■理念探究会85号
一、脳力開発研修ダスキン
ダスキンとのおよそ十年におつきあいになる。最初の縁はダスキン中国地域加盟店での脳力開発研修が始めだった。中国地域から百名近い人達を対象に二日間にわたっての研修だった。以来、脳力開発研修から始まり、社長、幹部の天命舎訪問と情報統合技術・未来対応型研修とつづき、その後本格的な研修、および企業改革が始まった。主として事業部門長から、定期的な社員研修を繰り返した。特に財務部門はくろだワークスで理念を制定されているT氏におねがいして無借金経営を実現した。また、「そうじの力」のK氏に環境整備研修で二年余にわたり本格的に取り組んでもらいその後、「そうじの力」の関係会社の人達をお招きして今年発表会も開催した。その間、各事業部責任者は進化経営学院で経営者としての研鑽を積み、今では「花咲か村」のビジョンを描き構想実現に邁進されている。
会社の発展は、基本は社員の成長にある。積み上げてきた社員の成長が次なる事業構想・ビジョンへとつながっている。 先日、久しぶりに若返っている社員を対象に再び「脳力開発研修」を開催した。脳力開発の根本は「人間がどんな条件と環境にぶつ
かっても、これを溌剌としたそれを楽しい活動の材料にできるかを解明している。どんなときにも悲しみの人生から愉快で楽しい人生へ転換する脳の使い方、理論と実践」を教えてくれる。
私の研修の根本姿勢は、勉強はあるいは研修は辛い、苦しいものではない。愉快に愉しみながら自分の脳力の使い方を学び、簡単なところから実践すれば、社会の発展に貢献できる。嘆きのエネルギーを愉快な人生活動に転化すれば社会発展の素晴らしい力にもなる事を体験してもらう。先日も勿論楽しい研修会になった。そして各自が自分の目標設定(戦略設定)もたてた。次の世代のダスキンセライの社員たちの実践を期待できる楽しい研修会だった。
二、脳力開発の理論と実践・人を評価する標準について
私が日本コロムビアに勤務の時に、城野宏先生が脳力開発のインストラクター養成の卒業論文を基に、「人を評価する標準について」という論文をまとめて下さった。そして、当時の「脳力開発の理論と実践」の小冊子にまとめて下さった。
私が日本コロムビアに勤務の時に、城野宏先生が脳力開発のインストラクター養成の卒業論文を基に、「人を評価する標準について」という論文をまとめて下さった。そして、当時の「脳力開発の理論と実践」の小冊子にまとめて下さった。
今から三十数年前、仕事上、どうしても現状を打破できないで苦悶していた時に城野先生をお訪ねし、自分の根本的な問題点に気づかせていただき、そのご系統的に脳力開発を学び、現状を打破する過程、その後、私の所属していた営業所から全社導入へと進める過程、並行して自分自身の個人的な生活での実践、家庭での実践を記した卒業論文を読んで、その骨子を理論化してくださった。
以下標準六カ条である。
一、理論(戦略)があること
二、事実(確定事実)があること
三、意気込みがあること
四、行動があること
五、成果があること
①自分が変化したこと
②他人を変えた実績があること
③変えた人間を組織化し、継続的な活動に持って言ったこと
六、今後の具体的展開の政策があること
この人を評価する標準は、いつの時代でも通じる普遍的な標準である。どんな場合でも通じる標準だ。この先生の理論と解説と私自身の実践録を小冊子化した。
希望の方にはお分けいたします。小冊子を使って輪読しながら和談する事をお勧めする。
■再び鹿児島を訪ねる・尚古集成館
春四月の訪問に続いて、九月二四日から二日間にわたって鹿児島を訪ねた。今回は理念探究で指導頂いている大和信春先生(長州萩の生まれ)と同行した。四月の訪問後、歴史における島津藩、殊に島津斉彬から久光、忠義に引き継がれた尚古集成館事業の先見性に驚き、歴史における島津斉彬(1809~1858)、島津藩の役割に対しての新たな認識を確認する意味もあって、望月照彦先生より尚古集成館館長田村省三氏をご紹介いただき訪ねることにした。
当日は「九州(鹿児島が事務局)と山口の近代化産業遺産群」世界遺産登録のため急遽東京出張になり、学芸員の岩川拓夫氏にご案内を頂いた。
四月訪問の後、下記のように簡単に島津斉彬の業績を記した。
しかし今回改めての気づいたことかある。先ず概略を確認しておきたい。
島津斉彬の志=国家的視点
寛永六年1 8 5 3 年のペルーの来航。寛永四年(1851年)、薩摩藩藩主になった島津斉彬はイギリス・フランスなどの西欧列強のアジア進出に危機感を抱き、日本を西欧列強のような強く豊かな国にしなければ日本も植民地にされてしまうと考えた。斉彬は、直ちに集成館事業という「富国強兵・殖産興業政策」を推進した。 事業は、
造船、造砲、製鉄から紡績、ガラス、印刷などの産業の育成、電信、医療、福祉など社会基盤の整備にいたるまで、さまざまな分野に及んだ。更に、薩摩藩だけが豊かになっても意味がないと、他藩の近代化、工業化を支援した。日本全体が一丸となって近代化、工業化に取り組むべきだと考えた。(以上森のフォーチャ80号)
薩英戦争
1853年8月、生麦事件をきっかけに薩英戦争が起きた。斉彬の側近の市来四郎は、1857年に鉄製150ポンド(約70キロ)砲の製造に成功していた。この砲弾は約3,000メートル飛ばすことができた。この2基の砲を構え、薩摩藩はイギリス艦隊と互角に戦った。
イギリスも互角の戦いに驚いた。仙巌園で150ポンド砲のレプリカにはそういう経緯が刻まれている。このことも斉彬の集成館事業の具体的な現れといえる。
「富国強兵」という概念の創出は、島津斉彬ではなかろうか(大和信春氏)
その夜、天文館で薩摩料理を愉しみながら、大和先生はこう言った。「富国強兵」という概念を煮詰め、創出したのは島津斉彬ではないだろうか?1851年藩主就任と同
時に集成館事業の目的に「富国強兵」という概念を置いている。
幕末から明治にかけて「富国強兵」はある意味誰もが口にした。改めて調べてみると「江戸時代中期に太宰春台がその著作『経済録』で富国強兵を「覇者の説」と批判する儒学者を批判して、国家を維持・発展させていくためには富国強兵は欠かせないことを説いた。幕末期(53年~68年)に入ると欧米列強に迫られ、安政の不平等条約で苦難を味わい、富国強兵が説かれることになる。(ウィキペディア)
島津斉彬が藩主につき(51年)、矢継ぎ早に施行した政策はこの概念が生み出したと言える。斉彬は日本では情報の質量とも先端をゆき、かつ島津藩という範囲を超えた「日本」という視点と決断力があった。その後薩英戦争の互角の戦いとその戦いから和睦に移るや直ちにほぼ密航に近い形で、一人渡航費2700万円を投じて15人の留学生と3人の使節、1人の通訳を英国に送り込んだ、久光の子、忠勇の英断は斉彬の意志を継いだものであった。
歴史に、もしはない。斉彬がいなかったなら日本はどうなったのであろうか。
坂本竜馬の口利きで薩長連合が成立したのも土台には薩摩の斉彬から引き継がれた開国の姿勢が貫かれていたことにある。
このことから振り返っても「富国強兵」という明治初期以来の概念は、斉彬が煮詰め創出した「富国強兵」の概念とその実現具体化の姿勢が生み出した所産といえるのではないだろうか。奇しくも訪問した日が、東京で「九州(鹿児島が事務局)と山口
の近代化産業遺産群」世界遺産登録の会議が行われていた。そして翌日9月25日、指定される予定の異人館を訪ね、イギリスからきた紡績指導の技術者の住まい見て、その後西郷隆盛顕彰館と墓前を訪ねたら前日24日は命日で墓前は花がいっぱいだった。
二日間鹿児島に滞在中タクシーに何度も乗ることになった。その度に運転手さん一人一人がまるで自分の家族のことを語るように、郷土の歴史や数々のエピソードを詳しく語ってくれた。鹿児島の人達の島津藩・郷土を誇りに思う気持ちが伝わってきた二日間だった。郷土を愛する人達の言葉は、真摯で訪れる人達の心を打つ。薩摩と長州(大和先生の生地)が日本を開く歴史的必然性を体感する旅だった。