◆理念探究会80
■高松脳力開発研修
五月中旬、高松で中谷石材グループのここ三年新しく入社され ている人達を対象に脳力開発研修を実施した。情報統合研修(I AT研修)は中堅社員には定期的に開催しているが、脳力開発研 修は久しぶりの開催になる。私の人生の転機になった城野宏先生 の教えの神髄が散りばめられている。 人間を一本の木に例えてみたら、脳力は木の根幹の部分にあた る。そして能力とは枝葉の部分に例えることかできる。要するに 能力はその表面から見えないが逞しい根幹に支えられてこそ全体 として力を発揮できる。学校教育は能力開発を目指してきた。 しかしその土台になる根幹の教育は、戦後特におざなりになって きた。私もその弊から逃れることはできなかった。そして先生に お会いして自分自身の根幹がキチンと成熟していないことを認識 した。以来私が変わったのはその根幹である所の「現状を変えて いく原動力は自分自身のなかにある」ということの認識と、その 後の人生での実践にある。 今回は一日研修であったが、十八歳の新入社員から三十五~ 六歳の転職した社員も、楽しみながら学んだ。脳力開発の研修は 楽しみの中で気づいていく。中谷石材グループは「社員の使命探 究を支援する」ことが経営姿勢のなかに謳われている。
■第十一回次世代型経営者養成塾開校
養成塾ジュニアクラスも第十一回目を迎える。今回の特徴は四 名の参加者の内三名が女性だということだ。受講生四名に講師 三名の贅沢な授業が養成塾の特長でもある。正に江戸時代の私 塾を想定している。参加者の紹介をすると、男性はある理念企 業(私が理念制定に関わった)の執行役員で組織開発・風土改 革担当。一人の女性は二年目で筑波大学大学院出身のデザイ ナーで起業を志している。 もう一人は同じ年頃の韓国生まれで筑波大学大学院出身、 現在小見玉市の広報担当として仕事をしている。日本語は非 常に堪能。漢字を読みこなす力は最近の日本人をはるかに超 えている。しかも賢い。この賢さは最近の日本女性とは異質だ。 先日、彼女のおばあさんとお母さんが日本を訪ねてこられ たとき、モラの美術館を見学された後、デッキでお茶をのみ、 折角だから我が家で夕食を食べることにした。その夜おいしい 常陸牛のすき焼きをつつきながら話をし、最後に私がアリラン をいい加減な韓国語で歌ったら、お祖母さんが喜んでくださり (日本語がすこしだけ話せる)後からちゃんとした韓国語の発 音に直してくれた。韓国の今の政権には反対だと娘さんは言っ ていたが、私自身も韓国に関しての勉強を楽しみにしている。 後一人が山口から来られる。子供三人の母親。ダスキンの家 庭市場のリーダー。この人が流石に、キチンとできた人でかつ 向学心の燃えている。
■鹿児島尚古集成館に見る島津斉彬の志=使命感
寛永六年一八五三年のペルーの来航は大きく日本の歴史を変 えることになる。寛永四年、薩摩藩藩主になった島津斉彬は イギリス・フランスなどの西欧列強のアジア進出に危機感を抱 き、日本を西欧列強のような強く豊かな国にしなければ日本 も植民地にされてしまうと考えた。藩主に就任した斉彬は、 この考えを実現するため、集成館事業という富国強兵・殖産 興業政策推進した。事業は、造船、造砲、製鉄から紡績、 ガラス、印刷などの産業の育成、電信、医療、福祉など社 会基盤の整備にいたるまで、さまざまな分野に及んだ。 更に、薩摩藩だけが豊かになっても意味がないと、他藩の近 代化、工業化を支援した。日本全体が一丸となって近代化、 工業化に取り組むべきだと考えた。 一八六三年八月生麦事件をきっかけに薩英戦争が起き、薩 摩藩はなんとかイギリス艦隊と互角に戦った。このことで、西 欧の軍事力、科学技術の凄まじさを見せつけられた薩摩の人 達は島津斉彬の考えが理解できるようになった。
■薩摩藩が派遣した留学生が明治維新後の社会で活躍した
一八六五年、薩摩藩は十五人の留学生と三人の使節、一 人の通訳を密かにイギリスに送り込んだ。 これは、藩主・島津斉彬の発案・布石によるもので彼は「西 欧の近代的な技術を学び、豊かな強い国をつくらなければ、 いずれ日本は列強に支配され、植民地化の道を辿らざるを 得ない」と考えていた。留学生の派遣は打開に向けた一つの 布石だった。 この構想は安政五年・一八五八年斉彬の急死により一旦 頓挫したが、七年の時を経て五代才助(友厚)の建言によって 、遂に実現されることになる。文久三年・一八六三年の薩英 戦争に参戦し捕虜となった経験から学んだ五代は、長崎で 英国商人トーマス・グラバーと懇意になり、海外情報を得な がら開明理論を構築していった。鎖国下の幕末の海外留学 ――イギリスへの出国は国禁をおかしての密航である。幕府 の目をくらますために、全員が変名で呼び合い、琉球出張の 名目で鹿児島を発ったのは慶応元年一月であった。二ヶ月後 、グラバー商会のオースタライエン号に乗船し、羽島浦を発っ た。 留学生たちは、大英帝国が繁栄をきわめたビクトリア王朝 時代のイギリスを目の当たりにした。「世界の工場」といわれ た近代産業と、市民が選挙権を持つ社会がそこにはあった。 留学生たちはロンドン大学で勉強した後それぞれの道を歩み 、日本に帰った若者は明治維新の政府の中心として活躍し た。この事実も島津斉彬の思いから始まった構想の実現だっ た。 今回の鹿児島訪問で一番の収穫は「大政奉還、明治維新 そしてその後の日本の歴史はこ薩摩にその源流があったのだ と直感した」ことだ。この話を大和信春先生(萩の生まれ、理 念探究会の指導をしていただいている)に話した。先生も深い 関心を示され、この秋に再び二人で鹿児島を訪ね尚古集成 館の視察をすることにした。 今回は望月照彦先生のご紹介をいただき集成館館長のお話を聞 くことも計画に入れている。長州と薩摩の深い結びつきも考えて みた。