦の始まる切っ掛けとなる。
●1950年6月25日朝鮮戦争勃発・中華人民共和国、北朝鮮支援(ソ連は北
朝鮮を支援)スターリンは毛沢東の承認をとることを条件に支援した。
その間の日本の流れ
1951年9月8日サンフランシスコ条約受託。9月8日日米安全保障条約締
結、中国は招待されず、ソ連は署名せず。
1952年8月5日、日華条約、日華平和条約発効。
1972年9月29日、日中国交回復により失効。

■1960年安全保障条約改定
●当時の共産党と社会党の状況
共産党・終戦当時1945年100人、1940年代後半激増、1950年10
万人。
1950年ソ連がコミンフォルム加盟政党への統制を強める。日本共産党はコミ
ュンフォルム批判で分裂。1955年六全協(第六回全国協議会)で占領軍を解放
軍と規定して平和革命を掲げた日本共産党の路線を誤りと指摘した。
共産党は主流派と国際派に分裂し共産党から知識人が離党した。極左的な学生は
共産主義者同盟(ブント)を結成。これが60年安保の全学連主流派になる
●新安保条約1960年6月19日自然成立
1952年の旧安保条約は不平等条約だった、この改正が岸総理の目的だった。
安保反対の多くの人は「改定安保」の中身を読んでいなかった。
●社会党・浅沼稲次郎は共産党と同じ考え方だった。日本共産党はソ連の傘下にいた。
1959年中国訪問で、岸内閣打倒を唱え人民帽をかぶった姿で「アメリカ帝国主
義は日中両国人民の共同の敵」と言った。帰国の時、中国の人民服を着て、タラップ
から降りてきて、反発を買う。
1960年10月・日比谷公会堂・社会党・浅沼稲次郎委員長刺殺される。

●経団連(旧経済団体連合会)会長で東芝社長の石坂泰三は、
「暴力行為は決していいものではない。だがインテリジェンスのない右翼の青年
がかねて安保闘争などで浅沼氏の行為を苦々しいと思っていて、あのような事件を
起こした気持もわからないではない。」と山口に同情的な発言をして批判を浴びた。
●11月の総選挙では案保条約改定の影響はなく池田隼人首相のもとでの自民党は3
00議席を超え圧勝

■樺美智子圧死・安保反対デモの実態
1960年6月15日・33万人(主催者発表・警察発表13万人)が国会を包
囲したが、この時が日本の戦後左翼のピークだった。樺美智子がデモで圧死。
●樺美智子の指導教官であった伊藤隆氏(東大名誉教授)の当時の述懐60年安保・
修士2年の頃、国史研究室にいた。樺美智子は国史研究室の4年生だった。彼女は共
産党からブント(全学連)に移行していた。6月15日国会デモの日、彼女に以下のよ
うに声をかけ、会話を交わした。
伊藤「卒論の準備は進んでいるか」「なんとかしなきゃあ」樺「でも、伊藤さん今日
を最後にしますから、デモに行かせてください。」伊藤「じゃあ、とにかくそれが終
わったら卒論について話をしよう。」その深夜1時半ちかくラジオ関東で樺さんの死
を伝えられた。
(注)伊藤隆氏の経歴と述懐
1951年東大駒場寮・東大歴史研究会に入る。山田洋次、最後のマルクス経済学者
・林健と同期。歴史学研究会として改称。
講座派マルクス主義を学ぶ。共産党時代・民青(民主青年同盟)のキャップになる。
共産党に入党。駒場では党員200人ぐらいいた。
東大駒場の共産党組織(細胞)は講座派として活動。優秀な連中は共産党員という時
代だった。当時民青の本部は銀座四丁目新世界ビルの一室を不法占拠していた。
六全協・武装闘争方針1955年7月それまでの極左軍事冒険主義を転換し、先進国型
平和革命路線に踏出す事に抗議し、日本共産党を見限った。共産主義者同盟(ブント)
に移り反スターリンを叫ぶようになった。東大駒場細胞とは共産党本部から解散させ
られた。講座派的思考からなかなか抜け出せなかった。
●田原総一郎の述壊「60年安保反対デモ」
私は「吉田安保も改定された岸安保も条文も読んだことかなく、ただ当時のファッ
ションで安保反対を唱えていただけだった。
岸信介はA級戦犯容疑者であるから、きっと日本をまた戦争に巻き込むための安保改
定に違いない」と思っていた。
当時東大安保闘争のリーダーの一人であった西部遭に『吉田安保と岸安保はどこが
違うのかそれぞれ読んだか』と聞いて見たい。西部さんは『読むわけないだろう。岸
がやることはろくなものではない。日本を戦争に導くだけだ』と言った。
西部氏は60年安保後、左翼とは決別して、完全な保守思想家として活躍している。
「総じて言えば60年安保闘争は安保反対闘争ではなかった。闘争参加者のほとんどが、
国際政治および国際軍事に無知であり、無関心ですらあった。」
(注)西部遭の経歴
1958年4月、東京大学に入学、三鷹寮に入寮。同年12月に結成された共産主
義者同盟(ブント)にはいる。1959年から同大学教養学部で自治会委員長を務め
る。同全学連の中央執行委員も務め、60年安保闘争に参加。元東京大学教養学部教授
他。
■70年安保
●全共闘(全国共闘会議)・自然発生的にできたノンセクト・ラディカルの集団だっ
た。ノンセクト・ラディカルは思想的にはマルクス主義とはいえない。アーナキズム
(無政府主義)に近かった。学園闘争の目的は学費値上げ反対等、プチブル的な要求
だった。大学解体がかろうじて統一スローガンだった。
(注)佐藤首相訪米阻止闘争・1969年11月16日~17日に行われた新左翼による闘争・
事件。1969年11月17日は、佐藤栄作首相の訪米予定日であった。訪米の目的は、日米
安全保障条約が期限切れとなる1970年を目前に控え、安保条約の継続をアメリカと協
議することであった。
全共闘・新左翼諸派はこれを阻止する闘争を70年安保の前哨戦と位置づけ、中核派、解放派等を中心とした武闘派は首相の訪米を実力阻止すべく、ゲバ棒や火炎瓶で武装した行動隊を羽田空港に送り込んだ。
11月16日から始まった武闘派の実力闘争は、数百人ずつに分かれて蒲田駅に到着し
た部隊がその都度機動隊に個別撃破され、完全な敗北に終わった。近代日本史上最大
の2500人超の逮捕者を出し、1967年から続いた学生運動・新左翼運動に一つの終止符
を打った。
●70年安保期の1969年(昭和44年)12月の総選挙では、当時の佐藤栄作内閣を支える自民党は国会での議席を増やす一方、「安保延長」に反対した社会党は約50議席を減らして大敗し、佐藤長期政権は1972年(昭和47年)まで継続した。(ウィキペディア)
●私の同郷の友人K君の体験「70年安保闘争」
1964年K西学院大学社会学部に入学。1965年学園闘争に参加、社会学部自
治会委員長1966年全学部副委員長を務める。
学園闘争のテーマは当初、バス代、学費値上げが最大関心事であった。社会学部と
して取り組んだ。卒業後、生協活動を続ける。1969年佐藤首相の安保条約改定の
訪米に対して、K西学院大学生協地域部のストライキ、職場封鎖を指導。羽田へ集結。逮捕を覚悟していたが、免れる。
1970年佐藤訪米阻止闘争に破れ、復帰後、運動のスタンスは左翼からは離脱、中
間派へと変わる。地域生協活動に専念する。仲間の一部は運動を続けるグループもいた。
●1971年「いかに生きるべきか」迷いながらK西学院大学生協から身を引き、三
重県亀山に移住。絹紡糸経営の社長に会い、経営に関わる勉強をする。
1972年2月28日連合赤軍・浅間山荘事件、その後山岳ベース事件による「総括」で12名の虐殺が明らかになった。学生運動の経験を振り返り強い衝撃を受ける。
(注)浅間山荘事件・連合赤軍のメンバー5人が、浅間山荘の管理人の妻を人質に立てこもった。警視庁機動隊及び長野県警察機動隊が人質救出作戦で死者3名・機動隊員2名、民間人1名、重軽傷者27名・機動隊員26名、報道関係者1名を出した。
10日目の2月28日に部隊が強行突入し、人質を無事救出、犯人5名は全員逮捕。酷寒の環境における警察と犯人との攻防、血まみれで搬送される隊員、鉄球での山荘破壊など衝撃的な経過がテレビで生中継された。
■戦後45年以後時代の主流に躍り出たマルクス主義思想が徐々に大学生中心に影響を与え、マルクス主義思想の理論をベースに共産党及び社会党内部での分裂が次々と起きているのも「白か黒かという単次元分極思考による考え方」から生じている。
東京大学駒場の事例にも見られるように、田舎から出てきた思想に免疫のない若者が、理論的な根拠も薄弱なまま、運動に巻き込まれている。これは後に起こったオウム事件にも言えることである。
西欧人は主に左脳(理論・合理性)で判断する。そして白か黒か、善か悪かに分ける分極思考だ。日本人は多次元連続思考で見る力、物事を道理で判断する力を持っているにも関わらず、戦後の教育は理論を優先して白か黒かで判断する単次元分極思考を進めた。その影響は今なお続いている。
(注)教条主義・ドグマティズムともいう。哲学上では定説主義や独断論をさすが、マルクス主義理論では実践による検証を怠り、マルクス、レーニンらの教義を無批判に盲信するような知的怠惰をさす。
理性・合理性のみで判断する見方、全ての現実もその理論・原理原則に無理やり当てはめて判断決定する思考。その未熟な思考の事例が今回検証した事実に現れている。
次回は日教組の問題を中心に検証する。
■理念探究会卒業式
理念制定者が六名誕生した。長い年月がかかった人もいる。短くて足かけ三年はかかった。ここ数年を振り返ると五~六年ぶりの誕生ということになる。三〇歳代~四〇歳代。私が理念制定したのは五〇歳だった。あれから二〇数年が経った。人を育てることは容易なことではない。森信三先生は流水に図を刻む如しと言われているが、私も二〇数年のうち、ここ一〇年ぐらいは共に学んだ志ある若者が、理念に添って事業経営に取りくんでいる姿を見ると思わず喜びが込み上げてくることをしばしば感じる。妻善子と、これがあるからよかったと頷きあうことがある。
六月には十六回理念型企業快労祭で理念制定式を行う。
■理念実践塾発足
三月には理念制定者が複数生まれる。それに関連して三月までで進化経営学院・茨城での理念探究会は一年間休止する。一方全国二カ所で理念制定者(既にできている人、間もなくできる人、なお探究を続ける人)達を対象に「理念実践塾」を立ち上げることにしている。
関西方面で七名、茨城で五名の人たちと継続して、参加者主体の勉強会を続けたいと思う。
五~六年先を睨んで彼ら自身が指導者として成長・成熟してもらいたい。自社の部下は元よりグループ、地域の若手を指導できる人になってもらいたい。経営計画熟考会参加を含めると年間10回ほどの勉強会、相互研鑽の場に成る。それとは別に、茨城で地域の若手と同じく勉強会(啓発会)を企画している。私自身の心身を鍛練しておかなくてはならない。