理念探究会76

◆理念探究76号
■その一・新しい「幸福」への思索
 時代が変わっていくことは老いも若きも段々実感している。定年を迎えた団塊の世代(私の弟も丁度団塊の世代)もこれから生きるであろう十五年から二十年を一体どの様に暮らしていくのか、明確に描くことができない。年末に日下公人の「これから幸せ12章」を目にした。その中から、日頃思っていることを抜粋してみた。

一、日本の経済余力(貯蓄+支出能力)という物差しを作ってみるとすれば、日本は世界最高で、アメリカの経済余力はマイナスになり、オバマは世界から撤兵を始めた。
二、日本にだけ負担力があるという情況から、カネに飢えた世界の目は日本に注がれ、世界は日本にどうしてカネをださせようかといろいろな手を打ってきた。
三、日本人はそういう情況を知ってか知らずか「まだ自分は貧乏だ」とか「老後の不安に備えてもっと貯蓄しなくては」と考えて働き続けている。いったい人間の幸福はおカネの山の上にしかないものなのかどうか。この辺で一度、日本人はおカネを通して見える幸福ではなく、別種の新しい幸福を探す必要がある。

「カネさえあれば・・」の時代は終わった
 おカネはいくらあっても邪魔になるものではないが、儲けるために全精力と全時間を投入していると、結局、それを使う時間もなく、能力もなく、最後は使う気もない人間になる。預金通帳の残高を見てこれだけあれば安心と思うのが人生の目的で趣味だという人間になる。そういう人が大部分を占めると「貯蓄過剰社会」になる。

「心の自由」を取り戻そう
一、戦後日本人は自営業者になるよりは被雇用者になることを喜び、終身雇用の慣習を信じて働き、その結果、会社は発展し当人も終生幸福だったというのが会社人間が量産された背景である。
二、我々はこれまで不幸の原因は貧乏であると思っていた。豊かになれば自動的に幸せになれると思い込んでいた。だから人々はまだ幸せでない以上、豊かになったというのは間違いで、本当の豊かさは別にあると考えている。
三、日本は過去との比較でも、海外諸国との比較でも、大変豊かになっており、現にそういう生活を享受している。しかし多くの論者は、日本はまだストックが足りないとか、時間の余裕がないとか「まだ貧乏」説の材料集めに精を出している。世界各地の人々の生活を見れば分かることだ。

■これからのサラリーマン
一、サラリーマンの不幸は深刻な問題である。経済的には昔は恵まれていたが、いつのまにか勤労者世帯は、農家世帯より収入も預金でも低いと統計に表れるようになった。今はサラリーマンが一番早く起きて電車に駆けつける。会社がどんどんサービス産業に進出するから土曜、日曜に働かなくてはならない人が増えている。
二、昔は就職する学生は広い社会に出ていく前途に備えておおいに勉強し、日本経済や世界経済を論じあった。しかし今の就職する学生には夢がなく理想がなく志もない。有名会社に就職する方法とかコネづくりしか思いつかない。
三、雇用されているサラリーマンは資産の蓄積ができない。会社の給料だけではいくら働いても昇給しても高率の累進税でもっていかれるから残らない。サラリーマンはどんどん貧しくなっていくことに気がつかなければならない。会社が成長してもサラリーマンは肩を叩かれれば一貫の終わりである。以上。

 さて、以上の抜粋を見て一体どう思われるか。出光佐三を描いた「海賊と呼ばれた男」はかつて志を持って生きてきた経営者の姿を描いている。私は養成塾の人達全員に宿題として昨年読んでもらい、各自ポイントレビューをしてまとめてもらった。彼らは「日本人として誇り」を持って仕事に取り組んできた。当時、日章丸の快挙は新聞で目にした。団塊の世代は知っている。しかし、一方で高度成長の波に乗った。そして生き過ぎる時代を迎えて、迷っている。「仕事は何のためにするのか?」と問うたとき、一つは「生活の資を得る」ためそしてもう一つは仕事を通じて「世のため人のために役に立つ」ことだ。私達は世界から見れば既に豊かな経済余力の時点に達している。あらたな生き方の問いかけをする新年になった。次号で若い世代の人達のことを考えてみたい。

■その二・新年度経営計画熟考会
 毎年新年を控えて、十二月二五日から三日間の経営計画熟考会を開催しています。そして新年三日から暮れに参加できなかった人達を対象に天命舎で行っています。昨年私の計画検討合宿の中で、関東と関西での開催というアドバイスをいただき、暮れには天命舎でそして年明け一月一〇日から彦根で開催することにしました。暮れには、養成塾に参加している女性デザイナーと近くの小見玉市の広報を担当している韓国人李(イー)さんという女性が参加してくれました。合計一〇名。二〇代後半から最長六五歳。いずれも経営者と経営者を志す人達です。
 李さんはとても素晴らしい可能性の溢れる人でした。筑波大学大学院に留学して以来日本に五年滞在しています。小見玉市の茨城空港の関連した活動が主たる職務です。理念制定者の社長は五名。そしてこれから創業される人達が5名。老若男女の集まりで中味のあるものでした。その後、李さんは年末韓国に帰国。友人たちとも話したそうですが、日本で実務の勉強、そしてゆくゆく創業も視野に、李さんは五月から進化経営学院の次世代型経営者養成塾に参加される決意をされました。

 彦根の会場は、近畿、中四国、静岡から八名の参加です。ここは三〇代が中心で、理念制定者は二名、残る六名は現在理念探究中の面々です。早朝、会場までの道中、参加者のみんなは凛とした空気の中で冬の琵琶湖と雪をかぶった対岸の山々を眺めながら大いに刺激を得た三日間でした。

 食事は二日目の夜は、私が大学時代にしばしば通いお世話になった「とり卯」での食事、そして帰り道は喫茶「らんぶる」に寄って、水割りとビールで今でも元気なマスター(八〇歳近い)と学生時代の話もしながら、楽しい一時を過ごすことができました。
彦根育ちの妻善子と共に懐かしい三日間を過ごしました。

 まさか、こうして大学時代に学んだ彦根の地で若い人たちを対象に経営計画熟考会が開催できるとは思いもよらない喜びです。学生時代と違い、実業に携わりこれから企業理念を探究制定しそして如何に社会に役立ち貢献できる企業として活動していくかという志を持った若手経営者と共に学べることの喜びを感じた会になりました。今年から毎年開催することになります。後一〇年はしっかりと若い経営者と共に彦根で私自身の理念の実践に励みたいものです。

 感想文の一部をお知らせします。
「初めての土地で初めての方とも出会い初めて参加される方もいて大変新鮮な気持ちで、みなさんのお話も聞けて大変勉強になりました。社員を採用し共に仕事を始めて最初の熟考だったので、これからは共に働く人のことも考えた良い計画でできました。」(会社社長)

「何度も研修に参加しましたが、今回は一番の満足度の高い会になりました。今までは「名ばかりの経営者」でしたが、今日からは「社長になる決心をした」上で自覚のある行動をとっていきます。(女性経営者)

「昨年の今頃は、まさか三一歳の誕生日にこんな研修を受けているとは想像できませんでしたが、素敵な縁に恵まれ、良い時間を過ごすことができました」(大阪・若手社長)


理念探究75号

◆理念探究75号
■その一・理念に触れる台湾の旅を振り返って
 養成塾で学ぶ、学んだ受講生たちと、台湾を訪ねた。

東日本大震災後の旅
 振り返ると2011年東日本大震災の後、例年のヨーロッパへの旅を中止して、台湾への旅を企画した。目的は烏山頭ダム建設に貢献した八田與一氏を訪ねることがテーマであった。彼についてはMランドの新聞で小河会長が書いた一文が強く脳裏に残っていた。二・二八記念館を訪れて、台湾の歴史の隠された一面を知った。帰国後、憑かれたように台湾の歴史を学んだ。二・二八事件で新聞社を経営していた父親を殺された阮 美妹「台湾二二八の真実」から始まって、入手できる資料を調査、収集し読みこん
だ。その本は30冊あまりになる。

■知らない歴史
 台湾の歴史について如何に無知であるか、改めて歴史を学ぶ大切さを知った。司馬遼太郎の「台湾紀行」で台湾の歴史の概略を知ることができる。台湾民主化に多大な尽力を尽くしている李登輝を知った。
李登輝の政治信条は「天下は公のために」である。「台湾に民主主義を根付かせる事が至急の命題だった。それが何よりも台湾のためだ」と考えた。「政治家は国のためなら権力をいつでも放棄する、そういう覚悟が必要だ」と考えている。
李登輝はこの信念・使命感で政治家として役割を果たしてきた。その考えの根本は自らが学んだ「日本精神」だという。そして日本人に誇りを持てと叱咤してくれる。最近では李登輝訪日「日本国へのメッセージ」、「誇りあれ、日本よ」等の著作で日本人としての誇りを持つことの大事さを伝えている。著書「武士道解題」はよく知られている。

■時代を生きた人達
大学の先輩に李登輝と同じ時代を過ごした台湾在住の先輩がいることを知り、何度目かの機会にお会いした。先輩は昭和18年12月月学徒動員で入隊される。李登輝元総統とは大阪師団に入隊し、すぐに台湾高雄の高射砲第162聯隊転属し、中隊は李宏道先輩が4中隊で、李登輝は5中隊だったとのこと。幹部候補生になってからは一緒に千葉の学校に入り、終戦を名古屋で迎えた戦友である。「台湾紀行」に出てくる人物の中で白色テロから李登輝をかくまった何既明は中学が同期でした。現在88才。奥様は昭和元年生まれ李林雪枝といわれ、矍鑠とされ、お二人ともお元気な様子に驚きました。勿論流暢な日本語で、色々なお話をお聞きすることができた。李宏道先輩は非常に残念ながら今年(旅行は平成25年)の初めに突然逝去され、今回の旅で奥様にもお会いできなかった。

■民主化に尽力した台湾人
奥様の弟さんは、李登輝と同級生で共に台湾の民主化に奔走し、捕らわれ脱獄した明敏の教え子で、かつ支援者。著名な弁護士である事を知った。著書も頂いて読んだ。
明敏は李登輝と同じ1923年に台中に生まれた。李登輝と同じ180センチの長身。日本時代に三高をへて東大に学んでいる。李登輝は京大。終戦後共に台湾大学に編入し、そこで二人は会う。意気投合する。
明敏は台湾大学政治学部を卒業し、カナダのマックギル大学修士、フランスのパリ大学博士課程を終える。東西にまたがる豊富な見識を身につけた彼に蒋介石は注目する。
1961年中華民国(台湾)の国連総会に国民党使節団を送り込んだとき、顧問として抜擢される。帰国して蒋介石総統に謁見の機会を得る。しかし反体制を選択した明敏は台湾大学法学部を卒業した知性派の若者とともに「台湾人民自救宣言」を記す。
 「台湾人民自救宣言」は冒頭に「台湾は国民党でも共産党でもない自らの手になる政府を望んでおり、住民の直接選挙によって選ばれた者が蒋介石に替わって新政府を樹立すべきだ」という意味のことを記している。ある夜、互いの胸の奥にあるものについてひとこともふれぬまま、台湾の前途を危ぶみつつ夕食を共にして別れた。翌日、明敏は警備総司令部に逮捕された。その後、海外亡命。その後、李登輝が蒋経国亡き後、総統に就任する。民主化によりアメリカから帰国、2000年に総統選挙でともに立候補することになる。

■日本人が忘れた「日本精神」
 李登輝は今の日本人を見ながら、台湾人の立場から「日本精神」を忘れるなと我々日本人を励ましてくれる。そして日本人の若い人たちにもかつて台湾に貢献した日本人のことをしっかりと教えてくれる。
台湾の研究が進むにつれ、台湾に貢献した日本人・使命に生きた日本人の存在を教えられることになる。
このことから、2012年6月の理念型企業「快労祭」を台湾で開催した。

■自己に課せられた使命
 今回、養成塾で学ぶ人達に是非紹介したいと考えて、この旅を企画した。感想文を読むと異口同音に、現場を訪ねることの大事さと深い思索が記されている。観念の作業だけでは到底真実に迫れない。自らがかの地に足を運んで検証し、さらに深め、その上でさらに検証する「知と行」の作業が必要だ。自らが考え、鍛え、深め、高める営為が私たちに課せられた役目であろう。そして自己の「理念」に到達し、その後の人生を生きることがその人の「この世に生まれてきた使命」だと感じている。みなさんの更なる精進を期待している。