■理念探究会82
◎今何故脳力開発か?
中国、撫順の監獄での体験を元に城野宏先生が開発した脳力開発の指針は三分野十一項目ある。
三分野は一精神的姿勢の確立、二思考方法の整理、三実際知識の拡大で構成されている。今回は特に主体的な姿勢をつくるに重点を入れた研修を行った。六月末から七月にかけて三社で脳力開発の研修を行った。
■リブドウコーポレーション・主体的な姿勢を確立する。
大卒八名の脳力開発研修を行った。新卒三カ月研修の一環で。個人的な生き方、仕事をする上での根本的な姿勢「主体的な姿勢を確立する」ことを中心にして研修した。
主体的な姿勢の反対は人に頼る姿勢。その特徴を三点挙げると
一、不平や不満を口にすることがある。
二、自分にとって都合の悪いことは、周りや他人の所為にする(転原他在)
三、自分を取り巻く周囲環境(家庭環境、職場環境、社会環境)に影響され、流される。
この三つの視点から現在の自分を振り返ったときに、これらの症状を正直に自覚できるとしたら、それは、まだまだ、現状では自分自身が人に頼る姿勢だということです。
私は東京での営業活動体験で連続三年全国一位のあと、自分の計画した目標が達成できない時に、今での成功体験にしがみつき、低迷した時期を二年近く過ごした。試練のときだった。その間は振り返るも文字通り、上記の三つの症状そのものであった。そのとき城野先生にお会いして教えられた、
一、今の状況変えていく原動力は自分の中にある(転原自在)と、どんな時にでも考え、取り組む姿勢を鍛え強化する以外には問題解決はできないという真理を体感させてもらった事だ。そしてに、自分で自分の目標を設定して、自分で納得できるまで取り組むこと。
私はこのことを私自身の失敗例を通して語り、理論とケーススタディーで参加者と取り組む。そして主体的な姿勢をいかにして強化、確立するかの方策も考える。この姿勢の確立が、自らの将来の人生を豊かなものにするかをともに考えた。平行して目標設定の仕方を(情報統合技術を駆使して)丁寧に熟考体感してもらった。
仕事とは、今の自分を取り巻く条件を活用して、新しい条件作り上げていくこと。自分がきめた目標(納得して決めた)の達成体験の積み重ね以外にはない。
■リブドウの大卒研修
ー環境整備に力を入れている(有)フアインー
鯖江にあるこの会社は創業十年を機に、ここ数年「環境整備」に力を入れている。この会社は社長が学生時代からバスケットをやっていて、創業も社長藤井高大氏のバスケの仲間と二~三人で立ち上げ、メガネのフレーム特殊印刷をやっている。以降、バスケの好きな仲間が増えて社員十余名の現在では八名程度が今も仕事の合間にバスケを楽しんでいる。先日も「そうじの力」主催の総会を鯖江で開催したときに幹事会社として活躍した。イメージで言えば著名なスポーツ関係のパタゴニアを彷彿とさせる。全員がバスケか好き。
社員のレベルは高い。十周年をすぎて次へのステップへの挑戦として環境整備に取り組み、社長は、進化経営学院で定期的に企業理念探究に取り組み始めている。
今回はズバリ、全員転原自在をテーマに脳力開発研修を行った。流石に、バスケで結ばれたチームだけあって、主体的な姿勢と人に頼る姿勢の根本的な気づきは早かった。
まだまだ、自分が人に頼る姿勢であることを自覚し、次のステップへの各自の目標設定を決めた。この自覚のレベルは、一般的な会社の社員とは違う。感想文とその後の社長の報告で確認している。実行しているかどうかを定期的にチェックして相互に啓発し続けることだ。社長からの毎月の理念探究会での報告を楽しみにしている。
■フアイン研修
ー恵那・第二十二回脳力開発研修ー
鯖江からの帰途、恵那で第二十二回脳力開発の研修をやった。気がついたらもう足かけ二十二年以上恵那に通い続けている。今年も二十一世紀クラブの主催で高校新卒の八名と大卒三年目一人。
今年の恵那の研修はまた取りわけ印象に残った。テーマはこれからの会社生活で如何に自立人として生きるか?端的に言うと恵那の地域の新人の研修は、基本的に希望を感じる。何故かと言えば地域的に変に世間にすれた人達が少ないということが第一にある。また、参加企業は「日本掃除の会」に縁が深い企業であることもその要因だ。
入社した翌日から習慣化された職場や地域の環境整備が当たり前になっている。当然、新人は何故環境整備をするのか、理解しているわけではない。しかし先輩諸兄はそれが当たり前かのように毎朝の環境整備から仕事が始まる。東海神栄Gは一週間に一度は朝7時30分からの一斉環境整備も組まれているようだ。
高校を出たばかりの彼らは、熱心に私の話しに耳を傾け、ともに考え自分自身を振り却っている。学校生活と社会人としての生活の違いを今実際に体験している。そして仕事も実は、勉強(目的)に取り組む姿勢と段々気づいてくる。入社3カ月の彼らに、5~10年先の上極来果(可能な最上級の未来)をイメージしてもらい、その未来から自分の現状の中の問題点の発見をする。彼らにとっては未来から現在を見ることはあまりない。クラブ活動などを通じて3年位先を予測するケースはあるようだ。これを会社生活のなかにも応用する。二日目の研修は、将来の目標の立て方を順を追って体験してもらった。研修終了後の彼らの顔をさわやかだった。
■緑むせる創造・久世家の教育・三人の娘たち
久世さんには娘が三人いる。今回は長女歩さんと三女「あも」さんのインタビューを中心に紹介したい。次女阿利さんは酪農家に嫁ぎ、今年二人目の子供が産まれた。
歩さんは、チーズづくりを担当して14年目を迎える。
1982年兵庫の山奥に移った当時の生活を振り返る。標高600メートル。前後して入植する人がいた。結局4家族で地元の人たちは3家族の合計7家族の村だった。亮7歳と歩4歳。兵庫で暮らした当時動物を飼いたいと思った。山でとってきた猪の子供と人になついた鳶がいた。どこかに行くときは付いてきた。鳶はいたずらをするようになって、そのうち逃げて行った。家の前には小さな川が流れていた。水がきれいな川だった。
学校は行かなかった。勉強は亮兄さんのように漫画の本を読んだ。家には名作世界文学全集のようなものがあって、ひらがな振ってあったのでみんな読んだ。漢字はまねして書いていた。入植した当時お友達と一緒に本を読んでいた。絵も描いた。わからなかったらお父さん、お母さんに聞いた。とりあえずお兄ちゃんに聞いていた。
北海道に来たのが11歳。北海道に来て馬を飼いたいと思った。最初はポニーを飼った。乗りたいと思ったが、躾けがうまくできなくて乗れなかった。その後、道産子を飼った。乗せてくれるまでにはならなかった。北海道にきたときには親子5人と友達の岡本哲郎兄妹が一緒だった。お兄ちゃんが音楽好きだった。いろいろ仕入れてきて教えてくれた。兄弟はみんな音楽が好きだ。結婚したのは6年前29歳のとき。ご主人司さんは札幌で働いていた。豊富に帰って来た時に結婚した。仕事は牛削蹄士。共通の趣味は音楽。バンド演奏をしている。コピーバンドをやっている。
ロックが中心だ。二人で年間好きな演奏会やライブにはスケジュール組んで出かける。
■チーズづくり
2000年工房ができた。3~4年後チーズを作り出した。チーズをやりだしたのは25歳だった。当初はうまくできるまでなかなかできない。うまくいったときのことを思っても、同じようにできない。10年ぐらい経過している。近頃は無心に取り組んでいる。食べてみてうまくできているなあと思う。10年を振り返って見ると、最初は右も左も分からずにチーズづくりに入った。最初はお父さんに教えてもらった。やり方を教えてもらったら一人でやった。そのとき習いにきていた近所の奥さんと相談しながらやった。
その後、一人になると、自分のやり方がだいたい決まってきた。一回に一種類というように回数を増やすとか、いろいろ計画的にやるようになった。販売まで自分一人でやっていた。妹の「あもちゃん」が帰って来て、接客は話し好きな彼女とやっている。
6種類をつくっている。1、モッツェレア(あっさりしたフレッシュタイプ)2、リィシリ(白カビ菌を入れたタイプ)3、レブン(セミハード系)4、さけるチーズ5、エベコロ(ハード系熟成6カ月以上)6、ヤムワッカ(セミ・ハード系・ゴーダタイプのチーズ)
■今後の目指す方向
一、今後はチーズのクオリィーをあげたい。
二、エベコロは自分の味(好きな味)を出したい。
三、将来的には貯蔵庫を大きくしたい。自然熟成庫を創れたらと思っている。
長期熟成をして独自の世界を創ってくださいとお願いしてインタビューを終えた。
◎親は子供の意志を本心支援する覚悟が問われる
人間が成長するとは?教育とは何なのか?
三女あもさんはカフェ・レティエを担当している。彼女は北海道に来て生まれた。一人娘ひなた二歳がいる。「あも」さんの半生は実に面白い。あっけんからんとした明るさに満たされている。教育とは何なのかということを考えさせられる半生だ。
久世さんの離婚とともに、彼女はお母さんについて中学2年で札幌に移住した。お母さんと札幌に移ってから高校2年生の時まで住んだ。5歳まで豊富に住んでいた。その後、牧場の移転もあって沼川に変わった。同級生が一人しかいなかった。田舎だけの世界では生きたくなかった。勉強しないで中学2年から遊んでいた。勉強が嫌いだ。札幌で転校した学校はあまり偏差値の高い高校ではなかった。
定員割していた。本人曰く馬鹿高校だった。鑑別所行き一歩手前金髪、ヤンキーがいた。喫煙すると直ちに停学、落第しても退学だった。入学しても半年で半分いなくなった。単位が切れて退学というケースが多い。
勉強はしなかった。早退、遅刻、毎日夜遊んでいた。母は仕事でかまってもらう時間もなかった。
一応退学は気をつけて、理科の先生に毎日単位は大丈夫かと聞きに行った。お金はお母さんにもらい(養育費の中から)お父さんにも時々もらっていたから、あまり不自由しなかった。
札幌にいったら友達の輪が広がった。友達が増えた。毎日遊んで学校に行った。2年生のとき理科の単位が引っかかった。理科の進級試験は難しく留年か、転校か、辞めるか?。
お母さんは豊富の高校に転校したらは薦めてくれた。お父さんに相談した。「学校をいかなくてもよいよ」と言った。遊び過ぎたから「もういいや」と想い17歳で豊富に帰って来た。17歳だった。帰った当時はまだすこし遊んでいた。工房レティエで姉さんと仕事をした。2007年ごろはネット販売が最盛期で忙しかった。凄い注文が来て仕事を辞める、辞めないという話ではなかった。てんてこ舞いの状態だった。
2010年4月カフェをオープンした。ネットのお客さんは、レティエに来る訳でもない。お父さんは歓迎しない。来てくれるお客様を大事にする考えだ。そのころ一時的なブーム・ネット販売も下がってきた。それまでお客さんがきても、話ができる椅子がなかった。2010年4月カフェをオープンした。2010年の秋。アイスを担当した。
■お客様を選ぶ権利
こんな田舎にまで来る人は相当大変だしお客様も期待している。この辺鄙な場所に来てくれる人は来たいという意志をもっている。父が言う。「お客さんの足を見なさい。足が正面を向いていない人は本気でない。来たいと思って現実には来ていない。だから私たちもそういう人とはつながらなくてよい。お客を選ぶ権利もある。」
お客様と話をしていることが自分でも好きだ。私たちのアイスやチーズをつくる意図やよさをわかろうとしない人には話しもしない。ブログをやっている。ブログは面白い好きだ。お客さんやいろいろな人が私に相談してくる。私の失敗や挫折の体験が役に立つこともある。
北海道を旅するバイカー(バイクに乗る人)のブログでレティエを紹介してくれる。手作り、絞りたての亮兄さんの牛乳を使っている。製造して販売している店だ。卵も違う。有精卵だ。豊富に1カ月住んでいる人がいる。アトピーの人での泊まれる豊富温泉の近くで湯治にきている人が紹介してくれる。地元の人がレティエの情報を知っていなかった。私たちは家族経営だけどなにを考えてやっているかを知らない。無添加にこだわっている。チーズの本来の味を知らない。それが悲しくはフェイス
ブックを始めた。一〇〇〇人が見ている。
■バスツアーと探して訪ねてくるお客さん
シーズンには20人ぐらいのグループで来る。何故か若い人もいる。不思議だ。日頃接している人とは違う。定年後のツアーの人たちもくる。工房レティエ日本最北端のチーズ工房でお買い物を楽しんで、ジェラードを食べる。来てくれた人に父が30分ぐらい話す。私たちを見て、どうしてこんなところで若い人がやっているのか関心を示す。
情報をみて来てくれるお客さん、自分で来る人は営業している場所を探さないとわからないが、探してきてくれる。日頃こういう人達に私は接している。私は発信するのが面白い。フェイスブック、ツイッターでやっている。工房レティエでアクセスできる。お客さんとつながる事を大事にしたい。
2014年のこの夏、昨年秋以降、また訪ねた。カフェ・レティエはこの夏、新しいメニューのカレーインサーロインとビーフブレッドを主力に張り切って9月過ぎまで休日なしの営業をしている。お店が終わって「歩」さん「あも」さんと娘「ひなた」さんと豊富ホテルの温泉を楽しんできた。その間、久世さんが焼き肉の用意をしてくれていた。みなで乾杯をして最上級のヒレの焼き肉を楽しんだ。この間の変化は?と聞くと「離婚しちゃった」とこれ又あっけんからんと話す。スッキリした。多くは聞かな
いが変わらず明るい。
「人生のどんなこともそれを楽しい溌剌とした題材として捉える。楽しみの人生を歩むか悲しみの嘆きの人生を歩むかが人生の転機だ」と私の師である城野先生は教えてくれた。久世家の子供たちの生き方は正に一人一人が楽しみの人生を歩んでいる。長男亮、長女歩、三女あも、三人とも独立経営者の考え方だ。
■学校教育とはなになのか?
その後娘さんたちが帰宅してから、教育とは何かとお昼からの久世さんと話の続きをした。学校教育とは一体なになのか?その部分だけを捉えて話してみても本質は見えない。戦後私たち受けた教育は次第にあるパターンができて、子供の自主性は失われていく。江戸時代の寺子屋の様な形はとっていない。
戦後の荒廃から立ち上がる過程で競争という概念にとらわれてきた部分が多い。それが今の学歴偏重と考える力を持たない子供や大人を生み出している。久世さんは子供の意志を尊重した。長男亮さん長女歩さんは全く学校に行かなかった。町の教育委員会や役所の圧力もあったが、子供の意志を尊重して学校に通うことを子供たちに強制しなかった。彼は牛を飼い農業に親しむ生活の中で自立する子供を育てをしてきた。高校までは一応行きたいと本人が希望すれば支援した。次女は高校を出て、札幌で働きそして故郷に帰り、縁あって酪農家の息子に嫁ぎ二人目の子供に恵まれている。
三女は一般的な視点から見れば親の心配が絶えない学生時代を過ごしている。しかし中退して故郷に帰ってからの生き方はまるでマグマが爆発するかのようなエネルギーに満ちた生き方をしている。彼女は久世さんがいま関わっている幌延の核廃棄物研究所に関わる動きにも関心が深い。考える力を鍛えている。
子供はある意味で、親の生き方を反映している。歩さんの生きている姿、あもさんの生きている姿を見ると、学校を卒業すると勤め人になり就職し、安定と信じている生き方を選ぶか、彼女たちの様に自ら切り拓いて思いも寄らない人生を歩むか親として何とも言えない。親が子供を支援するとは一体どういうことなのか?と更に考えさせられるインタビューだった。