理念探究会72

■理念探究会72
 その一、理念の時代を生きる・著書

「理念の時代を生きる」 黒田 悦司 著

「理念の時代を生きる」 黒田 悦司 著

  一九九四年に創業して十九年目を迎える。企業理念「希望の人生を拓く内なる前進を支
援する」「人類の未来に役立つ人材の協働を促進する」を制定して五十歳からの創業だ
った。屋号を「くろだワークス」と定め、個人や企業の理念探究支援と脳力開発研修を中核にして活動してきた。簡明に表現すれば、個々人の使命追求の支援であり、企業においては企業理念を制定し、そこで働く人達が企業目的(企業の志)に添って働けるように支
援することに後半の人生を捧げようと決心しスタートした。
  二年後、緑に囲まれた霞ヶ浦の畔の林の中に自宅兼研修所を建てた。古くからの知人か
らは、「何故、都会から離れた不便な地なのか」という声を耳にすることがあった。二〇
〇五年に進化経営学院とMOLA美術館を建てた。毎年次世代型経営者養成塾ジュニアコ
ースとシニアコースを開催し、若手の経営者を育て、継続的に経営者として経営能力を磨
いき、かつ理念を探究してもらっている。今年で第十期生を迎えた。二〇〇九年に一般社
団法人として登記した。

  この地を「真善美の地」として森のフォーチャ構想を思い描き、そして畏友の勧めもあ
って新聞を毎月出すことにした。それが現在71号を迎えている。この中に書き綴ったこ
とを古稀の記念に抜粋して出版することにした。内容は「脳力開発」と「理念探究」を中
心に、世界をめぐる旅で考えたことなどをまとめた。創業の時「邂逅と自立」というタイ
トルで出版した。内容は企業理念の具体的実践の記録とでも言えようか。
  企業理念を制定した企業が毎年集まる「理念型企業快労祭」も昨年は台湾での開催、今
年は北海道での開催が十二回目を数えた。二十一世紀を迎え世界が大きな混沌の中にい
る。覇道型の競争原理で生きる企業は存続が困難になっている。しかし理念のある企業
は、決して人と他社と競うことなく特異貢献の世界、調和体験を積んでいる。そして自立
した次の世代の若者たちが育っている。和を基本にした互恵社会の実現にコツコツと歩ん
でいる。
脳力開発の師である城野宏先生の著書「獄中の人間学」贈呈のお礼をかねて、奥様に
お電話をした。今年は先生の生誕百年だと知った。先生が逝去されてからまもなく三十
年が経つ。最初にお会いしたとき私は三十七歳だったが、先生が亡くなられた年齢に次
第に近づいている。これからどう生きるかを突きつけられたような心境だ。先生に恥じ
ることなく生きたいと心を新たにしている。

■その二、緑むせる創造・久世薫嗣著
 何のための人生でありたいか・志に生きる

この小冊子は、久世さんが二十四年前、豊富に入植してからの実践記録である。五十
数年振りに再会した私に彼が雑誌に寄稿した原稿のコピーしたものを渡してくれた。そ
の夜、この物語に出てくる入植してすぐ、町から払い下げしてもらい、釘一本無駄にせ
ず解体して移築、建て直した家の一室に泊めてもらい読んだ。そしてこの物語を「志を
持って生きる若い人たちに読んでもらいたい」と思った。まもなく古稀を迎える人間と
家族の物語だ。
 二十一世紀を迎え既に十三年を終えようとしている。しかし益々世界は混乱し、戦後日
本人が憧れつづけた西洋文明を謳歌した欧米は、完全に行き積まっている。そして共産主
義国家ソ連は崩壊し、中国も決して安泰ではない。民主化を望んだ中近東の各国も政権を
倒したとはいえ、その後の運営は、まったく進まないのが現実だ。戦後六十八年経って、
かつての「誇りある日本人」の姿よりは、残念ながら老若男女に個人の利益を優先する卑
しき姿があちこちに散見される。ただ、東日本大震災の際、整然と列を作った東北の人達
に「日本人の誇り」のDNAが見られた。
 これは、人類が文明の発展と科学の進歩により、「繁栄」「豊かさ」「便利さ」を際限
なく求め続け、招いた悪しき結果である。物事には両方良いことはない。産業革命以来、
経営者は常に人員の削減を追求し、IT化は更に雇用の縮小を招き、二〇〇五年頃から購
買力と生産力の逆転が起きた。世界には確かにまだまだ物を購入する国もあるが、この逆
転を押しとどめることはできない。従来の産業では雇用を増やすことは将来的に不可能
だ。
 今の人類が直面している問題を解決する一つの方法として、自分の食い扶持は自分で少
しでも作る「国民皆農」が有効であるが、従来通り経済優先を第一とする人達には、農業
ほど効率の悪い産業はない。だから農業に関わる人達は世界的に減っている。戦後、日本
はその最先端を走ったといえる。中国は既に農業輸出国ではなく輸入国になっている。
 久世さんは、人間として親として子供が健康で、自立できる力をつけるために、真剣に
生きてきた。私自身を含めて、時代に迎合しないで生きることは文字通り容易ではない。
終戦間近にこの世に生を受け、よくも悪くも戦後の高度成長と学歴社会の走りを体験しな
がら、「何のための人生でありたいか」と根源的な問いを自分に投げかけながら生きた体
験は、これから人類が迎える多くの問題を解決するヒントになると確信している。


理念探究会71 

理念探究会71 何のための人生でありたいか・志に生きる
久世薫嗣君を訪ねる・第一報

小学生時代近くに住んでいた(岡山県津山市)久世薫嗣君を稚内の近く天塩郡豊富町に訪ねた。正確には五十数年ぶりになる。ここ数年利尻に通い経営合宿をしていると津山高校の友達に話した時、久世君が利尻の近くに住んでいるという話を聞いた。
 四十代半ばから、この地に移り酪農を営んでいるという。
大学卒業後関西(西宮・神戸近辺)に住み、後に兵庫の山奥に移り、牛を飼い自給自足の生活その後、北海道に移住したという。
 今は酪農とチーズづくりを軌道に乗せ、事業の大半を子息子女に継承し暮らしているという。再会して、温厚な久世君が何故、ここにこうして暮らしているのかを聞きたいと思った。

現在の家族の生活
 七月二十七日礼文を出て稚内港に予定より早くついた。彼は孫を抱いて私達を迎えにきてくれた。最初に息子亮さんが経営している牧場に案内してくれた。現地に立って眺めるが、広さは七十ヘクタールあるという。遥か果ての山の向こうまでだ。この季節、牛は放牧されている。林の向こうに放牧されている牛を写真に納める。
聞くと全頭で九十五頭いるという。息子さんは出かけていた。手書きの看板の牛舎を後に、十五分ぐらい走ってチーズ工房レティエに到着。おいしいジェラードとラクレットチーズを溶かしたパン、ピザそしてコーヒーを頂く。アイスクリームは既に通販で賞味していたが、作りたては
あっさりとしたうまみ。
 カフェテリアは不便な場所にあるにもかかわらず次々とお客さまが出入りして、テーブルで食事をする家族づれジェラードをテイクアウトをしていくお客さんが途絶える事はない。夏場は休日なし。カフェテリアは三女あもさん(二十三歳)が担当、チーズづくりは長女歩さん(三十
五歳)。次女阿利さんは近くの農家に嫁いで今回は会えなかった。彼は現在、主に育成牛と肥育牛(ジャージ牛の雄)の管理を行っている。
 久世君は孫(あもさんの娘)をあやしながら私の質問に応えてくれる。
質問は思いつくままだった。「何故ここに至ったのか?」と言うことに触れたい。質問しながら、録音器を持参しなかった事を悔いた。
その夜久世さん、歩さんのご主人、あもさん達と焼き肉を囲んだ。ホーエー豚もいただいた。それから鉄分の多い温泉に行った。二日にわたった質問を少し整理して記す。

大学時代から兵庫の山奥での生活まで
 1964年関西学院大学社会学部に入学。1965年学園闘争に参加、社会学部自治会委員長1966年全学部副委員長を務める。学園闘争のテーマは当初、バス代、学費値上げが最大関心事であった。社会学部として取り組んだ。1968年二十四歳で結婚。学園闘争中の仲間と恋愛、結婚する。卒業後、生協活動を続ける。1969年佐藤首相の安保条約改定の訪米に対して、関西学院大学生協地域部のストライキ、職場封鎖を指導。羽田へ集結。逮捕を覚悟していたが、免れる。
(注)佐藤首相訪米阻止闘争は、1969年11月16日~17日に行われた新左翼による闘争・事件。近代日本史上最大の2500人超の逮捕者を出し、1967年から続いた学生運動・新左翼運動の高揚に一つの終止符を打った。(ウィキィペディア)
 1970年佐藤訪米阻止闘争に破れ、復帰後、運動のスタンスは左翼からは離脱、中間派へと変わる。地域生協活動に専念する。
仲間の一部は運動を続けるグループもいた。
1971年「いかに生きるべきか」迷いながら関西学院大学生協から身を引き、三重県亀山に移住。絹紡糸経営の社長に会い、経営に関わる勉強をする。西陣帯の原料、繭の外側の糸を紡ぐ。1972年連合赤軍・浅間山事件・学生運動の経験を振り返り強い衝撃を受ける。会社を辞めたいと社長に申し出る。社長に慰留され、年末住居を西宮に移しながら、継続してお世話になり経営することを学んだ。

食の安全に深く踏み込む・1973年~
食の安全の問題から、農協牛乳の仕事に関わる。淡路島の牛乳を仕入れる。共同購入を企画して顧客を開拓。三年で軌道に乗せる。その後、残留農薬が発見される。子供たちの健康のことを考え、農薬のない牛乳を探す中で、北海道十勝の「よつ葉牛乳」に出会う。当時、道外は販売していなかった。関東近辺までの販売はあったが、関西まで来ると一本五〇〇円になる。口コミで広め芦屋、神戸、西宮・・・と顧客を増やす。
連合体を組織して市販の価格にまで値段を押し下げる。市販の牛乳に頼らないで生活できる。夜の十二時ごろ舞鶴に着く牛乳を神戸に運び、朝五時ごろには配達する。専従と配達の仕事に専念する。
 安藤昌益に出会う。直耕志塾の活動を開始する。(注)安藤昌益・江戸時代中期の医者・思想家。身分・階級差別を否定して、全ての者が労働(鍬で直に地面を耕し、築いた田畑で額に汗して働くという「直耕」)に携わるべきであるという、徹底した平等思想を唱えており、著書『自然真営道』にその考えが書かれている。
有機農法で作った物、生産者を見つけるために四年間全国を回る。基本方針として農民として闘っている人と共に進むことを目指した。
1975年次男・亮(あきら)1978年次女・歩(あゆむ)誕生

自給自足生活を選ぶ・離婚・1982年
 兵庫県の山奥への移住のきっかけは、本州での乳牛の飼育方法に限界を感じたことにあった。よつ葉牛乳に出逢い、共同購入を経験したが、よつ葉牛乳が牛の飼育方法を変えた。結局は企業の論理(大量生産、利益追求)により、通年サイレーションに変わり乳量を増やす。結果生産過剰に陥り、ロングライフミルク(長期間保存できる)を打ち出した。
 この時点で、自然の中で牛を育て乳を得ることに対しては限界があり自らが農業を一から始める以外に手立てはなかった。
亮の喘息のことや、子供の健康のことなどもあって、都会での生活から脱出すること、動物たちとの生活を考える。妻や子供たちとも幾度も話し合う。妻は、自給自足の生活を志す私の考えを受け入れる事ができず、離婚をする事になった。長男竜、長女かなめ(可名芽)は妻と暮らす事を選択する。今後の生活のことを考え、事業を譲る。当時二万人の顧客がいた。

子供は意志を持っている
 亮は八歳、そして歩は四歳。山奥の集落であったため、学校は遠かった。文字や計算は本で学ぶから大丈夫、学校へはいかず毎日家や牧場の手伝いをしたいと言った。
 学校に行かないことに対して、行政からの勧告や周囲の非難など様々な問題があった。自然に囲まれた環境の中で、二人の自立の為にできることをした。自給自足の生活を六年過ごす。子供たちは自らの意志で、学校に行かないで自ら学びながら暮らす。この間、子供たちは嬉々として農作業を手伝ってくれた。

一人で生きていける人間に育てる
 一般の親は子供が学校に行かないことに対しては拒否反応を示す事が考えられる。彼は、子供が学びたいと思えば学校に行かせる。通学が非常に困難な状況なかで通学させる事よりも、子供の自立を支援する決心をしていた。本人が行きたいといえば高校までは支援する。高校に行った子供もいる。いかなかった子供もいる。この背景には自身、浪人の時に父親の死に出会い、自ら体験したことが土台にある。子供の意志を尊重した。

兵庫県での六年の生活の中で縁あって再婚。1986年阿利(あり)誕生。その間住居が火災全焼。山歩きから帰ってみると家が全焼していた。原因は火の不始末だった。北海道天塩郡酪農の町・豊富に移住。
 亮十四歳、歩十一歳、阿利三歳の時「乳牛は草食動物、広い草地に育つ牛の乳が最も自然で健康的だ。しかし本州ではどうしても限界がある。
家族に安全な牛乳を飲ませたいと言う思いが、いつしか北海道で乳牛を飼育したい」という思いに変わり、考え抜いた末に、選んだ移住地は北海道天塩郡酪農の町・豊富だった。
 1989年(平成元年)家族五人で北海道の豊富町に移住。
農業をやっていきたいと思っていたが、確たるものはまだなかった。乳牛十四頭、綿羊二頭、鶏九羽と共に入植した。六年間の自給自足の体験が土台になった。
 移住当時はまったくお金はなかった。当分の間インデアン・テントで過ごした。役場で古い住宅を払い下げてもらい、解体して家族で牛舎を建てた。釘一本も無駄にしなかった。
 今も、カフェテリア、チーズ製造場の後ろに立派に建っている。兵庫県から持ち込んだ牛や綿羊や鶏の世話は子供たちが担当した。自然が好きな三人兄妹は朝早くから夜遅くまで家づくりを手伝った。家族で一生懸命力を合わせ働く姿を遠巻きに見ていた村の人達も、次第に力を貸してくれるようになった。そして入植した五月以降秋には念願の牛舎が完成した。

入植以来二十四年・人生を楽しみながら生きる
 その後、縁あって、離農する人から今の七十ヘクタールの牧場を譲り受け、二〇〇〇年には流通、販売も視野に有志であぐりネット宗谷(有)を立ち上げた。そして自分たちで作ったチーズやジェラードを販売している。この間の経過は、彼の寄稿・著作による記事に詳しく記さ
れている。妻と私はその体験記を読んだ。彼の実践は私達の心を深く捉えた。
 今回彼の了解を得て限定して小冊子することにした。親が握り拳ひとつで子供たちを育て上げる姿が、そして広く世界にも目を向ける姿が書かれている。
 この親と子供たちは共に生きてきた。再度豊富を訪ねて亮さんやその家族、今回会えなかった阿利さんにもお会いし、子供たちから見た視点も含めてまとめてみたいと思っている。妻は「北の国から」の五郎さんをイメージしながら、五郎さんよりもすばらしいと何度もつぶやいてい
た。彼の生き方を伝える為に配布したい。今回の報告はその第一報です。
■■■注目!トピック■■■

株式会社デリコム 原田社長 (仙台市) がガイアの夜明けに出演しました。

 2013年08月20日放送 真夏の自販機戦争!
<http://www.tv-tokyo.co.jp/gaia/backnumber3/preview_20130820.html>
http://www.tv-tokyo.co.jp/gaia/
テレビ東京ビジネスオンオンデマンドで登録すれば見ることができます。

必見です!。


テレビ東京『ガイアの夜明け』に取り上げられました

株式会社デリコム 原田社長 (仙台市) がガイアの夜明けに出演しました。

 2013年08月20日放送 真夏の自販機戦争!
<http://www.tv-tokyo.co.jp/gaia/backnumber3/preview_20130820.html>
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テレビ東京ビジネスオンオンデマンドで登録すれば見ることができます。

必見です!。