理念探究会95

■理念探究会95号


◆人間の寿命・大病からの生還その二
久世さんのことを以前「何のための人生でありたいか・志に生きる」と言うタイトルでまとめた。
改めて簡単に振り返っておきたい。同郷の彼は、1964年関西学院大学社会学部に入学。1965年学園闘争に参加、社会学部自治会委員長1966年全学部副委員長を務める。学園闘争のテーマは当初、バス代、学費値上げが最大関心事であった。1968年24歳で学園闘争中の仲間と結婚する。卒業後、生協活動を続ける。1969年佐藤首相の安保条約改定の訪米に対して、関西学院大学生協地域部のストライキ、職場封鎖を指導。羽田へ集結。逮捕を覚悟していたが、免れる。
1970年佐藤訪米阻止闘争に破れ、復帰後、運動のスタンスは左翼からは離脱、中間派へと変わる。地域生協活動に専念する。仲間の一部は運動を続けるグループもいた。
1971年「いかに生きるべきか」迷いながら関西学院大学生協から身を引き、三重県亀山に移住。絹紡糸経営の社長に会い、経営に関わる勉強をする。1972年連合赤軍・浅間山事件、学生運動の経験を振り返り強い衝撃を受ける。1973年以後食の安全に深く踏み込む。兵庫県の山奥での自給自足生活を選ぶ。1989年北海道に移住以来26年。
◆癌発見と手術の経過
昨年会ったのは7月26日27日だった。彼は2014年(幌延)ほろのべ核のゴミを考える全国交流会を8月3日、4日を開催した後、9月になって著しく痩せてきたという。かかりつけの医者の紹介で大きな病院に診察してもらう。今日までの経過をたどる、第1回目の手術9月4日S状結腸癌の腸閉塞による横行結腸ストマ。癌は一応良性だった。この大きさ(赤ちゃんの頭大の大きさの癌)に成るまでには10数年かかっている。
第2回目9月26日第1回目の手術の後遺症が出る。S状結腸の破裂と全体の腹膜炎、8時間の手術で、腫瘍の切除。第1回目では癌の摘出をしなかったので、この際、摘出ということだ。麻酔をしているが半分覚醒している。麻酔が覚めると段々現実に戻ってくる。腸は7メートルあるらしいが小腸を切除して2メートルをつないだ。
第3回目10月3日小腸のつなぎの漏れによる手術で小腸を人工肛門にすることになる。12月年末、高熱を発し、意識を失ない緊急入院する。歩さんの旦那が運んでくれた。下痢等による脱水症。点滴をしてもらうことになる。そのころ抗ガン剤も使っていた。抗ガン剤の副作用が激しい。

第4回目今年2月17日の4度目の手術。その時点の問題点は

1.下痢水様多量で脱水常態が続き、腎不全になれば命取りになる可能性が高い。また
2.パウチ(排泄物を受け取る医療具)の取り扱いで生活レベルが低い。
3.抗ガン剤治療が満足にできていない。
4.癌が遺残していると言う状態だった。

◆死に直面・命の保証はない
医師の判断 1.今のところ生きている。2.抗ガン剤が効いている。
【対処法】
1.何もしない。
イ・抗ガン剤は使い続ける。ロ・生活の質は変わらない。ハ・余命は少し期待できる。
2.手術する。
イ・合併症で命取りになる(目を覚ますこともなく死亡することもある)
ロ・別のストマ(人工的排泄口)で今より更に生活の質が落ちる。
【手術の効果予想】
イ・生活の質が上がる。
ロ・抗ガン剤を定期的に維持して余命は少し期待できる。しかし抗ガン剤が効かな        くなり、早期に死亡する可能性がある。目標としては2年生きればラッキー、現実的には1年ぐらい。いずれの方法でも命の保証はできない。
【手術に伴う合併症の説明】
1.出血→輸血、再手術
2.つなぎ目の漏れ→再手術
3.手術困難の場合は→人工肛門
4.他の小腸や大腸の損傷による縫合
5.肺炎(1%)
6.癒着→腸閉塞(10~20%)
7.心筋梗塞、肺塞栓(肺への血管が詰まり・肺が壊死)
8.アレルギー
9.その他諸々の要素

上記のことを三人の子供さんを前に医師は淡々と率直に図解入りで話をしてくれた。さっぱりした、はっきりものを言う医師だった。子供達と万が一の場合にも心臓マッサージも、点滴もしないことを確認していた。彼は外科医の技術を信頼していた。その上での手術を決心した。幸い手術は無事終わった。医師の見立て以上に腸も使え以前(2メートル)よりも長く(4メートル)活用できたそうだ。

◆久世さんの戦略(方針)と戦術(方策)
医師から処方される薬を飲むのをやめる。2月17日手術、3月18日退院、その後4月27日から薬を飲むのをやめた。抗ガン剤を含めて4種類の薬を処方されていた。薬を服用することによる副作用はあった。
4種類の薬は、それぞれどの薬がどの症状に対して効くのかわからない。そこで彼は一切の薬(4種類)を飲むことをやめた。ただ、AHCCイムノリンクを服用している。イムノリンクの服用については、実は裏話があり、久世さんか活動している「幌延・ほろのべ核のゴミを考える全国交流会」のメンバーが衆知を集めて検討してくれ、資金カンパをしてくれた。高価なもので朝晩服用を始めた。私が訪問した7月には今は朝だけ服用していると言っていた。

◆データーに基づく問診・面談
彼は入院中から毎日、
1.体温・朝昼夕方
2.食事量(朝昼夕のメニュー)
3.尿の回数
4.便の状態(水状・泥、軟・普通)
をつけていたが、退院後更に
5.血圧
6.水
7.体重
8.シャワー利用日
9.パウチ交換
10.生活の予定表(来客・要件・イベント等々)を詳細につけている。
医師は問診により判断する。点滴をしないという久世さんの要望で医師は内服薬による抗ガン剤を処方してくれている。面談の時、血液検査・20項目の検査をした上で、久世さんはこのデーターをキチンと見ながら定期的に、医師との話し合いをする。
4月27日より薬をやめてから、面談の度に、医師は「抗ガン剤の副作用は出ていないなあ」と呟くようだ。
医師には服用をやめていることは伝えていない。処方箋をきちんと貰うが薬局で購入することもなく、服用することもない。

◆現状・日常生活には支障がない
薬をやめて3カ月。一時35キロまで減った体重は55キロまで戻っている。そして髪の毛も黒々としふさふさと、たっぷりある。以前とどう違うか?という私の質問に

1.腹には力が入らない。
2.血圧は正常だがフラッとすることはある。
3.食事はつくれるし日常生活に不自由はない。但し、次の行動に移る時はゆっくり動くように心がけている。
4.夜は出歩かないようにしている。という話だった。

予定表を見ると、明日(7月25日)も映画会を主催している。日常は工房レティエで働く娘たち他の昼食を作っている。ある日の昼食のメニューはご飯、納豆、トンカツ。ある日はご飯、味噌汁、トーフ、野菜炒めというメニューだ。もっぱら若い働く彼らを中心に置いたメニューにしている。
私と再会したのが7月24日の午前10時20分。昼食、夕食を挟んで延々10時間話し続けた。正直私の方がくたびれた。次女あもさんは珍しく風邪気味で早く帰り、夕食は長女歩さんと一緒に久世さんが作ってくれたすき焼きを頂いた。彼の味覚は戻った。美味しかった。子供たちは、住まいをバリアフリーに改装(車椅子になる状態も想定していた)し、26年前移住してきた当時の家の寝室・居間を父の為に改装した。風呂場も、台所も、事務所も、書斎も一新した。そこで彼は生活している。

◆どんな情況にあろうと愉快な人生
さて彼は入院を4度も繰り返したわけだが、入院生活の報告が愉しい。患者は医師に対して受け身になってしまう。医者は、患者からの情報収集は問診のみにほぼ限られる。久世さんは看護士、栄養士の人達と懇意になった。実際に世話をしてくれるのは彼らである。世話をしてくれる人こそ大事である。看護士をとおして、朝食はパン、昼食はめん類、夕食はみなさんと一緒の物を食べるようにした。お願いすれば対応してくれるのだが、患者は遠慮してお願いしない。患者の人も我慢するしかないと考えているようだが、看護士には患者の希望にできるだけ対応してあげたいと言う気持ちがある。
中にはこんなエピソードも話してくれた。採血を定期的にしてもらうのだが、中には下手くそな看護士がいる。また一方、採血の得意な人もいる。入院中採血の得手、不得手を見抜いて採血する人を上手に代わってもらうように看護士に伝えれば、本人も喜んで替ってくれる。自分が不得手だと知っているからだ。
時には同室の患者にもアドバイスをする。内視鏡を使う手術の時、医者は「大丈夫ですよ」と言うが患者は体験がないから恐怖心にとらわれるものだ。そんな時、経験者の彼は「一晩だけ辛抱すれば大丈夫ですよ、肉体の痛みは二日間で直りますよ。」と声をかけてあげ不安を取り除いて上げる。患者は年寄りの人が多くて、看護士の説明がすぐには飲み込めない。そんなときにも久世さんが分かりやすく伝えてあげ、体験者としてちゃんと情報を流してあげると喜ばれる。
彼がとりわけ仲よかったのは現場で面倒を見てくれる看護士だった。たまたま、次女あもさんの同級生が二人も看護士をしている。彼女たちが「お父さんは元気だよ」と娘のあもさんに伝えてくれる。彼の行くところ患者はもとより看護士、栄養士、医師までもが穏やかに和やかに人間の輪・和が広がって行く。どんな情況にあろうと楽しみのある環境に変えることかできる。

◆将来の展開
10時間もの間、様々な話をした。冒頭に記したように北海道に移住する前に、兵庫の山奥に入った時期があった。約6年間暮らした。彼も昨年から何度も死線をさまよった。その時、兵庫県の山奥での生活をキチンと記録に残していないことに気がついた。その間のことを書き始めている。まとめたいと考えている。入退院を繰り返している時、離婚した西宮に住んでいる奥さんが訪ねてきてくれた。そのことを語る彼に対して兵庫県での暮らしをテープに録音しているのだが、そのテープ起こしを引き受けてくれている。
今年8月1日2日は恒例の2015ほろのべ「核のゴミを考える全国交流会」が開催される。この会の事務局実行委員会は久世さんが担当している。講師として澤井正子(原子力資料室核燃料サイクル問題担当)をお呼びして開催する。交流会は7回目を数える。
先日届いた報告では、交流会は100名以上の参加、大成功に終わった。ほかにも自主映画上映会(小さき声のカノン・選択する人々)を開催したり、セカンドライフを楽しんでいるという報告があった。相変わらず頭は冴え、リーダーとして動いている。

◆志を持った生き方
個人的には、彼の今日までを一冊の本にまとめられると、終戦後70年を生きた「志のある日本人の生き方」が示せるのではないかと感じている。学生運動、安保闘争からの離脱、その当時の政治情況、進歩的文化人と言われた人達の動き、その後の経済発展、そしてバブル崩壊、核の廃棄物処理、福島原発と今日の日本の情況について忌憚のない話を交わした。以前聞いた彼の半生を更に詳しく聞いてきた。
戦後70年迎える日本人の様々な生き方についての私も振り返っている。私達が生まれ今日までが正に戦後70年に相当している。来年は深地層研究センター(北海道幌延町)を訪ねたい。


理念探究会94

■理念探究会94号

◇◆◇恵那脳力開発研修◇◆◇
両面思考(事例・目立つ部分は少数、目立たないのが多数)

脳力開発では両面思考という項目で上記のように教える。そして新聞もメディアも目立つ部分(少数部分)を記事にしたり、取り上げたりする。新聞やテレビで言っている事が全体を語り、国民の意見であるかと言うと、多くは目立つ部分(少数部分)だけを強調して話し、事実からはほど遠い。目立たない部分の方が主流だという両面の観点から物を見ない。新聞記事やテレビで少数部分のみを強調する軽薄なコメンテイターの意見に流されないで、「両面から見た上で、自分で考える、自分で判断する」という事が大事なのだ。
「情報の自立人」ということだが、一般には、世間で先進的だと言われてきた少数意見に単純に賛同し、主義・思想を優先させてステレオタイプの思考をする人が多い。従ってこの両面思考で考えることが大事だと教える。
イデオロギーというものがうさん臭くなったのは、東日本大震災以後、それまで、戦後の進歩的文化人とか学者が説得力を失ってきた。
単に反対だけを唱え教条的な反論をする民主党などは哀れなものだ。振り返ってみると多くが、借り物の情報で判断をしていた。
両面思考から見て、イノジィ・マイノリティ(かまびすしい少数派)とサイレント・マジョリティ(沈黙の大多数)という言葉があります。今の日本のメディアや大新聞はまことにこの言葉が当てはまります。かまびすしい少数派を全面的に取り上げ、メディアで、あるいは新聞記事としている。国会の中継を見ていると情けない。かつて安保反対=戦争反対と勘違いさせられた五十年前の学生時代を思い出します。

●主体的姿勢の人と人に頼る姿勢の人
さて本題、今回研修で取り上げたテーマの一つが「主体的な姿勢をつくる」というテーを取り上げた。がこれを「人に頼る姿勢」とはどういうことかという視点から考える。人に頼る人(依存人格)の特徴は
一、不平や不満を抱いて自らは問題解決に取り組まない。
二、自分にとって都合の悪いことが起きる、そういう状況になると、その原因を他人   や周り環境の所為にする。
三、従って自分を取り巻く環境(会社、職場、家庭、社会)に影響される。という代表的な症状が見える。
主体的な人はいかなる状況であろうが、その状況変えていく(問題を解決していく)原動力は自分にあり、自分自身が転原になるという生き方を貫いている。逆境練機・転原自在という事だ。
人に頼る人は状況を変えていくのは周りや他人、時には企業で言えばトップにあり、制度にあり、国にあるという転原他在の考え方だ。
恵那での研修で、指導したことは私の企業での失敗の事例を挙げて、人に頼る生き方を痛烈に反省した。その後の人生ではいかなる状況に遭おうとも変えていくのは自分自身にしかないという主体的姿勢の徹底を決心したことだ。
話を戻すと、主体的な姿勢が徹底している人は非常に少ない。都合がいいときは主体的に振る舞い、都合が悪いときは人頼りの姿勢になってその場をしのぐという姿勢だ。私も三十七歳までは後者であった。両面思考から言うと、人頼りの姿勢の人が主流(多数)で主体的な姿勢の人は少数だということだ。自分を見るにも人を見るにも両面からみて判断する。人の評価を鵜呑みにしない。自分で考え自分で決定する習慣づくりを中心に新人の十八歳から転職組の四十六歳までの十二名の受講生と白熱した研修がもてた。こういう企業は、大企業ではないが着実に進化を続ける。

◇◆◇志の里・萩の旅◇◆◇
理念探究会は九月からは進化経営学院で集中して七名の受講生で開催される。そにまでは高松と茨城に別れている。彼らは先日、進化経営学院での理念探究の指導者である大和先生と六月末、志の里・萩の旅に参加してきた。今回感想文集を作った。

■松陰の名言に「志定まれば、気さかんなり」という言葉があります。目標がはっきり
と定まり決心がつけば、気力が自然に満ちあふれてくるという意味です。その「志」と「行動」を大切に考え、人に伝えていった吉田松陰自身が、まさにその言葉を身をもって実行した人物でありました。藩の規則に逆らっても会いたいと願う人物があれば、士籍剥奪の結果を導くことになろうとも会いに行き、自分の見聞を広げるために必要と思えば、幕府を震撼させているペリーの所へも、罪になることなどおかまいなしに出掛けて行く。まさに「志」に従い「行動」を行った人でした。吉田松陰がしてきた「教育」そして「志」と「行動」が現在に至るまでの約150年間、数多くの人たち
に影響を与え語り継がれていること、そして私自身もその中の一人であることを改めて凄い事だと思いました。私も早く「志」を定め「行動」していくまでに至りたいと強く想いました。(高橋)

■今回の「志の里・萩の旅」は、参加者全てが理念・志探究の道に入っている方々でし
た。通常こうしたケースはなかなかありません。しかし元々がそのような人たちを念頭に置いて練ってきたプログラムであり、最も恵まれた状況下で進めることが出来たと思います。
萩市から下関に移動する前に立ち寄った松陰記念館では、松下村塾における教育が、一斉授業ではなく個別に勉強を見てもらう形であったことが紹介されていました。理念探究会もその点は同様の形を採っていますが、やはりそれがより進度を高めるのには向いていると思います。 また今回のツアーでのそれぞれの場面においても、各人各様ではありながら、各自が最大に感覚を研ぎ澄ませて感じ取ろう、気付きを得ようとされる雰囲気に満ちていたように思います。その結果は最後の締めくくりの会で感想を話し合った際の内容にも反映され、それぞれに充実した収穫が得られた様子で嬉しく思った次第です。運転で協力して頂いている大石さんの話では、今回は私の説明にも力が入っていて、これまで聞いていない踏み込んだところにまで言及していた部分もあったとのことでしたが、そういえば、自然にそのようになっていたのかなと思います。その意味でも旅の成果は、参加者と案内者の合作に違いありません。今回の旅で得られたものをぜひこれからの理念探究、志のある人生に活かして頂ければ幸いです。(大和先生)

◇◆◇その二・理念探究会への道・鯖江◇◆◇
鯖江でMKD(未来対応経営道場)の主宰者村上広昭氏(理念制定者・企業経営を卒業)から、理念探究会を開催してくれないかと何度も相談があった。この経営塾に三年以上学んでいる三十~四十歳の経営者と経営者を目指している人達だ。彼らとは年初の一日だが経営計画熟考会を私が鯖江に出向いて指導しているから、顔なじみではある。
先日の鯖江での理念型企業快労祭を開催したとき、二日目の講演会に彼らもオブザーバーで参加した。熱意ある姿に心打たれた。真剣に学んでいこうという姿勢に。彼らもかつての私たちのように真剣に人生を経営を考えている訳だ。MKDは端に経営手法を学ぶところではない。私たちが四十歳前半、東京でMG(マネジメントゲーム)や脳力開発や今では当たり前のパソコンを自由に扱うために、シリコンバレーを訪れた日々と彼らが真摯に生き方を探究している姿が重なってくる。
再度の村上さんの要請と私の心境の深まりが重なって、じっくり時間をかけて彼らを支援したいと決心した。第一回目を七月三日に鯖江を訪ねたとき開催した。五時間の講座。
非常に熱意ある姿をみた。私が学んできた蓄積してきた思いを込めて、主宰者村上広昭氏ともども力を合わせて彼らを支援していきたいと決意を更に強く確認させる会になった。
理念探究者七名、そしてその次の候補者六名。今後も次々と育てていきたい。新たな構想が芽生えてきた七月だった。