理念探究会86

理念探究会86号

●進化を続けるMランド

10月の終わりにMランドを一年ぶりに訪問した。昨年はMランド五十周年記念でお伺いした。パーティーの席で、記念講演をされた多摩大学の望月照彦先生と名刺交換をして、私たちの出版した「理念の時代を生きる」「森のフォーチャの暮らし」を贈呈したことが縁になり、今年になって先生のご自宅を訪問した。先生の専門分野に非常に興味を惹かれ、鹿児島を二度訪ねることになった。先月号にも書いた
Mランド訪問前に、先生からMランドは進化を続けているでしょうか。というメッセージを頂いた。今回、再訪し会長は李登輝と同い年、九月に私がお会いした李登輝の講演の報告や著書をお持ちして歓談した。会長もお元気で、訪問前に幹部の方たちにお話をするようにと要請があったので、私は脳力開発の卒業論文から城野浩先生が「人を評価する標準」としてまとめて頂いたテーマについてプロジェクターを使ってお話した。
一、理論がある。二、事実がある。三、行動がある。四、意気込みがある。五、成果がある。①自分が変わった②他人を変えた③変わった人を組織化して具体的な活動に持って行った。六、今後の具体的な展開がある。
妻にいわせればわかりやすかったと言うことでリラックスした中でお話した。会長も私の話を聞いて下さった。翌日の幹部の人達との朝の小河塾でも最近の各部署の報告と、私の話についての感想もお一人ずつ述べて下さった。ありがたいことであった。
さて、お昼前、会長と松本本部長に車に乗せていただいて、とある場所を訪ねた。車からおりてちいさな谷川(疎水)沿いに田んぼの畦道を見ながら歩いていく。すこし勾配があるが10分ほど歩いただろうか。砂防ダムがある場所まで視野に入れると、そこから車を留めた場所まで引き返しながら会長はこういわれた。「あそこに温泉を造ろうと思うのだ、そして山の斜面は自然遊歩道にしょうと思うんだ」私は「何故温泉を造るのですか?」と問うと「余熱がでるからだ」と言われる。皆目見当がつかない。と、「発電所を造ろうと思っているのだ。バイオマスの」 発電所を造るとこの広いMランドの敷地の諸施設の電気を賄って余りある。その余熱を利用して温泉をつくろうという訳だ。スケールの大きな話しに驚かされる。バイオマスでの発電は環境省が「地域低炭素投資促進ファンド事業」で進めているようだ。「里山資本主義」で確かオーストリアが結構実用化が進んでいると書いてあったが、なるほど。
間もなく齢九十二歳を迎えんとする小河会長の面目躍如な構想だ。「黒田君、この辺は山林だから土地も値がないようなものだ」と軽く言われた。
このお話を聞きながら、次々と小河会長の頭の中には面白く役に立つ構想か沢山浮かんでいるのだと感心した。毎年定期的に会長を訪ねてMランドを訪問しようと改めて思った二日間だった。

■第三回理念に触れる台湾の旅
初日20日午後三時より二二八紀念館・簫錦文氏の解説、台湾博物館・児玉源太郎・後藤新平を訪ねる。青葉にて交流会二日目21日新幹線で嘉義訪問・タクシーで烏山頭ダム、八田 與一紀念公園、紀念室、中山紀念堂、晩餐鼎泰豊三日目22日宜蘭まで高速バス・慈林記念館、台北、芝山巌六士先生の墓、故宮博物館四日目23日康楽公園・日本人の墓の跡、明石元二郎総督、午後帰国
今回は総勢六名、中身の濃い充実した日程だった。今回は特に宜蘭に慈林記念館を訪ねた。

二二八記念館・簫錦文氏
昨年も解説をお願いした簫錦文氏は二二八事件の真相(ご本人の訳書および発行)序の中で以下のように語っている。一九四二年太平洋戦争に志願し、ミャンマーに四年間従軍、一九四六年六月復員、義父に呼ばれて新聞社「大明報社」に勤めた。終戦当初、中国人の性質と中国文化を知らずに、国民党政府の甘い宣伝に酔い知れていた。目が醒めたのは一九四七年二月二八日の台湾近代史上における惨殺事件に巻き込まれ、新聞社に勤めていたことなどを理由に逮捕された。拷問を受け銃殺一歩手前で生命を拾い生き残った生き証人の一人である。

一九八七年戒厳令が解除、一九九七年二二八紀念館の落成に伴いボランティア(中国語では志工と言う)で解説員を志願され二二八事件の解説を始められた。二二八事件では二万七千人の知識人と家族が惨殺され以台湾の人達にとって四〇年に渡る戒厳令下での白色テロと言われた弾圧を受けることになる。

宜蘭・慈林記念館
一九八〇年二月二八日に起きた林義雄氏の母親と次女、三女の双子のお嬢さんの三人が惨殺された。長女は数カ所も刺されながら、生命は取り留められた。この事件は林義雄氏が勾留中に起こった事件で、犯人は捕まっていない。一九四七年の二二八事件を台湾の人達に連想させる。林義雄氏と奥様方素敏夫妻、ご両親が中心として記念館として残してある。その後この記念館に併設された台湾民主化運動館は台湾民主化の拠点として存在している。以後一九八七年戒厳令が解除、二〇〇〇年の第二回目の総統選挙による民進党陳水扁が当選して初の政権交代が実現した。
今回訪問して、記念館の視察および会館でDVD・英語版による説明、その後の会館の展示コーナーの解説をしていただいた。英語での解説であったが歴史の流れを知っている我々には一応理解できた。英語に堪能な同行の竹内氏に肝心の質問をしてい
ただいた。李登輝国民党総統も選挙には出ることを潔く辞退し、政権に固執しないで陳水扁を支援した。

その後陳水扁氏は汚職やその他罪に問われ、二〇〇八年離党、現在服役中。
今年九月二一日に李登輝元総統の日本での講演をお聞きしたが台湾の真の民主化に対して、民進党も力強さにかけ、国民党馬英九総統の対中国政策への反発など、台湾は今尚、大きな問題を残していると言えそうだ。

八田 與一と嘉義農林野球部
新幹線で嘉義からタクシーに乗り換え烏山頭ダムを訪ねた。
八田 與一記念公園も昨年よりも良く整備され今回は復元された旧自宅の内部も見ることができた。当時の生活の様子を想像できる。記念室では、数々の資料および完成までの様子をDVDで見た。私自身としては四度目の訪問になるが、訪問の度に新しい発見がある。烏山頭の辺の銅像と御夫婦のお墓、終戦の九月奥様が身を投じた旧放水
口を視察、記念の写真を撮った。彼の生き方は台湾の人達のみならずその後の日本人たちにも勇気を与えてくれる。

映画「KANO」嘉義農林野球部
たまたま偶然、飛行機の往復で二度にわたって映画「KANO」を見ることができた。この映画は一九三一年KANO即ち、嘉義農林学校の第十七回全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)出場の物語だった。
烏山頭ダムの完成は一九三〇年だが八田與一も映画の場面に登場する。今までは台湾では甲子園に出場するのは日本人のみで構成された台北一中や台北商業であった。嘉義農林学校野球部に新任監督として迎えられた日本人の近藤兵太郎監督による訓練で、部員たちの心に甲子園出場への夢が芽生えていった。
当時は台湾全島で1校のみしか代表として甲子園に行くことが出来ずその厚い壁をなかなか突破できなかったが、遂にその夢を台湾南部の学校として初めて果たす。本土のチームには相手にならないのではと危惧されたが、守備に長けた日本人、打撃に長けた漢人、韋駄天の如く足の速い高砂族の選手たちが一致団結し抜群の結束力を見せて逆に相手を投打に圧倒し、快進撃を続け初出場で夏の甲子園大会決勝戦までたどり着く。
地元の嘉義市内ではラジオ中継に熱中し狂喜乱舞する市民たち。そして次第にその魂のこもった姿勢と素晴らしい強さに本土の野球ファンをも魅了し、応援するファンも増え決勝戦では超満員の観衆が甲子園に詰め掛ける。そして決勝の相手は名門中の名門、中京商業。

日本中だけでなく台湾でも大勢のファンが固唾を呑んで見守る中、その試合が始まる。新任の監督を演ずるのが俳優・永瀬正敏。私はこの映画を見ながら南アフリカ大統領ネルソン・マンデラが登場した「インビクタス」を思い出した
烏山頭の完成により嘉南平野一帯に水路を細かくはりめぐらした。この水利設備全体が嘉南大圳(かなんたいしゅう)と呼ばれている。
当時この地の農業教育の中心地であった嘉義の農林学校の学生たちと地域、そしてダム建設に全力を尽くしていた日本人、台湾の人達の当時の思いが生き生きと描かれていた。二〇一五年一月二十四日に日本でも上映されると聞いた。これ以上は書きませんが是非是非ご覧になってください。