志に生きる(ヒマラヤ大壁画に挑む)

志に生きる(ヒマラヤ大壁画に挑む)
 今年四月、六本木の画廊で郷里の先輩の紹介で田渕隆三氏の作品展にお伺いした。高校の先輩である。飾られた数々の絵を見ながら、非常に強いエネルギーを感じた。このあとヒマラヤに絵を描きに行くと仰っていた。その会で小品を二点求めた。同行できなかった妻にも是非会って貰いたいと思った。そして七月、ヒマラヤから帰国して、作品制作に余念のない田渕さんを、善子と二人あきる野の美術館・工房に訪ねた。数々の作品に目を輝かせて見入った。昼食を交え夕方まで溢れ返るエネルギーに満ちたお話を聞かせていただ。記念に善子の顔も描いて頂いた。また、作品を二点求めた。「カトマンズの太陽」と「エベレストへ街道を行く・最高峰への道の道」。いまわが家を訪れる人達を迎えている。
 今年五月に続いて十月秋のヒマラヤから帰国されたばかりの田渕さんの作品展を見に行った。今までは4200メートルでの制作、今回は5600メートルまで登られ、その地でヒマラヤ三山を描かれた。早朝から氷点下18度の中で5~6時間制作に没頭される。その迫力は形容しがたい。高地順応をしながら、登られ、しかもその地でヒマラヤの山々を描かれる。想像を絶する世界だ。田渕さんは四年後にはオランジュリー美術館のモネの睡蓮の大壁画のように、ヒマラヤの山々を90メートルのキャンバスに描かれようとしている。その構想は着々と進んでいる。
 絵画の評価は作品よりも、画家の名前によって評価し、後世の人が、時に法外な値段をつける。経済的な評価が作品の価値であるかのように錯覚する。私たちの好きな田中一村もゴッホも生存中は世間から評価されることはなかった。死後、その作品は異彩を放ち、命を懸けた作品のエネルギーは沢山の人達に希望や勇気や生きる力を与え続けている。
 田渕さんを突き動かすものは何か。若くして会った師から「見える通りに描くこと」と教えられた。「私にはこう見える。ここに個人の確立がある。さらに見える通りに描くことは果てしない我が良心との闘争である。良心に添って行動することは我執ではない。道理のうちに自我を没することである。」(2001年著書・光の朝より)

 「自然の美しい調和を感じる能力が人間には備わっています。自然や物を自分の目でしっかりととらえて、その心を形にする事が「美の創造」です。、、、山は偉大にして神聖なり、人間は偉大にして美の創造者になった。」(2008年著書・ヒマラヤの風より)後四年、90メートルの絵が完成する日を愉しみにしている。志に生きる姿を見たい。


Mランド朝のトイレ掃除

Mランド朝のトイレ掃除
 ここ行方に住むためには車の運転がどうしても必要となり、十五年前、島根県益田市にある益田ドライヴィングスクール・合宿二十日間コースを受講しました。現在はMランドと名前を変え全国から年間六千人の人達が車の免許取得のためにやってきます。緑いっぱいの自然の中、どのインストラクターも爽やか親切で、五十歳を目前にした私でも心配することなく受講できた事を覚えています。
 三年前に一度訪れたのですが、小河会長の想いがどんどん膨らんでアイディアいっぱいのMランドを拝見し、単に車の運転技術を教えるのではなく、人育てをしている場を拝見し「ここの卒業生である事を誇りに思う」と同行した人に伝えたと覚えています。
 今回は二度目になる朝の掃除の時間、トイレ掃除に参加しました。受講生も自主的に何人か参加しています。掃除をするのですから掃除の手順やいかに綺麗にするかを学ぶのですが、人としてどう生きるか、相手をどう思いやるか、資源は大切にしなければいけない、無駄をなるべくなくする、等々本当にたくさんの事を学ばせてもらえました。

思えば、昔はそういう大事なことはお爺さんやお婆さんから教えてもらった事ばかりです。時代がどんどん進み、面倒くさい事はやらなくなっている現代ですが、それは、本当は良いことではないはずです。忘れられている大切な事をもっと大人が教え残していかなければと強く感じました。素手で行なう早朝のトイレ掃除はとても気持ちのよいものでした。


心が磨かれる森の中の教習所Mランド

理念探究会38
内なる変化・心が磨かれる森の中の教習所Mランドを訪ねる
 一年半ぶりに、島根県益田市のMランドを 訪ねた。秋、真っ盛り、紅葉の真っ只中。今回は、妻と広島の若手経営者二名の四人。小河会長にお会いし、その後のお話をお聞きすること、そして二、三のお願い。会長は八十七歳を迎えられて、尚、熱く深い念いを実現され続けている。
 この一年半の期間に、大きな変化があった。正にパラダイムシフト(ある時代・集団を支配する考え方が、非連続的・劇的に変化すること。社会の規範や価値観が変わること)そのものだった。最盛期には230万人もいた自動車免許をとりたいという人達が、今は120万人に激減している。最盛期、年間免許取得受講者でトップだった関東の自動車学校はその姿を消している。また自動車メーカーの関連子会社が経営していた教習所も、見る影もない。しかし当時、この益田にあって全国7位か8位にあったMDSは、昨年四輪車卒業数が日本一になった。常に6000人の卒業生を送り出している。会長は「望外の結果」と言われる。ハイ・サービス日本三〇〇選にも選ばれ、世界ハイ・サービス三〇〇選に挑戦を宣言されている。
 この二つには人間の「意識・価値観の転換」がある。MDSからMランドに呼称を変えられた意味もこの「意識・価値観の転換」にある。それは自動車教習所という位置づけから、Mランドという地域、そして、新しい地域住民としてのパラダイムシフトと言える。Mランドに関わる人達、ゲストも含めて誇りを持っている。互恵圏への移住とも表現できる。調和を尊ぶ人達の生き方をする人達の集まりがMランドだ。だから卒業生たちは、次の受講生を紹介する。約六割が紹介である秘密はここにある。

  お願いもさせていただいた。一つは、絶版している会長著書の「一期一会の質実経営」の小冊子化をさせていただきたいとお願いした。この著書は、若い人たちに是非読んでもらいたい。進化経営学院でもテキストとして使いたい。激動する今の時代に大きな未来への指針になると確信している。もう一つは来年Mランドのギャラリーでの「MOLAの作品展」を開催させていただきMOLAをMランドに関わる人たちにも見て貰いたいとお願いした。面白いと許可を頂いた。その夜、「楽々亭」で会長を囲んで懐かしい中島室長たちとの話がはずんだ。こんな幸せなひとときは滅多とあるものではない。来年は、更に進化を続けるMランドを訪ねることができる。


幸せの花咲か村「ビジョンをビジュアルに!」

理念探究会37
幸せの花咲か村「ビジョンをビジュアルに!」
山口県光市にあるダスキンセライさんに五~六年前からお伺いしている。社員四十名、パートさんハーティーさん達六~七十名の会社です。昭和四十三年創業。
昨年創業40周年を記念して「創業の歴史と想い」を小冊子にまとめました。そして社長の十年構想・10年後の目指す姿、ビジョンを文章化しました。今年はそれをもっと見える形にしたいと、幸せの花咲か村というイメージのビジュアルなカラーパンフレットというか絵本というかを制作しました。そのプロセスはここでは省く。そして花咲か村の開村式の式典を行った。式典での迫真迫る演技も大好評、式典を収録したDVDもつくった。面白く、とても素晴らしい出来ばえだ。
伝えたいことを、文章で表現していることを、ビジュアルにし、見えるように、イメージできるようにした。それを背景に、先日の研修で、更なる未来の物語づくりを話し合った10年先には、いま業務の中核を担っている世代は、自分たちがその主役から退いている。その姿をイメージしなくてはならない。「あなた、自分がそういう立場になったら、自分のいない世界をイメージできますか?」そんなことができるだろうか?理屈ではわかります。しかしその10年先には自分たちは間違いなく、今の延長線でイメージすると、この会社にはいないかもしれない。
ところが、花咲か村は、それを根本から覆す。村には、年寄りも、子供も、若手も、青年も、いろいろな人間がいる。住民は働き手であり、お客様であり、近隣の住民であってもかまわない。正に沢山の人が住んでいる花咲か村なのです。そういう想いに至ったときには、なるほど一番の働き手の役は終了しているが、村には、長老がいたり知恵者がいたり、職人がいたり、技術を伝承したり、若手も育てたり、いろいろな人が住んでいる。農業をやる人も、物を作る人も、身体の弱ったと人を介護する人も、食事を作る人も、いろいろな人が幸せに暮らしている。小さな世界が出現する

そこは誰もが住みたい幸せの花咲か村なのだ。会社は定年がある。しかし村には定年は無い。定年は自分でつくるものだ。働きたい限り働けばいいではないか。そういう村を作ろう、そういう会社を作ろうということだ。お互いが働ける限り役立ちあい、認め合い、気心の通じた愉快な心の人達が住む村を作ろう。それがビジュアルな絵本の中身の一部だ。これからその絵本をしっかりと固めていくという。愉快ではないか。手本になる村(会社)は、全国に点在する。その誰もが住みたい村づくりが始まった。是非、又みなさん幸せの花咲か村を見に行きましょう。