◆理念探究74
■緑むせる創造・久世亮氏
今回は、三日間の訪問だった。長男亮氏をはじめ娘さん三人にインタビューをした。
学校に行かなかった子供たちが一体どういう半生を過ごしてきたのか探りたいと思
った。私の質問は、まったく予想もしない彼らの体験に吹っ飛ばされ、一般的に考えら
れている学校教育のあり方を根底から崩された。学歴信仰の無力。子供たち自らが自分
の力で人生を切り開いている逞しさに圧倒された。亮氏三十八歳(入植後二十四年)、
妻三十三歳、娘一人小学六年生、現在農協の青年部(次期後継者・二十歳から四十歳)
の理事を引き受けている。小中学校合同のPTA会長も務める。
■第一章 小学校時代8歳から14歳まで
●兵庫の山の中に移るまで
芦屋に住んでいた小学校2年生のころから、あまり学校に行かなかった。喘息の病
気があり、休むと、学校の勉強についていけなくなった。みんなと一緒にやれなくな
った。両親から「学校に行け」と言われなかったこともあって,朝から晩まで毎日テレ
ビを見る生活をしていた。そのころ、兵庫の山奥に移住すると言う話を聞いた時、「行
きたい」と思った。今の学校の近くよりも遠くの学校に行きたいと思った。
●1982年兵庫の山奥に移った当時の生活
標高600メートル。前後して入植する人がいた。結局4家族で地元の人たちは3家
族の合計7家族の村だった。勉強はどうしていたのかという質問に次のように答え
た。マンガの本を読んでいた。ドラゴンボールを何度も繰り返し、繰り返し読んだ。ひ
らがなは読めたので、漢字は読みながら段々覚えた。読めるけど書けない、だから、ド
ラゴコンボールの漢字を書き写したりした。他には何もしていない。字の形を見て覚え
た。同じものを何度も読んでいた。童話や本を全部読んだ。読めないのは辞典で調べて
読んだ。親も教えた記憶もない。
●山の中での生活
朝、7時ごろ起きて食事が終わったら山や川に友達と遊びに行っていた。近所に移
住してきた友達兄妹と一緒になって山の中で遊んでいた。岡本哲郎君兄妹と金子君。
岡本君は私(亮)よりも2歳年下だった。なんでも二人でやっていた。近くに神社があ
って、日が暮れるまで遊んでいた。缶蹴り等をして。そんな遊びをしていた。友達の家
に遊びに行って夕御飯をご馳走になり、泊まって翌朝家に帰ることもしばしばあった。
それが当たり前だった。竹藪から竹を伐って竹鉄砲を作って遊んだ。後になって、自分
たちの遊び(缶蹴り・竹鉄砲)を同世代の人にも話してみても、同じ経験を持っている
人はいない。動物を飼いだして毎日が面白かった。
●全て手作りの生活
基本的に、なんでも自分たちの手でやることをしていた。久世さんも、車も使わない
ことにし、知人に差し上げたら、お返しに牛を一頭分けてくれた。肥育用の牛だった。
それが牛を飼う最初だった。まだ牛について全く知らなかったので研究した。草刈りを
して、草を運ぶことから子供たちの手伝いが始まった。稲刈りのときはお父さんたちと
一緒にやった。薪づくりはよくやった。風呂も炊いた。電気を使わない生活だった。ご
飯を作るには時間がかかる。牛が入って父が牛の世話をするようになってから、夕御飯
の支度は亮さんと歩さんがするようになった。
●火事で家が燃えた
入植して3年目に家族みんなで遊びに行って山から帰って来たら、火の不始末が原因
で家が全焼していた。家を譲ってもらい解体し建てた。大工さんに釘の抜き方を教えて
もらった。トタン屋根だったが、大黒柱も家の梁(中乗りさん)も立派なものだった。
家は意外と早く建った。でっかい家だった。屋根はトタンだった。夏に取りかかり冬に
は住むことか出来た。その経験が北海道に行って役に立つことになる。
■第二章・北海道に移住
1989(平成元年)14歳で北海道に移住
牛14頭をつれていった。綿羊二頭。鶏、チャボ九羽。全部の面倒を見ていた。実
際には、殆どほったらかしていた。寝るときには小屋に入れた。搾乳はお父さんがや
った。
入植当初の牧場福永(第一牧場・現在のレティエ)で、一緒につれてきた牛を放
牧した。16歳の頃、豊幌の牧場(第二牧場と呼んだ)を入手、50ヘクタールで牛を
飼う。乳牛35頭、子牛も入れて40頭弱。牧場牛舎で鶏をかいだした。段々増やして
行った。有精卵。最大八百羽飼っていた。卵は個人、スーパー、百貨店で販売した。一
個四十円。毎日四百近くを採卵した。
牛の世話は父親から言われたわけではない、自然に牛に接していた。「牛を飼うこと
は単調な生活だったからいやになることもあった。10代は遊び盛りだし、自分であれ
これ自分で決めて動くこともできない。」
■第三章・22歳(1997年)新規就農の道
今住んでいる沼川の離農する農家の牧場を買った。第二牧場と統合した。それまでは父
の第二牧場で40頭ぐらい飼っていた。広さは70ヘクタール。その他隣接して土地を借
りて現在90ヘクタールに広げている。
農協のリース事業で新規就農の資金を借りる
6000万円の借入をした。沢山の書類に自分の名前を書くことで、重い責任感のよう
なものを感じたが、大きな借金をするという感じはなかった。保証人は近くの知人や農協
がやってくれた。親(血縁)は保証人になれない。牧場の責任者になる決断をしてから、仕
事が面白くなった。自分が経営の責任者だという気持ちが、父の仕事を手伝っているとい
う意識とまったく違った気持ちだった。
比較的順調にスタートした。やり始めて酪農情勢がよかった時期だった。1~2年は
うまくいった。3年してうまくいかない状況に落ちいった。
●うまくいかなくなった要因は?
1、 牛の妊娠管理がうまくいかなくなった。牛乳が計画通り搾乳できない。
2、 メス牛が生まれない等バランスが悪くなった。
3、 牧草の刈り入れ、機械が故障して刈り入れがうまくいかない(労働力の不足)
4、 草を刈る機械、草を包む機械が壊れた。
赤字が出だした。年間300万円ほど。経営が悪化した。普通の酪農農家は出してい
た。
自分としては今でも赤字をだすことに納得がいかない。労働力は歩とお母さんの三人だ
った。農協もなにもいわなかった。当時実習生を研修に雇った。今から考えれば雇う必要
もないのに雇っていたということもあった。効率も悪いことをしていた。
●赤字からの脱出
最初は45頭いた牛を35頭まで減らした。しかし経営の改善はできなかった。若か
ったので、また増やしていきたいと考えた。当時農家の人は赤字になると補てんのため
牛を売ってしまうことが通常だった。自分はそうしなかった。お金は農協から借りた。
牛から搾乳ができるまで2年かかるが我慢して、年寄りの牛も長く残るようにした。牛
に負担をかけないようにして、少しずつ増やしていった。2年後3年後には牛が増えて
いった。そして収入も回復してきた。海外からの飼料の高騰があった。実習生を一人雇
った。
最初に減らしたころから5年ぐらい掛かった。こうしようとおもうと構想を父には話
していた。30歳のころだった。父は頷いていた。
借入金は一昨年2011年に完済した。昨年トラックターを買った。1000万円。
●工房「レティエ」
経営を統合した2000年頃、父は工房「レティエ」を新しく始めていた。父親の久
世君はこう考えている。自分の食い扶持は自分で稼ぐ。それで工房を開いた。誰もが自
立した生活をすることが原則だった。
■第四章・今後の展開
●健康な牛を育てたい
輸入飼料を減らしたい。穀類は牛の負担が重い。牛は本来草を食べるのに、穀類を食
べさせると負担が多い。長寿命で牛に負担のない搾乳を考えている。長い間、乳を絞り
たい。親牛の寿命平均2.43。4歳までには淘汰されるのが実態。6産7年の長寿の
牛を育てたい。今は健康な牛は50頭。これを3年以内に60頭にしたい。
固体観察に手間をかける。良く牛の状態を観察することが大事だ。このことは年間
を通じて仕事の量が増えることになる。一頭一頭の識別、観察は上限一人40頭位だ。
土地の面積にあった牛を放牧できる様にしたい。60頭を個別管理するには二人はかか
る。1+1が2にはならない。1+1は1・5他。そうでないと無理が出る。家族もあ
って、地域活動がある。機械化していけば100頭も見ることかできる。しかし私のや
りたいことではない。牛舎で100頭では自分も牛も面白くない。
面倒くさいところがあるが、手をかけてやらなくてはならない。その分手間がかか
る。この個別に対応するとか観察をするとか、実習生に教えても自分の牛でないからそ
こまで観察しない。見ない。見えない。
実習生本人に情熱的なものがないと仕事は勤まらない。ただ仕事をやってくれとい
っては駄目だ。余計な知識がない人のほうがかえっていいのかと思う。観察する、牛に
聞くことが大事だ。
最後に、明日から毎年恒例になっている旅行に行くという。毎回旅行プランは奥さん
が立てる。子供はスカイツリーの建設途中から関心を持っていた。今回の旅で出来上が
ったスカイツリーを体感したいというテーマがある。酪農する人で、仕事を休んで旅行
するのは、我が家だけだ。その間はパートの人達にお願いする。楽しみは自分たちでつ
くりだすものだと考えている。全く知らないものを見るのも大事だ。子供は大人よりも
面白い発見をする。
■管理と観察
今回のインタビューで、亮さんの言葉には、子供の頃から父親と一体になって愛情を
注いで牛を育ててきた体験と、体験から導き出した理論・原則を節々に感じる。本人は
それを信念とは言わないだろ。牛と生き、牛に対する愛情が滲み出ている。世の中で言
う学校教育で学んだ知識の応用ではない。久世氏(父)は「学校では牛の管理方法を教
える。そして学校に行くと管理を覚える。大事なのは観察だ。管理ではない。そして家
畜は飼い主に似る」と言った。