経営進化学院とは

理念型企業経営の支援及び自立型人材の育成を通じ「和を基本とする社会」づくりに貢献する事を目的として設立されました。

脳力開発/理念の時代を生きる143号

脳力開発143号 戦後74年全てはGHQの言論統制から始まった

■北朝鮮と韓国の現実と付き合い方

8月15日終戦記念日を迎えた。戦後は74年経った。今回の理念実践会ではテキストとして2冊の本を使った。一つは稲盛和夫氏の最新著「心。」もう一冊が百田尚樹氏の「日本国紀」と関連の本、日本国紀の副読本、学校が教えてない日本史。

いま新聞、テレビで話題になっている問題の一つは「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」である。もう一つは韓国の文在寅大統領の日本批判と北朝鮮のミサイル発射に関する話題だ。二つの問題は無関係に見えるが、根本は一つである。

■日本の戦後教育

「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」の問題は日本の戦後教育はGHQの占領政策が大きく影響している。「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」・罪意識扶植計画(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)に基づいて六年半にわたって確実に施行された洗脳が根本にある。そのなかでも特に言論統制、プレスコードや新聞報道取締方針・言論及び新聞の自由に関する覚書(昭和二十年九月十日)が影響を与えている。

■GHQに魂を売った朝日新聞の変節

  • この言論統制の悪影響は、今なお日本のメディアに深く浸透し中でも朝日新聞の影響が大きい。昭和二十年九月十五日付けの鳩山一郎氏のインタビュー記事で、「正義は力なりを標榜する米国である以上、原紙爆弾の使用や無辜の国民殺傷が、病院船攻撃や毒ガス使用以上の国際法違反、戦争犯罪であることを否む事はできないであろう」この記事がGHQの急所を衝いて朝日新聞は発行停止処分を受けた。
  • この記事をきっかけにGHQは前述のプレスコードという三十項目の規制を発表し、GHQ批判や東京裁判批判、戦争犯罪人の正当化などを報じる事を禁止した。ここから朝日新聞は変わった。十月二十四日の一面で経営者総退陣した後、「戦争責任明確化、民主主義態勢実現」と大見出しを掲げた後、「自らの旧殻を粉砕するは、同報の間になお遺存する数多くの残滓の粉砕への序曲をなすものである」と書いて過去の報道と一線を画する事を宣言した。

■慰安婦問題に火をつけた朝日新聞

  • プレスコードのなかで、三十項目の内で八・朝鮮人への批判、九・中国への批判の規制は後々までメディアの報道偏向に繋がっていく。GHQが引き上げた後も朝日新聞をはじめ各メディアは自ら言論統制と同じ言論の自主規制を続けている。
  • 韓国・中国との「歴史問題」は韓国発ではなん。日本発である。その元凶は朝日新聞である。朝日新聞は一九八二年九月二日、吉田証言を紹介して慰安婦問題に火をつけた。九十年代になって「日中戦争や第二次大戦の際、『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』のうち、一人がソウルしないに生存していることが分かり・・・」(朝日新聞一九九一年八月十一日)。

★ちなみに植村隆氏は『捏造』と桜井よしこさんに原稿に対し訴訟を起こし平成三十年札幌地裁で請求棄却されている。

  • 以来三十年後、二〇一四年八月五日付けの朝刊で、「慰安婦問題の本質直視」との主張で一連の慰安婦問題の記事を取り消した。その間世界に向けて虚偽情報を垂れ流し、九月十一日社長の木村伊量が記者会見して、記事の取り消しと第三者機関「報道と人権委員会」審議を委ねると発表し吉田清治証言記事の撤回遅れを謝罪、辞任。上辺だけの謝罪。

■進歩的文化人の自国を貶める行為

  • この慰安婦問題の虚偽情報はその後三十年間は日本にとって大きな代償を払う事になる。韓国の反日、北朝鮮の反日の遠因は「プレスコードの三十項目の内で八・朝鮮人への批判、九・中国への批判の規制」にある。メディアも政府もこの規制を引きずり中国、韓国の横暴、要求に対して反論もせず言いなりになってきた。
  • 進歩的文化人と言われる人たち、そして人権派弁護士といわれる人たちはこのGHQの規制を逆手にとって、日本に生まれ日本人でありながら自国(日本)を貶める活動を性懲りもなくつづけている。自国を貶める行為をまるで正義であるかのようにつづけている。
  • ポリティカル・コレクトネスとかヘイトスピーチとか、この夏の名古屋での「あいちトリエンナーレ2019」企画展「表現の不自由展・その後」も遠因はここにある。プレスコードによる言論規制である。メデイア(新聞・テレビ)、進歩的文化人、学者、弁護士にとって戦後はGHQのお墨付きを盾にした自己実現の道であった。利権獲得の道であった。

■韓国との問題・初めて反論した日本

  • 文在寅大統領は就任後2015年12月28日に韓国と日本は「日韓間の慰安婦問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する」と表明し、韓国政府が元慰安婦支援のため設立する財団に日本政府が10億を拠出し、両国が協力していくことを確認した条約の破棄に始まり、徴用工問題の蒸し返し、レーダー照射問題など、日本側のアプローチや日本人の気持を無視し、関係悪化を進めた。日本はその後、輸出管理厳格化でホワイト国の待遇を閣議決定した。
  • 韓国は今年二〇一九年八月の光復節で「反日」よりも「反安倍」を強調しているようだ。歴史問題や日本政府による輸出管理厳格化をめぐり日本を批判するデモや抗議集会が各地で行われているとテレビや新聞で伝えている。今回日本がはじめて韓国に対して輸出管理厳格化で対応した。この政府の対応に対して今までどおり日本が反論しないとも思っていたら、思わぬ対応をされたというのが韓国の状況だろう。これがその後の精神錯乱者の如き感情的な「反日」デモ行動に繋がっている。
  • これまでは政府やメディアは「問題を大きくしたくない」という「事なかれ主義」の姿勢で接してきたことの結果だが、今度ばかりは世界に向けての韓国歴代大統領がつづけてきた「告げ口外交」も効果は疑わしい。しかし、中国、韓国のプロパガンダ(情報戦、宣伝戦、世論戦)凄まじい。このプロバガンダ戦は日本等の比ではない。凄まじいエネルギーをもっている。

■韓国大統領の日本に対する本音

文在寅は二〇一九年一月十日青瓦台で行われた新年記者会見において、NHKの高野洋ソウル支局長の質問に以下のように答えた。前日九日の韓国大法院の判決を受けて新日鉄住金に株式の差し押さえ通知を送附した。高野局長は日本政府が韓国政府に日韓請求権協定に基づく協議の要請、韓国政府主導による財団設立などの可能性を質した。

  • これに対して文在寅大統領は以下の反応を示した。
  • 徴用工問題は韓国政府が作り出した問題ではない。
  • 日韓基本条約ではすべて解決されず、問題とはまだ続いている。
  • 日本は歴史問題に関し、もう少し謙虚な姿勢を示すべきである。
  • (この問題=徴用工問題を日本政府が)政治争点化するのは賢明な態度ではない。
  • 大法院の判決に韓国政府は関与できない。
  • 日本に不満があろうとも韓国の司法判断を尊重しなければならず、やむを得ないという認識を持たなければならない。

(文在寅大統領という災厄、著者元・駐韓国特命全権大使・武藤正敏氏)

■南北統一に関する北朝鮮の反応

  • 文在寅大統領は就任後、南北統一を目指し、北朝鮮非核化を目指すトランプ大統領の仲介者を任じ、韓国民の支持率を上げてきた。二〇一七年五月就任。韓国南北統一の平和ムードを作り上げた。トランプ大統領と紀シンガポール会議は確かに仲介した。その後のハノイ会議で一挙に交渉を進めようとしたが、思惑に反して、何の成果もなく北朝鮮、米国からの信頼を失った。その後のトランプと金正恩との文在寅大統領抜きの板門店での再会。
  • 二〇一九年八月十五日の光復節で「二〇四五年南北統一」の計画をアピールした。しかし、翌十六日には北朝鮮の対韓国窓口機関・祖国平和統一委員会は報道官談話をだし、韓国の十五日の文在寅大統領の朝鮮半島の平和構築と訴えたことを非難し「韓国当局者とこれ以上話すこともないし、再び対座することも考えない」と表明したと朝鮮中央通信が伝えた。米韓合同演習を重ねて非難。北南対話の動力が失われたのは韓国側の自業自得だ。演習が終われば対話局面が来ると考えるの「妄想」だとした。

■北朝鮮の現実はいかなるものか

北朝鮮全正恩と米国トランプ大統領との交渉は世界の関心事だといえる。改めて北朝鮮がどういう国なのか、全成日、全正日と続く北朝鮮の流れを振り返る。最近「平壌15号館官邸の抜け穴」金正日夫人を亡命の仕掛け人・李韓永(1996年出版後翌年、北朝鮮工作員2名により殺害される)の本、「北朝鮮絶望収容所」・安明哲2000年、つづいて「三階書記室の暗号・北朝鮮外交秘録」元駐英北朝鮮大使館公使・太永浩2019年6月文藝春秋を丹念に読んだ。

  • 北朝鮮絶望収容所の著者安明哲は1969年朝鮮労働党幹部の父を持つ家庭に長男として生まれた。強制収容所、政治犯収容所の警備兵として勤務。第22号管理所警備を担当していた頃、父が冤罪処刑、母も冤罪逮捕を切っ掛けに「明日は我が身」と亡命を決意。金正日に背いたとして政治犯として収容された収容所の実態は言葉にするのを避けるほど悲惨極まりないものである。
  • 北朝鮮・密告社会 金正日政権一族の維持から全ては発している。権力の頂点に立つと我が身、一族を守るために人間として考えられない残虐を命令し実行させる。安明哲は懲罰を実行する警備兵の役を担っていた。密告あるいは失言などで政治犯として収容された一家は飢餓、労働、虐待により命を落とすことになる。身の毛のよだつ描写が続く。正にスターリンの収容所列島しかり、毛沢東の紅衛兵問題しかり。共産主義国の現実は密告、粛清、虐殺の目を背けたくなる歴史がつきまとう。

■何故帳成沢は処刑されたか

  • 二〇一二年四月金正恩は最高人民会議で、北朝鮮が核保有国であることを憲法に明記する。翌二〇一三年三月三十一日党中央委員会総会で、核開発と経済再建の並進路線が党の政策として公式に決定される。この決定により北朝鮮の財源は核とミサイル開発に集中することになる。
  • 金正恩は「核開発を完成させる道は容易でない。アメリカ、中国などの強国があらゆる手をつくして阻止しょうとするだろう。アメリカとの争いが起こるかもしれない。だが、アメリカとの戦争よりも先に、われわれ内部で戦争が起きるかもしれない。内部の思想と意思の対決に勝たなくては、核兵器をつくることはできない」と考えた。核を放棄した瞬間、自分の権力も維持できなくなる。すべての財力を核とミサイル開発に注がなくてはならないが、北朝鮮の経済的な利権のほとんどは帳成沢が握っていた。帳成沢を容赦なく処刑したのは利権を手放さなかったことと、根深い憎しみも理由だ。

■帳成沢の解任のテレビ映像

  • 帳成沢は金正日の同母妹、金敬姫の夫である。金正恩の叔父にあたる。テレビで帳成沢が二〇一三年十二月八日朝鮮労働党政治局拡大会議で全ての役職を解任され、党からも除名され連行される様子を見た人も多いと思う。朝鮮中央テレビは「権力を乱用し、不正・腐敗行為をし、複数の女性と不当な関係を持ち、高級食堂の裏部屋で酒遊びや飲み食いした。他国に病気治療に行っている期間、外貨を使い果たし賭博場まで訪ねあるいた」など数々の罪状をあげて繰り返し報道した。
  • 帳成沢の一族、側近をはじめ一万人余りを粛清し尽くす。労働新聞が「帳成沢一派」という表現をしたが彼が責任を担っていた全ての部署が粛清され、焼け野原になった。党行政部、人民保安省九局、人民保安省傘下の工兵総局の側近たちは根こそぎ処分された。海外に出向している外交官たちも粛清の風当たりを避けることができない。キューバ大使、マレーシア大使、スウーデン大使、ユネスコ駐在北朝鮮副代表。外務省の家族も収容所に連行された。全体一万人は収容所や炭鉱、地方に追放された。(三階書記室の暗号・北朝鮮外交秘録)

■韓国・北朝鮮問題のまとめ

  • 文在寅大統領は、就任以来韓国民に対して南北統一の「平和」ムードで国民を洗脳しながら二〇一九年三月一日の三一節での式典で臨時政府の百周年を権威づけようとした。この意図も北朝鮮側の反応はけんもほろろだった。
  • 北朝鮮は金日成による建国であり、臨時政府の業績は評価していない。と同時に「親日の残滓の清算はあまりにも長く続いてきた宿題」「歴史を正しく立て直すことこそ子孫が堂々とできる道」「親日の残滓の清算も外交も未来指向的でなければならない」と強調した。(中央日報日本語版の報道)
  • 文在寅政権は大韓民国を否定し、国民に無思考で受け入れさせようとしている。今、韓国で流行している言葉に「ネロナムブル」があり、「私(ネ)がすれば(ロ)マンス,他人(ナム)がすれば不(ブル)倫」という意味だ。文在寅大統領のダブルスタンダードと指摘している。(武藤正敏氏・文在寅という災厄より)
  • 文在寅大統領の悲願は確かに南北統一であろう。しかし現実は上述の通りだ。金正恩に核放棄などあるわけがない。北朝鮮の外交官と国内メディアからも揶揄されながらも、金正恩からもトランプ大統領からも信頼されていない。そして明確に日本に対しては「反日」姿勢をはっきりと見せている。

■韓国とは付き合わない

  • 稲盛和夫氏の著書の中に「他人を欺いたり騙したりするような人が近づいてくるとしたら、自分の中に同様の心があるからなのです。悪しき心をもつ人が現れたらどうするか。もっともよい方法は関わりを持たずに離れていくことです。つきあって害を及ぼそうとするのであればきっぱりと関係を断ち、一切付き合いをしないことです。」と書かれた言葉に出逢った。
  • はたと膝を叩いて納得した。朝鮮との付き合い方は福沢諭吉、伊藤博文などの箴言が残っている。日本も政治と経済は別だなどと理由をつけているが、経済でもこちらから付き合わず腹を括ることだ。私も会社勤めの時に韓国企業と嫌な思いをしたことがあったのを思い出した。次号で福沢諭吉、伊藤博文の箴言に触れたい。(悦司)

 

理念時代を生きる143号・稲盛和夫・経営者の哲学

理念探究会・理念実践会のテキストの一部として七月稲盛和夫氏の新著「心。」を配布しポイントレビューしてもらいました。理念探究会の参加者には経営者の覚悟、意思決定を体得してもらうことであり、実践者に次々と起きてくる経営上の諸問題は起こるべき当然の課題であり、必然的試練である事を自覚し解決に取り組むべきテーマである認識をすることである。

私たちは経営の根底に企業理念を奥掲げる。稲盛和夫氏は哲学「フィロソフィ」と表現されている。稲盛氏は京セラの創業以来幾多の事業経営を行われ、京セラ哲学として希望する若手経営者、そして海外の経営者にまで指導された。第二電電の創業、JALの再建もこの全人的決意と利己を超えた哲学・「利他」の精神である。

巷間、業績を上げ続ける経営者も確かに世界的に散見される。しかし、そこに稲盛氏のいう「哲学」フィロソフーを唱え実践する経営者は皆無である。以下、稲盛和夫氏の著書「心。」よりポイントレビューを取り上げる。

■プロローグ

人生のすべては自分の心が映し出す

  • 人生で起こってくるあらゆる出来事は、自らの心が引き寄せたものです。それらはまるで映写機がスクリーンに映像を映し出すように、心に描いたものを忠実に再現しています。13
  • 心に何を描くのか。どんな思いを持ち、どんな姿勢で生きるのか。それこそが、人生を決める最も大切なファクターとなる。これは机上の精神論でもなければ、単なる人生訓でもありません。心が現実をつくり、動かしているのです。14

善なる動機を持てば、成功へと導かれる

  • いかに生きるかという問いは、すなわちいかなる心をもつかと同義であり、心に何を描くかが、どんな人生を歩むかを決定します。18
  • 純粋で美しい心をもって生きる人には、それにふさわしい、豊かですばらしい人生が拓けてくるものです。18
  • なかでも人が持ちうる、もっとも崇高で美しい心-それは、他者を思いやるやさしい心、ときに自分を犠牲にしても他のために尽くそうと願う心です。そんな心のありようを、仏教の言葉で「利他」といいます。19
  • 利他を動機として始めた行為は、そうでないものより成功する確率が高く、ときに予想をはるか超えためざましい成果を生み出してくれます。19

燃える闘魂もまた、「善なる動機」から生まれる

  • もちろん、すべてが「やさしい思いやり」の心だけではうまく運ぶわけではありません。何事かをなそうとすれば、いかなる困難にも負けず、果敢に突き進む強い意志、何があっても成し遂げるというすさまじいまでの熱意が必要です。22
  • 何事をなそうとも、いかなる運命を歩もうとも、私たちが生きているかぎり、めざすべきものは、他によかれかしと思い、他のためによきことをなす「善なる心」です。それは、「真・善・美」という言葉でいい表すことのできる、純粋で美しい心といってもよいでしょう。25

もっとも深い“心”は宇宙へと通じる

  • 人の心の奥には「魂」といわれているものがあり、そのさらに奥深く、核心ともいうべき部分には、「真我」というものがある。それはもっとも純粋で、もっとも美しい心の領域です。26
  • その真我とは、万物を万物たらしめている「宇宙の心」とまったく同じものであ

る、と私は考えています。

人生の目的は心を磨き、他に尽くすこと

  • 人生の目的とは、まず一つに心を高めること。いいかえれば魂を磨くことにほかなりません。生涯の体験を通して、生まれたときよりもいくばくかでも魂が美しくなったか、わずかなりとも人間性が高まったか。29
  • そのためには、日々の仕事に真摯に取り組み、懸命に努力を重ねること。それによって心はおのずと研鑽され、人格は高められて、より立派な魂へと成長を遂げる。まずはそのことに私たちが生きる意味があります。29
  • 美しい利他の心をもって世のため、人のために力を注ぐとき、私たちの人間性は磨かれ、幸福や充実がもたらされ、その人生もより深い意義と価値あるものになっていくのです。30

第一章人生の礎を築く。   

よいときも悪いときも感謝の思いで受け止める

  • いまどれほど順風満帆であろうとも、それが未来永劫続くわけではない。それにおぼれて驕り高ぶることなく、つねに謙虚な気持ちで自らの行いを律するとともに、感謝の念を忘れてはなりません。39

感謝すれば、厳しさもまた財産になる

  • 感謝の心は今の自分があるのは、これまで支えてくれた多くの人たちのおかげである。会社が存続できるのは働いてくれる社員、従業員のおかげであり、また注文をいただけるお客様があってのことである―――そうした謙虚な気持ちがあってこそ、感謝の思いが湧き上がってくるものです。48
  • 目の前にある境遇や状況をネガティブに受け止め、不平不満を並べ立てているだけではなく、相手のおかげでいまの自分があることを謙虚に受け止め、感謝の思いをもち続けることができるかどうか。それによって、その後の運命は大きく違ってくるものです。50

謙虚さはよい人生を歩むためのお守りになる

  • 他人に対しては勿論のこと、自分に対しても、また自分をとりまく境遇に対しても、どんな時も謙虚な思いを忘れないこと。そしてつねに謙虚であるように自らを律することが大切なのです。51

いとも簡単に難事を成し遂げる「美しい心」の力

  • 「清らかな人間ほど、(略)目の前の目標も、人生の目標も、けがれた人間よりもはるかに容易に達成できる傾向にあります。けがれた人間が敗北を恐れて踏み込もうとしない場所にも、清らかな人間は平気で足を踏み入れ、いとも簡単に勝利を手にしてしまうことが少なくありません」55
  • このように、目の前に与えられた仕事を懸命にこなすことが、何にもまして心の修養となる。日々の労働によって心はおのずと美しく磨かれ、人格は陶冶されていくのです。57

仕事に没入すれば「宇宙の真理」にふれられる

  • フィロソフィは私にとって経営という荒波を航海するための海図となり、また人生という道を歩みゆくうえで、正しい方角を示してくれるコンパスともなってくれた。それもまた、元はといえば「美しい心」の産物だったのです。60

脳力開発/理念の時代を生きる142号

脳力開発142号

リブドウ・新入社員三カ月研修

能力とは各自がもっている後天的な努力や工夫によって鍛えた力、例えば英語に堪能である、字がうまい、走るのが早い等など、後天的に鍛えることができる。一方、脳力とは「脳」をよく使った結果人間の全体的な、具体的な行動と実力を決定づける土台。能力は木に譬えれば枝葉にあたり、脳力は根幹のことを言う。

■脳力開発の目的

人生で思うように行かない時や難しいこと、困難なことなどどんな環境に出逢っても、それを溌剌とした活動の材料として活かすことができるかを解明している。脳力開発を学び身につけると、誰もが額にしわを寄せて人生を生きるのではなく、愉しく人生を生きるための根本的な力をつけるこができます。

振り返ると私自身三十七歳のとき脳力開発を学び、インストラクターとしてかれこれ足かけ四十年近く、日本全国を周りめぐり合った数千人の人に、そして今回も新卒の企業人の卵にそのこつ、要諦を伝え実践してもらうことをやっています。

■指針のポイント

一日半の時間を使って、一、人に頼る姿勢をやめて、常に主体的な姿勢を確立する(自分の環境、条件を変えていく原動力は自分の中にあることを学び自分の中の問題点を認識し、和談、実践し体感する)、二、現状維持の姿勢をやめていつも自己を進歩発展させる姿勢を確立すること、三、目標の立て方(自己の戦略の立て方=目標の立て方)を学び同時に、ここ半年から数年の会社や自分の人生の目標を具体的に自ら決めて立てる事を指導します。

■感想

 今回は大卒の研修でした。二十名の新卒の人たちが三カ月の配属先の体験を経て、いよいよ現場で実務に当たるわけですが、自分の当時を思い出してもなかなか仕事というものは簡単にできるものではありません。紙面の都合で、、人かの感想文を引用して彼らの思いを伝えたいと思います。そして若いということは鍛えようによって、大きな力になると予感した研修会でした。

  • 「難しいことはこの世にない。ただやり遂げる過程が長いだけだ」という言葉が印象に残ります。私は初めてのことや面倒なことは難しそうと思ってしまい、避けてしまいがちだが、ただ行程か長いと思えば挑戦しやすくなる。これに明元素ことばを使えば怖いものはなくなる。(大森君)
  • 理論に先生の体験、他社の事例を織りまぜつつ脳力開発の実践方法を紹介していただき理解しやすかった。そして最終的は目標(戦略)を立ててアプローチするやり方(戦術)を組み、実際に「未来対応型問題解決シート」を使って現状を打破し、未来の目標達成のための方法を実行することができました。具体案、アプローチが見え、なんとか挑戦して見ます。(青木君)
  • 今まで、失敗は失敗であり自分にとって難しいことは難しいという消極的なスタンスでした。お話を聞いて「失敗は一歩前進である。難しいと思っていることは時間がかかる、量が多いということで、難しいことなんてない。」「脳力開発の考え方は社会人としてだけでなく、人として生きていくために必要な土台になる」ということを学びました。(伊藤君)
  • 前向きに考えていく方法を学び、不安が軽減されました。お話しは経験や具体例が含まれ分かりやすかったです。様々な話を幅広くされて楽しかったです。今回よかったのは自己構想を書いたことです。いままで読んだ自己啓発の本は、日々ちょっとした不安、心配、不満を書き出すだけでしたが、先生はその先のさらにどう対処していくかを教えていただくことができ良かったです。物事を変えていく原動力は自分の中にあること、前向きな積極的な言葉を使うことを忘れずに生きた行こうと思います。(河見さん)

 

恵那銀の森・脳力開発研修

恵那での脳力開発講座は(旧)二十一世紀クラブの主催から数えると第二十七回目を迎えることになります。よく続いたものだと思います。昨年二十一世紀クラブから引き継いで、主催は銀の森に移りました。今回は社員の人たちが中心ですが、外部からも経営者が参加していました。十四名の内、十名が十代から二十代の人たちです。

■インタビューゲーム

  • 最初に「インタビューゲーム」から始めました。初対面の人たちが短時間でお互いを理解するために、ペアーをランダムに組んで十五分ずつ相互にイダビューをします。そのあとでA4半分に記事のようにまとめます。決まり事は三つ。一、何を聞いても良い。二、何を話しても良い。三、嫌なことは答えなくて良い。それでも質問する人が、躊躇ったりする場合には、できるだけ自分から話すようにしてください。というのが気配りです。
  • このインタビューゲームで日頃は顔をあわせていてもゆっくりと話をしたことがない人同志でも、初めての人でも楽しめます。質問の中から共通点が見いだせたり大いに盛り上がることもあります。この効果は、自己紹介では得られない深い話やエピソードが含まれ、たった十五分でのインタビューとは思えない記事になります。皆さんの前で相手の方の紹介をするようなもので他己紹介ともいえます。これで研修は一挙にリラックスした雰囲気で進められます。

■和談

  • グループに別れて主体的な姿勢づくりの演習問題を行います。このとき「和談」という方法をとります。話し合う場合に討論ではないもう一つの方法で、複数の人が話し合う方法として用います。演習問題に関して十分程度の時間で三つ問題に対しての一応自分の考えをメモしておきます。そしてグループで十五分ぐらい三つの質問に対して四~五人のメンバーで進行役、発表者、同じくサブの発表者を決めます。最終的にはメンバー全員に話してもらいます。
  • 和談の特徴的な事は、互恵的・共同的な姿勢(討論だと競争・対立的になりやすい)二、和やか・収穫指向(討論だと意見を戦わせる、主張を通す姿勢になりやすい)三、反応姿勢は「ナールホド」(討論だと「ソーカシラ」になりやすい)

■和談の効果

  • 年齢、経験に関係なく世代を超えて深い話し合いができます。それは進行役がどんな意見にも「ナールホド」と言って「発言を受け入れてくれる」からです。企業や組織で話し合うと、意見を言うとき必ずしもきちんと理論立てていることはありません。ややもすると主張を通すとか、意見を戦わせるとか、相手に対して批判的になり、発言者の欠点に目を向けるということになります。結果参加者の認識の進歩は起こりにくいばかりか、役職者や声の大きな人の意見が通るということになりやすい。
  • 言わばこの方法は江戸時代の農業を営んでいた村での話し合いなどで用いられていたと宮本常一氏が著書に記しています。正に時間もかけ、納得できるまで話あい、参加者の合意にいたる。白黒、善悪を簡単に決めない。多数決で決めないで互恵的に問題解決を進める。民主主義の素晴らしい実践ですね。それは同じ効果があります。

■若者侮るべからず

  • 銀の森の十代二十代の若者たちは、一世代前の人たちから比べると、随分しっかりしていると感じました。幼い顔をしているのですが、しっかりと考える力があると感じました。そして一~二年の体験から確実に仕事に必要な技術、姿勢を身につけいています。また、彼女たちも仕事のプロとして成長するための目標設定も簡易型の問題解決システムで順を追って設定しました。「自分で決めて自分で実行する」主体的な姿勢を体験した一日半でした。改めて「若者侮るべからず」と久しぶりに感じた会でした。(悦司)

 

理念の時代を生きる142号

その一、父の歳を超える七十六歳の誕生日の思索

  • 七月十一日私は七十六歳の誕生日を迎えた。父がなくなった歳だ。七十歳を迎えた年に、進化経営学院前に「人生二度なし」の碑を建立した。そして七十歳を迎えたとき、生前葬を行おうかと考えたことがあった。
  • 父の歳は一つの通過点だという予感はあった。しかし、ここ二~三年の間に、八人兄弟姉妹のうち三女七十九歳、三男七十歳(二歳下の弟)長男八十三歳で逝去したが、何れも天寿と思った。しかし弟が七十歳でなくなったときにはいささか理不尽な気がした。ロシアへの旅の初日にメールで知った。
  • 昨年、私が尊敬、師事してきた方たちが九十六歳、九十二歳、八十八歳でなくなられた。この方たちは正に天寿を全うされたと悲しみはすくなかった。毎年お会いしていたMランド小河二郎会長が九十六歳でなくなられたときは、残念さはあったが、会長に教えられことを些かなりとも実践している自負があったから会長は私のなかで生きていると思った。

■父の思い出

  • 父のことを考えてみたが、記憶にのこる父の思い出は少ない。子供のころ兄弟喧嘩をするなと口酸っぱく言われていたが、それでも私が弟たちをいじめて、運悪く父が帰宅してきたときに見つかるとこっぴどく怒られ、殴られた。その時、おしっこを何度か垂れたことを思い出す。父は一人っ子だった。
  • 大学に入学したとき、父が入学式にきてくれた。津山から彦根まで一緒に汽車に乗っていった。旅館に泊まった。その時テレビの大相撲で佐田の山が大鵬に勝ったと記憶している。父は旧彦根高商の滋賀大学経済学部にはいったことを喜んでくれた。入学式の前、旅館で食事をしていた際、私はと言えば一期校を落ちたこともあって、ひょっとしたら再受験したいと匂わしたら、「まぁ、とにかく入って決めれば良い」といったきりだった。入学式の前に大学にいき、グリークラブの入部の手続きをしていたくせに我ながら全くいい加減なものだった。
  • 翌年弟が志望校に入った夏休みに、父が日頃お世話になっている料亭に連れて行ってくれ、父は正座してお酒をのみながら馴染みの年配の芸者さんの三味線にあわせて、小唄やら端唄などを唄っていた。料亭というのは単なる遊びの場ではないのだと初めて知った。馴染みの芸者さんは、私が見様見真似で三味線にあわせて口ずさんだら、「声はお父さんに似ていい声をしているわね」と言ってくれたが。
  • そう言えば私が津山を離れる前に「お前も真面目なだけではだめだ。冗談の一つや二つも言えないようでは」と父に言われた。以来、ズーット心に残っている。
  • 二年生から三年生に進級するとき、私の落ち度で留年の憂き目にあったことがある。その時、郷里の先輩が私の落第の弁明につき添って津山の実家に足を運んでくれた。父は先輩には御礼を言って、「落第するかどうかは本人の問題だから、四年間の学資しかおくらない」言った。
  • 私が結婚する時、善子を津山に連れて帰った。その前日、父はお袋に「悦司がどんな女を連れて帰っても、文句を言うな」と言ったと結婚した後お袋から聞いたことがある。善子を連れて帰ったその夜、父は彦根の善子の母親に電話し「立派なお嬢さんをありがとうございます」と伝えらしい。父の電話を聞いた善子の母親は、泣いたそうだ。
  • 結婚して、長男倫太郎が生まれ、里帰りしたときに、善子は父から「もし悦司と別れるようなことがあっても、倫太郎と善子のことは私が面倒を見る」と言われたと言う。これもあとから聞いた話だ。
  • 結婚式の結納を納めるために彦根まで足を運んでもらい、仲人をお願いした恩師・江竜龍太郎先生にお会いしたその夜、「お前も良い先生に可愛がってもらったものだ」としんみりと私に言ってくれた。よほど心配だったのだろう。
  • 後年、姉たちから「お前がお父ちゃんに一番似ている」と言われたことがある。妻からも言われる。小さいころから父をみて、多くの事業を営み、時代の変化に対応し何度も事業転換をし、八人の子供を育ててきた(厳密には九人・幼少の頃なくなった姉がいたらしい)父がなくなった年齢になった。父のように生きてきたかと自問したとき、人間としての覚悟・決断力・実践力は並のものではなかったと感じる。父がなくなった時、私はまだ三十歳そこそこだった。父は私の五十歳からの創業はしらない。これから父を超えて生きる意味を問わなくてはならない。

 

■森信三先生の問いかけ・人間の覚悟

六月から七月にかけて岡山での理念実践会、茨城での理念実践会、高松での次世代型経営者養成塾があった。その時、森信三先生の修身教授録抄より「天の命」と「人生態度」を輪読和談した。理念を探究、制定している参加者との勉強会であるから森信三先生の著書は何度も輪読してきた。

今回取り上げたかというのは、私を含めて「この教え、生き方を貫いているか。あるいはこの箴言に添って日常、生きているのか」という問いかけにある。「知行合一」を心がけているかという問いかけでもある。

■天の命・森信三

われわれ人間というものは全て自分に対して必然的に与えられた事柄については、そこに好悪の感情を交えないで、素直にこれを受け入れるところに心の根本態度が確立すると思うのであります。否、われわれは、かく自己に対して必然的に与えられた事柄については、ひとり好悪の感情をもって対しないのみか、さらに一歩を進めて、これを「天命」として謹んでお受けするということが大切だと思うのです。同時に、かくして初めてわれわれは、真に絶対的態度に立つことができると思うのです。(修身教授録抄)

■人生態度・森信三

大よそわが身に降りかかる事柄は、すべてこれを天の命として慎んでお受けするということが、われわれにとっては最善の人生態度と思うわけです。ですからこの根本の一点に心の腰がすわらない間は、人間も真に確立したとは言えないと思うわけです。したがって、ここにわれわれの修養の根本目標があると共に、真の人間の生活は、ここからして出発すると考えているのです。(修身教授録抄)

  • 輪読和談しながら、今は理念を制定している参加者に、「初めて進化経営学院を訪ねて縁あって理念探究に取り組みだした当時を回顧しながら、いまの自分はどうなのか?」と問うた。思いがけなく多大な借金をしていたことを社長継承後聞いた若い経営者、父が病気になり経営していた地元では名の知れたスーパーを継承し、その後事業閉鎖を経験した経営者など、いろいろな人がいる。
  • 私はと言えば五十歳からの創業だったが、会社をやめて新しくこの道を進むとき何の不安も感じなかった。ワクワクしていた。正直いうとサラリーマン時代の年収の十分の一でもあればと思ったこともあったが、理念制定の指導をしていただいた大和信春先生から、「そんな虫の良いことはありません。」と言われたこともあった。当然だ。しかし、決心が固まっていない間はそのような虫の良いことが心を掠めた。
  • 父を超える歳を迎えて森信三先生の仰る「人生態度」が真理だと確信できる。この考えを最初に体感させてくれたのは脳力開発の創始者で、前号でも書いた城野宏先生だった。遭遇する人生の困難や課題を変えていく、変化させていく原動力(原因・内因)は自分自身の中にあるというシンプルな考え方だ。自分の心の中にうまくいかないとき周りの所為にする、他人に依存する自分を発見させていただいた。三十七歳のときだった。以来、自分を49変えていく行動をつづけているうちに、自分に対して起きてくる全てのことを受け入れることができるようになった。
  • そのうち最大の試練は五十を前に半年の間につづけて起きた北海道での長男のオートバイ事故、そして三カ月も経たないうちに起こした次男の深夜の冬のオートバイ事故だった。次男のときには警察から電話があった。「ご長男も入院されているようですが、ご次男のオートバイの自損事故だ」という内容だった。「死んでいませんか?」と電話口の警察の人に聞いた。「死んではいませんが、重症です。」との返事にほっとした。「死んでいない。よかった。」と思った。城野先生の教えて頂いた脳力開発の体験だった。私たち夫婦にとって、どんな条件と環境にぶつかって、これを溌剌とした愉しい活動の材料として活かしていくかを試された出来事だった。
  • 上記の箴言は、森信三先生の言葉である。先生の生涯も筆舌に尽くしがたいが、その体験のなかでの教えである。森信三先生のことはまた、改めて記す機会もあるだろうが、先日、元京セラの稲盛和夫氏の新刊「心」を読んだ。八十七歳の氏の本だ。是非読みたいと手当てした。以下がその巻頭の言葉だ。八十七歳を迎えられた稲盛和夫氏の心からの言葉だ。真理=宇宙の真理=天命を生きる言葉だと思った。稲盛和夫氏八十七歳の言葉は簡潔だ。八十七歳まで生きて唯一残したい真理が語られている。
  • 今の時代を華々しく生きる人は多い。経済の世界、政治の世界、あらゆる世界。世界中はいがみ合いや自国の利益だけを追求する。そんな中に人間は生きているのが、ほとんどが「名利の世界」に生きている。「有名になりたい。お金を儲けたい。幸せになりたい。あれが欲しい、これも欲しい。」と人間の欲望の世界で生きている。自己実現をも止めて生きている。しかし、これも中江藤樹のいう「偽の学問」であって「正直(しょうじん)の学問」ではない。

■すべては自分の心が映し出す・稲盛和夫

これまで歩んできた八十余年の人生を振り返るとき、そして半世紀を超える経営者としての歩みを思い返すとき、いま多くの人たちに伝え、残しておきたいのは、おおむね一つのことしかありません。それは、「心がすべてを決めている」ということです。したがって、心に何を描くのか。どんな思いをもち、どんな姿勢で生きるのか。それこそが、人生を決めるもっとも大切なファクターとなる。これは机上の精神論でもなければ、単なる人生訓でもありません。心が現実をつくり、動かしていくのです。(稲盛和夫・「心。」より)

  • 稲盛和夫氏の今回の新刊「心。」生きてこられた経営者のなかで、とりわけ多くの人たちに示唆を与えてくれる本だ。この本を理念理念実践会で次月輪読することにしている。アマゾンから二十名近い若い経営者におくりつつある。

 

その二・和環塾・理念に生きている同志

七月十三日和環塾のメンバーの集う暑気払いの会を催した。新年の会に続いての会。四月には小田原を訪ねる会を催したが。十三名の夫婦が集まった。この会は私が広島から東京に帰った年に始まった。西順一郎先生のMGマネジメントゲームを核に城野宏先生の脳力開発、そしてパソコンMTマイツールを学ぶ勉強会だった。そして一九八九年の大和信春先生の「和の実学」にであって勉強会の名前を「和環塾」と命名した。

塾の理念として一、天命追求。二、人格向上。三、平和貢献とした。メンバーは中小企業の経営者、サラリーマンノ管理職が中心であった。塾長は南後浩氏で当時藤和不動産専務取締役だった。この規模でMGゲームやMT、脳力開発などを取り入れた会社改革を目指す企業は皆無だった。あれから三十一年を迎える。

■サラリーマンから創業した人たち

  • 最初に独立したのが宮川恵氏五十二歳、一九九三年。西武日産から独立した。彼の得意とするMTパソコンによる経理システムの支援が中心だった。オフコンの時代にいまでこそラップトッフ、ノートパソコンは当たり前だが、彼は小企業でも経理関係の仕事を科学的にこなしシステマチックに処理する仕組みを指導していた。以来二十数年、七十代半ばまで全国の中小企業の経営支援をつづけた。和環塾での担当は明元酒、お酒に厳しい人でいつも全国の酒元をめぐっている。ワインなどを飲むと「なんだ、毛頭の酒を飲んで」とつぶやいている。
  • 二人目が五十歳で逝去したが、加藤春夫氏だった。中小企業の経営支援を中心に独立創業した。自社ビルを建て、アシスト・コアという拠点をつくった。中小企業の問題解決の指導、経営指導をしていた。MTの勉強会「ハートウエア」の東京事務局を務め、パソコンに堪能だった。五十歳を前に、ケニアの学童支援活動の旅の帰途、イギリスで発病。帰国後、残念ながらガンで逝去。早い死だった。文字通り才気煥発な人だった。
  • 三人目が私。五十歳の創業だった。脳力開発を四十代から全国で十年近く研修を展開してきた。一九九四年十二月企業理念制定後くろだワークス創業。
  • 末松清一氏元ソニーマン。一九九五年創業。末松企業進化研究所を設立。子会社で管理部門統括、ウォークマン工場の取締役なども経験。経営品質賞の初代審査員、大変な勉強家だ。在職中から既に中小企業診断士を取得していた。多摩大学の客員教授、同大学・医療介護ソリューション研究所副所長などを勤めている。今も南後塾長と経営進化塾を主宰している。
  • 時田光章氏は四月号でも書いたが、いま小田原市の副市長を勤めている。先日再任され、あと四年間副市長を務められる。彼を見ていると、一人の人間の智恵が市・町を巻き込み大きな変化をもたらすものだとつくづく思う。今回の稲盛和夫氏の「心がすべてを決めている」を文字通り体現していると思う。当時は三十代そこそこだった。私も小田原で何度か脳力開発やIAT(未来対応型問題解決)研修を行った。
  • 当時国際担当役という肩書だった高山章氏は八十才を迎える。お会いしたのが信州白樺湖での脳力開発研修。当時オムロンにお勤めだった。語学に堪能で、そのご縁から和環塾にお誘いした。中国からの帰国者で(妻善子もそうだが)中国にはとりわけ関心がおありだった。ご一緒に和環塾のメンバーと内モンゴル、青島、天津、南京と何度か訪ねた。定年後和道企業や和道関係の企業の支援をされてきた。御夫婦で保険を使ったことがないとのお話、独自の健康体操を今回指導してくれた。
  • 米川達也氏。彼との出会いは一九九五年十一月長岡市で開催された脳力開発研修の参加だった。二日間をともにして彼の経歴や傑出した才能に感嘆した。一九七七年金沢大学を出てNTTに入社、一九九一年スタンフォード大学経営大学院に留学しシリコンバレーに数年にわたり駐在。時代の先端だったシリコンバレー帰りの米川さんに強い関心を持った。和環塾にお誘いし和環塾の面々との交流が始まった。

★脳力開発の指針に「できるだけ沢山の物事に首を突つこむ。できるだけ沢山の人に接触する習慣をつくろう」という指針がある。

文字通りこの実践として翌一九九六年三月米川さんにお願いしてシリコンバレー視察を企画してもらった。私たち夫婦を含め理念企業や和環塾のメンバー含め七名で六日間のシリコンバレーの旅をした。

  • 二〇一二年から株式会社白山製作所に副社長に就任。NTTの関係会社だ。NTTでも人望、能力の高い人だった。一年後、銀行の支店長から凄まじい財務状態を告げられた。借入金三十億円、売上げ減少傾向。再建を決意し二〇一四年に社長就任、それから彼の奮闘が始まった。リストラも断行した。その後シリコンバレーの経験も生かし、新たな分野にも挑戦、以来五年。先日の暑気払いの会で、間もなく赤字を解消し再上場を目の前にしている旨の報告があった。将来の構想もたっぷり。正に逆境は神の恩寵的試練なり。
  • 赤羽千明氏、彼は兄上、赤羽正己氏が社長を務める会社の専務だった。三十代の終わりに父上の代からつづけいてた日本写真製版(株)から、整体の道に進んだ。自分で選んだ道で並の整体士の道とはちがい独自の世界を開いてい。和環塾関連の企業の経営者、社員の健康管理の道を開いた。私たちも遠く石岡まで通ってもらった時期があった。段々超多忙になり、今では和環塾の勉強会を開催していた小伝馬町の小西ビル(小西紙業・小西一敬氏所有)で後輩に指導しながらグループでの治療会を開催している。
  • 今回紙面の都合で皆さんのことを書き切れない。ユニークな人たちとその奥さんの集まりだ。振り返ると一応全員が経営者として自立の道を歩んできた。かれこれ三十年の年月が経ったのだからおもしろい勉強会だ。まだまだ続きそうだ。(悦司)

脳力開発/理念の時代を生きる141号

脳力開発141号

その一・中国のタブーに迫る天安門事件の真相

先月号で、天安門事件に対してのウィキペディアの閲覧停止の話を書いた。六月四日天安門三〇年を迎えて、世界で天安門事件についてメディアも多く取り上げた。NHKも特番で取り上げた。新しい映像やインタビューが使われていた。私は改めてその番組を詳細に見直して、まとめてみた。

今月は一部で中国政権の天安門事件の対応の事実そして第二部で台湾民主化の歴史を取り上げ、対比してみることにする。

中国、ウィキペディア全言語遮断

中国の民主化運動が武力弾圧された天安門事件から間もなく三〇年を迎えるのを前に、オンラインの百科事典として知られる「ウィキペディア」へのアクセスが中国で全面的に遮断されたことが五月十七日、分かった。

八十九年の民主化運動の関係者も出国を禁止されるなど、中国国内で当局による監視態勢が一段と厳しくなってきた。 ウィキペディアを運営するウィキメディア財団が同日、明らかにした。ウィキペディアの中国語版は二〇一五年から閲覧できなくなっていたが、英語やフランス語など他の全ての言語で利用できなくなった。【産経新聞・北京=藤本欣也】

 

■民主化・政治改革への高まり

保守派の反対・これに対して鄧小平ら党内の長老グループを中心とした保守派は、「百花斉放・百家争鳴」路線の推進は、中国共産党による一党独裁を揺るがすものであり、ひいては自分たちの地位や利権を損なうものとして反発した。

  • 政治改革棚上げ・1986年9月に行われた六中全会では、国民からの支持を受けて、胡が押し進めようとした政治改革は棚上げされ、逆に保守派主導の「精神文明決議」が採択され、胡耀邦は長老グループや李鵬らの保守派の批判の矢面にさらされた。
  • 胡耀邦失脚・1987年1月16日の政治局拡大会議で、鄧小平ら党内の長老グループや保守派によって辞任を強要され、事実上失脚した。同月には胡の後任として、改革派ながら穏健派と目された趙紫陽総理が総書記代行に就任、同年11月総書記に選出された。
  • 胡は失脚後も政治局委員の地位にとどまったが、北京市内の自宅で警察の監視のもと外部との接触を断たれるなど事実上の軟禁生活を送り、1989年4月8日の政治局会議に出席中、心筋梗塞で倒れ、4月15日に死去した。

 

NHKの特番・運命を決めた50日

6月9日にはNHKスペシャルで中国のタブーに迫る「天安門事件の真相」発砲現場スクープ写真、悲劇を招いた権力闘争という番組であった。番組を見たが、鄧小平と趙紫陽の確執が映像として描かれていた。

  • 胡耀邦追悼集会・胡が中国の民主化に積極的であったことから、翌16日には中国政法大学を中心とした民主化推進派の学生たちによる胡の追悼集会が行われた。また、これを契機として同日と17日に、同じく民主化推進派の大学生を中心としたグループが北京市内で民主化を求めた集会を行った。

趙紫陽総書記(胡耀邦の後継総書記)

  • 趙紫陽総書記は学生との対話を民主化の突破口にしたいと市場経済開放と議会制民主主義を進める方針をとった。
  • 趙紫陽総書記「国外に動揺を見せられない」として北朝鮮への公式訪問を予定通り行うことを決め、李鵬に「追悼会は終わったので学生デモを終わらせる、すぐに授業に戻すこと、暴力、破壊行為には厳しく対応すること、学生たちと各階層で対話を行うこと」とする3項目意見を託した。
  • 保守派の反撃・しかし、胡耀邦が出国してすぐの李鵬や北京市党委書記、北京市長ら保守派が事実を誇張した報告をし、鄧小平の談話を下地に4月26日付の人民日報一面トップに、「旗幟鮮明に動乱に反対せよ」と題された社説(四・二六社説)が掲載された。
  • 訪問前に趙紫陽が示した「3項目意見」は全く反映されず、社説は胡耀邦の追悼を機に全国で起こっている学生たちの活動を「ごく少数の人間が下心を持ち」、「学生を利用して混乱を作り出し」「党と国家指導者を攻撃し」「公然と憲法に違反し、共産党の指導と社会主義制度に反対する」と位置づけたことで、学生たちの反感を買い、趙紫陽ら改革派と李鵬ら保守派が対立するきっかけともなった。

■鄧小平の陰謀

映像では趙紫陽の元秘書でありブレーンの鮑彤も画面に何度も登場し「中国権力闘争である」と位置づけている。鄧小平の陰謀であると語る。

  • デモも100万人にも成り、ハンガーストライキにはいる状況の中、5月17日午後4時から、党長老で事実上の最高権力者である鄧小平中軍委主席に加え楊尚昆国家主席、李鵬を含めた会議が鄧小平の自宅で行われ、4月26日の社説は正しかった。と戒厳令の布告が決定された。

「事態の進展を見ればわるように、4月26日付社説の判断は正しかった。学生デモが未だ沈静化しない原因は党内にある。すなわち、趙紫陽が5月4日にアジア開発銀行の総会で行った演説が原因なのだ。今ここで後退する姿勢を示せば、事態は急激に悪化し、統制は完全に失われる。よって、北京市内に軍を展開し、戒厳令を敷くこととする。」— 鄧小平

趙紫陽は天安門広場、最期の呼びかけ

5月19日午前4時、趙紫陽は天安門広場で絶食を続ける学生たちの前に向かい、「我々は来るのが遅すぎた。申し訳ない」と声を詰まらせながら約8分間、拡声器を手に学生たちに絶食をやめるよう呼びかけた。趙紫陽が公の場に姿を見せたのは、これが最後となった。

5月20日戒厳令が出された。5月24日全土から人民解放軍が召集された。

第38軍劉建国指揮官のインタビューも放映された。今はアメリカ在住の第39軍中将李暁明氏のインタビューもある。人民解放軍装甲車が天安門に後10キロ迫ったとき、6月3日銃弾が配られた。

  • 劉建国氏は語る。司令官は我々に監視人を送り込んだ。命令に従わないと我々が処刑される。上層部は命令せず、発砲するよう押しつけた。
  • 3日午後9時に天安門西側の第38軍空に向けて第一砲を撃った。その後暗闇のなかで学生たちに向かって発砲する映像が流される。装甲車はスピードを落とすことなく学生、市民に向かっていった。
  • 天安門デモが起きたときからイギリス情報局・ジエームス・ホワ氏は刻々と本国に情報を伝えていた。そして当初は10000人の死傷者と打電しているが、都度情報は正確にはわからないとしている。
  • 1989年6月5日に作成され、2017年12月23日に機密解除された英国政府の公文書では、「最低に見積もっても一般市民の死者は10000人以上が中国軍により殺害された。」と報告している。
  • 鄧小平「20人の死が20年の安定をもたらす」述べている。

 

■天安門に対する先進国の対応・したたかな先進国

1989年7月先進国首脳会議が開かれ共同声明があった。先進国首脳会議では水面下で中国に対しての方針を話し合っている。7月21日ブッシュ大統領は鄧小平に書簡をおくっている。「中国を批判しない。アメリカ議会は反対するだろうが、私(ブッシュ大統領)は波風を立てたくない。日米ともに支援する。共に前進しょう」と伝えている。

  • 先進国は国が経済的に発展すれば民主化が進むと考えていた。

■趙紫陽総書記解任・天安門事件隠蔽
6月23日24日
に開催された第13期4中全会で、“動乱を支持し、党を分裂させた趙

紫陽は、党総書記就任直後から四つの基本原則から逸脱し、ブルジョア自由化に寛容だったとされて党の全職務を解任された。

  • こうして天安門事件は終結し、その後、鄧小平主導により、今日の体制・冒頭で述べた天安門事件の情報遮断へと繋がっている訳だ。民主化の到底あり得ないと言われている。

 

その二・映画「哲人王・李登輝物語」台湾民主化への道

 6月21日渋谷で映画「哲人王・李登輝物語」が封切り上映された。李登輝の誕生から今日までの半生を描いている。台湾人である李登輝が一人の若い女性との対話の形をとりながら、国民党(中国から移ってきた蒋介石を初めとする外省人)の総統に就任し、蒋介石の圧政から民主化を進める過程が見事に描かれている。

  • 1945年太平洋戦争戦後終戦後、蒋介石が毛沢東との内戦に破れ、1949年蒋介石は台湾に逃げてきた。1949年5月20日に戒厳令を施行、1987年7月15日迄続く。1949年蒋介石は台湾に移り中国国民党総裁弁公庁を開設、国民党総裁として「党」「政」「軍」「特」の諸機関を指揮する。

国民党は一党独裁の「以党治国」体制を目指す。以後、日本が残した膨大な資産109億円余りを摂取し、元台湾総督府を頂点とする統治組織基盤にいとも簡単に統治機構を構築し、台湾経済を全面的に掌握した。叉摂取の過程で官僚の私腹も肥やされた。国民党を中心とした外省人(15~6%)がその後、全ての利権を握った。李登輝は台湾人であった。

誕生から日本留学

1923年1月台北県三芝郷で生まれる。

1943年旧制台北高等学校卒業。京都帝国大学農学部、農林経済学部進学。

1944年陸軍入隊1945年陸軍少尉見習い士官として名古屋で終戦。広島長崎にいって原爆の実態を視察。

1946年台湾大学に編入。

1947年2月二・二八事件がおきる。3万人近い知識人が虐殺された。白色テロの時代。

台湾大学卒業後米国留学

1948年卒業・台湾大学講師、台湾省農林庁勤務。

1952年米国アイオワ州立大学留学で農業経済学を専攻、53年帰国。

1961年キリスト教に入信。

1965年コーネル大学に留学。

国民党入党の経緯・蒋経国に気に入られる

1968年コーネル大学で台湾に於ける農業と工業間の資本の流れ」と題する論文で農

学博士号を取得。同年・全米最優秀農業経済学会賞受賞。

1971年帰国後、総経国に台湾農業問題を報告し、深い印象を残した。そのことが契機となり国民党に入党を薦められる(当時48歳)

入党後の政治的実績

1978年~1982年(3年半)台北市長・都市経営理論をたて近代化に取り組む。

1981年12月台湾省政府主席

1983年一人息子(33歳)を病気で亡くす。その遺児・孫娘の成人するまで見守ることを誓い、酒とタバコをやめる。

1984年副総統に指名される。人口の86%を占める台湾人に対しての妥協の必要性からの起用であった。「真面目で誠実」「野心家でない」「安全度」が買われた。

国民党総統に就任

1988年1月13日蒋経国総統の死去により総統就任、台湾人がはじめて国家元首の地位に就いた。

1988年7月第十三回党員代表大会で国民党首席に選出される。(65歳)

総選挙を実施(民主化への第一歩)

1996年台湾発の総統直接選挙に当選。

2000年国民党首席を辞任。

  • 国民党入党後から李登輝の政治信条は「天下は公のために」である。そして2000年の総統選挙には立候補しなかった。「台湾に民主主義を根付かせる事が至急の命題だった。それが何よりも台湾のためだ」と考えた。「政治家は国のためなら権力をいつでも放棄する、そういう覚悟が必要だ」と考えている。
  • 李登輝はこの信念・使命感で政治家として役割を果たしてきた。その考えの根本は自らが学んだ「日本精神」だという。そして日本人に誇りを持てと叱咤する・著書「武士道解題」はよく知られている。

 

■私は2011年5月以後、毎年台湾を訪れている。台湾に日本人が残してきた日本文化、日本人の本来もっていた人間としての良き習慣、年長者を大事にする良き日本人に会えるような体験だ。また、今なお尊敬されつづける日本人の仕事ぶりを見ることができる。若い経営者たちと同行して四度の台湾・理念の旅を開催し、その後も毎年台湾を訪ね交流をつづけている。

  • 今回、天安門事件を隠蔽し、歴史から消し去ろうとする現在の中国、1949年中華人民共和国を建国後、共産党一党支配を強め、民主化を弾圧し経済だけを優先させて、欧米の民主化への甘い願望を打ち砕き、いまでは民主化への弾圧は当然とし、自国民の監視を常態とする中国。1949年毛沢東との内戦に破れ台湾に逃げてきた蒋介石の国民党一党から現在の李登輝の先導により今日の民主化の道を歩んだ台湾を対比させた。
  • 台湾生まれで日本人として教育されてきた李登輝元総統の台湾民主化への道。総統就任後「私は私でない私」「天下は公のために」を信条として生きた哲人李登輝を伝え振り返り、私たち一人一人が人間としてどう生きるかを考えてみる映画だった。是非皆さんにもお薦めしたい。人間としての生き方を問いかけたい。(悦司)

理念の時代を生きる141号

理念型企業第19回快労祭イン高崎

■理念企業の具体的実践・人を変える実践 

  • 今回の出席者の発表は自分の周りの人を変えた、変えつつある実践体験の発表だった。藤井さんは、環境整備では北陸一の実績を築いて、環境整備実践企業として全国からも視察にくる企業が定期的にあり、私も昨年暮れの発表に参加した。立派な見学会で誠に感心した。そして次ぎなる課題が、幹部・社員の指導者としての育成だ。まだまだその点は課題があるが、二人の男性幹部が自立して主体的に動き出した。一方、社内では「働き方改革」などというまるで社会主義のような「平等・公平」などと文字面に拘る、フランスのように働かない社員が増えてきた。相応しい仕事もせずに、自分の権利だけを主張する社員の存在を抱えて、根本的な解決は社員を育てることだ。K君、S君を早くもっと育てることだ。社員と社員の互恵関係が成り立っていない。
  • 小路口さんは、子供の教育では出色の実績をここ数年積んでいる。長女と次女は小学校4年生、5年生だったころ、私の孫たち、須田さんの子供たちと夏休みになると合宿していた。朝6時起床、夜9時終審の三泊四日の夏合宿だった。そのお嬢さん達が、今は小学年、中学2年、3年生。昨年は家族5人の富士山登山、50キロウォーキング、娘二人+一番したのお嬢さん達の四国旅行など、私にいわせれば虐待(?)とからかうのだが、真剣な付き合い方育て方をしている。4月のラコリーナ近江八幡の企業見学会に当時4年生だった子供が参加した。彼女は始業式の翌日、お父さんお母さんに勧められ参加した。ゆいさんは中学2年になっていた。聡明なお嬢さんに育っていた。彼の子育ての様子を中心に報告があった。新事業への切り替えと本業とのバライスを検討しながら実践している。社長33歳。希望にあふれている。
  • 草むしり隊の柳井さんは100キロウォーキング8年の体験をこと細かに報告した。群馬100キロウォーキングは全国のこの種の競技と違って順位はつけない。

ぐんま100kmウォークとは、全日本実業団対抗駅伝競走大会(通称:ニューイヤー駅伝)のコース100kmの道のりを28時間以内に歩くウォーキングイベントです。それは「自分の限界に挑戦」する機会。競技ではないのでタイムは競いません。ただひたすらに、我武者羅に挑戦する。壊すのは自分の常識です。
「このコースを歩ききったら、何かが変わるかもしれない。」それは、やってみなければ分からないこと。だからこそゴールした時の達成感は凄い。
辛いとき、苦しいとき、ほんのチョットの勇気で前に進めることもあります。ぐんま100kmウォークは、辛い、苦しい、出来ない、無理という壁をもつ自分への挑戦です。

  • その他、6名の発表があった。共通することは、参加者が次ぎなる課題に遭遇しているということだ。進化経営学院・創設の辞は「逆境練機・転原自在・経営進化・互恵共栄」だが、真っ当に経営をしていれば、逆境や試練があるのが当たり前であって、なければ何もしていないのと同じだ。
  • 理念の実践、浸透は容易ではない。実践の最中に迷うことが幾度もある。なければまた、何もしていないのと同じことだ。この試練・苦労・混迷は理念を背景にして経営しているから遭遇すすることだ。理念があるからその間の苦労は振り返れば経営者として「快労」だった。その快労の一年を振り返るのが「理念型企業快労祭」なのだ。今回19回目を迎えた。この具体的な報告を振り返ってみたい。

城野宏先生の教え

私が師事し、私の人生の生き方の根本的な生き方を教えてくださったのは、脳力開発の創始者城野宏先生だった。37歳の時に出会い、亡き後も先生の教えは私の中に生きている。

先生は、太平洋戦争終結後、最期の戦犯として昭和39年東京オリンピックの年に日本に帰国された。私は大学2年生だった。終戦後、山西省に残留し「山西残留・祖国復興」を掲げて軍閥・閻錫山(えんしゃくざん)と日本軍が共闘し、蒋介石、毛沢東の軍と戦った。

昭和24年結局、太原籠城戦を最後に中国共産党の人民解放軍に屈し、撫順の監獄からスタートして昭和39年に帰国された。先生の詳細はここでは省くが、帰国された歳が52歳。先生にお会いしたとき、私は37歳だった。先生恐らく66歳だった。そのご脳力開発講師の資格審査の私の提出論文に対して、まとめられたのが以下の教えだ。

人を評価する六つの基準

  • 志(目的)を持っている
  • 理論がある
  • 具体的な行動がある
  • 周りをかえた実績がある
  • 継続的な行動がある
  • 将来の展望を持っている

解説 人を評価する六つの基準

  • 志(目的)を持っている(理念とも言い換えることが出来る)

自分のことだけでなく人の役に立ちたい、みんなのために何かをしたいという志、熱

い想いを持っているか。

二、理論がある(和道経営・心価均衡の法則・与欣・与辛のサイクル・情報統合技術)

行動の基準となる理論を持っているか。基準が明確になっているか。

  • 具体的な行動がある(快労の体験をつづけている)

自分が決めたことを確実にやりきる実行力があるか。途中で挫けないか。

  • 周りを変えた実績がある(自分が変わる、他人が変わる・周りが変わる)

あなたの行動から周りの人が変化して成長したか。やり遂げたか。

五、継続的な行動がある(理念にそった・事業計画、経営をしているか)

今も継続的に、新たな課題を設定し、継続して行動しているか。

六、将来の展望を持っている(理念に添ったビジョンを明確にしているか)

目指す方向、ビジョンをもって仕事や生活に取り組んでいるか。

  • 上記の指針にあわせて人を評価すると、本当のその人の実力、実践力が明確になる。このことを指針にして、自分や部下、取引先、周りの人を評価すればわかる。大抵は口先だけで実際に周りを変えた実績はない。
  • 申し添えておくとイデオロギーを金科玉条としているリベラリスト・マスコミなど本当は役に立たず、自己の利益だけを優先する人だ。中江藤樹にいわせれば「偽の学問」に拘っている人間だ。彼等をこの基準で評価すればわかる。(悦司)

脳力開発/理念の時代を生きる140号

脳力開発140

その一、情報統合技術研修・未来対応型問題解決

世の中には各種の問題解決手法がある。各自その手法の特長はあるが、IST情報統合技

術は従来の手法とは一線を画している。私の指導は三日間を基本にしている。その手法と基本は分かりやすく言えば、左脳と右脳の両方を駆使して情報の統合を行うところにあるから、従来の理論重視型の思考の限界を越えてる。年末年始に経営者だけを対象に時期の経営計画熟考会を茨城と彦根で開催している。もう二十四~五年開催し、各自が第一局・理念設定から始め第八局経営計画・構想実行計画表まで仕上げる。

五月十七日~十九日まで岡山で五名・社長・部門責任者・営業担当者を対象に開催した。今回は初めての人が二人。一年のブランクがあった受講生が一名、四年継続受講者が二名の会であった。継続することの価値は毎年間違いなく一年間の成長が著しい。思考習慣が身につき自分のものにしている。一年のブランクは思考のブランクが生まれるものの、自分で決心することになる。

初めての参加の一人は、別の会社を退社し新たに企業理念の設定されているNグループの企業に入社される。いまでの会社は利益優先の会社で、理念などはない。こういう会社は時代の変化に翻弄され、長期的には衰退の一途を辿ることになる。縁があって取引先からN社グループ会社を紹介され、この会に参加した。企業理念のある・ないを如実に体験することになる。仕事をするとき、利益を上げることだけが目的である世間の企業は世界的にも益々困難に遭遇するだろう。私たち和道経営を目指す企業は近江商人の信条・家訓三方よし=売り手よし、買い手よし、世間よし、「先義後利」を基本において経営姿勢を貫いている。

もう一人は現在第二十五回理念探究会(茨城)で理念探究の真っ最中である。理念データーの統合には情報統合技術が必要とされる。あわせて一〇〇年先二〇〇年先の理念を描く発想が求められる。企業理念に必要な目的性、永遠性、本望性、英知性、倫理性、指針性、共有性、具体性の八つの要件を視野に四台目社長として理念探究に数歩も踏み込むことが出来た。

「人生二度なし」。参加者は理念に添って生きることを決意した人たちの集まりだ。この人生を会社、社会、周囲に依存して生きる人生は、その人の幸せ生きがいをもたらすことはない。自立して自分の使命・志の生きるために必要なことは、情報統合技術を身につけることだと改めて参加者が感じた会であった。

写真・IAT参加者

その二、中国現代史毛沢東から習近平

AI監視社会・中国の恐怖を年初から取り上げてきた。その関連のなかで、いま米中の貿易交渉や米中衝突の核心企業ファーウェイについての問題もかまびすしい。いずれにしても長期戦になるだろう。今後改めて、中国の現代史を取り上げてみる。そして知っているようで知らない共産党の歴史を振り返り、共産党の正体を分析する。そこから中国の本当の姿が見えてくる。(何回かに分けることになる)

■中国における情報操作の実態

天安門事件は一九八九年六月四日、胡耀邦元党総書記の死を切っ掛けとして、天安門広場に民主化を求めて終結した学生を中心にした一般市民のデモ隊に対して、解放軍が武力で鎮圧した数の死傷者を出した事件である。詳細は皆さんがインターネットでアクセスするだけで、いろいろな視点から実態に迫ることが出来る。しかし、中国ではこの事件に関して全てのアクセスが出来ないようにしている。

中国、ウィキペディア全言語遮断 天安門三〇年を前に

中国の民主化運動が武力弾圧された天安門事件から間もなく三〇年を迎えるのを前に、オンラインの百科事典として知られる「ウィキペディア」へのアクセスが中国で全面的に遮断されたことが五月十七日、分かった。

八十九年の民主化運動の関係者も出国を禁止されるなど、中国国内で当局による監視態勢が一段と厳しくなってきた。 ウィキペディアを運営するウィキメディア財団が同日、明らかにした。ウィキペディアの中国語版は二〇一五年から閲覧できなくなっていたが、英語やフランス語など他の全ての言語で利用できなくなった。

ネット利用者が八億人に上る中国では、民主化運動や少数民族問題などに関する情報が国内に流入するのを防ぐため、当局がネット検閲システムを構築。米ツイッターやフェイスブック、ユーチューブへのアクセスを遮断している。グーグルの検索エンジンも利用不可能だ。天安門事件に関しては、「暴乱」と位置付ける当局の公式見解以外はネットで閲覧できない。【産経新聞・北京=藤本欣也】

金盾(きんじゅん)とは、中華人民共和国において実施されているインターネット情報検閲ブロッキング (インターネット)システムである。全体主義の危険性を訴えたジョージ・オーウェルSF小説『1984年』に登場する監視システム「テレスクリーン」になぞらえられ、「赤いエシュロン」「サイバー万里の長城」「ジンドゥンプロジェクト」などの呼び名も存在する。

中国国内のインターネット利用者に対して、中国政府、特に中国共産党や政治家に不都合な情報にアクセスできないようにフィルタリングする金盾のファイアウォール機能は、”Great Wall” (万里の長城)をもじって Great Firewallグレート・ファイアウォール)と呼ばれている。

公安の情報化を目指す「金盾」もこの一つで、当初は金融分野の情報化が優先されたため、国家公安部が金盾計画を決定したのは1998年9月22日、国務院が計画を批准したのは2001年4月25日であった。システム設計の第一期は1999年から始まっており、予定では2008年の第三期完了で完成することになっていた。

■計画では出入国管理、指紋データバンク、パターン認識音声認識・映像・顔認識システムなど)、電子メールや電話の傍受、身分証明カード、光ファイバー網などを完成させ、国民や在中外国人の監視および情報収集の総合的なシステム構築を目指している。

ワシントン・タイムズ』の報道によると、中国西部にはパラボラアンテナ人工衛星スーパーコンピュータなどを使って、国内の電話ファックス・インターネット回線などの通信を常に傍受している施設があるという。

■中国の顔認証システムについて、森のフォーチャ137号で、長男が顔認証システムというタイトルで138号に書いた。今回取り上げた情報でもわかることだが、明らかにファーウェイに中国共産党が深く関わっていることは自明の事実だと推定できる。私が習近平の立場に立ってみれば、当然の行動ではないか。(悦司)

 

理念の時代を生きる140号

その一・令和元年五月一日開講・理念実践会

元号が変わった。その日が理念実践会にあたる五月一日になる。ということで前日は前夜祭。平成天皇皇后両陛下の一年・~ご譲位を前にされて~のDVDを参加者と一緒に見ました。天皇皇后両陛下の多忙な一年を拝見しました。自分の生活のいい加減さを反省します。加えて両陛下の御所を歩かれ、時に軽くジュギングされる皇后の姿をみて体力を保持されるご努力にも頭が下がります。涙が沸き上がってきました。

翌日は理念実践会の初日。今回は六名が参加。今回からのテキストの一部は百田尚樹の「日本国紀」副読本として、「日本国紀副読本」「もう一度読む日本史」(伊藤隆監修)と「読む年表・日本の歴史」(渡部昇一)を使うことにしている。昨年「明治という国家」(司馬遼太郎)を終了した。

国民も新時代を迎えるという気運もたかまっている。丁度、絶好のタイミングと捉えて日本の百二十六代続く天皇の歴史から学び始める。

 

■徳仁天皇のお言葉

「日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより、ここに皇位を継承しました。この身に負った重責を思うと粛然たる思いがします。

顧みれば上皇陛下には、御即位より三十年以上の長きにわたり、世界の平和と国民の幸せを願われ、いかなる時も国民と苦楽をともにされながら、その強い御心をご自身のお姿でお示しになりつつ、一つ一つのおつとめに真摯に取り組んでこられました。上皇陛下がお示しになった象徴としてのお姿に、心からの敬意と感謝を申し上げます。

ここに、皇位を継承するにあたり、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いをいたし、また、歴代の天皇のなさりようを心に留め、自己の研鑽に励むとともに、常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国および日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い、国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望いたします。」

 

■新元号令和

典拠は今日までの中国古典からの引用でなく、「万葉集」巻、梅花(うめのはな)の歌三十二首の序文である。書き下し文は「時は初春の令月(れいげつ)にして、気淑く(きよく)風和ぎ(かぜやわらぎ)、梅は鏡前の粉を被き(ひらき)蘭は珮後(はいご)の香を薫らす。「和を以て貴しとなす」と日本の国柄にふれ「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」という意味を込めたと安倍首相から説明があった。国民の多くが好感をもって受け取り八割近い人たちが高い関心をしめしている。私も日本人として寿ぐ一人である。

メディア、政党、著名人などの批判があったが、これを記録に留めておくことにする。基本的に安倍政権反対の人たちだ。この程度の反論はいかがなものか。

石破茂元幹事長「違和感がある。『令』の字の意味について国民が納得してもらえるように説明する努力をしなければならない」

又市征治社民党党首「『令』は命令の『令』であり、何となく安倍政権の目指す国民への規律や統制の強化がにじみ出ている感が否めない」

志位和夫共産党委員長「もともと君主が時間も支配するという思想に基づいたものだ。日本国憲法の国民主権の原則に反するものだ」

辻元清美立憲民主党国対委員長「ちょっと安倍晋三首相がしゃしゃり出すぎじゃないか。ぺらぺらとテレビで解釈や自分の思いを言うのは政治家として慎むべきだ」

デーブ・スペクター・タレント「響きはよくない。『平和に従え』みたいに読める。上から目線が安倍政権ぽい感じ」

本郷和人・歴史学者・東大史料編纂所教授「『令和』以外だったらケチのつけようがないくらいいいと思った。後略」

小林節・弁護士、慶応大学名誉教授「安倍政権の新元号はパフォーマンスはやりすぎたと思う。瞬間風速的に支持率が上がったが愚かな話だと思う」

田原総一郎・ジャーナリスト「正直言うと違和感を覚えた。『和』はともかく『令』は命令や指令の『令』だからだ。自由、開放などとは逆の意味合いを感じた。中略、日常生活で元号は必要ない」

小西ひろゆき・参議院議員「令和。安保法制という違憲の法令で平和を破壊した安倍政権が『和』の文字を元号に使った。まさに元号による時代支配を体感せざるを得ない」

毎日新聞社説「保守的な安倍カラーのにじみ出る選考だったろう。結論ありときの印象を残した」

朝日新聞社説「国民生活を最優先したものとは言い難い。この機会に改めて、公的機関の文書に元号と西暦の併記を義務づけることも求めた」(悦司)

 

その二・Mランドを訪ねる・小河会長との心に刻まれた記録

小河会長が逝去されたのが平成三十年十一月二十七日だった。その時私は妻と台湾・烏三頭ダムの旅していた最中だった。その後、会長の葬儀のお知らせと同時に、人事異動が同封されていた。松本社長が会長に小河吉彦常務が社長に就任という知らせだった。

葬儀は平成三十一年一月二十六日Mランド教習所構内、無心山で行われた。その日私たちは仕事で沖縄にいた。会長は九十六歳だった。お世話になった会長へのお参りをしたいと念願していた。

Mランドニュース新年七七一号に吉彦社長が執筆されていた。「故小河二郎会長を偲んで」というタイトルで、会長の意志を深くかみしめて、これからののMランドの方向と決意を認めている。臨終の時に小河吉彦常務(当時)の手を握り何かを語りかける会長との別離が記されていた。

四月二十三日、夕方石見空港に到着した。吉彦新社長が迎えて下さった。小雨の中、代々続く小河家の墓地にご案内していただきました。お参りをしてホット安堵するものが心をよぎりました。

変わらないもの変わっていくもの

 松本会長と小河吉彦社長と会食しました。二〇一七年まで毎年お伺いしてその度に小河会長を中心に役員の方たちと会食の席を設けていただいていました。その席では私と会長の話を中心に、役員の方たちに質問する形での会話の流れでした。そんなこともあって役員の方からお話しをしていただくことは少なかったです。

今回は、私たち夫婦と松本会長と小河社長と四人の会でした。いろいろ忌憚のない話をしました。松本会長に私がお会いしたのはまだ、二十代後半だったのです。そして四十歳のとき取締役本部長に就任されました。四十歳という年齢は小河元会長がMランド・益田ドライビングスクールを創業された年です。以来およそ十年、平成二十七年、社長に就任され、吉彦氏は常務に就任されました。この年に完全に世代交代が成されたのです。

人事の異動と無心山での葬儀

小河会長逝去の後、さほど時間もないのにどうして人事の異動をされたのか?そして葬儀は冬の最中、無心山というMランドを見晴らす場所で執り行われたのか?と失礼を省みずお尋ねしました。

小河会長の骨折入院の時、医者の診断は弱っており最悪は半年ぐらいとの危惧の念を抱かれたようです。最悪のときに備え葬儀の場所はどこにするか。人事の問題も含めていろいろ熟慮されたようです。一般式場での葬儀は当然ですが、小河会長の意志は何か。

永年小河会長に私淑し鍛えられた松本会長は葬儀の場所は「無心山」しかないと決意されていたとのことです。Mランドを見晴らす小河会長お気に入りの場所です。おもいもかけず逝去が早まり、寒風吹きすさぶ恐れのある無心山ではと躊躇されたものの、如何に実行するかと社員一同が大きなテントを設営され、お茶でご接待されました。その日に限って雪が降り益田からの飛行機の欠航にも遭遇したということです。

写真 無心山をバックに2017年

将来の構想

覚悟と準備は小河会長に永年鍛えられていたことなので、私たちが感じるような悲壮感などは微塵もなく取り組まれたようです。人事の異動も万が一の場合には想定していたことだということです。あわせて将来の話もあえて質問しました。小河会長の創業の目的に相応しい、松本会長、小河社長の今後の展開もお聞きしました。

翌日、本社の元会長室を訪ねました。会長室は、松本会長と小河新社長が席を新設し、改めて創業から二代目(松本会長・小河社長)の新たなる決意を感じました。そして部屋にはいる廊下に、葬儀の席に飾った大きな小河会長の写真が掲げられていました。ドアを開けた正面にはやわらぎの一文字。毎朝この部屋にといるときには創業者小河二郎元会長のお顔を拝顔して入室するそうです。

 

心に刻まれた記録

進化経営学院設立と知行合一の額

二〇一〇年七月二十四日一般社団法人進化経営学院を設立した。一九九四年理念を制定し、天命舎くろだワークスを創業し、理念探究と脳力開発を中核として活動を始めてきた。そして個人から公的な性格を加えて、社団法人進化経営学院を設立した。研修室には二〇〇八年会長に揮毫していただいた「知行合一」の額を掲げた。そしてテキストの一つとして二〇一一年小河会長の著書(私の質実経営・共著)から会長のお書きになった部分を小冊子化することをお願いした。

巻頭言にはじめにとして私の想いを認めた。その文を会長の補足で補って頂いた。小冊子化なった小河二郎著「私の質実経営」は以来、幾多の生徒たちと共に学んでいる。振り返るとこの原著は一九九四年四月二十八日に出版されていた。奇しくも私が創業した一九九四年と同じ年だった。

 

 

東日本大震災

東日本大震災が襲った平成二十三年(二〇一一年)三月十一日、茨城県を襲う大地震に天命舎も揺れに揺れた。丁度その日が進化経営学院・次世代型経営者養成塾シニアクラスの卒業式の日だった。地震の後、三月十七日十八日とMランドを訪ねた。要件は、小河会長がMランドの美術館フォンテェーンに善子のモラの作品を展示したいとお正月に電話で要請があり、その美術館のスペースを拝見するスケジュールが組まれていた。

地震が一段落して私たちは訪問予定前日三月十六日、まだ崩壊に手がつけられていなかった交通手段の中で、唯一東京に行けるバスに乗って日本橋までやっと到着した。東京は晴天で、輝くような日射しに、茨城の地との落差を感じた。アァ東京は、地震の被害は何もなかったのかと。その夜泊まる宿は上野界隈しかなかった。夕食をとりに街を歩くと、居酒屋の前で作業着を着た若い人たちも、自分たちの町と東京都は違うんだわと話をしている声が聞こえてきた。

ギャラリー・フォンテーヌMOLA展示

お訪ねすると、地震の後何度かお電話を頂いたことをお聞きしていたが、通じたのは三~四日経っていた。近況報告の後、改装された美術館にむかった。そもそもこの話の発端は、会長からの二〇一一年の一月のお電話で始まった。

MOLAの作品をお気に入りだった会長から、ギャラリー・フォンテーヌに妻の作品を展示したいという話からだった。善子はMランドで自動車免許を取得した卒業生である。

黄金色に装飾したバックに仕上げて下さっていた。このスペースで何を展示するかを想定して十四~五点の作品をきめた。そして作品展示に四月四日~五日と再度訪問した。新装なったギャラリーにMOLAの作品が十四点展示されている。

その後、会長生前の会食の席で、いずれ私たちがこの世を去るときには、茨城県行方市の森のフォーチャ美術館に展示している作品を寄贈したいとお願いした。この決定は後を継がれた松本亨会長、小河吉彦社長たちに委ねることになる

 

烏山頭ダムと八田與一・台湾で活躍した日本人

二〇一一年東日本大震災の後、毎年のヨーロッパの旅を中止し近隣の台湾にすることにした。Mランドニュースで、台湾で尊敬されている台湾に貢献した日本人・八田與一のことを小河会長がされていた。日本の新聞に八田與一記念公園が開かれたというニュースが載っていたのを思い出した。ダムと記念館と新しく開かれた公園も訪れた。

烏山頭ダムにある八田の銅像はダムの完成後の一九三一年(昭和六年)に作られたものであるが、蒋介石時代に日本の残した建築物や顕彰碑の破壊がなされた際には、地元の有志によって隠され、一九八一年、再びダムを見下ろす元の場所に設置された。

八田が顕彰される背景には、業績もさることながら、土木作業員の労働環境を適切なものにするため尽力したこと、危険な現場にも進んで足を踏み入れたこと、事故の慰霊事業では日本人も台湾人も分け隔てなく行った。

日本人として台湾で活躍した多くの人がいること、そして私は台湾の歴史を全く知らないことを恥じた。帰国後彼に関する本から始まり、連日台湾に関する書籍を読んでいる。時に涙を流しながら。台湾に、私たちが習ってこなかった日本人の歴史があると。日本人の誇りと、将来への展望があると感じ、以来何度も台湾を訪ね、烏山頭ダムと八田与一をたずねることになった。

 

李登輝の研究への繋がり

台湾から帰国が台湾の歴史を詳しく遡った。膨大な李登輝の著書は読破した。蒋介石時代の歴史を勉強した。会長は台湾元総統李登輝と同じ年齢だった。二〇一一年の暮れ十二月、再度台湾を訪問する計画を立てた。小河会長に李登輝元総統にお会いできないかと相談した。これは叶わなかったが、私の大学の卒業生で李登輝と同じ年齢で彦根高商に留学されていた先輩李宏道氏を訪ね、お会いした。日本統治時代のことなどをお聞きし知ることになった。以後、哲人李登輝の研究が私の大きなテーマになっている。そして理念企業の快労祭を台湾で開催し、その後進化経営学院の受講生たちとも数度にわたって訪問した。その後も私は毎年訪問している。

Mランド五十周年セレモニー

二〇一三年十月Mランド五十周年の式典に招待いただきました。この年九十歳をお迎えの会長のご挨拶に一言で言えば「運がよかった」という言葉で始められました。創業二十五周年の時には式典を行おうと考えていた。しかし五十周年のセレモニーが行えるとは思っても見なかった。それを思うと、こうして自ら五十周年の式典を迎えることが出来るとは正に「運がよかった」という言葉しかない。

吉彦氏結婚式

 二〇一六年十一月吉彦常務の結婚式が執り行われた。地元を始め沢山の方々が出席されていた。会は二部に分けて行われた。記念講演は「ネクストソサエティを創造する構想企業とは」というタイトルで多摩大学名誉教授の望月照彦先生だった。私たちは五十周年のセレモニーで初めてお会いし、その後鎌倉のご自宅兼研究施設をお訪ねしている。話の骨子は

「差異化とビジネスイノベーションが最大の経営資源」としMランドのこれまでとAI化が進む将来への展望を惜しみなく語ってくださった。媒酌人は松本亨取締役社長だった。

いまから振り返るは、この披露宴はMランドの次の時代の引継式でもあった。この席で来賓挨拶に引き続き、乾杯の音頭を善子にしてもらいたいと依頼があった。私は真意を計りかねた。錚々たる人たちの参加の中で、何故女性でかつこのMランド卒業者である善子にと。仕事の視点から考えれば、沢山の人たちがいる。善子の挨拶指名には驚いた。しかし、雰囲気のある挨拶になった。会長のお気持がありがたかった。